最終更新日 2025-08-25

越前一向一揆鎮圧(1575)

織田信長は越前一向一揆を徹底的に鎮圧。武士の野心から生まれた一揆は本願寺の介入で「百姓の国」となるも、内部対立で瓦解。信長は「根切り」で数万を虐殺し、柴田勝家を配置。近世的統治の礎を築いた。

天正三年 越前一向一揆鎮圧の全貌:信長による「根切り」と新秩序の創生

序章:天下布武の前に立ちはだかる最後の聖域

戦国時代の日本において、一向一揆は他の戦国大名とは全く異質の存在であった。本願寺教団を頂点とする浄土真宗の強固な信仰で結ばれた門徒たちは、時に武装蜂起し、守護大名の支配を覆すほどの力を持っていた。特に加賀国においては、長亨2年(1488年)に守護富樫政親を打倒して以来、約一世紀にわたり「百姓ノ持チタル国」と呼ばれる門徒による自治共同体を維持していた 1 。これは、武士階級による統治という当時の社会秩序の根幹を揺るがす、前代未聞の事態であった。

天下布武を掲げ、旧来の権威を次々と打破していった織田信長にとって、この一向一揆勢力は単なる領土を争う敵ではなかった。それは、自らが構築しようとする中央集権的な武家政権とは相容れない、全く別の統治原理(イデオロギー)に基づく対抗勢力であった。信長の権威が武力と実績に由来するのに対し、一向一揆の結束は「後生の一大事」を説く信仰に根差しており、その求心力は信長の支配が及ばない領域に存在した。長島一向一揆との戦いでは弟の信興を失い、越前では一度手中に収めた国を丸ごと奪われるなど、信長は彼らから直接的かつ深刻な打撃を受けていた 3

故に、天正3年(1575年)8月に行われた越前一向一揆に対する鎮圧戦は、単なる失地回復のための軍事行動には留まらなかった。それは、自らの統治体制を脅かす思想と組織を根絶やしにするための徹底的な殲滅戦、すなわち「根切り」であった。この戦いは、石山本願寺をはじめとする全国の門徒に対する見せしめであり、武力による恐怖を以て抵抗の意志を砕くという、極めて政治的な意図を帯びたものであった。本報告書は、この越前一向一揆鎮圧の全貌を、その前史から凄惨な合戦の経過、そして戦後の新秩序構築に至るまで、時系列に沿って詳細に解明するものである。

第一部:混沌より生まれし「百姓の持ちたる国」

第1章:権力の空白と野心 ― 朝倉氏滅亡後の動乱

天正元年(1573年)8月、織田信長の越前侵攻によって、長らく越前を支配してきた名門朝倉義景は滅亡した 5 。信長は、朝倉氏の旧領を安定させるため、旧臣の多くを降伏させて所領を安堵するという懐柔策をとった。しかし、この戦後処理が、新たな動乱の火種となる。信長は、朝倉攻めで道案内役を務めた功績により、前波吉継(後に桂田長俊と改名)を越前の「守護代」に任じ、現地の統治を委ねた 6

この人事は、他の朝倉旧臣たちの間に深刻な亀裂を生じさせた。桂田は朝倉家中で特に重臣というわけではなく、同格、あるいはそれ以下と見なされていた富田長繁のような実力者にとって、彼の守護代就任は到底承服できるものではなかった。富田と桂田は朝倉家臣時代から犬猿の仲であったとされ、富田の敵愾心は増幅された 6 。さらに、守護代という新たな権威を笠に着た桂田が、元同僚たちに対して尊大な態度を取ったことで、不満は越前国人層全体に広がっていった。

天正2年(1574年)1月、富田長繁はついに桂田打倒を決意する。彼は自らの野望を達成するため、桂田の新政に対する民衆の不満を利用し、越前各地の有力者と談合して「反桂田」を掲げた土一揆を扇動した 6 。この蜂起の初期段階において、主導権を握っていたのは富田長繁という一人の武士であり、その目的は極めて政治的な権力闘争にあった。この事実は、純粋な信仰心から門徒が蜂起した加賀の事例とは大きく異なり、越前における「百姓の持ちたる国」が、極めて脆弱な基盤の上に成立したことを示唆している。宗教的情熱ではなく、武士の野心によって火が付いたこの一揆は、その後の主導権争いの中で、必然的に内部対立という時限爆弾を抱え込むことになったのである。

第2章:乗っ取られた革命 ― 本願寺の介入と支配体制の確立

富田長繁が扇動した一揆は、瞬く間に越前全土に広がり、桂田長俊は討ち取られた。しかし、当初の目的を達成した富田の目の前に現れたのは、彼が利用したはずの一向一揆勢力という、制御不能な巨大な波であった。一揆勢は富田の指揮を離れ、独自の行動を開始する。この混乱を好機と見た石山本願寺の法主・顕如は、越前を第二の加賀、すなわち本願寺の直轄領とするべく、本格的な介入を開始した 7

顕如はまず、加賀から指導者として七里頼周を派遣した。彼の許に越前の一揆勢は続々と集結し、富田長繁は急速に孤立。最終的には、自らが火をつけた一揆の炎に焼かれる形で討死した 7 。こうして越前の実権は、在地勢力の手から完全に本願寺へと移った。

本願寺は、越前に新たな統治機構を構築すべく、次々と坊官(僧侶の幹部)を送り込んだ。下間頼照を事実上の国主として派遣し、さらに杉浦玄任を大野郡司、下間和泉守を足羽郡司に任命するなど、主要な役職を本願寺関係者で固めた 7 。しかし、この支配体制は、現地の実情を無視した「空降(パラシュート)人事」の典型であった。特に、下間頼照は「越後国守護」に任じられたと記録されており、これは越前の誤記か、あるいは越前平定後の越後進出まで見据えたものかは定かでないが、いずれにせよ在地性に乏しい人事であったことは間違いない 7

外部から来たエリート指導者層と、実際に武器を取り命を懸けて戦う在地の門徒や国人たちとの間には、埋めがたい溝が存在した。宗教的な権威はあっても、現地の複雑な利害関係を調整し、国全体をまとめ上げる強固な統治基盤は欠如していた。この「坊官大坊主分と在地一揆勢の内部対立」 8 こそが、わずか1年半でこの「百姓の持ちたる国」が崩壊する最大の要因であり、後の織田軍侵攻に対し、組織的かつ有効な抵抗ができなかった根本原因となったのである。

第二部:越前殲滅戦 ― 天正三年八月の記録

第1章:織田軍、動く ― 天下布武を支える軍事機構

天正3年(1575年)夏、信長は越前奪還に向けて、満を持して大軍を動員した。前年(1574年)には伊勢長島一向一揆を2万ともいわれる犠牲の果てに鎮圧しており 3 、その矛先が越前に向かうのは時間の問題であった。『越州軍記』は織田軍の兵力を15万5千騎と誇張して伝えているが、より信頼性の高い『信長公記』によれば、その数はおよそ3万余であったとされる 7 。数もさることながら、その陣容は織田軍団の総力を結集したものであった。柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益といった方面軍司令官クラスの宿老が軒並み顔を揃え、信長の三男・信孝や甥の信澄ら一門衆も参陣した 7 。さらに、若狭の粟屋勝久らを動員した水軍も海上から作戦を支援しており 7 、陸海一体となった一大作戦であったことが窺える。

対する一揆軍は、織田軍の侵攻路となると予想される越前南部の国境線に防衛線を集中させた。彼らは木ノ芽峠、鉢伏山、杉津口といった峻険な地形を利用し、複数の城砦を構えて織田軍を迎え撃つ態勢を整えた 9 。総大将の下間頼照は今城・火燧城に、下間頼俊は虎杖城、石田の西光寺は木ノ芽峠、専修寺や阿波賀三郎兄弟は鉢伏城、大塩の円強寺は杉津・大良越え、若林長門・甚七郎父子は海岸の新城に布陣し、それぞれが持ち場を固守した 7 。しかし、その配置は国境の要害に戦力を分散させたものであり、統一された指揮系統の下で有機的に連携する能力に欠けていた。

表1:天正三年 越前侵攻における両軍戦力比較

項目

織田軍

一揆軍

総大将

織田信長

下間頼照

推定総兵力

約30,000

数万規模(推定)

主要武将/指導者

柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、織田信孝ほか

下間頼俊、杉浦玄任、七里頼周、石田西光寺、若林長門父子ほか

主要拠点/布陣

敦賀を基点に、木ノ芽峠方面と杉津口方面の二手に分かれて侵攻

木ノ芽峠、鉢伏城、今城、杉津城など、国境線の要害に分散配置

特記事項

統一された指揮系統、鉄砲隊・水軍を含む統合戦力

各拠点が分散、指導者層と在地門徒の連携不足、内部対立の懸念

この両軍の戦力比較は、合戦が始まる前から勝敗の趨勢がどこにあったかを如実に物語っている。織田軍が信長という絶対的な司令官の下で一糸乱れぬ統制を誇ったのに対し、一揆軍は寄せ集めの軍勢であり、その防衛線は一点が崩れれば全体が瓦解する危険性を内包していた。

第2章:【時系列詳述】八月十五日、総攻撃の火蓋

運命の日は、天正3年(1575年)8月15日に訪れた。

8月12日~14日:集結

信長は岐阜を出陣し、13日には羽柴秀吉が守る近江小谷城に一泊。14日には越前の玄関口である敦賀に到着し、武藤舜秀の城に本陣を構えた 7。3万余の大軍が敦賀に集結し、戦場の緊張は最高潮に達した。

8月15日 午前:総攻撃開始

夜が明けると同時に、信長は全軍に総攻撃を命令した。織田軍は大きく二手に分かれ、一揆軍の防衛線に襲いかかった 8。

  • 木ノ芽峠方面軍(東部戦線): 丹羽長秀、滝川一益、蜂屋頼隆らを主力とする部隊が、木ノ芽峠に布陣する石田の西光寺率いる一揆勢に攻撃を開始した 7 。ここは北国街道の要衝であり、激しい攻防が繰り広げられた。
  • 杉津口・海岸線方面軍(西部戦線): 羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家といった織田軍の中核部隊が、杉津口から海岸線に沿って北上を開始した。大良越えの大塩円強寺、海岸の新城の若林父子、そして鉢伏城の専修寺など、一揆軍の複数の拠点が同時に攻撃に晒された 7

8月15日 午後~夜:防衛線の崩壊と府中の悲劇

戦況が大きく動いたのは、西部戦線であった。杉津城の守備を担当していた一揆方の大将・堀江景忠が、織田方と内通して裏切ったのである 10。これにより、堅固と思われた海岸線の防御は、内部からいとも簡単に崩壊した。この一角の綻びは、ドミノ倒しのように全線に波及した。羽柴・明智らの部隊はこの突破口から雪崩れ込み、抵抗する円強寺や若林父子らの部隊を次々と撃破していった 7。

一揆軍の防衛戦略は、国境の第一防衛線に戦力を集中させるもので、その後方に予備兵力や第二、第三の防衛線を構築するという縦深性を欠いていた。そのため、一度防衛線が突破されると、織田軍の進撃を食い止める組織的な抵抗はもはや不可能であった。

織田軍の進撃速度は驚異的であった。国境線を突破したその日の夜には、早くも越前府中(現在の越前市)に到達した。府中の竜門寺に立てこもった三宅権丞ら一揆勢約2,000人は、織田軍の猛攻の前に為す術もなく、一人残らず切り捨てられた 7 。府中の町は死骸で埋め尽くされ、空き地もなかったと『信長公記』は伝えている 11 。総攻撃開始からわずか一日で、一揆軍の組織的抵抗は事実上終焉を迎えたのである。

第3章:【時系列詳述】焦土と化した越前 ― 「根切り」の実態

8月16日以降、越前で繰り広げられたのはもはや「合戦」ではなかった。それは、信長の命令による組織的かつ徹底的な「掃討」、すなわち「根切り」であった。国境の防衛線を失い、指導者たちも四散した一揆勢は、山中や村々に逃げ隠れるしかなかった。織田軍は部隊を国中に展開させ、文字通りの一揆狩りを開始した 9

『信長公記』によれば、8月15日の府中での虐殺に始まり、19日までのわずか5日間で生け捕りにされた者だけでも1万2,250人あまりにのぼり、彼らは例外なく斬首されたという 7 。女子供の区別もなかったとされる。さらに、戦闘で討ち取られた者や、山狩りで殺害された者を合わせると、最終的な犠牲者は3万人から4万人に達したと推計されている 11

指導者たちの末路もまた悲惨であった。総大将であった下間頼照は、逃亡中に味方であるはずの真宗高田派の門徒によって討ち取られた 9 。これは、本願寺派と、信長に協力することで生き残りを図ろうとした他の宗派との間の深刻な対立を示すものであり、一揆勢の内部崩壊を象徴する出来事であった。

8月下旬には、越前国内における大規模な抵抗勢力は完全に一掃された。信長は越前平定を宣言し、わずか半月足らずで一向一揆による支配を終わらせた。しかし、その代償として越前の大地は血に染まり、数万の命が失われた。この凄惨な記憶は、越前の人々の心に深く刻み込まれることになった。

第三部:新たな秩序の胎動

第1章:「鬼柴田」の治世 ― 柴田勝家による越前統治

一揆勢力が焦土と化した越前の新たな支配者として信長が選んだのは、織田家筆頭宿老の柴田勝家であった。信長は勝家に越前八郡を与え、その統治を全面的に委任した。勝家は越前の中心地として北ノ庄(現在の福井市)を選び、壮大な新城の築城と城下町の建設に着手した 12

勝家は、単に勇猛な武将であるだけでなく、優れた行政手腕を持つ為政者でもあった。彼は一乗谷から商人や職人を呼び寄せて城下の発展を促し、足羽川には九十九橋を架けて交通網を整備するなど、領国の復興と経済の活性化に努めた 12 。また、「国中掟書」を定めて新たな統治方針を明確に示し、混乱した越前に新たな秩序をもたらそうとした。勝家の統治は、信長による徹底的な「破壊」の上に、織田政権による新たな「創造」を具現化するものであり、越前は中世的な在地領主制から、近世的な大名領国制へと大きく舵を切ることになった。

第2章:武力の解体と再編 ― 「刀さらえ」の真意

柴田勝家が越前統治の根幹として実施した政策の中で、特に注目されるのが「刀さらえ」と呼ばれる武器の没収令である 13 。これは、後の豊臣秀吉による全国的な「刀狩」の先駆的な事例とも見なされるが、その目的と性格は大きく異なっていた。

秀吉の刀狩が、百姓から武器を恒久的に取り上げることで身分を固定化し、兵農分離を完成させるという社会構造の変革を目指したものであったのに対し 14 、勝家の「刀さらえ」は、より現実的かつ戦術的な治安維持政策であった。その最大の目的は、一向一揆の再蜂起の芽を物理的に摘み取ることにある。丹生郡の織田寺社など、一揆に与した可能性のある寺社や民衆からは、徹底的に武器を取り上げた 13

しかし、その一方で勝家は、一見矛盾する政策を同時に進めている。それは、反本願寺派勢力の武装奨励である。一揆の総大将・下間頼照を討ち取った功績を賞し、坂井郡黒目の真宗高田派称名寺の門徒に対しては、逆に「腰刀・武具で武装すること」を命じている 13 。これは、勝家の政策が、全ての民衆から一律に武器を取り上げるものではなかったことを示している。彼の目的は、領内の武力を「敵の無力化」と「味方の武装化」という形で再編成することにあった。

当時の越前は、北に依然として強大な加賀一向一揆を控え、さらにその先には上杉謙信という脅威も存在した。このような軍事的緊張下において、領内の全ての武装を解除することは現実的ではなかった。勝家の「刀さらえ」は、社会改造を目的とした理想主義的な政策ではなく、敵と味方を峻別し、領内の軍事力を自らの統制下に置くという、極めてプラグマティックな武力管理政策だったのである。

終章:越前一向一揆鎮圧が歴史に残した爪痕

天正3年(1575年)の越前一向一揆鎮圧は、単なる一地方の合戦の勝利に留まらず、日本の戦国史、ひいては社会構造の転換点において、極めて重要な意義を持つ事件であった。

第一に、この戦いは戦国時代を席巻した一向一揆という巨大な宗教勢力の衰退を決定づけた。加賀の「百姓の持ちたる国」という成功体験を背景に、越前をも支配下に置いた本願寺勢力であったが、信長の圧倒的な軍事力と非情な殲滅戦術の前に、その支配はわずか1年半で脆くも崩れ去った。この敗北は、石山本願寺の権威に大きな傷をつけ、全国の門徒に織田信長という存在の恐ろしさを骨の髄まで刻み込んだ。

第二に、信長が実行した「根切り」という戦術は、戦国社会に大きな衝撃を与えた。それは、敵対勢力の戦闘員のみならず、それを支持する共同体そのものを根絶やしにするという思想であり、中世的な在地性の強い社会秩序を、国家的な権力によって完全に破壊しうることを証明した。この徹底的な破壊があったからこそ、柴田勝家による新たな支配体制、すなわち近世的な大名領国制の導入が、旧来のしがらみに囚われることなく迅速に進められたのである。

最後に、この一連の出来事は、中世から近世への移行期を象徴する画期であったと言える。信仰という精神的な紐帯で結ばれた水平的な共同体(一揆)が、中央集権的な軍事力と統治システムを持つ垂直的な権力(織田政権)によって打倒された。そして、勝家が実施した「刀さらえ」と味方の武装化という武力管理政策は、領国内の軍事力を為政者が一元的に管理・再編するという、近世的な統治システムの萌芽であった。

結論として、越前一向一揆の鎮圧は、織田信長が「天下人」として、既存のあらゆる権威(宗教、在地領主)を武力で粉砕し、その焦土の上に全く新しい支配秩序を構築する強固な意志と能力を天下に示した、象徴的な事件であった。この越前の地で繰り広げられた破壊と創造のドラマは、その後の豊臣政権、そして徳川幕府へと続く、新たな時代の幕開けを告げるものであった。

引用文献

  1. イメージ先行「百姓ノ持チタル国」!? https://nanao.sakura.ne.jp/kaga/t-special/hyakusyo_no_mochitarukuni.html
  2. 加賀一向一揆(かがいっこういっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86-824247
  3. 織田信長や徳川家康を苦しめた一枚岩の集団~一向一揆 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/nobunaga-versus-ikkoikki/
  4. [合戦解説] 10分でわかる石山合戦 「織田信長と10年戦った宗教勢力石山本願寺の最後」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=jeYEBEq4CsU
  5. えちぜん年代記|越前町 織田文化歴史館 https://www.town.echizen.fukui.jp/otabunreki/panel/29.html
  6. 越前一向一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%89%8D%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
  7. 【解説:信長の戦い】越前一向一揆(1575、福井県越前市ほか ... https://sengoku-his.com/386
  8. 越前一向一揆 - 敦賀の歴史 http://historia.justhpbs.jp/kinomejyousai1.html
  9. 図説福井県史 中世22 越前一向一揆(2) https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/B22/B222.htm
  10. 一向一揆興亡史 (越前関連年表) https://www.big-c.or.jp/~makichan/1312ikki.pdf
  11. 【百三十三】 「信長との戦い その四」 ~越前一向一揆 https://www.koshoji.or.jp/shiwa_133.html
  12. 柴田勝家・お市の方 | 歴史あれこれ | 公益財団法人 歴史のみえるまちづくり協会 https://www.fukui-rekimachi.jp/category/detail.php?post_id=32
  13. 刀さらえ - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-01-04.htm
  14. 刀狩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9