門司城合戦(1559~60)
関門の潮、燃ゆる時:門司城合戦(1559-1560)のリアルタイム戦史
序章:龍虎、関門に相見える - 合戦前夜の北九州情勢
日本の戦国史において、数多の合戦が繰り広げられたが、その中でも毛利元就と大友義鎮(後の宗麟)という、中国地方と九州の二大巨頭が初めて本格的にその力を衝突させた「門司城合戦」は、北九州の勢力図を塗り替える上で決定的な意味を持つ戦いであった。この合戦は単なる一城の争奪戦に留まらず、西国に覇を唱えた大内氏の滅亡という巨大な権力の真空地帯を、誰が埋めるのかを問う代理戦争の様相を呈していた。
落日の大内家と権力の空白
弘治3年(1557年)、毛利元就の謀略の前に、大内氏最後の当主・大内義長(大友義鎮の弟)は自刃に追い込まれ、西国に長らく君臨した名門・大内氏は滅亡した 1 。これにより、周防・長門から北九州の豊前・筑前にまで及んでいた広大な旧大内領は、主を失った。この権力の空白は、隣接する二つの巨大勢力、すなわち中国地方の覇権を確立しつつあった安芸の毛利氏と、九州六ヶ国の守護職を手中に収め、名実ともに九州の王者となっていた豊後の大友氏にとって、見過ごすことのできない戦略的機会をもたらした。
西国と九州、二大勢力の直接対峙
大内氏という、両者の間に存在した巨大な緩衝地帯が消滅したことで、毛利と大友は門司を挟んで直接国境を接することとなった 1 。毛利元就は、周防・長門を完全に併呑し、その勢いのままに関門海峡を越え、九州へ勢力を拡大する野望を抱いていた 3 。一方、大友義鎮は、弟を見殺しにするという苦渋の政治的判断を下してまで毛利との直接対決を避けたものの、大内氏滅亡後は速やかに豊前・筑前の支配権を確保し、幕府や朝廷への外交工作を通じて九州探題の地位をも獲得していた 1 。彼にとって、毛利の九州進出は自らの覇権に対する許しがたい挑戦であり、門司城はその最前線であった。
門司城の地政学的価値
門司城は、本州と九州を隔てる関門海峡の最も狭隘な地点を見下ろす古城山に築かれた、まさに「九州の喉元」と言える戦略的要衝であった 1 。この城を制する者は、関門海峡の制海権と海上交通を掌握し、九州への侵攻、あるいはその防衛において絶対的な優位を確保することができる。したがって、門司城の領有権は、単に一つの城の帰属を巡る問題ではなく、今後の毛利・大友両家の国境線をどこに引くか、そして北九州全体の支配権の行方を占う、極めて重要な意味を持っていたのである 5 。この二年間にわたる攻防は、永禄4年(1561年)に繰り広げられる、より大規模な死闘の前哨戦としての性格を色濃く帯びていた。
表1:門司城合戦(1558-1560年)主要時系列表
年月日 |
戦況 |
大友方主要武将 |
毛利方主要武将 |
永禄元年(1558)6月 |
毛利軍、門司城を電撃攻略。橋頭堡を確保。 |
怒留湯氏 |
仁保隆慰、小早川隆景 |
永禄二年(1559)9月26日 |
大友軍、大軍をもって門司城を包囲。 |
田原親宏、田原親賢 |
仁保隆慰 |
永禄二年(1559)10月 |
毛利水軍、反撃開始。浦宗勝が奇襲上陸。 |
- |
毛利隆元、小早川隆景、浦宗勝 |
永禄二年(1559)10月下旬 |
毛利水軍別動隊、大友軍の兵站路を遮断。 |
- |
児玉就方 |
永禄二年(1559)11月5日 |
大友軍、兵站を断たれ、夜陰に乗じて撤退。 |
田原親宏 |
- |
永禄三年(1560)12月 |
毛利軍、奇襲により門司城を再奪回。 |
怒留湯直方 |
仁保隆慰 |
第一章:先手必勝 - 毛利、門司城を電撃攻略す(永禄元年/1558年)
大内氏滅亡後の混乱が続く永禄元年(1558年)6月、毛利元就は動いた。彼は、大友義鎮が九州探題補任といった幕府への外交工作に注力し、権威の確立を急いでいる隙を巧みに突いたのである 3 。権威よりも実利を重んじる元就は、軍事的な実効支配を先行させることで、北九州における主導権を握るべく先制攻撃を仕掛けた。
作戦の主力は、厳島の戦い以来、毛利の躍進を支え続けてきた小早川隆景率いる精強な水軍であった 2 。彼らは怒涛の勢いで関門海峡を渡り、大友方が押さえていた門司城に襲いかかった。城を守っていた大友方の将、怒留湯(ぬるゆ)氏らは抵抗も虚しく駆逐され、九州の玄関口はあっけなく毛利の手に落ちた 2 。
城を攻略した元就は、すぐさま次の一手を打つ。城将として送り込んだのは、旧大内家の奉行衆であった仁保右衛門大夫隆慰(にほ うえもんのたいふ たかやす)であった 2 。これは単なる軍事配置ではない。旧大内家臣であった仁保隆慰を城将に据え、三千の兵で守りを固めさせることは、同じく旧大内家臣であった豊前・筑前の国人衆に対し、「毛利こそが大内氏の正当な後継者である」という強力な政治的メッセージを発し、彼らを味方に引き入れるための高度な調略であった。この一手により、毛利氏は九州侵攻のための極めて重要な足がかり(橋頭堡)を確保すると同時に、現地の諸勢力を巧みに懐柔する布石を打ったのである。
表2:大友・毛利両軍の戦力比較分析表(1559年時点)
比較項目 |
大友軍 |
毛利軍 |
総大将の特性 |
大友義鎮(外交・権威を重視し、自ら陣頭指揮を執ることは少ない 8 ) |
毛利元就(謀略・調略の天才、現実主義者) |
主力兵科 |
陸上兵力(九州諸国の国人衆からなる大軍) |
水軍(小早川・村上水軍など、瀬戸内海の制海権を掌握) |
陸軍戦力 |
質・量ともに九州随一。動員力に優れる。 |
兵力は限定的だが、精鋭揃い。 |
水軍戦力 |
若林鎮興ら豊後水軍を擁するが、活動範囲は限定的 9 。 |
質・量ともに西日本随一。海上の機動力は圧倒的 2 。 |
戦略思想 |
大軍による正攻法を好み、力で敵を圧倒する傾向。 |
海陸連携による奇襲、攪乱、兵站攻撃を得意とする。 |
弱点 |
瀬戸内海を越えての大規模な兵站維持能力。水軍の戦略的活用。 |
大規模な陸上兵力を九州へ継続的に投射する能力。 |
第二章:豊後の逆襲 - 大友、城の奪還に動く(永禄二年/1559年)
毛利による門司城の電撃的な攻略は、九州の覇者たる大友義鎮の逆鱗に触れた。永禄2年(1559年)、義鎮は毛利の橋頭堡を粉砕すべく、満を持して大軍を動かした。ここから、関門海峡を舞台にした両雄の知略と武力が激突する、緊迫した攻防戦の幕が上がる。
【1559年9月26日】大軍、門司城を包囲
この日、大友軍の先鋒が門司城下に殺到した。『豊後国志』によれば、「豊後衆大勢門司の城へ取掛候」とあり、田原親宏・親賢といった大友家の重臣が率いる大軍が、城を幾重にも包囲した 6 。城内で籠城する毛利方の城将・仁保隆慰と三千の兵は、圧倒的な兵力差の前に、絶体絶命の危機に瀕した 2 。
【1559年9月下旬~10月】防府の毛利本営と救援軍の出陣
門司城落城寸前の急報は、直ちに安芸の毛利元就のもとへ届けられた。元就は即座に反応する。まず、長男の毛利隆元を総大将として防府の松崎天満宮に本陣を構えさせ、後方支援と全軍の指揮を統括させた 2 。そして、実戦部隊の指揮官として、三男であり毛利水軍の司令官でもある知将・小早川隆景を先鋒に指名した 6 。隆景は救援のため、麾下の水軍を率いてただちに対岸の赤間関(現・下関市)へと進出した。
【1559年10月】毛利水軍の妙技 - 挟撃態勢の構築
赤間関から門司城を包囲する大友の大軍を目の当たりにした隆景は、陸上での正面衝突という愚策を避けた。彼は、毛利が絶対的な優位を持つ「海上」へと戦いの主軸を移し、水軍の機動力を最大限に活用する作戦を展開する 12 。
隆景はまず、麾下の勇将・浦兵部丞宗勝(後の乃美宗勝)に一隊を授け、門司と小倉の中間地点への敵前上陸を命じた 2 。浦宗勝の部隊は巧みに上陸を成功させると、門司城を包囲する大友軍の背後を突き、城兵と呼応して挟撃する態勢を構築した 12 。これにより、大友軍は前面の堅城と、背後の神出鬼没な毛利軍という二つの脅威に同時に対応せざるを得なくなり、その包囲網に動揺が走った。
【1559年10月下旬】第二の上陸部隊 - 兵站線への致命的打撃
しかし、隆景の策は単なる戦術的な挟撃に留まらなかった。彼はさらに、毛利水軍の提督・児玉内蔵丞就方に別動隊を率いさせ、大友軍の生命線そのものを断ち切る、より大胆な作戦を命じていた 2 。
児玉就方の水軍は、大きく豊前沖を迂回すると、大友軍の本国・豊後との連絡拠点である中津の沖合にまで進出し、上陸を敢行した 2 。これは、門司城に集中する大友軍の補給路、すなわち兵糧や矢弾が送られてくる兵站線を根元から遮断する、極めて効果的な戦略的奇襲であった。陸の戦力で優位に立つ大友軍に対し、毛利軍は「海の機動力」という非対称な戦力を用いて、敵の強みを無力化し、その最大の弱点である兵站を徹底的に攻撃したのである。
【1559年11月上旬】兵站線の危機と大友軍の決断
背後を浦宗勝に脅かされ、さらに本国からの補給路を児玉就方に断たれた大友軍は、深刻な物資不足に陥った 2 。半年近くにも及ぶ長期の包囲戦で将兵の疲労は極限に達しており、これ以上の攻城続行は全軍の壊滅を意味しかねなかった 4 。大友軍の首脳部は、城の攻略を断念し、撤退するという苦渋の決断を下さざるを得なかった。
【1559年11月5日夜】静かなる撤退
この日の夜、大友軍は夜陰に紛れて一斉に撤退を開始した 2 。毛利水軍による追撃を警戒し、沿岸部を避け、赤坂・小倉から貫山を越えて彦山方面へ抜ける内陸の山道を選択し、本国へと引き上げていった 4 。
この一連の攻防の結果については、史料によって解釈が分かれる部分もある。大友方が一時的に城を奪還し、怒留湯直方を城将として配置したものの、毛利の巧みな反撃によって城の維持が不可能となり、最終的に撤退した、と見るのが妥当であろう 6 。いずれにせよ、大友氏による最初の門司城奪還作戦は、毛利水軍による巧みな海陸連携と兵站攻撃の前に、戦略的な敗北を喫したのである。
第三章:謀神の子ら - 毛利、奇計にて城を再奪取す(永禄三年/1560年)
永禄二年の激しい攻防の後、門司城は大友方の支配下に置かれ、城将として怒留湯直方が守備についていた 6 。大友軍の主力が引き揚げ、毛利の脅威が一時的に去ったと考えたのか、城内の警戒は次第に緩んでいった可能性がある。この一瞬の隙を、稀代の謀将・毛利元就が見逃すはずはなかった。
【1560年12月】仁保隆慰、再び渡海す
永禄三年(1560年)12月、元就は再び門司城を奪回すべく動いた。彼がこの重要な作戦の実行者として選んだのは、かつてこの城を守り、地の利と城の構造を熟知している仁保隆慰であった 7 。
仁保隆慰は少数の精鋭のみを率いると、冬の荒れた関門海峡を秘密裏に渡海した。彼の部隊は、大友方の監視網を巧みに潜り抜け、深夜、門司城下へと到達した。そして、城内の守備兵が完全に油断しきっている夜明け前を狙い、電撃的な奇襲攻撃を敢行したのである 6 。不意を突かれた城将・怒留湯直方と大友方の守備兵は、なすすべもなく混乱に陥り、城は驚くべき速さで再び毛利の手に帰した。この作戦の成功は、毛利方の卓越した情報収集能力、作戦の機密保持、そして何よりも実行部隊の練度の高さを如実に物語っている。
【1560年12月19日】論功行賞と北九州への影響
元就は、この見事な奇襲を成功させた仁保隆慰の功績を、破格の恩賞で報いた。12月19日付で、隆慰を規矩(きく)一郡の代官職に任命し、門司周辺の6ヶ郷のうち3郷の知行を与えるなど、その功を最大限に称えたのである 6 。
この一連の出来事は、単なる軍事作戦の成功に留まらなかった。それは、北九州の国人衆の心を掴むための、高度な「政治的パフォーマンス」でもあった。永禄二年の戦いで大友の大軍を退けたことは「毛利は軍事的に強い」ことを証明し、今回の奇襲成功は「毛利は機を見るに敏である」ことを示した。そして、仁保隆慰への手厚い処遇は、「毛利に味方すれば、相応の報酬が得られる」という実利を具体的に示す、最も効果的な宣伝となった。この結果、豊前・筑前の旧大内系国人衆(宗像氏、麻生氏、長野氏など)は、大友氏の支配を見限り、雪崩を打って毛利氏に味方するようになった 6 。毛利元就は、一つの戦の勝利を最大限に政治利用し、北九州における勢力基盤を一気に強固なものとしたのである。
終章:終わらざる戦い - 門司城合戦が残したもの
永禄2年から3年(1559年-1560年)にかけて繰り広げられた門司城を巡る一連の攻防は、北九州の歴史における一つの転換点となった。この戦いが残した影響は、単に城の帰属が毛利氏に移ったという事実以上に、深く、そして広範囲に及ぶものであった。
北九州における勢力均衡の転換
この戦いの結果、毛利氏は門司城という九州への恒久的な橋頭堡を確保することに成功した 6 。これは、大友氏が長年かけて築き上げてきた北九州における支配体制に、巨大な楔が打ち込まれたことを意味する。これまで大友氏の権威に従うか、あるいは反抗しつつも決定的な勢力とはなり得なかった現地の国人衆は、毛利という新たな選択肢を得た。これにより、北九州の勢力均衡は大きく揺らぎ、大友氏の支配力は相対的に低下せざるを得なくなった。
永禄四年の死闘への序曲
しかし、この二年間の戦いは、両雄の決着をつけるには至らなかった。九州の覇者たる大友義鎮にとって、この敗北は到底受け入れがたい屈辱であった。彼はこの雪辱を果たすべく、永禄4年(1561年)には、府内に寄港していたポルトガル船の艦砲射撃まで動員するという、当時としては異例の戦術を導入し、これまでとは比較にならない規模の大軍を率いて再び門司城に襲いかかる 2 。1559年から1560年にかけての戦いは、このより大規模で、より激しい死闘の序曲に過ぎなかったのである。
海陸連携と兵站の教訓
軍事史的な観点から見れば、この合戦は戦国時代の戦闘における海陸連携作戦と兵站の重要性を改めて証明した、格好の事例と言える。特に毛利氏は、自らが絶対的な優位を持つ水軍の機動力を駆使し、敵の強みである陸上の大軍を直接相手にせず、その弱点である兵站線を攻撃することで勝利を収めた 2 。この成功体験は、後の織田信長との石山合戦(木津川口の戦い)などでも活かされる、毛利水軍の基本戦術を確立した戦いとしても評価できる 11 。一方で大友氏にとっては、大軍を動員する能力だけでは勝利は覚束ないという、兵站維持の困難さと重要性を痛感させられる、極めて苦い教訓となったのであった。関門海峡の潮は、この後も幾度となく、両家の野望と血で赤く染まることになる。
引用文献
- 門司城攻防戦 http://www.oct-net.ne.jp/moriichi/battle15.html
- 毛利元就33「大友・毛利氏の攻防②」 - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page112.html
- (大友宗麟と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/20/
- Untitled http://miyako-museum.jp/digest/pdf/saigawa/2-3-3-2.pdf
- 門司城の見所と写真・200人城主の評価(福岡県北九州市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/276/
- 門司城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E5%8F%B8%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 【門司城争奪戦】 - ADEAC https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht041140
- 大友宗麟の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46473/
- 【エピソード22】若林鎮興―大友水軍の大将― | 国際文化学部 | 名古屋学院大学 https://www.ngu.jp/intercultural/column/episode22/
- 戦国大名大友氏の水軍家臣末裔に伝わった史料群 https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/2860/files/kenkyuhokoku_234_05.pdf
- 小早川隆景(こばやかわ たかかげ) 拙者の履歴書 Vol.30〜海を制し命を繋ぐ - note https://note.com/digitaljokers/n/n373715d8c856
- 9. 戦 国 時 代 https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000063485.pdf
- 九州三国志年表 - フレイニャのブログ https://www.freynya.com/entry/2023/05/10/193214