観音寺城の戦い(1568)
観音寺城の戦い(1568年)-天下布武の第一歩、畿内平定戦の全貌-
序章:天下布武の号令 – 織田信長、上洛への道
永禄十一年(1568年)、日本の政治的中枢であった畿内は、権威の真空状態にあった。三年前の永禄八年(1565年)に勃発した「永禄の変」により、室町幕府第十三代将軍・足利義輝が三好三人衆と松永久秀によって弑逆されるという未曾有の事態が発生し、幕府の権威は完全に地に堕ちていた 1 。この政変後、畿内の実権は三好三人衆が擁立した足利義栄(第十四代将軍)が名目上握っていたが、その支配は盤石とは言い難かった。一方で、義輝の弟であった一乗院覚慶は、細川藤孝らの手引きで幽閉先の奈良を脱出し、還俗して足利義昭と名を改め、次期将軍の正統性を主張していた 1 。しかし、義昭は自前の武力を持たず、越前の朝倉義景などを頼るも上洛の夢は果たせず、流浪の日々を送っていたのである 3 。
この中央権力の空白という好機を捉えたのが、尾張・美濃二国を完全に手中に収めた織田信長であった。永禄十年(1567年)に斎藤龍興を追放し美濃を平定した信長は、居城を稲葉山城から岐阜城へと移し、「天下布武」の朱印を用い始める 1 。これは、武力をもって天下に号令し、日本の混乱を収拾するという明確な意志表示であった。信長にとっての上洛は、単なる軍事的な勢力拡大ではなく、朝廷への奉仕を通じて乱れた世の秩序を回復する「天下静謐」を実現するための政治的行為であった 6 。
この大義名分を現実のものとする上で、足利義昭の存在は不可欠であった。正統な将軍継承候補者を奉戴することは、信長の軍事行動に「幕府再興」という錦の御旗を与えるからである。朝倉義景のもとで時間を浪費していた義昭は、美濃平定を成し遂げた信長からの誘いに応じ、永禄十一年七月、美濃の立政寺にて信長と会見する 1 。ここに、圧倒的な武力を持つ信長と、正統な権威を持つ義昭の利害が一致し、上洛計画は一気に具体化した。
観音寺城の戦いは、この信長の「天下布武」が初めて実践された戦いであり、その後の日本の歴史を大きく左右する分水嶺であった 2 。それは単に上洛路の障害を排除する一戦闘に留まらず、旧来の権威が支配した戦国時代の終わりと、新たな実力者が天下を動かす安土桃山時代の幕開けを告げる、画期的な出来事であった。本報告書では、この歴史的転換点の全貌を、合戦に至る政治的背景、両陣営の戦略、戦闘のリアルタイムな推移、そして戦後の歴史的意義に至るまで、多角的な視点から徹底的に解明するものである。
第一章:対峙する二つの勢力
信長の上洛軍が近江に迫る中、これに立ちはだかった六角氏との対立は、単なる領土的な問題ではなく、新旧二つの時代の価値観の衝突でもあった。
第一節:織田信長の戦略と大義名分
永禄十一年時点での織田信長の力は、他の戦国大名を圧倒するものであった。尾張・美濃の二国を完全に掌握し、安定した経済基盤と強大な軍事動員力を確保していた。さらに外交戦略においても、東方の三河国では徳川家康と強固な同盟関係を維持し、北近江では妹のお市を浅井長政に嫁がせることで同盟を結んでいた 5 。これにより、信長は後顧の憂いなく、全戦力を西方の上洛作戦に集中させることが可能な体制を構築していたのである。
しかし、信長の強みは単なる軍事力に留まらなかった。彼は足利義昭を奉戴することで「室町幕府の再興」という、誰もが否定し得ない大義名分を掲げた 8 。さらに、正親町天皇から尾張・美濃両国における皇室領の回復などを命じる綸旨(天皇の命令書)を受けており、「朝廷への奉仕」というもう一つの正当性も確保していた 2 。これにより、信長の軍事行動は単なる私戦や侵略ではなく、天下の秩序を回復するための「公戦」としての性格を帯び、敵対する勢力こそが「朝敵」「幕敵」であるという政治的優位性を確立した。この武力と正統性の結合こそが、信長が旧来の大名とは一線を画す存在であったことを示している。
第二節:名門六角氏の苦悩と決断
信長の前に立ちはだかった南近江の守護・六角義賢(承禎)、義治父子は、宇多源氏佐々木氏の嫡流という、日本有数の名門の出自を誇っていた 10 。代々室町幕府の重職を担い、近江一国を支配してきた彼らにとって、尾張出身の新興勢力である信長が、将軍を擁して自らの領国を通過すること自体、到底容認できるものではなかった 7 。この名門としての自負が、信長への反発の根底にあった。
政治的にも、六角氏は信長と敵対する畿内の実力者・三好三人衆と連携関係にあった 1 。信長が義昭を奉じて上洛するということは、三好三人衆が擁立する将軍・足利義栄の体制を打倒することを意味する。六角氏にとって信長に協力することは、同盟者である三好氏を裏切り、畿内の既存の権力構造を自ら破壊する行為に他ならなかった。それゆえ、信長からの再三の協力要請や、義昭からの「協力すれば幕府の所司代に任じる」という破格の条件提示も、彼らは頑として拒絶したのである 1 。これは、旧秩序の守護者としての、彼らなりの合理的な政治判断であった。
しかし、その決断を支えるべき六角家の内部は、深刻な問題を抱えていた。永禄六年(1563年)、当主の六角義治が重臣の後藤賢豊を観音寺城内で誅殺したことに端を発する内紛、いわゆる「観音寺騒動」が勃発した 11 。この事件は家臣団に深刻な不信感を植え付け、一時は義賢・義治父子が家臣によって居城から追放される事態にまで発展した 14 。蒲生定秀らの仲介で帰還は果たしたものの、当主の権威は失墜し、家中の結束は大きく揺らいでいた。信長の侵攻は、この内部から崩壊しつつあった六角家にとって、致命的な一撃となったのである。信長は、この内部の脆弱性を見抜き、合戦前から六角氏の有力家臣に降伏を勧告する調略を行っており、その効果は絶大であった 12 。
第二章:開戦前夜 – 近江への進軍
永禄十一年九月、美濃を発した織田信長の大軍は、破竹の勢いで近江へと進軍した。迎え撃つ六角氏は、本城・観音寺城を中心とした防衛網でこれに対峙しようとしたが、両者の間には圧倒的な戦力差が存在した。
織田軍の編成と進発
『信長公記』によれば、織田信長は永禄十一年九月七日に美濃岐阜城を出陣したとされる(異説あり) 1 。信長率いる尾張・美濃の軍勢を中核に、同盟者である三河の徳川家康軍、北近江の浅井長政軍などが次々と合流し、その総兵力は五万から六万という、当時としては空前の規模に膨れ上がった 2 。
信長軍はまず、同盟国である浅井領を通り、九月七日には佐和山城(現在の彦根市)に入城した 2 。ここで数日間滞在し、六角氏への最後の降伏勧告を行うとともに、軍勢を整えた。説得が決裂に終わると、軍を南下させ、九月十一日には決戦の地となる愛知川の東岸に広大な野陣を敷いた 12 。眼前に広がる「人吞み川」とまで呼ばれた荒れ川の向こうには、六角氏の城塞群が待ち構えていた 17 。
六角方の防衛体制
対する六角方の総兵力は、約一万一千と推定されており、織田連合軍の五分の一にも満たない、絶望的な兵力差であった 11 。彼らの防衛戦略は、繖山(きぬがさやま)に築かれた本城・観音寺城を司令塔とし、その南に連なる箕作山(みつくりやま)の箕作城、および和田山城といった支城群で多重の防衛線を構築するという、伝統的な籠城戦術であった 2 。六角方は、大軍である織田軍はまず周辺の支城を一つずつ攻略してくるだろうと予測し、それぞれの城に兵力を分散させて守りを固めていた 12 。しかし、この予測こそが、信長の仕掛けた電撃戦の前に致命的な誤算となるのであった。
【表1】両軍の兵力と主要指揮官一覧
陣営 |
総兵力(推定) |
主要指揮官 |
備考 |
織田連合軍 |
50,000 - 60,000 |
総大将: 織田信長 部隊長: 柴田勝家, 丹羽長秀, 滝川一益, 木下秀吉, 森可成, 稲葉良通, 神戸具盛 等 同盟軍: 徳川家康 (松平信一), 浅井長政 |
尾張・美濃・北伊勢・三河・北近江の兵力から構成 2 |
六角軍 |
約 11,000 |
総大将: 六角義賢 (承禎), 六角義治 城主: 吉田出雲守 (箕作城) 等 |
南近江の兵力のみ 11 |
第三章:永禄十一年九月十二日 – 合戦のリアルタイム詳報
永禄十一年九月十二日、この一日は日本の歴史が大きく動いた日となった。信長は六角方の予測を根底から覆す、大胆かつ迅速な作戦を展開した。
早朝:愛知川渡河と電撃的展開
九月十二日の夜明けと共に、織田軍は一斉に行動を開始した。彼らは愛知川を渡河すると、六角方が想定していたような支城への逐次攻撃を完全に無視し、軍を三つの部隊に分けて防衛線の中枢へと殺到した 2 。これは、末端を切り崩すのではなく、頭脳と心臓を同時に叩くという信長の戦略思想の現れであった。
- 第一隊(和田山城方面): 稲葉良通が率いる部隊が向かい、城を包囲下に置いた。
- 第二隊(観音寺城方面): 柴田勝家と森可成が率いる部隊が本城の麓に布陣。これは六角本隊を城内に釘付けにし、他の戦線への増援を防ぐための陽動および牽制を目的としていた。
- 第三隊(箕作城方面): 織田信長自らが率いる主力が、観音寺城の最も重要な支城である箕作城へと向かった。この部隊には、丹羽長秀、滝川一益、そして木下秀吉といった織田軍の精鋭が含まれていた 2 。
この意表を突いた三方面同時展開により、六角方の防衛構想は開戦劈頭にして崩壊し、各城は連携を断たれて孤立した。
午前~午後:主戦場・箕作城の激戦
戦いの火蓋は、信長本隊が攻撃を開始した箕作城で切られた 2 。箕作城は急峻な山容を利用した天然の要害であり、城主・吉田出雲守が率いる守備隊の士気も高く、織田軍は想像以上の激しい抵抗に直面する 2 。木下秀吉隊(約2,300)が北から、丹羽長秀隊(約3,000)が東から猛攻を加えるが、守りは固く、攻めあぐねる時間が続いた。特に午後五時頃には、六角方の反撃によって織田軍が一時押し返される場面もあり、昼間の正攻法だけではこの堅城を落とすことは困難であることが明らかとなった 2 。
夕刻~夜半:木下秀吉の献策と夜襲
昼間の攻撃が頓挫し、膠着状態に陥る中、軍議の席で木下秀吉が夜襲を献策する 2 。これは、昼間の激戦で疲弊し、夜になれば警戒が緩むであろう敵の心理的な隙を突く作戦であった 18 。信長はこの策を容れ、夜襲の決行を命じる。
夜陰に乗じて密かに城に接近した秀吉の部隊は、鬨の声を上げて一斉に突入し、城の各所に火を放った 16 。闇と炎の中で方向感覚を失い、大混乱に陥った六角守備隊は、もはや組織的な抵抗を維持することができなかった。この奇襲攻撃により、昼間はあれほど難攻不落に見えた箕作城は、わずか一夜にして織田軍の手に落ちたのである 19 。
【表2】九月十二日 合戦タイムライン
時間帯 |
箕作城(信長本隊) |
観音寺城(柴田・森隊) |
和田山城(稲葉隊) |
六角方の動向 |
早朝 |
愛知川を渡河し、城へ進軍。攻撃準備を開始。 |
城の麓に布陣し、牽制行動を開始。六角本隊を城に釘付けにする。 |
城を包囲し、圧力をかける。 |
織田軍の予期せぬ進軍速度と目標設定に混乱。籠城態勢を固める。 |
午前~午後 |
木下秀吉隊、丹羽長秀隊が攻撃を開始するも、吉田出雲守の頑強な抵抗に遭い、苦戦。 |
陽動攻撃を継続。 |
包囲を維持。 |
箕作城で織田軍の攻勢を食い止め、善戦。防衛成功の兆しが見える。 |
夕刻(午後5時頃) |
攻めあぐね、一時的に押し返される。軍議が開かれ、夜襲が決定。 |
牽制を続ける。 |
包囲を続ける。 |
昼間の防衛成功に安堵し、夜間の警戒が緩む可能性。 |
夜半 |
木下秀吉隊を中心に夜襲を敢行。火を放ち、混乱の中で城内に突入。箕作城、陥落。 |
- |
- |
箕作城の守備隊が崩壊。城主・吉田出雲守討死か。 |
第四章:落城と敗走
箕作城の一夜城のごとき陥落は、六角方の防衛線全体に致命的な衝撃を与え、その崩壊を決定づけた。
ドミノ倒しの如き崩壊
防衛の要と頼んでいた箕作城が、予期せぬ夜襲によりわずか一日で陥落したという報は、六角方の兵士たちの戦意を根こそぎ奪い去った 20 。特に、箕作城と連携して防衛線を担っていた和田山城の守備兵は、この報に完全に動揺し、織田軍と刃を交えることなく城を放棄して逃亡した 16 。これにより、和田山城は一滴の血も流されることなく織田軍の手に落ちた。
防衛線の中核を完全に失い、裸同然となった本城・観音寺城では、六角義賢・義治父子が籠城戦の続行を断念した。彼らは九月十二日の夜のうちに城を捨て、一族の支配基盤が強固な甲賀郡へと落ち延びていった 1 。主を失った観音寺城は、翌九月十三日、織田軍によって無血で接収された 5 。こうして、近江源氏の名門六角氏の本拠地は、実質的な戦闘がないまま、あっけなく陥落したのである。
このあまりに早い決着は、六角氏の伝統的な防衛思想に根差す部分もある。彼らは過去にも幕府軍の討伐を受けた際、本拠を一時的に放棄して甲賀の山中に潜み、ゲリラ戦を展開して敵を疲弊させる戦術で生き延びてきた歴史があった 12 。観音寺城の放棄は、単なる敗北ではなく、戦いの舞台を得意とするゲリラ戦へと移行させるための、意図的な戦略転換であったと解釈することも可能である。彼らは短期決戦を避け、長期的な抵抗によって信長を苦しめる道を選んだのであり、この選択が後の「信長包囲網」へと繋がっていく。
蒲生賢秀の抵抗と降伏
六角氏の主だった家臣たちが次々と降伏、あるいは逃亡する中で、重臣の蒲生賢秀だけは居城である日野城に約千の兵と共に籠城し、最後まで抵抗の意志を示した 2 。しかし、信長はこれを力でねじ伏せることを選ばなかった。賢秀の妹が、信長の養女を娶って織田一門に連なっていた神戸具盛の妻であった縁を利用し、具盛を説得の使者として日野城へ派遣したのである 2 。
具盛による説得は功を奏し、賢秀は主家が敗走した以上、これ以上の抵抗は無益と判断し、城を開いて降伏した。その際、忠誠の証として嫡男の鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として信長に差し出した 2 。信長は賢秀の器量を高く評価し、本領を安堵して家臣として迎えた。この巧みな戦後処理により、信長は無用な血を流すことなく南近江の有力国人を味方に引き入れ、後の天下統一事業に大きく貢献する将を得ることになったのである。
第五章:城郭から見た敗因 – 観音寺城の構造的脆弱性
六角氏が、日本最大級と称される堅固な山城・観音寺城をほとんど戦わずに放棄した背景には、この城が持つ構造的な特性と、六角氏の統治体制そのものが深く関わっている。
巨大山城の実像
観音寺城は、繖山の広大な山域全体を要塞化した、中世山城としては比類なき規模を誇る城郭であった 10 。城内には無数の郭が築かれ、壮麗な石垣が各所に見られる 23 。特に、家臣たちの屋敷が計画的に配置され、一部には碁盤目状の区画も確認されることから、単なる軍事拠点ではなく、六角氏の政治・経済の中心地として機能する「城郭都市」としての性格が強かったことがうかがえる 24 。
構造的弱点と六角氏の統治体制
しかし、専門的な城郭研究の観点からは、その巨大さとは裏腹に、防御機能には疑問が呈されている。多くの郭は防御的な連携を考慮せず、単純に並べられた構造であり、虎口(城の出入り口)の設計も比較的簡素であった 10 。この構造は、観音寺城が戦闘時の防御効率よりも、平時の居住性や家臣団の序列を重視して拡張されてきたことを示唆している。
この背景には、六角氏の統治体制があった。六角氏は絶対的な権力を持つ君主というよりは、近江国内の有力な国人(在地領主)たちを束ねる連合政権の盟主という性格が強かった 10 。そのため、城の縄張りも、家臣たちを効率的に支配・動員するための軍事施設としてではなく、彼らの地位や所領を城内に再現する政治的な空間として設計されたのである。城の構造そのものが、六角氏の権力が中央集権的でなかったことの物証と言える。
信長の戦術との相性
この巨大で防御の甘い城郭は、信長の戦術と致命的に相性が悪かった。城域が広大すぎるため、限られた兵力で全ての防衛ラインを維持することは不可能であった 23 。六角氏が伝統的に、危機に際しては城を一時放棄してゲリラ戦に移行する戦術をとってきたことも、城自体の防御機能を徹底的に高める動機を削いだと考えられる 25 。
信長の戦略は、分散した敵の防衛網の弱点を無視し、その中枢である箕作城に全力を集中させる「一点突破」であった。一つの重要な支城が陥落しただけで、本城の防衛すら不可能になるという構造的な脆さは、観音寺城が信長のような近代的・合理的な軍事思想の前には無力であったことを物語っている。観音寺城の無血開城は、六角氏の統治体制と、それを反映した城郭構造そのものの敗北であった。
第六章:戦後の影響と歴史的意義
観音寺城の戦いは、わずか一日で決着したが、その影響は畿内全域に及び、日本の歴史を新たな段階へと進める決定的な契機となった。
信長の上洛と畿内平定
南近江の電撃的な平定を終えた信長は、美濃の立政寺に待機していた足利義昭を、観音寺城下の桑実寺に丁重に迎え入れた 7 。そして九月二十六日、信長は義昭を奉じて、遂に京都への進軍を開始した 5 。
六角氏のあまりにも早い敗北は、彼らと連携していた三好三人衆に激しい衝撃を与えた。彼らは織田軍の勢いを前に組織的な抵抗を断念し、満足な戦闘も行わないまま京都から駆逐され、本拠地である四国の阿波へと逃走した 2 。また、畿内のもう一方の実力者であった松永久秀は、いち早く信長の実力を見抜き、名物茶器「九十九髪茄子」を献上して恭順の意を示した 28 。信長はこの降伏を受け入れ、久秀の大和国支配を安堵した。
こうして信長は、ほとんど抵抗を受けることなく、わずか半月ほどの期間で畿内一帯を平定した。九月二十八日には入京を果たし、十月十八日、足利義昭は朝廷から征夷大将軍に任命され、室町幕府は形式上再興された 2 。信長は、この新将軍の後見人として、事実上の天下人としての地位を確立したのである。
抵抗を続ける六角氏と信長包囲網への伏線
一方で、甲賀郡へ敗走した六角義賢・義治父子は、決して屈服したわけではなかった。彼らは地の利がある甲賀の地で勢力を再編し、現地の甲賀武士団と連携して、信長の支配に対する執拗なゲリラ戦を開始した 1 。この抵抗は、元亀元年(1570年)に浅井長政が信長に反旗を翻すと、より組織化されたものとなる。六角氏は浅井・朝倉氏、本願寺勢力などと連携し、反信長勢力の一翼を担う「信長包囲網」の重要な構成員として、その後も数年間にわたり信長を苦しめ続けることになる 30 。大名としての六角氏は滅亡したが、その存在は近江における不安定要因として残り続けた。
歴史的意義
観音寺城の戦いは、織田信長が「天下布武」を掲げて実行した最初の軍事行動であり、その後の天下統一事業の輝かしい出発点となった 2 。この戦いの電撃的な勝利は、信長の卓越した軍事的能力と、旧来の権威に代わる新たな時代の支配者の到来を全国に知らしめる、絶大な宣伝効果を持った。
この信長の上洛をもって、応仁の乱以来約100年続いた戦国時代は実質的に終わりを告げ、安土桃山時代が始まったとする歴史区分も存在する 2 。それは、家柄や伝統といった旧来の権威が、圧倒的な武力と合理的な戦略の前には無力であることを証明した象徴的な出来事であった。観音寺城の戦いは、日本の歴史が大きく転換した瞬間を刻む、極めて重要な一戦であったと言える。
結論:観音寺城の戦いが変えたもの
永禄十一年(1568年)の観音寺城の戦いは、その戦闘期間の短さとは裏腹に、戦国時代の終焉と天下統一事業の本格的な始動を告げる、極めて重大な歴史的転換点であった。
第一に、この戦いは日本の権力構造におけるパラダイムシフトを象徴するものであった。宇多源氏の名門であり、室町幕府の重鎮であった六角氏が、新興勢力である織田信長の前にわずか一日で崩壊した事実は、家柄や伝統といった旧来の権威が、圧倒的な軍事力と合理的な戦略思想の前にはもはや通用しないことを天下に示した。これは、中世的な価値観の終焉であり、実力主義に基づく新たな時代への移行を決定づけた出来事であった。
第二に、観音寺城の攻略とそれに続く上洛の成功は、織田信長を単なる一地方の有力大名から、日本の新たな秩序を創造する「天下人」へと押し上げた。信長は足利義昭を将軍に据えることで政治的正当性を確保し、畿内を平定することでその実力を証明した。ここから、武力による日本の再統一という、前例のない壮大な事業が本格的に始動する。観音寺城の戦いは、その歴史の序幕を飾るにふさわしい、鮮烈な勝利であった。
しかし、この鮮やかすぎる勝利は、皮肉にも後の新たな対立の火種を内包していた。信長が見せつけた圧倒的な軍事力は、彼が擁立した将軍・足利義昭との間に、修復不可能なほどの力関係の不均衡を生み出した。義昭は、自らの権威が信長の武力に依存せざるを得ない現実に直面し、やがて「信長の傀儡」という立場からの脱却を望むようになる。この両者の亀裂が、後に「信長包囲網」という形で信長を最大の危機に陥れることになるのである。
総じて、観音寺城の戦いは、古い時代を終わらせ、新しい時代を切り拓いた戦いであった。それは信長の覇業の第一歩であると同時に、彼の前に立ちはだかる新たな困難の始まりでもあった。この一戦がもたらした力学の変化こそが、その後の日本の歴史を大きく動かしていく原動力となったのである。
引用文献
- 【解説:信長の戦い】観音寺城の戦い(1568、滋賀県近江八幡市安土町) 信長上洛の途で六角氏が通せんぼ!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/384
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- 史実で辿る足利義昭上洛作戦。朝倉義景との蜜月、信長への鞍替え。でも本命は上杉謙信だった? 【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1007630
- なぜ織田信長は足利義昭を推戴して上洛し、室町幕府を再興したのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2885
- 観音寺城の戦い 畿内平定 1568年 信長公記 私的翻訳解説 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=YOW9-KTTSPs
- sengoku-his.com https://sengoku-his.com/2885#:~:text=%E7%B5%90%E8%AB%96%E3%82%92%E5%85%88%E5%8F%96%E3%82%8A%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%80%81%E4%BF%A1%E9%95%B7,%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A0%E3%80%82
- 観音寺城の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kannonjijo/
- 将軍足利義昭と織田信長の不可思議な関係。信長はなぜ管領にも副将軍にもならなかったのか?【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1010121
- 織田信長・箕作山城の戦い① http://members.e-omi.ne.jp/527shuku.higo.seikai/sub50.html
- 観音寺城跡 - 滋賀県総合教育センター https://www.shiga-ec.ed.jp/www/contents/1438304524592/html/common/other/55d173d3032.pdf
- 「六角義賢(承禎)」信長に最後まで抵抗し続けた男! 宇多源氏の ... https://sengoku-his.com/308
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- 「観音寺城の戦い」目次・はじめに・川村一彦 - 楽天ブログ https://plaza.rakuten.co.jp/rekisinokkaisou/diary/202410120000/
- 観音寺騒動 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/key/kannonjisoudou.html
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- 戦史に見る夜襲の成功と失敗 - 株式会社stak https://stak.tech/news/21912
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- 【滋賀県】箕作城の歴史 戦国最後の合戦の舞台!近江の激戦地 https://sengoku-his.com/933
- 【六角軍と織田軍】 - ADEAC https://adeac.jp/konan-lib/text-list/d100010/ht030450
- 箕作山城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/260/memo/4279.html
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- 蘇れ、幻の観音寺城 – 観音寺城|本谷プロジェクト http://hontani.anvil.co.jp/
- 残念すぎる日本の名城 第52回:観音寺城|石垣のマチュピチュ、近江の幻城|白丸 - note https://note.com/just_tucan4024/n/n8711025ed27c
- 足利将軍と近江 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/4035616.pdf
- 大混迷の畿内、最後はふりだしに戻る!?松永久秀(7) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/hisahide07
- これを読めばあなたも『松永久秀』が良くわかる?【前編】 https://akahigetei.weblike.jp/hurinkazan/danjo1.html
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