飯盛城の戦い(1568~70)
飯盛城の戦い(1568~70)は、織田信長亡き後の天正加越紛争における前田利家と佐々成政の死闘。末森城の戦いで利家が勝利し、成政は「さらさら越え」で家康に助けを求めるも失敗。
飯盛城の戦い(1568-70年)の総合分析:畿内覇権を巡る戦略的持久戦の全貌
序章:『飯盛城の戦い』再定義 ― 長期攻城戦ではない、畿内覇権を巡る広域戦略 ―
日本の戦国時代史において「飯盛城の戦い(1568-70年)」として知られるこの事象は、単一の城郭を巡り二年間にわたって繰り広げられた連続的な攻城戦を指すものではない。その実態は、永禄11年(1568年)の織田信長上洛に端を発し、元亀元年(1570年)に畿内全域で勃発した反信長連合(通称「信長包囲網」)との大規模な紛争、すなわち「元亀の争乱」における**「河内戦線」**と位置づけるのが最も適切である。本稿では、この戦いを特定の城を巡る「点の戦い」としてではなく、複数の戦線が連動した「線の戦い」、さらには畿内全体の覇権を争う「面の戦い」の一部として捉え直し、その戦略的意義と歴史的全貌を解明することを目的とする。
この呼称の再定義は、歴史理解を深化させる上で極めて重要である。史料を精査すると、1568年から1570年にかけて飯盛城で継続的な攻城戦があったという直接的な記録は確認し難い。1568年は信長が畿内をほぼ無抵抗で制圧した年であり 1 、大規模な戦闘はむしろ元亀元年(1570年)に集中している 1 。この1570年の戦いの主戦場は摂津国の野田・福島であり、河内方面での軍事行動はそれに連動したものであった 4 。したがって、「飯盛城の戦い」という呼称は、この河内戦線における織田方の戦略目標、すなわち反信長勢力の重要拠点である飯盛城や高屋城を封じ込めるという作戦を、象徴的に表現したものと解釈できる。この戦いの本質は、敵主力の撃滅ではなく、
兵站線の遮断と勢力圏の封じ込めを目的とした戦略的持久戦 であり、その過程を時系列に沿って詳細に分析することで、信長の畿内平定戦略の巧緻な一面が明らかとなるであろう。
第一部:畿内の火種 ― 信長上洛以前の権力闘争
第一章:天下人・三好長慶と飯盛城
信長上洛以前の畿内は、阿波国(現・徳島県)出身の戦国大名・三好長慶によって統治されていた。長慶は、当初河内守護・畠山氏の家臣であった木沢長政が拠点としていた飯盛城を、永禄3年(1560年)に畠山氏の被官・安見宗房を破って手に入れ、自身の本拠地とした 5 。それまでの芥川山城(現・大阪府高槻市)から拠点を移したことで、飯盛城は事実上の「首都」として、長慶政権下で政治、軍事、そして文化の中心地として栄えることとなる 8 。
飯盛城は、大和、河内、山城の三国を見渡せる戦略的要衝に位置し、その規模は東西約400m、南北約650mにも及ぶ広大なものであった 8 。近年の発掘調査では、城の広範囲にわたって石垣が用いられていたことが判明しており、これは信長が安土城を築く以前の先進的な築城技術を示すものである 9 。また、城内には長期の籠城に備えた武器や兵糧を保管する倉屋敷が存在したとされ、その防御力は極めて高かった 12 。
長慶は卓越した軍事指導者であると同時に、文化人としての側面も持ち合わせていた。飯盛城では「飯盛千句」として知られる大規模な連歌会が催され、当代一流の文化人が集った 5 。さらに特筆すべきは、キリスト教との関わりである。長慶はイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラと会見し、畿内での布教を許可した 5 。永禄7年(1564年)には、飯盛城下で三箇サンチョや池田教正をはじめとする73名の武士が洗礼を受けたと記録されており、これは後に「河内キリシタン」と呼ばれる信仰共同体の発祥となった 13 。ルイス・フロイスの記録によれば、当初は宣教師の風貌を嘲笑する者もいたが、やがてその教えに惹かれていったという 14 。このように、飯盛城は単なる軍事拠点に留まらず、国際的な文化交流の舞台でもあったのである。
第二章:三好政権の分裂 ― 松永久秀と三好三人衆の確執
盤石に見えた三好政権であったが、永禄7年(1564年)の長慶の死を境に、内部から崩壊の兆しを見せ始める。長慶の死は、外部からの攻撃を恐れてしばらくの間秘匿された 16 。後継者となったのは、長慶の養子である三好義継であったが、彼を後見する三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と、長慶の腹心として絶大な権力を握っていた松永久秀との間で、政権の主導権を巡る深刻な対立が生じた 17 。
この対立が決定的となったのが、永禄8年(1565年)5月に起こった第13代将軍・足利義輝の暗殺事件(永禄の変)である 19 。この事件を機に、三人衆は義継を飯盛城から河内南部の高屋城へ移し、久秀を政権中枢から排除する動きを強めた 19 。ここから、畿内全域を巻き込んだ三好家中の内戦が勃発する。
永禄10年(1567年)10月、両者の抗争は、大和国(現・奈良県)で悲劇的なクライマックスを迎える。三人衆と、彼らと手を結んだ大和の国人・筒井順慶の連合軍が、奈良の東大寺に布陣した 22 。これに対し、久秀は夜陰に乗じて奇襲を敢行。この戦いで久秀は勝利を収めたものの、戦闘中の失火が原因で、東大寺大仏殿をはじめとする多くの伽藍が炎上し、大仏も甚大な被害を受けた 19 。この事件は、三好政権の権威失墜と畿内の混乱を象徴する出来事となった。
信長が驚くほど円滑に上洛を成し遂げられた背景には、この三好家の内紛が大きく影響している。畿内の支配者であるべき三好家が、数年間にわたる内戦によって自壊し、互いに疲弊しきっていたのである 26 。この権力の空白と内部対立こそが、信長という外部の強力な調停者、あるいは新たな支配者が登場する土壌を整えた。信長は、この分裂状況を巧みに利用し、畿内へと進出することになるのである。
第二部:新時代の到来 ― 織田信長の上洛と畿内新秩序(1568年~1569年)
第一章:足利義昭の奉戴と電光石火の上洛戦
永禄11年(1568年)9月、織田信長は、殺害された足利義輝の弟・義昭を新たな将軍として擁立し、美濃国から大軍を率いて上洛を開始した 1 。その進軍は驚くほど迅速であった。
畿内の諸勢力は、この新たな政治勢力の登場にそれぞれ異なる反応を示した。信長と敵対する三好三人衆は、その圧倒的な軍事力の前に戦わずして本国の阿波へと撤退した 1 。一方、三人衆との内戦で劣勢に立たされていた松永久秀と三好義継は、機を見るに敏であった。彼らは信長の力を利用して三人衆を排除すべく、いち早く信長に恭順の意を示し、その軍門に降った 1 。信長もまた、畿内の事情に精通した彼らを取り込むことの利を理解していた。義継には河内北半国と若江城を、久秀には大和一国の支配を安堵し、彼らの旧領を保証した 28 。
こうして、義昭を第15代将軍とし、信長がその後見人として実権を握り、松永久秀、三好義継、河内守護の畠山秋高らがそれを支えるという、新たな畿内の統治体制が発足した 1 。この時点において、久秀は信長の家臣ではなく、あくまで将軍義昭に仕える同僚という立場であり、信長政権は畿内の有力大名の連合体という側面を持っていた 1 。
第二章:新秩序への抵抗 ― 本圀寺の変
信長が築いた新たな秩序は、しかし、盤石ではなかった。永禄12年(1569年)1月、信長が年始の挨拶のために岐阜へ帰還した、まさにその隙を突いて、阿波に撤退していた三好三人衆が反撃に転じた。彼らは和泉国堺に上陸し、将軍義昭の仮御所であった京都の本圀寺を急襲したのである 1 。
義昭は絶体絶命の危機に陥ったが、明智光秀らの奮戦に加え、知らせを受けて駆けつけた細川藤孝、三好義継、そして同盟者である浅井長政らの援軍によって、三人衆は撃退され、再び阿波へと敗走した 1 。この本圀寺の変は、信長に畿内支配の脆弱性を痛感させる出来事であった。彼は直ちに将軍の新たな居城として、より堅固な二条城の築城を命じる。同時にこの事件は、三好三人衆の抵抗意志が未だに衰えていないことを天下に示し、翌元亀元年に勃発する、より大規模な反信長闘争の序章となったのである。
第三部:元亀の争乱と河内戦線 ― 『飯盛城の戦い』のリアルタイム詳解(1570年)
元亀元年(1570年)は、信長の生涯において最大の危機の一つであった。越前の朝倉氏、北近江の浅井氏、そして石山本願寺が蜂起し、畿内では三好三人衆が再起を図る。この年、畿内各地で同時多発的に発生した戦況を、特に河内戦線に焦点を当てて時系列で詳述する。
【表1:元亀元年 河内戦線 主要登場人物一覧】
勢力 |
主要人物 |
役職・立場 |
1570年時点での動向 |
織田・将軍方 |
織田信長 |
右大臣 |
畿内制圧を進めるも、各地の抵抗勢力に直面。 |
|
足利義昭 |
征夷大将軍 |
信長に擁立されるも、次第に対立を深める。 |
|
松永久秀 |
大和国主 |
信長に従い、対三人衆戦の重要人物となる。 |
|
三好義継 |
河内半国主 |
信長に従う三好宗家当主。居城は若江城。 |
|
畠山秋高 |
河内守護 |
信長方。居城は高屋城。 |
|
佐久間信盛 |
織田家重臣 |
畿内方面の軍団長の一人。河内戦線を担当。 |
|
細川藤孝 |
将軍家臣 |
義昭の側近。織田家との連絡役。 |
反信長連合 |
三好三人衆 |
三好家重臣 |
阿波を拠点に畿内奪還を目指す。 |
|
三好康長 |
三好一門 |
阿波にあり、三人衆と共に行動。河内での実質的な指揮官。 |
|
篠原長房 |
三好家重臣 |
阿波で国政を担い、三人衆を後援。 |
|
顕如 |
本願寺宗主 |
信長と対立し、9月に挙兵。 |
|
浅井長政 |
北近江大名 |
4月に信長から離反。 |
|
朝倉義景 |
越前大名 |
信長と敵対。浅井氏と同盟。 |
その他 |
筒井順慶 |
大和国人 |
松永久秀と敵対。反信長連合と連携。 |
第一章:信長包囲網の形成(4月~6月)
-
4月:金ヶ崎の退き口
元亀元年4月、信長は度重なる上洛命令を無視した越前の朝倉義景を討伐するため、3万の軍勢を率いて出陣した 29。しかし、越前へ侵攻するさなか、妹婿である北近江の浅井長政が突如として離反。信長軍は朝倉・浅井両軍に挟撃される形となり、絶体絶命の危機に陥った 1。この「金ヶ崎の退き口」として知られる過酷な撤退戦において、信長の命運を左右する重要な働きをしたのが松永久秀であった。彼は、撤退路にある朽木谷の領主・朽木元綱を巧みに説得し、信長を無事に京都まで逃がすことに成功したのである 1。この一件は、信長に久秀の価値を再認識させ、両者の信頼関係を一時的に深めることとなった。 -
5月~6月:畿内の不穏な動き
信長が九死に一生を得て京に戻った後も、畿内の情勢は緊迫の度を増していた。5月、松永久秀は、織田方の重臣・佐久間信盛と繋がりがあった畠山秋高の家臣・安見右近を奈良で殺害するという挙に出る 29。これは大和国内の支配権を巡る対立が原因であったが、信長・義昭政権の内部に亀裂を生じさせる一因となった。
一方、信長は6月28日に近江の姉川で浅井・朝倉連合軍と激突し、辛くも勝利を収める(姉川の戦い)30。しかし、この戦いで織田軍も大きな損害を被り、畿内の防衛体制が手薄になることは避けられなかった。この好機を、阿波に雌伏していた三好三人衆が見逃すはずはなかった。彼らは三好康長ら一門と共に、畿内再上陸の準備を密かに、しかし着々と進めていたのである 3。
第二章:摂津・河内での戦闘開始(7月~8月)
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7月:三好三人衆、摂津に上陸
7月下旬、三好三人衆は数千の軍勢を率いて阿波から摂津国に上陸。淀川河口の中洲に位置する野田・福島に堅固な砦を築き、籠城を開始した 1。これは、畿内における反信長勢力の橋頭堡を確保し、信長本体との決戦を挑むための戦略的拠点であった。 -
8月:野田・福島の戦いと河内戦線の開闢
三好三人衆の動きに対し、信長は迅速に対応した。8月、3万ともいわれる大軍を動員して摂津へ出陣。三好義継、松永久秀もこれに従軍し、野田・福島の砦を厳重に包囲した 1。
この時、河内国ではもう一つの戦線が形成されていた。これが本稿の主題である「飯盛城の戦い」の実態である。信長本隊が摂津の主戦場に釘付けになっている状況を利用し、阿波から渡海してきた三好康長らが率いる別動隊が、かつての三好氏の本拠地である飯盛城を占拠し、抵抗を開始したのである 2。これに対し、織田方は佐久間信盛を主将とする部隊を河内に派遣。彼らの任務は、飯盛城の三好勢を力攻めにするのではなく、これを封じ込め、摂津の主戦場への増援や、和泉・紀伊方面の雑賀衆などとの連携を遮断することにあった。織田方の拠点としては、三好義継の若江城と畠山秋高の高屋城が機能しており、これらと連携して飯盛城を包囲する態勢がとられた 8。ここに、摂津の主戦場と連動する「河内戦線」が開かれたのである。
第三章:戦局の泥沼化(9月~11月)
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9月12日:石山本願寺、蜂起
野田・福島の戦いが膠着状態にあった9月12日、戦局を根底から覆す事件が起こる。それまで中立を保っていた石山本願寺の法主・顕如が、「信長が本願寺を破却しようとしている」との檄文を全国の門徒に発し、突如として織田軍の背後を攻撃したのである 1。信長は、三好三人衆と本願寺勢力に挟撃されるという、極めて危険な状況に陥った。 -
9月16日以降:志賀の陣と河内戦線の膠着
本願寺の蜂起に呼応するように、近江では浅井・朝倉連合軍が再び南下を開始。信長の弟・織田信治や重臣・森可成が討死するという手痛い敗北を喫した 1。この報告を受けた信長は、摂津の包囲を解いて京都へ撤退せざるを得なくなり、近江坂本で浅井・朝倉軍と対峙する(志賀の陣)。
信長本隊が近江へ移動したことで、畿内の織田方戦力はさらに手薄になった。河内戦線では、佐久間信盛らが飯盛城の三好康長らと睨み合いを続けるが、大規模な攻城戦に打って出ることはできなかった。飯盛城が天然の要害と先進的な石垣に守られた難攻不落の城であったこと 9、そして織田方が兵力を割けない状況が、戦線を完全に膠着させた。この時期、河内では大規模な戦闘の記録はなく、小競り合いや兵站線を巡る攻防が続いていたと推測される。
この状況こそが、「飯盛城の戦い」の戦略的本質を物語っている。なぜ飯盛城は大規模な攻撃を受けなかったのか。それは、城自体が堅固であったことに加え、織田方の河内における目標が「占領」ではなく「封じ込め」にあったからである。もし佐久間信盛らが河内で無理な攻城戦を仕掛け、貴重な兵力を損耗すれば、より重要度の高い近江の主戦場や、手薄になった京都が危険に晒される可能性があった。したがって、「飯盛城の戦い」における織田方の成功は、城を陥落させたかどうかではなく、 河内の反信長勢力を飯盛城に釘付けにし、他の戦線への介入を阻止し続けたこと 自体にある。これは、攻めずに持久することで戦略的目標を達成するという、高度な戦略的判断であった。
第四章:勅命講和と一時的停戦(12月)
摂津、近江、河内と複数の戦線を同時に抱え、軍事的・政治的に窮地に陥った信長は、武力による打開を断念し、朝廷を動かすことで局面の転換を図った。正親町天皇に働きかけ、和睦を命じる勅命を出させたのである。
この時、三好三人衆との和睦交渉において重要な役割を果たしたのが、他ならぬ松永久秀であった 1 。彼は信長方に属しながらも、元々は三好家の重臣であり、三人衆とも浅からぬ因縁があった。その複雑な立場を利用し、両者の間を巧みに仲介したのである。
12月、勅命の下、信長は浅井・朝倉、そして三好三人衆・本願寺との間で包括的な和睦を成立させた 1 。これにより、元亀元年を通じて畿内を揺るがした大規模な戦闘は一旦終結。河内戦線もまた、自然消滅的に停戦状態へと移行した。飯盛城に籠もっていた三好康長らも、この和睦協定に基づき、阿波へと引き上げていったと考えられる。
【表2:元亀元年(1570年) 畿内主要戦線 年表】
月 |
摂津戦線(野田・福島) |
近江戦線(志賀の陣) |
河内戦線(飯盛城) |
その他 |
4月 |
- |
- |
- |
浅井長政離反、金ヶ崎の退き口。 |
6月 |
- |
姉川の戦い。 |
- |
- |
7月 |
三好三人衆、摂津に上陸。 |
- |
三好康長ら、飯盛城を拠点化。 |
- |
8月 |
信長、野田・福島を包囲。 |
- |
佐久間信盛ら、飯盛城を封鎖。 |
- |
9月 |
石山本願寺蜂起。信長、包囲を解き撤退。 |
浅井・朝倉軍南下。森可成ら討死。信長、坂本に着陣。 |
膠着状態。 |
- |
10月 |
- |
睨み合い続く。 |
封鎖・持久戦続く。 |
- |
11月 |
- |
- |
- |
- |
12月 |
勅命講和により停戦。 |
勅命講和により停戦。 |
停戦。三好勢は阿波へ撤退か。 |
- |
第四部:分析と考察
第一章:戦略拠点としての飯盛城
「飯盛城の戦い」の経過は、飯盛城そのものが持つ戦略的価値を浮き彫りにした。三好長慶が築き上げたこの城は、単なる臨時的な陣城ではなく、当時の最先端技術を結集した恒久的な拠点であった。
発掘調査によって、城内各所で石垣が広範囲に用いられ、礎石を持つ瓦葺きの建物が存在したことが確認されている 11 。これは、信長の安土城築城に先駆けて、城郭建築に革新的な技術が導入されていたことを示しており、三好政権の経済力と技術力の高さを物語るものである 9 。特に、長期籠城を想定した倉屋敷の存在 12 や、山城における生命線である水の確保 38 も十分に考慮された設計であったと考えられる。この堅固さが、1570年に織田方が力攻めを躊躇し、封じ込め策を選択した大きな要因となったことは間違いない。
一方で、城の機能にも変化が見られる。三好長慶の時代には畿内の政治・経済の中心地であったが、後継者の三好義継が平地に位置する若江城へ拠点を移したことで 31 、飯盛城の役割は純粋な軍事拠点、特に後方の「詰城(つめのしろ)」としての性格を強めていった。これは、戦国時代後期における城郭機能の分化と、政治・経済の中心が山城から平城へと移行していく大きな歴史的潮流の中に、飯盛城を位置づけることができる。
第二章:戦いの帰結と歴史的意義
元亀元年の大規模な紛争、そしてそれに連動した河内戦線は、畿内の勢力図に決定的な影響を与えた。
第一に、三好氏の最終的な後退である。元亀元年の和睦は一時的な休戦に過ぎず、この一連の戦いで畿内における確固たる地盤を再建できなかった三好三人衆および三好一門の勢力は、これ以降、歴史の表舞台から急速に姿を消していく 32 。河内戦線における織田方の封じ込め戦略は、彼らの勢力回復の芽を摘み、その衰退を加速させる一助となった。
第二に、織田信長の畿内支配の確立である。この元亀元年の最大の危機を乗り切った信長は、翌元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちを皮切りに、反信長勢力を各個撃破していく。この戦役は、結果として信長の畿内支配体制をより強固にするための試金石となった。楽市楽座や関所の撤廃といった革新的な経済政策に支えられた経済力 42 、そして検地によって整備された巨大な兵站システム 45 に裏打ちされた信長の総合力が、旧来の地域権力である三好氏を凌駕したことを明確に示した戦いであった。
最後に、松永久秀の複雑な運命である。この戦役において、金ヶ崎での信長救出や、三人衆との和睦仲介など、久秀は大きな功績を上げた。しかし、皮肉なことに、この活躍が彼の未来に影を落とす。三人衆との和睦を仲介したことで、久秀は再び三好家内部での発言力を強めることになった 36 。この動きは将軍・足利義昭の警戒心を煽り、義昭が久秀と対立する大和の筒井順慶を味方に引き入れるという対抗策に繋がった 1 。結果として畿内で孤立した久秀は、信長を裏切り、反信長連合に加わる道を選択せざるを得なくなる。1570年の活躍が、後の彼の破滅の遠因となったという、戦国時代の複雑な人間関係と権力闘争の力学を象徴している。
結論:畿内平定の礎石
「飯盛城の戦い」と総称される元亀元年の河内戦線は、姉川の戦いや志賀の陣のような華々しい決戦ではなかった。しかし、織田信長の戦略的思考と畿内平定プロセスの本質を理解する上で、極めて重要な事例である。
この戦いは、信長が単なる破壊者や性急な征服者ではなく、畿内という複雑な政治・地理的環境を統治するための、現実的かつ柔軟な戦略家であったことを示している。主戦場である摂津・近江の戦線を安定させるため、河内ではあえて決戦を避け、敵勢力の封じ込めと兵站の遮断という地味ながら効果的な持久戦を選択した。この判断は、戦役全体の目標を見失わない、大局的な視野の広さの現れであった。
この一連の戦役を通じて、畿内における旧勢力の代表格であった三好氏の影響力を決定的に削ぎ、信長は最大の危機を乗り越えた。これによって、信長の天下統一事業は、揺るぎない礎を築いたのである。「飯盛城の戦い」は、その礎を固めるための、目立たないが不可欠な一つの楔であったと言えるだろう。
引用文献
- 大混迷の畿内、最後はふりだしに戻る!?松永久秀(7) - 大和 ... https://www.yamatotsurezure.com/entry/hisahide07
- 三好康長(みよし やすなが) 拙者の履歴書 Vol.322~混迷の時代を城と共に生きた武将 - note https://note.com/digitaljokers/n/n9054de4d24fc
- 三好長治 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%B2%BB
- 三好長慶の畿内制覇と本願寺「石山合戦」への道 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ https://amago.hatenablog.com/entry/2015/07/08/003155
- 曲輪群 - 大東市 https://www.city.daito.lg.jp/uploaded/life/61003_156719_misc.pdf
- 四條畷市立歴史民俗資料館 ―考古学からみた天下人三好長慶の軌跡と飯盛城― https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/44/44084/115102_1_%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%AE%BF%E2%80%95%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E4%BA%BA%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6%E3%81%AE%E8%BB%8C%E8%B7%A1%E3%81%A8%E9%A3%AF%E7%9B%9B.pdf
- 飯盛山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%9B%9B%E5%B1%B1%E5%9F%8E
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- お城の現場より~発掘・復元の最前線【飯盛城】石垣造りの中世 ... https://shirobito.jp/article/341
- 三好長慶ゆかりの地 - 大阪府 https://www.pref.osaka.lg.jp/o070080/toshimiryoku/osakathemuseum/miyoshinagayoshi.html
- 第3章 史跡飯盛城跡の概要 - 大東市 https://www.city.daito.lg.jp/uploaded/life/54095_136558_misc.pdf
- 飯 盛 城 - 大東市 https://www.city.daito.lg.jp/uploaded/attachment/15664.pdf
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- 『野崎観音の謎 -河内キリシタンの広がり-』レポート | VIPなJoyful Blog https://vip-kansai.jugem.jp/?eid=96
- SB|河内キリシタン - Wix.com https://shirokitablock.wixsite.com/home/%E6%B2%B3%E5%86%85%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3-%E7%9B%AE%E6%AC%A1
- 戦国時代の歴史を感じられるスポット国史跡「飯盛城跡」 - 大東市 https://www.city.daito.lg.jp/site/miryoku/33899.html
- 三好長逸―中央政権の矜持を抱き続けた「三人衆」の構想者 https://monsterspace.hateblo.jp/entry/miyoshinagayasu
- [合戦解説] 10分でわかる東大寺の戦い 「大仏殿炎上!松永久秀と三好三人衆が激突」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5y8Oh_pTX5M
- 東大寺大仏殿の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 東大寺大仏殿の戦い / 大仏殿炎上!松永久秀 VS 三好三人衆。梟雄たちの東大寺攻防戦 https://m.youtube.com/watch?v=LsWbfNOOWhQ
- 将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情 https://amago.hatenablog.com/entry/2015/08/09/235616
- 筒井順慶、松永久秀の激闘~大和武士の興亡(16) https://www.yamatotsurezure.com/entry/yamatobushi16_junkei2
- 大和国を巡って18年攻防。松永久秀と筒井順慶、ライバル関係の真相【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1011657
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- 中公新書 戦国日本の軍事革命―鉄炮が一変させた戦場と統治 - 紀伊國屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784121026880
- 戦国日本の軍事革命 鉄炮が一変させた戦場と統治 -藤田達生 著 - 中央公論新社 https://www.chuko.co.jp/shinsho/2022/03/102688.html