鉢形城の戦い(1590)
天正十八年 鉢形城の戦い ― 関東の巨城、落日の三十日間
序章:天下統一の奔流と関東の巨城
天正十八年の地政学 ― 秀吉の天下統一事業と後北条氏
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業は最終段階を迎えていた。四国、九州を平定した秀吉にとって、関東一円に広大な領国を築き上げた後北条氏の存在は、天下統一を完遂するための最後の、そして最大の障壁であった 1 。秀吉は、徳川家康を介して後北条氏当主・北条氏政、氏直親子に上洛を促したが、北条方はこれを拒否。両者の対立は決定的となった 1 。
この対立に火を注いだのが、天正十七年(1589年)十月に発生した「名胡桃城事件」である 3 。北条家の沼田城代・猪俣邦憲が、真田昌幸の所領であった名胡桃城を武力で奪取したこの事件は、秀吉が天下に布告していた「惣無事令(私闘を禁じる法令)」への明確な違反と見なされた 4 。これを口実として、秀吉は同年十一月、全国の諸大名に対し北条討伐の動員令を発し、後北条氏に宣戦を布告したのである 3 。
秀吉が動員した兵力は、二十一万から二十二万という、日本史上類を見ない大軍であった 6 。さらに、その軍勢は兵農分離が進んだ専業の武士を主力としており、質においても従来の軍とは一線を画していた。対する後北条氏は、領国全域から成人男子を動員し、約五万六千の兵力を集めたが、その多くは農民兵であり、兵力の量と質、双方において圧倒的な劣勢を強いられることとなった 6 。
後北条氏の防衛戦略 ― 小田原籠城策と支城網の宿命
未曾有の大軍を前に、北条首脳部は本拠地・小田原城での籠城策を採択した 6 。これは、かつて上杉謙信や武田信玄の大軍を撃退した成功体験に基づく伝統的な戦略であった。この戦略の骨子は、堅固な小田原城に主力を集めて籠城し、その間に豊臣方の大軍が兵站の維持に苦しみ、疲弊するのを待つというものであった。そして、その時間を稼ぐために、関東各地に配置された支城群が防衛線を形成し、敵の進軍を遅滞させる役割を担っていた 7 。
しかし、この籠城策は家中において満場一致で決定されたわけではなかった。特に、北条氏康の四男であり、武勇と知略で知られた鉢形城主・北条氏邦は、この消極策に強く反対していた 8 。氏邦は、地の利を生かした積極的な野戦迎撃こそが活路を開くと主張し、駿河国への出撃や平野部での決戦を説いたが、評定でその意見が容れられることはなかった 9 。結果として、氏邦は不本意ながら自らの居城である鉢形城に戻り、北関東方面の防衛という重責を担うこととなったのである 11 。彼のこの最初の主張は、後の籠城戦における奮戦、そして最終的な決断の背景を理解する上で、極めて重要な意味を持つことになる。
武蔵国の要害、鉢形城 ― その戦略的価値と構造
氏邦が守る鉢形城は、後北条氏の支城網の中でも、北関東から武蔵国への玄関口を扼する最重要拠点であった 7 。この城は、荒川とその支流である深沢川が合流する地点の断崖絶壁上に築かれており、三方を川に囲まれた天然の要害であった 12 。
永禄七年(1564年)頃、在地領主であった藤田康邦の婿養子として氏邦が入城して以降、城は大規模な改修と拡張が施され、関東でも最大級の規模を誇る拠点城郭へと変貌を遂げた 7 。その堅牢さは広く知れ渡っており、永禄十二年(1569年)には武田信玄、天正二年(1574年)には上杉謙信による攻撃を受けたが、いずれも撃退に成功している 7 。この難攻不落の実績こそが、鉢形城が北条氏の北方防衛線の中核と見なされた所以であった。
北国軍の編成と進路 ― 因縁の対決
秀吉は、小田原城を包囲する本隊とは別に、北陸道から上信国境を越えて関東に侵攻する別働隊を編成した。これが「北国勢(きたぐにぜい)」と呼ばれる方面軍である 10 。
この方面軍の編成は、単なる軍事的な合理性だけでなく、秀吉の高度な政治的計算が透けて見えるものであった。総大将格には腹心の前田利家が据えられたが、その配下には、かつて関東管領として北条氏と覇を争った上杉家の当主・上杉景勝、そして名胡桃城事件の当事者であり、北条氏とは長年の宿敵であった真田昌幸が名を連ねていた 8 。これは、かつての敵に止めを刺させるという、後北条氏に対する意趣返しであり、東国の諸大名に豊臣政権の武威を見せつけるための、周到に計算された政治的パフォーマンスであった。天正十八年三月十五日、彼ら北国勢は碓氷峠へ進軍を開始し、北条方の最前線である松井田城への攻撃から、北関東平定作戦の火蓋を切ったのである 18 。
【表1】小田原征伐における北関東・武蔵方面の主要合戦 時系列表
日付 (天正18年) |
合戦名(城名) |
攻撃側主要武将 |
守備側主要武将 |
結果 |
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3月28日 |
松井田城の戦い |
前田利家、上杉景勝ら |
大道寺政繁 |
4月20日落城 |
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4月19日 |
厩橋城の戦い |
北国軍 |
北条方 |
攻略 |
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4月24日 |
箕輪城の戦い |
北国軍 |
北条方 |
攻略 |
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5月14日 |
鉢形城の戦い |
前田利家、上杉景勝ら |
北条氏邦 |
包囲開始 |
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5月19日 |
岩槻城の戦い |
浅野長政ら |
北条方 |
5月22日攻略 |
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5月20日 |
武蔵松山城の戦い |
石田三成、真田昌幸ら |
北条方 |
攻略 |
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6月5日 |
忍城の戦い |
石田三成ら |
成田長親ら |
包囲開始 |
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6月14日 |
鉢形城の戦い |
北国軍 |
北条氏邦 |
開城 |
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6月23日 |
八王子城の戦い |
前田利家、上杉景勝ら |
横地監物ら |
1日で落城 |
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7月5日 |
小田原城 |
豊臣秀吉 |
北条氏直 |
開城 |
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7月16日 |
忍城の戦い |
石田三成ら |
成田長親ら |
開城 |
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(各出典 1 等に基づき作成) |
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第一部:包囲網の形成 ― 天正十八年五月、攻防の幕開け
前哨戦 ― 北国軍、上野を席巻
碓氷峠を越えて上野国に侵攻した前田・上杉・真田らを主力とする北国軍は、まず北条氏の重臣・大道寺政繁が守る松井田城に目標を定めた 18 。三月二十八日から始まった攻城戦は約三週間に及び、四月二十日にこれを陥落させる 3 。松井田城の陥落は、上野国における北条方の防衛体制に大きな動揺を与えた。勢いに乗る北国軍は、その後、厩橋城(四月十九日)、箕輪城(四月二十四日)といった上野国内の拠点を次々と制圧していった 3 。これにより、武蔵国北部に位置する鉢形城は、北からの圧力を直接受ける最前線となり、孤立の度を深めていったのである。
天正十八年五月十四日 ― 包囲網完成
上野一帯の平定をほぼ完了させた北国軍本隊は、満を持して南下し、天正十八年五月十四日、ついに鉢形城の攻略を開始した 3 。城を取り囲んだ豊臣方連合軍の陣容は、戦国時代を代表する錚々たる武将たちで構成されていた。
- 攻撃軍(豊臣方): 総兵力は約35,000と推定される 15 。資料によっては5万とも記されているが 12 、3万5千が通説となっている。その構成は、前田利家、上杉景勝、真田昌幸といった北国勢に加え、徳川家康麾下の本多忠勝、鳥居元忠、さらに豊臣子飼いの浅野長政(長吉)といった部隊が含まれていた 10 。城の構造は西南が大手口、東が搦手とされており 19 、前田・上杉らの主力が大手口方面に、そして真田・浅野といった機動性に富む部隊が、地形の複雑なę手や周辺の要所を固める布陣を取ったと推察される。
- 守備軍(北条方): 対する籠城側の兵力は、わずか3,000から3,500であった 12 。総大将は城主・北条氏邦自らが務め、その配下には老臣・黒澤上野介をはじめとする譜代の家臣団がいた 16 。実に10倍以上という圧倒的な兵力差の中、鉢形城の長く困難な籠城戦が始まったのである。
【表2】鉢形城の戦い 両軍戦力比較
軍勢 |
総大将格 |
主要武将 |
推定兵力 |
備考 |
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攻撃軍(豊臣方) |
前田利家 |
上杉景勝、真田昌幸、本多忠勝、浅野長政、鳥居元忠 |
約35,000 |
兵農分離済みの専業武士が主力 |
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守備軍(北条方) |
北条氏邦 |
黒澤上野介、その他藤田衆 |
約3,000~3,500 |
領内の武士・農民兵からなる混成部隊 |
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(各出典 6 等に基づき作成) |
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初期の攻防 ― 堅城、大軍を拒む
包囲を完成させた豊臣軍は、序盤、いくつかの攻め口から威力偵察を兼ねた攻撃を仕掛けたものと考えられる。しかし、鉢形城は荒川の断崖絶壁を天然の城壁とし、氏邦によって強化された曲輪(くるわ)群が堅固な守りを形成していた 13 。大軍の利を生かした力攻めは、地形によって阻まれ、いたずらに損害を増やすだけであった。
城方は、地の利を最大限に活用し、少数の兵力ながらも効果的な防戦を展開した。豊臣軍の関東支城攻めは、山中城(半日で陥落)や後の八王子城(1日で陥落)のような電撃的な殲滅戦の例もあるが、鉢形城においては、序盤から力攻めが困難な膠着状態に陥った 18 。これは、秀吉が誇る物量作戦が、優れた地形と有能な指揮官の前では必ずしも万能ではないことを示す、最初の証左であった。
第二部:一ヶ月の攻防 ― 堅城と大軍の対峙
戦況の膠着(五月中旬~六月上旬)
鉢形城の堅固さは、攻撃側の予想を上回るものであった。力攻めによる多大な損害を避けるため、総大将の前田利家らは、戦術を城の完全包囲による兵糧攻めと、心理的圧迫へと切り替えた。一部の伝承によれば、この攻防戦において大砲が使用されたとも言われている 13 。これが事実であれば、轟音と破壊力は城兵に大きな恐怖を与えたであろうが、城の防御機能を完全に破壊するほどの決定的な打撃とはならなかったようである。
この時期の戦況をさらに停滞させた一因として、天候が挙げられる可能性がある。小田原周辺では五月中旬から六月五日にかけて連日の降雨が記録されており 18 、関東一円も同様の悪天候に見舞われていた可能性が高い。長雨は、大規模な土木工事や総攻撃の実施を困難にし、両軍の動きを鈍らせ、攻防をさらに膠着させる要因となったと考えられる。
秀吉の叱責 ― 総大将からの圧力
遅々として進まない関東各地の戦況に、小田原の本陣にいる秀吉は苛立ちを募らせていた。五月二十日、秀吉は浅野長政と木村重茲に対し、長文の詰問状を送っている 18 。その内容は、「(岩槻城のような)端城に二万もの大軍を投入するのは不適切である。そのような城は二、三百の兵を派遣して受け取ればよい。早々に鉢形城へ押し寄せ、包囲せよ」という、極めて厳しい叱責であった。
この書状は、秀吉が定めた関東平定のスケジュールに遅延が生じることを決して許さなかったことを示している。この最高指揮官からの叱責は、鉢形城を包囲する前田利家らの陣にも伝わったはずであり、現場の指揮官たちに「何としても早期に城を落とさねばならない」という強烈なプレッシャーを与えた。この圧力が、後の八王子城攻めにおける苛烈で非情な攻撃へと繋がっていく遠因となった可能性も否定できない。
城内の状況 ― 絶望的な孤立
一方、籠城を続ける鉢形城内は、日に日に絶望的な状況に追い込まれていた。小田原の本城は二十万を超える大軍に包囲され、救援の望みは完全に絶たれていた 6 。
さらに、周辺の支城からも落城の報が次々と届いていた。五月十九日から二十二日にかけては近隣の岩槻城が陥落し、五月二十日には武蔵松山城も石田三成・真田昌幸の軍によって攻略された 3 。これらの情報は、投降した兵などを通じて城内にも伝わった可能性が高く、長期間にわたる籠城で疲弊した城兵の士気に深刻な影響を与えたことは想像に難くない。外部からの援軍もなく、友軍の城が次々と陥落していく中で、氏邦と城兵たちは、ただ武人としての意地と責任感だけを支えに、圧倒的な敵を前に孤独な戦いを続けていたのである。この一ヶ月の攻防は、秀吉が体現する近代的・中央集権的な殲滅戦と、氏邦が体現する中世的・在地領主的な籠城戦という、二つの異なる「戦争観」の最後の衝突であったとも言える。
第三部:決断の刻 ― 開城への道程
六月上旬 ― 終焉への序曲
六月に入ると、後北条氏の敗色はもはや覆い隠しようのないものとなっていた。関東各地に張り巡らされた支城網は寸断され、そのほとんどが豊臣軍の手に落ちていた 11 。小田原城の完全な孤立は決定的となり、鉢形城に残された選択肢は、玉砕か降伏かの二つに狭まっていった。この状況を的確に判断した豊臣軍は、いたずらに兵を損なう力攻めから、降伏勧告による心理的な揺さぶりへと戦術の主軸を移し、城の内部からの崩壊を狙ったと考えられる。
交渉の開始 ― 利家の役割
降伏交渉の具体的な経緯を詳細に記した一次史料は乏しいものの、戦後の北条氏邦の処遇から、攻撃軍の総大将であった前田利家が交渉の主要な窓口を務めたことは確実視されている 23 。利家は、敵将である氏邦の武人としての器量と、一ヶ月にわたる見事な防衛戦を高く評価し、その助命に尽力したと伝えられている 23 。当初、野戦での決戦を主張しながらも、一度決まった籠城策には忠実に従い、圧倒的な兵力差を前に一ヶ月も持ちこたえた氏邦の指揮官としての資質に対し、同じ戦国武将として利家が敬意を抱いたとしても不思議ではない。両者の間には、敵味方を超えた武人としての相互理解が存在した可能性が示唆される。
天正十八年六月十四日 ― 開城
包囲開始からちょうど一ヶ月が経過した、天正十八年六月十四日。北条氏邦はついに降伏を決断し、難攻不落を誇った鉢形城は、豊臣軍の前に門を開いた 3 。
氏邦が決断した開城の最大の条件は、「城兵の身の安全」、すなわち助命であった 14 。これ以上の籠城は、忠義を尽くして戦った家臣や領民たちの命を無駄に散らすだけであると、氏邦は冷静に判断したのである 27 。これは、単なる敗北宣言ではなく、指揮官として最後まで家臣たちの命を守り抜くという、最後の務めを果たすための決断であった。降伏の意を示すため、氏邦は藤田家の菩提寺である正龍寺に入って剃髪し、城は豊臣軍に明け渡された 24 。
この鉢形城の「開城」は、わずか九日後に起こる八王子城の悲劇的な「落城」と、極めて対照的な結末を迎える。八王子城では、城主・北条氏照が小田原城にあり不在であったため、指揮系統が混乱し、わずか一日で城は陥落。城内にいた婦女子を含む多くの人々が命を落とすという惨劇が繰り広げられた 28 。この二つの城の結末の対比は、戦国末期の攻城戦において、有能な指揮官がその場に存在するか否かが、戦闘の終結形態、ひいては城内の人々の運命をいかに大きく左右したかを雄弁に物語っている。
終章:鉢形城、落日。そして伝説へ
戦後処理と将たちの転戦
開城後、北条氏邦の身柄は、交渉相手であった前田利家に預けられることとなった 24 。彼は加賀国へ移送された後、利家の家臣として1千石の知行を与えられ、慶長二年(1597年)に金沢の地でその生涯を閉じた 23 。武勇を尽くした敵将に対し、敬意をもって遇した利家の処置は、戦国の世の慣らいとして特筆される。
一方、鉢形城を無血で手に入れた攻撃軍は、休む間もなく次の目標へと再編され、転進した。
- 前田利家と上杉景勝が率いる主力部隊は南下し、六月二十三日、北条氏照の拠点である八王子城への攻撃を開始した 18 。
- 浅野長政と真田昌幸の部隊は、石田三成が攻略に手間取っていた忍城の包囲軍へと合流し、その増援となった 1 。
関東が徳川家康の所領となると、鉢形城には一時的に成瀬正一、日下部定好といった代官が置かれたが 15 、泰平の世の到来とともにその戦略的価値は失われ、やがて廃城となり、歴史の表舞台から姿を消した 7 。
戦略的総括 ― 北条氏防衛線崩壊の決定打
鉢形城の開城が、後北条氏の戦線全体に与えた影響は計り知れない。それは、上野国から武蔵国北部にかけて形成されていた関東外縁防衛線の完全な崩壊を意味した。これにより、豊臣軍は北からの脅威を完全に排除し、全戦力を小田原城の包囲、そして最後の抵抗拠点であった忍城へと集中させることが可能となった。
特に、戦略的な連鎖として見過ごせないのは、八王子城の攻略である。鉢形城を降伏させた前田・上杉の精鋭部隊が、その勢いのまま八王子城に投入された結果、この城はわずか一日で陥落した 31 。この電撃的な陥落と、それに伴う城内の婦女子の自刃といった悲惨な報は、小田原城に籠もる北条首脳陣の戦意を完全に打ち砕く、最後の心理的打撃となったのである 28 。鉢形城の粘り強い抵抗と、その後の秩序ある開城が、結果として次の目標である八王子城の悲劇を際立たせ、小田原開城への流れを決定づけたと言える。
後世への影響
北条氏邦の奮戦と、城兵の命を救った決断は、地元である埼玉県寄居町において、今なお語り継がれている。毎年五月中旬には、この攻防戦の様子を再現する「寄居北条まつり」が盛大に開催され、地域の歴史的遺産として親しまれている 12 。
城跡は現在、国指定史跡「鉢形城跡」として公園整備が進められ、園内には鉢形城歴史館も設置されている 16 。近年の発掘調査では、後北条氏の城郭に特徴的な「障子堀」や、大規模な石積土塁が確認されており 15 、かつての堅城ぶりを現代に伝えている。
鉢形城の戦いは、小田原征伐という巨大な歴史の奔流の中の一つの出来事である。しかし、その詳細を追うとき、それは豊臣政権の確立過程における軍事・政治戦略の縮図であり、また、滅びゆく戦国大名・後北条氏の武士としての矜持と、時代の変化に対応しようとした現実主義が交錯した、象徴的な戦いであったと評価できる。北条氏邦の抵抗と決断は、単なる敗者の物語ではなく、時代の転換点において、一人の優れた指揮官が示した生き様として、後世に多くの示唆を与えている。
引用文献
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- 農民あがりの秀吉には屈しない...忍城を奮戦させた“成田長親の人望” https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10231
- 小田原征伐(小田原攻め、小田原の役) | 小田原城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/25/memo/2719.html
- 埼玉県立歴史と民俗の博物館 特別展「鉢形城主 北条氏邦」をもっと楽しめる!おすすめ本5選 https://note.com/cumagus/n/n32a8f7ac15ab
- 【東京都】八王子城の歴史 悲惨な籠城戦の舞台となった関東随一の山城 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2442
- 小田原合戦 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/011/
- 鉢形城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/hachigatajo/
- 【百名城・鉢形城】戦わずして、民を守る――北条氏邦という生き方 - note https://note.com/rootsofjapan/n/n97fdcabdb824
- 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
- なぜ利家は謹慎を命じられたのか? 秀吉による天下統一と小田原北条攻め。その裏で起きていた八王子城殲滅戦 - さんたつ by 散歩の達人 https://san-tatsu.jp/articles/266857/
- <小田原北条氏の防衛戦(その22)> 北関東最後の防衛拠点 鉢形城(1/2) - 歴史ぶらり1人旅 https://rekikakkun.hatenablog.com/entry/2024/08/02/133707
- 【寄居北条まつり】豊臣秀吉による小田原征伐の際の鉢形城での攻防戦をリアルに再現 https://omatsurijapan.com/blog/yorii-hojomatsuri/
- 埼玉おもしろSPOT:凄惨な攻防戦による最後ー鉢形城(寄居町) https://www.jcp-saitama-pref.jp/etc/3524
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- 「北条氏邦」真田との因縁により、北条家滅亡の間接的な原因を作った? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/360
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- 平成30年春季企画展「鉢形城その後~開城後の鉢形城」 - 寄居町公式ホームページ https://www.town.yorii.saitama.jp/site/rekishikan/h30haru.html
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- 鉢形城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kantou/hachigata.j/hachigata.j.html
- 北条氏照と八王子城落城~天地の 清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4039
- 北条氏照敗れる 陥落した八王子城の悲劇 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2615
- 八王子城/特選 日本の城100選(全国の100名城)|ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/tokyo/hachioji-jo/
- 八王子城の概要 http://tensho18.jp/k_bsiro.html