長谷堂の戦い(1600)
慶長出羽合戦詳報:長谷堂の戦い—北の関ヶ原、その血戦の全貌
序章:天下分け目の序曲—「北の関ヶ原」の胎動
慶長5年(1600年)、日本の歴史を二分する天下分け目の戦いが、美濃国関ヶ原のみで繰り広げられたわけではない。遠く離れた東北、出羽国においてもまた、徳川の世の到来を決定づけるもう一つの激戦が展開されていた。世に言う「慶長出羽合戦」、その中核をなす「長谷堂の戦い」である。この戦いは、単なる地方大名間の領土紛争ではない。それは、徳川家康が描いた天下統一のグランドデザインに深く組み込まれ、関ヶ原の本戦と密接に連動した、必然の衝突であった。
関ヶ原に至る中央政情の流動と徳川家康の対上杉戦略
慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じると、日本は再び動乱の時代へと逆行を始める 1 。秀吉が遺した幼い嫡男・秀頼を補佐するべく設置された五大老・五奉行の体制は、その均衡を急速に失っていく。五大老筆頭の徳川家康が、秀吉の遺命を半ば公然と破り、諸大名との婚姻政策などを通じてその影響力を際限なく拡大させ始めると、五奉行筆頭の石田三成を中心とする反徳川勢力との対立は決定的なものとなった 2 。
この全国的な緊張状態の中で、家康が最大の潜在的脅威と見なしていたのが、会津120万石を領する大大名、上杉景勝であった 4 。上杉家は、かつて越後の龍と恐れられた上杉謙信以来の強固な軍事力を保持しており、その動向は東国全体の安定を左右するほどの重みを持っていた。家康の真の狙いは、豊臣恩顧の西国大名を大坂城から引き離し、雌雄を決する野戦に持ち込むことにあった。そのためには、家康自身が江戸を離れ、大軍を率いて東へ向かうという「隙」を三成に見せつけ、挙兵を促す必要があった。その絶好の口実こそが、上杉景勝の「謀反」の嫌疑だったのである。
会津120万石・上杉景勝の動向と「直江状」
家康の台頭に強い警戒心を抱いていた上杉景勝は、家康からの上洛要求を再三にわたり拒否。そればかりか、領国会津において新たな城の普請や街道の整備、武具兵糧の備蓄といった軍備増強を公然と開始した 5 。これは、家康に対する明確な挑戦であり、敵対行動と見なされても致し方のないものであった。
この緊張を爆発点へと導いたのが、景勝の家老・直江兼続が家康の詰問使に渡したとされる一通の書状、世に名高い「直江状」である 7 。この書状は、家康の詰問に対して逐一反論し、その文面には「田舎者は分別がないとお思いでしょうが」といった痛烈な皮肉や挑発的な言辞が散りばめられていた 5 。この返書を読んだ家康は激怒し、諸将の前でこれを叩きつけ、ついに上杉討伐の軍を発することを決意したとされる。これが、家康が企図した会津征伐の直接的な引き金となったのである。ただし、この「直江状」の原本は現存せず、後世に創作されたものであるという説も根強く、その真偽については今なお議論が続いている点は留意すべきである 7 。
奥羽三大名の複雑な関係性と地政学的緊張
当時の東北、奥羽地方は、三人の有力大名が互いに牽制しあう、複雑で緊張に満ちた地政学的状況にあった。
- 最上義光と伊達政宗: 出羽山形24万石の領主・最上義光は、陸奥仙台の伊達政宗の伯父にあたる。義光の妹・義姫(保春院)が政宗の母であるためだ 8 。しかし、この血縁関係にもかかわらず、両家の仲は決して良好ではなかった。領土を巡る対立は根深く、過去には大規模な軍事衝突に発展したこともあり、その際には義姫自らが戦陣に乗り込み、両軍を和解させたという逸話も残るほどであった 9 。互いに相手を信用せず、常に腹の探り合いを続ける関係にあった 12 。
- 最上義光と上杉景勝: 両者は、庄内地方の領有権を巡って長年にわたり激しく争ってきた宿敵同士であった。上杉家が越後から会津へ移封された後も、その対立関係は解消されることなく、国境を接する両者の間には常に火種が燻っていた 13 。
- 伊達政宗と上杉景勝: こちらもまた、上杉家が伊達家の旧領であった白石城などを支配下に置いたことから、対立関係にあった 13 。政宗は常に旧領回復の機会を窺っており、両者の関係もまた緊張をはらんでいた。
家康が西へ転進した際、もし上杉軍が南下して関東を脅かせば、家康は石田三成と上杉景勝に挟撃されるという最悪の事態に陥る。この危険を回避するため、家康は上杉軍を奥羽の地に釘付けにする必要があった。そのための「楔」として白羽の矢が立てられたのが、最上義光と伊達政宗であった。家康は両者に上杉への攻撃を促し、あるいは上杉の攻撃を受け止めさせることで、上杉軍の力を北方へ集中させ、南下する余裕を奪う戦略を描いていた。
したがって、慶長出羽合戦、そして長谷堂の戦いは、決して偶発的に生じた地方の戦乱ではない。それは家康の天下統一という壮大な構想の中に、極めて重要な一要素として組み込まれた必然の戦いであった。最上義光がこれから繰り広げることになる絶望的な防衛戦は、彼自身が意図すると否とにかかわらず、関ヶ原で戦う東軍本隊の背後を守るという、決定的な戦略的役割を担うことになるのである。
第一章:上杉軍、出羽侵攻—慶長出羽合戦の幕開け
慶長5年(1600年)9月、徳川家康率いる会津征伐軍が下野国小山で反転し、石田三成討伐のために西上を開始すると、上杉景勝と直江兼続はこれを好機と捉えた。家康本隊という最大の脅威が去った今こそ、背後の憂いである最上義光を討ち、奥羽における覇権を確立する絶好の機会であった。兼続は、主君・景勝の命を受け、周到に準備された侵攻作戦を発動する。
直江兼続の侵攻計画と兵力
上杉軍の総大将を拝命した直江兼続は、その総力を結集して最上領へと矛先を向けた。動員された兵力は、諸説あるもののおおむね2万から2万5千と推定されており、これは当時の東北において最大級の軍事力であった 1 。
兼続の侵攻計画は、単一の進路に頼る単純なものではなかった。彼は最上軍の防衛力を分散させ、各個撃破を狙う多方面同時侵攻作戦を採用した。主力となる本隊は米沢城から出撃し、最上領の心臓部である山形城を目指す。しかし、その本隊ですら、萩野中山口(狐越街道)、小滝口、大瀬口、栃窪口といった複数のルートに分かれ、波状的に国境を越えた 11 。さらに、これとは別に庄内地方からも別動隊を進軍させ、最上領を東西から挟撃する態勢を整えたのである 13 。この周到な作戦は、最上義光をして、どこから襲来する主力に対応すべきか判断を困難にさせ、防衛網に混乱を生じさせることを意図していた。
最上軍の防衛体制と兵力
対する最上義光が動員し得た兵力は、総勢わずか7,000人程度に過ぎなかった 16 。上杉軍との兵力差は実に3倍以上。しかも、この7,000という兵力は、領内各地に点在する支城の守備兵を含んだ数字であり、一点に集中運用することは不可能であった。本拠地である山形城にすら、4,000人ほどの兵しかいなかったとされる 16 。戦況は、開戦前から圧倒的に最上不利であった。
この絶望的な兵力差を前に、義光は野戦による決戦を避け、縦深防御戦術を選択した。すなわち、居城である山形城を最終防衛ラインとし、その前面に畑谷城や長谷堂城といった堅固な支城を配置。これらの城を連携させた防衛ネットワークを構築し、上杉軍の進撃を段階的に遅滞させ、その鋭鋒を削いでいくという戦略である 16 。敵の進軍速度を殺ぎ、時間を稼ぐこと。それが、最上軍に残された唯一の活路であった。
前哨戦:畑谷城の攻防(慶長5年9月9日〜13日)
9月9日: 計画通り、直江兼続率いる上杉軍本隊が、複数の侵攻路から一斉に最上領へと雪崩れ込んだ 11 。慶長出羽合戦の火蓋が、ここに切って落とされた。
9月11日〜12日: 侵攻を開始した上杉軍は、最初の主要な目標として、山形城への経路上に位置する要衝・畑谷城に殺到した 16 。畑谷城は、最上軍にとって白鷹方面における最前線基地であり、ここを突破されれば山形盆地への入り口が開かれてしまう、極めて重要な拠点であった 21 。
城主・江口光清の玉砕: 畑谷城を守る城将は、江口五兵衛光清。彼が率いる守備兵は、わずかに500名(一説には300名余り)であった 11 。押し寄せた上杉軍は約2万。その兵力差は、もはや戦いと呼ぶのも憚られるほどであった。事態を察知した最上義光は、光清に対して城を放棄し、山形城へ合流するよう撤退命令を下していた 16 。しかし、光清はこの主君の命令を敢えて無視する。「武士たるもの、眼前の敵に背を見せるは末代までの恥辱」とし、城兵と共に玉砕を覚悟で城に籠もることを決断したのである 22 。
この決断は、単なる武士としての意地や蛮勇から来たものではない。光清は、自らの命と城兵の命を犠牲にしてでも、上杉軍の進撃を一日、いや半日でも遅らせることが、主君・義光と最上家全体の活路を開く唯一の道であると理解していた。彼の抵抗は、後方の長谷堂城や山形城が防備を固めるための、貴重な「時間」を稼ぐための戦略的判断であった。
9月13日: 上杉軍による総攻撃が開始された。『最上義光物語』には、城兵が持楯を投げ捨て、死を覚悟で敵軍にもみ合い、斬り結ぶ壮絶な白兵戦の様子が描かれている 16 。しかし、衆寡敵せず。奮戦も虚しく、畑谷城はその日のうちに落城。城主・江口光清は敵中に斬り込み、一戦を交えた後に自害して果てた 16 。城兵は一人残らず討死したと伝えられる 11 。
畑谷城は陥落した。しかし、このわずか一日か二日の抵抗は、上杉軍にも1,000人近い死傷者を出すという、決して小さくない損害を与えた 16 。この予想外の出血と時間のロスは、勢いに乗って一気に山形城へ迫ろうとしていた直江兼続の計算を微妙に狂わせることになる。江口光清とその城兵たちの犠牲は、単なる悲劇的な敗北ではなかった。それは、最上軍全体の防衛計画において、後続の戦いを有利に導くための極めて重要な「捨て石」としての役割を果たしたのである。彼らの死によって稼がれたわずかな時間が、最上義光に長谷堂城へ志村光安や鮭延秀綱といった最精鋭の将を送り込み、防衛体制を再構築する最後の猶予を与えたのであった。
第二章:長谷堂城の死闘—15日間の攻防
畑谷城を凄惨な戦いの末に攻略した上杉軍は、その勢いを駆って最上領の心臓部、山形城へと迫る。しかし、その行く手には、山形城防衛の最後の砦として、一つの小高い丘に築かれた山城が立ちはだかっていた。長谷堂城である。ここから、慶長出羽合戦の天王山とも言うべき、15日間に及ぶ壮絶な攻防戦の幕が上がる。この戦いは、兵力で圧倒的に劣る最上軍が、いかにして上杉の大軍を食い止めたかを示す、戦国史に残る籠城戦の白眉であった。
慶長出羽合戦・長谷堂城攻防戦における両軍の配置(慶長5年9月中旬時点)
合戦の推移を詳述する前に、両軍の兵力と主要な武将の配置を把握することは、戦況の理解を深める上で不可欠である。以下に、長谷堂城を巡る攻防が開始された時点での、両軍の推定布陣を示す。
陣営 |
総兵力(推定) |
区分 |
主要武将 |
兵力(推定) |
備考 |
最上軍(東軍) |
約7,000 |
山形城本陣 |
最上義光、最上義康 |
約4,000 |
全軍の総指揮 |
|
|
長谷堂城守備隊 |
志村光安(城主) 、 鮭延秀綱(副将) |
約1,000 |
山形城防衛の最終防衛線 |
|
|
須川東岸後詰 |
楯岡光直、清水義親 |
約2,000 |
長谷堂城への援軍及び上杉軍の渡河阻止 |
上杉軍(西軍) |
約20,000〜25,000 |
菅沢山本陣 |
直江兼続(総大将) |
- |
全軍の総指揮 |
|
|
長谷堂城包囲軍 |
上泉泰綱 、春日元忠、横田旨俊 |
約18,000 |
長谷堂城を完全包囲 |
|
|
遊軍・殿軍 |
前田慶次 、水原親憲 |
- |
浪人衆を中心とした精鋭部隊 |
この表が示す通り、長谷堂城に籠もる最上軍はわずか1,000。対する上杉軍の包囲兵力は18,000。その兵力差は実に18倍に達していた。この絶望的な数字こそが、これから始まる戦いの過酷さを何よりも雄弁に物語っている。
時系列による攻防の詳細
9月14日: 畑谷城を攻略した直江兼続は、休む間もなく軍を進め、山形城の南西約7キロメートルに位置する菅沢山に本陣を敷いた 14 。菅沢山は長谷堂城を見下ろす絶好の位置にあり、ここを拠点として長谷堂城を完全に包囲。同時に、山形城と長谷堂城を結ぶ連絡路を遮断し、城を孤立させる作戦に出た 23 。
9月15日: 関ヶ原で本戦の火蓋が切られたのと同じ日、遠く離れた出羽の地でも、長谷堂城への本格的な攻撃が開始された 11 。上杉軍は圧倒的な兵力を背景に、力で城を押し潰そうと猛攻を仕掛ける。しかし、城方はこれを頑強に迎え撃った。城将は「最上の智将」と謳われた志村伊豆守光安、副将には「剛勇」で知られる鮭延越前守秀綱 23 。この二人の名将に率いられたわずか1,000の兵は、決死の覚悟で防戦に徹した 11 。一方、山形城の最上義光は、この日、嫡男の義康を急使として北目城の伊達政宗のもとへ派遣。伯父甥の関係にある政宗に対し、正式に援軍を要請した 11 。
9月16日: 長谷堂城の孤立を防ぐため、最上義光は自ら3,000の兵を率いて山形城を出陣。山形城と長谷堂城の間を流れる須川の東岸に布陣し、城を後方から支援するとともに、上杉軍にプレッシャーを与える構えを見せた 11 。
9月17日: 膠着状態を打破すべく、副将・鮭延秀綱が動く。彼は少数精鋭の決死隊を率いて城門を開くと、包囲する上杉軍の一角に電撃的な奇襲を敢行した。不意を突かれた上杉勢は混乱し、秀綱隊は敵陣を蹂躙して武功を挙げた 11 。この鬼神の如き戦いぶりは、敵である直江兼続をして「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と感嘆せしめたと伝えられている 24 。この出撃は、籠城する兵たちの士気を大いに高めると同時に、上杉軍に対して「長谷堂は容易ならず」という心理的な圧力を与えることに成功した。
9月21日: 最上からの援軍要請から6日が経過。この間、伊達政宗は動かなかった。しかし、山形城にいる政宗の母・保春院(義光の妹)からの再三にわたる「甥を見殺しにする気か」という趣旨の厳しい催促を受け、政宗はついに重い腰を上げる 11 。叔父である留守政景に3,000の兵を預け、援軍として派遣。伊達軍は笹谷峠を越え、山形城の東方に位置する小白川に着陣した 11 。
9月25日: 伊達の援軍到着という報に力を得た最上義光は、再び山形城を出て須川べりに布陣。上杉軍に対する圧力を強めた 11 。
9月29日: 開戦から半月が経過し、焦りを募らせた上杉軍は、この日、城に対する総攻撃を敢行した 11 。戦いは攻防開始以来、最も激しい局面を迎える。城を守る志村光安は、深田に囲まれた天然の要害という地の利を最大限に活かし、巧みな指揮で上杉軍の猛攻を凌ぎ続けた 4 。そんな中、この日の激戦で上杉軍に大きな悲劇が起こる。上杉軍の勇将として知られた上泉主水泰綱が、最上軍の反撃を受けて討死したのである 11 。泰綱は、新陰流の創始者である剣豪・上泉信綱の孫とも言われる猛将であり、その死は上杉軍の士気に計り知れない打撃を与えた 26 。
長谷堂城が15日間もの長きにわたり、10倍以上の兵力を持つ敵の猛攻に耐え抜いた理由は、単なる兵士たちの勇猛さだけでは説明できない。そこには、二人の指揮官による絶妙な役割分担が存在した。城将・志村光安は「智将」の名にふさわしく、地形を利用した防御戦術や効果的な夜襲など、知略を駆使して敵を翻弄した 4 。彼の指揮は、籠城戦における「頭脳」であった。一方、副将・鮭延秀綱は「剛勇」の将として、自ら先頭に立って城外へ打って出ることで、兵の士気を極限まで高め、敵に恐怖を植え付けた 23 。彼の武勇は、防衛戦における「心臓」であった。この志村の「智」と鮭延の「勇」、静と動の二つの要素が見事に融合し、機能したことこそが、圧倒的な兵力差を覆す奇跡的な防衛を可能にした核心的な要因であったと言えよう。
第三章:独眼竜の深謀—伊達政宗の計算と野心
慶長出羽合戦の推移において、最も複雑かつ深遠な動きを見せたのが、「独眼竜」伊達政宗であった。伯父・最上義光の窮地に際し、彼が取った行動は、単なる血縁や同盟関係に基づくものではなく、自らの野望と天下の趨勢を見据えた、冷徹な政治的計算に貫かれていた。
援軍要請に対する政宗の逡巡と政治的判断
最上義光からの必死の援軍要請に対し、政宗は即座には応じなかった 11 。この遅延の裏には、彼の狡猾な戦略があった。政宗は、最上家と上杉家が互いに消耗し、共倒れになることを望んでいた節がある。最上家が上杉軍によって弱体化すれば、戦後にその領土を労せずして手に入れることができるかもしれない。いわゆる「漁夫の利」を狙っていたのである 28 。
しかし、彼が最終的に援軍派遣を決断したのは、二つの大きな要因があった。一つは、母・保春院からの感情的な、しかし無視できない強い要請である 11 。そしてもう一つは、より重要な戦略的判断であった。もし最上家がこのまま滅亡すれば、上杉という強大な勢力と自領が直接国境を接することになる。それは伊達家にとって、あまりにも大きな脅威であった。最上家の存在は、上杉に対する緩衝地帯としての価値があったのである。政宗は、最上家を「生かさず殺さず」の状態で利用し、自らの利益を最大化するという、極めて高度な政治的判断を下したのである。
「百万石のお墨付き」と上杉領侵攻
政宗の野心をさらに掻き立てていたのが、関ヶ原の開戦前に徳川家康から与えられていた、ある破格の約束であった。家康は、対上杉戦における政宗の功績次第で、かつて秀吉に没収された伊達家の旧領などを恩賞として与え、その所領は合計で100万石にも達することを保証していた。これが世に言う「百万石のお墨付き」である 16 。
この約束を反故にさせないためにも、政宗は目に見える戦功を挙げる必要があった。そこで彼は、二兎を追う作戦を展開する。一方では、最上家へ最小限の援軍を派遣して恩を売りつつ、もう一方では、上杉軍の主力が最上領に釘付けになっている隙を突いて、手薄になった上杉領南部(白石城など)へ自軍の主力を侵攻させたのである 13 。これは、最上への援軍という「家康への忠義」と、自力での領土切り取りという「実利」の両方を手に入れようとする、実に政宗らしい野心的な行動であった。
しかし、彼の行動には慎重さ(あるいは日和見主義)も垣間見える。9月27日頃、政宗は自らが出陣する予定を突如延期する。その理由として家臣に宛てた書状には、「今少し、上方の様態をも聞き届け」と記されており、関ヶ原の本戦の勝敗が確定するまでは、決定的な行動を避け、情勢を見極めようとする冷静な計算が働いていたことがわかる 28 。
政宗が描いた戦略の根底には、一つの大きな前提があった。それは、関ヶ原の戦いも、慶長出羽合戦も、長期化するという読みである。戦が長引けば長引くほど、奥羽における彼の存在価値は高まり、家康も上杉も彼を味方に引き入れようと、より有利な条件を提示してくるだろう。彼は、自らをキャスティングボードとして、混乱の中で自家の利益を最大化しようと企図していた。
だが、ここに政宗の生涯における最大の誤算があった。彼の緻密な計算は、時代の変化の速度を見誤っていたのである。慶長5年9月15日、関ヶ原の本戦は、彼の予想を遥かに超え、わずか半日で決着してしまった 17 。徳川家康が早々に絶対的な勝利者として君臨したことで、政宗が立ち回る余地は一夜にして消え去った。彼の援軍派遣の遅延、火事場泥棒のような領土侵攻、そして後に発覚する和賀一揆の扇動といった自己中心的な動きは、もはや交渉のカードではなく、天下人となった家康に対する不信の証拠として、全てが白日の下に晒されることになったのである。独眼竜の野心は、天下の趨勢という巨大な歯車の回転速度についていくことができず、結果として「百万石」という最大の果実を取り逃がす直接的な原因となったのであった。
第四章:天下分け目の報と戦局の反転
長谷堂城を巡る攻防が15日間に及び、両軍ともに疲弊し、戦線が膠着状態に陥っていた慶長5年9月末。この均衡を根底から覆す、一つの情報が戦場にもたらされた。それは、約500キロメートル離れた美濃国関ヶ原からの、天下の帰趨を決する報せであった。この情報こそが、刀や鉄砲をも凌ぐ最強の兵器として機能し、長谷堂の戦いの運命を決定づけることになる。
関ヶ原における西軍敗北の報の伝達
慶長5年9月15日、関ヶ原において徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突。小早川秀秋の裏切りを契機として戦局は一変し、戦いはわずか半日で東軍の圧勝に終わった 32 。
この歴史的な勝利の報せは、早馬によって各地へ伝えられた。奥羽の地にこの情報が到達したのは、それから約2週間後の9月29日から30日にかけてのことである 4 。情報伝達の速さは、その経路や重要度によって左右された。9月30日の夜、伊達政宗のもとに、徳川家康本人からの使者によって、関ヶ原における勝利を告げる公式の書状が届けられた。政宗はこの確報を得ると、直ちに家臣を最上義光のもとへ走らせ、この重大な報せを伝えたのである 28 。
両軍の士気の劇的な変化
「関ヶ原にて、西軍大敗。石田三成は敗走せり」
この一報がもたらした影響は、劇的であった。物理的な兵力バランスには何の変化もなかったにもかかわらず、両軍の士気と心理状態は、この瞬間を境に天と地ほどに逆転した。
- 最上軍: 絶望的な籠城戦を強いられ、明日の命も知れぬ状況にあった最上軍にとって、この報せはまさに天佑であった。味方である東軍が勝利したことで、自分たちの戦いが正義であり、勝利は目前であると確信した。兵たちの士気は天を衝くほどに高揚し、これまで耐え忍んできた防衛戦から、一転して反撃への意欲を燃やし始めた 4 。
- 上杉軍: 一方、上杉軍は深刻な動揺に見舞われた。味方である西軍が本戦で壊滅した以上、この出羽の地で戦闘を継続することは、戦略的に全く無意味であるばかりか、退路を断たれて殲滅される危険を伴う愚行でしかない 4 。兵たちの間には動揺が広がり、士気は急速に低下していった。通説では、この敗報が撤退の直接的な理由とされているが、当時の史料を詳細に分析すると、上杉方がこの時点で西軍の敗北をどの程度正確に把握していたかは不明確であるという見方も存在する 28 。しかし、いずれにせよ、戦況が自軍にとって決定的に不利になったことを悟ったのは間違いない。
直江兼続の決断
総大将である直江兼続は、この報に接し、万策尽きたことを悟った。一説によれば、彼は主君・景勝に申し訳が立たないとして、この場で自害することを覚悟したという 16 。
しかし、その兼続を押しとどめたのが、客将として上杉軍に身を寄せていた当代きっての傾奇者、前田慶次(利益)であったと伝えられる。慶次は、死をもって責任を取ろうとする兼続に対し、「生きてこそ、主君への忠義を果たす道もある。今、大将が死んで、この数万の兵を誰が故郷へ返すのか」と一喝し、その短慮を諫めたという 16 。
慶次の言葉に我に返った兼続は、自らの命を絶つことよりも、一人でも多くの兵を無事に米沢へ帰還させることが、今なすべき最大の責務であると決断する。彼は全軍に対して、即時撤退を命令した。ここから、戦国史上屈指の見事な撤退戦として後世に語り継がれる、「直江の退き口」が始まるのである。
長谷堂の戦いの結末が示したものは、戦国時代がもはや単なる武力と武力が衝突する時代から、情報や政治戦略が戦況を左右する、より複雑な近世へと移行する過渡期にあったという事実である。一つの「情報」が、数万の軍勢の動きを完全に支配し、戦いの勝敗を決定づけた。戦いは、もはや戦場の中だけで決するものではなくなっていた。情報こそが、最強の兵器となり得る時代の幕開けを、この長谷堂の戦いは象徴していたのである。
第五章:壮絶なる撤退戦—「直江の退き口」
関ヶ原における西軍敗北の報は、長谷堂の戦局を一夜にして覆した。これまで攻勢を続けてきた上杉軍は一転して撤退を余儀なくされ、絶望的な防衛戦に耐えてきた最上軍は勢いづいて追撃に転じる。ここから始まる上杉軍の撤退戦は、単なる敗走ではなく、総大将・直江兼続の卓越した指揮能力と、殿(しんがり)を務めた武将たちの壮絶な覚悟が織りなす、戦国史に燦然と輝く戦術的後退であった。それは、織田信長の「金ヶ崎の退き口」 35 や、関ヶ原における「島津の退き口」 36 と並び称されるべき、見事な撤退劇であった。
10月1日、撤退開始と最上・伊達連合軍の猛追
慶長5年10月1日、夜明けと共に上杉軍は一斉に撤退を開始した 16 。包囲を解き、米沢への帰還の途についたのである。この動きを察知した最上・伊達連合軍は、好機到来とばかりに猛烈な追撃を開始した。攻守は、この日を境に完全に逆転した 13 。
勢いに乗る最上軍の追撃は熾烈を極めた。特に、追撃の陣頭に立っていた総大将・最上義光自身が、富神山付近で上杉軍の鉄砲隊による狙撃を受け、その銃弾が兜に命中するという危うい場面もあった 1 。幸いにも兜が銃弾を弾き、義光は九死に一生を得たが、この逸話は追撃戦がいかに激しいものであったかを物語っている 13 。伊達政宗は、この追撃戦において伊達軍が80余の首級を挙げる戦果を挙げたものの、「最上軍の戦いぶりが手ぬるかったために、上杉軍を全滅させることができなかった」と後に書状で不満を述べており、両軍の連携が必ずしも万全ではなかったことを示唆している 28 。
殿軍(しんがり)の奮戦—前田慶次と水原親憲
数万の軍勢が整然と撤退するためには、最後尾で追撃する敵軍を食い止め、本隊が退く時間を稼ぐ「殿」部隊の存在が不可欠である。この最も危険で、生還の保証がない任務に、上杉軍の誇る猛将たちが名乗りを上げた。
- 前田慶次: 天下御免の傾奇者としてその名を轟かせた前田慶次は、「負け戦こそ、腕の振るい甲斐がある」と豪語し、自ら殿軍を引き受けたとされる 34 。彼は水原親憲らと共に殿軍を指揮し、追撃してくる最上軍の前に幾度となく立ちはだかった。少数の手勢を率いては敵中に突撃し、混乱させては退くという神出鬼没の戦いぶりで、追撃の勢いを巧みに殺いだ 13 。『奥羽永慶軍記』には、この時の慶次の姿が壮絶に描かれている。追撃を振り切って本陣へ引き返してきた時、彼の鎧には七、八本の矢が突き刺さって折れており、愛用の槍は歪み、刃はこぼれ、人も馬も返り血で真っ赤に染まっていたという 26 。
- 水原親憲: 前田慶次と共に殿軍の重責を担った水原親憲もまた、その冷静な指揮で軍功を挙げた。彼は特に鉄砲隊の運用に長けており、効果的な一斉射撃によって、深追いしてくる最上軍の足止めに大きく貢献した 28 。慶次の「動」の武勇に対し、親憲は「静」の戦術で、見事に殿の役割を果たしたのである。
彼ら殿軍の文字通り命を懸けた奮戦により、直江兼続率いる上杉軍本隊は壊滅的な打撃を免れ、その隊列を乱すことなく、整然と米沢への撤退を成功させることができた 13 。
多様な「武士の死生観」の顕現
この慶長出羽合戦は、戦場に生きた武将たちの多様な「死生観」が凝縮された、人間ドラマの舞台でもあった。
畑谷城の江口光清は、主君の撤退命令に背いてでも、自らの持ち場を死守し、城と運命を共にすることに武士としての「義」を見出した。上杉軍の上泉泰綱は、一度は撤退を進言した手前、引くに引けぬ状況で敵中に突入し、壮絶な討死を遂げることで武士としての「名誉」を保った 26 。
一方で、前田慶次は全く異なる価値観を示した。彼は、敗戦の責任を取って自害しようとする総大将・兼続を「生き延びてこそ果たせる忠義がある」と諫めた。そして自らは、最も死に近い殿という任務に身を投じ、死ぬべき場所で死ぬ覚悟を示しながらも、見事に生還を果たした。
城と運命を共にする死、名誉を守るための死、そして主君と仲間を生かすために死地に身を投じながらも生き抜く道。武士の理想とされる「死に様」が一様ではないことを、この戦いは鮮烈に示している。これら多様な死生観が交錯した人間ドラマこそが、長谷堂の戦いを単なる戦術史以上に、我々の心を惹きつけてやまない理由なのである。この見事な撤退戦は、敵であった徳川家康ですら後に賞賛したと伝えられており、「直江の退き口」は戦国史にその名を深く刻むこととなった 39 。
終章:戦後の奥羽と歴史的意義
長谷堂の戦いを中核とする慶長出羽合戦の終結は、奥羽地方の勢力図を劇的に塗り替え、徳川家康による新たな天下の秩序、すなわち江戸幕府の成立へと直結する重要な一歩となった。この戦いは、関ヶ原の本戦と表裏一体となり、徳川による260余年の泰平の世の礎を築く上で、決定的な役割を果たしたのである。
論功行賞—最上家と上杉家の明暗
戦後の論功行賞において、勝者と敗者の運命は、残酷なまでに明確なコントラストを描いた。
- 最上義光: 絶望的な兵力差にもかかわらず、上杉軍の大軍を領内で食い止め、家康の背後を脅かすことを防いだ最上義光の功績は、家康によって最大限に評価された。戦後、義光は従来の24万石に加え、上杉領であった庄内地方などを加増され、一挙に57万石の大大名へと躍進した 17 。これは最上家にとって史上最大の版図であり、以後、山形藩は「最上百万石」と称されるほどの繁栄を誇る黄金時代を迎えることになる 23 。
- 上杉景勝: 西軍の主要大名として家康に敵対した上杉景勝は、厳しい処分を免れなかった。会津120万石という広大な領地は没収され、出羽米沢30万石へと大幅に減封された 16 。しかし、直江兼続は減封という苦境の中でこそ、その内政手腕を遺憾なく発揮する。彼は米沢藩の藩政の基礎を固め、城下町の整備や産業の振興に尽力し、後世に続く米沢藩の礎を築いた。敗軍の将となりながらも、彼は領民のために尽くし、名宰相としてその名を歴史に留めることになったのである 23 。
伊達政宗の誤算と「百万石のお墨付き」の反故
一方、戦乱に乗じて自家の利益を最大化しようと画策した伊達政宗の野望は、思わぬ形で潰えることとなった。戦後、政宗が関ヶ原の混乱に乗じ、旧領回復を狙う和賀忠親を背後で支援して南部領に一揆を扇動していたことが、家康の知るところとなったのである 16 。
この「和賀一揆」扇動事件は、天下人となった家康の政宗に対する不信感を決定的なものにした。結果として、戦前に約束されていた「百万石のお墨付き」は一方的に反故にされ、政宗の加増は、自力で上杉から奪い取った刈田郡2万石を追認されるに留まった 16 。天下の趨勢を見誤り、自らの策謀に溺れた政宗は、生涯の悲願であった百万石の大大名となる機会を、自らの手で失ってしまったのであった。
「北の関ヶ原」が徳川幕府の全国支配体制確立に果たした役割
長谷堂の戦いは、単なる一地方の合戦ではなかった。この戦いで最上・伊達ら東軍側が勝利を収めたことにより、奥羽地方における徳川方の優位は完全に確立された。もし、最上家が敗れ、上杉軍が関東へ南下するような事態となっていれば、関ヶ原の勝者であった家康も、その後の天下統一事業において大きな困難に直面したことは間違いない。
上杉景勝という巨大な反徳川勢力を東北の地に封じ込めたことで、家康は後顧の憂いなく、西国大名の処分や豊臣家の処遇といった戦後処理、そして江戸幕府の創設という全国支配体制の構築に全精力を傾けることができたのである 3 。その意味において、長谷堂の戦いは、関ヶ原の本戦と並び立つ、徳川幕府成立の重要な布石であったと言える。
戦いが終わった後、長谷堂の地には、この戦いで討死した上杉の将・上泉泰綱を弔う「主水塚」が建てられた 23 。この塚は、敵であった最上領の住民たちが、泰綱の武勇を惜しみ、敵味方の区別なくその死を悼んで建立したものと伝えられている。戦の世の非情さと、その中にあっても失われることのなかった人の情け。主水塚は、長谷堂の戦いが残した血と涙の記憶を、そしてそれを乗り越えようとした人々の思いを、400年以上の時を超えて静かに語り続けている。
引用文献
- 米澤前田慶次の会 慶次と米沢 - Biglobe http://www7b.biglobe.ne.jp/~maedakeiji/keijiyonezawa.html
- 関ヶ原の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7045/
- 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 【関ヶ原の舞台をゆく⑤】日本中で行なわれた「関ヶ原の戦い」~北と南の関ヶ原はどう終結したのか - 城びと https://shirobito.jp/article/519
- 上杉景勝が家康に送った「直江状」は偽文書か? “否定派vs.肯定派”専門家の見解 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10228
- 直江状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6
- 直江状写 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/164342
- 伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10839
- 最強悪女伝説!?伊達政宗の母・義姫が、80日間戦場で居座り続けた理由 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/80638/
- 最上家と最上義光について:最上義光歴史館 - samidare https://samidare.jp/yoshiaki/lavo?p=list&o=&ca=1&off=48
- 北の関ヶ原、長谷堂合戦 家康に天下を取らせた戦い | My favorite things about Yamagata https://my-favorite-things-about-yamagata.com/togo/%E5%8C%97%E3%81%AE%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%80%80%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%A0%82%E5%90%88%E6%88%A6/
- 武内涼『駒姫: 三条河原異聞』 - 魔性の血 https://www.eureka0313.com/entry/Koma_Hime
- 直江兼続の最上侵攻 - 最上義光歴史館 https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=110429
- 長谷堂城跡公園 散策マップ - 山形市 https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/675/2025hasedou.pdf
- 畑谷城ガイド|東北の観光スポットを探す https://www.tohokukanko.jp/attractions/detail_1003004.html
- 慶長出羽合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%90%88%E6%88%A6
- 上杉家と最上家、そして伊達家の慶長出羽合戦について語ろうぞ - さんたつ by 散歩の達人 https://san-tatsu.jp/articles/344710/
- 市長のやまがた自慢「長谷堂城跡」 - 山形市 https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/shicho/1006787/1006792/1005474.html
- 北の関ヶ原合戦と 上杉家の思惑 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/tohoku-pdf/tohoku_2019-05.pdf
- 駒姫 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46518/
- 畑谷城跡:やまのべ観光ガイド - 山辺町観光協会 https://sp.yamanobekanko.com/?p=detail&d=7502
- 畑谷城址|山形 - ドーン太とおでかけLOG - FC2 https://orion121sophia115.blog.fc2.com/blog-entry-4849.html
- あらすじ - 「直江兼続VS最上義光」~決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦 http://dewa.mogamiyoshiaki.jp/?p=special
- 鮭延秀綱・ホームレス大名が結んだ姉妹都市の絆~『鮭様』の部下は名字も鮭!? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=gsHC3NC9usw
- 上泉主水泰綱 - 米沢観光ナビ https://www.yonezawa-kankou-navi.com/person/kamiizumi.html
- 泰綱と慶次 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/uesugi/serious09.html
- 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/21.html
- (4ページ目)上杉軍の猛攻も虚しく撤退…最上・伊達軍の“粘り勝ち ... https://dot.asahi.com/articles/-/200306?page=4
- 「北の関ヶ原」で政宗は最上義光からの援軍要請にどう答えたのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22908
- 伊達政宗の名言・逸話39選 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/18
- 政宗が家康に取り付けた百万石のお墨付きはどうなったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22910
- 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
- 第40回 関ヶ原の戦い - 歴史研究所 https://www.uraken.net/rekishi/reki-jp40a.html
- 前田慶次は何をした人?「天下御免!戦国随一の傾奇者は雲のように悠々と生きた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/keiji-maeda
- 金ヶ崎の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%83%B6%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 『関ヶ原 島津退き口 -義弘と家康―知られざる秘史-』(著/桐野作人)、撤退戦の壮絶さを生々しく描き出す - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2022/10/16/141108
- 島津の退き口~島津豊久、運命の烏頭坂 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3318?p=1
- 長谷堂城の戦い ~直江兼続の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/hasedo.html
- 長谷堂合戦跡|直江兼続・米沢.com http://www.naoe-kanetugu.com/connection/hasedou_battle.html
- 最上義光の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/50952/
- 長谷堂城の戦い https://tanbou25.stars.ne.jp/hasedou.htm
- 伊達政宗が支援した「岩崎一揆」は失策か? 和賀忠親が見せた名家 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10835
- 岩崎一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86
- 伊達政宗は徳川家康の求めで関ケ原の戦いへ!2万石加増と仙台築城を許される - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/6293/?pg=2