最終更新日 2025-08-29

諏訪原城の戦い(1582)

諏訪原城の攻防は1575年、徳川家康が武田氏から奪取。1582年には徳川方の「牧野城」として武田氏滅亡に貢献。徳川改修で鉄砲戦対応要塞へ変貌。

諏訪原城の攻防:天正三年と天正十年、二つの刻に見る戦略拠点の一生

序章:諏訪原城をめぐる時間軸の再設定 ― 1575年と1582年、二つの刻

日本の戦国時代、特に徳川家康と武田勝頼が激しく覇を競った遠江国(現在の静岡県西部)の歴史において、諏訪原城は極めて重要な戦略拠点であった。利用者から提示された「諏訪原城の戦い(1582)」という問いは、この城が持つ歴史的意義の核心に触れるものである。しかし、この城をめぐる最も激しく、その運命を決定づけた攻防戦が繰り広げられたのは、天正10年(1582年)ではなく、その7年前の天正3年(1575年)であったという歴史的事実から、本報告は筆を起こさねばならない 1

天正3年の戦いは、長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に壊滅的な敗北を喫した直後、徳川家康が反攻に転じ、武田方の遠江支配の楔であった諏訪原城を攻め落とした一連の攻防戦を指す。この勝利により、徳川方は大井川西岸の制圧、ひいては武田方の重要拠点・高天神城の孤立化を決定づけ、遠江・駿河国境の戦略的優位を確立した 1 。利用者が提示した概要「徳川方が攻略し、東遠・駿河境の通路を確保。高天神再攻略への布石となった」という記述は、まさにこの1575年の戦いの結果を的確に要約したものである。

一方、天正10年(1582年)は、武田氏が滅亡した「甲州征伐」の年である。この時、諏訪原城は既に徳川方の手に落ち、「牧野城」と改名され、対武田氏の最前線基地として、そして駿河侵攻のための橋頭堡として機能していた 3 。したがって、1582年における諏訪原城は、大規模な攻防戦の「対象」ではなく、徳川軍の最終的な勝利に貢献する「拠点」としての役割を担っていた。

本報告では、この二つの重要な時間軸を明確に区別し、まず天正3年(1575年)の「諏訪原城攻防戦」について、合戦のリアルタイムな状況が時系列で理解できるよう徹底的に詳述する。次に、天正10年(1582年)の甲州征伐における同城の役割を分析し、その戦略的ライフサイクルの終焉までを描き出す。

さらに、本報告は近年の発掘調査によってもたらされた画期的な知見を全面的に反映させる。従来、諏訪原城は「武田流築城術の典型」と見なされてきたが、調査の結果、現在見られる遺構の多くが、徳川氏によって攻略された後に施された大規模な改修によるものである可能性が極めて高くなった 1 。これは、徳川家康の築城技術と思想、そして長篠の戦い以降の戦術の変化を理解する上で、極めて重要な視点を提供するものである。

諏訪原城の物語は、単一の合戦の記録に留まらない。それは、武田氏の遠江支配の夢の象徴として生まれ、徳川氏の戦略的叡智によって駿河攻略の牙城へと生まれ変わり、そして武田氏の滅亡と共にその役目を終えた、一つの城郭が経験した栄枯盛衰の記録である。この城の土塁と堀に刻まれた歴史を紐解くことで、戦国時代における戦略、戦術、そして築城技術のダイナミックな変遷を浮き彫りにすることが、本報告の目的である。


表1:諏訪原城(牧野城)関連年表

年代

主要な出来事

天正元年(1573)

武田勝頼の命により、馬場信春を普請奉行として築城される 1

天正2年(1574)

武田軍が高天神城を攻略。諏訪原城は高天神城への補給拠点として重要性を増す 1

天正3年(1575)5月

長篠の戦い。織田・徳川連合軍が武田軍に大勝する 7

天正3年(1575)7月-8月

徳川家康が諏訪原城を包囲。約1ヶ月の攻防の末、城兵は小山城へ退去し落城 1

天正3年(1575)8月以降

徳川氏の持城となり「牧野城」と改名。大規模な改修が開始される 3

天正9年(1581)

徳川軍の兵糧攻めの末、高天神城が落城する 8

天正10年(1582)2月-3月

甲州征伐。牧野城は徳川軍の駿河侵攻における前線拠点として機能する。武田氏滅亡 9

天正18年(1590)頃

徳川家康の関東移封に伴い、戦略的重要性を失い廃城となる 1


第一部:戦略的要衝の誕生 ― 築城から徳川氏の手に落ちるまで

第一章:大井川を扼す要害

永禄12年(1569年)、駿河・遠江を支配した名門・今川氏が、西の徳川家康と東の武田信玄による挟撃を受けて滅亡した。この「駿河侵攻」の結果、大井川を境界として、東の駿河国は武田氏が、西の遠江国は徳川氏が領有するという分割統治が成立した 1 。しかし、この勢力均衡は長くは続かなかった。天下統一への野心を燃やす武田信玄にとって、遠江は上洛ルートを確保するための重要な足掛かりであり、両者の対立は必然であった。

元亀3年(1572年)、信玄は大規模な西上作戦を開始。徳川方の諸城を次々と攻略し、同年12月には三方ヶ原の戦いで徳川家康の本隊を壊滅的な敗北に追い込んだ 1 。翌元亀4年(1573年)に信玄は病没するが、その遺志を継いだ武田勝頼もまた、遠江支配への攻勢を緩めなかった。天正2年(1574年)、勝頼は徳川方にとっての遠江支配の要であり、難攻不落を誇った高天神城を攻略。これにより、武田氏の勢力は遠江の奥深くまで浸透し、家康の本拠地・浜松城に直接的な脅威を与えるに至った 1

この武田氏の遠江侵攻戦略において、兵站線の確保は最重要課題であった。特に、敵地深くに孤立する高天神城への補給路を維持することは、遠江支配を盤石にするための生命線であった。諏訪原城は、まさにこの戦略的要請に応えるために築かれた城である。天正元年(1573年)、勝頼は家臣の馬場信春を普請奉行に任じ、この城の建設を命じた 1

城が築かれた場所は、牧之原台地の北端、大井川の西岸に突き出した舌状台地の上であった 1 。眼下には東海道が通り、東は大井川を渡れば駿河国、西は小夜の中山を越えれば掛川に至る、まさに交通と軍事の結節点である 1 。この地は、大井川西岸の防衛線を形成すると同時に、高天神城への補給路を監視・防衛する上で、これ以上ないほどの要衝であった。城の名は、武田氏が篤く信仰する守護神、諏訪大明神を城内に祀ったことに由来するとされ、この城に込められた武田氏の強い意志が窺える 12 。諏訪原城は、武田氏の遠江支配を盤石にし、さらなる西方への進出を狙うための、まさに駿河・遠江国境に打ち込まれた巨大な楔であった。

第二章:甲州流築城術の粋か、徳川の叡智か ― 諏訪原城の構造

諏訪原城跡を訪れる者は、その壮大な土塁と深くえぐられた堀、そして特徴的な馬出(うまだし)の構造に圧倒される。長らく、これらの遺構は武田信玄・勝頼の時代に完成された「甲州流築城術」の粋を集めたものと考えられてきた。特に、城の防御の要である虎口(こぐち、城の出入り口)の前に設けられた半円形の曲輪である「丸馬出」と、その前面に掘られた「三日月堀」は、武田氏の城郭に特徴的な構造とされ、諏訪原城をその代表例として位置づけてきた 3 。この伝統的な見方によれば、諏訪原城は、台地の断崖絶壁を背後(東側)の守りとする「後ろ堅固」の地取りを活かし、攻撃正面である西側に幾重もの防御施設を集中させた、攻撃的防御思想の体現であった 3 。馬出は、籠城時に城兵が打って出て敵を側面から攻撃するための出撃拠点として機能すると考えられていた。

しかし、平成21年(2009年)から平成27年(2015年)にかけて島田市教育委員会によって実施された詳細な発掘調査は、この定説を根底から覆す衝撃的な事実を明らかにした 1 。調査の結果、武田氏時代に構築されたのは、城の核である本曲輪と、それに付随する南側の小規模な馬出群のみである可能性が高まった。そして、城の最大の特徴ともいえる巨大な二の曲輪や、日本最大級と評される二の曲輪中馬出といった主要な防御施設のほとんどが、天正3年(1575年)に徳川家康がこの城を奪取した後に、大規模な改修によって築かれたものであることが判明したのである 1

この発見は、諏訪原城の評価を「武田流築城術の城」から「徳川による対武田氏要塞」へと大きく転換させるものであった。徳川家康は、敵であった武田氏の築城術を巧みに取り入れつつ、それを自らの戦術思想に合わせて、より強固で実践的な城へと昇華させていた。その思想的背景には、諏訪原城落城のわずか2ヶ月前に起こった、長篠の戦いの経験が色濃く反映されている。

長篠の戦いは、織田・徳川連合軍が馬防柵と3,000丁ともいわれる鉄砲隊を駆使して、最強を誇った武田の騎馬軍団を一方的に撃破した、日本の戦史における戦術的転換点であった。この戦いで、家康は防御施設と火器の集中運用がもたらす圧倒的な防御力を目の当たりにした。諏訪原城を「牧野城」として改修するにあたり、家康はこの長篠の戦訓を即座に応用したのである。

徳川氏による改修の最大の特徴は、城の機能を「出撃拠点」から「射撃陣地」へと完全に変質させた点にある。発掘調査で明らかになった二の曲輪中馬出の土塁は、最大幅が約11mにも達する 6 。これは、兵士が出撃のために待機するには過剰な広さであり、むしろ安定した足場を確保し、大量の鉄砲兵を配置するための「砲台」として設計されたことを示唆している。さらに、馬出と二の曲輪をつなぐ通路は、容易に破壊可能な木橋(曳橋)であったことも判明しており、これは敵に馬出を奪われた際に即座に二の曲輪との連絡を遮断し、城全体を独立した防御ブロックの集合体として機能させる、徹底した防御思想の表れである 6

つまり、徳川氏が改修した牧野城は、敵を誘い込んで打って出る城ではなく、幾重にも連なる堀と巨大な土塁を盾に、侵攻してくる敵を鉄砲の十字砲火によって殲滅するための要塞であった。それは、長篠の馬防柵を、恒久的な城郭施設として再現・発展させたものに他ならない。諏訪原城の構造は、戦国末期の戦術が騎馬による突撃から鉄砲による火力戦へと移行していく、その過渡期の様相を最も雄弁に物語る、生きた物証なのである。


表2:武田氏築城期と徳川氏改修期の構造比較(発掘調査に基づく)

城郭部位

武田氏時代(推定)

徳川氏時代(発掘調査による)

丸馬出

攻撃的防御、出撃拠点としての機能。比較的小規模なものが主体。

静的防御、鉄砲射撃陣地としての機能。巨大な二の曲輪中馬出を新造。

土塁

比較的標準的な幅。防御と区画が主目的。

最大幅11mに及ぶ広大なもの。安定した射撃プラットフォームとして設計。

虎口・通路

直線的な土橋による連結が主。迅速な出撃を重視。

木橋(曳橋)を多用し、通路の分断・遮断を可能に。防御と遅滞を重視。

断面がV字型の薬研堀が主体。敵兵の足止めが目的。

断面が箱型の箱堀へ改修。より深く大規模になり、敵の侵入を完全に阻害。


第二部:天正三年、炎の籠城 ― 諏訪原城攻防戦のリアルタイム詳解

第一章:長篠の残響 ― 合戦前夜

天正3年(1575年)5月21日、設楽原に武田軍の精鋭たちの屍が累々と横たわった。長篠の戦いは、単なる一合戦の勝敗に留まらず、武田氏と徳川氏の力関係を根本から覆す、決定的な転換点となった 7 。山県昌景、馬場信春、内藤昌秀といった信玄以来の宿老を含む多くの将兵を失った武田勝頼は、その軍事的支柱をへし折られ、これまで維持してきた攻勢を続ける能力を完全に喪失した 7

この千載一遇の好機を、徳川家康が見逃すはずはなかった。長篠の勝利に安住することなく、彼は即座に反攻作戦を開始する。その最初の、そして最大の目標とされたのが、諏訪原城であった 1 。この城は、前述の通り、武田氏の遠江支配の象徴であり、高天神城への生命線を握る戦略的要衝である。諏訪原城を落とすことは、武田氏の勢力を遠江から一掃し、数年にわたる苦杯をなめさせられてきた劣勢を挽回するための、絶対不可欠な第一歩であった。

長篠の戦いからわずか2ヶ月後の7月、家康は満を持して遠江東部へと軍を進めた。武田方は長篠での大敗により、領国全体の防衛体制の再構築に追われており、遠江の諸城に大規模な援軍を送る余力はもはや残されていなかった。諏訪原城の守備隊は、武田本国からの支援が絶望的な状況で、徳川軍の圧倒的な兵力を迎え撃つことになったのである。

第二章:包囲網の形成 ― 天正3年7月

天正3年(1575年)7月中旬、徳川家康自らが率いる本隊が、諏訪原城に迫った。徳川軍はまず、城の西に位置する小夜の中山にある久延寺に本陣を構えたと伝えられており、そこから城全体を見渡せる高台を利用して、攻城戦の指揮を執ったと考えられる 15 。軍勢は速やかに城の周囲に展開し、外部との連絡路を完全に遮断、水や食料の補給を断つための厳重な包囲網を形成した。

この攻城戦における両軍の兵力は以下の通りであった。

  • 徳川軍(攻撃側) :家康が自ら出陣していることから、徳川軍の主力が動員されたと見られる。正確な兵数は史料に残されていないが、城を完全に包囲し、力攻めを敢行できるだけの十分な兵力を有していたことは間違いない 16
  • 武田軍(防御側) :城を守るのは、城将・今福虎孝(いまふく とらたか)を中心に、室賀満正(むろが まさまさ)、小泉昌宗(こいずみ まさむね)といった武田家の家臣たちであった 1 。彼らが率いる兵力は、徳川軍に比べて少数であり、籠城によって敵の疲弊を待ち、勝頼からの援軍が到着するまでの時間を稼ぐことが唯一の望みであった。

包囲が完成し、諏訪原城は完全に孤立した。城兵たちは、眼下にうごめく徳川の大軍を前に、絶望的な防衛戦に身を投じる覚悟を固めた。

第三章:一ヶ月の攻防 ― 攻城と抵抗の記録

諏訪原城の攻防は、約1ヶ月にわたって繰り広げられた壮絶な消耗戦であった 1 。家康は、単なる兵糧攻めによる持久戦ではなく、積極的な力攻めによって短期決戦を図った。『当代記』によれば、家康は深い堀を埋め立てて突撃路を確保しようと試みたという記述があり、攻城戦が極めて熾烈であったことを物語っている 16

徳川軍は、まず城の防御施設、特に馬出や虎口に対して波状攻撃を仕掛けたと考えられる。しかし、馬場信春が築いた堅固な城は、容易に徳川軍の侵入を許さなかった。深い空堀と高い土塁は、攻め手の勢いを削ぎ、守備側が有利な体勢で反撃することを可能にした。

近年の発掘調査では、特に城の南東部に位置する馬出群(二の曲輪東内馬出、南馬出、東馬出)周辺から、多量の鉄砲玉が出土している 6 。これは、この区域で激しい銃撃戦が交わされたことを示す動かぬ証拠である。徳川軍は鉄砲を効果的に用いて城兵を攻撃し、対する武田方も城壁の上から応戦した。城内には、攻防の喧騒、怒号、そして鉄砲の轟音が昼夜を問わず響き渡っていたことであろう。

今福虎孝率いる城兵たちは、圧倒的な兵力差と絶え間ない攻撃に晒されながらも、驚くべき粘り強さで抵抗を続けた。彼らの脳裏には、主君・勝頼が必ずや援軍を率いて現れるという一縷の望みがあったに違いない。しかし、その望みが叶うことはなかった。

第四章:援軍なく ― 落城の刻(天正3年8月)

諏訪原城の将兵が待ち望んだ武田勝頼の援軍は、ついに現れなかった。長篠の戦いで受けた損害は、勝頼の想像をはるかに超えて深刻であった。軍団の中核を失い、領国各地で国人衆の動揺が広がる中、勝頼は本国である甲斐・信濃の守りを固めることを最優先せざるを得ず、遠江の孤立した拠点に援軍を派遣する戦略的余力を完全に失っていたのである 1

籠城開始から1ヶ月余りが経過した8月下旬、城内の兵糧や矢玉も尽きかけていた。援軍の望みが絶たれたことを悟った城将・今福虎孝らは、ついに玉砕ではなく、城を脱出して活路を見出すという苦渋の決断を下す。

彼らは夜陰に乗じて、城の一部に火を放った。これは、火災による混乱に乗じて徳川軍の包囲を突破し、自らの脱出を援護するための陽動であった。この逸話は、発掘調査において本曲輪付近から焼けた土や炭化した米が出土したことによって、考古学的にも裏付けられている 3

炎が夜空を焦がす中、今福虎孝をはじめとする生き残った城兵たちは、包囲の一角を突破し、東方に位置する武田方の拠点・小山城へと落ち延びていった 1 。こうして、武田氏の遠江支配の象徴であった諏訪原城は、天正3年8月、ついに徳川家康の手に落ちたのである。

第三部:徳川の牙城「牧野城」の時代 ― 1575年から1582年へ

第一章:駿河侵攻の橋頭堡

諏訪原城の奪取は、徳川家康にとって単なる一城の攻略以上の意味を持っていた。それは、長年にわたる対武田氏戦線における守勢から攻勢への完全な転換を象徴する出来事であった。家康は直ちにこの城を自らの戦略拠点として再編すべく、大規模な改修に着手する。

まず、家康は城の呼称を「牧野城(まきのじょう)」と改めた 3 。この改名については、古代中国で周の武王が殷の紂王を破った古戦場「牧野(ぼくや)」の故事にちなんだという説や、徳川家臣の牧野氏に由来するという説など諸説あるが 1 、いずれにせよ、武田氏の威光を払拭し、徳川の城として生まれ変わったことを内外に宣言する意図があったことは明らかである。

そして家康は、この城を単なる軍事拠点としてだけでなく、高度な政治的・心理的効果を狙ったプロパガンダの拠点として活用する、驚くべき一手に出る。彼は、かつての駿河・遠江の支配者であり、自らが滅亡に追いやった今川氏の最後の当主・今川氏真を、名目上の城主として牧野城に迎えたのである 4 。もちろん、氏真に実権はなく、松平家忠をはじめとする徳川の譜代家臣が補佐として付けられていた 16 。この人事の狙いは、武田氏の支配下にある駿河国の旧今川家臣や国人衆に対し、「駿河の正統な領主である今川殿は、我ら徳川と共にある。武田は簒奪者に過ぎない」という強力なメッセージを発信することにあった。これにより、牧野城は駿河国に対する軍事的な橋頭堡であると同時に、武田氏の支配体制を内側から切り崩すための、政治的な楔としての役割をも担うことになった。

牧野城がもたらした最も直接的かつ致命的な戦略的影響は、高天神城の完全な孤立化であった。諏訪原城の陥落により、大井川沿いの補給路は完全に遮断され、高天神城は敵地の中に浮かぶ陸の孤島と化した 1 。家康は牧野城を拠点として、高天神城を包囲する「高天神城攻め」の六砦を築き、徹底した兵糧攻めを展開する。この執拗な包囲網は数年に及び、天正9年(1581年)、ついに高天神城は落城。城将・岡部元信以下、城兵はことごとく討死するという悲劇的な結末を迎えた 8 。牧野城は、この高天神城を「干殺し」にするための、非情な戦略の要として機能し続けたのである。

第二章:『家忠日記』に見る城番の日常と普請

徳川氏の支配下にあった牧野城の日常を知る上で、第一級の史料が存在する。それは、城番(じょうばん、城の守備責任者)の一人であった松平家忠が残した『家忠日記』である 4 。この日記には、天正3年(1575年)から天正9年(1581年)の高天神城落城後まで、家忠が牧野城の城番を務めた際の記録が詳細に記されている。

日記から浮かび上がるのは、牧野城が常に軍事的な緊張下に置かれた最前線の拠点であったこと、そして、絶え間なく改修工事が行われていた「生きた要塞」であったという事実である。家忠は日記の中で、「普請」「番普請」「牧野市場普請」「塀普請」「堀普請」といった言葉を繰り返し用いて、城内で行われた様々な土木工事について記録している 4 。これらの記述は、前述の発掘調査で明らかになった徳川氏による大規模な改修が、一度に行われたものではなく、長期間にわたって継続的に、そして段階的に進められたことを裏付けている。

城番たちの日常は、普請の監督だけでなく、武田軍の動向を監視する物見や、周辺地域との連絡、兵糧や武具の管理など、多岐にわたったであろう。日記は、平時と有事の区別が曖昧な、戦国の城のリアルな姿を我々に伝えてくれる。そこには、巨大な土塁が築かれ、堀が深く掘り下げられ、鉄砲の射線が計算され尽くした要塞へと、牧野城が日々変貌していく過程が克明に記録されている。この城に注がれた徳川氏の膨大な労力と資源は、対武田氏戦略におけるこの城の重要性を何よりも雄弁に物語っている。

第三章:甲州征伐と存在意義の終焉 ― 天正10年(1582年)

天正10年(1582年)2月、織田信長は、長篠の戦い以降衰退の一途をたどっていた武田氏を完全に滅ぼすべく、総力を挙げた「甲州征伐」を開始した 9 。織田信忠を総大将とする本隊が信濃から、同盟者の徳川家康が駿河から、北条氏政が関東から、それぞれ武田領へと侵攻する一大作戦であった 9

この最終決戦において、徳川家康に与えられた役割は、武田氏が支配する駿河国の制圧であった 9 。家康は2月18日に浜松城を出陣し、駿河へと軍を進める 22 。この時、かつて武田氏が築き、徳川氏が奪い、そして長年にわたって改修を続けてきた牧野城は、その最後の、そして最も重要な役割を果たすことになった。

もはや国境の防御拠点ではない。牧野城は、大井川を越えて駿河全域へと侵攻する徳川軍の、巨大な前線基地、兵站拠点、そして出撃拠点として機能した。長年の普請によって鉄壁の要塞と化したこの城に、兵員、兵糧、武具が集積され、ここから徳川軍の各部隊が駿河各地へと進撃していった。かつて武田氏が遠江侵攻の拠点として築いた城が、時を経て、武田氏の心臓部である駿河を攻略するための刃となって、その喉元に突きつけられたのである。

徳川軍の侵攻と、武田重臣・穴山梅雪の裏切りなどにより、武田方の戦線は瞬く間に崩壊した 9 。勝頼はなすすべもなく、天正10年3月11日、天目山にて自刃し、名門・甲斐武田氏は滅亡した 9

この武田氏の滅亡は、牧野城の運命をも決定づけた。駿河国が徳川領となったことで、遠江と駿河の国境は軍事的な最前線としての意味を完全に失った。敵の存在を前提として築かれ、強化され続けてきたこの巨大な要塞は、その存在意義そのものを一夜にして喪失したのである 1 。その後、城はしばらく維持されたが、天正18年(1590年)、徳川家康が豊臣秀吉の命により関東へ移封されると、正式に廃城となり、その歴史的役割を終えた 10

終章:諏訪原城が物語るもの ― 戦国期城郭のライフサイクル

諏訪原城、後の牧野城の歴史は、戦国時代における一つの城郭が経験しうる、誕生から発展、そして終焉までのライフサイクルを凝縮して見せてくれる、類稀な事例である。その歴史を振り返ることで、我々はいくつかの重要な結論を導き出すことができる。

第一に、本報告は利用者の当初の問いであった「1582年の戦い」という時間軸を、「1575年の攻防戦」と「1582年の戦略拠点」という二つの異なる、しかし連続したフェーズとして再定義した。これにより、城の運命を決定づけたのは1575年の攻防戦であり、1582年はその論理的帰結であったことが明確になった。

第二に、近年の発掘調査の成果は、我々の戦国期城郭に対する認識を大きく塗り替えるものである。諏訪原城は、もはや単なる「武田流築城術の典型」ではない。むしろ、長篠の戦いの戦訓を即座に築城技術に応用した、徳川家康の革新性と先見性を証明する「徳川流要塞」としての側面が極めて強い。巨大な土塁を鉄砲の射撃陣地として活用し、城全体を火力によって敵を殲滅するための装置として再設計した思想は、低く評価されがちであった徳川氏の築城技術を再検討する上で、極めて重要な示唆を与える。

第三に、この城は軍事施設であると同時に、高度な政治的・心理的兵器でもあった。今川氏真を城主に据えるという家康の策略は、城が単なる物理的な障害物ではなく、敵の結束を内側から崩すための象徴となりうることを示している。

諏訪原城の物語は、究極的には「適応」の物語である。武田氏が自らの勢力を投射するために築いた城を、徳川氏は奪取し、その力を無力化し、自らの勢力を投射するために、全く異なる思想で根本から造り変えた。その土塁の断面、堀の形状、馬出の機能の変化は、戦国末期の軍事技術と戦略が、騎馬による機動力から鉄砲による火力へと、いかに急速に、そして劇的に移行していったかを物語る物理的な記録である。

そして今日、国指定史跡として保存されている諏訪原城跡は、その最後の変容を遂げた。かつて血と汗と野望が渦巻いた戦争の道具は、今や歴史の静かな語り部となっている。その壮大な遺構は、訪れる我々に対し、それを築き、争い、そして去っていった戦国武将たちの知恵と闘争、そして時代の大きなうねりを、雄弁に伝え続けているのである。

引用文献

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  2. 【静岡県】高天神城の歴史 高天神を制する者は遠州を制す!武田 vs 徳川の舞台となった戦国期 https://sengoku-his.com/1948
  3. 天下人・徳川家康がほれ込んだ戦いの城「諏訪原城(牧野城)」の歴史 ... https://oi-river-trip.com/the-best-of-things-to-do/suwaharajou/
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  13. 諏訪原城の見所と写真・1500人城主の評価(静岡県島田市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/291/
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  16. 【静岡県】諏訪原城の歴史 武田から徳川へ。熾烈な戦いの最前線となった城 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1898
  17. 諏訪原城(静岡県島田市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/4207
  18. 諏訪原城 https://sirohoumon.secret.jp/suwaharajo.html
  19. 高天神城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  20. 1582年(前半) 武田家の滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-1/
  21. 戦国時代のはじまり - 富士宮市 https://www.city.fujinomiya.lg.jp/documents/2958/visuf8000002dgyf.pdf
  22. 【合戦解説】甲州征伐 織田・徳川・北条 vs 武田 〜武田の勢力低下を見極めた信長は いよいよ武田攻めにとりかかる〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=CvJfiiQHcuY