臼杵城の戦い(1586)
天正十四年、島津軍の豊後侵攻に対し、大友宗麟は海城・臼杵城に籠城。戸次川の敗戦後も「国崩し」で島津軍を翻弄し、粘り強く抵抗。九州平定に貢献した。
臼杵城の戦い(1586):九州の運命を懸けた、海に浮かぶ要塞の攻防
序章:落日の大友、昇竜の島津 ― 豊薩決戦前夜の九州
天正14年(1586年)に勃発した臼杵城の戦いは、単なる一地方における攻城戦ではない。それは、九州の覇権を巡る長年の闘争の最終局面であり、戦国時代の終焉を告げる豊臣秀吉の天下統一事業に直結する、極めて重要な戦略的意味を持つ戦いであった。この戦いの真価を理解するためには、まず、その背景にある九州の勢力図の劇的な変化を把握する必要がある。
かつて九州北部に六ヶ国を領し、その威勢を轟かせた豊後の大友氏であったが、その栄光は過去のものとなっていた。天正6年(1578年)、日向国における耳川の戦いでの島津氏に対する壊滅的な大敗は、大友氏にとって決定的な転換点となった 1 。この敗戦以降、当主・大友宗麟の威光は失墜し、領内では家臣の反乱や離反が頻発、国人衆の統制もままならない状態に陥っていた 1 。落日の名門は、内部から崩壊の危機に瀕していたのである。
その一方で、薩摩の島津氏は飛躍の時を迎えていた。耳川の戦いで大友氏を破ると、天正12年(1584年)には沖田畷の戦いで肥前の龍造寺氏をも撃破し、九州の三大勢力のうち二つを事実上無力化した 3 。破竹の勢いで九州統一に王手をかけた島津氏は、その軍事力と士気において、もはや敵なしの状態であった。
この圧倒的な力の差を前に、大友宗麟は自力での領国維持を断念せざるを得なかった。家臣団をまとめきれず、島津の侵攻に対抗する術を持たないと悟った宗麟は、中央で天下統一を進める羽柴(豊臣)秀吉に臣従し、その庇護の下で家名を保つ道を選択する 1 。これは、戦国大名としての独立を事実上放棄し、天下人の新たな秩序に組み込まれることを受け入れた、苦渋の決断であった。
宗麟の救援要請を受け、秀吉は島津氏に対して九州における停戦令(惣無事令)を発する。しかし、九州統一を目前にした島津義久はこれを事実上黙殺し、天正14年(1586年)、大友氏の本拠地である豊後への全面的な侵攻を開始した 2 。こうして、豊後と薩摩の存亡をかけた「豊薩合戦」の火蓋が切られたのである 6 。
この一連の動きの中で、臼杵城の戦いは三者三様の戦略的意味を持つ、多層的な性格を帯びていた。大友氏にとっては、一族の存亡をかけた「最後の砦」での抵抗であった。島津氏にとっては、九州統一事業を完成させるための「総仕上げ」であった。そして、豊臣秀吉にとっては、九州に大軍を派遣するための正当な名分を与え、天下統一事業を推進する絶好の「口実」であった。この戦いの帰趨は、単に臼杵城の運命を決するだけでなく、九州全体の、ひいては日本の未来を左右するものであった。
年月日(天正14年~15年) |
主要な出来事 |
関連勢力(大友方・島津方・豊臣方) |
1586年(天正14年)10月中旬 |
島津義弘軍が肥後より、島津家久軍が日向より豊後へ侵攻開始。 |
島津方 |
1586年(天正14年)12月12日 |
戸次川の戦い 。豊臣先遣隊が島津家久軍に大敗。長宗我部信親ら討死。 |
島津方、豊臣方 |
1586年(天正14年)12月13日 |
島津家久軍、大友氏の本拠地・府内城を占領。大友義統は臼杵城へ逃れる。 |
島津方、大友方 |
1586年(天正14年)12月中旬 |
臼杵城の戦い開始 。島津家久軍が臼杵城を包囲。 |
島津方、大友方 |
(日付不詳) |
大友宗麟、「国崩し」を用いて島津軍を砲撃。大きな動揺を与える。 |
大友方 |
1587年(天正15年)3月 |
豊臣秀長軍の先鋒・黒田官兵衛らが豊後に上陸。 |
豊臣方 |
1587年(天正15年)3月15日 |
豊後府内にいた島津義弘・家久軍が撤退を開始。臼杵城の包囲も解かれる。 |
島津方 |
1587年(天正15年)4月 |
豊臣秀吉本隊が九州に上陸。九州平定が本格化。 |
豊臣方 |
第一章:豊後への双頭進撃 ― 島津軍の侵攻作戦(天正14年10月~12月)
天正14年(1586年)10月、島津軍は満を持して大友氏の本拠地・豊後への侵攻を開始した。その作戦は、単なる力押しではなく、大友方の戦力を分断し、組織的抵抗を許さずに各個撃破することを目的とした、高度に計算されたものであった。
島津軍は、豊後に対して二つの進撃路を設定した。一つは、当主・島津義久の弟である島津義弘を総大将とする3万余の主力部隊で、肥後国から九州山地を越えて豊後西部に侵攻するルートである 7 。もう一つは、同じく義久の弟で、「軍法戦術に妙を得たり」と評された猛将・島津家久が率いる別動隊が、日向国から北上して豊後南部に侵攻するルートであった 8 。この二方面からの同時進撃は、防御側である大友氏に、どちらの脅威に主力を差し向けるべきかという困難な判断を強いるものであった。戦力を集中させればもう一方が手薄になり、分散させればどちらの戦線も兵力不足に陥る。この巧みな作戦により、大友方の諸城は連携を断たれ、孤立無援の戦いを強いられることになった。
義弘率いる主力部隊の進撃は、まさに破竹の勢いであった。10月22日に肥後を出立すると、わずか2日後の24日には豊後津賀牟礼城を陥落させ、その城主であった入田宗和を案内役として、名城・岡城へと迫った 7 。その後も高尾城など、豊後西部の諸城を次々と攻略し、大友方の防衛線をいとも容易く蹂躙していった 8 。
一方、家久率いる日向方面軍は、当初、思わぬ苦戦を強いられる。11月4日、家久軍は堅田(現・佐伯市)において、大友方の勇将・佐伯惟定の頑強な抵抗に遭い、敗北を喫した(堅田合戦) 8 。しかし、百戦錬磨の家久はすぐに体勢を立て直し、進撃を再開する。次なる目標は、大友氏の重要拠点の一つである鶴崎城であった。当時の城主・吉岡統増は臼杵城に詰めていたため不在であったが、城の守りを託されたのは、統増の母であり、出家して尼となっていた吉岡妙林であった 6 。妙林尼は、老尼とは思えぬ卓越した戦術眼を発揮し、落とし穴を掘るなどの奇策を用いて島津軍に多大な損害を与え、その抵抗は島津方を大いに手こずらせた。しかし、兵力と兵糧の差は如何ともしがたく、最終的には降伏を余儀なくされた 6 。
このように、局所的には妙林尼のような heroic な抵抗も見られたものの、大局においては、島津軍の二方面作戦の前に大友方の組織的抵抗は完全に無力化されていた。諸城は次々と陥落し、島津軍は豊後の中心部へと着実に駒を進めていったのである。
第二章:先鋒壊滅 ― 戸次川の戦いと大友氏の絶望(天正14年12月12日)
島津軍の侵攻により、豊後国内が蹂躙されていく中、大友氏にとって唯一の希望は、豊臣秀吉が派遣する援軍の到着であった。しかし、その希望は皮肉にも、大友氏をさらなる絶望の淵へと突き落とす結果となる。臼杵城籠城戦の直前に起こった「戸次川の戦い」は、大友氏の心理的な支柱を完全に破壊し、臼杵城を文字通り「最後の避難場所」へと変貌させた決定的な戦いであった。
秀吉の命を受け、豊後に上陸したのは、軍監・仙石秀久を総大将とし、四国の雄・長宗我部元親と嫡男・信親、そして十河存保ら、約6,000の兵からなる豊臣先遣隊であった 5 。彼らの当面の目的は、島津家久軍に包囲されていた鶴賀城(現・大分市)を救援することにあった。
しかし、この作戦は初動から大きな過ちを犯す。総大将の仙石秀久は、戦功を焦るあまり、味方の軍勢が揃うのを待たず、また地形の不利を顧みることなく、戸次川の渡河を強行するという無謀な作戦を決定した 9 。これに対し、長宗我部元親らは慎重論を唱えたが、秀吉の権威を盾に取る秀久はこれを一蹴し、作戦は強行された。
これを迎え撃つ島津家久は、まさに好機到来と見た。家久は、沖田畷の戦いでも龍造寺の大軍を破った島津家伝統の必勝戦術「釣り野伏せ」を準備して待ち構えていた 3 。この戦術は、囮部隊が意図的に敗走して敵を深追いさせ、あらかじめ両翼に潜ませておいた伏兵が一斉に側面攻撃を仕掛けて包囲殲滅するというものである。
12月12日、戦端が開かれた。豊臣・大友連合軍が戸次川を渡り始めると、島津軍の囮部隊が攻撃を仕掛け、すぐに退却を開始した 11 。これを追撃して深入りした連合軍に対し、潜んでいた島津軍の伏兵が一斉に鉄砲を撃ちかけ、側面から襲いかかった 9 。完全に罠にはまった連合軍は、川という障害物もあって思うように身動きが取れず、大混乱に陥った。乱戦の中、長宗我部元親が将来を嘱望した嫡男・信親、そして勇将・十河存保といった有力武将たちが次々と討死し、先遣隊は文字通り壊滅したのである 3 。
この衝撃的な敗報は、大友氏にとどめを刺した。頼みの綱であった豊臣の援軍が、到着早々に、しかも島津の伝統戦術の前に脆くも崩れ去ったという事実は、大友方全体に「もはや島津には勝てない」という絶望感を蔓延させた。当主である大友義統は、この報を受けると、本拠地である府内城を戦わずして放棄し、父・宗麟が待つ臼杵城へと逃亡した 12 。翌12月13日、豊後の政治的中心地であった府内城は、無抵抗のまま島津家久の手に落ちた 8 。もはや野戦での組織的抵抗は不可能となり、大友氏に残された道は、海に浮かぶ要塞・臼杵城に立てこもり、豊臣本隊の到着という、遠い先の希望に全てを賭けることだけであった。
第三章:海に浮かぶ要塞 ― 臼杵城の構造と防御機能
戸次川での大敗により、豊後の主要部が島津軍の手に落ちるという絶望的な状況下で、なぜ大友氏は徹底抗戦を続けることができたのか。その答えは、最後の拠点となった臼杵城そのものが持つ、比類なき防御能力にあった。臼杵城の防御力は、人工的な城郭構造と、丹生島という自然地形が完璧に融合した結果生み出されたものであり、島津軍の得意とする野戦・陸戦の常識が一切通用しない「異質な戦場」であった。
臼杵城は、永禄5年(1562年)に大友宗麟によって築城された 14 。特筆すべきは、その立地である。城は当時、臼杵湾にぽつんと浮かぶ「丹生島」という島の上に築かれていた 15 。島の北、南、東の三方は完全に海に囲まれ、断崖絶壁が天然の城壁をなしていた 15 。西側のみが干潟で本土と繋がっていたが、これも干潮時にしか渡ることができず、大規模な軍勢が接近することは極めて困難であった 13 。まさに、島全体が一個の巨大な要塞と化した「海城」だったのである。
城の縄張り(設計)は、本丸、二の丸、三の丸が帯状に連なる「連郭式」と呼ばれる形式を採用していた 15 。これにより、仮に一つの区画が突破されても、次の区画で敵を食い止める多重防御が可能であった。城内への通路は、岩盤を削って造られた狭く複雑なもので、枡形(四角く囲まれた空間)を巧みに配置することで、侵入した敵兵を袋小路に追い込み、三方から攻撃を浴びせることができるように設計されていた 12 。築城当初の大手門(正門)は、陸側ではなく海側に設けられており、船でしかアクセスできない構造になっていたことも、その海城としての性格を物語っている 20 。
この海城という特性がもたらす最大の利点は、兵站、すなわち補給路の確保にあった。島津軍に陸路を完全に封鎖されたとしても、海が自由である限り、海上からの兵員や兵糧の輸送が可能であった。城の裏口にあたる卯寅口には船着場が設けられており、これが長期籠城を可能にする生命線となった 12 。
さらに、城内には大友宗麟のキリシタン大名としての一面も反映されていた。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、城内には礼拝堂も存在したとされ、臼杵の城下町はキリスト教布教の拠点として栄えていた 12 。この宗教的背景も、籠城する人々の精神的な支えとなった可能性がある。
戸次川で野戦における無類の強さを見せつけた島津軍にとって、この臼杵城は自らの長所を完全に封じられる戦場であった。大軍による包囲も、海という天然の障害物によってその効果は限定され、得意の機動戦も展開できない。その上、城内には彼らがまだ知らない、戦国時代の常識を覆す新兵器が待ち構えていた。臼杵城は、籠城側がその地理的・構造的優位性を最大限に活用することで、圧倒的な兵力差を覆すことを可能にする、難攻不落の要塞だったのである。
第四章:臼杵城攻防戦 ― リアルタイム戦況報告(天正14年12月~天正15年3月)
12月中旬:包囲開始と宗麟の采配
戸次川の戦いから一夜明けた天正14年12月13日、勝利の勢いに乗る島津家久軍は府内城を占領し、その矛先を大友宗麟・義統親子が籠る臼杵城へと向けた 8 。間もなく、臼杵城は島津軍によって完全に包囲される。宗麟が心血を注いで築き上げた南蛮文化の香り高い城下町は、戦火によって無残に焼き払われ、甚大な被害を受けた 12 。
城内には、敗残兵に加え、戦火を逃れてきた城下の領民たちがひしめき合っていた。この絶望的な状況下で、隠居の身であった大友宗麟は、再び総司令官としてその類稀なる指導力を発揮する。彼は、自らの信仰であるキリスト教徒と、古くからの仏教徒を分け隔てることなく、すべての領民を城内に保護した 21 。さらに、籠城する人々の不安を和らげ、士気を鼓舞するため、宗麟自らが握り飯を配って回ったという逸話も残されている 21 。この行為は、身分や宗教を超えて城内の人々を一つにまとめ、共に苦難を乗り越えようという一体感を醸成する上で、計り知れない効果をもたらした。
「国崩し」の咆哮
包囲を固めた島津軍は、対岸から城に向かって鉄砲を撃ちかけたが、海を隔てた城までは弾が届かず、空しい銃声が響くだけであった 20 。島津軍が攻めあぐねる中、宗麟はかねてより準備していた切り札を投入する。それは、天正4年(1576年)にポルトガル人宣教師から購入した、日本初の大砲「フランキ砲」であった 22 。宗麟は、その絶大な威力から、これを「国崩し」と名付けていた 2 。
宗麟の命令一下、二の丸に据えられたと推測される「国崩し」が火を噴いた 20 。本来は艦砲用であったこの大砲は、子砲と呼ばれる薬室を交換する後装式であり、当時の火縄銃などとは比較にならない速射性能を持っていた 12 。轟音と共に発射された砲弾は、対岸の菟居島に陣取る島津軍の只中に着弾し、死傷者を出した 20 。
しかし、「国崩し」が島津軍に与えた真の衝撃は、その物理的な破壊力以上に、心理的なものであった。『大友興廃記』には、「其響き山にとほり、海にこたへて夥し」と記されており、山や海にこだまする、それまで誰も聞いたことのない凄まじい爆音は、歴戦の薩摩隼人たちの肝を冷やさせた 2 。遠距離から一方的に、しかも凄まじい音と共に攻撃されるという未知の恐怖は、従来の日本の合戦観を根底から揺るがすものであった。この心理的破壊力こそが、「国崩し」の真の価値であった。
膠着と奇襲戦
「国崩し」の威力と、海に守られた城の堅固さを目の当たりにした島津軍は、力攻めを躊躇し、戦況は膠着状態に陥った 12 。しかし、大友方はただ籠城して時を待つだけではなかった。宗麟の巧みな策略の下、城兵は夜陰に乗じて城外へ出撃し、奇襲を敢行した。ある時は、二王座の切り通しで油断していた島津兵を襲撃し、数十名を討ち取る戦果を挙げた 20 。またある時は、福良の丘に伏兵を置き、島津の有力武将を討ち取るなど、散発的ながらも効果的な攻撃を繰り返し、包囲軍を悩ませ続けた 20 。これらのゲリラ的な戦術は、島津軍に攻城戦の長期化を覚悟させ、その士気を少しずつ削いでいった。
天正15年3月:包囲解除と撤退
数ヶ月に及ぶ膠着状態が続いた天正15年(1587年)3月、戦況を劇的に変化させる報せがもたらされる。豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が率いる10万ともいわれる大軍の先鋒部隊(黒田官兵衛ら)が、ついに豊後の地に上陸したのである 9 。
自軍を遥かに凌駕する圧倒的な兵力の出現という、抗いがたい脅威を前に、島津軍は豊後からの全面撤退を決断する。3月15日、府内にいた島津義弘・家久の軍は撤退を開始。これに伴い、数ヶ月にわたって続けられた臼杵城の包囲も、ついに解かれた 9 。大友宗麟と臼杵城の兵、そして領民たちは、絶望的な状況下でついに豊臣本隊の到着まで持ちこたえたのである。
結論:時間を稼いだ籠城戦 ― 九州平定における歴史的意義
臼杵城の戦いは、城が陥落せず、大友氏が滅亡の淵から生還したという意味において、大友方にとっての紛れもない「防衛成功」であった。しかし、この戦いの歴史的意義は、単なる一城の攻防の結末に留まるものではない。より大きな戦略的視点から見れば、島津軍の豊後平定を約3ヶ月間にわたって遅滞させた、この「時間稼ぎ」こそが、本合戦の最大の価値であった。
もし臼杵城が戸次川の戦いの直後に早期に陥落していれば、島津軍は豊後を完全に掌握し、その勢いを駆って北上、豊前国境で豊臣軍を万全の態勢で迎え撃つことが可能であったかもしれない。しかし、臼杵城が島津軍主力を豊後南部に釘付けにしている間に、豊臣秀吉は20万とも言われる空前の大軍を編成し、九州へ展開するための貴重な時間的余裕を得ることができた 1 。
結果として、豊臣軍の先鋒が豊後に上陸した際、島津軍は豊後各地に戦力を分散させたまま、この新たな脅威に直面することになった。圧倒的な物量を誇る豊臣軍を前に、島津軍は組織的な抵抗を諦め、撤退を選択せざるを得なかった 5 。臼杵城の粘り強い抵抗があったからこそ、豊臣軍は有利な状況で九州平定戦を開始でき、結果としてそれは比較的短期間で達成されたのである。臼杵城の戦いは、秀吉の九州平定を円滑に進めるための、極めて重要な布石となった。
さらにこの戦いは、日本の戦史においても画期的な事例として位置づけられる。それは、海城が持つ防御上の圧倒的な優位性と、西洋から伝来した大砲が実戦において絶大な心理的効果を発揮することを、日本の戦国大名たちにまざまざと見せつけた戦いであった。
そして何よりも、臼杵城の戦いは、戦国時代の「力の論理」から、豊臣政権下の「秩序の論理」へと、時代が大きく転換する過渡期を象徴する戦いであったと言える。大友宗麟は、もはや自らの軍事力(力の論理)で島津に勝利することを目指してはいなかった。彼の戦略は、中央の天下人である秀吉の権威と軍事力(秩序の論理)という、より大きな力に介入の時を与えるまで、ひたすら持ちこたえるという、新しい時代の戦い方であった。最終的に戦いの決着が、大友と島津という当事者間ではなく、豊臣という外部の絶対的な力によって下されたという事実は、一地方の覇権争いがもはや許されない、天下統一の時代が到来したことを明確に示している。宗麟の選択と臼杵城での粘り強い抵抗は、この歴史的転換点を見事に体現するものであった。
引用文献
- 島津の猛攻、大友の動揺、豊薩合戦をルイス・フロイス『日本史』より - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/07/131015
- 【大分県】臼杵城の歴史 大友宗麟が築いた軍艦島 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2278
- 島津家久、軍法戦術の妙~沖田畷、戸次川でみせた鮮やかな「釣り ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3975
- 豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7) https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/23/203258
- 九州の役、豊臣秀吉に降伏 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/kyushu-no-eki/
- 豊薩合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%96%A9%E5%90%88%E6%88%A6
- 九州平定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A
- 「九州征伐(1586~87年)」豊臣vs島津!九州島大規模南進作戦 ... https://sengoku-his.com/713
- 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
- 島津義久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
- 島津の九州制圧戦 /戸次川の戦い/岩屋城の戦い/堅田合戦/豊薩合戦/ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=kQMvTSXgexo
- 【理文先生のお城がっこう】歴史編 第35回 九州の城1(大友氏と臼杵(うすき)城) - 城びと https://shirobito.jp/article/1290
- (大友宗麟と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/20/
- 臼杵城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E5%9F%8E
- 臼杵城の見所と写真・1000人城主の評価(大分県臼杵市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/222/
- GW企画 臼杵城跡「畳櫓」特別公開と海に浮かぶ要塞「臼杵城」現地ガイド https://www.city.usuki.oita.jp/article/2023042100024/
- 大友宗麟が築城した、奇想天外の臼杵城跡へ|大分のエリア情報 - 別大興産 https://www.betsudaikohsan.co.jp/oita-chintai/oita-area/detail/id_9/
- 臼杵城 丹生島城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/kyushu/usukisi.htm
- 丹生島城、臼杵城の戦いとは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E5%B3%B6%E5%9F%8E%E3%80%81%E8%87%BC%E6%9D%B5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 大友戦記 臼杵城攻防戦 http://www.oct-net.ne.jp/moriichi/story9.html
- 大分県の城下町・臼杵/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/castle-town/usuki/
- 臼杵城・大友砲(国崩し) - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/ot0792/
- 大友宗麟とキリシタン文化/臼杵城跡にある国崩し(大砲) - 大分県ホームページ https://www.pref.oita.jp/site/archive/201011.html
- 6 、戦国期日本の大砲開発と製造・・・その実態 http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/303
- 臼杵城攻防戦 http://www.oct-net.ne.jp/moriichi/battle9.html
- 志賀親次~島津の大軍を孤塁で撃退!知られざる豊後の名将 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5843?p=2