長浜の戦い(1563)
長浜の戦い(1563)は、長宗我部元親が「姫若子」から「鬼若子」へと覚醒した初陣。本山氏との激戦を制し、智略と武勇で朝倉城を放棄させ、土佐中央部の覇権を確立。土佐統一への礎を築いた。
土佐の覇権を賭けて:長浜・朝倉城合戦(1560-1563)- 「姫若子」から「鬼若子」へ、長宗我部元親の覚醒と土佐統一への道程
序章:雌伏の時 - 長宗我部氏と本山氏、決戦前夜の土佐情勢
戦国時代の土佐国(現在の高知県)は、中央の権力が及ばぬ辺境の地にあって、長らく群雄割拠の状態が続いていた。応仁の乱以降、守護であった細川氏の権威が失墜すると、「土佐七雄」と称される有力な国人領主たちが台頭し、互いに鎬を削っていたのである 1 。その中でも、土佐中央部から北部山間地帯に広大な領地を有した本山氏は、土佐国司という別格の存在であった一条氏を除けば、随一の勢力を誇っていた 3 。
一方、長宗我部氏は、かつては本山氏と並ぶ有力国人であったが、一度は滅亡の淵に立たされた過去を持つ。長宗我部国親(元親の父)の代になって、土佐西部の覇者である一条氏の庇護のもと、ようやく旧領の岡豊城(おこうじょう)に復帰し、雌伏の時を経て再び勢力を拡大しつつある新興勢力であった 4 。
この両家は、複雑な関係性で結ばれていた。元来、領土を巡る宿敵であったが、一条氏の仲介によって和睦が成立。長宗我部国親の娘が、本山氏の当主・本山茂宗(梅慶)の子である茂辰(しげとき)に嫁ぐという婚姻同盟を締結し、一時の平穏が訪れていた 3 。しかし、この同盟は勢力均衡を目的とした政略の産物であり、その基盤は極めて脆弱であった。本山茂辰は土佐吉良氏を滅ぼして吾川郡を手中に収め 7 、長宗我部国親もまた周辺の豪族を次々と傘下に収めるなど 4 、両者の膨張志向が土佐中央部の覇権を巡って衝突するのは、もはや時間の問題であった。
この決戦前夜ともいえる永禄3年(1560年)、長宗我部氏の嫡男・元親は数え22歳になっていた。長身で色白、物静かな性格であったことから、家臣団からは「姫若子(ひめわこ)」と揶揄され、武将としての器量を疑問視する声も少なくなかった 1 。しかし、その内面では『孫子』や『呉子』といった兵法書を耽読し、静かに時代の到来を待つ知略家としての一面を秘めていたのである 10 。
そして、永禄3年5月、両家の間に横たわる薄氷の平和は、一つの事件によって砕け散る。本山茂辰が配下の兵に命じ、長宗我部氏が種崎城へ船で輸送中であった兵糧を、浦戸湾上にて強奪させたのである 13 。この行為は、単なる偶発的な小競り合いではなかった。それは、勢力拡大に自信を深めた本山茂辰による、長宗我部氏の勢力圏と経済的生命線に対する意図的な挑戦であり、明確な敵対行為であった。婚姻同盟という名の fragile な均衡は、両者の膨張圧力が限界に達したことで、必然的に破綻を迎えた。土佐の歴史を大きく動かすことになる決戦の火蓋は、こうして切られたのである 2 。
第一部:永禄三年(1560年)長浜の戦い - 鬼若子、初陣に臨む
第一章:緒戦 - 長宗我部国親による長浜城電撃攻略
浦戸湾における兵糧強奪の報は、岡豊城の長宗我部国親を激怒させた。国親の決断は迅速かつ果断であった。彼は即座に報復を決意し、本山方の最前線拠点であり、浦戸湾の西岸に位置する長浜城への奇襲攻撃を計画した 13 。
『土佐物語』などの軍記物によれば、国親は夜陰に乗じて軍を動かし、長浜城へ電撃的な奇襲を敢行したとされる。この攻撃は「夜討ち」と呼ばれ、不意を突かれた長浜城の守備兵は混乱に陥り、城は瞬く間に陥落した 16 。城主であった大窪美作守をはじめとする城兵は、命からがら本拠である朝倉城へと敗走し、主君・本山茂辰に急を報じた 13 。長宗我部氏の素早い反撃は、本山方に大きな衝撃を与え、両者の全面対決は避けられないものとなった。
第二章:戸ノ本の激突 - リアルタイムで追う決戦の推移
長浜城陥落の報を受けた本山茂辰は、ただちに城の奪還を決意。自ら2,500と号する大軍を率いて、朝倉城から出陣した 17 。これに対し、長宗我部国親は陥落させたばかりの長浜城に兵を入れ守りを固めつつ、その北方に位置する戸ノ本(とのもと)の地に約1,000の兵を展開し、本山軍を迎え撃つ態勢を整えた 17 。両軍の戦力差は歴然であり、長宗我部方にとっては極めて不利な状況下での決戦であった。
【表1】戸ノ本の戦い 両軍兵力比較表
項目 |
長宗我部軍 |
本山軍 |
総大将 |
長宗我部国親 |
本山茂辰 |
主要武将 |
長宗我部元親、長宗我部親貞、秦泉寺豊後 |
(茂辰が直接指揮) |
総兵力 |
約1,000名 |
約2,500名 |
兵力比 |
1 |
2.5 |
戦場 |
戸ノ本(現 高知市長浜) |
戸ノ本(現 高知市長浜) |
永禄3年5月28日、両軍は戸ノ本の地で対峙した 15 。戦端が開かれると、本山軍は2.5倍という兵力的優位を活かして猛攻を仕掛け、長宗我部軍を徐々に圧迫していった。長宗我部軍は必死の防戦を続けるものの、多勢に無勢であり、戦況は本山方優位のまま推移し、戦線は膠着状態に陥った。兵の消耗は激しく、このままでは敗北は時間の問題かと思われた。
この絶望的な戦況の中、一人の若武者が歴史の表舞台に躍り出る。長宗我部元親、その人である。当時22歳にして、これが生涯初の戦いであった。伝承によれば、元親は出陣に際して、重臣の秦泉寺豊後に「槍はいかに使えばよいのか」と尋ね、「ただ敵の目と鼻を突くように心得られよ」と教えを受けたという逸話が残っている 11 。父・国親は元親の身を案じ、後方に控えるよう命じたが、元親はそれを良しとせず、わずか20騎(一説には50騎)の手勢を率いて、自ら戦場の渦中へと向かった 17 。
戦場に立った元親の行動は、凡百の初陣の武者とは全く異なっていた。彼は自ら槍を手に取ると、率いる少数精鋭の騎馬隊を駆り、敵兵が密集する只中へと猛然と突撃を敢行したのである 1 。彼の狙いは、敵の兵卒を討ち取ることではなかった。その視線はただ一点、敵軍の総大将・本山茂辰が構える本陣のみに向けられていた。これは、単なる若武者の功名心に駆られた無謀な突撃ではない。兵力で圧倒的に劣る側が勝利を掴むための、最も合理的かつ唯一の戦術、すなわち「一点集中突破による敵指揮系統の破壊」を、元親は本能的に、あるいは兵法書で学んだ通りに実行したのである。
この予期せぬ一点突破戦術は、優勢に油断していた本山軍の陣形に楔を打ち込み、深刻な混乱を引き起こした。総大将である茂辰の身に危険が迫ったことで、前線で戦っていた兵卒たちの間に動揺が広がり、統制は急速に失われていった。元親の突撃という一つの「特異点」が、戦全体の力学を根底から覆した瞬間であった。
指揮系統を麻痺させられた本山軍は、もはや組織的な抵抗力を失い、総崩れとなって浦戸城を目指して敗走を始めた 18 。長宗我部軍はこの好機を逃さず、猛然と追撃を開始し、この戸ノ本の戦いにおいて決定的かつ奇跡的な勝利を収めたのである。
第三章:勝利の余波 - 潮江城無血奪取と国親の死
戸ノ本の戦いで勝利を収めた長宗我部軍の士気は天を衝く勢いであった。中でも、初陣で獅子奮迅の働きを見せた元親の興奮は最高潮に達していた。彼は勝利の余勢を駆り、父・国親や老臣たちの制止を振り切って、本山方の支城である潮江城への進軍を独断で決行する 14 。
老臣たちは、連戦による兵の疲労を理由に無謀であると諌めたが、元親は戦場の空気から「城内に人はおらず。急ぎ攻め入れ」と看破し、進撃を命じた 20 。彼の言葉通り、潮江城は戸ノ本での敗報に動揺した守兵がすでに逃げ去った後であり、もぬけの殻であった。元親は一兵も損なうことなく、この重要拠点を手中に収めたのである 23 。
この一連の、常人の理解を超えた戦功と洞察力は、元親に対する家中の評価を一変させた。これまで彼を侮っていた者たちも、その神がかり的な活躍を目の当たりにし、畏敬の念を抱くようになった。かつての「姫若子」という嘲笑的なあだ名は消え去り、人々は彼を「鬼若子」、そして「土佐の出来人(並外れた人物)」と呼び、畏怖するようになった 11 。なお、この長浜の戦いは、元親の弟である親貞にとっても初陣であり、兄弟そろって武名を上げた記念すべき戦いとなった 14 。
しかし、この輝かしい勝利の直後、長宗我部家に悲報がもたらされる。同年6月、激戦の心労がたたったのか、父・国親が病に倒れ、帰らぬ人となったのである 1 。国親は死の床で元親を呼び寄せ、「本山を駆逐することが、亡き父への一番の供養であると心に刻め」という遺言を託したと伝えられている 2 。享年22歳、長宗我部元親は父の遺志と土佐統一という重責をその双肩に担い、長宗我部家の家督を相続することとなった。
第二部:永禄五年~六年(1562-1563年) - 朝倉城を巡る攻防
第四章:膠着と再燃 - 元親の勢力拡大と朝倉城への圧力
家督を継いだ元親は、父・国親の遺言通り、宿敵・本山氏の打倒を最優先課題とした。彼は戸ノ本の戦いの勝利に満足することなく、本山氏の本拠地である朝倉城に対し、執拗な圧力をかけ続けた。まず、朝倉城の周辺に点在する支城を一つ一つ攻略し、本山茂辰を徐々に孤立させる戦略をとった 1 。さらに永禄4年(1561年)には、敵の領地内の作物を刈り取って兵糧を断つ「麦薙(むぎなぎ)」と呼ばれる戦術を実施し、本山氏の経済的基盤を着実に揺るがしていった 26 。
そして永禄5年(1562年)9月16日、機は熟したと判断した元親は、3,000の兵を動員して朝倉城への総攻撃を開始した 11 。しかし、この戦いは元親の思惑通りには進まなかった。本山茂辰の嫡男・親茂(ちかしげ、当初は貞茂)が、父をも凌ぐと評された武勇を発揮し、城兵を鼓舞して奮戦したのである 28 。親茂の見事な采配と抵抗の前に、攻め寄せた長宗我部軍は大きな損害を出し、一時的に神田城まで押し返されるという手痛い敗北を喫した 18 。
続く9月18日、両軍は城外の鴨部の宮前にて再び激突した。この戦いは凄惨を極め、本山方は一族郎党を含め343人、長宗我部方に至っては511人もの死者を出す壮絶な消耗戦となったが、ついに決着はつかなかった 26 。1560年の勝利の勢いに乗り、力で押し切れると考えていた元親の攻勢は、本山親茂という若き勇将の抵抗と、朝倉城の堅固な守りの前に頓挫した。この大きな損害と戦線の膠着は、元親に「力押しだけでは本山氏は屈しない」という重要な教訓を与えた。これ以降、彼の戦術は、より狡猾な「智略」へと大きく舵を切ることになる。
第五章:智略戦 - 長宗我部元親の調略と本山氏の内部崩壊
朝倉城での力攻めに失敗した元親は、武力による正面突破を一旦諦め、より陰湿かつ効果的な戦術へと転換した。それは、本山氏の内部に直接働きかけ、その結束を内側から崩壊させる「調略」であった 8 。
元親は密使を送り、本山氏の家臣たちに対して巧みな説得と有利な条件を提示し、寝返りを促した。長宗我部氏の勢いが日に日に増す一方で、主家である本山氏の衰退が明らかになるにつれて、この調略は絶大な効果を発揮した。将来を見限り、元親のもとへ馳せ参じる本山家臣が続出したのである 1 。
相次ぐ家臣の離反は、朝倉城内に深刻な疑心暗鬼の渦を巻き起こした。「味方同士で互いを疑う」という末期的な状況に陥り、城兵の士気は著しく低下し、厭戦気分が城内全体に蔓延した 27 。もはや本山茂辰は、かつてのように家臣団を一つにまとめ、城を維持することが極めて困難な状況に追い込まれていった。
第六章:決着 - 永禄六年一月、朝倉城の放棄
永禄6年(1563年)1月10日、本山茂辰はついに苦渋の決断を下す。家臣団の離反と士気の崩壊により、これ以上の籠城は不可能と判断した彼は、自ら朝倉城に火を放ち、先祖伝来の本拠地である山間部の本山城へと撤退したのである 8 。『土佐物語』は、この行動を長宗我部氏との和睦を探るための最後の手段であったと記しているが 26 、事実上、これは土佐中央平野部の覇権を長宗我部氏に明け渡すことを意味していた。
土佐中央部の政治・軍事における最重要拠点であった朝倉城を失ったことで、本山氏の勢力は決定的に衰退した。この出来事をもって、長宗我部元親は仁淀川以東の土佐中部を完全にその支配下に置き、父の代からの悲願であった土佐統一へ向けて、大きな一歩を記したのである。利用者様が当初の照会で言及された「1563年、長宗我部元親が本山氏を破り土佐統一へ前進」という歴史的認識は、まさにこの朝倉城放棄という決定的な出来事を指すものである。
終章:合戦の歴史的意義と後世への影響
永禄3年(1560年)の「長浜の戦い」から永禄6年(1563年)の「朝倉城放棄」に至る一連の抗争は、長宗我部氏の、ひいては土佐国の歴史における画期的な出来事であった。それは、単に一つの合戦の勝敗を決したに留まらず、長宗我部元親という一人の武将の評価を不動のものとし、土佐の勢力図を塗り替える決定的な転換点となった。
この勝利により、長宗我部氏が土佐中央部における覇権を確立したことで、残る敵対勢力は東の安芸国虎と西の一条兼定のみとなった。これは、その後の土佐統一事業、すなわち永禄12年(1569年)の「八流の戦い」による安芸氏滅亡、そして天正3年(1575年)の「四万十川の戦い」による一条氏放逐への明確な道筋をつけるものであった 1 。
一方、敗れた本山氏は衰退の一途を辿る。朝倉城放棄後も、茂辰は同年5月に起死回生を狙って岡豊城への奇襲を試みるが失敗に終わる 11 。翌永禄7年(1564年)には本山城をも放棄し、最後の拠点である瓜生野城へ後退するが、同年に失意のうちに病死したと伝えられる(異説あり) 7 。跡を継いだ勇将・親茂も粘り強く抵抗を続けたが、衆寡敵せず、永禄11年(1568年)に元親に降伏。ここに、長年にわたる両家の宿縁に終止符が打たれた 1 。
特筆すべきは、元親がこの宿敵を根絶やしにしなかった点である。彼は、朝倉城で自らを苦しめた本山親茂の武勇を高く評価し、これを許して家臣として迎え入れた。これは単なる温情ではなく、土佐統一後の国人衆統治を見据えた、極めて高度な政治的判断であった。敵対勢力の有用な人材を自軍に組み込むことで、無用な遺恨を残さず、効率的に自らの戦力を増強するという、元親の現実主義的な戦略眼が窺える。
また、この一連の戦いは、長宗我部軍団の強さの源泉であった「一領具足(いちりょうぐそく)」の戦術的有効性を世に知らしめた戦いでもあった。平時は田畑を耕し、戦となれば一領の具足を身につけ馳せ参じる半農半兵の彼らは、特に短期決戦における突撃能力と郷土防衛にかける士気の高さにおいて、他の追随を許さなかった 21 。
「姫若子」が「鬼若子」へと覚醒したこの戦いは、長宗我部元親の土佐統一、さらには四国制覇という壮大な夢の、まさに序章だったのである。
【表2】長宗我部氏対本山氏 抗争年表(1560年~1568年)
年月 |
出来事 |
関連資料 |
永禄3年 (1560) 5月 |
本山氏による兵糧強奪。国親が長浜城を攻略。 戸ノ本の戦い で元親が初陣、長宗我部軍が勝利。元親が潮江城を奪取。 |
13 |
永禄3年 (1560) 6月 |
長宗我部国親が病死。元親が家督を相続。 |
1 |
永禄4年 (1561) |
元親、朝倉城周辺の支城を攻略。麦薙を実施。 |
11 |
永禄5年 (1562) 9月 |
元親、朝倉城を総攻撃するも本山親茂の奮戦により敗退。鴨部の宮前で激戦、引き分けに終わる。 |
27 |
永禄6年 (1563) 1月 |
元親の調略により内部崩壊した本山茂辰、 朝倉城を自焼し本山城へ撤退 。 |
8 |
永禄6年 (1563) 5月 |
本山茂辰、起死回生を狙い岡豊城を奇襲するも失敗。 |
11 |
永禄7年 (1564) |
本山茂辰、本山城を放棄し瓜生野城へ後退。同年に病死(異説あり)。 |
8 |
永禄11年 (1568) |
抵抗を続けていた本山親茂が元親に降伏。 |
11 |
引用文献
- あと一歩” のところで果たされなかった! 土佐の武将・長宗我部元親 ... https://sengoku-his.com/768
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- 長宗我部元親の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8098/
- 【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 https://shirobito.jp/article/1562
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- これぞ戦国時代!信長、秀吉らの思惑に翻弄された四国の覇者・長宗我部元親の人生【前編】 https://mag.japaaan.com/archives/212139
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