野田城の戦い(1573)
野田城の戦い(1573年)― 武田信玄、最後の城攻めの全貌
序章:西上作戦の頂点と影 ― 野田城攻囲に至る戦略的背景
元亀四年(1573年)初頭、三河国野田城(現在の愛知県新城市)を舞台に繰り広げられた攻防戦は、戦国時代の巨星・武田信玄が生涯最後に行った城攻めとして、日本の軍事史に特異な位置を占めている。この戦いは、単なる一城の攻略戦ではなく、織田信長を最大の窮地に陥れた「西上作戦」という壮大な戦略の最終局面であり、信玄自身の命運、ひいては戦国乱世の趨勢を決定づける転換点であった。本報告書では、この野田城の戦いを、戦略的背景から戦術的展開、そして歴史的意義に至るまで、あらゆる角度から徹底的に解明する。
将軍義昭の檄と信長包囲網
西上作戦の直接的な引き金は、中央政界の動揺にあった。室町幕府第15代将軍・足利義昭は、自身を擁立した織田信長が実権を掌握し、将軍権力を形骸化させていくことに強い不満を抱いていた。元亀三年(1572年)、両者の関係は修復不可能なまでに悪化し、義昭は信長討伐の御内書を浅井長政、朝倉義景、石山本願寺、そして甲斐の武田信玄といった反信長勢力に送り、一大包囲網を形成しようと画策した 1 。
この将軍の檄に応じ、信玄は遂に西への大軍事行動を決意する。これは単なる領土拡大を目的とした侵攻ではなく、「将軍を奉じ、天下を静謐にする」という大義名分を伴うものであった。信玄の生涯をかけた最後の挑戦が、ここに始まったのである。
西上作戦の進軍と三方ヶ原での圧勝
元亀三年十月、信玄は二万五千とも三万ともいわれる大軍を率いて甲府を出陣した 2 。作戦は二方面から成り、山県昌景らが率いる別動隊が三河へ、そして信玄率いる本隊は青崩峠を越えて徳川家康の領国である遠江へと侵攻した 4 。その進撃は凄まじく、わずか一日にして北遠江の徳川方諸城を次々と陥落させた 6 。
この武田軍の脅威に対し、徳川家康は同盟者である織田信長からの援軍を得て迎撃を試みる。同年十二月二十二日、両軍は遠江国三方ヶ原で激突した 7 。結果は、戦国史上屈指の一方的な戦いとなり、徳川軍は壊滅的な敗北を喫した。家康は命からがら居城・浜松城へ逃げ帰るという、生涯最大の屈辱と危機を味わった 8 。
しかし、この圧勝の後、信玄は浜松城を直接攻撃することなく、遠江の刑部村に滞陣して越年するという不可解な行動に出る 2 。この遅滞は、兵の疲労回復という戦術的判断に加え、信玄が長年患っていた持病(通説では肺結核)が悪化していたことを示唆する最初の兆候であった 3 。信玄の西上作戦は、敵を打ち破る速さだけでなく、自身の尽きようとする命脈との戦い、すなわち「時間との戦い」という側面を帯びていた。この視点から見れば、三方ヶ原での勝利の後に生じた僅かな停滞ですら、作戦全体にとっては大きな影を落とすものであった。
さらに、三方ヶ原での圧倒的勝利は、意図せざる結果をもたらした。徳川家が瀕死の状態に陥ったことで、これまで日和見をしていた奥三河の国人衆、いわゆる「山家三方衆」(奥平氏、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏)などが雪崩を打って武田方へと寝返ったのである 10 。信玄にとって、これらの新たな味方をまとめ上げ、支配体制を磐石にする作業は不可欠であった。しかし、それは同時に、本筋である対織田戦線への進軍を遅らせる要因ともなった。三方ヶ原の勝利が大きすぎたが故に、その「戦後処理」として、依然として徳川への忠誠を貫く抵抗拠点の制圧が急務となったのである。その象徴こそが、菅沼定盈が守る野田城であった。
第一章:野田城、三河の孤塁 ― 戦いの舞台と登場人物
三方ヶ原の戦いを経て、武田軍の次の目標として浮上した野田城は、小規模ながらも戦略的に無視できない存在であった。この城を巡る攻防は、城の構造、そして何よりも城主の不屈の意志によって、歴史に記憶される籠城戦となった。
城の構造と地政学的重要性
野田城は、豊川の右岸に位置する丘陵の先端、いわゆる台地に築かれた平山城であった。その規模は決して大きくなく、文献ではしばしば「小城」と表現される 3 。しかし、その防御力は地形によって高められていた。城の南北は「龍淵」「桑淵」と呼ばれる深い谷(断崖)に面しており、天然の要害をなしていた 2 。攻め手は、限られた正面から攻撃するほかなく、大軍の利を活かしにくい構造であった。
地政学的に見れば、野田城は東三河の要衝・吉田城と、奥三河の拠点である長篠城を結ぶルート上に位置していた。武田軍が三河を完全に掌握し、さらに西の尾張へと進軍するためには、この連絡線を遮断し、背後の憂いを断つ必要があった。信玄にとって、野田城の攻略は、西上作戦を継続する上での避けて通れない課題だったのである 2 。
城主・菅沼定盈の人物像
この難攻不落ならずとも厄介な城を守るのが、城主・菅沼定盈であった。菅沼氏は奥三河に広く分布する一族であるが、本家筋にあたる田峯菅沼氏や長篠菅沼氏が武田方になびく中、支流である野田菅沼氏の当主・定盈は一貫して徳川家康への忠誠を貫いた 13 。その武勇と器量は敵である信玄にも知られており、「定盈は三河で名の知られた武将であり、兵たちはみな決死の覚悟である」と評されたほどであった 16 。
定盈の抵抗は、単なる精神論的な忠義だけに基づくものではなかった。彼は、武田の大軍に野戦を挑むことの無謀さを理解し、籠城こそが唯一の現実的な選択肢であると判断した。その目的は、武田軍を撃退するという非現実的なものではなく、徹底抗戦によって「時間を稼ぐ」ことにあったと考えられる。時間を稼げば、家康が態勢を立て直すか、信長が動く可能性が生まれる。少なくとも、武田軍の進軍を遅らせ、その兵站を疲弊させることはできる。そして、籠城が限界に達した際には、無駄な玉砕を選ぶのではなく、兵の命を救うことを最優先に考えた 2 。彼の行動は、主君への忠義という「理念」と、家臣と領民を守り再起を図るという「現実主義」が両立した、戦国期の優れた指揮官の姿を映し出している。
両軍の戦力比較
この戦いにおける両軍の戦力差は、絶望的と言っても過言ではなかった。
- 籠城側(徳川軍) : 城主・菅沼定盈を中心に、徳川家からの援将・松平忠正らが加わっていたが 11 、その総兵力はわずか500名程度であった 3 。しかし、彼らは地の利を得ており、何よりも決死の覚悟で士気は極めて高かった 16 。
- 攻城側(武田軍) : 武田信玄率いる西上作戦本隊の一部であり、その兵力は二万五千から三万に達した 2 。兵力において、実に50倍以上もの差があったのである。
この圧倒的な戦力差を鑑みれば、野田城が短期間で陥落すると考えるのが自然であった。しかし、戦いの様相は誰もが予想しなかった長期戦へと突入していく。
表1:野田城の戦い 主要関連人物と勢力
勢力 |
主要人物 |
兵力(推定) |
立場・役割 |
攻城側(武田軍) |
武田信玄 |
約 25,000 - 30,000 |
西上作戦の総大将。全軍の指揮を執る。 |
|
山県昌景 |
(本隊の一部) |
武田四天王の一人。別動隊を率い三河方面で活動。 |
|
馬場信春 |
(本隊の一部) |
武田四天王の一人。信玄を支える重臣。 |
籠城側(徳川軍) |
菅沼定盈 |
約 500 |
野田城主。徳川家への忠誠を貫き、籠城戦を指揮。 |
|
松平忠正 |
(城兵の一部) |
徳川家からの援将として定盈を補佐 11 。 |
|
徳川家康 |
(後詰断念) |
徳川家当主。三方ヶ原で大敗し、後詰を送る余力なし。 |
周辺勢力 |
山家三方衆 |
不明 |
奥平氏、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏。武田方に従属し、後に降伏を仲介。 |
第二章:包囲網の完成 ― 元亀四年正月、攻防の幕開け(時系列解説①)
三方ヶ原での勝利の余勢を駆り、年が明けた元亀四年(1573年)一月、武田信玄は満を持して三河への侵攻を開始した。その最初の標的となったのが、孤立無援の野田城であった。
進軍と包囲開始(1月11日頃)
一月十日、武田軍本隊は滞在していた遠江国刑部村を発ち、宇利峠を越えて三河国へと進入した 3 。豊川を渡河した大軍は、一月十一日頃には野田城を完全に包囲し、攻城戦の幕が切って落とされた 8 。
この急報に接した徳川家康は、野田城を見殺しにすることはできなかった。三方ヶ原での敗戦で手痛い損害を被りながらも、僅かな兵を率いて後詰(援軍)に向かった。しかし、豊川の対岸にある八名井(旗頭山)まで進出したところで、眼前に展開する武田の大軍を目の当たりにし、その圧倒的な兵力差に為す術もなく、吉田城への撤退を余儀なくされたと伝わる 2 。菅沼定盈と五百の城兵は、主君の援軍という最後の望みを断たれ、完全に孤立したのである。
初期の攻防と信玄の判断
包囲を完成させた信玄は、まず降伏勧告の使者を送り、無駄な血を流さずに城を明け渡すよう促した 6 。しかし、城主・定盈はこれを敢然と拒絶。城兵の士気は極めて高く、籠城の覚悟は固まっていた。それどころか、籠城側は防戦一方に徹するのではなく、幾度となく城外へ打って出て武田軍の陣に奇襲をかけ、攻め手を慌てさせたという 16 。
この城方の予想外に激しい抵抗を目の当たりにした信玄は、冷静に戦況を分析した。彼は家臣に対し、「このような小さな城であるが、定盈は三河で名の知られた武将であり、兵たちはみな決死の覚悟である。力攻めをすれば、我が軍の損害も大きくなる」と述べ、力攻めによる短期決戦を避ける判断を下した 16 。
この信玄の判断は、二つの側面から解釈できる。一つは、孫子の兵法にも通じる、熟練した軍略家としての合理的な判断である。この西上作戦の最終目標は、織田信長との決戦にある。目前の小城を攻略するために無用な兵力を損耗することは、大局的に見て得策ではない 12 。しかし、もう一つの側面として、信玄自身の健康問題がこの判断に影響を与えた可能性は否定できない。全盛期の信玄であれば、多少の損害を覚悟の上で電撃的に城を陥落させたかもしれない。だが、この時の彼は、自身の肉体が無理の利かない状態にあることを自覚していた。力攻めによる長期化や、万が一の敗北というリスクを冒すことができなかったのである。信玄の「力攻め回避」という決断は、彼の軍事的天才性の表れであると同時に、その肉体的な限界が初めて作戦に明確な影響を及ぼした瞬間でもあった。こうして、野田城の戦いは、攻め手の意図によって長期戦へと移行していくことになった。
第三章:膠着と奇策 ― 信玄が選んだ「金堀攻め」(時系列解説②)
力攻めを断念した信玄は、短期決戦に代わる新たな戦術を選択した。それは、武田家が擁する特殊技術集団を投入し、城を内側から無力化するという、他に類を見ない高度な工兵戦術であった。
戦術の転換と金堀衆の投入
信玄が繰り出した奇策は、「金堀攻め(かなほりぜめ)」、あるいは「もぐら攻め」と呼ばれるものであった。これは、武田氏の領国である甲斐や信濃の金山で鉱脈を掘り当てる専門技術者集団「金堀衆(かなほりしゅう)」を戦場に動員し、城の地下に坑道を掘らせる戦術である 21 。信玄は早速、甲州から金堀衆を呼び寄せ、野田城の水源を断つという作戦を開始した 11 。これは、武田氏が他の城攻めでも用いた得意戦術であり、その技術力は戦国大名の中でも突出していた 21 。
この戦術は、戦国時代の合戦における「非対称戦」の一形態と見なすことができる。籠城側が刀や槍、鉄砲といった直接的な戦闘力で抵抗するのに対し、武田軍は土木技術という全く異質の能力で対抗した。これは、籠城側が持ち得ない「技術的優位」を戦場に持ち込むことであり、城兵の武勇や決死の覚悟といった精神論を無力化する効果があった。菅沼定盈の兵がどれほど果敢に城から打って出ても、地下深くで進行する掘削作業を止めることは不可能であった。この戦術の採用により、戦いの主導権は完全に武田軍の手に渡った。
「もぐら攻め」の技術的詳細と心理的圧迫
金堀衆の作業は、極めて計画的に進められた。彼らは何らかの手段で入手した城の絵図などを元に 22 、城外から本丸にある井戸を目指して複数の坑道を掘り進めたとされる 19 。
まず、彼らは二の丸と本丸の間の地面を掘り崩し、両曲輪の連絡を断ち切った 2 。これにより、城兵は防御範囲の縮小を余儀なくされ、本丸へと追い詰められた。その後、金堀衆は昼夜兼行で本丸の地下へと坑道を伸ばし、城の生命線である水脈を探し当てようとした 22 。
この「もぐら攻め」は、物理的な脅威であると同時に、籠城側の兵士たちに強烈な心理的圧迫を与えた。昼夜を問わず地下から響き渡る不気味な槌音は、見えない敵が足元から迫ってくる恐怖を煽った 12 。いつ城の真下が崩落するかもしれないという不安は、兵士たちの士気を確実に蝕んでいった。これは、城兵の勇気を正面から打ち砕くのではなく、その精神を内側から崩壊させる、巧妙な心理戦でもあった。野田城の戦いは、武力と武力がぶつかり合うだけでなく、技術力と心理戦が勝敗を左右する、より近代的な戦争の様相を呈していたことを示す好例である。
第四章:水脈断たれ、落城の刻 ― 籠城戦の終焉(時系列解説③)
金堀衆による地下からの攻撃が始まってから約一ヶ月、膠着していた戦況はついに最終局面を迎える。武田軍の執拗な工兵戦術が、ついに野田城の生命線を断ち切ったのである。
水の手の破壊と城内の惨状
昼夜を分かたぬ掘削作業の末、金堀衆は野田城本丸の地下に張り巡らされた水脈を突き止め、それを断ち切ることに成功した 11 。城内に唯一あったとされる井戸はたちまち枯渇し、五百の城兵は深刻な水不足に見舞われた 11 。食料がなくとも水さえあれば数日は耐えられるが、水がなければ人間の生命活動は急速に限界を迎える。
城内の惨状は凄まじかったと伝えられる。渇きに苦しむあまり、城兵の中には銭を入れた甕(かめ)を城壁から吊り下げ、包囲している武田兵に「これで水を売ってくれ」と懇願する者まで現れたという逸話が残っている 2 。この逸話は、籠城側が物理的にも精神的にも限界に達していたことを物語っている。
降伏交渉と山家三方衆の介在
これ以上の籠城は不可能と悟った城主・菅沼定盈は、ついに降伏を決意した。彼の当初の覚悟は、自身の首を差し出す、すなわち切腹することと引き換えに、家臣たちの命を救ってもらうというものであった 2 。
しかし、ここで意外な方面から交渉の仲介者が現れる。武田方に従属していた山家三方衆である。彼らから城内に矢文が射ち込まれ、新たな降伏条件が提示された 23 。その内容は、定盈が人質となり武田方に出頭することを条件に城兵の命を保証する、さらに定盈の身柄は、山家三方衆がかつて徳川方に預けていた人質と交換で解放するというものであった 19 。
この仲介は、各勢力の複雑な思惑が絡み合った高度な政治劇であった。信玄にとって、三河の名将である定盈を殺害することは、他の三河国衆の反感を買い、将来の統治に禍根を残す。彼を生かして解放することは、自身の度量の大きさを示すとともに、徳川方への揺さぶりともなる「懐柔策」であった。一方、武田に寝返ったばかりの山家三方衆にとって、旧知の仲である定盈の助命を斡旋することは、武田家中での自分たちの発言力を高める好機である。同時に、万が一武田が敗れた場合に備え、徳川方との関係を完全に断ち切らないための保険という意味合いもあったかもしれない。定盈は、この条件が家臣の命を救う最善の道であると判断し、受け入れることを決断した。
開城(2月16日)と定盈の解放(3月10日)
交渉がまとまり、元亀四年二月十六日、約一ヶ月にわたる籠城戦の末、野田城は遂に開城した 3 。菅沼定盈は捕虜として武田軍に身柄を拘束された。しかし、山家三方衆との約束は守られ、約三週間後の三月十日、人質交換によって定盈は無事に解放され、主君・徳川家康の下へと帰参を果たしたのである 3 。
第五章:伝説と史実 ― 信玄狙撃説の深層
野田城の戦いには、武田信玄の死因に直接関わる有名な伝説が残されている。それは、信玄がこの城の包囲中に狙撃され、その傷が元で死に至ったというものである。この逸話は、映画『影武者』でも描かれたことで広く知られているが、その史実性については慎重な検証が必要である。
狙撃伝説の概要
この伝説が記されているのは、主に徳川家の家伝である『松平記』や『三河物語』といった後世に編纂された二次史料である 8 。その内容は概ね次のようなものである。
野田城内には、伊勢山田出身の村松芳休という笛の名手がいた。彼が夜な夜な櫓の上で奏でる美しい笛の音色は、包囲する武田軍の陣にも聞こえていた。音楽を愛好する信玄は、その音色に魅了され、毎晩のように堀端まで出てきては聞き惚れていたという 8 。城内ではこのことが噂となり、定盈の家臣で鉄砲の名手であった鳥居三左衛門(鳥井半四郎とも)が、信玄の狙撃を計画した。ある夜、いつものように笛の音に耳を傾ける信玄の姿を狙い、鳥居が放った一発の弾丸が信玄に命中。この時の鉄砲傷が悪化し、無敵を誇った信玄も遂に死に至った、という物語である 11 。
史料批判による検証と物理的可能性
この狙撃伝説は、劇的で興味深いものであるが、歴史的事実として受け入れるには多くの疑問点が存在する。
第一に、史料の偏りである。この逸話は徳川方の史料にのみ見られ、信頼性の高い一次史料とされる太田牛一の『信長公記』や、武田方の視点で書かれた『甲陽軍鑑』には、狙撃に関する記述は一切存在しない 18 。英雄・信玄の死を、病死という平凡な結末ではなく、徳川家臣の武功による劇的なものとして描きたいという、後世の徳川方の顕彰意識が働いた創作である可能性が極めて高い。
第二に、この伝説が生まれた背景には、火縄銃という新兵器が当時の人々に与えた衝撃が関係していると考えられる。火縄銃の登場は、それまでの戦いの常識を覆した。身分の低い一兵卒が放った弾丸が、歴戦の勇将の命を奪うことを可能にした。この「誰でも英雄を殺しうる」という死のランダム性は、当時の人々にとって大きな畏怖の対象であった。一方で、人々は物語に明確な因果応報を求める傾向がある。信玄ほどの英雄が病で倒れるのは、物語として収まりが悪い。そこで、「笛の音に聞き惚れて油断した」という人間的な隙と、「名もなき鉄砲兵」という新時代の象徴が結びつき、信玄の死に「油断大敵」という教訓と劇的な結末を与える物語が創作されたのではないか。
物理的な実現可能性については、狙撃場所とされる野田城内と、信玄がいたとされる対岸の法性寺との距離は約60メートルとされており 20 、当時の火縄銃の有効射程を考えれば、狙撃自体は不可能ではなかった。しかし、夜間の暗闇の中で特定の個人を正確に狙い撃つことの困難さを考慮すると、その成功確率は著しく低いと言わざるを得ない。
結論として、信玄狙撃説は歴史的事実ではなく、信玄という巨星の死をめぐって生み出された「物語」として捉えるのが妥当である。信玄の直接の死因は、長年患っていた持病が悪化したことによる病死と考えるのが、現在の歴史学における定説である 3 。
終章:信玄最後の勝利と西上作戦の頓挫
野田城の開城は、武田信玄にとって戦術的な勝利であった。しかし、それは彼の生涯最後の勝利となり、同時に西上作戦という壮大な戦略の破綻を決定づけるものとなった。この小城で費やされた一ヶ月という時間は、信玄に残された僅かな寿命を使い果たし、歴史の歯車を大きく動かすことになったのである。
野田城落城後の武田軍と信玄の死
野田城を攻略したものの、信玄の病状は快方に向かうどころか、悪化の一途をたどっていた。これ以上の進軍は不可能と判断した信玄は、遂に軍の停止を命じる 8 。武田軍は長篠城に守備兵を置くと、信玄は鳳来寺などで療養に努めたが、病状は好転しなかった 2 。
三月、信玄は遂に西上作戦の断念と、本国・甲斐への撤退を決断する。しかし、彼の命運は既に尽きかけていた。撤退の途上、元亀四年四月十二日、信玄は信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)にて、五十三年の生涯を閉じた 2 。織田・徳川連合軍を最大の危機に陥れた西上作戦は、その総大将の死によって完全に頓挫した。
戦いがもたらした影響と歴史的評価
野田城の戦いとそれに続く信玄の死は、戦国史に絶大な影響を及ぼした。
- 徳川家にとって : 信玄の死は、滅亡の淵に立たされていた徳川家康にとって最大の幸運であった 18 。この危機を脱した家康は、勢力を回復させ、後の長篠の戦いでの勝利、そして天下統一への道を歩むことになる。
- 戦国史全体にとって : もし信玄が健在で西上を継続していれば、浅井・朝倉・本願寺との多方面作戦を強いられていた織田信長が持ちこたえられたかは定かではない。信玄の死は、信長包囲網の崩壊を意味し、信長の天下布武を大きく前進させる結果となった。その意味で、野田城で菅沼定盈が稼いだ一ヶ月という時間は、歴史の転換点となる極めて重要な時間であったと言える。
- 菅沼定盈と野田城のその後 : 人質交換で解放された定盈は、信玄の死後に徳川方が勢いを盛り返すと、天正二年(1574年)に野田城を奪還し、再び城主として返り咲いた 3 。彼の忠義と功績は家康から高く評価され、その子孫は徳川政権下で大名として存続し、一族の中で最も繁栄した 13 。
野田城の戦いは、武田信玄が生涯で最後におこなった城攻めであり、戦術的には勝利したものの、結果的に彼の命運を尽きさせ、一大戦略を破綻に導いた。小城の粘り強い抵抗が、巨大な軍事作戦を頓挫させた象徴的な事例として、戦国史にその名を深く刻んでいる。それは、一人の武将の忠義と、もう一人の英雄の肉体的限界が交錯した、運命の戦いであった。
表2:野田城の戦い 詳細時系列表
年月日(西暦/和暦) |
武田軍の動向 |
徳川軍・野田城の動向 |
備考 |
1573年1月25日 (元亀3年12月22日) |
三方ヶ原で徳川軍に圧勝。 |
家康、浜松城へ敗走。 |
三方ヶ原の戦い 7 。 |
1573年1月下旬 (元亀3年12月下旬) |
遠江国刑部村に滞在し越年 2 。 |
徳川方、戦力の立て直しを図るも困難な状況。 |
この遅滞が信玄の体調不良を示唆。 |
1573年2月12日頃 (元亀4年1月11日頃) |
刑部村を発ち、三河へ侵攻。野田城を包囲 3 。 |
菅沼定盈、約500の兵で籠城を開始。 |
家康、八名井まで後詰に出るも撤退 19 。 |
1573年2月中旬 (元亀4年1月中旬) |
力攻めを試みるも、城方の激しい抵抗に遭う。 |
城兵、城外へ打って出るなど士気旺盛 16 。 |
信玄、力攻めを避け、長期戦を決断。 |
1573年2月下旬 (元亀4年1月下旬) |
甲州金堀衆を投入し、「もぐら攻め」を開始 11 。 |
地下からの掘削音に、城内の士気に影響。 |
水の手を断つ作戦へ移行。 |
1573年3月上旬 (元亀4年2月上旬) |
坑道掘削を継続。 |
城内、水不足が深刻化し始める。 |
狙撃伝説では、この時期に信玄が撃たれたとされる 24 。 |
1573年3月17日 (元亀4年2月16日) |
野田城開城 。城を接収。 |
水脈を断たれ、籠城限界に。定盈は降伏を決意。 |
城兵の助命を条件に開城 3 。 |
1573年3月下旬 (元亀4年2月下旬) |
長篠城に入城。信玄の病状が悪化し、進軍停止 4 。 |
定盈は捕虜として武田軍に拘束される。 |
|
1573年4月11日 (元亀4年3月10日) |
山家三方衆の人質と定盈を交換。 |
菅沼定盈、解放され徳川家に帰参 3 。 |
|
1573年4月中旬 (元亀4年3月中旬) |
信玄、甲斐への撤退を開始。 |
|
西上作戦の事実上の終焉。 |
1573年5月13日 (元亀4年4月12日) |
武田信玄、信濃国駒場にて病死 2 。 |
徳川家、滅亡の危機を脱する。 |
|
1574年 (天正2年) |
|
菅沼定盈、野田城を奪還し城主に復帰 3 。 |
信玄の死後、徳川方が三河で反攻に転じる。 |
引用文献
- 長篠の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 三方ヶ原の戦い - 下天夢紀 http://tenkafubu.fc2web.com/mikata/htm/aichi.htm
- 野田城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 武田軍年表 - 武田家の史跡探訪 https://mogibushi.com/top-page/takeda-nenpyo/
- 【三方ヶ原合戦】本当は「戦国最強」ではなかった武田信玄!?武田信玄の西上作戦の真意と進軍経路を新説から読み解く【どうする家康】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=IisPQQUcZ2o
- 西上作戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6
- 三方ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 野田城の戦い古戦場:愛知県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/nodajo/
- 三方ヶ原の戦い(徳川家康×武田信玄)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11095/
- 元亀2年(1571)・同3年の武田信玄による遠江・三河侵攻について - 日本のお城 http://shizuokacastle.web.fc2.com/pick_up/genki2_yes_or_no/genki2_yes_or_no.html
- 【愛知県】三河 野田城の歴史 徳川・武田・今川の争奪戦となり、絶え間ない戦乱に晒された75年間とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1869
- 野田城 (愛知県新城市豊島) - らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~ https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-489.html
- 菅沼定盈 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E6%B2%BC%E5%AE%9A%E7%9B%88
- G140 菅沼定盈 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/g140.html
- 笛聞場 - 法性寺境内に残る、武田信玄伝説の地 https://japanmystery.com/aiti/housyouji.html
- 其の四 武田信玄最期の城攻め「野田城」 - 新城市 https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/taiga/shinshiro/4.html
- 野田城の歴史/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-castle/nodajo/
- 野田城の戦い四百五十年 - note https://note.com/furumiyajou/n/n0ff4eba805b6
- 野田の戦い あらまし http://tomioka-aichi.jp/isan/shijitsu/nodanotatakai.pdf
- 狙撃説は本当?武田信玄が生涯最後に攻めた三河新城市の野田城跡 https://sengokushiseki.com/?p=974
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