最終更新日 2025-08-27

蟹江城合戦(1584)

日本の戦国時代における蟹江城合戦(1584年)に関する専門的考察

序章:膠着と奇策 ― なぜ蟹江城だったのか

天正12年(1584年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長の死後、その後継者の地位を巡って台頭した羽柴秀吉と、信長の次男・織田信雄およびその盟友・徳川家康との間に生じた対立は、「小牧・長久手の戦い」として火蓋を切った 1 。同年4月、秀吉は長久手の地で池田恒興、森長可といった有力武将を失うという手痛い戦術的敗北を喫し、家康の軍事的才能を天下に知らしめる結果となった 2 。この敗戦により、両軍は小牧山と楽田で長期間にわたり対峙する膠着状態に陥り、秀吉は圧倒的な兵力を持ちながらも、戦局を有利に進めることができずにいた。

この軍事的停滞を打破すべく、秀吉は新たな戦略的活路を見出す必要に迫られていた 5 。彼が着目したのは、尾張国西南部に位置する蟹江城であった。この地は単なる一城郭ではなく、伊勢湾に面した水上交通の要衝であり、地政学的に極めて重要な意味を持っていた 1 。秀吉の戦略的意図は二重にあった。第一に、蟹江城を抑えることで、伊勢長島城に本拠を置く織田信雄と、尾張清洲城に布陣する徳川家康との間の物理的な連携を断ち切ること 1 。第二に、伊勢湾の制海権を確保し、兵糧や兵員の輸送路を確立すると同時に、敵の補給線を脅かすことで、戦いの主導権を奪い返すことであった 2 。この作戦は、長久手での雪辱を期す秀吉にとって、戦局全体を動かすための乾坤一擲の奇策だったのである。

この重要な作戦の実行部隊として選ばれた二人の将は、当時の戦国を象徴する人物であった。総大将に任じられたのは、老将・滝川一益。彼はかつて織田信長の重臣として「西の秀吉、東の一益」とまで称されたほどの猛将であり、特に鉄砲の扱いに長け、伊勢方面の攻略で目覚ましい活躍を見せた 7 。一時は蟹江城を自らの居城とした経験さえあった 4 。しかし、本能寺の変後の混乱の中で運命は暗転。神流川の戦いで北条氏に大敗し、さらに賤ヶ岳の戦いでは秀吉に敵対して敗北、全ての領地を失い出家の身となっていた 4 。この蟹江城攻略は、彼にとって失われた名誉と地位を回復するための、まさに再起を賭けた最後の戦いであった 4

そして、一益の陸上部隊を海上から支援するのが、当代随一の水軍指揮官と謳われた九鬼嘉隆であった。志摩国を本拠とする彼は、信長の下で鉄甲船を建造して第二次木津川口の戦いで毛利水軍を破るなど、その名を轟かせていた 8 。信長亡き後は秀吉に仕え、その強力な水軍力は、海上からの奇襲を前提とするこの作戦に不可欠な存在であった 11

この蟹江城合戦は、単なる局地的な城の争奪戦ではない。長久手での直接対決に敗れた秀吉が、家康を力で屈服させることの困難さを認識し、戦略の転換を模索した結果生まれたものである。その真の狙いは、城の奪取そのものよりも、連合軍の結束の要である織田信雄を標的とし、家康との同盟関係に楔を打ち込むという、高度な政略的意図にあった。また、秀吉が一度は敵対した滝川一益という敗将を、その能力と経験を評価して再起用したことは、彼の現実主義的な人材登用術と、天下統一を進める上での巧みな人心掌握術を如実に示している。こうして、戦国史の大きな流れを左右する一戦の幕が、静かに上がろうとしていた。

第一章:電撃と誤算 ― 合戦の幕開け(天正12年6月16日~17日)

周到に計画された奇襲作戦の鮮やかな成功と、その直後に露呈した計画の脆弱性、そしてそれに対する織田・徳川方の驚異的な対応速度が、この合戦の初動を決定づけた。

天正12年6月16日

夜陰に乗じた作戦は、電光石火の速さで実行された。この日、蟹江城主であった佐久間正勝は、伊勢方面の峯城攻撃のために城を留守にしていた 1 。この絶好の機会を捉え、城の留守居役を任されていた前田与十郎長定(史料によっては種利とも)が、かねてからの密約通り羽柴秀吉方に内応した 5 。この内応は、長定自身からの申し出であったと伝えられている 10

伊勢神戸城に待機していた滝川一益は、九鬼嘉隆率いる水軍艦隊と共に伊勢湾から蟹江川を遡上し、夜明けと共に蟹江城へと迫った 1 。城内から長定が上げた火の手を合図に、一益の軍勢は城内へとなだれ込み、ほとんど抵抗を受けることなく蟹江城の占拠に成功する 6 。さらに、長定の息子・前田長種が守る前田城と、弟・前田長俊が守る下市場城も同時に羽柴方に寝返り、一益は蟹江城を中心とする防御拠点を一挙に確保した 1

しかし、この鮮やかな成功の裏で、早くも計画に綻びが生じ始めていた。奇襲は成功したものの、潮位や潮流の問題から、籠城に不可欠な兵糧や武器、弾薬の搬入が計画通りに進まなかったのである 1 。この兵站上の誤算は、後の籠城戦において致命的な足枷となる。さらに、蟹江城の西方に位置する大野城の城主・山口重政は、秀吉方からの寝返りの誘いを断固として拒否 1 。滝川勢は大野城を攻めたが攻略に失敗し、蟹江城への撤退を余儀なくされた 16 。これにより、羽柴方の初期計画は周辺地域の完全な掌握に至らず、早くも頓挫の様相を呈し始める。

城内においても、全ての者が内応に与したわけではなかった。城主・佐久間正勝の縁者であった鈴木重安・重治兄弟は、この裏切りに激しく抵抗した。兄の重安は自らの屋敷に立て籠もり奮戦したが衆寡敵せず討死、弟の重治は辛くも城を脱出し、清洲城へと急いだ 1

その頃、約10キロメートル離れた清洲城にいた徳川家康は、蟹江方面から上がる不審な火の手を視認し、瞬時に異変を察知した 10 。家康の対応は神速であった。彼は詳細な報告を待つことなく、井伊直政ら僅かな側近のみを連れて直ちに出陣したと記録されている 10 。最高指揮官のこの直感と即断が、戦いの流れを大きく変えることになる。家康の迅速な行動に呼応するように、徳川・織田の諸将も次々と出陣。滝川勢が蟹江城への上陸と戦備をようやく整えようとしていた矢先、ほぼ時を同じくして徳川・織田の先遣隊が到着し、城の包囲を開始したのである 10 。この驚異的な初動速度により、城内に入ることができた羽柴勢は、滝川一益とその直属部隊約700名、そして内応した前田勢を合わせても1000名に満たない寡兵に限定されてしまった 10

羽柴方の勝因は、佐久間正勝の不在と前田長定の内応という「情報」を的確に掴んでいた点にある。しかし、徳川方もまた、狼煙という「視覚情報」に対して驚異的な速度で反応した。奇襲の成功という戦術的勝利は、家康の神速の決断によって、即座に包囲されるという戦略的劣勢へと転化してしまったのである。開戦からわずか半日にして、合戦の趨勢は大きく織田・徳川方へと傾き始めていた。

第二章:包囲網の完成 ― 陸と海の攻防(6月18日~19日)

緒戦の混乱が収まると、織田・徳川連合軍は組織的かつ圧倒的な力で羽柴方を追い詰めていく。陸と海の両面から包囲網を完成させ、特に海上封鎖によって蟹江城の命運を決定づけたのが、この二日間の攻防であった。

6月18日

徳川家康と織田信雄は、総勢2万と号する大軍を動員し、蟹江城、前田城、下市場城の三城を完全に包囲した 16 。連合軍の動きは、単に兵力で圧倒するだけではなかった。彼らは三城の中でも、防御が比較的手薄、あるいは戦略的に孤立させやすいと判断した下市場城に攻撃目標を絞り、戦力を集中させたのである 16 。この攻撃には、酒井忠次、榊原康政、大須賀康高といった徳川軍の主力部隊が惜しみなく投入された。

この一点集中の戦術は絶大な効果を発揮した。前田長俊(長定の弟)が守る下市場城は、連合軍の猛攻に耐えきれず、同日のうちに陥落。長俊は壮絶な討死を遂げた 16 。これにより、蟹江城の東南方面における重要な防御拠点が失われ、滝川一益はさらに孤立を深めることとなった。この迅速かつ合理的な作戦遂行は、家康と信雄の間に強固な連携があったこと、そして徳川軍団の高い作戦遂行能力を明確に示している。

6月19日

陸上での包囲が固められる中、合戦の帰趨を決定づける戦いが海上で繰り広げられた。蟹江城への唯一の生命線である海上補給路を確保しようとする九鬼嘉隆の水軍と、それを阻止せんとする織田・徳川方の水軍との間で、「舟入の戦い」と呼ばれる海戦が勃発したのである 16

この海戦の具体的な経過に関する詳細な記録は乏しいものの、徳川方の間宮高則が九鬼方の村田七太夫に鉄砲で撃たれるなど、双方の艦船から激しい銃撃が交わされたことが伝わっている 17 。結果は、当時最強と目されていた九鬼水軍の敗北に終わった 16 。地の利、あるいは兵力の差か、徳川方の周到な準備が勝ったのか、理由は定かではないが、この敗北が持つ意味は決定的であった。

九鬼水軍の敗退により、織田・徳川連合軍による海上封鎖が完成した 16 。これにより、蟹江城は陸と海の両面から完全に孤立無援の状態に陥った。外部からの兵糧・弾薬の補給も、秀吉本隊からの援軍も、その望みは完全に絶たれたのである。蟹江城作戦の根幹は、伊勢湾の制海権を前提としていた。その前提が崩れた瞬間、蟹江城は秀吉にとっての「前線拠点」から、一益にとっての「孤立した鳥かご」へとその性格を変えた。この時点で、滝川一益に残された道は、援軍の来ない絶望的な籠城戦のみとなった。合戦の勝敗は、事実上この日に決してしまったと言っても過言ではない。


表1:蟹江城・前田城・下市場城 包囲網の兵力配置(天正12年6月18日時点)

城名

城方(守備側武将)

攻め方(織田・徳川方武将)

下市場城

前田長俊

先鋒 : 酒井忠次, 岡部長盛, 山口重政 大手 : 菅沼定盈, 松平家信, 設楽貞光 搦手 : 松平親乗, 酒井重忠, 内藤政長 追手・海手 : 大須賀康高, 榊原康政 他

前田城

前田長種

大手 : 石川数正 搦手 : 阿部信勝

蟹江城

滝川一益, 滝川一忠, 前田長定

(この時点では全体的な包囲。詳細な攻め口は22日に確定)

出典: 16 に基づき作成

この兵力配置は、織田・徳川連合軍が単に大軍で包囲しただけでなく、徳川四天王の酒井忠次や榊原康政、重臣の石川数正といった名だたる武将を適材適所に配置し、周到な役割分担のもとに組織的な攻城戦を展開したことを視覚的に示している。連合軍の圧倒的な軍事的優位性と作戦の緻密さがここから見て取れる。


第三章:血戦、蟹江城 ― 籠城戦の激化(6月20日~28日)

完全に孤立無援となった蟹江城では、約1週間にわたり、戦国史上でも屈指の壮絶な籠城戦が繰り広げられた。それは、老将・滝川一益の意地と、織田・徳川連合軍の圧倒的な物量が激突する死闘であった。

6月20日 、織田・徳川両軍による蟹江城への本格的な攻撃が開始された。徳川家康が東から、織田信雄が南と西から城を攻め立て、包囲の輪は一層狭められた 16

6月21日 、一益の苦戦の報は、ついに秀吉本隊の耳にも達した。秀吉は美濃から近江・佐和山城へと本陣を移し、救援の動きを見せる 16 。しかし、蟹江城までの道のりは遠く、大軍を動かすには時間を要する。この動きは、救援の意志を示す以上の意味を持たなかった。

そして 6月22日 、籠城戦は最大の激戦を迎える。織田信雄と徳川家康は、全軍に総攻撃を命令した 16 。城の各所で、凄まじい攻防が展開された。

  • 海門寺口(南)の激戦 : 城の大手口にあたるこの方面では、連日の激戦で酒井忠次隊が疲弊。夕刻、代わって榊原康政、松平家忠の精鋭部隊が投入された 16 。城方では谷崎忠右衛門が奮戦したが、この日の戦闘で鉄砲傷を負い、これが致命傷となって3日後に絶命したと伝わる 16
  • 前田口(東)の攻防 : ここでは、滝川一益の子・滝川一忠が守備の指揮を執った。攻め手の将・水野勝成と一忠が直接切り結び、双方深手を負うという、まさに死力を尽くした白兵戦が繰り広げられた 16
  • 乾口(北西)の攻防 : 織田信雄自身が直属の兵を率いて攻撃を指揮し、攻城軍の士気を高めた 16

この絶望的な状況下で、総大将・滝川一益は鬼神の如き働きを見せた。味方の戦列が崩れかけると、自ら門の守備に立ち、兵を叱咤激励して二の丸まで後退させたという 16 。老将の意地が、かろうじて城の崩壊を食い止めていた。この戦いは、両軍が相当数の鉄砲を駆使した激しい銃撃戦の様相を呈しており、「尾州蟹江の鉄砲合戦」とも称されるほどの激しさであった 17

6月23日 、戦局はさらに悪化する。石川数正と阿部信勝の攻撃を受け続けていた前田城が、ついに開城したのである 16 。守将の前田長種は降伏し、徳川家康が榊原康政を伴って入城。これにより、蟹江城は最後の支城を失い、完全に裸の状態となった。

6月24日から25日 にかけて、秀吉の焦りは頂点に達していた。彼は近江・土山、さらに伊勢・椋本へと本陣を前進させ、信濃の木曾義昌に対して、7月15日に尾張西部から総攻撃をかけるという壮大な計画を伝えている 16 。しかし、それは蟹江城で死闘を繰り広げる一益たちには、到底間に合わない遠い未来の話であった。秀吉の救援が間に合わないことは、当時の情報伝達と軍隊移動の物理的限界を如実に示している。家康が至近距離から即応できたのとは対照的に、美濃にいた秀吉にとって、蟹江はあまりにも遠かったのである。

6月26日から28日 にかけて、城内の状況は限界に達した。兵糧と弾薬は尽き果て、連日の戦闘で兵は疲弊しきっていた 18 。さらに、織田・徳川方からは昼夜を問わず降伏を促す声(呼ばわり攻め)が浴びせられ、城兵の士気は著しく低下していった 18 。滝川一益の目には、もはや落城の二文字がはっきりと見えていたに違いない。


表2:蟹江城 総攻撃における両軍の兵力配置(天正12年6月22日時点)

配置・攻め口

城方(羽柴方武将)

攻め方(織田・徳川方武将)

本陣

滝川一益, 滝川一忠, 津田藤三郎 他

徳川本陣 : 徳川家康, 石川数正, 井伊直政, 本多忠勝 織田本陣 : 織田信雄, 織田長益, 水野忠重

海門寺口(南)

谷崎忠右衛門

酒井忠次, 榊原康政, 天野雄光, 丹羽氏次

前田口(東)

日置五左衛門, 滝川一忠

松平康忠, (服部正成), 水野勝成

乾口(北西)

滝川忠征

織田信雄(直属軍), 大須賀康高

出典: 16 に基づき作成

この布陣は、合戦のクライマックスにおける両軍の対峙を具体的に示している。徳川四天王(酒井、本多、榊原、井伊)が揃い踏みし、水野勝成のような猛将が最前線で激突する様相は、この戦いが織田・徳川連合軍にとっても総力戦であったことを物語っている。


第四章:落城とその後 ― 戦いの終焉と遺したもの

約半月にわたる壮絶な攻防戦の末、蟹江城合戦はついに終焉の時を迎えた。その結末は、戦国時代の非情な現実と、天下の形勢に与えた深遠な影響を色濃く映し出している。

6月29日 、秀吉からの援軍の望みが完全に絶たれ、城内の兵も心身ともに限界に達したことを悟った滝川一益は、ついに降伏を決断。織田・徳川方との間で和平交渉が開始された 16

そして 7月3日 、交渉は妥結し、蟹江城は開城された。織田信雄が「滝川は信長公の功臣である」として家康に助命を嘆願したこともあり、一益の命は助けられた 10 。一益は、この作戦の発端となった内応の首謀者、前田長定の首を差し出すことを条件に、海路伊勢へと退去することが許された 10

しかし、ここで戦国の非情さを示す悲劇が起こる。和睦の条件にもかかわらず、退去中であった前田長定が殺害されたのである 16 。これが家康の厳命であったのか、あるいは一益自身が裏切り者として処断したのか、真相は定かではない。しかしこの出来事は、当時の武士社会における倫理観を明確に示している。滝川一益は、秀吉方の将として堂々と戦った「敵」であり、武士としての面目を保つことが許された。一方、前田長定は主君を裏切った「内応者」であり、秩序を乱す許されざる存在と見なされた。彼の処刑は、連合軍による「裏切り者は決して許さない」という厳格な意思表示であり、自軍の結束を固めるための見せしめとしての意味合いが強かったと推察される。

戦後、各将はそれぞれの道を歩んだ。

  • 滝川一益 : 伊勢神戸城に戻ろうとしたが、城代の富田一白に疑われ入城を拒否されるという屈辱を味わう 16 。しかし、秀吉は作戦の失敗を責めることなく、当初の約束通り一益とその子に所領を与えた 16 。これは、失敗は許しつつも、一度用いた将を見捨てないという秀吉の度量の大きさを示す逸話である。
  • 羽柴秀吉 : 7月15日に計画していた6万2千の兵による尾張総攻撃は、蟹江城の陥落によって機を逸し、中止せざるを得なくなった 16 。7月29日、秀吉は失意のうちに大坂城へと帰還する 16
  • 徳川家康 : 7月5日に桑名城に入って伊勢方面の守りを固めた後、13日に清洲城へ帰還し、勝利を確固たるものとした 16

この蟹江城合戦の歴史的意義は、単なる一戦の勝敗に留まらない。この手痛い敗北により、秀吉は徳川家康を純粋な軍事力のみで屈服させることが極めて困難であることを、改めて痛感させられたのである 10 。これ以降、秀吉の対家康戦略は、直接的な軍事対決を避け、連合の弱い環である織田信雄を政略的に切り崩して単独講和に持ち込むという、外交・謀略戦へと大きく舵を切ることになる 20

皮肉なことに、蟹江での「戦術的失敗」が、秀吉に「政略的成功」への道を選ばせたとも言える。もしこの作戦が成功していた場合、家康との間でさらに大規模な消耗戦に突入し、天下統一は遅れていたかもしれない。しかし、この敗北を教訓に、秀吉は家康に対して妹の朝日姫を嫁がせ、母の大政所を人質に送るなど、臣従させるための外交努力に全力を注ぐ。結果として、この一戦は、後の豊臣政権の早期確立に繋がる重要な戦略的転換点となったのである。

合戦の舞台となった蟹江城は、その後数奇な運命を辿る。合戦による甚大な被害に加え、戦後に秀吉と信雄の間で和議が結ばれたため、城が修復されることはなかった 1 。そして翌年の天正13年(1585年)に発生した天正大地震によって城は壊滅的な被害を受け、完全に廃城となった 2 。かつて数多の将兵が血を流した strategic な要衝は、現在では城址公園として整備され、往時を偲ばせる本丸の井戸跡と石碑が、静かに歴史を物語るのみである 2

引用文献

  1. 蟹江城と蟹江合戦 - 蟹江町 https://www.town.kanie.aichi.jp/uploaded/attachment/17783.pdf
  2. 蟹江城址公園・蟹江城本丸井戸跡 | ロケーション | かにえフィルムコミッション https://www.kanie-film.com/location/2020-09-27-7.html
  3. 蟹江城址:東京・中部エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/15806
  4. (滝川一益と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/21/
  5. 蟹江城址 - 愛知県蟹江町公式ホームページ https://www.town.kanie.aichi.jp/soshiki/18/kaniejyousi.html
  6. 蟹江城址公園 | 蟹江町観光協会 かにナビ https://www.kaninavi.jp/gallery/gallery-552/
  7. 滝川一益の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46490/
  8. 滝川一益 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
  9. 蟹江城の見所と写真・300人城主の評価(愛知県蟹江町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/250/
  10. 蟹江城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/kanie.j/kanie.j.html
  11. 九鬼嘉隆- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E5%98%89%E9%9A%86
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  13. PR 鳥羽湾に九鬼水軍と「信長の鉄甲船」がARで出現!陸上で、船上で、その迫力を体感せよ! https://shirobito.jp/article/2018
  14. 【感想】NHK 歴史探偵「海の戦国 九鬼水軍」を視聴しました|hayahi_taro - note https://note.com/hayahi_taro/n/n5428b966efc1
  15. 燃えない甲鉄船で毛利船団を殲滅! 九鬼嘉隆は日本一の海賊大名と呼ばれたが… - 歴史人 https://www.rekishijin.com/18021
  16. 蟹江城合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E6%B1%9F%E5%9F%8E%E5%90%88%E6%88%A6
  17. 蟹江城合戦・後編 - 日々の探索 http://sahashi.vivian.jp/kaniekouhen.html
  18. 蟹江町歴史編 - 水郷楽人の塵芥録HP版 https://mizunosatogakuto.jimdofree.com/%E8%9F%B9%E6%B1%9F%E7%94%BA%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%A0/%E8%9F%B9%E6%B1%9F%E7%94%BA%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%A8/
  19. 蟹江城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kanie.htm
  20. 蟹江城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1549
  21. 蟹江合戦で落城し天正地震で壊滅!滝川一益ゆかりの尾張蟹江城 https://sengokushiseki.com/?p=1718