最終更新日 2025-08-26

金ヶ崎の退き口(1570)

元亀元年の激震:金ヶ崎の退き口、織田信長の死線と天下布武の岐路

序章:天下布武の前に立ちはだかった壁

元亀元年(1570年)、春。織田信長は、室町幕府第15代将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たし、その権威を背景に畿内における覇権を確立しつつあった 1 。天下布武の理想は、現実の形を伴い始めていた。しかし、その権力基盤は未だ盤石とは言い難く、各地に割拠する伝統的権威を持つ大名たちは、尾張から現れたこの急進的な風雲児の台頭を、警戒と猜疑の目で見つめていたのである。

このような情勢下で敢行された越前・朝倉義景討伐は、信長の天下統一事業における最初の、そして最大の危機を招来することになる。世に言う「金ヶ崎の退き口」である。この戦いは、単なる一地方の合戦ではない。それは、織田信長という存在そのものが、戦国乱世の奈落に呑み込まれるか否かの瀬戸際に立たされた、歴史的な死線であった。この絶体絶命の撤退戦の成否が、その後の日本の歴史を大きく左右する決定的な転換点となったのである 2 。本報告書は、この歴史的事件の全貌を、複雑な政治的背景から合戦のリアルタイムな推移、そして後世に与えた深遠な影響に至るまで、詳細に解き明かすものである。

【表1:金ヶ崎の戦い 詳細年表(元亀元年4月20日~5月9日)】

日付(旧暦)

織田信長・本隊の動向

殿軍(木下秀吉ら)の動向

浅井・朝倉軍の動向

備考

4月20日

京都を出陣、越前へ向かう 4

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-

総兵力3万。名目は若狭武藤氏討伐 2

4月25日

手筒山城を攻略 7

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手筒山城守備隊が激しく抵抗、約1300名が討死 9

織田軍側にも1500名余の死者が出たとの記録あり 10

4月26日

金ヶ崎城を攻略 7 。夜、浅井長政裏切りの報に接す 1

-

金ヶ崎城主・朝倉景恒が降伏 2 。浅井長政が小谷城で挙兵、信長の背後を突くべく出陣 1

4月27日

撤退開始。朽木越えルートへ 2

金ヶ崎城にて殿軍任務を開始 2

織田軍本隊及び殿軍への追撃を開始 15

4月28日

朽木元綱の協力を得るため松永久秀が交渉 2

追撃軍と交戦しつつ後退。

殿軍を激しく追撃。

4月29日

朽木元綱の庇護のもと朽木谷を通過 15

決死の防衛戦を展開。

殿軍に猛攻をかける。

六角氏も浅井氏に呼応し近江で挙兵 4

4月30日

僅かな供回り(十数騎)で京都に帰還 6

-

-

5月6日

-

殿軍部隊、京都に生還 2

-

5月9日

岐阜への帰還のため京都を出立 2

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-

途上、杉谷善住坊による狙撃を受ける 2

第一章:越前への道 ― 複雑に絡み合う同盟と確執

金ヶ崎の悲劇は、決して突発的に生じたものではない。それは、織田、朝倉、浅井という三者の間に横たわる、長年にわたる複雑な政治的力学と、それぞれの利害と思惑が絡み合った末の、必然的な帰結であった。

第一節:織田と朝倉、対立の根源

信長は将軍・足利義昭の権威を最大限に利用し、諸大名に対して上洛を命じた 1 。これは、形式上は将軍への臣従を促すものであったが、実質的には信長自身の覇権を認めさせる服従要求に他ならなかった。

これに対し、越前の名門・朝倉義景は再三にわたる上洛命令を黙殺し続けた 1 。この態度は、単なる反抗心からではなかった。朝倉家は、足利将軍家とも縁戚関係にある名門守護大名であり、長年にわたり北陸の雄として君臨してきたという強烈な自負があった。その義景から見れば、信長は成り上がりの新興勢力に過ぎず、その下に馳せ参じることは到底受け入れがたい屈辱であった 20

一方、信長にとって、京と自身の本拠地である美濃国の中間に位置する越前の存在は、戦略的に決して看過できないものであった 13 。朝倉氏を放置することは、自身の背後を常に脅かされることを意味する。義景の上洛拒否は、信長にとって、この厄介な存在を排除するための絶好の口実となったのである 13

第二節:織田と浅井、政略結婚の光と影

永禄10年(1567年)頃、信長は自身の妹であり、絶世の美女と謳われたお市の方を、北近江の新興大名・浅井長政に嫁がせ、強固な同盟関係を構築した 14 。信長にとってこの同盟は、美濃から京へ至る上洛ルートの安全を確保するという、極めて重要な戦略的意味を持っていた 23

長政にとっても、この同盟は大きな利益をもたらした。父祖の代からの宿敵であった南近江の六角氏から完全に独立し、北近江の支配者としての地位を確固たるものにする上で、信長という強力な後ろ盾は不可欠であった 23 。事実、信長の上洛に際して長政は先鋒を務め、六角氏を駆逐するなど、両者は当初、極めて良好な協力関係にあった 26

しかし、この同盟には当初から構造的な歪みが内包されていた。『信長公記』などの記述を分析すると、信長が長政を対等な同盟者としてではなく、自身の妹婿、すなわち格下の存在として認識していた節が窺える 27 。この微妙な認識の齟齬が、後に両者の間に修復不可能な亀裂を生じさせる遠因となる。

第三節:浅井と朝倉、古き盟約の重み

浅井家と朝倉家の関係は、織田・浅井同盟よりも遥かに古く、そして根深いものであった。浅井家は、長政の祖父・亮政の代から、強大な六角氏との戦いにおいて幾度となく朝倉家の軍事的支援を受け、その庇護の下で勢力を拡大してきた歴史があった 24 。浅井家にとって朝倉家は、単なる同盟相手ではなく、恩義ある旧主とも言うべき存在であった。

近年の研究では、この両家の関係が対等な同盟ではなく、浅井家が朝倉家に従属する「国衆」としての側面が強かったという見方が有力となっている 27 。その論拠として、朝倉家の本拠地である一乗谷の城下町に浅井家の屋敷跡が確認されていることや、長政が義景に宛てた書状の中で、義景を主君に対する敬称である「親方様」と呼んでいる事実が挙げられる 32

この主従に近い関係性は、長政が信長と朝倉のいずれかを選ばねばならないという究極の選択を迫られた際、抗いがたい重い枷となった 28 。長政が陥った状況は、単に二つの同盟の板挟みという単純なものではなかった。それは、織田という新興の覇権に従うか、朝倉という旧来の保護者への忠義を貫くかという、新旧二つの秩序への「二重臣従」とも言うべき構造的ジレンマであった。信長と義景が完全な敵対関係に至った瞬間、この矛盾した構造は破綻せざるを得ず、長政の裏切りは、個人の信義の問題以上に、当時の国衆が抱えた構造的な苦悩の爆発であったと解釈できる。そして、信長が浅井と朝倉のこの深い関係性を熟知していながら、敢えて越前侵攻を断行したことは、長政に対して「どちら側につくのか」という最終選択を暗に強要する、「踏み絵」としての側面を持っていた可能性が極めて高い。

第二章:越前侵攻 ― 破竹の進撃と油断(元亀元年4月20日~26日)

周到な準備と大義名分を整えた信長は、ついに越前への侵攻を開始する。緒戦は、まさに破竹の勢いであった。

第一節:出陣から敦賀へ(4月20日~24日)

元亀元年4月20日、信長は3万と号する大軍を率いて京都を出陣した 4 。同盟者である徳川家康も、この遠征に従軍している 12

公式に掲げられた出兵の名目は、若狭国において朝倉方の武藤友益が幕府に反抗していることを討伐するというものであった 2 。これは、朝倉氏によって長年軟禁状態にあった若狭守護・武田元明を救出し、若狭国の秩序を回復するという、将軍・足利義昭の意向も汲んだ大義名分であった 6

しかし、織田・徳川連合軍の進路は、その真の意図を雄弁に物語っていた。軍勢は若狭の国吉城に入城した後、進路を西の武藤氏の拠点ではなく、東の越前国境へと転じた 2 。当初から真の標的が朝倉義景であったことは、もはや疑う余地がなかった。

第二節:手筒山城の激戦(4月25日)

4月25日、織田軍は敦賀に侵攻し、金ヶ崎城の重要な支城である手筒山城への総攻撃を開始した 9 。手筒山城は敦賀湾を見下ろす要害であり、三方を海に囲まれた金ヶ崎城と尾根続きで連携し、鉄壁の防御を誇っていた 2

朝倉方の守備兵は頑強に抵抗したが、織田軍は防御が比較的手薄と見られた東南の池見湿地帯から一気に攻め上がり、圧倒的な兵力で猛攻を加えた 10 。戦いは熾烈を極め、わずか一日で城は陥落。この戦闘で朝倉方の籠城兵1300余りが討ち取られた一方、織田方にも1500名近い損害が出たと記録されており、その抵抗がいかに凄まじかったかを物語っている 9

第三節:金ヶ崎城の陥落(4月26日)

手筒山城での激戦と、味方守備隊の全滅という報は、金ヶ崎城主・朝倉景恒の戦意を完全に打ち砕いた 13 。加えて、景恒と朝倉本家との間には確執があり、援軍の到着が遅れていたことも、彼の決断を早めた 2 。信長の降伏勧告に対し、景恒は抵抗することなく城を明け渡し、降伏した 2

これにより、敦賀一帯は完全に織田軍の制圧下に入り、信長は朝倉家の本拠地・一乗谷へと続く主要街道を確保した。この時点において、信長の越前征伐は完璧な成功を収めているように見えた。しかし、このあまりにもあっけない金ヶ崎城の降伏には、別の側面があった可能性も指摘されている。手筒山城があれほど激しく抵抗したにも関わらず、本城である金ヶ崎城が戦わずして開城したのは不自然である 38 。もし、この時点で既に浅井長政の離反が内々に決まっていたとすれば、景恒の降伏は、信長軍を越前の奥深くまで誘い込み、浅井軍が背後を突くための時間を稼ぐという、高度な戦略的偽装であった可能性も否定できない 38

第三章:裏切り ― 金ヶ崎城、一夜の暗転(元亀元年4月26日夜~27日未明)

勝利の美酒に酔う織田軍の陣営を、一夜にして地獄の淵に突き落とす凶報がもたらされる。それは、信長の生涯において最も計算外であり、最も衝撃的な出来事であった。

第一節:凶報の到来

4月26日の夜、金ヶ崎城を落とし、次なる一乗谷攻めの軍議を開いていた信長のもとに、信じがたい報せが舞い込んだ。「浅井長政、裏切り」― 1

信長は当初、この報告を「虚説たるべき(嘘に決まっている)」と一蹴し、全く取り合わなかったという 1 。最愛の妹を嫁がせ、北近江一円の支配を任せるなど、多大な恩恵を与えてきた義弟が、この絶好の機会に自分を裏切る理由など、彼には到底理解できなかったのである 28

しかし、異なるルートから次々と寄せられる同内容の報告に、信長もそれが紛れもない事実であることを認めざるを得なくなった 13 。この裏切りの報を誰が、どのようにして信長に伝えたかについては、有名な「お市の方が両端を縛った小豆の袋を陣中見舞いに送り、兄が『袋の鼠』であることを暗示した」という逸話が広く知られている 14 。しかし、この逸話が記されているのは後世に成立した軍記物であり、創作である可能性が高いとされている 8 。とはいえ、当時の政略結婚において、嫁いだ女性が実家と婚家の間の情報伝達役を担うことは決して珍しいことではなかった。お市の方が、夫と兄の板挟みという苦しい立場の中で、何らかの手段を用いて信長に危機を伝えようとした可能性は、完全に否定することはできない 6

第二節:長政、決断の真相

浅井長政が、輝かしい未来を約束された信長との同盟を破棄し、滅亡の道へと突き進むことになった裏切りを決断した動機は、単一ではなく、複数の要因が複雑に絡み合った結果であった。

  1. 朝倉家との旧来の関係: 前述の通り、浅井家にとって朝倉家は単なる同盟相手ではなく、恩義ある旧主であった。この長年の関係を断ち切ることは、長政にとって極めて困難なことであった 28
  2. 父・浅井久政と親朝倉派の圧力: 長政自身は信長との関係を重視していたとしても、家臣団の中には、隠居の身であった父・久政を筆頭に、旧来の朝倉家との関係を重んじる勢力が根強く存在した。長政は、この親朝倉派の重臣たちの意見を抑えきれなかったのである 31
  3. 信長への不信感: 信長が長政を対等な同盟者ではなく、格下の存在として扱っていたことへの不満や反発も、彼の心に影を落としていたと考えられる 17
  4. 将来への不安: 「朝倉が滅ぼされた後、次は我ら浅井が信長の標的になるのではないか」という疑心暗鬼も、彼の決断に影響を与えたであろう 17
  5. 将軍・足利義昭の策謀: 信長の権力が際限なく拡大することを快く思わない将軍・義昭が、裏で朝倉や浅井に信長討伐を促す御内書を送っていたという説も有力である 6

これらの要因が絡み合い、長政は苦渋の決断を下した。この決断は、長政個人の感情や信義の問題というよりも、浅井家という組織が、未来の可能性を秘めた新興勢力(織田)との関係よりも、過去からの恩義と安定(朝倉)を選択した、組織としての総意であったと見るべきであろう。

第三節:絶体絶命の布陣

浅井長政の裏切りは、織田軍の置かれた状況を一変させた。北からは、体勢を立て直した朝倉義景の本隊が南下してくる。そして南からは、浅井長政の軍勢が退路を完全に遮断すべく北上してくる 1 。織田軍は、越前敦賀という敵地の奥深くで、南北から挟撃されるという、軍事的に最も絶望的な状況に陥った。進軍時に利用した琵琶湖西岸の街道は、今や敵となった浅井軍によって固く封鎖されており、もはや安全な退路はどこにも存在しなかった 42 。織田軍3万は、文字通り「袋の鼠」となり、全滅の危機に瀕したのである 14

第四章:死線の撤退戦 ― 「金ヶ崎の退き口」(元亀元年4月27日~30日)

絶望的な状況下で、信長の真価が問われる。感傷や躊躇を一切排した彼の迅速な決断と、それに呼応した家臣たちの決死の働きが、戦国史上最も有名な撤退戦の幕を開けた。

第一節:信長の決断と逃避行

全滅の危機を瞬時に認識した信長は、即座に全軍撤退を決定した 2 。この一点の迷いもない迅速な意思決定こそが、織田軍の崩壊を水際で食い止める第一歩であった。

信長は、常識外れの行動に出る。軍の主力を殿(しんがり)としてその場に残し、自身はわずか十数騎の供回りのみを連れて、敵中を突破し京を目指すという、前代未聞の逃避行を開始したのである 2 。これは、一見すると総大将にあるまじき敵前逃亡に見える。しかし、戦国時代の合戦において、総大将の生死は軍組織全体の存亡に直結する。信長が討たれれば、織田家はその瞬間に瓦解し、殿軍がどれだけ奮戦しても意味をなさない。自らが生き残ることこそが、織田家にとっての最優先事項であると冷徹に判断した、彼の非情なまでの合理主義と、最高指揮官としての卓越したリスク管理能力の表れであった。

信長が選択した退路は、浅井氏の支配が及んでいない山中の間道「朽木越え」であった 2 。しかし、このルートを安全に通過するためには、その地の領主である朽木元綱の協力が不可欠であった。元綱は浅井氏とも関係があり、当初は信長を討ち取ることも考えていたと伝えられている 13 。この絶体絶命の状況で、元綱との交渉役という重責を担ったのが、信長に同行していた松永久秀であった 2 。久秀はその老獪な外交手腕を駆使して元綱を説得し、通行の許可のみならず、京までの警護を取り付けることに成功する 16 。この外交的成功が、信長の命運を繋いだのである。

4月30日、信長は満身創痍の状態で、わずかな供と共に京の都へと生還を果たした 4

第二節:殿軍、決死の防衛戦

信長本隊を無事に逃がすため、最も危険な殿軍の任に就いたのは誰であったか。後世の『太閤記』などでは、木下秀吉の獅子奮迅の活躍が華々しく描かれ、彼の出世物語の象徴的な場面となっている 47 。しかし、同時代に記された一次史料である『一色藤長書状』によれば、この困難な任務の主将は摂津守護の池田勝正であり、明智光秀らもその一翼を担っていたとされている 7 。秀吉は当時まだ身分が低かったため、結果的に最も危険な後衛部隊に配属されたというのが実情に近いのかもしれない 7 。また、同盟軍として参陣していた徳川家康も、信長本隊の撤退を知らされぬまま最前線に取り残され、事実上の殿軍としての役割を担ったとする説もある 7 。実際には、これら複数の武将がそれぞれの部隊を率い、連携してこの困難な任務にあたったと考えるのが最も妥当であろう 3

殿軍は、金ヶ崎城やその周辺の隘路といった地形を巧みに利用し、怒濤の如く追撃してくる朝倉・浅井連合軍に対し、決死の遅滞戦術を展開した 15 。その戦術は多岐にわたった。鉄砲隊による効果的な一斉射撃で敵の突撃の勢いを挫き 48 、織田信長の馬標や多数の旗指物を偽って掲げることで、あたかも本隊がまだ城内に留まっているかのように見せかける欺瞞工作も行った 48 。そして、隘路で待ち伏せては反撃に転じ、また後退するというヒット・アンド・アウェイ戦法を繰り返し、あらゆる手段を講じて時間を稼いだ。

この殿軍の文字通り命を懸けた奮戦により、織田軍主力の組織的な撤退は成功裏に終わり、殿軍部隊も甚大な被害を出しながらも、5月6日頃には京へ生還を果たした 2 。この撤退戦の成功は、武勇を誇る殿軍の奮戦もさることながら、その前提として、松永久秀の外交交渉によって安全な撤退路「朽木越え」が確保されていたことが決定的な要因であった。戦場の英雄として語られる秀吉以上に、交渉のテーブルで信長の命運を繋いだ松永久秀こそ、この危機における最大の功労者であったと評価することも可能であろう。

第五章:その後の波紋と歴史的意義

金ヶ崎からの九死に一生の生還は、信長と彼の天下統一事業に、そして戦国の世に深甚な影響を及ぼした。それは、新たな、より熾烈な戦いの時代の幕開けでもあった。

第一節:信長包囲網の形成

金ヶ崎における信長の敗走は、それまで敵無しと見られていた彼の「不敗神話」に初めて土をつけ、その権威と軍事力が絶対的なものではないことを天下に露呈させた 3

これを好機と捉えた反信長勢力は、一斉に蜂起する。信長を裏切った浅井・朝倉を核として、畿内の旧勢力である三好三人衆、宗教勢力の雄である石山本願寺、そして東国からは甲斐の武田信玄といった大物が次々と連携し、世に言う「信長包囲網」が形成されていった 50 。金ヶ崎の戦いは、信長を最大の苦境に陥れる4年にも及ぶ「元亀の争乱」の、まさに号砲となったのである。

第二節:武将たちの運命

この死線を乗り越えた経験は、織田家臣団の武将たちの運命を大きく分けた。殿軍という九死に一生の任務を完遂した木下秀吉や明智光秀らは、信長からその功績を高く評価され、織田家臣団の中での地位を飛躍的に向上させた 2 。特に秀吉にとって、この戦いは彼の輝かしい出世物語の原点とも言うべき重要な一頁となった 2

一方、信長を裏切るという重大な決断を下した浅井長政と、その決断に運命を共にした朝倉義景は、信長の猛烈な報復に晒されることになる。金ヶ崎のわずか2ヶ月後には「姉川の戦い」で連合軍が大敗を喫し、その3年後の天正元年(1573年)、両家は信長によって完全に滅ぼされる運命を辿った 14 。長政の決断は、結果として浅井・朝倉両家の滅亡という、最も悲劇的な結末を招くこととなったのである 24

第三節:戦術史から見た「金ヶ崎の退き口」

極めて困難な挟撃の危機に瀕しながら、軍の組織的崩壊を完全に防ぎ、主力を生還させたこの撤退戦は、日本戦史において最も成功した撤退作戦の一つとして高く評価されている。

この死線を乗り越えた経験は、信長の用兵思想そのものに大きな影響を与えたことは想像に難くない。情報の重要性、同盟関係の脆さ、そして何よりも危機的状況における迅速かつ非情なまでの意思決定の必要性を、彼は身をもって学んだはずである。この苦い教訓が、後の彼のより慎重かつ大胆な戦略眼を養い、天下布武への道を切り拓く礎となった。この絶体絶命の危機を、総大将の合理的判断、殿軍の決死の防衛、そして主力の統率された撤退という、各々の役割分担によって乗り越えた経験は、織田家臣団に強烈な一体感と相互信頼を植え付けた。この共通の死線体験は、単なる主従関係を超えた「運命共同体」としての意識を醸成し、後の姉川や長篠の戦いで見られる、織田軍の強固な組織力と結束力の精神的な基盤を形成する、重要な契機となったのである。

結論:九死に一生を得て

「金ヶ崎の退き口」は、疑いなく織田信長の生涯における最大の危機であり、彼の天下統一事業が緒戦で頓挫しかねない重大な岐路であった。

この窮地を脱することができた要因は、木下秀吉という一人の英雄の活躍によるものではなく、複数の要素が奇跡的に噛み合った結果であった。それは、①信長の非情なまでの合理的判断、②松永久秀の卓越した外交交渉、③秀吉、光秀、家康ら殿軍の捨て身の奮戦、そして④朝倉軍の追撃の遅れといった幸運が重なった、まさに薄氷の勝利であった。

しかし、この敗走は単なる敗北ではなかった。この経験を通じて、信長と彼の家臣団は、いかなる勝利からも得ることのできない貴重な教訓と、死線を共にした者だけが分かち合える強固な結束力を手に入れた。金ヶ崎の死線を乗り越えたからこそ、信長はより強大で冷徹な天下人へと変貌を遂げ、その後の天下布武への道を、より確かな足取りで突き進むことができたのである。その意味において、この戦いは勝利以上の価値を持つ「戦略的撤退」であったと結論付けられる。

引用文献

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  2. 織田信長最大のピンチ! 金ヶ崎の退き口ってどんな戦いだったの?ー超入門!お城セミナー【歴史】 https://shirobito.jp/article/847
  3. 【福井県】金ヶ崎城の歴史 織田軍最大のピンチ、金ヶ崎の退き口の舞台! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/952
  4. 1570年 – 72年 信長包囲網と西上作戦 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1570/
  5. 【解説:信長の戦い】金ヶ崎の退き口(1570、福井県敦賀市) 信長、秀吉、家康、光秀に試練…信長の義弟である浅井長政がまさかの裏切り! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/481
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  26. お市の方 /ホームメイト - 戦国時代の姫・女武将たち - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46507/
  27. お市と浅井長政が信長を裏切った理由とは?~朝倉義景に従属を続けた国衆 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/azainagamasa-uragiri/
  28. 誠実な好青年「浅井長政」はどうして義兄、信長を裏切ったのか - デイリー新潮 https://www.dailyshincho.jp/article/2023/04161103/?all=1&page=2
  29. 浅井長政は、なぜ織田信長を裏切ったのか? 信長を窮地に陥れた「盟友の裏切り」 https://article.yahoo.co.jp/detail/077d6f57f1892213c1dd60f056214424bbcc32bc
  30. 語り部に聞く 2011大河ドラマと朝倉氏~ - 浅井家を支えた朝倉家~ - あざ い https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/bunshin/jigyou_d/fil/017.pdf
  31. 浅井家 と 浅井長政 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/asai.htm
  32. 【最新研究】浅井長政の生涯|朝倉とは同盟関係にあらず 【どうする家康】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=g5rpmtdByjM
  33. 金ヶ崎の戦いとは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E9%87%91%E3%83%B6%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  34. 家康も撤退を知らされていなかった「金ヶ崎の退き口」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27174
  35. 歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場 - ここ滋賀 -COCOSHIGA- https://cocoshiga.jp/official/topic/ieyasu01/
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  37. 金ヶ崎の戦い【信長の撤退戦、金ヶ崎の退き口】 - 土岐日記 https://ibispedia.com/kanegasakinotatakai
  38. 退却を進言した家康を置き去りに?「金ヶ崎の退き口」の真実 - 今につながる日本史+α https://maruyomi.hatenablog.com/entry/2023/04/17/153522
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  40. お市の方の小豆袋、出典は本当に『朝倉家記』なのか~『信長協奏曲』第6話 https://tenmei.cocolog-nifty.com/matcha/2014/11/post-b149.html?optimized=0
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  48. 金ヶ崎の退き口 http://historia.justhpbs.jp/nokigutibun.html
  49. 金ヶ崎の退き口~朝倉義景の猛攻で信長は「生涯最大のピンチ」に | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8143?p=1
  50. 朝倉氏の歴史 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/history
  51. 一乗谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11096/