最終更新日 2025-08-28

飯山城の戦い(1582)

天正十年 飯山城の戦い ― 本能寺の変に翻弄された北信濃の攻防

序章:天正壬午、動乱の序章 ― 北信濃に燻る火種

天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐が完了し、戦国時代に巨大な影響力を誇った甲斐武田氏は滅亡した。信濃国、特に北信濃地域は、長年にわたり武田氏と越後の上杉氏が覇権を争った地であったが、この武田氏の消滅は、地域の安定ではなく、新たな動乱の序曲を奏でるものであった。信長は戦後処理として旧武田領の分割統治を断行し、北信濃の川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)は、織田家でも屈指の猛将として知られる森長可に与えられた 1

この措置は、長年信濃を巡り武田氏と死闘を繰り広げてきた上杉景勝にとって、まさに喉元に刃を突きつけられるに等しい、極めて深刻な脅威であった。越後本国と国境を接する戦略的要衝に、織田家の強力な楔が打ち込まれたのである 4 。一方、この地に根を張る在地勢力、いわゆる国衆たちは、武田氏という旧主を失い、織田氏という新支配者を迎えたばかりであった。彼らの忠誠心は極めて流動的であり、新たな支配者である織田家と、国境の向こうに睨みを利かせる旧来の盟主・上杉家の間で、自らの生き残りを賭けた困難な選択を迫られていた 6

このような緊迫した情勢下で発生したのが「飯山城の戦い」である。この戦いは、表面的には織田の新体制に対する在地勢力の反乱、すなわち「一揆」として記録されている。しかし、その背後にはより大きな構図が存在した。蜂起を主導した芋川親正は、もともと高梨氏、次いで武田氏に仕え、武田滅亡後は上杉景勝に帰順した人物である 7 。彼が蜂起した天正10年4月5日の翌日、4月6日には、上杉景勝が後詰の軍を派遣する決定を下している 9 。この驚くべき迅速な対応は、芋川の蜂起が単独で行われたものではなく、事前に景勝の了解を得ていた、あるいは景勝の直接的な指示によって引き起こされた可能性を強く示唆している。

したがって、飯山城の戦いは、単なる局地的な反乱ではなく、武田氏滅亡というパワーバランスの激変に対し、存亡の危機に立たされた上杉景勝が仕掛けた、織田支配体制への最初の戦略的挑戦であった。それは、後の「天正壬午の乱」へと繋がる、上杉氏による代理戦争の性格を色濃く帯びた、動乱の前哨戦と位置づけることができるのである。

第一章:織田家の北信濃平定と「鬼武蔵」の着任

甲州征伐の功により、北信濃四郡二十万石の新たな領主として着任した森長可は、永禄元年(1558年)生まれ、当時弱冠25歳の若き武将であった 2 。父・森可成譲りの槍の名手として知られ、その苛烈な戦いぶりから「鬼武蔵」「夜叉武蔵」と敵味方から恐れられていた 2 。甲州征伐においては織田信忠軍の先鋒を務め、特に武田氏の名城・高遠城の攻略戦では、本隊の到着を待たずに城壁に取り付き、屋根を剥がして鉄砲を撃ち込むなど、勇猛果敢な働きで大功を立てた 2 。その一方で、主君である信長自身が、嫡男・信忠に対して「森長可が若気の至りで軽率な行動に出ないか注視せよ」と書状で何度も注意を促すほど、その猪突猛進ぶりは危うさも孕んでいた 2

長可は北信濃統治の拠点として、かつて武田氏が対上杉の最前線基地とした海津城(後の松代城)に入り、支配を開始した 3 。しかし、彼は在地勢力である信濃国衆を全く信用せず、彼らの妻子を人質として海津城下に強制的に集住させるという、極めて強圧的な手法を用いた 3 。これは、支配体制を短期間で強固にするための策であったが、同時に国衆たちの誇りを深く傷つけ、激しい反発を招く結果となった。

織田方の北信濃における布陣は、この海津城の森長可を中核とし、越後との国境に位置する最前線の飯山城には、稲葉貞通を城代として配置するというものであった 9 。これは、上杉景勝の侵攻を警戒し、国境線を固めるという明確な戦略的意図に基づいていた。

興味深いことに、森長可の性格そのものが、飯山城の戦いの原因と短期的な勝因の両方になったという逆説的な構造が見て取れる。まず、彼の強圧的な統治手法は、芋川親正ら在地勢力に蜂起の「大義名分」を与え、周辺の国衆からの同調を得やすくした。もし長可がより懐柔的な統治を行っていれば、上杉方が介入する隙は生まれにくかったかもしれない。しかし、いざ反乱が発生すると、長可はその本領を発揮する。彼は信忠からの正式な援軍命令や、団忠正の到着を待つことなく、自身の判断で即座に海津城から出撃し、電撃的な機動戦によって反乱軍を粉砕した 9 。彼の「鬼武蔵」たる所以である迅速果断な行動力が、反乱の拡大を防ぎ、織田方の短期的な勝利を決定づけたのである。この一点において、信長が長可をこの最前線に配置した人選は、平時の統治には大きなリスクを伴うものの、有事における制圧力と即応性を最大限に評価した結果であったと分析できる。

第二章:飯山城 ― 越後と信濃を繋ぐ戦略拠点

飯山城の戦いの舞台となった飯山城は、単なる一城郭ではなく、越後の上杉氏にとって信濃への進出路を確保し、同時に本国を防衛するための死活的に重要な戦略拠点であった。

その地理的特性を見ると、城は千曲川西岸の丘陵に築かれ、川の流れを天然の外堀とする、守るに易く攻めるに難い「後堅固の城」であった 14 。越後の本拠地である春日山城からは、富倉峠を越えれば約20数キロという至近距離にあり、まさに信濃への玄関口としての役割を担っていた 6

この城が歴史の表舞台で重要性を増したのは、武田信玄の北信濃侵攻に対抗するため、上杉謙信が対武田の最前線基地として大規模な修築を施してからである 14 。以来、十数年にわたる川中島の戦いにおいて、飯山城は上杉軍の出撃拠点、兵站基地として何度も機能し、武田軍の度重なる攻撃にも決して陥落することはなかった 14

さらに、この地域特有の環境要因が、軍事行動に大きな影響を与えていた。飯山は日本でも有数の豪雪地帯として知られている 21 。合戦が勃発した天正10年4月上旬は、長く厳しい冬が終わり、ようやく雪解けが始まる時期にあたる。この時期の戦場は、残雪やぬかるみによって道は悪路と化し、雪解け水で増水した河川は渡河を困難にする。これは、特に大軍の移動や、生命線である兵站(補給)の維持を著しく困難にする要因であった 24

この地理的・気象的条件を考慮すると、上杉方が4月上旬という時期に芋川親正の蜂起を促した背景には、明確な戦略的意図があった可能性が浮かび上がる。上杉方にとって、雪解けは越後からの大規模な援軍派遣を困難にする一方で、それは織田方、特に美濃や尾張を本拠とする織田本隊からの大規模な増援をも阻害することを意味した。上杉方の狙いは、織田の増援部隊が本格的に到着する前に、地の利を熟知した在地勢力である芋川勢が、孤立した飯山城を迅速に奪取することにあったのではないだろうか。大軍の移動には不向きな雪解けの悪路も、小規模な部隊によるゲリラ的な戦術には、むしろ有利に働く場合がある。

すなわち、この時期の蜂起は、織田方の兵站線を脅かし、北信濃に点在する織田方の諸城を孤立させるための、綿密に計算されたタイミングであったと推察される。しかし、この上杉方の戦略は、森長可という規格外の武将による、予想を遥かに超えた迅速な反撃によって、脆くも打ち砕かれることとなる。

第三章:合戦のリアルタイム詳報 ― 緊迫の三日間

天正10年4月5日から7日にかけての三日間、飯山城を巡る攻防は、各陣営の思惑が交錯する中で、極めて速いテンポで展開した。以下に、その経過を時系列で再構成し、リアルタイムの戦況を詳述する。

4月5日(開戦)

この日、旧武田遺臣であり、上杉景勝に帰順していた芋川親正が、信濃国衆を率いて蜂起。織田方の稲葉貞通が城代として守る飯山城に殺到し、包囲攻撃を開始した 9 。これは、織田家の北信濃支配に対する、最初の公然たる武力抵抗であった。飯山城からの急報は、当時、甲州征伐の戦後処理のために信濃諏訪に在陣していた織田軍団の総帥・織田信忠のもとにもたらされた。信忠は事態を重く見て、即座に麾下の部将である団忠正を援軍として派遣することを決定した 9

4月6日(両軍の応酬)

飯山城が包囲された翌日、両軍は次なる一手に向けて動き出す。越後春日山城の上杉景勝は、重臣である斎藤朝信や千坂景親らに対し、飯山・長沼方面の防備を固めるため、一族の上条宜順斎を派遣する旨を伝える書状を発給した 9 。これは、芋川の蜂起が単なる偶発的な反乱ではなく、上杉家が組織として関与し、本格的な軍事介入を開始したことを示す動かぬ証拠である。

一方、織田方では、信忠の命令を受けた団忠正の軍勢が、諏訪から飯山城へ向けて進軍を開始していた。しかし、それよりも早く、海津城の森長可は独自の判断で動いていた。信忠の命令を待つことなく、彼はすでに城兵を動員し、いつでも出撃できる態勢を整えていたと推測される。この意思決定の速さが、戦いの帰趨を決することになる。

4月7日(決着)

森長可は、団忠正の援軍到着を待たずに海津城を出撃した。彼の目標は、包囲されている飯山城の救援である。飯山城へ向かう途上、長沼(現在の長野市穂保)付近で、芋川親正率いる反乱軍主力を捕捉。両軍はここで激突した。『信長公記』によれば、この戦いは森長可の圧勝に終わった 9 。「鬼武蔵」の異名に違わぬ猛攻の前に、国衆の寄せ集めに過ぎない芋川勢は為す術もなく崩壊した。

長沼での主力壊滅の報は、飯山城を包囲していた部隊にも伝わり、彼らの戦意を完全に打ち砕いた。芋川勢は飯山城の包囲を解き、四散敗走した 9 。こうして、上杉方の周到な計画のもとに開始された反乱は、森長可の電光石火の行動によって、わずか三日間で鎮圧されたのである。

日付 (天正10年)

織田軍の動向

上杉方・一揆勢の動向

備考 (出典など)

4月5日

稲葉貞通が守る飯山城が包囲される。信濃諏訪の織田信忠、団忠正を援軍に派遣。

芋川親正が蜂起し、飯山城を攻撃。

『信長公記』 9

4月6日

団忠正の援軍が進軍中。海津城の森長可は出撃準備を完了か。

上杉景勝、飯山・長沼方面の防備固めとして上条宜順斎の派遣を指示。本格介入の意思を示す。

『上杉氏文書集』 9

4月7日

森長可、海津城から出撃。長沼にて芋川勢を撃破。これにより飯山城の囲みが解かれる。

長沼にて森長可に敗北。主力は壊滅し、飯山城の包囲を解き撤退。

『信長公記』 9

第四章:激震 ― 本能寺の変と戦局の暗転

飯山城の戦いにおける織田方の戦術的勝利から、わずか2ヶ月も経たない天正10年6月2日未明、京の本能寺において日本の歴史を揺るがす大事件が勃発した。主君・織田信長の横死という一報は、北信濃における軍事バランスを根底から覆し、戦局を百八十度暗転させることになる。

本能寺の変が起きる直前、上杉景勝はまさに絶体絶命の窮地に立たされていた。西方の越中戦線では、織田家筆頭家老・柴田勝家率いる4万の大軍に魚津城を包囲され、落城は時間の問題であった 26 。南方の信濃では森長可に圧迫され、さらに本国越後では重臣・新発田重家の反乱にも手を焼いており、多正面作戦を強いられていた 28 。客観的に見れば、上杉家の滅亡は目前に迫っていたと言っても過言ではない。

歴史の皮肉と言うべきか、6月2日に京で起きた変の報は、すぐには遠く離れた前線には届かなかった。柴田軍の猛攻に晒されていた魚津城が落城したのは6月3日。城を守っていた上杉家の将兵たちは、信長の死を知らぬまま、壮絶な玉砕を遂げた 29 。上杉景勝自身が「上方にて凶事あり」という、まだ不確かな情報を得たのは、それから数日後の6月8日頃であったと記録されている 29

一方、飯山城の戦いで勝利を収めた森長可は、その勢いを駆ってさらに攻勢を強めていた。彼は柴田勝家軍と連動し、上杉家の本拠地である春日山城を衝くべく越後領内深くまで侵攻し、二本木(現在の新潟県上越市)付近にまで進出していた 13 。しかし、信長の死という衝撃的な知らせは、彼を勝利者から一転して、敵地の真っただ中に孤立した絶望的な状況へと突き落とした。支配したばかりの信濃国衆は、織田家の屋台骨が崩れたと見るや、一斉に蜂起の動きを見せ始める。四面楚歌の中、長可は唯一の切り札である、海津城に集めていた国衆の人質を盾に取り、木曽谷方面へと脱出する決死の撤退行を敢行した 3

ここに、歴史の皮肉(アイロニー)が顕在化する。4月の飯山城の戦いにおける織田方の「戦術的勝利」は、6月の本能寺の変という「戦略的激変」によって、その意味を完全に失った。それどころか、4月の勝利が長可に過信を与え、越後領内深くまで進軍させたことが、結果的に彼の撤退をより困難にするという皮肉な結果を生んだのである。もし飯山城の戦いで苦戦を強いられ、長可が北信濃の防備に専念していたならば、変の報を受けても、より安全かつ迅速に本国である美濃へ帰還できた可能性は高い。4月の局地的な勝利が、結果的に6月の破滅的な危機を招いたというこの因果関係は、戦国時代の戦局がいかに予測不能な要素に満ちていたかを示す好例と言えよう。

第五章:天正壬午の乱への序曲 ― 北信濃の支配権の行方

森長可が決死の撤退行の末に信濃を脱出すると、北信濃は再び権力の空白地帯となった。この千載一遇の好機を、上杉景勝は見逃さなかった。滅亡の淵から奇跡的に生還した彼は、迅速に行動を開始する。

森長可が去った後の北信濃国衆は、雪崩を打って上杉方になびいた。景勝は直ちに軍を南下させ、6月中には森長可の拠点であった海津城、そして長沼城、さらには因縁の地である飯山城を、ほとんど抵抗を受けることなくその支配下に置いた 29 。飯山城には、上杉家臣の岩井信能が新たな城代として入城し、城の修築と城下町の整備を進めた 19

しかし、織田信長という巨大な権力者が消滅した旧武田領という広大な「草刈り場」を狙うのは、上杉だけではなかった。三河の徳川家康、相模の北条氏政もまた、この機に乗じて甲斐・信濃・上野への大々的な侵攻を開始した。こうして、戦国史に名高い「天正壬午の乱」の幕が切って落とされたのである 34

北信濃の支配権を巡る争いは、熾烈を極めた。7月には、上野から信濃に侵攻してきた北条氏直率いる4万を超える大軍と、上杉景勝率いる8千の軍勢が、川中島で対峙した 29 。兵力では圧倒的に不利であったが、景勝は巧みな駆け引きで北条軍の鋭鋒をかわし、決戦を避けてこれを退けることに成功する。

最終的に、この大乱の帰趨を決したのは、甲斐で対峙していた徳川と北条の間の和睦交渉であった。天正10年10月29日、織田信雄の仲介によって両者の和睦が成立。その条件の中で、甲斐・信濃の大部分は徳川領とされたが、北信濃の川中島四郡に限っては上杉領として切り取ることが事実上黙認された 36

この結果は、飯山城の戦いの意味を改めて問い直すものである。4月の戦いにおいて、上杉方が支援した芋川勢は森長可に完敗し、戦術的には明確な敗北を喫した。しかし、本能寺の変という歴史の偶然を最大限に活用した上杉景勝は、最終的に、この戦いの本来の目的であった「北信濃四郡の確保」という戦略目標を見事に達成したのである。4月の軍事的な敗北は、上杉方に大きな損害を与えることなく、むしろ織田支配の脆弱性を再確認させる機会となった。そして、その経験が、本能寺の変後の迅速かつ的確な領土回復作戦へと繋がった。短期的な敗北が、長期的な政治的・戦略的勝利へと結実したこの一連の出来事は、戦国時代の複雑な力学を象徴している。

結論:飯山城の戦いが歴史に刻んだ意味

天正10年(1582年)4月に北信濃で繰り広げられた飯山城の戦いは、その規模や期間から見れば、戦国時代の数多の合戦の中で決して大きなものではない。しかし、その背景と結末を深く考察するとき、この戦いが単なる辺境での小競り合いではなく、当時の歴史のダイナミズムを凝縮した、極めて示唆に富んだ事件であったことがわかる。

第一に、この戦いは、武田氏滅亡後の新たな秩序を巡る、織田と上杉の最初の本格的な衝突であった。それは、織田信長の天下統一事業が、純然たる武力による制圧に依存しており、在地勢力の心を完全には掌握しきれていなかったという、新興支配体制の脆弱性を白日の下に晒した。

第二に、森長可という一人の武将の特異な個性が、戦いの様相を決定づけた点も重要である。彼の「鬼武蔵」と称された苛烈な統治手法が反乱の引き金となり、同時にその迅速果断な軍事行動が反乱を瞬く間に鎮圧した。この事実は、戦国時代において、指揮官個人の気質や能力がいかに戦局を左右したかを示す好例である。

そして最も重要なのは、この戦いの意味が、本能寺の変という巨大な歴史の転換点によって、百八十度反転させられたことである。もし本能寺の変がなければ、多方面からの圧迫に苦しんでいた上杉家は、遠からず滅亡の道をたどっていた可能性が極めて高い。その場合、飯山城の戦いは「滅びゆく上杉家による、最後の、そして虚しい抵抗」として歴史に記されたであろう。

しかし、歴史はそうはならなかった。結果として、この戦いは上杉景勝が北信濃四郡という戦略的要衝を確保し、天正壬午の乱を有利に進めるための重要な布石となった。戦術的な敗北が、外的要因を介して戦略的な勝利へと転化する。飯山城の戦いは、短期的な勝敗と長期的な歴史的帰結が必ずしも一致しないという、歴史の複雑さと偶然性を我々に教えてくれる、誠に象徴的な合戦であったと結論づけることができる。

引用文献

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