若江の戦い(1615)
大坂夏の陣、木村重成は若江で徳川軍と激突。緒戦で藤堂勢を破るも、井伊直孝の赤備えに苦戦し戦死。長宗我部盛親も八尾で奮戦するが、木村隊壊滅の報を受け撤退。豊臣家滅亡を決定づけた。
若江堤の霧、散りゆく若武者の誉れ ― 慶長二十年五月六日、若江の戦い全貌
序章:滅びの序曲、夏の陣前夜
慶長二十年(1615年)夏、大坂城は滅びの瀬戸際に立たされていた。前年の冬の陣の末に結ばれた和睦は、豊臣家にとって束の間の安息に過ぎず、その実態は徳川家による巧妙な罠であった。和睦の条件として、大坂城が誇った外堀、二の丸、三の丸の広大な堀はことごとく埋め立てられ、かつて難攻不落を謳われた巨城は、その防御機能の大部分を奪われた「裸城」と化していた 1 。この戦略的状況の激変は、豊臣方の戦術的選択肢を根底から覆すものであった。もはや籠城戦という伝統的な防衛策は成り立たず、城外での野戦に活路を見出す以外に道は残されていなかった。
一方、徳川方は周到に最終決戦の準備を進めていた。徳川家康・秀忠父子を戴く幕府軍は、総勢15万5千ともいわれる大軍を動員し、複数の経路から大坂城へと迫る大包囲網を形成しつつあった 3 。その中でも、大坂城の東方、河内方面から進軍する部隊は、豊臣方にとって最大の脅威であった。この河内方面軍は、徳川譜代の精鋭・井伊直孝、そして戦巧者として名高い藤堂高虎を先鋒とし、その後ろに本多忠朝、前田利常、松平忠直といった大名の軍勢が続く、総勢5万5千に及ぶ主力部隊であった 1 。彼らの進軍経路は、立石街道を経て道明寺方面へと向かうものであり、大坂城の喉元に刃を突きつけるに等しかった。
この絶望的な状況下で、豊臣首脳部が下した決断は、城を出て徳川軍を各個撃破するという、乾坤一擲の迎撃作戦であった。兵力で圧倒的に劣る豊臣方にとって、徳川の大軍が合流し、大坂城を完全に包囲する前に、その先鋒部隊を局地的な戦闘で撃破し、勢いに乗じて家康・秀忠の本営に直接打撃を与えることこそが、唯一残された勝利への道筋であった。この壮大かつ無謀ともいえる作戦に基づき、豊臣方の諸将は各々の戦場へと向かった。後藤基次、真田信繁(幸村)らが大和方面の道明寺口へ、そして若き将、木村重成と土佐の旧国主、長宗我部盛親が、河内方面の若江・八尾口へと出陣した 1 。
堀という物理的な防壁を失った豊臣方は、戦略的選択の自由をも失っていた。彼らが選択した多方面での同時迎撃作戦は、一見すれば貴重な戦力を分散させる愚策にも映る。しかし、それは他に選択肢を失った者たちが、一点突破に全てを賭けた最後の咆哮であった。本報告書で詳述する「若江の戦い」は、この豊臣家最後の賭けにおいて、極めて重要な一翼を担う戦いであったのである。
第一章:両軍の対峙 ― 河内路の布陣と戦略
決戦の日は、慶長二十年五月六日と定められた。豊臣方の作戦の中核を担う一人、木村長門守重成は、この決戦に並々ならぬ覚悟で臨んでいた。当初、大坂城の北東、京街道方面の守備についていた重成であったが、五月二日、徳川軍の主力が星田・千塚を経由して道明寺方面から大坂城南部に迫るとの情報を掴むと、すぐさま城へと帰還した 7 。地形を自ら検分し、情報の確度を確信した彼は、当初、後藤基次らと共に道明寺方面へ出撃することを考えた。しかし、そこには既に真田信繁をはじめとする歴戦の将たちが向かっていた。「人の後を行くより、別の場所で戦功を立てん」―そう考えた重成は、徳川軍の意表を突き、警戒が手薄と予測される八尾・若江方面から進出し、家康・秀忠の本営を側面から奇襲するという、極めて大胆な作戦を立案するに至った 7 。
五月六日、未明。重成は当初、午前零時頃の出立を計画していたが、麾下の兵たちの集結が遅れ、実際に出陣できたのは午前二時頃であった 1 。この遅延は、寄せ集めの浪人衆を多く含む豊臣軍の統率の困難さを物語っている。さらに、敵に動きを察知されぬよう、進軍の灯りは提灯一つのみに制限された 7 。暗闇の中での行軍は困難を極め、部隊は途中で道に迷い、沼地で立ち往生するなどの混乱に見舞われた 1 。この事実は、重成自身の若さや、彼の部隊の練度が必ずしも高くなかったことを示唆している。
一方、迎え撃つ徳川方は、周到に布陣を完了していた。河内方面軍の先鋒である藤堂高虎隊は千塚に、井伊直孝隊は楽音寺に陣を構え、豊臣方の出撃に備えていた 4 。彼らの後方には、本多忠朝、前田利常、松平忠直といった大部隊が控え、さらにその後方には家康・秀忠の本営が続くという、幾重にも連なる重厚な陣形であった 1 。幕府軍全体には、家康から「勝手な戦闘は慎むように」との厳命が下されていた 1 。これは、豊臣方の誘い出しや奇襲に乗ることなく、着実に大軍の力で包囲網を狭め、圧殺するという家康の老練な戦略を反映したものであった。
夜明け前の河内の湿地帯で、両軍は静かに対峙した。一方は、主家の命運を双肩に担い、奇襲に全てを賭ける若武者。もう一方は、天下統一の総仕上げを目前にし、慎重に駒を進める巨大な軍団。この時点での両軍の兵力は、以下の通りであった。
表1:八尾・若江の戦いにおける両軍の兵力比較 |
|
陣営 |
豊臣方 |
戦場 |
若江 |
武将 |
木村重成 |
兵力 |
約4,700~6,000 |
(出典: 1 )
この兵力比較から明らかなように、豊臣方は局所的な戦闘においては、徳川方の先鋒部隊と互角、あるいはやや優勢な兵力を投入しようと計画していた。しかし、徳川方には後詰として膨大な予備兵力が存在しており、戦闘が長引けば豊臣方が圧倒的に不利であることは火を見るより明らかであった。重成の作戦が成功するか否かは、ひとえに電撃的な速攻で敵先鋒を粉砕し、後続部隊が到着する前に戦果を挙げられるかにかかっていたのである。
第二章:若江の激闘 ― 慶長二十年五月六日、刻一刻
夜が明け、河内の湿地帯に朝霧が立ち込める頃、運命の歯車が大きく動き始めた。
午前四時~五時:遭遇と開戦
午前四時頃、藤堂高虎の部隊の右先鋒を務めていた甥の藤堂良勝が、若江方面へ向かう木村重成の軍勢を視界に捉えた 1 。報告は直ちに高虎のもとへ届けられた。「勝手な戦闘は慎め」という家康の軍令は、高虎の脳裏をよぎったはずである。しかし、良勝から「豊臣軍は、家康・秀忠公の本営への奇襲を企図しているに相違ない。機を逃さず、直ちに攻撃すべきである」との進言を受けると、高虎は決断を下した 1 。先鋒としての責任感か、あるいは武将としての功名心か、高虎は軍令を破り、独断での開戦を命じた。この決断が、この日の戦端を開くこととなる。
一方、敵の動きを察知した木村重成の対応は迅速であった。午前五時頃、若江に着陣するや否や、麾下の部隊を即座に三手に分けた 1 。右翼の青木七左衛門らの部隊を南方の藤堂勢に備えさせ、左翼の叔父・木村宗明の部隊を北方の岩田村に配置して奈良街道からの攻撃に備え、そして自らは本隊を率いて若江の南端に布陣し、敵を待ち構えた 7 。夜間行軍の混乱があったにもかかわらず、敵との遭遇に際して見せたこの的確な判断は、重成の指揮官としての非凡さを示している。
午前五時~七時:緒戦 ― 木村重成、藤堂勢を撃破す
開戦の火蓋は、藤堂勢の猛攻によって切られた。藤堂高虎の甥である藤堂良勝、そして一族の藤堂良重が率いる部隊が、木村勢の右翼に猛然と襲いかかった 1 。しかし、待ち構えていた木村勢はこれを巧みに迎撃。両軍の鉄砲が火を噴き、白兵戦が繰り広げられる激しい戦闘となった。緒戦の攻防は木村勢に軍配が上がった。藤堂勢は兵の半数を失うという甚大な損害を被り、敗走。先陣を切った藤堂良勝と藤堂良重は、この乱戦の中で討死を遂げた 1 。
緒戦の勝利に、木村勢の士気は天を衝くほどに高まった。勢いに乗った配下の将兵たちが敗走する藤堂勢への追撃を具申したが、重成は冷静にこれを制止した 7 。これは、未明からの行軍と戦闘で疲弊した兵を休ませ、後続のさらなる敵に備えるための、極めて的確な状況判断であった。この時、家臣の飯島三郎右衛門が「既に功を挙げたのですから、一旦城へお戻りになっては」と進言したが、重成は「我、未だ両将軍(家康・秀忠)の首を挙げておらず。局地的な勝利に意味はない」と一蹴したという 7 。彼の目的は、あくまで徳川本営の撃破にあったのである。
午前七時以降:赤備えの転進と玉串川の攻防
若江での戦闘開始の報は、すぐさま周辺の徳川方部隊にも伝わった。当初、軍令通り道明寺方面へ向かっていた井伊直孝は、若江方面から響く銃声と鬨の声に、ただならぬ事態を察知する。老臣たちが「予定通り道明寺へ向かうべき」と進言するのを退け、直孝は独断で部隊を西へ転進させ、苦戦する藤堂勢の救援と木村勢への攻撃を決断した 1 。徳川四天王・井伊直政より受け継がれし「井伊の赤備え」が、戦場の趨勢を決定づけるべく、その進路を変えた瞬間であった。
この新たな脅威に対し、重成は地形を巧みに利用した迎撃戦術を準備した。彼は、戦場の西を流れる玉串川の西側堤防上に鉄砲隊を配置し、敵を湿地の田圃が広がる畦道へと誘引し、そこを集中射撃で殲滅するという巧妙な罠を仕掛けた 1 。もしこの作戦が成功すれば、精強を誇る井伊勢とて、大打撃は免れなかったであろう。
しかし、戦場の神は重成に微笑まなかった。井伊勢の左手先鋒を務める川手良利(良行)は、玉串川の「東側」堤防上から、対岸に布陣する木村勢を発見する。同僚が制止するのも聞かず、川手は堤防上から一斉射撃を浴びせると、そのまま数騎で川を越え、敵陣へと突入した 1 。この猪突猛進ともいえる行動が、重成の描いた戦術的優位を根底から覆した。待ち伏せの態勢を崩された木村勢は西へ後退を余儀なくされ、玉串川の堤防は井伊勢に占拠されてしまう。川手自身はこの突出によって討死を遂げるが、彼の勇猛な行動に刺激された右手先鋒・庵原朝昌の部隊千人もまた、川を越えて突入を開始した 1 。もはや戦術は意味をなさず、玉串川周辺は両軍の兵士が入り乱れる大乱戦の様相を呈した。
終焉:若武者の最期と木村隊の壊滅
未明からの強行軍、そして藤堂勢との激戦、さらに井伊勢との乱戦―。いかに精強な兵といえども、休息なき連続戦闘に疲労の色は隠せなかった 7 。数に勝り、次々と兵を投入してくる井伊の「赤備え」の猛攻の前に、木村隊は徐々に押し込まれ、将兵が次々と討たれていった。
敗色が濃厚となる中、重成は退くことを選ばなかった。自ら槍を手に取り、先頭に立って敵陣へと突撃を敢行する 8 。その姿は、まさに獅子奮迅の働きであったと伝えられる。しかし、衆寡敵せず。壮絶な奮戦の末、井伊家家臣の安藤重勝(一説には庵原朝昌が討ち取ったが、功を安藤に譲ったとも)の槍に斃れた 11 。享年二十三、あまりにも若き将の、戦場での最期であった。
総大将である重成の討死により、木村本隊の統制は完全に崩壊し、壊滅状態に陥った。それまで戦闘を傍観していた徳川方の榊原康勝、丹羽長重らの部隊も、味方の優勢を見て木村勢の左翼に攻撃を開始。叔父・木村宗明が守っていた左翼も支えきれず、大坂城へと敗走した 1 。
この若江の戦いは、各指揮官の「決断」が連鎖反応を引き起こし、戦局を刻一刻と変えていった典型例であった。藤堂高虎の「軍令違反の開戦」、井伊直孝の「独断での転進」、川手良利の「猪突猛進」、そして木村重成自身の「撤退を拒否する決断」。これら一つ一つの選択が、戦場の霧の中で複雑に絡み合い、若き将の死と豊臣方一部隊の壊滅という悲劇的な結末へと繋がっていったのである。
第三章:もう一つの戦場 ― 八尾における長宗我部盛親の奮戦と撤退
木村重成が若江の地で死闘を繰り広げていた頃、そのわずか数キロメートル南の八尾・久宝寺方面でも、もう一つの激戦が展開されていた。ここでは、かつて土佐二十四万石を領した長宗我部盛親が率いる約5,300の兵が、藤堂高虎の本隊と対峙していた 6 。
関ヶ原の合戦で西軍に与し、領国を没収された盛親にとって、この大坂の陣は旧領回復を賭けた再起の戦いであった 10 。彼は久宝寺の地に生えていた高い松の木に物見を登らせ、藤堂軍の動静を的確に把握していたと伝えられる 6 。戦端が開かれると、盛親は老練な戦術を見せる。自軍の兵を長瀬川の堤防の影に伏せさせ、油断して近づいてきた藤堂勢に対し、合図と共に一斉に立ち上がらせ、堤防の上から槍を突き出させた 10 。この奇襲戦法は絶大な効果を発揮し、藤堂本隊は混乱に陥り、多くの死傷者を出して後退を余儀なくされた。八尾の戦場においては、豊臣方が明確に優勢を保っていたのである。
しかし、盛親が勝利を目前にしたその時、戦場の空気を一変させる凶報がもたらされる。若江方面で戦っていた木村重成が討死し、その部隊が壊滅したという知らせであった 10 。この一報は、盛親を窮地に陥れた。若江の木村隊が消滅したことにより、盛親の部隊は徳川方の戦線で孤立することになる。さらに、木村隊を破った井伊直孝の精鋭部隊が、今度は自軍の側面や背後を突いてくる危険性が極めて高まった。
目前の敵を撃破し、勝利の美酒に酔うことはできても、その先には敵中での孤立と全滅が待っている。盛親は、苦渋の決断を迫られた。彼は目前の勝利を放棄し、全部隊に大坂城への撤退を命じた 10 。これにより、八尾の戦いにおける豊臣方の戦果は全て水泡に帰し、藤堂高虎は壊滅の危機を免れた。
若江と八尾の戦いは、物理的には異なる場所で行われた二つの戦闘であったが、戦略的には密接に連動した一つの戦区であった。豊臣方の作戦計画は、この二つの部隊が連携し、河内方面の徳川方先鋒軍を同時に拘束、撃破することにあったはずである。しかし、現実には両部隊間の有効な連携はほとんどなされなかった。長宗我部隊が優勢を築いている間に木村隊は壊滅し、そして木村隊の壊滅が、長宗我部隊の勝利を無に帰せしめた。個々の武将の武勇や戦術的才能は優れていても、部隊間の連絡や相互支援といった近代的な軍事連携の概念を欠いていたことが、豊臣方の戦略的敗北を招いたのである。若江・八尾の戦いは、大坂の陣全体を象徴する、豊臣方の構造的欠陥の縮図であったと言えよう。
第四章:人物像の深層 ― 木村重成、その死の美学
若江の戦いは、木村重成という一人の若武者の死によって、後世に永く記憶されることとなった。彼の生き様と死に様は、戦国乱世の終焉を彩る、悲しくも美しい武士道精神の極致として語り継がれている。
重成の出自は、一説には豊臣秀次の家老であった木村常陸介重茲の子とされる 16 。父・重茲は秀次事件に連座して自刃したが、幼い重成は、豊臣秀頼の乳母であった母・宮内卿局と共に大坂城で保護され、秀頼とは乳兄弟として育ったという 9 。この出自が、彼の豊臣家に対する絶対的な忠誠心の源泉となったことは想像に難くない。
彼は「和国随一の美男」と称されるほどの容姿に恵まれ、その立ち居振る舞いは優雅であったと伝えられるが、一度戦場に立てば、その印象は一変した 12 。大坂冬の陣における今福の戦いでは、初陣とは思えぬ冷静沈着な指揮で佐竹勢の猛攻を防ぎ、逆襲に転じて敵を打ち破るという目覚ましい活躍を見せた 12 。また、冬の陣後の和睦交渉では、豊臣方の使者として徳川家康と対峙。その際、家康が署名した誓書の血判が薄いことを見抜き、「これでは後々の証拠となりませぬ」と堂々と再署名を要求し、天下人の家康を感嘆させたとされる逸話は、彼の剛胆さを示すものとして有名である 12 。
しかし、重成の名を不朽のものとしたのは、若江の戦いに臨むにあたっての、その壮絶な覚悟であった。
最も有名な逸話が、「兜に焚きしめた香」である。彼は出陣の前夜、自らが討ち取られ、その首が敵将の前に晒されることを見越し、兜の中に伽羅や蘭奢待といった名香を焚きしめた 12 。これは、自らの首が見苦しくないようにという美意識の表れであると同時に、首を検分する敵将への敬意を示す、武士としての究極の嗜みであった。『難波戦記』などの軍記物によれば、この香りは妻の青柳(きぬ)が、夫の覚悟を察して焚き込めたとも描かれている 13 。
さらに彼は、出陣に際して食事を断ったという。妻が心配して理由を尋ねると、重成は「昔、後三年の役において瓜割四郎という武者が、矢に射られて首を落とされた際、傷口から朝餉の飯粒がこぼれ出て、物笑いの種となった。討ち取られた後に、そのような見苦しい様を晒すことは武士の恥辱である」と答えたと伝えられる 16 。これもまた、死を前提とした上での、彼の高い矜持を示す逸話である。
戦の合間に恋愛結婚したとされる妻・青柳との悲恋も、彼の物語に彩りを添えている 9 。出陣前夜、最後の盃を交わし、死を覚悟した夫を、妻は静かに見送った。重成の死後、青柳は尼となり、一周忌を終えた後に自害して夫の許へ旅立ったと伝えられている 9 。
そして、若江の戦いの後、重成の首は家康の本陣へと届けられた。首実検のため、兜が外されると、辺りにはえもいわれぬ香りが満ち満ちたという 13 。その見事な死への準備と覚悟に、敵将である家康は「天晴れなる武士よ」と賞賛し、涙を流したと伝えられている 12 。
木村重成の一連の行動は、「いかに生きるか」ではなく、「いかに死ぬか」という武士道における滅びの美学を究極の形で体現したものであった。しかし、この美学は、時に戦略的な合理性と相反する。緒戦で藤堂勢を撃破した後、一旦兵を退いて再起を図るという戦術的選択肢もあったはずである。だが、彼はそれを拒否し、全滅に至るまで戦い抜く道を選んだ 7 。それは、勝利という結果よりも、忠義を尽くして美しく散ることこそを武士の本分とする、彼の価値観がもたらした必然的な帰結であったのかもしれない。豊臣方の敗北は、兵力や戦略の差だけでなく、こうした個々の武将の個人的な死生観が、組織としての勝利という目標と必ずしも一致しなかったことにも、その一因を求めることができるだろう。
結論:若江の戦いがもたらしたもの ― 大坂城、落城への道
慶長二十年五月六日の一日にわたる若江・八尾での激戦は、大坂夏の陣の趨勢を決定づける上で、極めて重大な影響を及ぼした。この戦いは、単なる一局地戦ではなく、豊臣家滅亡への道を決定的に舗装する転換点となったのである。
豊臣方にとって、この戦いがもたらした打撃は致命的であった。木村重成という、若く、将来を嘱望されていた有能な指揮官の喪失は、計り知れない人的損失であった 8 。彼の死は、既に疲弊していた大坂城内の将兵の士気を著しく低下させ、豊臣方の敗北を人々の脳裏に色濃く刻み付けた。また、長宗我部盛親の部隊も、勝利を目前にしながら撤退を余儀なくされ、実質的に戦線を離脱したことで、豊臣方は東方からの脅威に対抗する貴重な戦力を失った。
一方、勝利を収めた徳川方とて、その代償は決して小さくはなかった。藤堂高虎の部隊は、緒戦で甥の良勝・良重をはじめとする一族の有力武将を多数失い、本隊も長宗我部隊の巧みな戦術によって大きな損害を被った 10 。井伊直孝の部隊も、先鋒の川手が討死するなど消耗が激しく、両隊ともに翌五月七日の天王寺・岡山の最終決戦において、先鋒を務めることを辞退せざるを得ないほどの深手を負った 1 。これは、翌日の徳川方の布陣に直接的な影響を与え、最終決戦の様相を少なからず変える要因となった。
さらに、この戦いは思わぬ形で最終決戦への伏線をも生み出した。若江での戦闘を傍観していた越前宰相・松平忠直は、戦後、祖父である家康からその消極的な姿勢を厳しく叱責された 1 。この屈辱が、翌日の天王寺・岡山の戦いにおいて、忠直が汚名返上とばかりに軍令を無視して真田信繁隊へ抜け駆けの突撃を敢行する、大きな動機となったといわれている。若江での出来事が、最終決戦の最も激しい局面の展開にまで、その影響を及ぼしたのである。
若江・八尾の戦いでの勝利により、徳川方は大坂城の南東方面における脅威を完全に排除し、城への包囲網を完成させた。これにより、豊臣方は翌五月七日、天王寺・岡山口での最後の野戦に全てを賭ける以外、道はなくなった。そしてその最終決戦もまた、豊臣方の敗北に終わり、大坂城は炎上。豊臣秀頼と淀殿は自害し、ここに豊臣家は滅亡した。
若江の戦いは、豊臣家にとって最後の希望の光が、若き将の死と共に儚く消え去った戦いであった。そしてそれは、二百数十年にもわたる徳川の治世、すなわち「元和偃武」と呼ばれる泰平の世の到来を告げる、戦国乱世最後の陣痛でもあったのである 2 。若江の堤に立ち込めた朝霧が晴れた時、そこには一つの時代の終わりが、くっきりと姿を現していた。
引用文献
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- 大坂の陣|国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=63
- 大坂の陣 https://www.asahi.co.jp/rekishi/04-09-04/01.htm
- 玉手山と大坂夏の陣 | 大阪府柏原市 https://www.city.kashiwara.lg.jp/docs/2014041800015/
- 平成23年度 定例勉強会 9月例会報告「大坂冬の陣・夏の陣」 http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/11-9/index.html
- 八尾・若江の戦い関連地 - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-632a67.html
- 若江の戦いの解説 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/osaka/kassen/wakae-k.html
- 大坂夏の陣…八尾・若江の戦いと木村重成の凄絶な最期とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2731
- 乱世を生きた戦国武将最後の地を巡る 若江の戦い | きままな旅人 https://blog.eotona.com/%E4%B9%B1%E4%B8%96%E3%82%92%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%9F%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%9C%B0%E3%82%92%E5%B7%A1%E3%82%8B%E3%80%80%E8%8B%A5%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6/
- 大坂夏の陣「八尾・若江の戦い」!長宗我部盛親、木村重成、最後の戦い跡へ https://favoriteslibrary-castletour.com/chosokabe-kimura-yao-wakae/
- 木村重成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%87%8D%E6%88%90
- 木村重成 戦国最後の『滅びの美学』を体現した、23歳の完璧なる最期 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=OJyyeXfBjg8
- 『木村長門守重成の最期』あらすじ - 講談るうむ http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/02-35_kimurasigenarisaigo.htm
- 若江の戦い【豊臣の若武者・木村重成の最期の戦いである大坂夏の陣】 - 土岐日記 https://ibispedia.com/wakaenotatakai
- 八尾の戦い【長宗我部盛親が藤堂高虎に勝利した、大坂夏の陣】 - 土岐日記 https://ibispedia.com/yaonotatakai
- 木村重成~妻・青柳との別れと意外な最期 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5279
- 落語の「粗忽の使者」が大好きである。子供の頃 - 大阪大谷大学機関リポジトリ https://osaka-ohtani.repo.nii.ac.jp/record/2000186/files/38(29-46)%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%9C%AD%E4%B8%80.pdf
- 徳川家康も惜しんだ男!戦国きってのイケメン武将、木村重成。23歳の最期の覚悟とは - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/128297/
- 死への覚悟がアッパレ! 木村重成という漢 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/5344/
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- 名言集・木村重成編 - 戦国浪漫・面白エピソード - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sen-epsk.html