賤ヶ岳の戦い(1583)
天正十一年、羽柴秀吉は柴田勝家との賤ヶ岳の戦いに勝利。信長亡き後の主導権争いを制し、天下人への道を確固たるものとした。この戦いは織田政権の終焉と豊臣政権の黎明を告げる転換点となった。
天正十一年 賤ヶ岳の戦い - 羽柴秀吉、天下掌握への分水嶺
序章:本能寺の変、残された巨大な空白
天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺において織田信長がその生涯を閉じた。この事件が戦国時代の歴史に与えた衝撃は、単に一人の傑出した指導者が失われたという点にとどまらない。信長の嫡男であり、すでに家督を譲られ織田家の次代当主であった織田信忠までもが、二条新御所にて父と時を同じくして横死したこと、これこそが織田政権にとって未曾有の危機であった 1 。創業者とその後継者が同時に失われたことで、政権の継承プロセスは完全に崩壊し、織田家はその求心力を急速に失っていった。残された巨大な権力の空白は、家中の有力な宿老たちによる熾烈な主導権争いの舞台を用意した。
この混乱の中、いち早く機敏に行動したのが羽柴秀吉であった。備中高松城にて毛利氏と対峙していた秀吉は、信長父子横死の報を受けるや、すぐさま毛利氏と和睦を結び、驚異的な速度で京へと軍を返した。世に言う「中国大返し」である。そして6月13日、山崎の地において主君の仇である明智光秀を討ち破った 2 。この軍功により、秀吉は信長の後継者レースにおいて、他の宿老たちを大きく引き離すことに成功した。
しかし、これはあくまで軍事的な功績であり、織田家臣団内における政治的正統性を確立したわけではなかった。織田家の筆頭家老であり、「鬼柴田」の異名を持つ猛将・柴田勝家は、当時、北陸方面軍の総帥として越中で上杉氏と対峙していた 4 。地理的な問題から光秀討伐に遅れをとったことは、勝家にとって痛恨事であった 5 。秀吉が「主君の仇討ち」という最大の名分を独占した一方で、勝家は後手に回らざるを得なかった。この初動の「遅れ」が、両者の間に決定的な序列意識を生み、後の対立における致命的なハンディキャップとなっていく。本能寺の変が残した空白を誰が埋めるのか。その答えを出すための最初の舞台は、尾張国清洲城で開かれることとなる。
第一部:対立の胎動
第一章:清洲会議 - 協調の仮面と亀裂の萌芽
山崎の合戦からわずか2週間後の天正10年6月27日、織田家の今後を決定するための重要な会議が清洲城で開かれた。いわゆる「清洲会議」である 7 。この会議には、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興という織田家の四宿老が集った。表向きは織田家の安泰を図るための合議であったが、その実態は、信長亡き後の主導権を巡る秀吉と勝家の最初の政治闘争の場であった。
会議の最大の焦点は、後継者問題であった。通説では、勝家が信長の三男・織田信孝を推したのに対し、秀吉は信忠の嫡男、すなわち信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)を擁立したとされている 5 。しかし、この対立構造はより深く分析する必要がある。近年の研究では、勝家も信長の血筋を最も濃く引く三法師の家督相続そのものには反対していなかったとする説も提唱されている 7 。問題の本質は、「誰が家督を継ぐか」という点以上に、「幼い三法師の後見人として、誰が実権を握るか」という点にあった。
この点において、秀吉の政治的嗅覚は傑出していた。彼は、わずか3歳の三法師を立てることで、「織田家の正統な血筋を守る忠臣」という大義名分を確保した。これは、自らの出自の低さを補い、丹羽長秀や池田恒興といった他の宿老の支持を取り付けるための、極めて巧みな政治戦略であった 1 。一方、勝家が成人している信孝を後見人(名代)として推したのは、政権の安定的な運営を優先するという現実的な路線であったが、結果的にこの構図は、秀吉を「忠義の人」、勝家を「野心家」と見せる効果を生み出し、秀吉に政治的優位をもたらした。清洲会議は、後継者指名の場であると同時に、秀吉が織田家臣団の心理と大義名分を掌握する最初の舞台となったのである。
会議のもう一つの重要な議題は、遺領の再配分であった。ここでも秀吉は山崎の合戦の功績を最大限に利用し、自身の所領を大幅に拡大させた 6 。この結果は、勝家をはじめとする他の宿老たちに、秀吉が単なる信長の後継者を立てるだけでなく、自身が新たな権力の中核になろうとしているという強い警戒感を抱かせた。
この対立構造を決定的なものにしたのが、勝家と信長の妹・お市の方との再婚であった 10 。これは単なる個人的な結びつきではない。勝家にとって、信長の妹を妻に迎えることは、自らが信長の後継者に最も近い存在であることを内外に示すための、極めて政治的な婚姻であった。お市の方にとっても、前夫・浅井長政を滅ぼした秀吉への複雑な感情から、反秀吉の旗頭である勝家との連携を選んだ側面があったとされる 10 。この結婚は、両者の反秀吉という立場を公然のものとし、もはや後戻りのできない対立へと向かわせる象徴的な出来事となった。協調の仮面の下で、織田家を二分する亀裂は、静かに、しかし確実に深まっていったのである。
第二章:決戦前夜 - 水面下の攻防
清洲会議で表面化した対立は、すぐさま水面下での激しい勢力争いへと移行した。秀吉は会議が終わるや否や、畿内の諸将、特に高山右近や中川清秀、筒井順慶らから人質を取り、自陣営を電光石火の速さで固めていった 7 。彼の行動は、常に先手を取ることを信条としていた。
その真骨頂が、天正10年(1582年)12月の軍事行動である。秀吉は、勝家が本拠地・北陸の豪雪によって身動きが取れないことを見越すと、勝家側との和睦交渉を進める裏で、突如として大軍を率いて近江に出兵した。目標は、勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城であった 7 。援軍の見込みがない勝豊は、わずかな日数で秀吉に降伏した。この勝豊の降伏は、単なる裏切りとは言い切れない側面を持つ。勝豊は、勝家が実子の権六や猛将・佐久間盛政を重用することに強い不満を抱いていた 12 。秀吉はこの柴田家内部の深刻な亀裂を巧みに突き、勝豊を寝返らせることに成功した。これにより秀吉は、戦略的要衝である長浜城を無血で手に入れただけでなく、敵陣営の結束が盤石ではないことを内外に示し、心理的にも圧倒的優位に立ったのである。
秀吉の攻勢は止まらない。彼は返す刀で美濃に進軍し、12月20日には織田信孝が籠る岐阜城を包囲、降伏に追い込んだ 7 。これにより、勝家派の主要な拠点を、本格的な戦闘が始まる前に無力化するという、驚くべき戦略的勝利を収めた。
一方、勝家は地政学的な隘路に苦しんでいた。彼の本拠地・越前北ノ庄城は、冬の豪雪により、畿内への迅速な軍事行動が物理的に不可能であった 6 。この地理的・気候的要因は、本能寺の変の際にも勝家の初動を遅らせており、彼の最大の弱点となっていた。秀吉の電撃的な動きに対し、雪に閉ざされた勝家は、伊勢の滝川一益に挙兵を促すことしかできなかった 7 。一益は翌天正11年正月に挙兵し、秀吉方の城を次々と攻略する奮戦を見せるが、秀吉自らが率いる大軍の前に、やがて各個撃破されていく運命にあった。
この状況は、秀吉と勝家の戦いが、単なる軍事力の衝突ではなく、「情報戦」と「時間との戦い」であったことを示している。秀吉は、敵が動けない「冬」という時間的猶予を最大限に活用し、次々と戦略的優位を確立した。対照的に勝家は、状況が刻一刻と不利に展開していくのを、雪解けを待つ間、ただ見守るしかなかった。彼は毛利氏や将軍・足利義昭にまで連携を求め、大規模な秀吉包囲網を画策したが、毛利輝元らは日和見を決め込み、外交戦においても秀吉に大きく後れを取った 6 。一益の挙兵は、秀吉の注意を伊勢に引きつけ、勝家が雪解けを待つための貴重な「時間稼ぎ」であったが、秀吉は伊勢方面に織田信雄らの軍勢を残しつつ、主力を近江に向けるという的確な二正面作戦を実行した 7 。秀吉の卓越した戦況判断能力と兵站管理能力の前に、勝家は開戦前からすでに追い詰められていたのである。
第二部:湖北の死闘 - 合戦のリアルタイム分析
第三章:戦場の構築 - 余呉湖を巡る砦群
天正11年(1583年)3月、ようやく雪解けを迎えた北陸から、柴田勝家は満を持して約3万の軍勢を率いて南下を開始した 13 。これに対し、伊勢方面の滝川一益を牽制しつつ、秀吉も約5万とされる大軍を率いて近江国木ノ本に布陣した 7 。両軍が対峙した戦場は、近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市木之本町・余呉町一帯)、琵琶湖の北に位置する余呉湖周辺の山岳地帯であった。
この地は、越前から京へ向かう北国街道が南北に貫く交通の要衝であり、余呉湖を挟んで東西に山々が連なる天然の要害を形成していた 15 。大軍が平地で激突するには狭隘であり、戦いの趨勢は、この地形をいかに利用して防御陣地を構築するかにかかっていた。両軍は直ちに戦闘を開始するのではなく、互いに山々に砦を築き、史上最大級ともいえる大規模な山岳籠城戦の様相を呈していった 15 。
秀吉は、北国街道を完全に封鎖し、柴田軍の南下を阻止するために、極めて計画的な二段構えの防衛線を構築した 9 。
- 第一次防衛線: 柴田軍の進攻ルートの正面にあたる余呉湖の北側。西の尾根に堂木山砦(木下一元)、神明山砦(木村重茲)を、そして北国街道を挟んで東側の東野山砦(堀秀政)を配置し、街道を跨ぐ形で敵を迎え撃つ態勢を整えた 9 。
- 第二次防衛線: 第一次防衛線が突破された場合に備え、余呉湖の南東に連なる尾根上に、岩崎山砦(高山右近)、大岩山砦(中川清秀)、そして賤ヶ岳砦(桑山重晴)を配置した 9 。
- 本陣および後詰: 秀吉自身は木ノ本に本陣を置き、全軍を統括。その後方の田上山には、弟の羽柴秀長が2万という大軍を率いて布陣し、強力な予備兵力として戦線全体のバックアップを担った 9 。
一方の柴田軍は、敦賀と柳ヶ瀬の中間に位置する玄蕃尾城に本陣を置いた。この城は、近年の発掘調査により、単なる臨時の陣城ではなく、土塁や堀、虎口などを備えた、高度な築城技術を用いた本格的な山城であったことが判明している 19 。
- 攻撃布陣: 最前線には、猛将として名高い甥の佐久間盛政を行市山砦に配置し、攻撃の主軸とした 16 。
- 支援部隊: その後方、別所山や茂山といった要所に、与力大名である前田利家、金森長近、不破勝光らを配置し、盛政の攻撃を支援し、かつ自軍の側面を守る態勢をとった 16 。
現地に残る砦跡の考古学的調査からは、急造の陣城でありながら、土塁、堀切、竪堀、屈曲した虎口(城の出入り口)などが極めて機能的に配置されていたことが確認されている 20 。これは、両軍が地形を読み解き、高度な防御思想に基づいて戦場を「構築」していたことを物語っている。余呉湖を巡る山々は、両軍の戦略意図が刻み込まれた巨大な要塞群へと変貌し、静かに決戦の時を待っていた。
【表1】賤ヶ岳の戦い 主要武将と兵力配置
陣営 |
総兵力(推定) |
主要武将 |
配置場所(砦名など) |
兵力(推定) |
役割 |
羽柴軍 |
約50,000 |
羽柴秀吉 |
木ノ本(本陣) |
- |
総指揮 |
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羽柴秀長 |
田上山砦 |
20,000 |
予備兵力・後方支援 |
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丹羽長秀 |
海津(琵琶湖) |
2,000 |
側面牽制・水上機動 |
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堀秀政 |
東野山砦 |
- |
第一次防衛線(東翼) |
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中川清秀 |
大岩山砦 |
3,000 |
第二次防衛線(中核) |
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高山右近 |
岩崎山砦 |
- |
第二次防衛線(右翼) |
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桑山重晴 |
賤ヶ岳砦 |
- |
第二次防衛線(左翼) |
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黒田孝高 |
- |
- |
軍監・参謀 |
柴田軍 |
約30,000 |
柴田勝家 |
玄蕃尾城(本陣) |
- |
総指揮 |
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佐久間盛政 |
行市山砦 |
- |
最前線・主攻 |
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前田利家 |
別所山砦→茂山砦 |
- |
側面支援・後詰 |
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金森長近 |
- |
- |
予備兵力 |
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不破勝光 |
- |
- |
予備兵力 |
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柴田勝政 |
- |
- |
佐久間盛政隊支援 |
第四章:戦況、動く - 天正十一年四月十九日~二十一日
約一ヶ月にわたる膠着状態は、天正11年4月16日、突如として破られた。柴田勝家と連携していた織田信孝が、美濃で再び挙兵したのである 7 。背後を突かれる形となった秀吉は、この脅威を排除するため、自ら主力を率いて美濃・大垣城へと移動した 2 。これにより、木ノ本の本陣は一時的に手薄になった。この一瞬の隙を、「鬼玄蕃」と恐れられた猛将・佐久間盛政は見逃さなかった。
四月十九日 - 鬼玄蕃、駆ける
秀吉不在という千載一遇の好機を捉え、盛政は勝家本陣に進言し、奇襲作戦の許可を得た 7 。4月19日夜、盛政隊は行市山砦を出撃。彼らは羽柴軍の第一次防衛線を正面から攻撃するのではなく、西側から大きく迂回し、権現坂と呼ばれる急峻な坂を下って余呉湖畔に出た。そして湖畔沿いに南下し、手薄となっていた第二次防衛線の中核、大岩山砦に殺到したのである 22 。
砦を守る中川清秀は、この不意の奇襲に対し果敢に応戦した。摂津の国人領主出身で、数々の戦歴を誇る清秀は、一時は湖岸まで敵を押し返すほどの奮戦を見せたが、盛政隊の猛攻の前に衆寡敵せず、最後は力尽き、配下の兵と共に討死を遂げた 27 。勢いに乗った盛政は、隣の岩崎山砦も攻撃。守将の高山右近も支えきれずに退却し、羽柴軍の第二次防衛線は一挙に崩壊した 7 。
四月二十日 - 運命の分岐点
大岩山砦などを陥落させた時点で、奇襲の戦術的目標は達成されていた。総大将の勝家は、盛政の深入りを危険と判断し、再三にわたって撤退を命令した 7 。しかし、勝利に沸き、戦果を拡大しようと逸る盛政は、この命令に従わず、前線に留まり続けた。この行動は、単なる猪突猛進という気質だけでは説明できない。柴田家中で急速に台頭した盛政には、この戦で決定的な功績を上げ、家中での地位を不動のものにしたいという強い野心があった 6 。彼は局地的な戦術的勝利を、戦全体の戦略的勝利に繋げられると過信し、総大将の全体戦略よりも自らの手柄を優先したのである。この一点において、勝家が与力大名や気性の激しい部下を完全に統制しきれていなかったという、柴田軍の構造的欠陥が露呈した。
その頃、大垣城の秀吉は、大岩山砦陥落の凶報に接していた。普通であれば狼狽し、美濃と近江の間で逡巡するところであろう。しかし、秀吉は即座に決断した。午後2時頃、全軍に木ノ本への帰還を命令。大垣から木ノ本までの約52キロの道のりを、わずか5時間で踏破したと伝えられる 7 。世に言う「美濃大返し」である。この神速の行軍は、事前に街道の整備や松明の準備、兵糧の補給計画などを周到に行っていたからこそ可能であった。圧倒的な機動力こそが、秀吉の軍団の真骨頂であった。
四月二十一日 - 決着
4月21日の未明、木ノ本に到着した秀吉本隊は、兵士たちに仮眠と食事を与えた後、夜明けと共に、突出して孤立状態にあった佐久間盛政隊に牙を剥いた 7 。この反撃の先鋒となって敵陣に一番乗りを競ったのが、福島正則、加藤清正ら、秀吉が手塩にかけて育てた子飼いの若武者たちであった。彼らの活躍は後に「賤ヶ岳の七本槍」として語り継がれることになる 2 。
激戦の最中、戦局を決定づける出来事が起こる。盛政隊の後方に布陣し、その後詰を担っていた前田利家の部隊が、突如として戦闘を放棄し、戦線を離脱したのである 7 。この行動は、単なる裏切りという言葉だけでは片付けられない。利家と秀吉は、信長に仕えて以来の旧友であり、家族ぐるみの付き合いがあった 35 。一方で、勝家は北陸方面軍における直属の上司であり、義理があった 38 。戦前から秀吉による調略があったとも推測されるが 39 、利家は秀吉の神速の帰還と猛反撃を目の当たりにし、この戦の趨勢が決したと判断したのだろう。勝家に殉じるよりも、前田家を存続させるという現実的な道を選んだのである。
利家の離脱は、ドミノ倒しのような連鎖反応を引き起こした。後方の守りを失った佐久間隊の士気は完全に崩壊 7 。利家に続いて金森長近、不破勝光といった与力大名たちも次々と撤退を開始した 2 。完全に孤立無援となった佐久間盛政隊は、秀吉軍の総攻撃の前に壊滅。その勢いのまま、秀吉軍は柴田勝家本隊に殺到した。勝家は奮戦するも、もはや多勢に無勢。ついに支えきれず、本拠地・北ノ庄城への決死の敗走を開始した。湖北の山々に響き渡った鬨の声は、新たな時代の到来を告げていた。
第三部:戦後の世界
第五章:落日の北ノ庄
賤ヶ岳での敗北が決定的となると、柴田勝家は残存兵力を率いて本拠地・越前北ノ庄城へと敗走した。その道中、勝家は戦線離脱した前田利家が籠る府中城に立ち寄った。ここで勝家は利家の行動を責めることなく、むしろ「秀吉とは旧知の間柄であろう、気兼ねなく降るがよい」と述べ、長年の労をねぎらったと伝えられている 36 。この逸話は、武将としての勝家の器の大きさを示すものとして、後世に語り継がれている。
しかし、感傷に浸る時間はなかった。勝家が北ノ庄城にたどり着いて間もなく、前田利家を先鋒とする秀吉の追撃軍が城を完全に包囲した 7 。もはやこれまでと覚悟を決めた勝家は、城内で最後の宴を開き、将兵たちと最後の別れを惜しんだ 30 。
その最期は壮絶であった。勝家は妻であるお市の方と、彼女の連れ子である三人の娘(茶々、初、江)に城から脱出するよう勧めた。しかし、お市の方はこれを毅然として拒否。「黄泉までも一緒と誓った仲」として、勝家と運命を共にすることを選んだ 41 。ただ、娘たちの将来を案じ、三姉妹だけは城外の秀吉の陣に送り届けた。そして天正11年4月24日、勝家は天守に火を放ち、燃え盛る炎の中で、お市の方や一族郎党と共に自害して果てた。辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」。享年、勝家62歳(一説に63歳)、お市の方37歳であった 7 。
勝家の死をもって、反秀吉勢力の掃討は最終段階に入った。
- 佐久間盛政: 賤ヶ岳で敗れた後、逃亡を図ったが捕縛され、京の六条河原で斬首された。その際、秀吉から家臣になるよう誘われたが、「信長公と勝家公の二君に仕えた身、三君に仕えることはできぬ」と断り、潔い最期を遂げたと伝えられている 7 。
- 織田信孝: 後ろ盾を完全に失い、兄・信雄に岐阜城を包囲されて降伏。尾張国内海(現在の愛知県南知多町)の大御堂寺(野間大坊)へ送られ、信雄の使者によって切腹を命じられた。享年26歳であった 7 。
- 滝川一益: 唯一抵抗を続けていた伊勢の一益も、勝家敗死の報を受け、なおも一ヶ月近く籠城を続けたが、ついに開城。剃髪して出家し、丹羽長秀のもとで蟄居することとなった 7 。
こうして、本能寺の変以降、織田家を二分した内乱は、秀吉の完全勝利という形で幕を閉じたのである。
第六章:天下への道程
賤ヶ岳の戦いの勝利は、羽柴秀吉の地位を決定的なものにした。戦後、秀吉は自らの手で大規模な領地の再配分、すなわち論功行賞を行った 9 。これは単なる恩賞の授与ではなかった。丹羽長秀には若狭に加えて越前と加賀の一部を、そして戦線離脱した前田利家には能登を安堵した上で、佐久間盛政の旧領であった加賀の二郡を加増した 9 。これにより、利家は後の「加賀百万石」の礎を築くことになった 47 。
この一連の措置が持つ真の意味は、旧織田家臣団を事実上解体し、秀吉を頂点とする新たな支配体制、「豊臣大名」へと再編成するプロセスであったという点にある。秀吉は、織田家の当主である三法師やその後見人である織田信雄の許可を得ることなく、独断でこの知行割(領地配分)を実施している 9 。これは、彼がもはや織田家の一家臣ではなく、その上位に立つ新たな権力者であることを内外に宣言する行為に他ならなかった。柴田勝家という最大の対抗勢力を排除したことで、他の旧織田家臣たちは秀吉に従う以外に選択肢を失った。事実上、織田家は秀吉に乗っ取られた形となり、賤ヶ岳の戦いは、織田政権の終焉と豊臣政権の黎明を告げる、歴史の大きな分水嶺となったのである 33 。
この圧倒的な勝利は、他の有力大名にも大きな影響を与えた。これまで静観の構えを見せていた毛利氏、上杉氏、そして徳川氏も、秀吉の力を認めざるを得なくなった 9 。特に徳川家康は、戦勝祝いとして信長遺愛の名物茶器「初花肩衝」を秀吉に献上し、表向きは祝意を示した 9 。しかし、これはあくまで一時的な恭順の姿勢であった。
賤ヶ岳の戦いは、本能寺の変後の混乱に終止符を打ち、秀吉を信長の実質的な後継者として天下に知らしめた。しかし、それは同時に新たな対立の始まりでもあった。信長の次男・信雄を担ぎ、秀吉の急激な台頭を快く思わない徳川家康との対決は、もはや避けられない情勢となっていた。この翌年の天正12年(1584年)、両雄は「小牧・長久手の戦い」で激突することになる 49 。賤ヶ岳の勝利によって、秀吉は天下統一への道を大きく切り開いたが、その道程はまだ半ばだったのである。
結論:賤ヶ岳の戦いが残した遺産
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いは、日本の戦国時代史において、極めて重要な転換点であった。この戦いの帰趨は、単に羽柴秀吉と柴田勝家という二人の武将の勝敗を決しただけではない。それは、織田信長が築き上げた巨大な政治的・軍事的遺産が、誰に、そしてどのように継承されるのかを決定づけた、天下分け目の戦いであった。
第一に、この戦いの勝利は、秀吉が「羽柴」という織田家臣の一人から、天下を統べる「豊臣」へと飛躍するための決定的な一歩となった。秀吉がこの戦いで見せた卓越した戦略眼、特に敵の動けない冬季を狙った調略と軍事行動、そして「美濃大返し」に象徴される驚異的な機動力、さらには敵の内部対立を利用する巧みな政治力は、彼が信長の後継者として最もふさわしい器であることを天下に証明した。賤ヶ岳は、秀吉の持つ能力の全てが遺憾なく発揮された、彼の生涯における代表作ともいえる合戦であった。
第二に、賤ヶ岳の戦いは、織田家の実質的な終焉を意味した。勝家と信孝という、織田家内部における最後の有力な反秀吉勢力が排除されたことにより、信長が一代で築き上げた権力構造は、その血縁者ではなく、最も有能な家臣であった秀吉に継承されることが確定した。戦後の論功行賞を秀吉が独断で行ったことは、織田家がもはや名目上の存在に過ぎなくなり、新たな権力秩序が構築されつつあることを象徴していた。
最後に、この戦いは戦国時代の武将たちの行動原理を浮き彫りにした。前田利家の戦線離脱に見られるように、主君への「忠義」だけでなく、自らの一族と家を存続させるための現実的な「判断」が、時にそれを上回る。それは、中世的な主従関係が崩れ、実力主義が支配する戦国乱世の非情さと合理性を如実に物語っている。
賤ヶ岳の戦いを経て、秀吉は天下統一への道を確固たるものとした。日本の歴史が、織田の時代から豊臣の時代へと大きく舵を切った瞬間、その舞台となったのが、余呉湖のほとりに広がる賤ヶ岳の山々だったのである。
引用文献
- 【ゆっくり解説】賤ケ岳の戦いに関する一考察(清州会議篇) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ehgfz6LUMbA
- 賤ヶ岳の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7258/
- 賤ヶ岳の戦いとは/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16977_tour_058/
- 柴田勝家 愛知の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/historian-aichi/aichi-shibata/
- 豊臣秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」とは?|信長の次の天下人を決めた重要な戦い【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1143117
- 信長の後継者一番手だった【柴田勝家】が豊臣秀吉に負けた理由と ... https://www.rekishijin.com/38135
- 賤ヶ岳の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 秀吉が「身分不相応ながら」の言い訳とともに強行!柴田勝家の敗北を決めた出来事とは https://diamond.jp/articles/-/327277
- 1583年 賤ヶ岳の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1583/
- 柴田勝家-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44323/
- 北庄に散った柴田勝家とお市の方 - ふくい歴史王 http://rekishi.dogaclip.com/rekishioh/2015/07/post-8771.html
- 秀吉の「天下分け目の戦い」はここだった…「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を討った秀吉が大興奮したワケ 織田家を二分することで、自らが「天下人」になった - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/72213?page=1
- 賤ケ岳の戦い https://kanamorisennki.sakura.ne.jp/senjou-new/sizugatke/sizugatke.html
- 賤ヶ岳の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/shizugatake/
- もしも賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が勝っていたら? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=jhZm8sNgaFk
- 賤ヶ岳の戦い - 敦賀市 http://historia.justhpbs.jp/toring.html
- 砦同士の連携や構築意図を推察する楽しさ!「賤ヶ岳の戦い」の砦を歩く(滋賀県余呉町) | サライ.jp https://serai.jp/hobby/163382
- 賤ヶ岳の合戦4-2 http://www.ibukiyama1377.sakura.ne.jp/shizugatake/4-2.html
- 【玄蕃尾城】CGで再現! 賤ヶ岳の戦いで秀吉と戦った柴田勝家の本陣 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=4YNaWnbZFs8
- 賤ヶ岳合戦の砦を巡ってきました。|ぐこ - note https://note.com/good5_/n/nc8f30b60f58f
- 賤ヶ岳砦(滋賀県長浜市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6180
- 堂木山砦・神明山砦・茂山砦 (賤ヶ岳合戦城砦群) - 歴旅.こむ - ココログ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-d24b.html
- 北近江の戦国史 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5520527.pdf
- 賤ケ岳の戦いと柴田勝家本陣・玄蕃尾城 - 国内旅行のビーウェーブ https://bewave.jp/history/castle/hs000401.html
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- 【賤ヶ岳古戦場】 - 【千國写真館】 http://senkuni.org/183shizugatake/shizugatake7hon.html
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- 「勝家の切腹を見て後学にせよ」真っ先にお市夫人を刺殺し自分の腹を十文字に切った柴田勝家の壮絶な最期 北庄城で宴会を開いたあと天守閣で一族30人と自決 - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/72228?page=1
- 勝家とお市の方の悲話を伝える<北庄城> https://sirohoumon.secret.jp/kitanosyoujo.html
- 『どうする家康』福井の地で生涯を終えた夫婦、お市の方と柴田勝家のお墓 https://ohakakiwame.jp/column/cemetery-grave/grave-of-katsuie.html
- 柴田勝家 ― 北庄に掛けた夢とプライド - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/tenran/katsuie.html
- お市の方 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%96%B9
- 073「佐久間盛政」–あんまり役に立たない日本史 - Apple Podcasts https://podcasts.apple.com/ai/podcast/073-%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E7%9B%9B%E6%94%BF/id1652596456?i=1000651497657
- 佐久間盛政~「鬼玄蕃」と呼ばれた硬骨漢の逸話 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4909
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- 本能寺の変とその後の世界まとめ|yorushion夜紫音official - note https://note.com/limeblog/n/n7458bd18d43c
- 豊臣秀吉と徳川家康の関係/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/104367/
- 【羽柴秀吉VS徳川家康 小牧・長久手の戦いを知る】第1回 戦いの概要 - 城びと https://shirobito.jp/article/1417