英賀城の戦い(1580)
播磨平定の最終章:天正八年・英賀城の戦い 詳細報告
序章:播磨平定、最後の一手
天正8年(1580年)に繰り広げられた「英賀城の戦い」は、単なる一地方の城をめぐる攻防戦ではない。これは、織田信長の天下統一事業の一環として、羽柴秀吉が総司令官を務めた中国方面軍による播磨国平定作戦の、最終段階を飾る極めて重要な合戦であった。
天正5年(1577年)10月、秀吉が織田の大軍を率いて播磨に入国して以降、この地は東の織田氏と西の毛利氏という二大勢力が激突する最前線と化した 1 。当初は秀吉に恭順の意を示していた播磨の国人衆も、やがて毛利方へ寝返る者が続出する。その中でも最大の抵抗勢力となったのが、東播磨の雄・別所長治であった。天正6年(1578年)に長治が三木城に籠城すると、秀吉はこれを徹底的な兵糧攻めに処した。世に言う「三木の干殺し」である 3 。約2年にも及ぶ凄惨な籠城戦の末、天正8年(1580年)1月17日、城兵の助命を条件に別所長治とその一族が自刃し、三木城はついに開城した 4 。
この三木城の陥落は、播磨における反織田勢力にとって致命的な打撃であった。三木城は単に一つの堅城であっただけでなく、毛利氏からの兵糧や物資援助を受け入れる反織田連合の中核拠点であり、英賀城の三木氏も海上輸送で三木城を支援するなど、密接に連携していた 3 。その中核が失われたことで、他の反織田勢力は戦略的に完全に孤立するに至った。この時点で、播磨国内でなおも織田への反旗を明確に掲げる主要な城郭は、西播磨の英賀城(城主:三木通秋)と、宍粟郡の長水山城(城主:宇野政頼)の二つに絞られていた 4 。
したがって、秀吉が次なる標的として英賀城に狙いを定めたのは、単なる戦の順番ではなく、戦略的孤立という好機を的確に突いた、極めて合理的な軍事行動であった。播磨の完全平定、そしてその先の毛利氏本国への侵攻を見据えた時、瀬戸内海の要衝に位置する英賀城の制圧は、避けては通れない次の一手だったのである。
第1章:英賀城と三木氏 – 瀬戸内の要衝に拠る反骨の門徒衆
羽柴秀吉が次なる目標とした英賀城は、決して侮ることのできない難攻不落の要塞であった。その強固さは、地形的利点、城主の権勢、そして何よりも城内に満ちる強固な信仰心という三つの要素によって成り立っていた。
播磨三大城の威容と「水城」の構造
英賀城は、別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並び、「播磨三大城」と称されるほどの規模と堅固さを誇った城郭であった 9 。その最大の特徴は、巧みに自然地形を利用した「水城」としての構造にある。城の西には夢前川、東には水尾川が流れ、天然の外堀を形成。北には「牛が腹まで浸かって田を鋤く」と形容されるほどの広大な泥湿地帯が広がり、陸路からの大軍の接近を阻んだ 4 。そして南は播磨灘、瀬戸内海に直接面しており、城内深くに田井ヶ浜を引き込んだ天然の良港を備えていた 11 。この四方を水に囲まれた立地から、別名「岩繋城(いわつきじょう)」とも呼ばれ、その防御力は播磨屈指とされた 11 。
城主・三木氏の系譜と勢力
この要害を支配したのは、伊予国の名門・河野氏の流れを汲むとされる三木氏である 12 。嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱以降に英賀の地に入部し、約140年間にわたって播磨西部に勢力を築き上げた 12 。彼らは単なる在地領主にとどまらず、城が持つ港湾機能を活かして瀬戸内海の水運にも影響力を持つ有力な一族であった 11 。
信仰の砦 – 英賀御堂と本願寺との絆
英賀城の特異性を最もよく表しているのが、その宗教的性格である。城内には浄土真宗本願寺教団の播磨における一大拠点、「英賀御堂」と称された本徳寺が置かれ、城郭と寺院が一体化した「寺内町」を形成していた 11 。城主の三木氏自身が熱心な門徒であり、そのもとに集う家臣や領民たちは「英賀門徒」と呼ばれる強固な信仰共同体を築いていた 11 。
この事実は、英賀城の戦いを理解する上で決定的に重要である。当時、織田信長は石山本願寺と10年以上にわたる死闘(石山合戦)を繰り広げており、本願寺門徒にとって信長は「仏敵」に他ならなかった 15 。英賀城の籠城者たちにとって、秀吉軍との戦いは、自らの領地と主君を守るための軍事行動であると同時に、信長の支配に抗い、自らの信仰を守り抜くための「聖戦」という側面を色濃く帯びていた。この宗教的情熱こそが、彼らの徹底抗戦を支える精神的な柱となったのである。
この宗教的な繋がりは、必然的に毛利氏との連携へと発展した。石山本願寺を支援していた毛利氏と、同じく門徒である三木氏の利害は完全に一致しており、天正5年(1576年)には毛利水軍を英賀の港に上陸させるなど、具体的な軍事同盟関係を築いていた 1 。
第2章:【本編】天正八年 英賀城攻防戦 – 刻一刻
三木城陥落から約2ヶ月後、播磨平定の最終局面として、羽柴秀吉の視線は西播磨の英賀城へと注がれた。以下に、毛利軍との前哨戦から英賀城の落城に至るまでの経緯を、時系列で詳細に追う。
表1:播磨平定最終局面 タイムライン(天正8年1月~5月)
日付(天正8年) |
羽柴秀吉軍の動向 |
反織田勢力(英賀城・毛利など)の動向 |
考察・意義 |
1月17日 |
三木城を開城させ、別所氏を滅ぼす。その後、兵の休養のため一時的に近江・長浜へ帰還 7 。 |
三木城が陥落。英賀城は播磨における最大の同盟者を失い、戦略的に孤立する。 |
三木合戦の終結。秀吉は播磨平定の9割を達成。 |
3月2日 |
秀吉、三木城へ帰還。城下の復興と、備前国境への部隊展開を指示 7 。 |
毛利輝元、秀吉の西進を牽制するため、備前・美作方面へ軍を進出させる 4 。 |
秀吉、播磨平定の総仕上げと対毛利戦線の構築を同時に開始。 |
3月17日 |
秀吉、自ら出陣。宇喜多勢を先鋒に毛利勢と対峙 7 。 |
毛利勢、播磨国境付近に布陣し、織田方を威嚇。 |
織田・毛利の全面衝突の緊張が高まる。 |
3月27日 |
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秀吉の迅速な出陣を知り、全面衝突を回避して撤退 4 。 |
毛利の牽制は失敗。秀吉は動員した軍勢の矛先を転換する好機を得る。 |
3月29日 |
矛先を転じ、弟・秀長を総大将として英賀城を包囲 7 。 |
城主・三木通秋、籠城戦を開始。徹底抗戦の構えを見せる。 |
英賀城の戦いが本格的に開戦。 |
4月24日 |
『信長公記』に「阿賀の寺内」が開城したとの記録が残る 17 。 |
|
織田方による公式な平定完了日か。 |
5月10日 |
最後の抵抗拠点、長水山城を攻略。播磨国を完全に平定する 7 。 |
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秀吉による播磨平定作戦が完了。中国攻めの後背地が完全に安定する。 |
前哨:毛利の影と秀吉の決断(天正8年2月~3月)
三木城を落とした秀吉は、疲弊した軍勢を休ませるため、一旦、居城である近江長浜へと帰還した 7 。しかし、その休息は短かった。3月2日には早くも三木城へ戻り、城下の復興に着手すると同時に、西の毛利領との国境線へ部隊を展開させ、次なる戦いに備えた 7 。
その動きを察知した毛利輝元は、秀吉のさらなる西進を阻止すべく、備前・美作方面へ軍を動かし、国境付近で織田方を牽制した 4 。これに対し、秀吉は3月17日に自ら出陣。毛利から寝返った宇喜多直家の軍勢を最前線に立て、毛利軍と対峙する構えを見せた 7 。播磨国境を舞台に、織田と毛利の全面衝突が現実味を帯びた瞬間であった。しかし、秀吉のあまりに迅速な対応を見た毛利勢は、決戦を望まなかったのか、3月27日に突如として撤退を開始した 4 。
この毛利の動きは、結果として秀吉に利することとなった。毛利との決戦のために動員した大軍の力を削ぐことなく、その矛先を播磨国内に残る最後の抵抗拠点、英賀城へと転じる絶好の機会を得たのである 4 。
包囲と攻防:難攻不落の水城(3月29日~4月中旬)
天正8年3月29日、羽柴秀長を総大将とする織田軍が英賀城を完全に包囲した 4 。城の北東に位置する「清水構」には宮部善祥坊が布陣するなど、攻城の態勢は整えられた 11 。
対する籠城側も、この戦いを予期していた。城主・三木通秋は前年の冬から金銀や兵糧、武具を城内に運び込み、籠城に備えていた 4 。秀吉軍は城に総攻撃を仕掛けたが、川と泥濘に守られた天然の要害を前に攻めあぐねた 12 。特に、城主通秋の嫡子で当時18歳であった三木安明(右馬助)は、若武者ながら獅子奮迅の働きを見せ、城兵の士気は非常に高かったと伝えられる 4 。
激しい抵抗に直面した秀吉軍は、いたずらに兵を損なうことを避け、一度は和議による開城を申し入れた。しかし、英賀城側はこれを断固として拒絶した 4 。前述の通り、彼らにとってこの戦いは信仰を守るための聖戦であり、容易に降伏という選択肢を取れるものではなかったのである。
調略:黒田官兵衛の暗躍と内部からの崩壊
力攻めでは多大な犠牲が出ると判断した秀吉は、軍師・黒田官兵衛の献策もあったとされ、得意とする調略戦へと戦術を切り替えた 19 。孫子の兵法にある「戦わずして人の兵を屈する」を体現する官兵衛の知略が、この膠着した戦況を動かすことになる 20 。
秀吉は、城の守将数名に狙いを定め、内応工作を開始した。『英城記』などの郷土史料によれば、城の「河下口」を守備していた三木与一兵衛ら5人の武将がその標的となった 4 。秀吉は彼らに対し、50石の知行を約束する朱印状を与えて寝返りを促し、これに成功した 4 。さらに、内応者から城の防衛における弱点、すなわち陸路に比べて警備が手薄になっている海側からの進入路に関する極めて重要な情報を引き出した。
この情報を基に、秀吉は奇襲作戦を立案する。飾磨の浦で漁船を多数借り集め、夜陰に乗じて海側から部隊を上陸させ、内応者による城内での放火を合図に内外から一斉に攻めかかるという計画であった 18 。
落城:炎と裏切りの夜
決行の夜、秀吉の別動隊は漁船に分乗し、静かに城の背後、田井ヶ浜へと回り込んだ 18 。そして、かねてからの打ち合わせ通り、城内から火の手が上がった。これを合図に、内応者は河下口の門を内から開け放ち、城外で待ち構えていた秀吉軍本隊が鬨の声を上げて城内へとなだれ込んだ 4 。
背後からの奇襲と内部からの放火、そして正面からの突入という三方向からの攻撃に、城内は大混乱に陥った。不意を突かれた籠城側は必死に防戦したものの、もはや組織的な抵抗は不可能であった。この修羅場の中、城主・三木通秋と嫡子・安明は、僅かな手勢とともに血路を開き、海路で九州方面へと脱出した 11 。
この戦いによる英賀城側の犠牲は甚大で、三木一族郎党170余名、その他の侍や雑兵を合わせて823名が討死したと記録されている 18 。
興味深いことに、この落城の日付については史料によって差異が見られる。敗者側の記録である『英城記』や『英城日記』は落城を「天正8年2月13日」としているのに対し 16 、勝者である織田方の公式記録『信長公記』は「4月24日」に「阿賀の寺内」が開城したと記している 17 。この2ヶ月以上の隔たりは、単なる記録の誤りとは考えにくい。一つの可能性として、「2月13日」は内応と奇襲によって本丸が陥落し、城主父子が脱出した「事実上の落城日」であり、一方の「4月24日」は、城内に立てこもっていた門徒らの残党勢力の掃討が完了し、秀吉が信長に対して播磨平定を正式に報告した「公式の制圧完了日」であったと推測できる。この日付の齟齬は、一つの戦いの終結が、敗者と勝者それぞれの立場から異なる時点として認識されていたことを示唆しており、歴史を複眼的に捉える重要性を示している。
第3章:戦後の帰結 – 播磨平定の完了と中国攻めの新局面
英賀城の陥落は、単に一つの城が落ちたという以上の、広範な戦略的・政治的影響を及ぼした。それは播磨一国の運命を決定づけ、秀吉の中国攻めを新たな段階へと進めるための重要な布石となった。
播磨の完全平定
英賀城を制圧した秀吉軍は、間髪入れずに播磨国内に残る最後の抵抗拠点、宍粟郡の長水山城へと軍を進めた 7 。そして天正8年5月10日、長水山城も陥落。これにより、約2年半に及んだ秀吉の播磨平定作戦は、ついに完了した 7 。平定後、秀吉は置塩城や御着城など、播磨国内の戦略的に不要となった城郭の破却(城割り)を命じ、織田家の支配体制を盤石なものとするための新たな統治構造の構築に着手した 21 。
戦略的意義の確立
英賀城の攻略がもたらした戦略的価値は計り知れない。第一に、播磨灘に面した重要港湾である英賀の港を支配下に置いたことで、秀吉は瀬戸内海の制海権をより強固なものとした。これは、これから本格化する中国攻めにおいて、水運を利用した兵員輸送や兵站(補給)線の安定に決定的な意味を持った。
第二に、播磨一国を完全に掌握したことで、秀吉は後背の憂いを完全に断ち切ることができた。これにより、全戦力を西の毛利氏との直接対決に集中させることが可能となったのである。この戦いの帰結は、黒田官兵衛から献上された姫路城の戦略的価値を飛躍的に高める触媒となった。英賀城をはじめとする反抗勢力が存在する間、姫路城は敵中に位置する「最前線基地」に過ぎなかったが、播磨が完全に平定されたことで、初めて「安全な後方兵站基地」兼「中国方面軍の巨大な司令部」として、その真価を発揮できるようになったのである 1 。英賀という港湾都市の機能が相対的に低下し、姫路にその中心が移っていくという、地域の歴史的転換点ともなった 18 。
敗者のその後
戦に敗れ、九州へと落ち延びた城主・三木通秋と嫡子・安明であったが、その命脈は絶たれなかった。2年後の天正10年(1582年)、本能寺の変を経て天下人への道を歩み始めた秀吉から赦免され、旧領である英賀への帰参を許されたのである 11 。彼らは「郷土頭」として英賀に永住し、姓を旧姓の河野に改めたが、その血筋は明治時代に至って途絶えたと伝えられる 11 。敵将を討ち取らずに逃し、さらに後日赦免するという秀吉の処遇は、敵対者を根絶やしにすることも多かった主君・信長のやり方とは一線を画すものであった。これは、秀吉独自の人心掌握術の一端を示す事例であり、武力による制圧後の統治までを見据えた、彼の政治家としての一面を物語っている 22 。
結論:歴史に埋もれた要衝の戦いが語るもの
天正8年の英賀城の戦いは、関ヶ原の戦いや大坂の陣のような天下分け目の決戦に比べれば、その知名度は低いかもしれない。しかし、その歴史的意義は決して小さくはない。
第一に、この戦いは羽柴秀吉の戦術家としての完成度の高さを見事に示している。天然の要害を前にした力攻めの非効率を悟るや、即座に調略へと切り替え、内部から敵を崩壊させる。この状況に応じた柔軟な戦術の使い分けは、後の備中高松城の水攻めにも通じる、秀吉の真骨頂であった。
第二に、この戦いは播磨における中世的な在地勢力の最後の抵抗の終焉を象徴している。地域の誇りと強固な信仰心を支えに戦った英賀の三木氏と門徒衆は、織田という中央集権的な統一権力の圧倒的な軍事力と巧みな政治工作の前に屈した。これは、戦国乱世が終焉に向かい、新たな時代へと移行していく大きな歴史の流れを体現する出来事であった。
そして最も重要な点は、この勝利が秀吉の中国攻めにおける確かな布石となったことである。播磨を完全に掌握し、姫路城を盤石な前線基地としたことで、秀吉は毛利氏との本格的な総力戦に臨むための強固な足場を築いた。英賀城の戦いは、秀吉が天下人へと駆け上がる道筋において、見過ごされがちではあるが、決して欠かすことのできない重要な一里塚だったのである。
最後に、この戦いの実像が、『信長公記』のような勝者の公式記録のみならず、『英城記』や『英城日記』といった敗者側の視点から書かれた郷土史料によって、より立体的に浮かび上がってくる点は注目に値する 23 。歴史とは、常に多角的な視点からの検証によって、その深みを増すものである。英賀城の戦いは、その事実を我々に静かに語りかけている。
引用文献
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- 中国攻め(ちゅうごくぜめ) - ヒストリスト https://www.historist.jp/word_j_chi/entry/034971/
- 三木合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%90%88%E6%88%A6
- 歴史の風景-播磨伝説異聞-212城影を追って 英賀城本丸跡 - DTI http://www.aurora.dti.ne.jp/~atorasu/p05/essey212.html
- 天正8年(1580)1月17日は羽柴秀吉が別所長治の籠る播磨の三木城を兵糧攻めで攻略した日。信長の中国攻略に協力した長治が天正6年2月に突如として毛利に内応して籠城。三木の干殺しと呼ばれる2年 - note https://note.com/ryobeokada/n/n789d414cf193
- 秀吉が2年に渡って兵糧攻めを行った「三木合戦」の顛末。別所長治ら戦国武将の凄惨な最期とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/70936/
- BTG『大陸西遊記』~日本 兵庫県 三木の干殺し「秀吉の播磨侵攻 ... https://www.iobtg.com/J.Miki.htm
- 豊臣秀吉の合戦年表 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84551/
- 英賀城の見所と写真・200人城主の評価(兵庫県姫路市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/558/
- 【三木合戦】播磨三城の戦い - 武楽衆 甲冑制作・レンタル https://murakushu.net/blog/2022/07/30/mikikassen_gochaku_aga/
- 英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史 https://amago.hatenablog.com/entry/2015/01/02/145903
- 英賀城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kinki/aga.j/aga.j.html
- 武家家伝_英賀三木氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aga_miki.html
- 官兵衛を助けた英賀城主三木氏 - 武楽衆 甲冑制作・レンタル https://murakushu.net/blog/2022/03/07/agajyou/
- 黒田官兵衛の合戦の地、中世の城下町&寺内町「英賀」 - メールマガジン https://www.himeji-kanko.jp/fc/article.php?eid=00069
- 西木文庫「英賀城史」 https://www.agajinja.jp/nishiki-agajyo/
- 信長公記|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 ... https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2030
- 大正6年創刊|播磨時報|特別寄稿 軍師官兵衛・番外編 記録にない ... https://www.h-jihou.jp/feature/kuroda_kanbee/1612/
- 黒田官兵衛-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44327/
- 黒田官兵衛に学ぶ経営戦略の奥義“戦わずして勝つ!” https://sengoku.biz/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AE%98%E5%85%B5%E8%A1%9B%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E7%B5%8C%E5%96%B6%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%81%AE%E5%A5%A5%E7%BE%A9%E6%88%A6%E3%82%8F%E3%81%9A%E3%81%97%E3%81%A6
- 姫路城年表 - ひょうご歴史ステーション - 兵庫県教育委員会 https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/sp/rekihaku-db/castle/himeji-chronology/index.html
- 西木文庫 - 英賀神社 https://www.agajinja.jp/nishiki/
- 特別寄稿 軍師官兵衛・番外編(一) 記録にない秀吉の英賀城攻め 三木公平 - 播磨時報 https://www.h-jihou.jp/feature/kuroda_kanbee/1600/