長島一向一揆(1571~74)
長島一向一揆(1571~74年)の全貌:信仰、抵抗、そして殲滅
序章:嵐の前の伊勢長島
日本の戦国時代、数多の合戦が繰り広げられたが、その中でも織田信長と本願寺門徒との間に起こった「長島一向一揆」は、その規模、期間、そして結末の凄惨さにおいて特異な光を放っている。この戦いは単なる一地方の反乱ではなく、地理的特性、強固な信仰共同体、そして天下統一を目指す巨大権力という三つの要素が複雑に絡み合い、必然的に発生した悲劇であった。その全貌を理解するためには、まず戦いの舞台となった伊勢長島が、いかに特異な場所であったかを知る必要がある。
木曽三川が育んだ「輪中」という異界
長島一向一揆の拠点となった伊勢長島は、現代の地理感覚で捉えることは難しい。当時、この地域は木曽川、長良川、揖斐川という日本有数の大河川が伊勢湾へと注ぎ込む広大なデルタ地帯であった 1 。上流から運ばれた土砂が堆積して形成された無数の中洲や砂州が複雑に入り組み、人々は洪水から生活を守るため、集落の周りに堤防を巡らせた「輪中(わじゅう)」と呼ばれる独特の共同体を形成して暮らしていた 2 。
この地形は、長島の社会に二つの決定的な影響を与えた。第一に、天然の要害としての機能である。網の目のように流れる河川は外部からの大軍の侵攻を著しく困難にし、防衛側に圧倒的な地理的優位をもたらした 1 。第二に、地理的な孤立性が、中央権力からの干渉を受けにくい、独立性の高い自治共同体を生み出す土壌となった点である 4 。輪中という閉鎖的な空間は、内部の結束を強固にし、独自の社会秩序と文化を育む「培養器」の役割を果たした。この結果、長島は織田信長のような中央集権的な統一を目指す権力者にとって、その存在自体が許容しがたい「治外法権」エリア、すなわち一種の異界として映ったのである。地理的条件が特殊な社会を形成し、その社会構造が、やがて来る政治的・軍事的対立の根源となった。
願証寺と「進めば極楽、退けば地獄」の信仰共同体
この特異な土地に、絶大な影響力を持っていたのが、浄土真宗本願寺派の寺院、願証寺(がんしょうじ)である。文亀元年(1501年)、本願寺第8世法主・蓮如の六男である蓮淳によって創建されたこの寺は、単なる宗教施設ではなかった 5 。周辺地域の門徒を統括する中核拠点として、長島やその周辺の中洲に多数の城砦を築き、約10万石ともいわれる経済力と10万人の門徒を擁する、事実上の統治機関として君臨していたのである 4 。
彼らを精神的に支え、死をも恐れぬ強固な戦闘集団たらしめたのは、親鸞聖人が説いた「悪人正機」の教え、すなわち「すべての人は阿弥陀仏への信仰さえあれば救われる」という平等思想であった 8 。この教えは、封建的な身分制度の中で抑圧されていた農民や地侍たちの心に深く響き渡った。彼らは「講」や「惣」といった地域共同体を通じて強固に組織化され、その結束力は「進めば極楽浄土、退けば無間地獄」という信仰の下、驚異的な軍事力へと転化された 8 。
つまり、戦国時代の長島は、信仰というイデオロギーによって統治される、事実上の「宗教国家」の様相を呈していた。彼らの織田信長への抵抗は、単に領主への経済的な不満からくる一揆ではなく、自らの共同体と信仰、すなわち自分たちの生き方そのものを守るための「聖戦」であった。これこそが、戦国の覇者である織田軍が三度にわたって苦杯を嘗め、信長が最終的に「根切り」という非情な殲滅戦を選択せざるを得なかった根本的な要因なのである。
天下布武の前に立ちはだかる巨大宗教勢力・本願寺
織田信長と長島門徒の対立は、より大きな構図、すなわち信長と石山本願寺との全国規模での対立の一環であった。永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛した信長は、その権威を天下に示すため、石山本願寺に対して5,000貫という巨額の矢銭(軍用金)を要求した 10 。これは単なる金銭問題ではなかった。信長が、既存の宗教的権威を自らの世俗的権力の下に従わせようとする、明確な意思表示であった。
当初、本願寺法主・顕如(けんにょ)は要求に応じて事を穏便に済まそうとしたが、信長の圧力は止まらなかった 10 。追い詰められた顕如は、三好三人衆や浅井・朝倉氏といった反信長勢力と連携し、巨大な「信長包囲網」の一翼を担うことを決断する 10 。本願寺の蜂起は、純粋な宗教的動機からだけではなく、室町幕府体制の中で一大勢力としての地位を築いていたが故の、極めて高度な政治的判断だったのである 12 。
この文脈において、長島一向一揆は孤立した地方反乱ではない。それは、信長と本願寺による10年以上にわたる総力戦「石山合戦」における、極めて重要な「東部戦線」と位置づけられる。顕如が全国の門徒へ発した檄文は、長島の門徒たちを本願寺の壮大な全国戦略へと組み込み、信長にとっては美濃・尾張という本拠地の背後を直接脅かす、看過できない深刻な脅威となったのである 6 。
第一章:導火線 ― 弟の死と信長の怒り(元亀元年/1570年)
信長と長島門徒の対立が、単なる政治的・宗教的対立から、個人的な遺恨を含む後戻りのできない全面戦争へと発展した決定的な出来事が、元亀元年(1570年)に起こる。この年の一連の事件が、4年間にわたる血で血を洗う抗争の直接的な導火線となった。
石山本願寺、信長に宣戦布告(9月)
元亀元年(1570年)9月、摂津国で三好三人衆と対陣していた信長は、予期せぬ方向からの攻撃を受ける。石山本願寺の法主・顕如が、野田・福島城の戦いの最中に突如として反信長の兵を挙げ、全国の門徒に向けて蜂起を促す檄文を発したのである 2 。これにより、信長と本願寺の10年以上にわたる「石山合戦」の火蓋が切って落とされた。顕如の決断は、信長包囲網を完成させる最後の一ピースであり、戦国の情勢を大きく揺るがすものであった。
長島門徒の蜂起と小木江城攻撃(11月)
顕如の檄は、遠く伊勢長島にも届いた。願証寺を中心とする門徒たちはこれに熱狂的に呼応し、一斉に蜂起する 7 。彼らが最初に行動したのは、長年、門徒たちに圧政を敷いてきたとされる長島城主・伊藤重晴一族の追放であった。門徒たちは伊藤氏を追い出し、長島城を占拠、これを一揆の拠点とした 4 。
続いて、彼らの矛先は尾張国との国境に位置する織田方の最前線拠点・小木江城(こきえじょう)へと向けられた。この城を守っていたのは、信長の弟である織田信興(のぶおき)であった 4 。当時、信長本体は近江の志賀において、浅井長政・朝倉義景の連合軍と対陣中であり、身動きが取れない状況にあった(志賀の陣) 4 。弟の危機を知りながらも、信長は援軍を送ることができなかったのである。
織田信興の自刃と信長の個人的な遺恨(11月21日)
数千の一揆勢に包囲された小木江城で、信興は孤立無援のまま奮戦を続けた。しかし、兵力差は圧倒的であり、援軍の望みも絶たれていた。しばらくは持ちこたえたものの、ついに力尽き、信興は城内で自害して果てた 7 。
この報告は、信長に計り知れない衝撃と怒りをもたらした。この事件は、長島の問題を根本的に変質させた。それまでは、数ある敵対勢力の一つに対する「反乱の鎮圧」という政治的・軍事的課題であったものが、信長にとって「弟の仇討ち」という、極めて個人的で感情的な復讐戦へと変わったのである。この個人的な怒りが、後の殲滅戦における信長の常軌を逸した非情な決断を下させる、重要な心理的要因の一つとなったことは想像に難くない。信長の冷徹で合理的な戦略判断に、「根絶やしにすべし」という激情の要素が加わった瞬間であり、これが長島一向一揆の悲劇性を一層深めることになる。後の凄惨な結末への伏線は、この時に引かれたのであった 5 。
第二章:第一次侵攻 ― 泥沼の敗北(元亀二年/1571年)
弟・信興の死から約半年、信長は個人的な怒りと政治的必然性から、長島への本格的な侵攻を開始する。しかし、この最初の遠征は、織田軍の圧倒的な物量を以てしても、地形と信仰の壁に阻まれ、屈辱的な大敗に終わった。
信長の計画:五万の大軍による三方面同時攻撃(5月12日)
元亀二年(1571年)5月12日、信長は5万ともいわれる大軍を率いて岐阜城を出陣した 5 。当時、近江戦線では佐和山城の開城など織田軍優位の状況が生まれつつあり、信長はこの好機を捉えて伊勢方面の脅威を排除しようと決断したのである 17 。
作戦は、長島の複雑な地形を考慮し、複数のルートから同時に圧力をかけることで一揆勢を分断・包囲殲滅するという、織田軍の常套戦術であった。軍団は以下の三手に分かれて進軍した 4 。
- 信長本隊 :尾張国の津島に本陣を構え、全軍を統括する。
- 佐久間信盛隊 :尾張衆を中心とし、東方の中筋口から侵攻する。
- 柴田勝家隊 :美濃衆を中心とし、西方の太田口から侵攻する。
この布陣は、長島を東西から挟撃し、一気に制圧しようという信長の明確な意図を示していた。
一揆勢の迎撃:地形を熟知した神出鬼没の抵抗(5月12日~16日)
しかし、信長の計画は早々に頓挫する。一揆勢は、長島周辺に築いた十数か所の堅固な砦に立て籠もり、織田軍との正面決戦を巧みに避けた 5 。織田軍は周辺の村々に放火して威嚇するものの、無数の河川や湿地帯に進軍を阻まれ、各個撃破もままならない膠着状態に陥った 17 。
この戦いの様相は、正規軍である織田軍に対して、一揆勢が地の利を最大限に活かしたゲリラ戦を展開するという、典型的な非対称戦争であった。信長の三方面からの「面」による制圧戦略に対し、一揆勢は河川と砦という「点」の防御と、神出鬼没の奇襲という「線」の攻撃で対抗した。織田軍の圧倒的な兵力優位は、複雑な地形によって無力化され、主導権を握れないまま無為に時間を浪費させられたのである。
屈辱の撤退戦:殿軍壊滅、名将たちの死傷(5月16日)
攻略の糸口を見いだせないまま数日が経過し、信長は5月16日に一旦軍を退くことを決断した 17 。しかし、この撤退こそが一揆勢が待ち望んでいた瞬間であった。織田軍が退却を開始するや、潜んでいた門徒たちが一斉に襲いかかったのである。
彼らは、織田軍が必ず通るであろう撤退路、特に左は山、右は川という狭隘な道筋に、弓兵と鉄砲隊を巧みに配置して待ち伏せていた 2 。『信長公記』が「一騎打ちするしかないほど狭い場所」と記すほどの、絶好の狙撃地点であった 17 。殿(しんがり)として最後尾で退却を援護していた柴田勝家隊が、この集中攻撃の矢面に立たされた。猛攻の中で勝家自身も負傷し、部隊は混乱に陥った 17 。
この危機的状況で、勝家に代わって殿の指揮を執ったのが、美濃三人衆の一人として名高い勇将・氏家卜全(直元)であった。しかし、一揆勢の勢いは凄まじく、卜全はこの乱戦の中で奮戦虚しく討ち死にしてしまった 17 。織田軍にとって、宿老クラスの有力武将を失うという、計り知れない損害であった。
この手痛い敗北は、信長に二つの重要な戦略的教訓を刻み込んだ。第一に、長島攻略には陸からの力押しだけでは不十分であり、桑名方面から海路で雑賀衆などの援軍や物資が補給される以上、水路を完全に封鎖するための強力な「水軍」が不可欠であること 17 。第二に、長島の一揆勢が単なる狂信的な農民の集団ではなく、地形を利用した高度な戦術を駆使する、統制の取れた恐るべき軍事組織であること 17 。この屈辱的な失敗の分析が、後の第二次、そして最終的な第三次侵攻の作戦計画を、より周到かつ冷酷なものへと変えていくことになるのである。
第三章:第二次侵攻 ― 焦燥と頓挫(天正元年/1573年)
第一次侵攻の惨敗から2年、織田信長は天下の情勢が自身に有利に傾いたことを好機と捉え、再び長島へ牙を剥いた。前回の失敗を教訓に戦略を転換して臨んだものの、決定的な詰めの甘さが露呈し、またしても長島を攻略しきれずに撤退を余儀なくされる。
信長包囲網の崩壊と再征の好機(8月~9月)
天正元年(1573年)は、信長にとって飛躍の年であった。7月には将軍・足利義昭を京から追放して室町幕府を事実上滅亡させ、8月には長年の宿敵であった越前の朝倉義景と近江の浅井長政を相次いで滅ぼした 21 。これにより、彼を苦しめ続けた信長包囲網はほぼ瓦解し、背後の憂いを断った信長は、ついに長島に全戦力を集中できる絶好の機会を手にしたのである。
また、第一次侵攻後、長島に近い北伊勢の国人や土豪たちが一揆勢に呼応して織田方から離反する動きを見せており、これを放置すれば北伊勢全体の支配が揺らぎかねないという政治的な焦りも、信長を再度の出兵へと駆り立てた 4 。
戦略転換:周辺拠点からの切り崩し(9月24日~10月)
9月24日、信長は数万の軍勢を率いて北伊勢へ出陣した。今回は第一次侵攻の失敗を深く反省し、長島本体への無謀な直接攻撃を避けた。その代わりに、まずは外堀を埋めるように、長島に与する周辺の城砦群を一つずつ確実に攻略していくという、より現実的な作戦に切り替えたのである 2 。
この作戦は当初、順調に進んだ。9月26日には佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀らが西別所城を攻め落とし 17 、10月6日には柴田勝家、滝川一益らが坂井城を攻略、降伏させた。続けて近藤城も陥落させると、その勢いに恐れをなした萱生城や伊坂城、赤堀城など多くの城が戦わずして降伏した 2 。信長は着実に長島を孤立させていった。
大湊の誤算:水軍なき包囲の限界
しかし、作戦は最終段階で壁にぶつかる。周辺拠点の制圧には成功したものの、長島本体を海上から完全に封鎖するために不可欠な水軍の調達に失敗したのである 2 。伊勢湾の海運を掌握していた大湊の船主たちが、信長への協力を拒んだ、あるいは密かに一揆側に与していたため、十分な数の船を集めることができなかった 17 。
この誤算は致命的であった。水軍による海上封鎖がなければ、長島への兵糧や兵員の補給ルートを完全に断つことはできず、力攻めも兵糧攻めも中途半端にならざるを得ない。この一件は、戦国時代の戦争が単なる陸上兵力の衝突だけでなく、兵站、特に水上輸送路の確保(制海権)がいかに重要であるかを信長に改めて痛感させた。後に信長は、協力しなかった船主たちを「曲事である」として厳しく処罰し、見せしめとすることで、長島への補給ルートを断つことの絶対的な重要性を伊勢の海運業者たちに知らしめた 17 。この苦い経験こそが、第三次侵攻における九鬼嘉隆率いる水軍の全面的な動員と、鉄壁の海上封鎖作戦へと直結するのである。
雨中の退却路:再び牙を剥く一揆勢(10月25日)
長島本体の攻略を断念した信長は、10月25日、大垣城への撤退を開始した。しかし、そこには第一次侵攻の悪夢の再現が待っていた。一揆勢は織田軍の撤退ルートである多芸山などに巧みに兵を潜ませ、退却する織田軍の側面を突いた 17 。
さらに不運なことに、この日は激しい雨が降りしきっていた。これにより、織田軍が最も得意とする鉄砲隊は、火縄が湿ってしまい全く機能しなくなった 17 。隘路での奇襲と鉄砲の無力化という最悪の条件が重なり、織田軍は乱戦の中、白兵戦で血路を開くしかなくなった。この戦いで殿を務めた林秀貞の部隊は甚大な被害を受け、秀貞の子である林通政が討ち死にするという痛手を被った 17 。二度にわたる侵攻は、いずれも敵の術中にはまった形での撤退戦となり、信長のプライドを深く傷つけたのであった。
【挿入表1:長島一向一揆 三次侵攻比較表】
項目 |
第一次侵攻(元亀二年/1571年) |
第二次侵攻(天正元年/1573年) |
第三次侵攻(天正二年/1574年) |
時期 |
5月12日~16日 |
9月24日~10月26日 |
7月13日~9月29日 |
織田軍兵力 |
約5万 |
数万 |
約8万 |
主要武将 |
織田信長、柴田勝家、佐久間信盛、氏家卜全 |
織田信長、柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益 |
織田信長、織田信忠、ほぼ全宿老(九鬼嘉隆含む) |
作戦概要 |
三方面からの本体直接攻撃 |
周辺城砦の制圧による外堀からの切り崩し |
陸海からの完全包囲と兵糧攻め、殲滅 |
一揆勢の対応 |
籠城と、撤退路での待ち伏せ攻撃 |
籠城と、撤退路での待ち伏せ攻撃 |
5つの砦に分かれて籠城、餓えに耐えかね降伏 |
結果と損害 |
織田軍の惨敗。氏家卜全戦死、柴田勝家負傷。 |
攻略頓挫。林通政戦死。 |
一揆勢の完全壊滅(死者2万人以上)。織田方も信広、秀成ら一門衆が戦死。 |
第四章:最終侵攻 ― 殲滅戦「根切り」(天正二年/1574年)
二度の苦杯を嘗めさせられた信長の怒りと執念は、天正二年(1574年)、ついに臨界点に達した。三度目となるこの侵攻は、もはや「攻略」や「鎮圧」を目的とした合戦ではなかった。それは、信長の持ちうる全ての軍事力と冷徹な合理主義を注ぎ込み、長島という存在そのものを地上から抹消するための、計画的かつ徹底的な殲滅戦、すなわち「根切り」であった。
【挿入表2:天正二年 殲滅戦 詳細年表】
日付(天正二年) |
織田軍の動き |
一揆勢の動き・状況 |
7月13日 |
信長、岐阜を出陣。 |
篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島の5砦に籠城準備。 |
7月14日 |
陸路三方面(香取口、市江口、早尾口)より総攻撃開始。 |
各所で防戦。 |
7月15日 |
九鬼嘉隆らの水軍が到着。海上からの包囲網が完成。 |
完全に孤立。補給路を絶たれる。 |
8月2日夜 |
- |
大鳥居砦の門徒が暴風雨に乗じ脱出図るも、追撃され千人死亡。 |
8月3日 |
大鉄砲なども使用し、大鳥居砦を陥落させる。 |
生き残りは他の砦へ逃げ込む。 |
8月12日 |
篠橋砦を陥落させる。 |
残る長島・屋長島・中江の3砦に全戦力が集結。 |
8月中旬~9月下旬 |
厳重な包囲を維持し、兵糧攻めを徹底。 |
城内で餓死者が続出。半数以上が死亡したとの記録も。 |
9月29日 |
長島城からの降伏申し出を受諾するも、退去する門徒を騙し討ちで虐殺。 |
騙し討ちに激昂した7-800人が決死の突撃を敢行。 |
9月29日夜 |
屋長島・中江の2砦を幾重の柵で囲み、四方から放火。 |
籠城していた約2万の男女が全員焼死。一揆終結。 |
第一節:包囲網の完成(7月)
天正二年(1574年)6月23日、信長は尾張津島へ出陣した 25 。この遠征には、過去二度の失敗を繰り返さぬという鉄の意志が貫かれていた。越前の羽柴秀吉、畿内の明智光秀など、戦略上動かせない一部の将を除き、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、滝川一益といった織田軍団のほぼ全ての宿老が、長男の信忠と共に動員された 4 。その総兵力は8万とも10万とも言われる、まさに織田家の総力を結集したものであった 2 。
7月14日、信長は軍勢を三手に分け、陸路からの総攻撃を開始した 2 。
- 香取口(北西) :柴田勝家、佐久間信盛、稲葉一鉄ら
- 市江口(北東) :織田信忠、信包、池田恒興、森長可ら
- 早尾口(北) :信長本隊、丹羽長秀、佐々成政、前田利家ら
そして翌15日、この作戦の成否を握る最後のピースがはめられた。前回の失敗の教訓から周到に準備された、滝川一益、九鬼嘉隆らが率いる数百艘の大船団が伊勢湾から到着し、長島周辺の水路を完全に封鎖したのである 2 。陸と海から、文字通り蟻の這い出る隙間もない鉄壁の包囲網が完成した。これにより、一揆勢は外部からの兵員・兵糧の補給を完全に断たれ、巨大な牢獄に閉じ込められたも同然となった。対する一揆勢は、長島城、篠橋城、大鳥居城、屋長島城、中江城の五つの主要な砦に分かれて籠城し、絶望的な戦いに備えた 2 。
第二節:砦の陥落と兵糧攻め(8月)
包囲網の完成後、織田軍は圧倒的な火力で各個撃破を開始した。特に大鳥居砦に対しては、大鉄砲(大筒)が用いられ、その砲撃は砦の櫓や塀を物理的に粉砕し、一揆勢の士気を打ち砕いた 7 。
8月2日の夜、暴風雨に乗じて大鳥居砦から決死の脱出を試みた門徒約千人が、待ち構えていた織田軍の追撃を受け、老若男女の区別なく斬り殺された 7 。そして翌3日、大鳥居砦は陥落。さらに12日には篠橋砦も織田軍の手に落ちた 4 。
二つの砦を失った一揆勢の生き残りは、残る長島、屋長島、中江の三つの砦へと雪崩れ込むように逃げ込んだ 4 。信長はこれを好機と判断し、無用な損害を出す力攻めから、より確実で残酷な兵糧攻めへと戦術を移行した。三つの砦はさらに厳重に包囲され、食料の搬入は完全に途絶えた。約一ヶ月半にわたる包囲の中、砦内では食料が完全に尽き、人々は草木の根を食らい、やがて餓死者が続出する地獄絵図と化したと記録されている 4 。一揆勢の半数以上が、戦闘ではなく飢えによって命を落としたともいわれる。
第三節:裏切りの降伏と最後の抵抗(9月29日)
9月下旬、飢餓が極限に達した本城・長島城の門徒たちは、ついに城内の人々の助命を条件に降伏を申し入れた 7 。信長は、表向きこれを承諾した。
しかし、これは信長が周到に仕掛けた罠であった。9月29日、降伏した門徒たちが安堵して船に乗り、長島から退去しようとしたその瞬間、信長の合図一下、岸辺に伏せさせていた鉄砲隊が一斉に火を噴いた 4 。約束を反故にした、計画的な騙し討ちであった。逃げ場のない船上の人々は次々と撃ち殺され、川は瞬く間に血で赤く染まった。
この裏切りに、もはや生きては帰れぬと悟った門徒たちが激昂した。生き残った700から800人の男たちは、着ていたものを脱ぎ捨てて裸になると、刀一本を手に、死を覚悟して織田軍の陣営へ最後の突撃を敢行した 4 。この捨て身の攻撃は凄まじく、油断していた織田軍に多大な被害を与えた。この乱戦の中で、信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成、叔父・織田信次、従兄弟・織田信成といった信長の一族や、馬廻り衆の有力武将が数多く討ち取られたのである 2 。
第四節:劫火の終焉
目前で一族の者たちを討たれた信長の怒りは、ついに頂点に達した 4 。もはや彼に慈悲の心は一片も残されていなかった。
信長は、残る屋長島と中江の二つの砦の周囲に、幾重にも柵を築かせ、一人たりとも逃げ出せないよう完全に封鎖するよう命じた 4 。そして、準備が整うと、四方から一斉に火を放たせた。砦の中に籠もっていた女性や子供を含む約2万の人々は、逃げ場を失い、阿鼻叫喚の地獄の中で生きたまま焼き殺されたと伝えられている 4 。
この常軌を逸した殲滅戦は、単なる激情によるものではない。そこには信長の冷徹な政治的計算があった 35 。第一に、他の宗教勢力、特に越前の一向一揆や高野山に対し、織田信長に抵抗すればどのような運命を辿るかを、これ以上ないほど強烈に示す「見せしめ」の効果。第二に、中途半端な和睦では再蜂起の火種が残るため、物理的に根絶やしにすることで後顧の憂いを完全に断つという「脅威の根絶」。そして第三に、抵抗勢力との共存や懐柔にかかる統治コストよりも、一度更地にして信頼できる直臣に支配させる方が、長期的には安定し効率的であるという「統治コストの削減」の論理である。これは、中世的な権力の多元性を断固として否定し、近世的な一元的支配体制を構築するための、非情かつ合理的な選択だったのである 36 。
第五章:灰燼の跡に ― 戦後処理と歴史的遺産
4年間にわたる壮絶な戦いの末、長島は文字通り灰燼に帰した。この徹底的な殲滅戦の後、信長はこの地をどのように再編し、この事件は戦国史にどのような影響を与えたのであろうか。
新領主・滝川一益の統治
一揆鎮圧後、信長は論功行賞として、この戦いで水軍を率いるなど多大な功績を挙げた宿老・滝川一益に、長島城と北伊勢の大部分を与え、新たな領主とした 17 。一益は、信長の最も信頼する家臣の一人であり、鉄砲隊の指揮や外交交渉など、軍事・行政の両面で高い能力を発揮した人物であった 39 。
一益が長島の支配者となったことは、この地域の支配体制が根本的に転換したことを象徴している。かつての信仰に基づく宗教的自治共同体は物理的に完全に破壊され、その跡地に、信長という中央権力に直結した家臣による、直接的かつ強力な軍事・行政支配体制が樹立されたのである 42 。これは、この地域が中世的な分権社会から、近世的な中央集権体制へと、武力によって強制的に移行させられた瞬間であった。一益は長島を拠点として、織田政権の東方、特に関東の北条氏に対する押さえという、重要な戦略的役割を担っていくことになる 38 。
「宗教との戦争」の時代の転換点
長島一向一揆の凄惨な結末は、全国に散在する本願寺の門徒勢力に計り知れない衝撃と恐怖を与えた。信長に逆らえば、女子供に至るまで根絶やしにされるという現実は、彼らの抵抗の意志を大きく削いだ。この事件を境に、加賀や越前で見られたような、一国を揺るがすほどの大規模な宗教一揆は次第に下火になっていく 4 。
この戦いは、戦国大名と宗教勢力との関係性における画期的な出来事であった。それまで宗教勢力は、時には交渉相手、時には同盟相手として、大名権力と並び立つ存在であった。しかし長島での殲滅戦は、織田信長が、自らの支配体制に組み込まれない宗教的権威の独立を一切認めないという断固たる姿勢を示したものであった。かつて徳川家康が三河一向一揆に苦しめられた経験から、その後の宗教政策を厳しくしたように 23 、信長もまた、この4年間の戦いを通じて、宗教勢力は支配体制に統合すべきか、さもなくば殲滅すべき対象であるという、明確な統治哲学を確立したのである。
長島一向一揆が戦国史に刻んだもの
現在、かつて願証寺があったとされる地には「長島一向一揆殉教之碑」が建立され、この戦いで命を落とした数万の人々を追悼している 4 。この碑は、信仰のために立ち上がり、そして無残に散っていった人々の記憶を静かに今に伝えている。
長島一向一揆は、織田信長の「天下布武」という事業が、単なる領土拡大競争ではなく、既存の社会構造や価値観、権威を根底から覆す、一種の「革命」であったことを生々しく物語っている 23 。信長がこの戦いで見せた、降伏を許さず、非戦闘員をも巻き込む徹底的な殲滅戦術は、彼の「第六天魔王」としてのイメージを決定づけると共に、目的達成のためにはいかなる手段も厭わない、冷徹な合理主義者としての一面を後世に強く印象付けた 4 。この戦いの勝利により、信長は本拠地の背後にある最大の脅威を取り除き、天下統一への道をさらに大きく前進させたのであった。
結論:長島一向一揆とは何だったのか
長島一向一揆とは、一体何だったのか。それは、単なる戦国時代の一合戦として片付けることのできない、多層的な意味を持つ歴史的事件である。
第一に、それは 信仰に支えられた強固な自治共同体が、自らの存続をかけて巨大な統一権力に挑んだ、4年間にわたる壮絶な抵抗の記録 である。伊勢長島の門徒たちは、河川に囲まれた輪中という特異な地理的条件と、「進めば極楽、退けば地獄」という浄土真宗の強固な信仰を拠り所として、事実上の独立国家を築いていた。彼らの戦いは、自分たちの生活、共同体、そして信仰そのものを守るための、絶望的でありながらも誇り高い闘争であった。
第二に、織田信長にとって、この戦いは 天下統一の過程で避けては通れない、旧体制の象徴との決戦 であった。信長の目指す「天下布武」とは、武家、公家、そして寺社勢力といった、中世以来の多元的な権力構造を破壊し、自らを頂点とする一元的な支配体制を確立することに他ならなかった。その意味で、治外法権的な自治を享受する長島の宗教共同体は、彼の理想の実現を阻む最大の障害の一つであった。
そして、その凄惨な結末である「根切り」は、信長の非情さや残虐性を示す逸話として語られることが多いが、本質的には 新しい時代を築くためには古い秩序を完全に破壊し尽くすという、彼の統治哲学の最も純粋で、最も恐ろしい発露 であった。それは、個人的な復讐心に端を発しながらも、最終的には極めて冷徹な政治的・軍事的合理性に基づいて下された決断であった。この戦いを経て、宗教勢力はもはや大名と対等に渡り合う存在ではなくなり、世俗権力の下に組み込まれるべき対象へとその地位を転落させていく。長島で流された数多の血は、日本の歴史が中世から近世へと大きく舵を切る、その転換点に流された血でもあったのである 23 。
引用文献
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- 【解説:信長の戦い】長島一向一揆(1571・73・74、三重県桑名市) 殲滅までに再三の出陣を要した信長の天敵! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/337
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