野田城・福島城の戦い(1570~71)
元亀の動乱:野田城・福島城の戦い(1570年)全詳報
序章:元亀の動乱 ー 野田城・福島城の戦いへ至る道
元亀元年(1570年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。その2年前の永禄11年(1568年)、尾張の織田信長は足利義昭を奉じて京へ上洛し、長きにわたり畿内を支配してきた三好氏の勢力を駆逐した 1 。これにより、室町幕府は一時的ながら再興され、信長は将軍の後見人として天下に号令する地位を確立した。しかし、その支配は未だ盤石ではなかった。畿内から追放された三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)は、本拠地である四国の阿波へと後退し、雪辱の機会を虎視眈々と窺っていたのである 2 。
彼らは単なる敗残兵ではなかった。四国に強固な地盤を持ち、畿内での支配経験も豊富な宿将たちであり、その再起は時間の問題と見なされていた 3 。一方、信長は畿内における新たな支配体制の構築を進めていたが、その過程で巨大な宗教勢力である石山本願寺との関係が微妙な緊張をはらみ始めていた。当初、信長は本願寺に対して矢銭(軍事献金)5000貫を要求し、法主である顕如はこれに応じており、両者の関係は必ずしも敵対的ではなかった 5 。しかし、信長の急速な勢力拡大は、大名に匹敵する権力を持つ本願寺にとって潜在的な脅威となりつつあった。
この戦いの舞台となった摂津国西成郡の野田・福島は、今日の大阪市福島区玉川周辺に位置する 8 。当時のこの地域は淀川河口に広がる広大なデルタ地帯であり、無数の川や堀が縦横に流れる低湿地であった 11 。この地理的条件は、野田城・福島城を天然の要害たらしめていた。さらに戦略的に見れば、この地は水運の要衝であり、京、大坂、そして国際貿易港である堺を結ぶ結節点に位置していた。西国からの物資や兵員が畿内へ入る玄関口でもあり、この地を抑えることは経済的・軍事的に絶大な意味を持っていた。
そして何よりも決定的な要素は、この野田・福島が、石山本願寺からわずか4kmという至近距離にあったことである 11 。この地理的近接性は、当初は局地的な紛争であったはずの戦いを、やがて10年にも及ぶ大戦争へと発展させる運命的な導火線となる。元亀元年の夏、三好三人衆が反攻の狼煙を上げた時、この摂津の湿地帯は、信長の天下布武事業における最初の、そして最大の試練の場と化したのである。
第一章:合戦の当事者たち ー 織田、三好、そして本願寺
この戦いは、単なる二つの勢力の衝突ではなく、それぞれの目的と利害が複雑に絡み合った、三つの主要な権力ブロックによる複合的な争いであった。
織田方連合軍
姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した直後の織田信長は、その軍事的威信が最高潮に達していた 13 。この戦いにおいて、信長は畿内の同盟勢力を結集させ、圧倒的な物量をもって三好勢の鎮圧に臨んだ。
- 総大将・織田信長 : 天下布武を掲げ、畿内の完全掌握を目指す信長にとって、三好三人衆の再起は看過できない挑戦であった。彼は自ら馬廻り衆3千を率いて岐阜を出陣し、最終的に畿内諸勢力を合わせて総兵力4万から5万ともいわれる大軍を動員した 13 。
- 将軍・足利義昭 : 信長によって将軍の座に就けられた義昭は、この時点では信長と協力関係にあった。彼は自らも奉行衆2千を率いて摂津中嶋城に着陣し、この戦いが幕府の公的な討伐戦であるという大義名分を織田方に与えた 11 。
- 畿内協力勢力 : 河内守護の三好義継、大和の松永久秀、畠山昭高、摂津の和田惟政といった、信長に従うことで畿内での地位を確保しようとする諸将が参陣した 11 。彼らは摂津の地理に明るく、在地勢力としての知見は織田軍の作戦遂行に大きく貢献した。
反織田方連合軍
畿内からの失地回復を悲願とする三好三人衆は、四国の一族や反信長勢力を結集し、決死の覚悟でこの戦いに挑んだ。
- 中核・三好三人衆 : 三好長慶の死後、三好本宗家の実権を掌握してきた三好長逸、三好政康(宗渭)、岩成友通の三将がこの軍の中核を成していた 3 。彼らは畿内統治の経験が豊富な宿将であり、その政治力と軍事力は依然として侮れないものであった 16 。
- 支援勢力 : 管領家・細川氏の嫡流である細川昭元を名目上の盟主として擁立し、阿波の篠原長房、淡路の安宅信康、讃岐の十河存保といった四国の三好一族が主力を担った 13 。さらに、信長に美濃を追われた斎藤龍興や長井道利といった浪人衆も加わっていた 13 。『松井家譜』によれば、上陸時の総兵力は1万3千、野田・福島での籠城時の兵力は『信長公記』によれば約8千と記録されている 1 。
- 傭兵・雑賀衆 : 紀伊を本拠とする鉄砲傭兵集団、雑賀衆もこの戦いに参加した。頭領である鈴木孫一(重秀)が率いる部隊は、三好一族の安宅信康に雇用される形で参陣しており、この時点では純粋な軍事契約に基づく参戦であった可能性が高い 1 。彼らの持つ高い鉄砲運用能力は、三好方の重要な戦力であった。
静観する巨頭・石山本願寺
当初、この戦いの直接的な当事者ではなかったが、その動向が戦局を決定づけることになるのが石山本願寺であった。
- 法主・顕如 : 浄土真宗本願寺派第11世宗主。全国に広がる門徒組織(一向宗)を背景に、大名に匹敵する経済力と潜在的な軍事力を持つ巨大宗教勢力の指導者であった 21 。
- 開戦当初、顕如は中立の立場を維持していた。しかし、信長の軍勢が自らの本拠地の目と鼻の先で大規模な軍事行動を展開する状況に、強い警戒感を抱いていたことは想像に難くない。水面下では三好三人衆や他の反信長勢力と接触していた可能性も指摘されており、その決断の時を慎重に見計らっていた 1 。
陣営 |
主要勢力・武将 |
推定兵力 |
目的・背景 |
織田方 |
織田信長、足利義昭、三好義継、松永久秀 |
約40,000 - 50,000 |
天下布武、畿内の完全掌握、反乱勢力の鎮圧 |
反織田方 |
三好三人衆、細川昭元、篠原長房、鈴木孫一 |
約8,000 - 13,000 |
畿内奪回、旧領回復、織田政権への抵抗 |
中立(のち参戦) |
石山本願寺(顕如) |
不明(数万規模の動員能力) |
教団の防衛、信長勢力への警戒、反信長勢力との連携 |
この兵力差を見れば、三好方が野戦を避け、堅固な城に籠もっての防衛戦を選択したのは必然であった。織田方は圧倒的な物量で圧殺しようとし、三好方は籠城によって敵の消耗を誘い、外部からの援軍や情勢の変化に一縷の望みを託すという、典型的な攻城戦の構図がここに成立したのである。
第二章:摂津の攻防 ー リアルタイムで追う戦闘の経過
野田城・福島城を巡る攻防は、約1ヶ月にわたり、目まぐるしく戦況が変化した。その経過を時系列で追うことで、合戦のリアルタイムな様相を明らかにする。
前哨戦(元亀元年7月21日~8月25日)
- 7月21日 : 三好三人衆が阿波より兵を率いて摂津国中島に上陸。ただちに野田と福島に拠点を定め、城砦の修築・強化を開始した 1 。これは、享禄4年(1531年)に浦上村宗が陣を構えた際の古い砦跡を利用し、堀を深くし、土塁を固め、櫓を上げるなど、本格的な城郭へと改修するものであった 12 。
- 8月17日 : 勢いに乗る三好三人衆は、織田方に属する三好義継の居城・河内国古橋城を攻撃。これを陥落させる。『細川両家記』によれば、この戦いで城兵の首級218を挙げるほどの激戦であり、三好勢の士気の高さを示した 1 。
- 8月20日 : 三好勢蜂起の報は、将軍義昭を通じて美濃の信長にもたらされた。事態を重く見た信長は、自ら出陣を決意。精鋭の馬廻り衆3千騎を率いて岐阜城を発った 1 。
- 8月25日 : 信長は京の本能寺に立ち寄った後、南下して枚方の寺院に着陣。決戦の地へと駒を進めた 1 。
織田軍の包囲と圧迫(8月26日~9月11日)
- 8月26日 : 信長は、野田・福島城の南東約5kmに位置する天王寺に本陣を構えた。そして、天満が森、川口、渡辺、神崎、難波といった要所に諸将を配置し、野田・福島城を完全に孤立させる巨大な包囲網を瞬く間に形成した 1 。
- 8月28日 : 織田軍の圧倒的な兵力を目の当たりにし、三好方の細川信良(政勝)、三好為三、香西長信らが相次いで織田方に寝返った 1 。信長の得意とする調略戦が早くも効果を発揮し、籠城側の結束を揺るがした。
- 9月3日 : 将軍・足利義昭が奉行衆2千を率いて、細川藤孝(藤賢)が守る中嶋城に着陣した 11 。これにより、この戦いは将軍の権威の下で行われる公式な「逆賊討伐」であることが内外に示され、織田方の正当性を強固なものにした。
- 9月8日 : 信長は攻城戦をさらに有利に進めるため、野田・福島の対岸に「楼岸の砦」と「川口の砦」を急造し、攻撃拠点を確保した 11 。さらに、三好義継・松永久秀の部隊に、野田城の西の対岸にあった浦江城を攻略させた。この攻撃では、通常の火縄銃よりも口径の大きい「大鉄砲」が使用された可能性が指摘されており、織田軍が最新兵器を積極的に投入していたことが窺える 11 。
- 9月9日~10日 : 信長は本陣を天王寺から天満が森へと前進させ、前線での指揮を執る 13 。同時に、城に近接する堀を埋め、対岸に土手を築き、その上に櫓を上げるなど、兵の損耗を避けつつ着実に攻撃準備を進める合理的な攻城術を展開した 11 。
総攻撃と戦局の転換(9月12日~13日)
- 9月11日 : 準備を整えた織田軍は、野田・福島両城への直接的な攻撃を開始した 11 。
- 9月12日(昼) : この日、戦いは頂点を迎える。織田軍は大規模な鉄砲隊による猛烈な銃撃を城に浴びせた。この時、織田方の援軍として雑賀衆・根来衆ら2万(うち鉄砲衆3千)が到着したとされ、戦場は凄まじい銃声に包まれた 11 。『信長公記』は、その様子を「御敵身方の鉄砲誠に日夜天地も響くはがりに候」(敵味方の鉄砲の音は、実に昼夜を問わず天地も響くほどであった)と生々しく記している 11 。この圧倒的な火力の前に、三好三人衆は和睦を申し入れたが、勝利を確信した信長はこれを一蹴した 15 。
- 9月12日(夜) : 【合戦の決定的な転換点】 。日中の激戦が嘘のように静まり返った夜半、突如として石山本願寺から鬨の声が上がり、無数の鐘が打ち鳴らされた。これまで中立を保っていた本願寺が、三好方に加勢して蜂起したのである。門徒衆は織田軍の陣地、特に前線の拠点である楼岸・川口の砦に猛烈な鉄砲射撃を仕掛けた 11 。この奇襲は織田方にとって全くの想定外であり、『細川両家記』は「信長方仰天なく候」(信長方はこの上なく驚いた)とその衝撃を伝えている 11 。
- 9月13日 : 夜明けと共に、本願寺勢は織田軍が築いた防堤を破壊した。折しも吹き荒れた西風と高潮が重なり、海水が淀川を逆流。織田軍の陣地の多くが瞬く間に水浸しとなり、攻城の拠点であった浦江城や砦も機能を失った 11 。地形を熟知した本願寺勢による見事な「水攻め」であった。同日の夜には、法主・顕如自らが鎧を纏い、織田本陣に攻めかかったとも伝えられている 1 。
二正面作戦と信長の撤退(9月14日~23日)
- 9月14日~17日 : 摂津の戦線は、水がなかなか引かなかったため、大規模な戦闘は行われず膠着状態に陥った 11 。
- 9月16日 : 【第二戦線の勃発】 。信長が摂津の泥沼に足を取られている隙を、好機と見た勢力がいた。近江の浅井長政・朝倉義景連合軍が蜂起し、琵琶湖西岸を南下。信長が近江の守りの要としていた宇佐山城を攻撃し、城主の森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち取った(志賀の陣の開始) 1 。
- 9月21日 : 浅井・朝倉連合軍の進撃は止まらず、京の目と鼻の先である醍醐・山科まで進出し、周辺に放火。京の都が直接の脅威に晒されるという、信長政権にとっての非常事態が発生した 1 。
- 9月23日 : 背後を完全に突かれ、首都防衛という最優先事項に直面した信長は、苦渋の決断を下す。野田・福島城の攻略を断念し、全軍に摂津からの撤退を命令。電光石火の速さで京へ軍を返し、浅井・朝倉連合軍との対決に臨んだ 1 。この困難な撤退戦において、金森長近や前田利家らが殿(しんがり)を務め、織田軍の崩壊を防いだ 24 。
日付(元亀元年) |
摂津戦線:織田方の動向 |
摂津戦線:反織田方の動向 |
近江戦線:浅井・朝倉の動向 |
7月21日 |
(美濃在陣) |
摂津に上陸、野田・福島城の築城開始 |
(静観) |
8月17日 |
(美濃在陣) |
古橋城を攻略 |
(静観) |
8月26日 |
天王寺に着陣、包囲網を形成 |
野田・福島城に籠城 |
(静観) |
9月8日 |
楼岸・川口の砦を築城、浦江城を攻略 |
籠城を継続 |
(静観) |
9月12日 |
総攻撃を開始。銃撃戦を展開 |
猛攻に耐え、和睦を打診するも拒絶される |
(静観) |
9月12日夜 |
石山本願寺の奇襲を受け混乱 |
本願寺の蜂起により士気が高揚 |
(静観) |
9月13日 |
本願寺勢による水攻めで陣地が水没 |
戦況が好転 |
(静観) |
9月16日 |
膠着状態 |
籠城を継続 |
蜂起し南進を開始。宇佐山城を攻略、森可成を討ち取る |
9月21日 |
(膠着状態) |
(籠城継続) |
京に迫る醍醐・山科に進軍 |
9月23日 |
野田・福島城の攻略を断念し、全軍撤退 |
戦略的勝利を確保 |
(比叡山へ布陣) |
この年表は、信長がいかに絶体絶命の窮地に立たされていたかを明確に示している。摂津での足止めが近江での反乱を誘発し、二つの戦線で同時に危機が発生したのである。信長の撤退は、この二正面作戦を強いた「信長包囲網」が、恐るべき実体を伴って機能し始めた瞬間であった。
第三章:戦術と兵站の深層分析
この戦いは、単なる兵力の衝突に留まらず、当時の最新戦術、地形の利用、そして傭兵集団の複雑な動態が絡み合った、戦術的に非常に興味深い事例であった。
「傭兵のパラドックス」― 雑賀衆の二面性
この戦いにおける雑賀衆の動向には、一見して矛盾する記録が存在する。一方で、鈴木孫一が率いる部隊が三好三人衆に雇われ、反織田方として戦っている 1 。しかし他方で、『信長公記』などには、9月12日の総攻撃の際に、織田方の援軍として雑賀・根来衆2万(鉄砲3千)が到着したと記されている 11 。
この矛盾は、単なる史料の誤記として片付けるべきではない。むしろ、当時の雑賀衆という集団の本質を深く反映していると考えられる。雑賀衆は、単一の指揮系統の下で動く正規軍ではなく、地域の地侍集団(惣)が連合した複合的な組織であった。彼らの行動原理は、大きく分けて二つあった。一つは、多くの者が信仰していた浄土真宗への宗教的情熱。もう一つは、優れた鉄砲技術を商品として提供する傭兵稼業としての経済的利益である 25 。
この野田・福島城の戦いが行われた元亀元年の時点では、まだ石山合戦は緒戦であり、本願寺と信長の対立は決定的ではなかった。そのため、雑賀衆の中では「傭兵」としての側面がより強く現れていたと推測される。つまり、鈴木孫一が率いる一派は三好氏と契約を結び、一方で、信長と友好的な関係にあった別の一派(特に根来衆に近い勢力など)は織田氏に雇われるという事態が、十分に起こり得たのである。この戦いは、雑賀衆が純粋な利益追求型の傭兵集団から、本願寺を護るという宗教的使命を帯びた戦士集団へと、そのアイデンティティを移行させていく過渡期の姿を捉えた、極めて貴重な事例と言える。後に石山合戦が激化する中で、彼らがほぼ全面的に本願寺側について信長を苦しめる姿 28 と比較することで、この戦いの持つ歴史的な位置づけがより鮮明になる。
信長の合理主義的攻城術
信長は、この戦いにおいても彼らしい合理的な攻城術を展開した。野田・福島城がデルタ地帯の堅城であることを見抜くと、無謀な力攻めを避けた 11 。まず、付城(楼岸・川口の砦)を築いて敵の補給路と連携を断ち、完全な包囲網を完成させた 11 。これは、敵に兵糧攻めの恐怖と孤立感を与える、効果的な心理戦術でもあった。
さらに、城への直接攻撃に際しても、堀を埋め、土手を築き、櫓を上げるなど、兵士の損耗を最小限に抑えながら、着実に攻撃拠点を前進させるという、極めて methodical な手法を取った 11 。これらの戦術は、後の有岡城攻めや石山本願寺包囲戦でも見られる、信長の特徴的な攻城術の原型であった。
地形と天候の利用
この戦いの勝敗を分けた一因は、地形と天候の巧みな利用であった。三好方が籠城した野田・福島城は、周囲を川と湿地に囲まれた低地であり、大軍の展開や大規模な土木工事を困難にする、防御側に非常に有利な地形であった 11 。
そして、この地形の特性を最大限に利用したのが、後から参戦した石山本願寺勢であった。彼らは地域の地理を熟知しており、織田軍が築いた防堤を決壊させることで、満潮と西風を利用した人為的な「水攻め」を実行した 11 。これは単なる軍事行動ではなく、自然の力を味方につけた見事な戦術であり、織田軍の攻勢を物理的に完全に頓挫させた。この一撃は、信長の合理的な攻城計画を根底から覆すものであった。
第四章:顕如、動く ー 石山本願寺蜂起の真相
9月12日夜の石山本願寺の蜂起は、この戦いの流れを決定的に変えた。では、なぜ法主・顕如はこのタイミングで、信長との全面対決という重大な決断を下したのか。その背景には、計画性と偶発性が複雑に絡み合っていた。
顕如が全国の門徒に蜂起を促すために発した檄文には、「信長が本願寺を破却(破壊)すると明確に通告してきた」と記されている 5 。これを文字通り受け取れば、蜂起は信長の宗教弾圧に対する正当防衛であったということになる。しかし、この主張にはいくつかの疑問点が残る。第一に、信長が事前に本願寺の破壊を宣言したという直接的な一次史料は乏しい。第二に、信長自身が本願寺の蜂起に「仰天」したと記録されていることから 11 、彼にとってこの攻撃が全くの不意打ちであったことがわかる。
これらの事実を突き合わせると、顕如の檄文は、門徒の結束を高め、決起を正当化するためのプロパガンダ、つまり大義名分であった可能性が高い。では、真の動機は何だったのか。それは、信長の言葉ではなく、信長の「軍事行動」そのものにあったと考えられる。
信長が本陣を置いた天王寺、そして前線拠点として築いた楼岸・川口の砦群は、野田・福島城を攻めるための布陣であると同時に、石山本願寺を南と西から包囲し、威圧する配置にもなっていた 1 。顕如の視点に立てば、これは極めて深刻な脅威であった。もし、眼前の防波堤である野田・福島城が織田軍の圧倒的な火力の前に陥落すれば、次にその矛先が自らの本拠地、石山本願寺に向けられることは火を見るより明らかであった。三好勢の籠城は、本願寺にとっての貴重な時間稼ぎであり、防衛線でもあったのである。
したがって、本願寺の蜂起は、周到に準備された攻撃計画というよりも、信長の軍事的圧迫によって安全保障上の危機に追い詰められた結果の、防衛的かつ予防的な奇襲であったと解釈するのが最も合理的である。それは、三好や浅井・朝倉といった反信長勢力との政治的連携という大局的な判断と、眼前に迫る軍事的脅威という現実的な危機が重なった瞬間に下された、必然の決断だったと言える。この決断が、結果的に10年にわたる大戦争の引き金を引くことになるとは、おそらく顕如自身も完全には予測していなかったであろう。
結論:十年戦争の序曲 ー 戦いが歴史に残した影響
元亀元年9月23日、織田信長は野田・福島城を攻略できずに摂津から撤退した。この事実だけを見れば、この戦いは織田方の敗北であり、三好・本願寺方の勝利であったと言える。しかし、その歴史的影響は、単なる一戦の勝敗を超えて、戦国時代の勢力図を大きく塗り替える重大な転換点となった。
信長の戦略的撤退 ― 敗北ではなく、危機管理
信長の撤退を、単に「野田・福島城の戦いにおける敗北」と捉えるのは表層的である。信長にとっての最大の脅威は、水攻めによって膠着した摂津の戦線ではなく、首都・京に刻一刻と迫る浅井・朝倉連合軍であった。将軍・足利義昭を擁立することで成立している信長政権にとって、京を失うことはその政治的正当性を根底から揺るがす一大事であった。
信長は、二つの戦線を冷静に比較衡量し、より戦略的重要度の高い近江戦線に全戦力を集中させるという、極めて合理的な判断を下した。これは、一つの城の攻略という戦術的目標よりも、政権の維持という戦略的目標を優先した結果である。この迅速な意思決定と、大軍を即座に転用する柔軟性は、信長の類稀な危機管理能力を示している。しかし同時に、敵対勢力に連携を許し、二正面作戦を強いられたという事実は、当時の信長がまだ盤石な支配を築けていなかったという戦略的脆弱性をも浮き彫りにした。信長の撤退は、戦術的な敗北ではなく、より大きな危機に対応するための戦略的な再配置であった。しかし、この撤退を余儀なくさせたこと自体が、「信長包囲網」の恐ろしさと、この戦いがその完成を告げる号砲であったことを物語っている。
石山合戦の本格化
この戦いを機に、織田信長と石山本願寺は、もはや後戻りのできない全面的な戦争状態に突入した。これは単なる大名間の領土紛争ではない。天下統一を目指す世俗権力と、それに屈しない巨大な宗教権力の存亡をかけた、10年にも及ぶ総力戦の始まりであった 1 。この戦いは、その長い戦いの序曲に過ぎなかったのである。
信長包囲網の完成
摂津の三好・本願寺と、近江の浅井・朝倉がほぼ同時に蜂起したことで、信長は東西南の三方から包囲されるという、上洛以来最大の危機に直面した。この戦いは、これまで個別に抵抗していた反信長勢力が、実体を伴って連携し機能した最初の事例となった。そして、この戦局は間断なく、浅井・朝倉連合軍が比叡山に立てこもる「志賀の陣」へと直接つながっていくのである 1 。
総括すれば、野田城・福島城の戦いは、単なる摂津の一地方における攻防戦ではない。それは、畿内奪回に最後の望みをかけた三好氏の執念、巨大な軍事・政治勢力としての石山本願寺の覚醒、そして信長の天下布武事業が最大の試練を迎える瞬間が凝縮された、戦国史における極めて重要な転換点であった。この戦いを経て、時代は元亀の動乱、そして天正の戦乱へと、その歩みを加速させていくことになる。
引用文献
- 【解説:信長の戦い】野田城・福島城の戦い(1570、大阪府大阪市) 三好三人衆との戦闘中に本願寺も加担。石山合戦はじまる | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/483
- 三好三人衆(ミヨシサンニンシュウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E4%B8%89%E4%BA%BA%E8%A1%86-139812
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- 石山本願寺ってどんな寺? 織田信長との確執の原因もチェック【親子で歴史を学ぶ】 - HugKum https://hugkum.sho.jp/458699
- 大阪の今を紹介! OSAKA 文化力 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/035.html
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