芥川山城の戦い(1568)
織田信長、足利義昭を奉じ上洛。三好三人衆が籠る芥川山城へ迫るも、信長は力攻めせず、城下を焼き払う心理戦を展開。三好長逸は無益な戦を避け、城を放棄し阿波へ撤退。信長は無血で畿内の要衝を掌握し、天下布武への第一歩を記した。
芥川山城の戦い(1568年):信長上洛における無血の戦略的勝利と旧時代の終焉
序論:天下布武への序章―芥川山城の戦略的価値
本報告書は、永禄十一年(1568年)九月下旬に摂津国で展開された「芥川山城の戦い」について、その詳細な経緯と歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。この出来事は、通俗的には織田信長の上洛過程における一拠点攻略戦として語られることが多い。しかし、その実態は大規模な野戦や攻城戦を伴わない、高度な政治・軍事戦略が交錯した無血の政権移行劇であった。本稿では、この戦いを単なる城の明け渡しとしてではなく、織田信長による畿内掌握の象徴的な第一歩であり、三好政権から織田政権への「天下」の権威委譲が行われた画期的な転換点として位置づける。
この戦いの重要性を理解する上で不可欠なのが、信長に先んじて「天下人」と称された三好長慶の存在である 1 。長慶は、室町幕府の権威に依存しない実力による支配体制を畿内に確立し、その本拠地として芥川山城を事実上の「首都」として機能させた 3 。この城は、単なる軍事拠点に留まらず、畿内統治の政治的中枢であり、連歌会や儒学の講義が催される文化の中心でもあった 2 。信長が上洛の初期段階で、京の制圧後ただちにこの芥川山城の確保へと動いたのは、その軍事的な価値のみならず、長慶が築き上げた「天下」の権威と統治機構の正統性を継承するという、極めて象徴的な意味合いがあったのである 4 。したがって、芥川山城の攻防は、物理的な城の争奪以上に、新たな時代の実権を誰が握るのかを天下に示す、象徴的な意味を帯びた戦略行動であった。
第一章:信長上洛以前の畿内情勢―三好政権の瓦解と足利義昭の流転
織田信長が足利義昭を奉じて上洛するに至った背景には、畿内における既存の権力構造の劇的な崩壊があった。かつて畿内に覇を唱えた三好政権が内部から瓦解し、権力の真空が生まれていたのである。
第一節:三好長慶の死と権力の分裂
永禄七年(1564年)、絶頂期にあった三好長慶が病死すると、彼が一代で築き上げた三好政権は急速にその求心力を失った 5 。後継者である三好義継は若年であり、政権運営は重臣たちによる集団指導体制へと移行せざるを得なかった 6 。
しかし、この集団指導体制は安定とは程遠かった。政権内部では、三好一族の長老格である三好長逸、三好宗渭(政康)、岩成友通からなる「三好三人衆」と、長慶個人の才覚によって取り立てられた寵臣・松永久秀との間で、深刻な主導権争いが勃発する 8 。この権力闘争は、やがて三好家中の分裂を決定的なものとし、政権全体の弱体化を招いた。長慶という絶対的な中心を失ったことで、それまで抑えられていた内部の亀裂が表面化し、自滅的な内紛へと突き進んでいったのである。
第二節:永禄の変と将軍義輝の非業の死
三好政権が内紛に揺れる中、室町幕府第十三代将軍・足利義輝は、三好氏の傀儡となることを良しとせず、諸大名との連携を通じて将軍権威の回復を画策していた 8 。この動きを危険視した三好三人衆と松永久秀は、この時点では利害が一致し、共同で将軍排除へと動く。
永禄八年(1565年)五月、三好軍は一万の兵で二条御所を襲撃。義輝は自ら太刀を振るって奮戦したものの衆寡敵せず、壮絶な最期を遂げた(永禄の変) 7 。現職将軍の殺害というこの前代未聞の凶行は、三好政権が天下に与えた衝撃であると同時に、彼ら自身の正統性を著しく損なう結果となった。武家の棟梁たる将軍を弑逆したという事実は、彼らが畿内を統治する上での大義名分を根底から揺るがしたのである。
第三節:新将軍をめぐる攻防と、信長を頼る足利義昭
将軍義輝の死後、三好三人衆は義輝の従弟にあたる足利義栄を第十四代将軍として擁立した 8 。しかし、義栄は本国の阿波国(現・徳島県)に留まり、畿内の戦乱のために入京することすらできず、その権威は畿内にほとんど浸透しなかった 8 。
一方、永禄の変の際に京を脱出した義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)は、還俗して将軍後継の意志を表明し、諸国を流転していた 5 。当初、義昭は越前の名門・朝倉義景を頼ったが、義景は上洛の兵を挙げようとする積極的な姿勢を見せず、義昭を失望させた 10 。
再起を期す義昭が最終的に頼ったのが、尾張・美濃を平定し、破竹の勢いを見せていた織田信長であった。永禄十一年(1568年)七月、義昭は美濃の信長のもとへ移る 13 。信長にとって、正統な将軍候補者である義昭を奉じることは、畿内へ進出するための「大義名分」を得るまたとない好機であった 15 。信長の目的は、単に幕府を再興することではなく、足利将軍家の権威を利用して畿内の「静謐」、すなわち自らの手による平和と秩序の回復を実現することにあったのである 16 。信長の上洛は、このように三好政権の内部崩壊という権力の真空状態と、足利義昭という「正統性」の象徴が結びついた、必然的な政治的帰結であった。
第二章:決戦の舞台、芥川山城―その構造と歴史的役割
織田信長が畿内掌握の最初の戦略目標とした芥川山城は、単なる山城ではなかった。それは、信長以前の天下人・三好長慶が畿内統治の拠点とした、政治的・象徴的な意味合いを強く持つ城であった。
第一節:摂津の要衝―地理的優位性と城郭構造
芥川山城は、現在の大阪府高槻市に位置する標高約183メートルの三好山に築かれた 17 。その立地は、京、大坂、そして西国へと繋がる大動脈である西国街道と、水運の要である淀川水系を一望できる、まさに戦略の要衝であった 3 。この地を押さえることは、畿内の物流と交通を支配下に置くことを意味し、軍事的にも経済的にも絶大な優位性を確保することに繋がった。
城の構造(縄張り)は、山頂の主郭を中心に、尾根筋に沿って多数の曲輪(平坦地)を連ねる「連郭式山城」の典型である 3 。城域は東西約500メートル、南北約400メートルに及び、当時の摂津国では最大級の規模を誇った 17 。防御施設としては、尾根を断ち切る堀切や土塁が巧みに配置されている 18 。特筆すべきは、城の東側斜面に設けられた「竪土塁」という遺構である 3 。これは、斜面を一直線に下る土の壁であり、斜面を横移動して回り込もうとする敵兵の動きを阻害する、当時としては珍しい先進的な防御施設であった 3 。
第二節:細川氏の築城から三好氏の「首都」へ
この城の歴史は、永正十二年(1515年)頃、室町幕府の管領であった細川高国による築城に始まる 3 。当初は、対立する細川澄元との抗争に備えるための純然たる軍事拠点であった 3 。
高国の死後、城主となった細川晴元は、天文二年(1533年)以降、この城に長期滞在を繰り返した。この時期、芥川山城は事実上の摂津国「守護所」として機能し、政治的な折衝の舞台となった 3 。
そして天文二十二年(1553年)、家臣であった三好長慶が主君・晴元を追放し、晴元方に与した芥川孫十郎からこの城を奪取する 3 。長慶は、飯盛城(大阪府四條畷市・大東市)へ移る永禄三年(1560年)までの約七年間、この芥川山城を本拠地とした 1 。この期間、芥川山城は三好政権の「首都」として、畿内一円に号令が発せられる政治の中枢となったのである 3 。
第三節:発掘調査から見る「天下人の居城」の実像
近年の発掘調査は、芥川山城が単なる軍事施設ではなかったことを明らかにしている。主郭からは、礎石を用いた本格的な御殿建築の跡が発見された 3 。従来の戦国期の山城が、掘立柱による簡易な建物を主としていたのに対し、芥川山城には政務や儀礼、さらには連歌会や儒学の講義といった文化活動を行うための恒久的な施設が存在したことが示唆される 2 。
さらに注目すべきは、城の正面玄関にあたる大手筋に築かれた、高さ2メートルを超える石垣である 19 。戦国時代の山城で石垣が用いられる例は少なく、これは防御目的だけでなく、登城者に城主の権威と財力を誇示する「見せるための石垣」であったと考えられる 19 。この思想は、後に織田信長が安土城で完成させる壮麗な石垣づくりの城の先駆けとも評価できる 19 。
これらの事実から、芥川山城は、戦国時代の城郭機能が単なる「防御拠点」から、統治の威厳を示す「政治・経済・文化の中心」へと移行する、過渡期の姿を象徴する先進的な城であったことがわかる。信長がこの城を無傷で手に入れたことは、軍事施設だけでなく、畿内統治に必要な「首都機能」そのものを、三好長慶の遺産として継承したことを意味していた。
第三章:織田信長、上洛への道―岐阜出立から摂津侵攻まで
永禄十一年九月、織田信長は足利義昭を奉じ、天下にその存在を示すべく行動を開始した。その進軍は、圧倒的な軍事力と、敵の意表を突く驚異的な速度によって特徴づけられる。
第一節:永禄十一年九月七日、岐阜出立
永禄十一年(1568年)九月七日、織田信長は足利義昭を奉じ、美濃の岐阜城を出立した 23 。その軍勢は、本国の尾張・美濃の兵に加え、新たに支配下に置いた北伊勢の兵、さらには同盟者である徳川家康からの援軍も加わり、総勢四万から六万に達したと記録されている 23 。これは、当時畿内で対立していた三好三人衆らが動員しうる兵力を遥かに凌駕する大軍であり、信長の畿内平定にかける断固たる意志を示すものであった。
第二節:電撃的近江平定―観音寺城の戦い
信長軍が京へ向かうには、南近江を通過する必要があった。この地を支配していたのは、名門守護大名である六角義賢・義治父子であった。彼らは三好三人衆と連携関係にあり、信長の上洛要請を拒絶、居城である観音寺城に籠もり、徹底抗戦の構えを見せた 16 。
九月十二日、織田軍は六角氏の重要な支城である箕作城に攻撃を開始した 13 。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や丹羽長秀らの部隊が猛攻を加え、堅固な山城と見られていた箕作城を、わずか一日で陥落させてしまう 13 。
主力支城が予想を遥かに超える速さで陥落したという報は、観音寺城の六角父子に致命的な衝撃を与えた。彼らは織田軍の戦闘能力と士気の高さに恐れをなし、決戦を前にして戦意を喪失。同月十三日には、本拠地である観音寺城を放棄して、甲賀方面へと敗走した 24 。これにより、信長は岐阜を出立してからわずか数日で、上洛の最大の障壁と目された南近江を完全に平定したのである。この電撃的な勝利は、単なる軍事的な成功に留まらなかった。それは、これから対峙する畿内の諸勢力に対し、「信長に抵抗することは無意味である」という強烈なメッセージを発信する、極めて効果的な心理戦でもあった。
第三節:九月二十六日、京へ―三好方の動揺と撤退
近江を無抵抗地帯とした信長は、進軍を再開。九月二十六日には足利義昭を伴って京に入り、信長は東福寺に、義昭は清水寺にそれぞれ陣を構えた 5 。
一方、畿内に展開していた三好三人衆は、同盟者である六角氏が瞬く間に敗れ去ったという報に激しく動揺した 25 。信長軍の圧倒的な兵力と、常識外れの進軍速度を前に、彼らは京での決戦を断念せざるを得なかった。岩成友通が守っていた山城国の勝龍寺城などを次々と放棄し、主力を摂津国の芥川山城へと集結させて、織田軍の次の動きに備えた 28 。観音寺城での出来事は、芥川山城に籠る三好勢の心理に暗い影を落とし、彼らの戦略的選択肢を著しく狭める結果となった。信長は、摂津での戦いを始める前に、近江での勝利によってすでに戦局の主導権を握っていたのである。
第四章:芥川山城の戦い―永禄十一年九月、四日間の時系列詳解
信長軍の摂津侵攻から芥川山城の無血開城に至るまでの四日間は、直接的な戦闘こそなかったものの、織田方の周到な軍事的・政治的圧力と、それに追い詰められていく三好方の動向が刻一刻と変化する、緊迫した時間であった。以下にその詳細を時系列で詳述する。
表1:永禄十一年九月下旬 織田軍・三好方 動向時系列表
日付 (永禄十一年) |
織田軍の動向 |
三好方の動向 |
行動の分析・意図 |
典拠史料 |
九月二十七日 (火) |
山崎を越え、摂津国へ侵攻を開始。足利義昭も同行。 |
三好長逸、細川昭元を奉じ芥川山城に籠城。三人衆の主力が集結。 |
織田方: 義昭を前面に出し、侵攻の正当性を誇示。軍事行動の開始。 三好方: 最後の拠点での籠城を決意。情報収集と戦略決定の最終段階。 |
30 |
九月二十八日 (水) |
芥川山城の城下町「芥川之市場」(芥川宿)に放火。 |
城内から城下の炎上を視認。外部との連絡・補給路が脅かされる。 |
織田方: 兵站・経済基盤の破壊と、城兵への心理的恫喝。城の孤立化を図る。 |
30 |
九月二十九日 (木) |
足利義昭が城の麓、天神馬場に着陣。城の麓一帯を焼き払う。 |
包囲網が完成し、城は完全に孤立。抵抗の意思が著しく削がれる。 |
織田方: 「将軍による討伐」という政治的構図を完成させ、最終的な圧力をかける。 |
30 |
九月三十日 (金) |
芥川山城を無血で接収。 |
三好長逸、細川昭元と共に城を放棄し、本国の阿波へ撤退。 |
三好方: 兵力温存と再起を図るための戦略的撤退。無益な消耗戦を回避。 |
30 |
第一節:九月二十七日(火)、摂津侵攻開始
京を完全に制圧下に置いた織田信長は、間髪入れずに次の目標である芥川山城へと軍を進めた。九月二十七日、織田軍は山城国と摂津国の国境に位置する山崎を越え、摂津国への侵攻を開始した 30 。この軍勢には、名目上の総大将である足利義昭も同行しており、この軍事行動が単なる信長の私戦ではなく、次期将軍による旧勢力の討伐という「公戦」であることを内外に強くアピールしていた。
この時、芥川山城では三好三人衆の筆頭格である三好長逸が、細川京兆家の正統な後継者である細川昭元(細川晴元の遺児)を名目上の主君として奉じ、籠城の指揮を執っていた 30 。城には、京周辺から撤退してきた三好方の主力が集結しており、最後の決戦に備えていた。しかし、彼らの眼前には、近江を瞬く間に平定した数万の織田軍が迫っており、籠城か、あるいは撤退か、という究極の選択を迫られていた。
第二節:九月二十八日(水)、芥川宿市場への放火―経済的・心理的圧迫
九月二十八日、織田軍は芥川山城に対して直接的な攻撃を仕掛けるのではなく、より効果的な手段を講じた。城の南方に広がる城下町であり、西国街道の宿場町として栄えていた「芥川之市場」(芥川宿)に火を放ったのである 30 。
この放火は、複数の戦略的意図を持つ計算された行動であった。第一に、芥川山城の兵站線と経済的基盤を断ち切る目的があった。宿場町からの物資供給や商業活動を停止させることで、籠城の継続を困難にする狙いである。第二に、これは強烈な心理的圧迫であった。城内から見える場所で城下町が燃え上がる光景は、城兵やその家族に「抵抗を続ければ、街ごと焼き尽くされる」という恐怖心を植え付け、戦意を著しく削ぐ効果があった。そして第三に、城周辺の建物を焼き払うことで、城を完全に裸にし、外部からの支援や情報の流入を物理的に遮断する目的も含まれていた。
第三節:九月二十九日(木)、城下への焼き討ち―包囲網の完成
翌九月二十九日、信長はさらに圧力を強める。足利義昭の本陣を、芥川山城の麓にほど近い天神馬場(現在の高槻市天神町)へと前進させた 30 。これは、新将軍自らが反逆者の籠る城の眼前に迫るという、極めて象徴的な軍事行動であった。これにより、この戦いが「新将軍による旧勢力の討伐」であるという政治的な構図が、誰の目にも明らかとなった。
義昭の着陣と時を同じくして、織田軍は芥川山城の麓一帯を広範囲にわたって焼き払った 30 。この焼き討ちによって、城は完全に孤立し、数万の織田軍による包囲下に置かれたことが確定した。城内の三好勢は、自らの足元が燃え上がり、脱出路も支援も断たれた絶望的な状況を目の当たりにしたはずである。
第四節:九月三十日(金)、三好長逸の決断―戦わずしての撤退
九月三十日、三好長逸はついに決断を下す。圧倒的な兵力差、同盟者・六角氏の敗走、そして松永久秀の織田方への恭順 16 という背後からの脅威。経済基盤である城下は灰燼に帰し、兵站も完全に断たれた。この状況で籠城を続けても援軍の見込みはなく、兵糧が尽きれば全滅は避けられない。
長逸は、細川昭元と共に、決戦を回避して芥川山城を放棄し、海路で本国である阿波へと撤退することを選んだ 8 。これは、単なる敗走ではなく、無益な戦いで主力を失うことを避け、再起を図るための合理的な「戦略的撤退」であった。この決断により、織田信長は一兵の損失もなく、畿内における最重要戦略拠点の一つである芥川山城を、完全にその手中に収めることに成功したのである。
第五章:戦後の摂津統治と畿内平定―新秩序の構築
芥川山城の無血開城は、信長の畿内平定における軍事行動の終わりであると同時に、新たな統治体制構築の始まりであった。信長は、占領地に対して迅速かつ巧みな政治的処置を施し、自身の支配を確固たるものとしていく。
表2:芥川山城の戦い 主要関係者一覧
人物名 |
所属勢力 |
戦いにおける役割・役職 |
戦後の処遇・動向 |
特記事項 |
織田信長 |
織田方 |
上洛軍 総大将 |
畿内の実質的支配者となる。足利義昭を将軍に擁立。 |
圧倒的な軍事力と心理戦を駆使し、無血で戦略目標を達成。 |
足利義昭 |
足利方 (織田方) |
上洛軍 名目上の総大将 |
第十五代征夷大将軍に就任。後に信長と対立し追放される。 |
信長の上洛に「大義名分」を与えた。 |
三好長逸 |
三好方 |
芥川山城 籠城軍指揮官 |
城を放棄し阿波へ撤退。後、本圀寺の変などで反信長活動を継続。 |
三好三人衆筆頭。現実的な判断で主力を温存し、再起を図った。 |
細川昭元 |
三好方 |
籠城軍 名目上の主君 |
三好長逸と共に阿波へ撤退。後に織田信長に降伏。 |
細川京兆家の当主。三好方に擁立されていた。 |
和田惟政 |
足利方 (元三好方) |
義昭の側近、織田軍への案内役 |
芥川山城の城主となり、摂津三守護の一人に任命される。 |
摂津の国人。時勢を読み、織田方に転じることで地位を確保した。 |
松永久秀 |
(独立勢力/織田方) |
織田信長に恭順 |
大和国の支配を安堵される。後に信長に反旗を翻し滅亡。 |
三好政権の元重臣。信長の上洛に際し、いち早く恭順の意を示した。 |
六角義賢 |
六角氏 |
信長の上洛を阻止しようとする |
観音寺城の戦いで敗北し、甲賀へ逃亡。ゲリラ戦で抵抗を続ける。 |
信長の上洛における最初の障壁となったが、電撃戦の前に敗れた。 |
第一節:和田惟政の城主就任と摂津三守護体制
芥川山城を接収した信長は、その新たな城主として、織田譜代の家臣ではなく、摂津の国人領主である和田惟政を任命した 32 。惟政は元々三好方に属していたが、足利義昭に仕える中で織田方に転じた人物であり、摂津の地理や人間関係に精通していた 35 。この人選は、現地の有力者を登用することで、占領統治を円滑に進めようとする信長の現実的な政策眼の現れであった。
さらに信長は、摂津一国を単独の支配者に委ねることをせず、和田惟政、池田勝正、伊丹親興の三名を「摂津守護」に任じ、国を三分割して統治させる体制を敷いた 34 。これは、単独の強力な支配者が生まれることを防ぎ、三者を互いに牽制・競争させることで、謀反のリスクを低減し、最終的な支配権を信長自身が握るという、極めて巧みな統治戦略であった。この摂津三守護体制は、後の織田政権における方面軍統治の雛形とも言える、先進的な地方支配モデルの試みであった。
第二節:芥川山城から高槻城へ―統治拠点の移行
新たな城主となった和田惟政は、永禄十二年(1569年)には、その拠点を芥川山城から、より平地に近く交通の便が良い高槻城へと移した 32 。芥川山城は、家臣である高山飛騨守(高山右近の父)に預けられることになった 32 。
この統治拠点の移行は、戦国時代の社会と政治の変化を象徴する出来事であった。戦乱が常態であった時代には、防御に特化した山城が重要視されたが、信長による畿内の平定が進むにつれ、政治と経済を一体的に運営できる平城の重要性が増していった 35 。芥川山城は、三好長慶の時代に「首都」としての役割を担ったが、新たな時代においてはその役目を終え、やがて廃城への道をたどることになる 33 。
第三節:阿波へ逃れた三好三人衆のその後と反信長包囲網への布石
一方、芥川山城から戦略的撤退を行った三好三人衆は、決して再起を諦めてはいなかった。彼らは本国の阿波で軍勢を立て直し、信長が主力軍と共に美濃へ帰国した隙を突いて、翌永禄十二年(1569年)正月に京へ逆襲を敢行。足利義昭の仮御所であった本圀寺を急襲した(本圀寺の変) 8 。
この襲撃は、明智光秀らの奮戦と織田方の迅速な援軍により失敗に終わるものの、彼らの抵抗の意志が衰えていないことを天下に示した。その後も三好三人衆は、石山本願寺や朝倉氏などと結び、反信長勢力の中核として、十年にわたり信長を苦しめ続けることになる 7 。芥川山城での無血撤退は、三好氏にとって終わりではなく、新たな抵抗の始まりでもあったのである。
結論:歴史的意義―芥川山城の戦いが織田政権に与えた影響
永禄十一年九月の芥川山城における一連の出来事は、日本の戦国史における決定的な転換点の一つとして評価されるべきである。直接的な戦闘が行われなかったにもかかわらず、その政治的・戦略的影響は、大規模な会戦にも匹敵する、あるいはそれ以上の重要性を持っていた。
第一に、この戦いは約二十年間にわたり畿内に君臨した三好政権の事実上の終焉を象徴するものであった 6 。三好長慶が「天下人の居城」とした芥川山城が、一戦も交えることなく織田信長の手に渡ったという事実は、三好氏の権威が完全に失墜したことを天下に知らしめた。三好三人衆の撤退は、彼らがもはや畿内を維持する力を失ったことを自ら認めたに等しかった。
第二に、芥川山城の制圧は、織田信長による中央政権掌握の、物理的かつ象徴的な第一歩であった。信長はこの後、足利義昭を将軍に就任させ、その軍事的後ろ盾となることで、畿内の実質的な支配者としての地位を確立する。摂津の要衝であり、旧政権の「首都」であったこの城を手中に収めたことで、信長の「天下布武」は現実の政策として本格的に始動したのである。
結論として、「芥川山城の戦い」は、信長の卓越した戦略眼を示す好例である。彼は圧倒的な軍事力を背景としながらも、力押しに頼るのではなく、近江での電撃戦による心理的効果、経済的基盤への打撃、そして足利義昭という「大義名分」の活用といった多層的な戦略を組み合わせることで、最小限のコストで最大限の成果を上げた。戦闘なき勝利が、時として大規模な会戦以上に決定的な歴史の転換点となりうることを示す、戦国史における稀有な事例として、この出来事は記憶されるべきであろう。
引用文献
- 続日本100名城にも選ばれた「三好山・芥川山城跡」。昨冬の発掘調査で三好長慶が建てた櫓とみられる建物が見つかりました。 | 観光協会からのお知らせ | 高槻市観光協会公式サイト たかつきマルマルナビ https://www.takatsuki-kankou.org/info/1827/
- 史跡 芥川城跡を歩く 資料 https://www.city.daito.lg.jp/uploaded/attachment/33056.pdf
- 続日本100名城 芥川山城跡 - 高槻市ホームページ https://www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/4622.html
- 芥川山城跡 - 高槻市 https://www.city.takatsuki.osaka.jp/uploaded/attachment/12365.pdf
- 信長上洛~京都・織田信長入京から450年~ - 京都府京都文化博物館 https://www.bunpaku.or.jp/exhi_sogo_post/nobunagazyouraku450/
- 戦国の天下人 三好長慶と阿波三好家 https://ailand.or.jp/wp-content/uploads/2023/03/1521b7be191e0a21ebc56d430720998f.pdf
- 三好三人衆(ミヨシサンニンシュウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E4%B8%89%E4%BA%BA%E8%A1%86-139812
- 三好長逸は何をした人?「三好三人衆の筆頭格で一族の長老が永禄の変を起こした」ハナシ https://busho.fun/person/nagayasu-miyoshi
- 三好家 と 三好長慶 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/miyosi.htm
- 信長を敗北寸前にまで追い込んだ男!朝倉義景とは一体どんな人物だったのか? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/99054/
- 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第6回【朝倉義景】信長を追い詰めた男!優柔不断は身を滅ぼす? - 城びと https://shirobito.jp/article/1419
- 信長を追い詰めた“戦国の雄”朝倉五代と一乗谷の真実 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7702?p=2
- 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
- 永禄11年(1568)9月26日は大軍を率いた信長が足利義昭を奉じて上洛した日。越前朝倉氏のもとに身を寄せていた義昭は7月に岐阜の信長を頼った。上洛準備を進めた信長はこの月の7日 - note https://note.com/ryobeokada/n/nb7b0ee92f4dc
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- 【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第84回「芥川山城(大阪府)卓偉が行ったことある回数 1回」 https://barks.jp/news/843679/
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- 12.和田惟政と高槻城 https://www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/37287.html
- 芥川山城~戦国を彩るも、戦乱の中で失われた大阪府の名城 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/24800/
- 芥川山城(三好長慶の居城) | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/akutagawajo/
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