最終更新日 2025-08-26

金山城の戦い(1566)

永禄九年 金山城の戦い ― 軍神を退けた要塞と国衆の選択

序章:上州に燻る戦火

永禄九年(1566年)、日本の戦国時代は大きな転換期を迎えつつあった。畿内では足利将軍家の権威が失墜し、新たな覇者がその座を窺っていたが 1 、関東地方もまた、三大勢力の角逐によって激しい戦乱の渦中にあった。越後国(現在の新潟県)を本拠とする「軍神」上杉謙信、相模国(現在の神奈川県)を拠点に関東平野の支配を着々と進める後北条氏、そして甲斐国(現在の山梨県)から信濃国(現在の長野県)を経て西上野へとその触手を伸ばす武田信玄。この三者が互いに牽制し、同盟と裏切りを繰り返しながら覇を競う中、上野国(こうずけのくに、現在の群ま県)はその地政学的な位置から、三大勢力の衝突が最も激しい最前線と化していた 2

この複雑怪奇な情勢の只中で、東上野の新田郡に屹立するのが金山城(かなやまじょう)である。関東平野を一望する戦略的要地に築かれたこの山城は、単なる軍事拠点に留まらなかった。もとは主家であった岩松氏から実権を奪い、下剋上によって戦国大名へと成長した由良成繁(ゆら なりしげ)にとって、金山城は自らの独立と権威を象徴する牙城であった 2 。その堅固さは広く知られ、関東七名城の一つにも数えられるほどであった 4

永禄九年にこの金山城を舞台として繰り広げられた戦いは、単なる一城を巡る攻防戦ではない。それは、上杉、北条、武田という巨大な力の奔流の中で、翻弄されながらも自家の存続を賭けて主体的な選択を迫られる「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる在地領主たちのリアリズムが凝縮された、まさに戦国時代の縮図ともいえる出来事であった。上杉謙信にとってこの戦いは、離反者への「懲罰」であり、失墜した権威の回復を賭けた戦いであった。対する由良成繁にとっては、自らの政治的決断の正当性を証明し、独立を維持するための「抵抗」であった。そして、その背後で関東の覇権を狙う北条氏にとっては、自らの勢力圏を維持・拡大するための重要な局面であった。本報告書は、この永禄九年(1566年)の金山城の戦いについて、その戦略的背景から合戦の具体的な推移、そして歴史的意義に至るまでを徹底的に分析し、その全貌を明らかにすることを目的とする。

第一章:関東の天秤、傾く ― 合戦前夜の情勢

金山城への軍事侵攻が不可避となるまでには、永禄九年の前半に発生した二つの決定的な軍事的・政治的事件が存在した。一つは、関東における上杉謙信の権威を根底から揺るがした「臼井城の敗北」。もう一つは、由良氏の領国の目と鼻の先にまで武田信玄の脅威が迫った「箕輪城の落城」である。これら二つの出来事が、由良成繁の政治的決断を促し、関東の勢力バランスを大きく傾かせることになった。

第一節:軍神の蹉跌 ― 臼井城の敗北と関東諸将の離心

永禄三年(1560年)以来、上杉謙信は関東管領の職を奉じ、十数回にも及ぶ関東出兵(越山)を敢行していた 5 。その軍事力は圧倒的であり、多くの関東国衆は彼の威勢に服していた。しかし、永禄九年(1566年)二月、その威信に大きな翳りが生じる。下総国(現在の千葉県北部)の臼井城を攻めた上杉軍が、予期せぬ大敗を喫したのである 2

この戦いで上杉軍は、城主である千葉氏の兵力を遥かに上回る大軍を擁していた。しかし、千葉氏の軍師であった白井入道浄三の巧みな策略と、北条氏から派遣されたわずか150騎の援軍(松田康郷隊)の奮戦により、上杉軍は城壁の崩落に巻き込まれるなどして数千人ともいわれる甚大な損害を出し、撤退を余儀なくされた 6

この敗北が関東の諸将に与えた衝撃は計り知れない。それは単なる一合戦の敗北ではなかった。「軍神」とまで呼ばれた上杉謙信が、特に不得手とされた攻城戦においてその脆弱性を露呈した瞬間であり 8 、彼が関東の国衆を束ねる力の源泉であった「軍事的カリスマ」という無形の資産が大きく損なわれた決定的な政治的失敗であった。戦国時代の主従関係、特に謙信と関東国衆の関係は、絶対的な忠誠心よりも、軍事的な保護という「実利」によって結ばれていた。臼井城での敗北は、その「実利」がもはや保証されないかもしれない、という疑念を関東中に拡散させた。謙信に味方し続けても、必ずしも勝利と安全は得られないという現実を、諸将は目の当たりにしたのである 2 。この事件は、常に大勢力の動向を窺い、自家の存続の道を模索していた由良成繁のような国衆にとって、これまで頼ってきた大樹の幹が揺らいだことを示す、極めて明確なシグナルとなった。

第二節:西上野を席巻する武田の影 ― 箕輪城の落城

謙信の威信が揺らぐ中、もう一つの巨大な脅威が西から迫っていた。甲斐の武田信玄である。信玄は川中島で謙信と激闘を繰り広げる一方、永禄年間の半ばから西上野への侵攻を本格化させていた 10 。その最終目標は、西上野における反武田・親上杉勢力の中核であった箕輪城の攻略であった。

そして永禄九年九月、信玄は遂に二万と号する大軍を率いて箕輪城に殺到した 11 。城主・長野業盛は、父・業正の遺志を継ぎ奮戦するも、武田軍は事前に周辺の支城を調略によって切り崩し、箕輪城を完全に孤立させるという周到な戦略を展開した 12 。鷹留城との連携を断たれた箕輪城は、わずか1500の兵で籠城したが、圧倒的な兵力差の前に衆寡敵せず、同月29日に落城。城主・業盛は自刃し、上野の名門・長野氏はここに滅亡した 11

この箕輪城の落城は、東上野に本拠を置く由良成繁にとって、対岸の火事ではあり得なかった。それは二重の意味で、由良氏の存亡に関わる危機であった。第一に、西からの武田の圧力を食い止めていた緩衝地帯が完全に消滅し、自領が武田の脅威と直接向き合うことになった点。第二に、そしてより深刻なのは、同盟相手であるはずの上杉謙信が、西上野の最重要拠点である箕輪城を救うための有効な手を何一つ打てずに見殺しにしたという事実である。これは、もはや上杉氏の軍事的保護が期待できないことを明白に証明していた。この状況下で上杉方に留まり続けることは、いずれ武田の大軍に飲み込まれるのを座して待つに等しい。北条氏との連携は、西から迫る武田という強大な圧力に対抗するための、唯一にして最も合理的な防波堤を築くための、地政学的に見て必然の選択であった 15

第三節:岐路に立つ国衆 ― 由良成繁の決断

臼井城での謙信の威信失墜と、箕輪城陥落による武田の脅威の増大。この二つの大きな地殻変動を冷静に分析した由良成繁は、ついに決断を下す。永禄九年閏八月、成繁・国繁父子は上杉謙信を見限り、北条氏康・氏政父子の麾下へと復帰したのである 2

この決断は、衝動的な裏切りなどでは断じてない。もともと由良氏(旧姓・横瀬氏)は、主家であった岩松氏を実力で凌駕し、金山城を奪取することで独立を勝ち取った、下剋上の体現者であった 16 。成繁は、常に自家の存続と利益を最優先に考える冷徹なリアリストであり、その外交姿勢は、大勢力の間を巧みに渡り歩くことで生き残りを図るという、典型的な国衆のそれであった 3

閏八月という離反のタイミングも絶妙であった。謙信の権威が揺らいだ臼井城の戦い(二月)の後、そして武田の圧力が西上野で最高潮に達し箕輪城が陥落する(九月)直前という、まさに情勢を見極めた上での行動であった。さらに、この離反には謙信の重臣でありながら厩橋城を守っていた北条高広も同調しており、成繁の動きが単独行動ではなく、関東の国衆の間に広まっていた「謙信離れ」という大きな潮流に乗ったものであったことを示している 15

この由良氏の離反は、謙信の関東戦略の根幹を揺るがす大事件であった。謙信が成繁を「第一の姉人(あねびと、裏切り者の意)」と罵り、激怒したと伝えられる逸話は 18 、由良氏の戦略的価値と、その離反が謙信に与えた衝撃の大きさを物語っている。報復は必至であった。こうして、金山城に戦雲が急速に垂れ込めていくのである。

第二章:軍神、動く ― 報復の進軍路(リアルタイム解説)

由良成繁の離反という報は、越後の上杉謙信を激怒させた。失墜した権威を回復し、他の関東諸将への見せしめとするため、謙信は由良氏への「懲罰」を目的とした軍事行動を開始する。永禄九年の晩秋、冬の訪れを前にして、上杉軍は越後を発ち、利根川を越えて上野国へと侵攻した。その軍事行動は、単に金山城を攻めるだけでなく、由良氏の領国経済に打撃を与え、その支配体制を内側から揺るがすことを狙った、複合的な目的を持つものであった。

以下の時系列表は、永禄九年に関東で発生した主要な出来事と、金山城を巡る上杉・由良双方の動きをまとめたものである。

年月日

出来事

関係者

根拠資料

永禄9年2月

臼井城の戦い 。上杉軍が千葉氏に敗北し、謙信の威信が揺らぐ。

上杉謙信、千葉氏

2

永禄9年閏8月

由良氏の離反 。由良成繁が上杉氏から離反し、北条氏に属す。

由良成繁、上杉謙信、北条氏康

2

永禄9年9月

武田軍の西上野侵攻 。武田信玄が箕輪城を包囲。

武田信玄、長野業盛

11

永禄9年9月29日

箕輪城落城 。長野氏が滅亡し、武田氏が西上野を制圧。

武田信玄、長野業盛

14

永禄9年11月7日

上杉軍、利根川渡河 。謙信は鉢形城下(北条方)を放火。

上杉謙信

19

永禄9年11月7日-23日

由良領への侵攻 。謙信は再び渡河し、新田・館林・足利領を放火。

上杉謙信

19

永禄9年11月24日

金山城へ肉薄 。謙信は金山城に迫り、那須資胤に参陣を要請する書状を送る。

上杉謙信、那須資胤

19

第一節:越山 ― 冬を前にした懲罰の軍

上杉謙信の関東出兵は、関東管領としての権威を示すための恒例行事であったが 5 、永禄九年秋の出兵は明らかにその性格を異にしていた。臼井城での敗北と由良氏の離反により傷つけられた自らの威信を、軍事力によって回復させるという強い意志が働いていた。

越後の冬は雪深く、大規模な軍事行動は不可能となる。そのため、例年の関東出兵は春から秋にかけて行われるのが常であった。十一月という時期は、その年の軍事活動の最終盤にあたる。このタイミングでの出兵は、長期にわたる大規模な攻城戦を意図したものではなく、むしろ短期決戦、あるいは懲罰的な示威行動に重点が置かれていた可能性が高い。謙信の狙いは、由良氏を迅速に屈服させ、関東における上杉方の求心力を立て直した上で、冬を迎える前に越後へ帰還することにあったと考えられる。

第二節:利根川渡河と焼き討ち(11月7日~)

上杉軍の行動は迅速かつ計画的であった。

11月7日 、謙信率いる軍勢は利根川を渡ると、まず由良氏の新たな同盟相手である北条氏の重要拠点、武蔵国・鉢形城(現在の埼玉県寄居町)の城下を焼き払った 19 。これは、由良氏へ向かう前にまず北条方を牽制し、金山城への救援を躊躇させるための示威行動であったと見られる。

その後、上杉軍は再び利根川を北に渡り、標的である由良氏の領国へと牙を剥いた。由良氏の本拠地である新田領、そして成繁の次男・顕長が養子に入り同盟関係にあった館林の長尾氏領、さらには足利長尾氏の所領に至るまで、広範囲にわたって徹底的な放火と略奪を敢行した 19

この「焼き討ち」は、単なる破壊活動に留まらない、高度に計算された戦術であった。秋の収穫が終わったばかりの農村を焼き払うことは、由良氏の来年の兵糧収入、すなわち経済基盤そのものを破壊する兵糧攻めの一種である。同時に、領民に「謙信に逆らう者の末路」という強烈な恐怖を植え付け、領主である由良氏の統治能力を揺るがすことを狙った、効果的な心理戦でもあった。謙信は、金山城という「点」を攻める前に、まずその周辺の「面」を制圧し、城を裸にする作戦を採ったのである。

第三節:金山城への肉薄と最後通牒(11月24日)

周辺地域への制裁を完了した上杉軍は、いよいよ本丸である金山城へと迫る。その最終段階の動きは、謙信が 11月24日 付で下野国(現在の栃木県)の国衆・那須資胤に宛てて送った一通の書状から、生々しく伝わってくる。

この書状の中で謙信は、「明日、小山に陣を張る」と自らの具体的な軍事行動を予告した上で、那須氏に参陣を要請している 19 。この「小山」が金山城近郊の地名であることから、この書状が書かれた時点で、上杉軍本隊が金山城攻略の司令塔となる本陣を設営する、まさにその前夜であったことがわかる。

この書状は二つの重要な事実を示唆している。第一に、謙信が金山城の攻略を、周辺の同盟勢力を動員してでも成し遂げようとした本格的な軍事作戦と位置づけていたこと。そして第二に、謙信自身が金山城の堅固さを十分に認識しており、力攻めには相応の兵力が必要であると判断していたことである。この一通の書状は、戦いの火蓋が切られようとする寸前の、リアルタイムな軍事的緊張感を今に伝える一級史料と言える。上杉軍による包囲網が完成し、金山城は風前の灯火に見えた。

第三章:難攻不落の要塞 ― 金山城の攻防

なぜ「軍神」と謳われた上杉謙信は、金山城を攻略することができなかったのか。その答えは、城そのものが持つ卓越した防御機能と、それを最大限に活用した由良氏の巧みな籠城戦術にあった。永禄九年(1566年)の具体的な戦闘記録は断片的にしか残されていない。しかし、現存する城郭遺構と、より詳細な記録が残る天正二年(1574年)の攻防戦の様子を組み合わせることで、当時の戦闘を専門的知見に基づいて再構築することは可能である。

以下に示すのは、金山城の縄張り(城の設計)と、想定される上杉軍の攻撃ルート、そして由良軍の防御戦術を概念的に図示したものである。

金山城 攻防概念図

  • 上杉軍(攻撃側):
  • 本陣: 城の東麓、物見台からの死角となる藤阿久(ふじあく)方面に設置 21
  • 主攻ルート: 麓から大手筋を通り、西城(見附出丸)を経由して、城の中枢部(実城)への最終関門である「大手虎口」を目指す。
  • 攻撃の障害:
  1. 急峻な登城路: 重装備の兵にとって体力を著しく消耗させる 22
  2. 堀切・竪堀: 尾根筋の進軍を阻む巨大な堀切と、斜面からの攻撃を妨害する竪堀 22
  3. 複雑な虎口: 喰違虎口や桝形虎口が連続し、進軍速度を鈍らせ、守備側からの集中攻撃を誘発する 22
  • 由良軍(防御側):
  • 指揮所: 実城(本丸)に由良成繁・国繁父子が詰める。
  • 主要防御拠点:
  1. 物見台: 関東平野を一望し、上杉軍の動きを逐一監視。火縄銃による遠距離攻撃も実施 21
  2. 西城: 城の西側を守る最前線。食い違い虎口で敵の突進を防ぐ 25
  3. 大手虎口: 城内への最終防衛線。石垣と土塁で固められた「キルゾーン」を形成。通路に侵入した敵を、左右の高所から槍や弓矢、鉄砲で殲滅する 22
  4. 馬場曲輪: 大手虎口を守る兵の待機場所 24

第一節:城郭の徹底解剖 ― 石垣と虎口が語る防衛思想

金山城の強さは、その巧みな縄張り、すなわち設計思想に集約される。

  • 縄張りと石垣: 金山城は、標高239mの金山全体を要塞化した、国内でも最大規模の山城である 4 。最大の特徴は、当時の関東の山城では極めて珍しい、本格的な石垣(野面積み)を多用している点にある 29 。これは、土塁が主であった他の城郭とは一線を画す防御力をもたらすと同時に、城主・由良氏の権威と先進性を内外に示す象徴でもあった 24
  • 堀切と虎口: 城の防御システムは、敵兵の心理と動きを巧みに利用して設計されていた。尾根筋は巨大な堀切によって寸断され、大軍の直線的な進撃を不可能にしている 22 。そして、各曲輪への入口である虎口(こぐち)は、防御思想の結晶であった。特に城の中枢部への入口である「大手虎口」は圧巻である。攻撃側は、まず高く積まれた石垣に威圧され、狭い門を抜けると、通路はすぐさま鉤の手に折れ曲がり、行く手は土塁石垣で塞がれているように見える 21 。この見通しの利かない、幅の狭い通路に敵兵を誘い込み、動きを停滞させたところで、左右の土塁や石垣の上から守備兵が槍や弓矢、さらには出土品から使用が確認されている火縄銃による十字砲火を浴びせる 21 。この空間は、一度足を踏み入れたら生きては出られない「キルゾーン」そのものであった。
  • 水の確保: 長期の籠城戦で最も重要な生命線は水の確保である 31 。金山城には「日ノ池」「月ノ池」と呼ばれる貯水池が城内に設けられており、生活用水だけでなく、戦勝祈願などの祭祀にも用いられたと考えられている 26 。これにより、由良軍は水の手を断たれる心配なく、徹底した籠城戦を展開することが可能であった。

第二節:籠城する由良勢 ― 成繁父子の防衛戦術

この鉄壁の要塞に籠もった由良成繁・国繁父子は、地の利を最大限に活かした防衛戦を展開したと推測される。

由良氏が動員できる兵力は数千程度と見られるが、籠城戦においては兵力の劣勢を城の堅固さで補うのが定石である 3 。指揮官である成繁と国繁は実城(本丸)で全軍を統率し、士気を維持したであろう 32 。その戦術の基本は、城から打って出るような無謀な攻撃は避け、ひたすら「守りに徹する」ことであった 33

城の最高所にある物見台からは、関東平野に展開する上杉軍の動きが手に取るように分かったはずである 22 。由良軍は、この情報的優位性を活かし、上杉軍の攻撃が集中するであろう箇所に的確に兵を再配置し、効率的な防御を行った。特に大手虎口のような重要拠点では、侵入してきた敵の先鋒部隊を罠にかけ、袋叩きにして殲滅し、後続部隊の戦意を削ぐという戦術が幾度となく繰り返されたであろう。謙信の焼き討ちという挑発に対し、全く動じることなく籠城を続けること。それ自体が、由良氏にとっての勝利条件だったのである。

第三節:攻めあぐねる上杉勢 ― 軍神の誤算と山城攻略の困難

一方、攻撃側の上杉謙信が直面した困難は計り知れない。天正二年の事例から推測すると、謙信は金山城の物見台からの視線を避けるため、城の東麓にある藤阿久方面に本陣を構えたと考えられる 2 。しかし、そこから城へ至る道は、守備側の思う壺であった。

重い甲冑を身に着けた兵士たちが、麓から急峻な坂道を攻め上るだけで、戦闘開始前に体力を著しく消耗する 22 。ようやくたどり着いた城門は、前述の通り巧妙な罠が張り巡らされた迷宮であり、突破するにはおびただしい数の犠牲者を出す覚悟が必要であった。野戦においては無類の強さを誇った謙信も、攻城戦、特に金山城のような堅固な山城の攻略は不得手であった 8

さらに、謙信には「時間」という制約が重くのしかかっていた。十一月下旬という時期は、いつ雪が降り始めてもおかしくない。越後の本国へ帰還する道を雪で閉ざされる前に、決着をつけなければならなかった 34 。短期での攻略が見込めないと判断した時、力攻めによる無益な損害を避け、撤退を決断するのは、優れた指揮官として当然の判断であった。

これらの状況を総合すると、永禄九年の「金山城の戦い」とは、大規模な総攻撃が繰り返される激しい攻城戦というよりも、城の周囲での散発的な小競り合いと、上杉軍による威嚇的な包囲、そしてそれに由良軍が全く動じず耐え抜いた結果、謙信が攻略を断念して兵を引いた、という「対峙」と「睨み合い」の様相が強い戦いであったと結論付けられる。

第四章:戦塵の彼方に ― 歴史的意義と影響

永禄九年の金山城における対峙は、単なる局地的な軍事衝突に終わらなかった。この一戦の結果は、上杉、北条、そして由良氏それぞれの運命に大きな影響を及ぼし、その後の関東の勢力図を塗り替える一つの分水嶺となった。

第一節:謙信の関東戦略の頓挫と変容

金山城の攻略失敗は、上杉謙信の関東戦略にとって大きな痛手となった。同年二月の臼井城での敗北に続き、離反した由良氏を武力で屈服させることができなかったという事実は、謙信が保持していた関東管領としての権威をさらに失墜させる結果を招いた 2 。関東の国衆たちは、謙信の軍事力、特にその攻城能力に疑問符を付け始め、より確実に自領の安寧を保障してくれるであろう北条氏へと靡く流れが加速した 9

この後、謙信の関東に対する関与の仕方は、関東全域の支配を目指すという壮大な構想から、北条氏との勢力均衡を保つための限定的な軍事介入へと、現実的な路線への修正を余儀なくされていく。その象徴的な出来事が、わずか3年後の永禄十二年(1569年)に、長年の宿敵であった北条氏との間に結ばれた「越相同盟」である。この同盟は、謙信が単独での関東平定を事実上断念したことを物語っている。金山城の堅い城門は、謙信の野望をも阻む壁となったのである。

第二節:由良氏の存続と北条氏との関係深化

一方、上杉軍を撃退した由良氏が得た利益は計り知れないものであった。

第一に、「軍神・上杉謙信を退けた」という輝かしい武名は、由良氏の戦国大名としての地位を不動のものとし、その名を関東中に轟かせた。金山城は、この一戦をもって「難攻不落の要塞」という伝説を確立したのである 22

第二に、北条氏からの信頼を完全に勝ち取った。この防衛成功により、由良氏は北条氏にとって北関東における最も重要な同盟者としての地位を確立し、以降、対上杉、あるいは常陸国(現在の茨城県)の佐竹氏に対する最前線を担う重責を任されることになった 16

そして第三に、由良成繁個人の政治的評価を高めることになった。後に「越相同盟」が締結される際、成繁は上杉・北条双方に通じる数少ない人物として、両者の間を取り持つ仲介役という極めて重要な役割を果たしている 2 。これは、彼が単なる一介の武将ではなく、大勢力間の力学を読み解き、複雑な交渉をまとめ上げる高度な外交能力を備えた政治家であったことを雄弁に物語っている。金山城での勝利は、由良氏に軍事的な名声のみならず、外交の舞台における確固たる地位をもたらしたのである。

第三節:金山城の不落伝説の確立

永禄九年の防衛成功は、金山城の歴史における決定的な一頁となった。この後も金山城は、幾度となく戦火に晒される。特に天正二年(1574年)、謙信は再び由良氏領へ大規模な侵攻を敢行し、周辺の支城を次々と攻略した上で金山城に迫った。この時も由良成繁・国繁父子は金山城に籠城し、一ヶ月以上にわたる攻防の末、再び謙信を退けることに成功している 2

これらの度重なる防衛成功は、「金山城は落ちない」という不落伝説を揺るぎないものとした 4 。この伝説は、戦国時代における城郭という存在の戦略的重要性を象徴している。優れた設計思想と堅固な普請によって築かれた城は、兵力や武将の名声といった要素だけでは覆せない、絶対的なアドバンテージとなり得た。小勢力であった由良氏が、上杉、北条、武田という巨大勢力の狭間で独立を保ち、生き延びることができた最大の要因は、まさしくこの金山城という比類なき戦略資産を保有していたからに他ならない。金山城と由良氏の歴史は、城郭が持つ力が、時に歴史の流れさえも変えうることを示した、最も劇的な成功事例の一つとして記憶されることとなった。

結論:永禄九年が関東史に残した分水嶺

永禄九年(1566年)に上野国金山城を舞台として繰り広げられた一連の攻防は、その後の関東の戦国史における一つの大きな分水嶺であったと結論付けられる。

この戦いは、第一に、上杉謙信が関東管領の権威を背景に進めてきた関東支配構想が、現実の壁に突き当たり、事実上頓挫したことを象徴する出来事であった。臼井城での敗北と金山城攻略の失敗は、謙信の軍事的限界を露呈させ、関東の国衆たちの求心力を大きく低下させた。これにより、関東の政治的・軍事的イニシアチブは、明確に北条氏へと傾いていくことになる。

第二に、この戦いは、相模の北条氏が関東における覇権を確立していく過程において、極めて重要な一里塚となった。最大のライバルである謙信の勢いを削ぎ、北関東に由良氏という強力かつ忠実な橋頭堡を確保したことで、北条氏の勢力圏はより安定し、拡大していくための盤石な基盤が築かれた。

そして何よりも、この戦いは由良成繁という一国衆が、大国の思惑が渦巻く激動の時代において、いかにして自家の存続と発展を勝ち取ったかを示す、生存戦略の見事な実例である。彼は、臼井城と箕輪城を巡る情勢を的確に分析して政治的決断を下し、その決断の結果として生じた軍事的危機に対しては、金山城という優れた拠点城郭の防御能力を最大限に活用して対抗した。永禄九年の金山城の戦いは、単に武将の武勇や兵士の数だけが勝敗を決するのではなく、情報分析能力、外交的駆け引き、そして城郭という「技術」が雌雄を決した、近代的な戦争の萌芽ともいえる様相を呈していた。由良成繁と金山城が示したこの強靭な抵抗こそが、関東の勢力図を塗り替え、新たな時代への扉を開く一助となったのである。

引用文献

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  3. 由良成繁 ゆらなりしげ - 坂東武士図鑑 https://www.bando-bushi.com/post/yura-narishige
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  5. 越 後 が 生 ん だ 戦 国 の 名 将 - 上越観光Navi https://joetsukankonavi.jp/files/pamphlet/kenshinkou.pdf
  6. 臼井城~無敗と言われた上杉謙信が失敗した城攻め!DELLパソ兄さん https://www.pasonisan.com/review/0_trip_dell/11_0219usui.html
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  8. 臼井城の戦い古戦場:千葉県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/usuijo/
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  31. 【加園城 解説】"堀"好き必見!!!防御施設がふんだんに取り入れられた栃木の"境目の城"!! https://m.youtube.com/watch?v=ACgmPju3qEk
  32. 関連人物 - 妙印尼輝子 https://www.myouinniteruko.com/people.html
  33. 史跡金山城跡 - 太田市観光物産協会 https://www.ota-kanko.jp/spot/spot01/kanayajouato/
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  35. 歴史 - 妙印尼輝子 https://www.myouinniteruko.com/history.html
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