最終更新日 2025-08-29

葛尾城の戦い(1564)

葛尾城の戦いは1553年、武田信玄が調略で村上義清を追い詰め陥落。義清は一時奪還するも越後へ敗走し、川中島の戦いの引き金となった。

信濃の巨星、墜つ ― 葛尾城の戦い(天文二十二年) 全貌

序章: 北信濃の風雲

日本の戦国史において、一城の攻防が地域の勢力図を塗り替え、ひいては天下の動静にまで影響を及ぼすことは稀ではない。天文二十二年(1553年)に繰り広げられた「葛尾城の戦い」は、まさにその典型であった。この戦いは、単に北信濃の名族・村上氏の没落を決定づけただけでなく、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信という二人の巨星を、川中島という宿命の舞台へと引きずり出す直接の引き金となったのである。本報告書は、利用者様が提示された年号(1564年)とは異なる、史実上の主要な戦闘が発生した天文二十二年(1553年)の事象を主軸に据え、その前史から合戦のリアルタイムな経過、そして歴史的帰結までを徹底的に詳解するものである。

甲斐の虎、武田晴信(信玄)の信濃侵攻戦略の全体像

甲斐国主の座を父・信虎から継いだ武田晴信(後の信玄)にとって、信濃国の平定は宿願であった 1 。山国である甲斐の経済的限界を突破し、豊かな穀倉地帯と上洛への足掛かりを確保するため、信濃侵攻は戦略的必然性を帯びていた 1 。晴信の戦略は周到かつ段階的であった。まず、天文十一年(1542年)、諏訪郡の有力国衆・諏訪頼重を謀略を用いて滅ぼし、信濃侵攻の最重要拠点となる諏訪盆地を掌握する 1 。ここを基点として、伊那、佐久へと着実に勢力を拡大。その過程で晴信は、単なる武力による制圧だけでなく、敵対勢力の内部分裂を誘う調略や、降伏した者を許さず一族郎党を根絶やしにするなどの恐怖政治を巧みに使い分け、信濃の国衆を切り崩していった 4 。晴信の最終目標は、北信濃から越後国境にまで広がる川中島一帯の肥沃な土地であり、その支配は武田家の将来を左右するほどの重要性を持っていた 3

北信濃に君臨する雄、村上義清の勢力と人物像

その晴信の前に、最大の障壁として立ちはだかったのが、北信濃に君臨する村上義清であった。清和源氏頼清流を祖とする名門・村上氏は、埴科郡の葛尾城を本拠とし、義清の代には佐久、小県、埴科、水内、高井といった信濃の東部から北部にかけて広大な領域を支配下に収め、その最盛期を迎えていた 5 。義清は、個人の武勇に優れ、地域の国人衆を束ねる盟主として絶大な影響力を持っていた。しかし、その支配体制は、中央集権的な戦国大名とは異なり、独立性の高い国衆の連合体という側面が強く、構成員の結束力に依存するという構造的な脆弱性を内包していた。

両雄、激突す ― 上田原の戦いと砥石崩れが残した遺恨

晴信の信濃侵攻が北へ進むにつれ、両雄の衝突は避けられないものとなった。そして、二度にわたる直接対決において、村上義清は晴信に屈辱的な大敗を味合わせる。一度目は天文十七年(1548年)の「上田原の戦い」。この戦いで武田軍は重臣の板垣信方、甘利虎泰を失うという手痛い敗北を喫した。そして二度目が、天文十九年(1550年)の「砥石崩れ」である 7

義清の支城である砥石城を包囲した晴信に対し、義清は自ら後詰の軍を率いて武田軍の背後を強襲。これにより武田軍は総崩れとなり、足軽大将の横田高松をはじめ約1,000人もの将兵を失うという、晴信の生涯でも最大級の惨敗となった 9 。この二度の敗北は、晴信の自尊心を深く傷つけると同時に、極めて重要な教訓を残した。それは、村上義清という猛将と正面から武力でぶつかることの危険性である。この経験こそが、晴信をして、その後の対村上戦略を、武力一辺倒から謀略を主軸としたものへと大きく転換させる決定的な要因となったのである 12 。葛尾城の戦いは、この「砥石崩れ」の雪辱戦という側面を色濃く持っていた。

表1:葛尾城の戦い 主要関係者一覧

勢力

主要人物

役職・拠点

動向

武田方

武田晴信(信玄)

総大将

信濃侵攻を主導。調略を駆使し村上氏を追い詰める。

真田幸隆

調略担当

砥石城を調略で攻略。村上配下の国衆切り崩しで活躍。

秋山信友(虎繁)

部将

葛尾城の第一次落城後、戦後処理を担当したとされる 13

於曾源八郎

葛尾城将

第一次落城後の城将となるが、村上軍の反撃により討死 14

村上方

村上義清

総大将・葛尾城主

北信濃の雄。武田軍に二度勝利するも、家臣の離反により敗走。

滝沢能登守

葛尾城守将

奮戦するも、武田に内通した重臣の計略により城を失う 15

小島兵庫助

孤落城代

大須賀久兵衛の謀反により討ち取られる 16

離反勢力

屋代政国

屋代郷領主

村上氏の一族であったが、武田方に寝返り、村上氏孤立の一因となる 17

塩崎氏

塩崎郷領主

武田方の圧力により従属 17

大須賀久兵衛

孤落城

真田幸隆の調略に応じ、孤落城で謀反を起こす 16

援軍

長尾景虎(上杉謙信)

越後国主

義清の救援要請に応じ信濃へ出兵。第一次川中島の戦いを引き起こす。

第一章: 崩れゆく牙城 ― 調略の影

「砥石崩れ」の敗北以降、武田晴信は村上義清に対する戦略を根本から見直した。力攻めの限界を悟った晴信は、義清本人という強固な「本丸」を直接攻撃するのではなく、彼を支える国人衆という「外堀」から崩していく、緻密な調略戦へと舵を切った。この静かなる戦いの主役を演じたのが、かつて村上氏らによって所領を追われ、武田家に仕官していた真田幸隆であった 5

真田幸隆、動く ― 砥石城、一夜の陥落

天文二十年(1551年)五月、前年に晴信が7,000の大軍を以てしても陥落させられなかった砥石城が、にわかには信じがたい形で武田の手に落ちる 8 。真田幸隆が、武力ではなく調略によって、わずか一夜で攻略したのである 8 。その具体的な方法は定かではないが、城内の地理に明るい幸隆が、政治工作によって内部から切り崩したとされている 21 。特に、城の足軽大将であった矢沢頼綱(幸隆の実弟)が内通していたことが、この電撃的な陥落の決め手となったと考えられている 5

この出来事が村上方に与えた衝撃は、単に軍事的な要衝を一つ失ったというレベルを遥かに超えていた。「砥石崩れ」で武田の大軍を退けたという村上方の誇りは打ち砕かれ、「武田に二度も勝利した義清ですら、内部からの裏切りには抗えない」という事実が、彼を支える国人衆の心に深い動揺と不信の種を蒔いた。義清の権威は大きく揺らぎ、村上連合の結束に初めて深刻な亀裂が入った瞬間であった 5

切り崩される村上方国衆 ― 屋代氏、塩崎氏らの離反

砥石城の陥落を契機に、武田方の調略はさらに勢いを増し、村上氏の勢力基盤は内側から静かに、しかし確実に蝕まれていった。武田方は、村上配下の国人衆に対し、所領安堵を条件に次々と寝返りを促した。

この調略は、単なる個別の裏切りを誘うものではなく、地理的状況を計算し尽くした、戦略的な包囲網の構築プロセスであった。まず、葛尾城の南に位置する有力な一族、屋代政国が武田方に降る 17 。続いて、葛尾城の北方を固める塩崎氏も武田方に従属した 17 。さらに、千曲川対岸の支城である狐落城では、城兵の大須賀久兵衛が真田幸隆の調略に応じて謀反を起こし、城代の小島兵庫助を討ち取った 16

これにより、村上義清は本拠地・葛尾城において、南北の連絡路を完全に遮断され、地理的に孤立無援の状態に陥った。この物理的な包囲網の完成は、他の国人衆に強烈な心理的圧迫感を与えた。「もはや村上方に未来はない」「武田に降らなければ滅ぼされる」という空気が蔓延し、さらなる離反を誘発する負の連鎖が始まったのである 19 。晴信と幸隆は、大軍を動かす前に、情報と人心を巧みに操ることで、義清が戦う前から勝敗がほぼ決している状況を、周到に作り上げていた。葛尾城は、まさに裸の王様と化そうとしていた。

第二章: 葛尾城、落城と奪還の激動(天文二十二年) ― 合戦の時系列詳解

天文二十二年(1553年)、武田晴信による葛尾城攻略作戦は最終段階へと移行した。この年、葛尾城は落城、奪還、そして再度の陥落という、目まぐるしい運命を辿る。ここでは、利用者様の「合戦中のリアルタイムな状態がわかるように」というご要望に応えるべく、日付を追いながら、両軍の応酬を克明に再現する。

表2:葛尾城攻防 詳細年表(天文二十二年 / 1553年)

年月日

武田軍の動向

村上軍の動向

備考

1月28日

晴信、出陣の意図を「砥石城再興」と偽装するよう指示 19

巧妙な情報操作で村上方を油断させる。

4月上旬

葛尾城を完全に包囲。支城の狐落城・荒砥城を攻略 15

義清の退路を断ち、孤立させる。

4月9日

葛尾城へ無血入城(自落) 8

義清、戦わずして葛尾城を脱出、北信濃へ逃れる 19

第一次落城。籠城戦を断念。

4月22日

八幡(更埴市)にて村上軍の反撃を受け敗北 14

5,000の兵を率いて反撃開始(布施・八幡の戦い)。

義清の驚異的な反攻能力を示す。

4月23日

城将・於曾源八郎が討たれ、葛尾城を奪われる 14

葛尾城を電撃的に奪還。

武田方の戦後処理の甘さを露呈。

5月

晴信、甲府へ一時帰陣 14

葛尾城・塩田城を拠点に旧領を一時的に回復 15

嫡男・義信の元服の儀式が理由とされる 14

7月末

晴信、万全の体制で再度信濃へ侵攻。

8月

葛尾城を再度攻略し、塩田城にも迫る 8

義清、葛尾城・塩田城を放棄し、越後へ敗走 8

第二次・最終落城。村上氏の信濃支配終焉。

【1553年1月~3月】武田軍、出陣の偽装と準備

天文二十二年正月、晴信は葛尾城への総攻撃を決定するが、その動きは極めて慎重であった。一月二十八日付の書状において、晴信は家臣に対し、今回の出兵の目的を、表向きは「砥石城の再興普請のため」と触れ回るよう厳命している 19 。これは、村上方の警戒心を解き、油断を誘うための巧妙な情報操作であった。水面下では着々と侵攻準備が進められ、北信濃の緊張は静かに高まっていった。

【1553年4月上旬】葛尾城包囲網の完成

四月に入り、武田軍はついに本格的な行動を開始した。軍勢は葛尾城の搦手(裏口)にあたる往還道から攻め寄せ、千曲川の右岸で葛尾城の支えとなっていた狐落城、荒砥城を相次いで陥落させた 15 。これにより、すでに南北を寝返った国衆によって塞がれていた葛尾城は、東西の防御線をも失い、文字通り四面楚歌の状態に陥った。

【1553年4月9日】第一次落城:村上義清、戦わずして城を脱出

味方であったはずの国衆は次々と武田に下り、頼みの支城も失陥。城内に籠もっても、援軍の当てもなく、兵糧攻めに遭うのは時間の問題であった。この絶望的な状況を前に、猛将・村上義清は苦渋の決断を下す。籠城による玉砕ではなく、中核となる兵力を温存して再起を図る道を選んだのである。四月九日、武田軍が葛尾城に迫った時、城はすでにもぬけの殻であった 19 。義清は、戦わずして本拠地を捨て、一族郎党と共に北信濃へと落ち延びていった 6

【1553年4月22日~23日】電光石火の反撃:布施・八幡の戦いと葛尾城の奪還

義清が戦わずして逃亡したという事実は、武田方に「村上氏はもはや終わりだ」という油断を生じさせた可能性がある。しかし、彼らは義清という武将の真価を見誤っていた。義清は単に敗走したのではなく、反撃の機会を窺うための戦略的撤退を行ったのである。

葛尾城を捨ててから、わずか13日後の四月二十二日。義清は北信濃で素早く体勢を立て直し、5,000もの兵力を集めて電光石火の反撃に転じた 14 。村上軍は八幡(現在の千曲市)付近で武田軍を急襲し、これを撃破(布施・八幡の戦い) 15 。その勢いのまま、翌二十三日には葛尾城へ攻め寄せた。守備が手薄だった武田方は持ちこたえられず、城将に任じられていた於曾源八郎は討ち死にし、葛尾城は再び義清の手に奪い返されたのである 14 。この一連の動きは、逆境における義清の驚異的な統率力と軍事行動力を示すと同時に、調略で得た城の戦後処理がいかに難しいかを物語っている。

【1553年5月~7月】束の間の静寂

予期せぬ反撃によって葛尾城を失った晴信であったが、すぐには再攻撃を行わず、五月には甲府へと一時帰陣した 14 。これには重要な理由があった。当時、室町幕府第十三代将軍・足利義輝からの使者を甲府に迎えており、晴信の嫡男・太郎(後の武田義信)が、将軍の名前から一字を拝領して元服するという、武田家にとって極めて重要な儀式が控えていたからである 14 。この間、義清は奪還した葛尾城や塩田城を拠点に、失地回復を進め、北信濃は束の間の静寂を取り戻した 15

【1553年7月末~8月】第二次侵攻と最終決着

嫡男・義信の元服という大儀を終えた晴信は、七月末、満を持して第二次侵攻を開始した。今度は油断なく、万全の体制で整えられた大軍であった。一度は城を奪い返した義清であったが、家臣団の動揺と兵力差はいかんともしがたく、武田軍の圧倒的な圧力の前に、再び窮地に追い込まれる。八月、葛尾城は再度武田軍の手に落ち、義清は塩田城からも撤退を余儀なくされた 8 。もはや信濃国内に再起を図る地はないと悟った義清は、ついに故郷を捨てる決断を下し、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びていった 8 。この悲壮な敗走の際には、義清の奥方が千曲川を渡る舟の船頭に、感謝のしるしとして髪に差していた高価な笄(こうがい)を渡したという「笄の渡し」の伝説が残されている 7

城郭の視点から:葛尾城の縄張りと防御施設

葛尾城が、なぜ晴信に正面からの力攻めを躊躇させ、調略という間接的な戦術を選ばせたのか。その答えは、城の構造にある。葛尾城は、急峻な山の地形を巧みに利用した天然の要害であった。主郭を中心に複数の郭(くるわ)が階段状に配置され、敵が侵入しうる尾根筋は、深く鋭い堀切(ほりきり)や、二重の堀切によって厳重に遮断されていた 24 。また、斜面を人工的に削り出して作られた切岸(きりぎし)は、ほぼ垂直に切り立ち、兵が容易によじ登ることを許さなかった 24 。このような堅固な防御施設が、大軍による力攻めを非効率かつ損害の大きいものにすると判断させた一因と考えられる。城の縄張り(設計)そのものが、合戦の様相を規定した好例と言えよう。

第三章: その後の波紋

葛尾城の陥落と村上義清の越後への敗走は、単に北信濃の一勢力の興亡に留まらなかった。この出来事は、戦国史の大きなうねりを生み出す巨大な波紋を広げ、新たな時代の幕開けを告げる号砲となったのである。

故郷を追われた義清 ― 上杉家臣としての後半生

越後へ逃れた村上義清は、長尾景虎(上杉謙信)によって客将として手厚く迎えられた 26 。景虎は義清に根知城を与えてその拠点とし 5 、さらに義清の嫡男・国清を養子に迎えて山浦姓を名乗らせるなど、上杉家中で第二位の地位を与える破格の厚遇で遇した 5 。これは、景虎が義清の武将としての能力を高く評価していたことの証左である。義清は上杉家臣として、信濃の地理や国衆の内情に精通した軍事アドバイザーとして重用され、故郷奪還の夢を胸に抱き続けた 26 。しかし、その願いが叶うことはなく、元亀四年(1573年)、奇しくも宿敵・信玄が没するわずか数ヶ月前に、亡命先の越後の地で73歳の生涯を閉じた 5

歴史の転換点 ― 第一次川中島の戦いへの序曲

葛尾城の戦いが持つ最も重要な歴史的意義は、これが「川中島の戦い」の直接的な原因となった点にある。それまで信濃国内の地域紛争であった武田氏の侵攻は、この戦いを境に、全く新しい次元の戦いへと変質した。

その変質を理解するためには、一連の出来事を順に追う必要がある。まず、葛尾城陥落以前、武田信玄の敵はあくまで諏訪氏、小笠原氏、そして村上氏といった信濃の国衆であった。これは信濃国内の統一を巡る戦いであった。しかし、村上義清が越後へ逃れ、長尾景虎に庇護を求めた瞬間、この構図は劇的に変化する。義清の「失地回復」という個人的な願いが、景虎の「信濃国衆の救援と、越後国の防衛」という国家戦略と固く結びついたのである 3

村上氏という、武田と長尾の間に存在した巨大な緩衝地帯が消滅したことで、武田氏の勢力は越後国の喉元である善光寺平にまで直接及ぶことになった 5 。これは越後の領主である景虎にとって、座視できない直接的な脅威であった。義清や高梨氏といった北信濃の国衆からの救援要請は、景虎が信濃へ出兵するための、この上ない大義名分となった 8

結果として、天文二十二年(1553年)八月に義清が越後へ逃れると、景虎はすぐさま行動を起こし、九月には信濃へ出兵。布施の戦いで武田方を破った 23 。これが、その後12年間に5度にわたって繰り広げられる、戦国史上最も有名な宿命の対決「川中島の戦い」の幕開け(第一次合戦)であった。つまり、村上義清という存在が、本来直接国境を接していなかった信玄と謙信という二人の英雄を引き合わせ、川中島という舞台で激突させる「触媒」の役割を果たしたのである。葛尾城の陥落は、地域紛争を、天下の二大勢力がその威信をかけて争う代理戦争へと昇華させた、決定的な転換点であった。

終章: 葛尾城の戦いが残したもの

葛尾城の戦いは、戦国時代の転換期を象徴する多くの教訓と歴史的意義を内包している。その帰結を多角的に分析することで、この戦いが後世に何を残したのかを総括する。

一国衆の没落と戦国大名の台頭という時代の必然性

村上義清の敗北は、一個人の悲劇に留まらない。それは、中世以来の伝統と個人の武勇に依存する「国人領主」が、緻密な戦略、巧みな調略、そして優れた組織力を有する新しいタイプの「戦国大名」によって淘汰されていく、時代の大きな流れを象徴する出来事であった。義清個人の武将としての能力がいかに傑出していても、家臣団の離反を防ぎきれなかった組織としての脆さが、最終的な勝敗を分けた。武田晴信が示した、国衆を個別に切り崩し、内部から崩壊させる戦略は、国人衆の連合体という村上氏の体制の弱点を的確に突いたものであった。

武力と調略の融合がもたらした戦いの帰結

武田晴信がこの戦いで見せた戦術は、彼のその後の戦い方の原型を確立したと言える。上田原と砥石での手痛い敗北から学び、正面からの消耗戦を極力避け、まずは調略によって敵の力を削ぎ、完全に孤立させてから最後の一撃を加える。この武力と謀略を融合させた合理的な戦術は、まさに「信玄流」と呼ぶべきものであり、葛尾城の戦いはその完成形が示された戦いであった。それは、戦がもはや武士個人の名誉や武勇を競う場ではなく、国家の存亡をかけた総力戦へと変貌しつつあったことを示している。

後世への影響と歴史的意義の総括

結論として、葛尾城の戦いは、単なる一城の攻防戦ではなかった。それは、北信濃に君臨した一人の猛将の運命を劇的に変え、地域の支配構造を一変させ、そして何よりも、戦国時代で最も人々の記憶に残るライバル対決である「川中島の戦い」の引き金を引いた、歴史の紛れもない分水嶺であった。この戦いで村上氏が滅びず、武田と長尾の間に緩衝地帯として存在し続けていたならば、信玄と謙信が川中島で幾度も死闘を繰り広げることはなかったかもしれない。その意味において、葛尾城の戦いを深く理解することなくして、信玄と謙信の宿命の対決、ひいては戦国中期の歴史のダイナミズムを真に理解することはできないのである。

引用文献

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  24. 葛尾城 (長野県 坂城町)2 - ちょっと山城に (正規運用版) https://kurokuwa.hatenablog.com/entry/2020/05/18/180000
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