最終更新日 2025-08-25

長篠・設楽原の戦い(1575)

天正三年、織田・徳川連合軍は長篠・設楽原で武田勝頼と激突。鳥居強右衛門の忠義と信長の馬防柵・鉄砲戦術が功を奏し、武田軍は壊滅。戦国最強武田家の落日を決定づけた。

天正三年 長篠・設楽原の戦い-戦史の転換点、その虚実と深層-

序章:通説の向こう側へ

天正三年(1575年)五月二十一日、三河国設楽原。この地で繰り広げられた織田・徳川連合軍と武田軍の激突、すなわち「長篠・設楽原の戦い」は、日本の戦史における一大転換点として、後世に語り継がれてきました。その一般的なイメージは、極めて明快です。武田勝頼率いる無敵の「騎馬軍団」が、織田信長の考案した革新的な「鉄砲三段撃ち」と馬防柵の前に為す術なく殲滅された、という旧来の戦術と新戦術の対決の構図です 1

しかし、近年の歴史研究の進展は、このあまりにも単純化された物語に数多くの疑問を投げかけています。果たして「三段撃ち」は実在したのか。武田軍は本当に鉄砲を軽視し、騎馬突撃に固執した時代遅れの軍隊だったのか 3 。通説として語られる物語は、歴史の複雑な真実を覆い隠す、後世に作られた分かりやすい神話に過ぎないのかもしれません 3

本報告書は、こうした通説の検証に留まらず、合戦に至るまでの政治的・戦略的背景、両軍の周到な準備、そして合戦当日の刻一刻と変化する戦場の実相を、可能な限りリアルタイムに近い形で再構築することを目的とします。長篠城での絶望的な籠城戦から、設楽原での血で血を洗う激闘、そして戦いの帰趨を決した数々の判断に至るまで、多角的な視点からこの歴史的合戦の深層に迫ります。通説の向こう側にある、生身の人間の決断と戦略が織りなす、もう一つの長篠・設楽原の戦いの姿をここに描き出すものです。

第一部:決戦に至る道程

第一章:信玄の遺産と勝頼の焦燥

長篠・設楽原の戦いを理解する上で、その二年前に起こった一つの出来事を避けては通れません。天正元年(1573年)、西上作戦の途上で病に倒れた「甲斐の虎」、武田信玄の死です 4 。信玄の死は、厳重に秘匿されたものの、やがて織田信長や徳川家康の知るところとなり、戦国のパワーバランスを劇的に変化させました。

総大将という絶対的な支柱を失った武田軍は混乱し、本国甲斐への撤退を余儀なくされます。この好機を逃さず、家康は信玄に奪われた三河・遠江の諸城を次々と奪還し、失地回復に成功しました 5 。信玄の死は、それまで劣勢に立たされていた織田・徳川方にとって、まさに天佑とも言うべき事態だったのです。

父の跡を継いだのは、四男の武田勝頼でした。勇猛果敢な武将であった勝頼ですが、その継承は決して平坦なものではありませんでした。信玄は生前、後継者としての勝頼に内政の実権をほとんど委ねておらず、信玄と共に数多の戦場を駆け抜けてきた宿老たちの中には、若き新当主に対して複雑な感情を抱く者も少なくありませんでした 5 。勝頼が家中の求心力を確立し、その権威を盤石なものにするためには、偉大な父をも超えるほどの圧倒的な「実績」を、戦場での勝利によって示す必要に迫られていたのです。

その焦燥にも似た渇望が結実したのが、天正二年(1574年)の遠江・高天神城攻略でした。父・信玄ですら落とすことのできなかったこの難攻不落の城を、勝頼はわずか数ヶ月で陥落させたのです 5 。この輝かしい勝利は、勝頼の武名を天下に轟かせ、家中の掌握を大きく前進させました。しかし、この成功体験は、同時に一つの危うさをも内包していました。それは、自らの軍事的能力への過信と、「積極攻勢こそが勝利への道である」という戦術思想への傾倒です。高天神城での栄光は、後の長篠における彼の判断に、決定的な影響を与える伏線となっていったのです。

第二章:長篠城包囲網

高天神城攻略の勢いに乗り、勝頼は翌天正三年(1575年)、再び徳川領への侵攻を開始します。その目標となったのが、三河国長篠城でした。この城は、三河、遠江、信濃の三国が国境を接する交通の要衝であり、徳川領の奥深くへ侵攻するための重要な足掛かりとなる戦略拠点でした 9

この時、長篠城を守っていたのは、徳川家康の家臣・奥平信昌(貞昌)でした。奥平氏は、もともと奥三河の国衆「山家三方衆」の一角であり、今川、武田、徳川と時勢に応じて主家を変えながら生き抜いてきた一族です 10 。家康の命により長篠城主となっていた信昌でしたが、その手勢はわずか500。対する武田軍は、1万5千という圧倒的な大軍でした 11

武田軍は長篠城を完全に包囲し、城の南方に位置する鳶ヶ巣山をはじめ、周囲の要所に複数の砦を構築して、力攻めと兵糧攻めを併用した猛攻を開始します 13 。城兵は、城内に配備されていた約200挺の鉄砲を駆使して奮戦するものの 12 、兵力差はあまりに大きく、兵糧も尽きかけていました。五月十四日には、城の主要な曲輪が次々と陥落し、落城はもはや時間の問題という絶望的な状況に追い込まれていたのです 10

第三章:忠義の使者、鳥居強右衛門

この絶望的な状況を打開すべく、一人の男が立ち上がります。奥平家の足軽、鳥居強右衛門その人です。彼は、城主・信昌の命を受け、岡崎の徳川家康、そしてその先の織田信長へ援軍を要請する使者として、決死の城中脱出を敢行します 16

五月十四日の深夜、強右衛門は下帯一つの姿となり、武田軍の厳重な警戒網を潜り抜けるため、城の断崖から寒狭川(豊川)へと身を投じました 10 。音を殺して川を下り、対岸に上陸すると、昼夜を問わず走り続け、翌十五日、ついに岡崎城に到着します。彼の報告を受けた家康と、既に岡崎入りしていた信長は、直ちに大軍の派遣を約束しました 12

使命を果たした強右衛門は、休息もそこそこに、一刻も早く吉報を城兵に伝えようと、来た道を長篠へと引き返します。しかし、十六日の明け方、長篠城を目前にしたところで武田軍の哨戒兵に捕らえられてしまいました 10

援軍の到来を知った武田勝頼は、強右衛門に対し、取引を持ちかけます。「城に向かい、『援軍は来ない。諦めて城を明け渡せ』と偽りの情報を伝えよ。さすれば、命を助けるだけでなく、武田家の家臣として厚遇しよう」と 18

強右衛門はこれを承諾したかのように見せかけ、城兵がよく見える対岸の磔台へと引き立てられます。城内では、誰もが固唾を飲んで彼の言葉を待っていました。その刹那、強右衛門は最後の力を振り絞り、腹の底から絶叫します。

「援軍はすぐそこまで来ているぞ。信長様、家康様が自ら大軍を率いておられる。もう二、三日の辛抱だ!」 19

城内から歓声が沸き起こると同時に、激怒した武田兵の槍が強右衛門の体を貫きました。享年36。彼の壮絶な最期は、敵方であった武田の将・落合左平次をも深く感動させ、その姿を自らの旗指物に描かせたという逸話が残されています 16

鳥居強右衛門の行動は、単なる忠義の美談では終わりません。それは極めて重要な戦略的価値を持っていました。彼の命を賭した絶叫は、落城寸前だった長篠城の士気を再び奮い立たせ、物理的に持ちこたえる時間を稼ぎ出したのです。そして、その稼ぎ出された数日間こそ、信長が設楽原に理想的な決戦場を構築するために必要不可欠な「時間」でした。強右衛門の死は、連合軍の勝利の青写真が完成するための、最後の、そして最も重要なピースとなったのです。

第二部:両雄、設楽原に対峙す

第一章:軍勢と編成

鳥居強右衛門の犠牲によって長篠城が持ちこたえている間、織田・徳川連合軍は着々と設楽原への進軍を進め、五月十八日には決戦の地に到着しました 15 。一方、連合軍の到来を知った武田勝頼も、長篠城の包囲に一部の兵を残し、主力を設楽原へと移動させます 20 。ここに、両軍の布陣が完了しました。

両軍の兵力については諸説ありますが、一般的には織田・徳川連合軍が約3万8千(織田3万、徳川8千)、対する武田軍が約1万5千とされ、連合軍が数において倍以上の優位に立っていたとされています 21 。ただし、連合軍1万7千、武田軍8千とする説も存在し、正確な数字の確定は困難です 20

特に注目されるのが、当時最新の兵器であった鉄砲の保有数です。連合軍は3,000挺(1,000挺説もあり)という、当時としては空前の数の鉄砲を準備したとされます 22 。対する武田軍は500挺ほどであったというのが通説ですが 21 、近年の研究では、武田家も鉄砲の重要性を認識しており、実際には1,000挺から1,500挺を保有していた可能性も指摘されています 3 。これは、「武田は鉄砲を軽視していた」という従来のイメージを覆す重要な視点です。

連合軍は、設楽原を流れる連吾川の西岸に広がる段丘上に陣を構えました。総大将の織田信長は後方の茶臼山に、徳川家康は最前線に近い高松山(弾正山)に本陣を置きます 20 。対する武田軍は、連吾川の東岸に布陣し、鶴が翼を広げたような陣形である「鶴翼の陣」で連合軍と対峙しました 22

以下に、両軍の戦力を比較した表を掲載します。

項目

織田・徳川連合軍

武田軍

総兵力

約38,000(織田: 30,000, 徳川: 8,000) 22

※17,000説もあり 20

約15,000 22

※8,000説、甲陽軍鑑の記述に基づく異説もあり 20

鉄砲保有数

約3,000 22

※1,000説もあり 22

約500 21

※300説もあり 22。近年の研究では1,000~1,500挺保有の可能性も指摘 3

主要指揮官

織田信長, 徳川家康, 滝川一益, 羽柴秀吉, 丹羽長秀, 佐久間信盛, 酒井忠次 等

武田勝頼, 武田信豊, 馬場信春, 山県昌景, 内藤昌豊, 土屋昌次, 真田信綱・昌輝 等 20

陣形・戦術

連吾川西岸の段丘上に陣取り、馬防柵と空堀を多重に構築した野戦陣地での防御戦 22

設楽原東岸に鶴翼の陣を展開 22 。馬防柵を突破し、中央突破を図る錐揉み戦法を計画 22

第二章:信長の戦場構築

信長の真の恐ろしさは、兵力や鉄砲の数といった物量面だけにあるのではありません。彼が設楽原で示したのは、地形と人工構造物を巧みに組み合わせ、戦場そのものを自軍に有利な「システム」として構築する、驚くべき戦術眼でした。

まず、信長が決戦の地として設楽原を選んだこと自体が、計算され尽くした戦略でした。連合軍が陣取った連吾川西岸は、東岸の武田軍陣地よりも一段高い河岸段丘となっており、敵を見下ろすことができる地理的優位を確保していました 23 。そして、両軍を隔てる連吾川は、合戦が行われた五月下旬、すなわち梅雨時であったため、川底はぬかるみ、武田軍の突撃速度を削ぐ天然の堀として機能したのです 26

さらに信長は、この地形的優位を補強するため、前代未聞の野戦築城を行います。それが、有名な「馬防柵」です。これは単なる騎馬の突撃を防ぐための粗末な柵ではありませんでした。全長約2キロメートルにわたって三重に張り巡らされ、その前面には空堀まで掘られていたとされます 25 。信長は、この馬防柵を築くための丸太を、はるか岐阜から兵士一人一人に運ばせたという逸話が残っており 12 、その準備の周到さがうかがえます。

この防御陣は、もはや単なる陣地ではなく、連吾川を「水堀」、空堀と馬防柵を「土塁と塀」、そして背後の段丘を「曲輪」に見立てた、広大な「野戦城」と呼ぶべきものでした 27 。信長は、武田軍が得意とする野戦、特にその機動力を活かした突撃戦を完全に封じ込め、敵を不利な「攻城戦」へと引きずり込む戦場環境を意図的に作り出したのです。この戦いは、始まる前から、信長の構築した戦場システムの中で、その勝敗の半分が決していたと言っても過言ではありません。

第三章:勝頼、決戦を選択す

圧倒的に不利な防御陣を前にして、なぜ武田勝頼は決戦という選択をしたのでしょうか。そこには、軍事的合理性だけでは測れない、いくつかの複合的な要因が存在しました。

第一に、五月二十一日未明に届いたであろう、鳶ヶ巣山砦陥落の報です。酒井忠次率いる奇襲部隊によって背後の拠点を奪われ、退路を断たれたことは、武田軍本隊に深刻な動揺を与えました 29 。この時点で、もはや撤退という選択肢は極めて困難となり、前進して敵陣を突破するしか活路はない、という状況に追い込まれた側面があります 15

第二に、情報戦における敗北の可能性です。信長は、設楽原に到着した後、兵力を巧みに隠蔽し、武田方に自軍の戦力を過小評価させていたと言われています 5 。勝頼は、連合軍が堅固な陣地を築いて防御に徹している様を、「敵の弱腰の表れ」と誤認した可能性があります 5

そして第三に、最も根深い要因として、勝頼自身の政治的・心理的立場が挙げられます。馬場信春をはじめとする信玄以来の宿老たちは、敵の堅陣を見て撤退を進言したと伝えられています。しかし、偉大な父の後を継ぎ、常にその存在と比較され続けてきた勝頼にとって、天下の注目が集まるこの大一番で、信長を前にして戦わずして兵を引くという選択は、自らの権威を失墜させかねない「敗北」に等しいものでした。高天神城攻略で得た自信と、宿老たちを抑えてでも自らの武威を示さねばならないという焦りが、彼を「引くに引けない」状況へと追い込んだのです 5

あるいは、国力で勝る織田家との差が今後開く一方であることを見越し、この一戦で織田・徳川の主力を叩くことに全てを賭けた、という見方もできます 5 。いずれにせよ、勝頼の決断は、冷静な軍事的判断というよりも、様々なプレッシャーの中で下された、悲壮な覚悟を伴うものであったと言えるでしょう。

第三部:合戦のリアルタイム・クロニクル(天正三年五月二十一日)

第一章:夜明け前の奇襲-鳶ヶ巣山砦の陥落

設楽原で両軍が対峙した五月二十日の夜、主戦場の喧騒から離れた場所で、合戦の行方を決定づける一つの作戦が静かに進行していました。徳川家の重臣・酒井忠次が、軍議の席で進言した鳶ヶ巣山砦への奇襲作戦です。信長は、軍議の場では武田方の間者を警戒し、「田舎侍の浅知恵」と一笑に付したものの、後に密かに忠次を呼び寄せ、作戦を承認したと伝えられています 29

忠次率いる約4,000の別働隊(織田方の鉄砲隊も含む)は、二十日の深夜、武田本隊に察知されぬよう大きく南へ迂回するルートを取りました 13 。雨でぬかるむ険しい松山峠を越える困難な夜間行軍の末 13 、部隊は夜明け前に武田軍の背後に回り込むことに成功します。

そして二十一日早朝、夜明けと共に奇襲の火蓋が切られました。別働隊は、長篠城包囲網の要であった鳶ヶ巣山砦をはじめ、中山砦など周辺の五つの砦に一斉に襲いかかり、これを次々と陥落させたのです 32 。これにより、長篠城は完全に解放され、さらに重要なことに、設楽原の武田本隊は背後の拠点と退路を完全に断たれてしまいました 29 。この一報は、設楽原の勝頼本陣に届き、武田軍に深刻な動揺をもたらしました。もはや、前方の敵陣を突破する以外に生き残る道はなくなったのです。

第二章:午前六時~午前十時-血煙の第一波、第二波

鳶ヶ巣山での狼煙が上がるのとほぼ時を同じくして、設楽原の主戦場でも戦闘が開始されました。午前六時頃、徳川軍の陣地から大久保忠世隊が、対峙する武田軍左翼の山県昌景隊に向けて鉄砲を撃ちかけたのがその始まりとされています 15

これに応じ、武田軍最強と謳われた「赤備え」を率いる猛将・山県昌景が、馬防柵への第一波攻撃を開始します。当初、柵の南側を迂回して徳川陣の側面を突こうと試みますが、連合軍の巧みな陣地構築に行く手を阻まれ、正面からの突撃へと転じました 15

山県隊に続き、武田軍は次々と精鋭部隊を投入します。中央からは内藤昌豊、武田信廉、小幡信貞といった部隊が、馬防柵めがけて波状攻撃を仕掛けました 22 。彼らの目標は、鉄砲の弾幕をかいくぐり、何としても馬防柵を破壊・突破して、連合軍の陣形に風穴を開けることでした。

しかし、馬防柵の内側で待ち構える連合軍の防御は鉄壁でした。3,000挺とも言われる鉄砲隊が轟音と共に火を噴き、その射撃の合間を縫って無数の弓矢が放たれます 30 。武田の兵たちは、降り注ぐ弾丸と矢を物ともせず柵際に殺到し、柵を乗り越え、引き倒そうとしますが、三重に巡らされた堅固な柵と、組織的な射撃の前に次々と斃れていきました。柵際では凄惨な白兵戦が繰り広げられ、設楽原は朝から血と硝煙の匂いに包まれたのです。

第三章:午前十時~午後二時-消耗戦と戦局の膠着

開戦から数時間が経過し、戦いは熾烈な消耗戦の様相を呈してきました。武田軍は第一波、第二波の攻撃で甚大な損害を出しながらも、その闘志は衰えません。午前十時頃、勝頼は全軍に進撃を命令 15 。今度は右翼に位置していた真田信綱・昌輝兄弟、土屋昌次といった猛将たちが、馬防柵の北側から猛攻をかけます。

その勢いは凄まじく、一時は一重、二重目の柵を突破することに成功しました。土屋昌次は幾重もの柵を乗り越え、敵陣深くに切り込んだものの、奮戦の末に討死 28 。真田兄弟も、佐々成政、前田利家らが守る鉄砲隊の集中砲火の前に押し返され、この激戦の中で討ち死にしてしまいます 15

武田軍は後続部隊を次々と投入し、執拗に攻撃を繰り返しますが、連合軍の防御陣を完全に崩すには至りません。一方、連合軍も柵の内側で守りを固め、ひたすら防御に徹します。両軍ともにおびただしい数の死傷者を出しながら、戦線は膠着状態に陥りました。設楽原の空には梅雨の重い雲が垂れ込め、戦場には両軍兵士の疲労と焦りが満ちていきました。

第四章:午後二時以降-総崩れ

八時間近くに及んだ激闘の均衡は、午後二時頃、ついに破られます。武田軍の攻撃の中核を担い続けた猛将・山県昌景が、乱戦の中で討ち死にしたのです 15 。この報は、戦い疲れた武田軍兵士の士気に決定的な打撃を与えました。

この好機を、織田信長は見逃しませんでした。彼は直ちに全軍に対し、馬防柵から打って出ての総攻撃を命令します 15 。それまで守りに徹していた連合軍の兵士たちが、鬨の声を上げて武田軍に襲いかかりました。

時を同じくして、武田四天王の一人、内藤昌豊も討死 15 。主要な指揮官を次々と失った武田軍の指揮系統は完全に崩壊し、組織的な抵抗はもはや不可能となりました。陣形は総崩れとなり、兵士たちは我先にと敗走を始めます 15

この絶望的な状況の中、最後まで主君への忠義を貫いたのが、同じく武田四天王の一人、馬場信春でした。彼は、主君・勝頼を無事に甲斐へ逃がすため、自ら殿(しんがり)となって追撃する大軍の前に立ちはだかります。豊川にかかる橋のたもとで、獅子奮迅の戦いを繰り広げ、追撃を食い止めた末、壮絶な最期を遂げました 24

この一戦における武田軍の損害は、壊滅的でした。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、土屋昌次、真田信綱・昌輝兄弟をはじめ、信玄時代から武田家を支えてきた宿老・重臣の多くが戦場に散り、死者は総勢1万人に及んだと伝えられています 20 。一方、勝利した連合軍も無傷ではなく、その損害は6,000人に上ったという記録もあり 30 、この戦いが一方的な虐殺ではなく、凄惨な激戦であったことを物語っています。

第四部:勝敗を分けたもの-多角的分析

第一章:戦術論の虚実

長篠・設楽原の戦いは、なぜこれほどまでに劇的な結果に終わったのでしょうか。その要因を分析するにあたり、まず通説として語られてきた二つの戦術、「鉄砲三段撃ち」と「武田騎馬隊」の虚実を検証する必要があります。

まず、「鉄砲三段撃ち」です。これは、射撃、弾込め、準備の三列が機械的に入れ替わり、途切れることなく射撃を続ける戦法として知られています 21 。しかし、この戦法を明確に記述した同時代の信頼できる史料は存在せず、後世の軍記物によって創作されたものである可能性が極めて高いとされています 4 。当時の火縄銃の装填には熟練者でも数十秒を要し、戦場の混乱の中で整然と三列が入れ替わることは、現実的に考えて極めて困難です 38 。より現実的な解釈としては、特定の部隊が斉射した後に後方の部隊と交代する「部隊交代制」や、準備ができた者から順次、柵の隙間などから射撃を行う「先着順自由連射」 38 のような、連続射撃を可能にするための組織的な運用がなされていたと考えるべきでしょう。

次に、「最強騎馬隊」の神話です。武田軍の騎馬武者が精強であったことは事実ですが、それはヨーロッパの重装騎兵のように、馬上で密集隊形を組んで敵陣に突撃する「衝撃力」を主戦術とする部隊ではありませんでした。戦国時代の日本の武士にとって、馬は主として戦場を高速で移動するための「機動力」の源であり、戦闘の際には馬から下りて槍や刀で戦うのが一般的でした 3 。彼らが馬防柵に突撃したのは、神話的な騎馬突撃ではなく、柵を破壊し突破口を開くための、いわば歩兵としての必死の攻撃だったのです。

したがって、この戦いの本質は「新兵器(鉄砲) vs 旧戦法(騎馬)」という単純な構図ではありません。武田軍も相当数の鉄砲を保有し、その重要性を認識していました 3 。両軍の勝敗を分けた決定的な違いは、兵器そのものの性能差ではなく、「兵器の運用思想」にありました。信長は、鉄砲の「連射できない」という弱点を、馬防柵や地形という物理的防御(ハードウェア)と、部隊の組織的運用(ソフトウェア)を組み合わせることで克服し、鉄砲の持つ防御火力を最大限に引き出す「システム」を構築しました。一方の勝頼は、個々の武将の武勇や突撃力に依存する、従来の価値観に基づく戦いを挑みました。長篠の戦いは、個の武勇の時代から、より近代的で合理的なシステム化された戦いの時代への、日本の戦史におけるパラダイムシフトを象徴する戦いであったと言えるのです。

第二章:総大将の器量

戦術システムの優劣に加え、両軍の総大将の指導力もまた、勝敗を分けた大きな要因でした。

織田信長の行動は、終始一貫して合理的かつ周到でした。彼は、家康からの救援要請に対し、自ら大軍を率いて出陣するという迅速な政治判断を下しました。そして、決戦の地を自ら選定し、地形を最大限に活用した馬防柵という万全の準備を整えました 12 。さらに、兵力を隠蔽して敵を油断させ 5 、酒井忠次の奇襲作戦を的確に承認し実行させる 29 など、情報戦や戦略的判断においても冷静さと卓越した能力を発揮しました。合戦当日も、自らは後方の本陣から動かず、戦局全体を冷静に俯瞰し、最適なタイミングで総攻撃を命じています。

一方、武田勝頼の判断には、焦りと過信が見え隠れします。父・信玄の死後、自らの権威を確立するために功を焦る心理状態は、彼の戦略的視野を狭めた可能性があります 5 。高天神城攻略という大きな成功体験は、織田・徳川連合軍を侮る過信に繋がったかもしれません 5 。そして何より、宿老たちの現実的な忠告を退け、明らかに不利な状況での決戦を強行した判断は、致命的な誤りでした。ただし、これは単に勝頼個人の資質の問題だけではなく、彼が置かれていた「引くに引けない」という政治的状況が招いた、構造的な問題でもあったことを考慮する必要があります。偉大な父の遺産は、彼にとって栄光であると同時に、その判断を縛る重い枷でもあったのです。

終章:戦いが変えた歴史

第一章:武田家、落日の始まり

長篠・設楽原の戦いにおける敗北は、武田家にとって単なる一合戦の敗北ではありませんでした。それは、名門武田家の落日を決定づける、回復不能な大打撃となったのです。

最大の損失は、人的資源の壊滅でした。この一戦で、武田四天王のうち三名(山県昌景、馬場信春、内藤昌豊)をはじめ、真田信綱・昌輝兄弟、土屋昌次など、信玄の時代から武田軍団の中核を担ってきた宿老・重臣のほとんどが戦死しました 24 。これは、単に兵士の数を失ったこと以上に、長年培われてきた軍団の指揮系統、戦術的経験、そして精神的支柱が一挙に失われたことを意味します。

「戦国最強」と謳われた武田軍の神話が崩壊したことで、武田家の威信は大きく失墜しました 8 。この敗戦を契機に、徳川家康は対武田戦で完全に攻勢へと転じます 8 。勝頼はその後も外交政策などで懸命に勢力の維持を図りますが 40 、失われた求心力と人的資源を取り戻すことはできず、武田家は防戦一方の苦しい戦いを強いられることになります。そして、この戦いから七年後の天正十年(1582年)、織田・徳川連合軍の本格的な甲州征伐の前に、名門武田家は滅亡の時を迎えるのです 42

第二章:信長、天下布武へ

一方で、この勝利は織田信長にとって、天下統一事業「天下布武」を大きく加速させる決定的な一歩となりました。

最大の脅威であり、長年のライバルであった武田家が事実上無力化されたことで、信長は東方の憂いを断ち切ることができました 35 。これにより、彼は全勢力を石山本願寺との戦いや、中国地方の毛利氏、北陸の上杉氏といった西方の敵へと集中させることが可能となり、その後の統一事業は飛躍的に進展します。

長篠・設楽原の戦いが戦国時代の歴史に残した最も大きな意義は、合戦の様相を根本的に変えた点にあります。鉄砲の大量運用と、地形を利用した野戦築城を組み合わせた信長の戦術は、従来の個々の武士の武勇に依存した戦い方を凌駕することを天下に証明しました。この戦い以降、合戦における勝敗の鍵は、兵力の動員力、経済力、そして兵器の生産・運用能力といった、より組織的・近代的な要素へと移行していきます。長篠・設楽原の戦いは、中世的な戦いの時代の終わりと、近世的な戦いの時代の幕開けを告げる、日本の軍事史における不滅の金字塔として、今なお語り継がれているのです。

引用文献

  1. 2021年05月13日 NHK総合「歴史探偵」5月19日(水)放送:精密機械工学科の粟飯原萌助手が出演します。 メディア - ニュース : 日本大学理工学部 https://www.cst.nihon-u.ac.jp/news/detail/20210513_841.html
  2. 武田勝頼はなぜ、圧倒的不利な戦いに挑んだのか? 令和の新解釈で再現する長篠・設楽原の戦い――中路啓太さん最新歴史小説『木霊の声 武田勝頼の設楽原』の冒頭を大公開 『木霊の声 武田勝頼の設楽原』(中路 啓太) | 中路 啓太 | ためし読み - 本の話 - 文春オンライン https://books.bunshun.jp/articles/-/10121
  3. 武田勝頼は鉄砲をナメていたから負けたのではない…教科書が教え ... https://president.jp/articles/-/70284?page=1
  4. 長篠の戦いはウソだらけ?真実や戦いの流れ、戦法をわかりやすく解説 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/nagashinono-tatakai-real/
  5. 長篠の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7124/
  6. 高天神城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  7. なぜ勝頼は「長篠合戦」へ出陣し、敗北に至ったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20324
  8. 高天神城の歴史|今 https://takatenjinjyo.com/history/
  9. 長篠城(愛知県新城市) https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/minzokugeino/nagashinojyoato.files/20191108-144254.pdf
  10. 長篠合戦のゆくえを変えた?人間味あふれる鳥居強右衛門・命がけの決断とは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/107138/
  11. 長篠城 | あいち歴史観光 - 愛知県 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/place51-2.html
  12. 長篠城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-nagashino-castle/
  13. 鳶ケ巣山砦奇襲戦 - 金森戦記 金森長近 https://kanamorisennki.sakura.ne.jp/senjou-new/tobigasuyama/tobigasuyama.html
  14. 戦場の全体像を俯瞰する:「長篠の戦い」を地形・地質的観点で見るpart2【合戦場の地形&地質vol.6-2】|ゆるく楽しむ - note https://note.com/yurukutanosimu/n/n38613dcca89b
  15. 織田vs武田 史跡の宝庫 長篠合戦を偲ぶ旅 - 歴史ぶらり1人旅 https://rekikakkun.hatenablog.com/entry/2021/09/10/212327
  16. 鳥居強右衛門は実在したのか?「逆さ磔」にされた話は本当? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/torii-suneemon/
  17. 「援軍は来る!」と絶叫した鳥居強右衛門の物語。配役の妙で涙・涙の感動回になった!【どうする家康 満喫リポート】21 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1133626
  18. 鳥居強右衛門磔図- 設楽原歴史資料館 名品10選! - 新城市ホームページ https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/shitaragahara/torii-suneemon.html
  19. 「長篠の戦い」のスゴい伝令役は、鳥居強右衛門だけじゃない! - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28056/2
  20. 長篠合戦|織田軍勝利の真相 - 日本の城研究記 https://takato.stars.ne.jp/kiji/s-takeda.html
  21. 長篠の戦いと鉄砲・西洋銃/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89110/
  22. 両軍戦力の比較 http://www.shinshiro.or.jp/battle/hikaku.htm
  23. 1575年 – 77年 長篠の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1575/
  24. 長篠の合戦の真相~武田勝頼はなぜ無謀な突撃を繰り返したのか https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3918
  25. 馬防柵 - 新城市ホームページ https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/meisyo/babousaku.html
  26. 地形・地質 - 地域の自然 - 愛知県東三河総局新城設楽振興事務所 | 愛知県 https://www.pref.aichi.jp/shinshiroshitara/nature/geo/data/1-10_landform.html
  27. 馬防柵 - 新城市 - キラッと奥三河観光ナビ https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=516
  28. 【どうする家康】設楽原決戦場跡の「馬防柵」に行ってみた - おでかけ ももよろず https://www.momoyorozu.net/entry/2023/06/14/013728
  29. 其の八 酒井忠次の大作戦「鳶ヶ巣山(とびがすやま)」 - 新城市ホームページ https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/taiga/shinshiro/tobigasuyama.html
  30. 長篠の戦い 激闘につぐ激闘。勝利した側も大損害をこうむる! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=TMGFyqDw4DM
  31. とんでもない奇襲ルート:「長篠の戦い」を地形・地質的観点で見るpart3【合戦場の地形&地質vol.6-3】|ゆるく楽しむ - note https://note.com/yurukutanosimu/n/nd5e3234810d0
  32. 設楽原の戦い~信長に鳶ヶ巣山砦の奇襲を進言した酒井忠次~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/nagasino-tadatugu.html
  33. 鳶ヶ巣奇襲隊進路松山越 - 新城市 - キラッと奥三河観光ナビ https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=355
  34. 連合軍鳶ヶ巣山砦奇襲攻撃コース ―織田信長・徳川家康 - IKOMAI東三河 武将トリップ https://www.higashimikawa.jp/busyo/course5.html
  35. 長篠の戦い|最新の研究で明かされた真実!最強の騎馬隊がボロ負けした本当の理由 https://m.youtube.com/watch?v=KVaq4MwoawA&t=0s
  36. 長篠設楽原合戦の史跡 ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/nagasinositara/nagasinositara.html
  37. 火縄銃と長篠の戦い/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/hinawaju-nagashino/
  38. 長篠の戦い 三段撃ちの真実とは? - WAM ブログ https://www.k-wam.jp/blogs/2023/06/post113880/
  39. 浮かび上がる包囲網 高天神城奪還作戦|家康の六砦|今 https://takatenjinjyo.com/rokutoride/
  40. 長篠敗戦後に勝頼が着手した内政再建と新機軸外交とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20326
  41. 武力に優れ外交では凡愚の武田勝頼が打った悪手 上杉の跡目争いに首を突っ込み激しい転落人生に - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/684326?display=b
  42. 高天神城の戦い : 味方から見捨てられ、そして武田家滅亡へ… - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=yH1LAYPZUs8