蒲原城の戦い(1568)
永禄十一年、武田信玄は駿河侵攻の要衝蒲原城を攻めた。陽動作戦で北条本軍を誘い出し、孤立した城を武田勝頼と山県昌景が半日で陥落。今川家滅亡を決定づけ、東国に新たな対立構造を生みし戦いなり。
蒲原城の戦い(1568-1569年):甲相駿三国同盟の崩壊と東国新秩序の胎動
序章:蒲原城の戦い - 海道の要衝を巡る死闘
永禄11年(1568年)から翌12年(1569年)にかけて駿河国で繰り広げられた「蒲原城の戦い」は、単なる一城を巡る攻防戦ではない。これは、武田信玄の生涯をかけた大戦略「駿河侵攻」の中核をなす戦いであり、約14年間にわたり東国の勢力均衡を支えてきた甲相駿三国同盟の完全な崩壊を象徴する事件であった。さらに、この戦いの帰趨は、戦国大名今川家の滅亡を決定づけ、北条家と上杉家の歴史的同盟(越相同盟)を誘発するなど、東国全体の政治・軍事地図を根底から塗り替える巨大な転換点となった。
蒲原城は、富士川を西に望み、東海道と駿河湾を眼下に収める「海道第一の地」と評された戦略的要衝である 1 。この「境目の城」 1 の支配権を巡る武田・北条両軍の死闘は、戦国時代の軍事、外交、そして大名家の興亡の力学を凝縮した、極めて重要な歴史的意義を持つ。本報告書は、この蒲原城の戦いを多角的に分析し、合戦に至るまでの複雑な政治情勢、戦闘の具体的な時系列、そして戦いがもたらした深遠な歴史的影響を徹底的に解明するものである。
第一部:崩壊する三国同盟 - 合戦前夜の東国情勢
蒲原城の戦いの直接的な引き金は、長らく東国の安定装置として機能してきた甲斐の武田氏、相模の北条氏、駿河の今川氏による三国同盟の破綻であった。この同盟は永続的な平和条約ではなく、三者の勢力均衡の上に成り立つ極めて脆い「冷戦構造」であったと言える。その均衡が崩れた時、戦乱は必然となった。
1-1. 桶狭間の衝撃と今川家の斜陽
永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたことは、三国同盟のパワーバランスを根底から揺るがす画期であった。絶対的な当主を失った今川家は急速にその権威を失墜させ、領国の動揺を抑えきれなくなる 3 。これを好機と見た三河の松平元康(後の徳川家康)は今川家から独立。これにより今川領は、西から徳川、東から北条、そして北から武田という三勢力によって蚕食される危機に瀕した。同盟の要であった今川家の弱体化は、他の二者に新たな野心と戦略的再計算を促す十分な理由となったのである。
1-2. 武田信玄の野望:海への渇望と外交戦略の転換
内陸国である甲斐を本拠とする武田信玄にとって、太平洋への出口、すなわち塩の確保や交易に不可欠な港を獲得することは、長年の国家戦略であった 3 。衰退する今川家が領有する駿河湾は、その野望を実現するための格好の標的として信玄の目に映った。
この野望を現実のものとするため、信玄は周到な外交工作を進める。今川家を共通の敵とする徳川家康と密かに接触し、大井川を境界として東の駿河を武田が、西の遠江を徳川が得るという領土分割の密約を締結した 3 。これは、信玄がもはや今川家を同盟相手として維持する価値はないと判断し、新たなパートナーと組んでその領土を奪うという、冷徹な実利計算に基づいた戦略転換であった。
1-3. 武田家内部の相克:義信事件の真相と影響
信玄の駿河侵攻計画は、武田家内部にも深刻な亀裂を生んだ。信玄の嫡男であった武田義信は、今川義元の娘を正室に迎えており、舅の家を滅ぼすことに強く反対した 7 。この対立は単なる親子喧嘩ではなく、それまでの主敵であった北の上杉謙信と対峙し続ける「北進戦略」を是とする義信派と、今川を討って南へ勢力を拡大する「南進(西進)戦略」へと舵を切ろうとする信玄との間の、国家戦略を巡る路線対立であったと解釈できる。
最終的に、信玄は自らの戦略を断行するために実子との対立も辞さず、永禄8年(1565年)に義信を廃嫡、幽閉の末に死に追いやった 7 。この非情な決断により、武田家の外交・軍事戦略は南進へと大きく転換し、その実行者として四男の勝頼が歴史の表舞台に登場する道が開かれた。蒲原城の戦いは、この武田家の新戦略を試す最初の大きな試金石となるのである。
1-4. 北条氏の義憤と打算:姻戚関係と国益の狭間で
信玄の駿河侵攻は、同盟のもう一方の雄、北条家を激怒させた。今川氏真の正室・早川殿は、北条氏康の娘であり、信玄の行動は娘婿の領国を奪い、実の娘の身を危険に晒す裏切り行為に他ならなかった 5 。氏康がこの信義にもとる振る舞いに激しい怒りを覚えたのは当然であった 7 。
しかし、北条家の行動は単なる義憤だけでは説明できない。地政学的に見れば、駿河が武田の手に落ちることは、自国の西側国境に強大な武田軍が直接隣接することを意味し、これは北条家にとって深刻な安全保障上の脅威であった。したがって、今川家への救援は、姻戚関係を守るという「義」と、自国の防衛という「利」が完全に一致した、極めて合理的な戦略的判断だったのである。この義と利の双方に根差した強い動機が、後の蒲原城を巡る執拗な争奪戦の背景を形成した。
第二部:蒲原城 - 海道第一の要害
両軍が死力を尽くして争った蒲原城は、いかなる城だったのか。その地理的・構造的特徴を分析することで、この城がなぜ両軍にとって譲れない戦略拠点であったのかが明らかになる。
2-1. 地理的・戦略的重要性
蒲原城は、現在の静岡市清水区に位置し、東海道と駿河湾を見下ろす標高約140メートルの山上に築かれた城である 10 。眼下には古代からの交通の大動脈である東海道が走り、駿河湾の海上交通も一望できる。この地を抑えることは、陸路と海路の双方を掌握し、物流と軍事通行権を握るに等しい意味を持っていた 1 。
さらに、この城は富士川の西岸に位置しており、東の北条領と西の今川領を分かつ地政学的な要衝であった。古くから対北条氏の最前線基地として機能しており 2 、その重要性は敵将である信玄自身が「海道一の嶮難の地」「海道第一の地」と評したとされるほどであった 1 。武田にとって、この城は駿河支配を盤石にするための楔であり、北条にとっては、駿河への介入と自国領土防衛のための橋頭堡であった。まさに、両者の死活が懸かった場所だったのである。
2-2. 城郭構造(縄張り)の分析
蒲原城は、山頂の本曲輪(主郭)を中心に、北の尾根沿いに善福寺曲輪などを直線的に配置した連郭式の山城である 10 。その防御構造の最大の特徴は、尾根を人工的に寸断する二つの巨大な堀の存在である。
一つは、本曲輪と善福寺曲輪の間を断ち切る「大堀切」。これは岩盤を深く削り込んで造られたもので、尾根伝いに進撃してくる敵の突進力を削ぎ、本曲輪への到達を困難にする決定的な障害物として設計されていた 10 。もう一つは、善福寺曲輪のさらに北方を遮断する「大空堀」であり、城の北側からの侵入に対する第一の防衛線として機能した 10 。
これらの堀に加え、各曲輪の急峻な斜面(切岸)には「腰巻石垣」と呼ばれる石積みが施され、兵士がよじ登るのを防ぎ、防御力を一層高めていた 1 。蒲原城の縄張りは、尾根を進む敵を複数の曲輪と堀で段階的に食い止め、消耗させ、最終的に主郭で殲滅するという、極めて実践的な思想に基づいて構築されていた。
この堅固な構造は、武田信玄の第一次侵攻時の作戦選択に直接的な影響を与えた。信玄は2万を超える大軍を率いながらも、この城を力攻めにすることを避け、素通りして駿府を直接目指した 1 。これは、蒲原城の攻略には多大な時間と兵力の損耗が避けられないと判断したためである 14 。城の堅牢さそのものが、侵攻軍の戦略を規定したのである。しかし、この戦略的判断が、結果として北条軍の介入を許し、第一次侵攻を失敗に終わらせる遠因となった。
第三部:永禄十一年 第一次駿河侵攻と「駿河封じ込め」
永禄11年(1568年)、信玄は満を持して駿河への侵攻を開始する。しかし、その作戦は北条家の迅速かつ的確な対応によって頓挫を余儀なくされた。
3-1. 電撃的侵攻と駿府陥落
永禄11年(1568年)12月6日、武田信玄は2万余の軍勢を率いて甲府を出陣した 5 。信玄は通常の街道を避け、事前に調略を通じて味方につけていた現地の国衆・望月氏らに新たな軍道を開削させ、今川方の全く意表を突くルートから駿河に雪崩れ込んだ 14 。この奇襲は功を奏し、12月12日には薩埵峠の戦いで今川軍主力を撃破。翌13日には駿府をやすやすと占領した。今川氏真はなすすべもなく、正室の早川殿(北条氏康の娘)の輿を用意する暇さえなく、遠江の掛川城へと逃走した 5 。
3-2. 北条の迅速な救援と蒲原城入城
信玄の快進撃は、蒲原城を素通りした時点で大きな綻びを見せる。この城が今川・北条方の反撃拠点として残ったからである。娘婿の危機に際し、北条氏康・氏政親子は迅速に行動を起こした。救援軍を駿河に派遣し、その中核部隊である北条氏信(北条幻庵の子)の軍勢を、手薄になっていた蒲原城に入城させることに成功した 1 。これにより、蒲原城は事実上北条家の管理下に入り、対武田の最前線基地へと変貌した。北条軍はさらに興国寺城など駿河東部の諸城を固め、薩埵山に本陣を構え、武田軍を迎え撃つ態勢を整えた 17 。
3-3. 補給路の遮断と信玄の撤退
蒲原城と薩埵山に陣取る北条軍の存在は、駿府の武田軍にとって致命的であった。甲斐の本国と駿府を結ぶ連絡線・補給路が、北条軍によって完全に遮断される危険に陥ったのである 1 。さらに、徳川家康との連携も乱れ、信玄は敵中に孤立する形となった。兵站を断たれては、いかに精強な武田軍といえども駿河を維持することは不可能であった。信玄は侵攻の継続は困難と判断し、北条軍の包囲網をかいくぐり、命からがら甲斐へと撤退せざるを得なかった 1 。
この一連の動きは、蒲原城という戦術的拠点を確保することで、敵の兵站を断ち、戦略的に勝利するという、北条方の見事な「駿河封じ込め」作戦であった。この第一次侵攻の失敗は、信玄に「駿河を完全に攻略するには、まずその背後にいる北条本軍を無力化することが絶対条件である」という痛烈な教訓を与えた。翌年の第二次侵攻で見せる信玄の壮大な陽動作戦は、まさにこの時の失敗から学んだ戦術的帰結だったのである。
第四部:永禄十二年 蒲原城の戦い - 攻防の時系列詳解
第一次侵攻の失敗から一年、信玄は周到な準備を経て、再び駿河を目指す。永禄12年(1569年)12月、蒲原城を舞台に繰り広げられた死闘は、戦国時代の攻城戦の激しさと悲壮さを凝縮したものであった。
4-1. 前哨戦:信玄の陽動作戦(永禄12年9月~10月)
前年の失敗に学んだ信玄は、蒲原城を直接攻撃する前に、その後詰となるべき北条本軍を駿河から引き離すための壮大な陽動作戦を実行した。永禄12年9月、信玄は2万の大軍を率いて碓氷峠を越え、北条領の心臓部である武蔵・相模へと電撃的に侵攻した 9 。
武田軍は北条方の支城である鉢形城や滝山城を次々と攻撃し、10月1日にはついに北条家の本拠地・小田原城を包囲、城下に火を放った 19 。この予期せぬ本国への攻撃に、北条氏康・氏政は仰天し、駿河に派遣していた主力軍を関東へ呼び戻さざるを得なくなった 9 。これこそが信玄の狙いであった。信玄は小田原城の包囲をわずか4日ほどで解くと、全軍を反転させ、帰路の三増峠で追撃してきた北条軍を待ち伏せして撃破した(三増峠の戦い) 19 。この一連の作戦により、蒲原城は北条本軍からの支援を完全に断たれ、戦略的に孤立させられたのである。
4-2. 攻城戦前夜:蒲原宿炎上(12月5日 夜)
陽動作戦の成功を確認した信玄は、11月に甲府を出陣し、満を持して駿河へと再侵攻した 19 。そして運命の永禄12年12月5日夜、武田軍は蒲原城の眼下に広がる城下町、蒲原宿に一斉に火を放った 23 。
深夜、城の物見櫓から見下ろす籠城兵たちの目に、自らの家々が燃え盛る光景が焼き付いたであろう。夜空を焦がす炎と響き渡る鬨の声は、援軍の望みが絶たれた城兵たちの士気を打ち砕き、恐怖と絶望を植え付けるための、冷徹な心理戦であった。城将・北条氏信は、この炎を見つめながら、もはや生きて城を出ることはないと、決死の覚悟を固めたに違いない。
4-3. 総攻撃開始(12月6日 未明~早朝)
蒲原宿が燃え落ちた翌12月6日未明、武田軍は由比・倉沢に布陣を完了し、蒲原城への総攻撃を開始した 23 。攻撃の主力を担ったのは、信玄の後継者である武田勝頼、そして武田軍最強と謳われた「赤備え」を率いる猛将・山県昌景の精鋭部隊であった 1 。
夜がまだ明けきらぬ薄闇の中、法螺貝の音が戦いの開始を告げる。山県隊を先鋒とし、勝頼隊が続く武田軍の兵士たちは、城の北側、大空堀方面から怒涛の如く攻め寄せた 13 。急峻な斜面をものともせず、鬨の声を上げながら防御線に殺到する武田軍に対し、城内からは弓矢や鉄砲による必死の迎撃が行われ、凄まじい攻防戦の火蓋が切られた。
4-4. 死闘と落城(12月6日 午前)
城を守る北条方は、城将・北条氏信とその弟・長順を中心に、清水氏、狩野氏らの将兵を合わせても、その数わずか1,000余名。対する武田軍は2万ともいわれる大軍であり、戦力差は絶望的であった 1 。
しかし、籠城側の抵抗は熾烈を極めた。特に大空堀、善福寺曲輪、そして本曲輪へ至る大堀切では、壮絶な白兵戦が繰り広げられた。だが、数の上で圧倒的に優位に立つ武田軍の猛攻は止まらない。中でも若き武田勝頼は、自ら槍を振るって敵陣に突入し、その戦いぶりは父・信玄が後に「人の成せる業に非ず」と絶賛するほどの勇猛さであったという 24 。
次々と防御線を突破され、城内になだれ込まれた北条方は、ついに最後の拠点である本曲輪で追い詰められる。氏信・長順兄弟は最後まで奮戦するも、衆寡敵せず、壮絶な討死を遂げた。主将を失った後も城兵は降伏することなく、文字通り玉砕した。この戦いで、城兵は一人残らず討ち取られたと伝えられ、蒲原城は後に「なで斬りの城」と語り継がれることになる 1 。戦闘はわずか半日で決着し、午前中のうちには武田の勝ち鬨が、静まり返った城に響き渡った。
この短期決戦は、戦国時代の攻城戦の特徴を象徴している。援軍の見込みがなく、圧倒的な兵力差で攻められた場合、籠城側が取りうる選択肢は限られる。兵站維持の観点から短期決戦を望む攻撃側が、力攻めを選択した時、木造建築が主である日本の城の防御力には限界があった 28 。蒲原城の悲劇は、その現実を如実に物語っている。
第五部:両軍の将帥と兵力
蒲原城の戦いは、両軍の将帥の資質と、絶望的なまでの戦力差によって、その帰趨がほぼ決まっていた戦いであった。この戦いは、武田家においては次代を担う若き将の鮮烈なデビューの場となり、北条家においては一門の重鎮を失う悲劇の舞台となった。
項目 |
攻城側:武田軍 |
籠城側:北条・今川連合軍 |
総大将 |
武田信玄 |
(事実上の指揮官)北条氏信 |
主要武将 |
武田勝頼、山県昌景、内藤昌豊など |
北条長順、清水新七郎、狩野介など |
推定兵力 |
約20,000 |
約1,000~2,000 |
士気・状況 |
駿河平定を目指す精鋭。周到な準備の上での総攻撃。 |
援軍の見込みが薄い中での絶望的な籠城戦。 |
5-1. 攻城側:武田軍
-
総大将:武田信玄
第一次侵攻の失敗を完璧に分析し、小田原攻めという壮大な陽動作戦を成功させた稀代の戦略家。蒲原城攻略の盤石な態勢を築き上げ、戦いを勝利に導いた。 -
主要武将:武田勝頼
信玄の四男。兄・義信の死後、後継者としての実力を示すことが求められていた 24。この戦いでは、攻撃の主力を率いて自ら先頭に立ち、無謀とも言えるほどの勇猛さで城を攻め落とす大功を立てた。この活躍は、勝頼が武田家の次代を担うにふさわしい武将であることを内外に強く印象づけ、彼の武田家における地位を不動のものとした。 -
主要武将:山県昌景
武田四天王の一人に数えられる猛将。精強で知られる「赤備え」部隊を率い、常に武田軍の先鋒として敵陣を粉砕した。蒲原城攻めにおいても、その突撃力は遺憾なく発揮され、城の防御線を突破する上で決定的な役割を果たしたと考えられる 1。
5-2. 籠城側:北条・今川連合軍
-
城将:北条氏信(綱重)
北条一門の長老であり、文化人としても知られた北条幻庵の次男 26。『喜連川文書』によれば、和歌の造詣が深く、当主の北条氏康が添削を依頼するほどの教養人であった 26。しかし、武将としてもその責務を全うし、援軍なき絶望的な状況下で最後まで城を枕に討死するという壮絶な最期を遂げた。その墓所は、静岡県三島市の祐泉寺に現存している 26。 -
主要武将:北条長順
氏信の弟。兄と運命を共にし、この戦いで討死した 11。一門の重鎮である幻庵が、二人の息子を同時に失った悲しみは計り知れないものであった 1。
この戦いは、勝頼の「栄光」と氏信の「悲劇」が鮮やかな対比をなしている。武田家の未来を担う若獅子の武功の裏で、北条家は一門の有望な人材を失った。一つの戦場が、二つの大名家の運命に全く異なる光と影を落とした象徴的な出来事であった。
第六部:合戦の歴史的意義と影響
蒲原城の落城は、単に一つの城が落ちたという戦術的な事象に留まらず、東国全体の戦略環境を激変させるほどの大きな波紋を広げた。
6-1. 駿河戦線の崩壊
蒲原城は、北条方にとって駿河東部における防衛線の要であった。この城がわずか半日で、しかも籠城兵が玉砕するという衝撃的な形で陥落したことは、薩埵山に布陣していた北条軍主力の戦意を完全に打ち砕いた。戦略的拠点を失い、背後を武田軍に脅かされる形となった彼らは、もはや戦線を維持できず、自ら陣を解いて伊豆方面へと撤退した 19 。これにより、武田信玄は駿河東部から北条勢力を一掃することに成功し、駿河全域の完全掌握に向けて大きく前進した。
6-2. 今川家の完全な没落
蒲原城の攻防は、名門・今川家の歴史にとどめを刺す最後の引き金となった。最後の頼みの綱であった北条家の支援が事実上不可能となり、遠江の掛川城に籠る今川氏真は完全に孤立無援となった。もはや抵抗を続ける術はなく、蒲原城落城の約半年後、永禄13年(1570年)5月には徳川家康に開城を勧告され降伏。ここに戦国大名としての今川家は完全に滅亡した 5 。
6-3. 外交関係の激変:越相同盟の締結へ
蒲原城での手痛い敗北と、駿河における武田の脅威が現実のものとなったことで、北条氏は外交戦略の根本的な転換を迫られた。北条氏康・氏政親子は、武田信玄という共通の強大な敵に対抗するため、それまで十数年にわたり敵対してきた越後の上杉謙信との同盟という、大胆な決断を下す 9 。
交渉は迅速に進み、蒲原城落城の半年後である永禄12年(1569年)6月には、武田信玄を共通の敵とする「越相同盟」が成立した 33 。これにより、かつての甲相駿三国同盟体制は完全に崩壊し、東国は「武田」対「上杉・北条連合」という新たな対立構造の時代へと突入した。蒲原城の戦いは、東国の外交地図を完全に塗り替える地殻変動を引き起こしたのである。
この一連の流れを俯瞰すると、歴史の皮肉が見て取れる。武田信玄は、駿河侵攻と蒲原城攻略において、軍事的には完璧な勝利を収めた。しかし、その成功があまりに鮮やかであったが故に、隣国である北条家に強烈な危機感を抱かせ、それまで考えられなかった宿敵同士(北条と上杉)を結びつけさせてしまった。結果として、信玄は念願の駿河を手に入れた代償に、北と東に強大な敵を同時に抱えることになり、自らをより大きな戦略的包囲網の中に追い込むことになったのである。短期的な戦術的勝利が、長期的な戦略的困難を招来した典型例と言えよう。
結論:戦国東国史における転換点として
蒲原城の戦いは、その規模や期間に比して、戦国時代の東国史に与えた影響が極めて大きい、画期的な戦いであったと結論付けられる。本報告書で詳述した通り、この戦いは以下の三つの側面から再評価されるべきである。
第一に、 軍事史的側面 において、武田信玄の戦略家としての卓越性を示す典型例である。第一次侵攻の失敗を糧とし、小田原攻めという大規模な陽動作戦によって敵の主力を引き離し、目標とする城を孤立させてから圧倒的兵力で殲滅する。この周到かつ冷徹な戦術は、彼の軍事的才能を如実に物語っている。
第二に、 政治・外交史的側面 において、東国の国際秩序を根底から覆した一大事件であった。この戦いを経て、14年続いた甲相駿三国同盟は完全に終焉を迎え、代わって「武田」対「上杉・北条」という新たな対立軸が形成された。蒲原城の攻防は、1570年代の東国全体の政治・軍事動向を規定する直接的な原因となった。
第三に、 大名家の興亡史的側面 において、三つの名門大名の運命を分かつ分水嶺であった。武田家にとっては、駿河という念願の地を手に入れ、勝頼という次代の将を披露する勢力拡大の象徴であった。今川家にとっては、その滅亡を決定づける最後の弔鐘となった。そして北条家にとっては、手痛い敗北を喫しながらも、対武田という新たな国家戦略へと舵を切り、宿敵・上杉家と手を結ぶという大きな戦略転換を促す契機となった。
以上のように、蒲原城の戦いは、単なる一城の攻防戦に留まらず、戦国時代後期の東国におけるパワーバランスの変動、外交関係の再編、そして各大名家の盛衰を加速させた、極めて重要な歴史的転換点であったと言えるのである。
引用文献
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- 5.難攻不落の蒲原城の落城|税理士法人森田いそべ会計。静岡市清水区の会計事務所。相続、公認会計士磯部和明 http://www.isobekaikei.jp/pages/867/
- 戦国時代の同盟|戦国雑貨 色艶 (水木ゆう) - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nf7362318df3b
- 甲相駿三国同盟とは?|武田氏、北条氏、今川氏が締結した和平協定の成立から終焉までを解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1119202
- 武田信玄の駿河侵攻と徳川家康の遠江侵攻:今川氏滅亡 - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/suruga-totoumi.html
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- 駿河侵攻の裏で起きていた家中騒動!今川家の今後を決める信玄と嫡男・義信の対立【どうする家康】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/196598
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