関ヶ原の戦い(1600)
慶長五年、関ヶ原の戦いは豊臣政権の構造的欠陥と家康の野心から勃発。石田三成の義と家康の調略が激突し、小早川秀秋の裏切りで西軍は崩壊。この戦いは徳川幕府の礎を築き、戦国乱世に終止符を打った。
関ヶ原の戦い:天下分け目の戦略、戦術、そして人間ドラマの全貌
序章:天下分け目の胎動 ― 豊臣政権の落日と二つの潮流
慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原で繰り広げられた激闘は、単に一つの合戦の勝敗を決しただけではない。それは戦国乱世の終焉を告げ、その後二百六十年以上にわたる徳川の泰平の世を築き上げる、日本の歴史における決定的な分水嶺であった。この天下分け目の戦いは、しかし、突発的に生じたものではない。その根源は、絶大な権勢を誇った太閤豊臣秀吉の死と共に、豊臣政権が内包していた構造的欠陥と、人間関係の複雑な軋轢が噴出したことにあった。
太閤秀吉の死と権力構造の脆さ
慶長三年(1598年)八月、天下人・豊臣秀吉がその生涯を閉じた 1 。この死は、絶対的権力者の不在という事態以上に、秀吉一個人のカリスマに依存していた豊臣政権の構造的な脆弱性を白日の下に晒すものであった。秀吉は、幼い嫡子・秀頼の将来を深く案じ、その死に際して五大老と五奉行による合議制を敷き、特に五大老筆頭の徳川家康に秀頼の後見を託すという遺言を残した 1 。しかし、この制度そのものが、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝といった方面軍司令官とも言うべき有力大名(五大老)と、石田三成ら秀吉子飼いの行政官僚(五奉行)という、本来は利害も出自も異なる二つの集団を同居させるものであり、権力闘争の温床となることは避けられなかった 2 。
徳川家康の野心と周到な布石
秀吉の死後、最も早く、そして最も大胆に行動を開始したのが、五大老筆頭の徳川家康であった。彼は秀吉の遺言で固く禁じられていた諸大名間の私的な婚姻を次々と推し進め、豊臣政権の法度を公然と無視し始めた 2 。これは単なる権勢の誇示ではなく、伊達政宗や福島正則といった有力大名と姻戚関係を結ぶことで自らの派閥を形成し、豊臣政権を内部から切り崩していくための、極めて計算された戦略的布石であった。かつて秀吉の主君であった織田信長と同盟関係にあり、小牧・長久手の戦いでは秀吉と直接干戈を交えた経験を持つ家康にとって、秀吉への服属はあくまで天下取りの過程における一時的な戦略に過ぎなかったのである 4 。
石田三成の「義」と孤立
家康のこうした露骨な覇権掌握の動きに対し、豊臣家への絶対的な忠誠を誓う石田三成は、それを「豊臣家を蔑ろにする義に反する行為」と断じ、真っ向から対立した 2 。五奉行の筆頭として豊臣政権の実務を担ってきた三成にとって、家康の行動は許しがたい秩序の破壊であった。しかし、彼の強すぎる正義感と合理主義は、時として他者の感情を顧みない傲慢さと受け取られ、多くの武将の反感を買っていた。特に、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、戦地の戦功報告などを巡り、加藤清正や福島正則といった武断派の猛将たちから深い恨みを買っていたことは致命的であった 4 。さらに、秀吉の死を朝鮮に在陣する諸将に秘匿したことも、彼らの三成に対する不信感を決定的にした 2 。
最後の均衡の崩壊 ― 前田利家の死と七将襲撃事件
それでもなお、豊臣政権にかろうじて均衡をもたらしていたのが、五大老の次席であり、秀吉とは織田信長配下時代からの盟友であった前田利家の存在であった。利家が存命中は、家康もその威光を憚り、表立った行動を抑制していた 4 。しかし、慶長四年(1599年)閏三月三日、その利家が病没すると、政権内の最後の「重し」が失われ、事態は一気に動き出す。利家の死の翌日、積年の恨みを爆発させた加藤清正、福島正則、黒田長政ら七将が、三成の大坂屋敷を襲撃するという事件が発生したのである 4 。
この混乱を収拾する仲裁役として登場したのが、徳川家康であった。彼は、襲撃を察知して伏見城に逃れた三成と七将の間に入り、結果として三成を五奉行の職から退隠させ、居城の佐和山城へ蟄居させるという裁定を下した。これは、三成排斥を願う武断派の不満を巧みに利用し、政敵を合法的に中央政界から排除するという、家康の見事な政治的勝利であった。この事件が家康の自作自演であった可能性は極めて高く、彼はこの一件で豊臣政権の主導権を完全に掌握し、大坂城西の丸に入って天下人として振る舞い始めたのである 4 。関ヶ原の戦いの根本原因は、単なる家康と三成の個人的な対立に留まらない。それは、秀吉が一代で築き上げた政権が内包していた「システムの構造的欠陥」と、彼が残した「人間関係の負債」が、その死によって一気に噴出した必然的な帰結であった。
第一部:戦端 ― 会津征伐と西軍の蜂起
石田三成を中央政界から追放し、事実上の最高権力者となった徳川家康。しかし、彼の覇権確立への道は、まだ盤石ではなかった。その野望の前に立ちはだかったのが、五大老の一角を占める会津の上杉景勝であった。家康が仕掛けた「会津征伐」という壮大な陽動は、やがて天下を二分する大乱の直接的な引き金となる。
上杉景勝の挑戦と「直江状」
家康が豊臣政権を壟断していく状況を、義を重んじる上杉景勝は座視しなかった。彼は領国である会津120万石に戻ると、家老の直江兼続に命じ、神指城の築城や街道整備、武具の購入といった軍備増強を公然と開始した 3 。これは、家康の権威に対する明確な挑戦であり、謀反の意志ありと見なされても仕方のない行動であった。近隣の堀秀治らからの報告を受け、家康は景勝に対し、弁明のための上洛を要求する弾劾状を送る。これに対し、兼続が返書として送ったとされるのが、世に名高い「直江状」である。この書状は、家康の詰問に対し理路整然と反論しつつも、随所に挑発的な文言を散りばめたものであり、これを受け取った家康は会津征伐を決意したと伝えられている 6 。
家康の大いなる賭け ― 会津征伐
慶長五年(1600年)六月、家康は豊臣秀頼の名において諸大名に動員をかけ、自ら総大将として会津征伐の途に就いた 6 。これは、表向きは豊臣政権の法度に従わない上杉氏を討伐するという大義名分を掲げつつ、その実、福島正則や黒田長政といった豊臣恩顧の大名を自らの指揮下に組み込み、その忠誠心を試すという高度な政治的狙いがあった。さらに重要なのは、家康が主力を率いて大坂・伏見を空けることで、蟄居中の石田三成に「今こそ挙兵の好機」と誤認させることにあった。反家康勢力を一箇所に炙り出し、一網打尽にするための、家康による壮大な「罠」であったとする見方が有力である 2 。
三成の挙兵と西軍の結成
家康の思惑通り、三成はこの千載一遇の好機を逃さなかった。彼は親友である大谷吉継の制止を振り切り、七月十七日、五大老の一人である毛利輝元を総大将に擁立し、宇喜多秀家らと共に反家康の兵を挙げた 6 。自身の石高が19万石に過ぎない三成にとって、西国一の大名であり、家康と同じ五大老の地位にある毛利輝元を総大将に担ぎ出すことは、西軍の正統性と規模を内外に示し、諸大名の参集を促す上で不可欠であった 2 。ここに、豊臣秀頼を擁する「西軍」が結成された。
小山評定 ― 東軍の結束
七月二十四日、下野国小山(現在の栃木県小山市)に在陣していた家康のもとに、三成挙兵の急報が届く。家康は直ちに会津征伐の中止を宣言し、同行していた諸将を集めて軍議を開いた。これが世に言う「小山評定」である 6 。ここで家康は、その政治家としての大胆さと狡猾さを存分に発揮する。彼は、この戦いが豊臣家への反逆ではなく、秀頼公を蔑ろにし、天下に戦乱を巻き起こそうとする「逆臣・石田三成を討つための戦い」であると巧みに論理をすり替えたのである 15 。
この大義名分は、三成に個人的な遺恨を持つ福島正則ら豊臣恩顧の大名たちの心を捉えた。彼らにとっては、豊臣家への忠誠と、憎き三成の打倒を両立させる絶好の論理であった 16 。正則が真っ先に家康への味方を表明すると、それに続くように諸将も同調し、ここに「東軍」が正式に結成された 2 。この時、家康が正則の真意を測りかねて動揺した際、黒田長政が「正則は三成を骨の髄まで憎んでいる故、決して裏切ることはない」と進言して家康を安堵させた逸話は、東軍内部の人間関係と、家康の調略が個人の感情にまで深く根差していたことを象徴している 18 。家康は「会津征伐」という軍事行動を、全国の大名に踏み絵を迫るための壮大な政治的パフォーマンスへと昇華させ、戦わずして多くの大名を自陣営に取り込むことに成功したのである。
第二部:前哨戦 ― 各地で燃え上がる戦火
関ヶ原での決戦を前に、戦いの火蓋はすでに日本各地で切られていた。これらの前哨戦は、単なる小競り合いではなく、両軍の兵力配備、戦略、そして士気に大きな影響を与え、本戦の行方を左右する重要な意味を持っていた。特に、伏見城、岐阜城、大津城での攻防は、関ヶ原の趨勢を決定づける上で決定的な役割を果たした。
伏見城の戦い(七月十九日~八月一日)
西軍が挙兵して最初の軍事目標としたのは、家康が上方に残した拠点、伏見城であった 8 。城を守るのは、家康の幼少期からの腹心である老将・鳥居元忠。その兵力は、援軍を含めてもわずか1800余りに過ぎなかった 21 。対する西軍は、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら総勢四万。兵力差は歴然としていた。
家康は会津へ出発する前、元忠と最後の酒宴を催し、城を枕に討死することを暗黙のうちに託していたとされる 20 。元忠はその意を汲み、降伏勧告を一切受け付けず、徹底抗戦の道を選ぶ。七月十九日に始まった攻城戦は、元忠率いる城兵の決死の抵抗により、十三日間にも及んだ 21 。三成は、伏見城は一日で陥落させ、その勢いで東軍主力を追撃する算段であったが、この元忠の命を懸けた時間稼ぎにより、西軍の初期戦略は大きく狂うこととなった 22 。八月一日、城内からの裏切りもあって伏見城はついに落城し、元忠以下八百名が討死したが、彼らの犠牲は東軍主力部隊が西上するための貴重な時間を稼ぎ出したのである。
岐阜城の戦い(八月二十三日)
東軍の先鋒部隊である福島正則、池田輝政らは、小山評定の後、ただちに西上を開始した。彼らの最初の目標は、西軍の美濃国における重要拠点、岐阜城であった。城主は、織田信長の嫡孫・織田秀信。彼は当初、家康の会津征伐に従軍する予定であったが、石田三成から「勝利の暁には美濃・尾張二国を与える」という破格の条件を提示され、西軍に与することを決断した 25 。
しかし、この決断は秀信にとって悲劇的な結果を招く。八月二十二日、東軍は木曽川を渡河し、翌二十三日には岐阜城への総攻撃を開始した。かつて岐阜城主であった池田輝政は城の構造を熟知しており、東軍は地の利を活かして猛攻を仕掛けた 25 。秀信は籠城せず、城外で迎撃を試みるも衆寡敵せず、城もわずか一日で陥落してしまった 25 。難攻不落とされた岐阜城のあまりにも早い陥落は、西軍に計り知れない衝撃を与えた。三成は戦略の根本的な練り直しを迫られ、西軍の動揺は深まる一方、東軍の士気は天を衝く勢いで高まった 26 。
大津城の戦い(九月七日~九月十五日)
近江大津城主・京極高次は、その閨閥から「蛍大名」と揶揄されることもあったが、関ヶ原の戦局において極めて重要な役割を演じた。彼は当初、西軍に与する姿勢を見せながら、突如として東軍への寝返りを表明し、手勢三千で大津城に籠城した 30 。大津城は琵琶湖の水運と東海道・中山道を押さえる交通の要衝であり、西軍にとってこの裏切りは看過できるものではなかった 30 。
西軍は、毛利元康を総大将に、九州の猛将・立花宗茂、小早川秀包ら一万五千の精鋭部隊を大津城の攻略に差し向けた 30 。九月七日から始まった攻城戦は熾烈を極め、高次率いる城兵は寡兵ながらも善戦した。しかし、九月十五日、ついに開城勧告を受け入れ降伏する。だが、この日は奇しくも関ヶ原で決戦の火蓋が切られた当日であった 31 。結果として、立花宗茂ら西軍の強力な一万五千の部隊が、関ヶ原の本戦に間に合わないという、西軍にとって致命的な事態を招いたのである 31 。
これらの前哨戦は、家康の周到な調略と、それに呼応した者たちの「個の決断」が、戦全体の趨勢をいかに左右したかを物語っている。鳥居元忠の「忠義」、織田秀信の「迷い」、そして京極高次の「寝返り」。それぞれの選択が、関ヶ原の戦場へと続く道を形作っていった。家康が情報戦と心理戦で優位に立ち、敵の戦力を削ぎ、味方の結束を固めていたのに対し、三成は目の前の軍事目標への対応に追われ、大局的な戦力配分を見誤った。決戦の幕が上がる前に、勝敗の趨勢はすでに大きく東軍へと傾き始めていたのである。
第三部:決戦 ― 関ヶ原、慶長五年九月十五日
慶長五年九月十五日、美濃国関ヶ原。この日、この地に集結した東西両軍合わせて十五万を超える将兵の激突は、日本の歴史の流れを決定づける一日となった。その戦いの様相を、時間の経過と共に詳細に追う。
未明:雨中の進軍と布陣
決戦前夜の九月十四日、関ヶ原一帯は激しい雨に見舞われていた。この雨と闇に紛れ、石田三成率いる西軍主力部隊は大垣城を密かに出発し、関ヶ原へと向かった。敵に察知されぬよう、松明は焚かず、馬の口に枚を噛ませて物音を消すという徹底した情報統制の下での夜間行軍であった 33 。
夜が明ける頃には、西軍は理想的な布陣を完了していた。石田三成は北国街道と中山道が交わる要衝、笹尾山に本陣を構えた。その南には島津義弘、小西行長が続き、正面の天満山には宇喜多秀家の大軍が陣取る。そして、戦場の南に聳える松尾山には、この戦いの鍵を握る小早川秀秋が布陣した。これは、東軍を三方から包囲し、一気に殲滅せんとする「鶴翼の陣」と呼ばれる必勝の陣形であった 33 。
一方、西軍の動きを察知した徳川家康は、十五日の午前二時頃、赤坂の本陣から全軍に関ヶ原への進軍を命令 33 。午前六時頃には東軍も布陣を終え、家康は戦場全体を見渡せる最後方の桃配山に本陣を構えた。両軍の兵力は、名目上は西軍が八万超、東軍が七万五千と西軍がやや上回っていたが、その内実には大きな差があった。
関ヶ原決戦 主要武将兵力一覧表
軍 |
武将名 |
兵力(推定) |
備考 |
東軍 |
徳川家康 |
30,000 |
総大将、桃配山に本陣 |
|
福島正則 |
6,000 |
最前線、先鋒 |
|
黒田長政 |
5,400 |
最前線 |
|
細川忠興 |
5,100 |
最前線 |
|
井伊直政 |
3,600 |
軍監、松平忠吉隊と共に布陣 |
|
本多忠勝 |
500 |
徳川四天王 |
|
池田輝政 |
4,560 |
南宮山方面の抑え |
|
浅野幸長 |
6,510 |
南宮山方面の抑え |
|
(その他合計) |
(約14,000) |
|
|
東軍総兵力 |
約74,000 |
|
西軍 |
石田三成 |
5,820 |
実質的指導者、笹尾山に本陣 |
|
宇喜多秀家 |
17,220 |
最前線、最大兵力 |
|
小西行長 |
6,000 |
最前線 |
|
大谷吉継 |
1,500 |
松尾山正面に布陣 |
|
島津義弘 |
1,658 |
傍観・戦闘不参加 |
|
小早川秀秋 |
15,675 |
松尾山に布陣、後に東軍へ寝返り |
|
脇坂安治 |
990 |
小早川に続き寝返り |
|
朽木元綱 |
600 |
小早川に続き寝返り |
|
小川祐忠 |
2,100 |
小早川に続き寝返り |
|
赤座直保 |
600 |
小早川に続き寝返り |
|
毛利秀元 |
16,000 |
南宮山に布陣、傍観・戦闘不参加 |
|
吉川広家 |
(毛利軍内) |
東軍内通、毛利軍の進路妨害 |
|
安国寺恵瓊 |
1,800 |
南宮山に布陣、傍観 |
|
長束正家 |
1,500 |
南宮山に布陣、傍観 |
|
(その他合計) |
(約10,000) |
|
|
西軍総兵力 |
約82,000 |
|
注:兵力は諸説あり、 34 などの資料を基にした代表的な数値。
午前八時頃:戦端、井伊直政の抜け駆け
夜来の雨は上がったものの、戦場は深い霧に包まれていた。両軍が睨み合う中、膠着状態を破ったのは東軍の軍監・井伊直政であった。この日の先鋒は福島正則隊と定められていたが、直政は家康の四男・松平忠吉の初陣を名目に、わずかな手勢を率いて福島隊の側面をすり抜け、正面の西軍・宇喜多隊に一斉射撃を敢行した 33 。これは明らかな軍令違反、すなわち「抜け駆け」であったが、この一発が天下分け目の戦いの火蓋を切ることとなった 42 。
午前中:激戦と膠着
直政の発砲を合図に、両軍は一斉に激突した。東軍の先鋒・福島正則隊は、兵力で三倍近く上回る宇喜多秀家隊に猛然と襲いかかった。黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らの部隊は、西軍の総大将格である石田三成の本陣・笹尾山を目指して殺到した。三成隊は、猛将として名高い重臣・島左近の獅子奮迅の働きにより、一時は東軍を押し返すほどの奮戦を見せたが、乱戦の中で左近が銃撃を受け負傷、戦線を離脱する 2 。
一方、藤堂高虎・京極高知隊と対峙した大谷吉継隊は、わずかな兵力ながらも巧みな采配で敵の猛攻を防ぎきり、戦線を維持した 44 。戦況は一進一退。三成は、この機を逃さず総攻撃を仕掛けるべく、再三にわたって全軍突撃の合図である狼煙を上げた。しかし、鶴翼の陣の片翼を担うはずだった南宮山の毛利秀元、安国寺恵瓊らの大軍は、先陣にいた吉川広家が東軍と内通し、意図的に進路を塞いだため、動くことができなかった 2 。また、島津義弘隊も三成の指揮下に入ることを潔しとせず、戦闘に参加せず戦況を傍観し続けた 47 。西軍は、布陣の上では優位に立ちながら、その大半が機能不全に陥っていたのである。
正午過ぎ:松尾山の動揺と小早川秀秋の裏切り
戦況が膠着し、両軍が疲弊し始めた正午過ぎ、ついに戦局を決定づける瞬間が訪れる。家康は、いまだ動向の定まらない松尾山の小早川秀秋に対し、決断を促すための威嚇射撃、いわゆる「問い鉄砲」を命じた 48 。
この銃声に狼狽した秀秋は、ついに東軍への寝返りを決断。一万五千を超える大軍に、眼下で奮戦する味方、大谷吉継隊の側面を攻撃するよう下知した 48 。
午後:西軍の総崩れと大谷吉継の最期
秀秋の裏切りは、戦局の均衡を完全に破壊した。この動きを見て日和見を決め込んでいた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった西軍諸将も、堰を切ったように東軍に寝返り、大谷隊に襲いかかった 48 。
大谷吉継は、かねてより秀秋の不審な動きを警戒し、裏切りに備えた部隊を配置していた 44 。彼は、数倍の敵を相手に幾度も押し返すという鬼神の如き奮戦を見せる。しかし、正面の藤堂・京極隊に加え、側面からの小早川隊、そして後方からの寝返り組という三方からの集中攻撃を受けては、いかに知将の吉継といえども支えきれなかった。部隊は壊滅し、最期を悟った吉継は、ハンセン病により崩れた自らの顔を敵に晒すことを恥じ、家臣・湯浅五助に首を打たせた後、自刃して果てた 44 。
大谷隊の壊滅は、西軍全体の崩壊の序曲であった。これを機に宇喜多隊、小西隊も総崩れとなり、戦いの趨勢は完全に決した 53 。
終盤:島津義弘、決死の敵中突破
西軍の敗北が確実となる中、島津義弘は降伏を拒絶。残った約三百の兵を率い、敵である東軍の只中、家康の本陣を目指して正面突破を敢行した。これは、薩摩へ生還するための退路を切り開くための、常軌を逸した決死の退却戦であった。島津軍は、部隊の一部をその場に留まらせて追撃部隊を足止めさせ、全滅するとまた新たな部隊を留まらせるという「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる壮絶な戦術を用いた 58 。この決死の退却戦において、追撃してきた井伊直政、松平忠吉を負傷させるなど東軍に多大な損害を与え、義弘自身はわずか八十余名で薩摩への帰還を果たした 58 。
夕刻:戦いの終わり
午後二時頃には、組織的な戦闘はほぼ終結した。石田三成は笹尾山から脱出し、再起を期して伊吹山方面へと落ち延びていった 53 。家康は桃配山から前線の陣跡に床几を移し、討ち取られた西軍諸将の首実検を行った。わずか半日に満たない戦闘で、天下の趨勢は決したのである。関ヶ原の戦いは、西軍の理想的な布陣が、内部の不信と裏切りによって全く機能せず、逆に自らを崩壊させる罠となった戦いであった。家康の勝利は、軍事的な采配以上に、敵の組織的欠陥を突き、内部崩壊を誘発させた調略の勝利であったと言えるだろう 63 。
第四部:戦後処理と徳川の天下
関ヶ原での軍事的な勝利は、徳川家康にとって天下統一事業の最終段階の始まりに過ぎなかった。彼の真の狙いは、戦後処理を通じて日本の権力地図を根底から書き換え、徳川家による永続的な支配体制を構築することにあった。この「戦後」こそが、もう一つの静かなる戦いの舞台であった。
敗将たちの末路
戦場から逃亡した西軍の首謀者・石田三成は、数日間の潜伏の末、九月二十一日に捕縛された 65 。彼は、同じく捕らえられた小西行長、安国寺恵瓊と共に大坂・堺を引き回された後、十月一日、京都の六条河原において斬首された 38 。処刑の直前、喉の渇きを訴えた三成に警護の者が干し柿を差し出すと、「柿は痰の毒ゆえ食さぬ」と断ったという逸話が残されている。死を目前にしてもなお己の信条を曲げなかった彼の態度は、その生涯を象徴している 66 。
苛烈な論功行賞
家康は、大坂城西の丸に入ると直ちに論功行賞に着手した。その采配は、信賞必罰を徹底しつつも、極めて政治的な計算に基づいていた。
西軍に与した大名には苛烈な処分が下された。宇喜多秀家をはじめとする八十八家が改易(領地没収)、総大将であった毛利輝元は120万石から防長二国37万石へ、上杉景勝は120万石から米沢30万石へと大幅に減封された 35 。これにより家康が新たに配分できるようになった所領は、実に632万石以上に達した 71 。
一方、東軍に参加した諸将には、その功績に応じて莫大な恩賞が与えられた。家康自身の直轄領は、戦前の250万石から400万石へと大幅に増大し、他の大名を圧倒する経済基盤を確立した 68 。池田輝政は播磨姫路52万石、福島正則は安芸広島49万8千石、黒田長政は筑前名島52万3千石など、豊臣恩顧の大名も大幅な加増を受けた 68 。しかし、彼らに与えられたのは、政治の中心である畿内から遠く離れた西国の広大な土地であった。
徳川幕藩体制の確立
この大規模な大名の配置転換こそが、家康の国家デザインの核心であった。江戸を中心とする関東、東海道、そして畿内といった日本の枢要な地域は、結城秀康(越前68万石)や松平忠吉(尾張52万石)といった徳川家の一門や、井伊直政(近江佐和山18万石)ら譜代大名で固められた 68 。そして、潜在的な脅威となりうる豊臣恩顧の有力外様大名は、西国や東北といった遠隔地に封じ込められたのである 71 。これは、江戸の防衛体制を強化すると同時に、外様大名を相互に牽制させ、監視するための巧みな配置であった。関ヶ原の戦後処理によって、その後二百六十年以上続く江戸幕府の支配体制、すなわち幕藩体制の原型が完成したのである。
慶長八年(1603年)、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開府。名実ともに関ヶ原の戦いの最終的な勝者として、天下に君臨することとなった 7 。
関ヶ原に遅参した徳川秀忠
この天下分け目の決戦に、家康の後継者である徳川秀忠は間に合わなかった。彼は三万八千の別動隊を率いて中山道を進軍していたが、道中の信州上田城において、真田昌幸・信繁(幸村)親子の巧みな籠城戦に足止めを食らい、決戦に遅参するという大失態を犯した 74 。報告を受けた家康は激怒し、秀忠との面会を拒絶したが、榊原康政らの必死のとりなしによってようやく許されたという 7 。この失態にもかかわらず、秀忠が後継者の地位を剥奪されなかったのは、家康が彼の思慮深く慎重な性格を、戦乱の世を終結させた後に泰平の世を治める「守成の君」として高く評価していたためとも言われている 77 。
関ヶ原の戦いは一日で終わった。しかし、その後の「戦後処理」という名の静かなる戦いこそが、軍事的な勝利を恒久的な政治支配体制へと転換させ、徳川の時代の礎を築いたのである。
終章:関ヶ原の戦いが歴史に残した意味
慶長五年九月十五日の一日は、日本の歴史において比類なき重要性を持つ。関ヶ原の戦いは、単なる大規模な野戦ではなく、中世的な戦乱の時代に終止符を打ち、近世という新たな時代の扉を開いた画期的な出来事であった。
第一に、この戦いは事実上、武力によって天下の支配者を決定した最後の全国規模の合戦であった。これ以降、豊臣家を滅亡させる大坂の陣という局地的な戦いはあったものの、諸大名を二分して国全体を巻き込むような大乱は起こらず、日本は長い泰平の時代へと移行していく。関ヶ原は、戦国の世の最終章を飾る戦いであった。
第二に、この戦いは「義」と「利」という、人間の行動を規定する二つの原理が激しく衝突した場でもあった。豊臣家への忠誠という「義」を掲げて、敗北を覚悟で立ち上がった石田三成。対照的に、戦後の恩賞という現実的な「利」を提示し、巧みな調略で敵を内側から切り崩した徳川家康。そして、その間で自らの家と己の未来を賭けて揺れ動いた小早川秀秋をはじめとする数多の武将たち。彼らの人間ドラマは、組織における忠誠と個人の利害、理想と現実の相克という、時代を超えた普遍的なテーマを我々に問いかける。
そして最も重要なのは、関ヶ原の戦いが、その後の二百六十年以上にわたる江戸幕府による統治体制の直接的な起点となったことである 35 。戦後の徹底した論功行賞と大名の再配置は、徳川家を頂点とする新たな支配秩序を日本全土に確立した。関ヶ原は、日本の歴史が中世から近世へと大きく舵を切る、まさに分水嶺だったのである。この一日の戦いの帰結が、その後の日本の社会、文化、そして人々の生き方そのものを規定していったと言っても過言ではない。
引用文献
- 家康公の生涯 - 関ケ原の合戦まで - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_04.htm
- 関ヶ原の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7045/
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- [歴史解説] 関ヶ原の戦いの戦後処理と論功行賞 Part1「西軍首謀者たちの処分」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=PrN_o34cdHs
- [歴史解説] 関ヶ原の戦いの戦後処理と論功行賞 Part2「家康絶対的な存在へ!大規模な論功行賞」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xdaR_XhukUw
- 特集ページ 徳川家康と東金 | 東金市ホームページ https://www.city.togane.chiba.jp/0000010958.html
- 泣かぬまで 待っただけでは 勝てません〜家康が天下を取れた理由を組織論で考える〜 | 識学総研 https://souken.shikigaku.jp/19974/
- NHK大河ドラマを信じてはいけない…「徳川秀忠=凡庸な二代目」とは言えないこれだけの理由 家康のできなかった仕事を完遂し、徳川幕府の基礎を築いた (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/76340?page=2
- 【徳川秀忠軍の上田攻め】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096320
- 上田城の攻防と徳川秀忠関ヶ原遅参の真相【前編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/3299
- 徳川秀忠。家康の息子が関ヶ原の戦いで「世紀の大遅参」をした ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/38089/