高取城の戦い(1580)
天正八年、高取城の真実:武力なき「合戦」が告げた大和国秩序の終焉
序章:天正八年、高取城の真実 ―「合戦」から「破城」へ
天正八年(1580年)、大和国(現在の奈良県)に聳える高取城を舞台に、一つの歴史的転換点が訪れた。一般に「高取城の戦い」として知られるこの出来事は、筒井順慶が大和国統一の総仕上げとして、南大和の要害を攻略した事件と認識されている。この理解は、結果として大和の長きにわたる内乱が収束へ向かったという大きな歴史の流れを的確に捉えている。しかし、その実態は、刀槍を交える血生臭い「合戦」ではなかった。収集された史料が指し示すのは、織田信長の絶対的な権威を背景に行われた、より巧妙かつ決定的な意味を持つ「破城(はかい)」、すなわち城郭の解体という政治的行為であった。
なぜ、武力による攻略ではなく、城を破壊するという手段が選ばれたのか。この問いこそが、戦国という時代の終焉と、新たな支配秩序の到来を解き明かす鍵となる。本報告書は、この「合戦」ではなく「破城」であったという史実を基軸に、天正八年の高取城で何が起こったのかを徹底的に解明する。その背景にある大和国の永きにわたる確執、天下統一を推し進める織田信長の壮大な構想、そして大和国主・筒井順慶の深謀遠慮を、一次史料を基に多角的に、そして時系列に沿って克明に描き出す。権力構造が劇的に転換する瞬間の緊張感と、歴史の渦中にいた人々の動静を、臨場感をもってお伝えしたい。
第一章:永き確執の舞台、大和国 ― 筒井と越智、二大勢力の系譜
天正八年の出来事を理解するためには、まずその舞台となった大和国の特異な政治構造と、そこに根を張る二大勢力の長年にわたる対立の歴史を紐解かねばならない。
大和国の特殊性:守護不在の地
戦国時代の多くの国とは異なり、大和国には武家出身の「守護職」が存在しなかった 1 。名目上の支配者は、奈良に本拠を置く強大な寺社勢力、興福寺であった 2 。その統治下で、大和の在地武士たちは「国人衆(こくじんしゅう)」として活動していたが、彼らの身分は二つに大別された。一つは、興福寺の僧侶の身分を持つ「衆徒(しゅと)」。もう一つは、春日大社の神人(じにん)の身分を持つ「国民(こくみん)」である 3 。この特異な統治構造は、特定の戦国大名による一元的な支配を阻み、国人衆が寺社勢力の権威を背景に、絶え間ない抗争を繰り広げる温床となっていた。
北大和の雄・筒井氏
この「衆徒」の代表格が、筒井氏であった。興福寺の有力な塔頭(たっちゅう)である一乗院に属する官符衆徒(かんぷしゅと)の棟梁として、代々大和北部に勢力を築いてきた名門である 1 。筒井順慶の父・順昭の代には、一度は大和を武力で統一するほどの勢威を誇ったが、その早逝と順慶が幼くして家督を継いだことで、支配体制に揺らぎが生じていた 6 。筒井氏は、伝統的に大和国政の中心に近い存在であり、その権力基盤は興福寺との強い結びつきにあった。
南大和の雄・越智氏
一方、「国民」の代表格として南大和に君臨したのが越智氏である。高市郡を本拠とし、南北朝時代には南朝方として活躍した歴史を持つ豪族であった 8 。彼らの拠点である高取城は、元弘二年(1332年)に越智邦澄が築城して以来、一族の象徴であり続けた 11 。応仁の乱では西軍の畠山義就を支持して南大和をほぼ統一し、最盛期を現出させるなど、筒井氏とは対照的に中央の政治動乱において反主流派に与することが多く、独立性の高い勢力であった 3 。
この北大和の筒井氏と南大和の越智氏の対立は、単なる領土争いに留まらず、衆徒と国民という身分の違い、そして中央政界の動乱と連動した、数百年に及ぶ根深いものであった。この二大勢力の拮抗こそが、後に松永久秀のような外部勢力の介入を招く最大の要因となったのである。
大和四家とその関係
筒井氏、越智氏に、箸尾(はしお)氏、十市(とおち)氏を加えて「大和四家」と称されることもあった 1 。彼らは時に連合し、時に敵対するなど、複雑な関係性を築いていた 7 。大和国内の勢力図は単純な二項対立ではなく、多極的で流動的であった。この複雑な人間関係と権力構造が、天正八年の破城令という未曾有の出来事の背景を形成していたのである。
第二章:天下布武の奔流、畿内を呑む ― 織田信長の支配戦略と「城割」
天正八年、大和国に激震が走る直接的な引き金は、畿内を席巻していた織田信長の天下統一事業にあった。信長の支配戦略、特に「城割(しろわり)」と呼ばれる政策が、大和の伝統的な秩序を根底から覆すことになる。
信長包囲網の崩壊と畿内の安定化
天正八年(1580年)は、織田信長にとって画期的な年であった。最大の敵対勢力の一つであった石山本願寺との十年にも及ぶ「石山合戦」が、朝廷の仲介による勅命講和という形でついに終結したのである 15 。これにより、畿内における反信長勢力の中核は消滅し、信長の支配は盤石なものとなった。この軍事的勝利は、信長に畿内全域の支配構造を本格的に再編する余裕を与えた。長きにわたる軍事フェーズから、安定した統治フェーズへの移行が、破城令という新たな政策を生み出す直接的な背景となったのである。
「城割」政策の目的と実態
信長は、新たに支配下に置いた地域において、拠点となる城を一つに限定し、それ以外の城を破却させる「城割」あるいは「破城令」を強力に推し進めた 18 。これは、敵対勢力から降伏の証として城の破却を求める戦後処理とは異なり、すでに支配下にある領域に対して、支配体制を強化するために行われるものであった。天正八年八月には、大和国だけでなく、隣接する摂津国・河内国でも同様の命令が発せられている 16 。
この政策の目的は多岐にわたる。
第一に、各地に割拠する国人衆の軍事的抵抗力を物理的に削ぐこと。城は彼らの独立性の象徴であり、反乱の拠点となりうる。これを解体することで、中央権力への反抗を未然に防いだ 18。
第二に、城の維持管理に要する国人衆の経済力を削ぎ、その力を信長が認めた国主へと集中させる経済的な狙いがあった。
そして第三に、最も重要なのはその象徴性である。どの城を残し、どの城を壊すかという生殺与奪の権を信長が握ることで、自身の絶対的な権威を内外に誇示する効果があった 18。
破城の技術と象徴性
「破城」は、単なる無秩序な破壊行為ではなかった。石垣で最も重要な隅部(角の部分)や、城の出入り口である虎口(こぐち)を意図的に崩すなど、比較的少ない労力で城の軍事機能を無力化する、効率的な方法が取られた 21 。これは、戦国時代において和平や領主交代の際に用いられた「作法」でもあり、城が軍事施設としての役割を終えたことを示す儀式的な意味合いも強かった 23 。城を物理的に破壊する行為そのものが、旧来の秩序の終焉と、信長による新たな秩序の始まりを、誰の目にも明らかな形で可視化する政治的パフォーマンスだったのである。
第三章:大和国主、筒井順慶 ― 宿敵・松永久秀を越えて
信長の「城割」政策を大和国で実行し、それを自らの覇権確立のために最大限に利用した人物こそ、筒井順慶である。彼の前半生は苦難の連続であったが、その経験が彼を稀代の策略家へと成長させた。
苦難の青年期と宿敵・松永久秀
天文十八年(1549年)に生まれた順慶は、父・順昭が翌年病死したため、わずか二歳で家督を継いだ 1 。叔父の後見のもとで家を支えたが、その不安定な状況を突き、畿内で勢力を拡大していた三好長慶の重臣・松永久秀が大和へ侵攻する 25 。順慶は久秀によって長年本拠としてきた筒井城を奪われ、十数年にわたり苦戦を強いられた 27 。この長い雌伏の期間、大和の国人衆が強大な久秀と伝統的な名門である順慶の間で離合集散を繰り返す様を目の当たりにし、順慶は武力だけでなく、調略や中央権力との連携の重要性を痛感したに違いない。
信長への臣従と大和国主への道
状況が大きく動いたのは、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してからである。順慶は、信長の重臣であった明智光秀の斡旋を通じて信長に臣従した 25 。この選択が功を奏し、天正四年(1576年)、信長から「大和一国一円存知」を認められ、大和国の支配権を公式に委任されるに至る 1 。これにより、順慶は単なる一国人から、信長政権の公的な代行者へと立場を大きく変えた。そして翌天正五年(1577年)、信長に再度反旗を翻した松永久秀を、信長軍の先鋒として信貴山城に攻め滅ぼし、ついに長年の宿敵との戦いに終止符を打ったのである 1 。
順慶の人物像:文化人と現実主義者
順慶は、興福寺の僧侶としての出自を持ち、仏教への信仰心が厚く、茶湯や能楽にも通じた当代一流の文化人であった 1 。しかし、その一方で、天正八年には鉄砲を鋳造するために大和国内の寺社から釣鐘を徴収するなど、目的のためには伝統や信仰をも利用する、冷徹な現実主義者としての一面も持ち合わせていた 1 。後に本能寺の変が起きた際、旧主・明智光秀と覇者・羽柴秀吉のどちらにも味方せず、形勢を見極めた「洞ヶ峠」の逸話から、日和見主義者と揶揄されることもある 30 。しかし、それは大和国の安寧を第一に考え、自らの勢力を温存するための、極めて慎重かつ合理的な判断の結果であったとも評価できる 34 。この文化人としての洗練された知性と、戦国大名としての冷徹な現実主義を併せ持つ複雑な人物像こそが、天正八年の破城令において、信長の忠実な実行者として振る舞いつつ、自身の政治的野心を達成するという、高度な政治的判断を可能にしたのである。
第四章:天正八年八月、大和激震 ― 郡山城以外の城、悉く破却せよ
石山合戦の終結からわずか数ヶ月後、信長の構想は実行に移された。天正八年八月、大和国は文字通り震撼する。それは、長年続いた国人割拠の時代の終わりを告げる、激烈な構造改革の始まりであった。
【表1】天正八年 大和国破城令 関連年表
年月日 (天正8年) |
出来事 |
典拠史料・関連情報 |
閏3月5日 |
石山本願寺の顕如が織田信長との和睦に応じる。10年に及ぶ石山合戦が事実上終結。 |
16 |
8月 |
信長、摂津・河内・大和の三カ国に対し、拠点城以外の城の破却を命令。 |
16 |
8月15日 |
信長、京を出発し大坂へ向かう。道中、畿内の諸城を破却させる方針を固め、家臣に通達。 |
16 |
8月17日 |
筒井順慶、自らの本拠地であった 筒井城 を破却。大和国中の城の破却が開始される。 |
31 |
8月17日 |
『多聞院日記』に「平城(筒井城)破却」と「大和国中の城が悉く破却」され、国中が「以外騒動(いげのそうどう)」であったと記される。 |
35 |
8月18日 |
破城のための上使衆が筒井氏の城(郡山城か)に入る。筒井郷では人々が物を隠すなど「震動」した。 |
35 |
8月19日 |
明智光秀、郡山城の普請を見舞うため大和国入り。 |
36 |
8月20日 |
大和国中の「破城」が大旨遂行されたと『多聞院日記』に記される。 高取城 もこの過程で破却された。 |
35 |
8月21日 |
信長、細川藤孝に対し、畿内の諸城の破却が完了した旨を伝える。 |
16 |
11月7日 |
信長、順慶に対し、郡山城に入城すること、大和一国を順慶が支配することを朱印状で正式に命じる。 |
36 |
11月12日 |
筒井順慶、正式に郡山城へ入城する。 |
31 |
破城令発令までの胎動
この破城令は、決して突発的なものではなかった。信長は同年三月の時点で、後に順慶の本拠地となる郡山などを視察しており、大和国の地政学的な状況を把握していた 16 。そして八月、石山合戦の後始末をつけた信長は、満を持して大坂へ赴き、畿内の支配体制を再編する具体的な指示を下した 16 。大和の国人衆にとっては、まさに青天の霹靂であったろう。
8月17日:筒井順慶、自らの城を壊す
信長の命令を受けた大和国主・筒井順慶の行動は、迅速かつ衝撃的であった。彼はまず、他ならぬ自らの本拠地であり、一族の栄枯盛衰の歴史が刻まれた筒井城の破却から着手したのである 31 。
これは単なる命令の忠実な実行ではない。順慶による、計算され尽くした高度な政治的パフォーマンスであった。他のどの国人衆に先んじて、最も痛みを伴うであろう自らの城を破壊することで、信長への絶対的な忠誠を疑いのない形で示したのである。この行動は、他の国人衆が破城に抵抗するあらゆる口実を封じ込めた。「大和国主である順慶様ですら、ご自身の城を壊しておられるのだ」という強力な同調圧力が、大和全土を覆った。順慶の真の狙いは、この忠誠心の見返りとして、大和国で唯一存続を許される郡山城の城主としての地位を確固たるものにすることにあった。自らの過去の象徴(筒井城)を捨てることで、未来の支配拠点(郡山城)を確実に入手するための、見事な戦略的行動であった。
8月18日~20日:大和国中の「以外騒動」
順慶の行動を皮切りに、破却は瞬く間に大和全土へ広がった。当時の興福寺の僧侶・英俊が記した日記『多聞院日記』は、その時の生々しい状況を伝えている。国中の城が悉く破却され、諸方は「以外騒動(いげのそうどう)」、すなわち想定外の大騒ぎとなり、奈良の町では人々が家財道具を隠すなど「震動」したと記録されている 35 。この記述は、破城が極めて迅速かつ強制的に、有無を言わさず進められたことを物語っている。国人衆だけでなく、一般民衆や寺社にとっても、長年続いた秩序が崩壊する衝撃的な出来事であった。八月二十日には、国中の破城が「大旨」完了したと記されており、わずか数日の間に大和の軍事的地図が塗り替えられたことがわかる 35 。
高取城の破却:「戦い」なき落城
この一連の破城の嵐の中で、南大和の雄・越智氏の居城であった高取城もまた、例外なく解体の対象となった 37 。ここで重要なのは、当時の高取城の姿である。後世、「日本三大山城」の一つに数えられ、壮麗な石垣と天守を誇る近世城郭として知られるが、天正八年時点の高取城は、そのような堅固な城ではなかった。それは、山の地形を利用し、土を掻き揚げて土塁とし、空堀を掘って防御する、中世的な「掻揚城(かきあげのしろ)」と呼ばれる簡素な山城だったのである 37 。
この事実は二つのことを示唆する。一つは、物理的な破却作業自体は、後世の石垣の城を破壊するほどの困難を伴わなかったであろうこと。そしてもう一つは、この出来事の核心が、物理的な破壊の規模にあるのではなく、越智氏の拠点としての「機能」を失わせるという、純粋に政治的な意味合いにあったということである。高取城は、一兵も損なうことなく、信長の命令という「権威」によって、静かに「落城」したのである。
第五章:沈黙する城主、越智氏 ― 臣従と忍従の狭間で
自らの城が、長年のライバルである筒井順慶の監督下で解体されていくのを、城主であった越智氏はただ見守るしかなかった。なぜ彼らは抵抗できなかったのか。その理由は、彼らもまた織田信長の家臣であったという、逆説的な事実にあった。
臣従していたが故の無抵抗
当時の越智氏当主・越智家秀(あるいは利高とも)は、筒井順慶と同様に、織田信長に臣従していた 37 。記録によれば、天正五年(1577年)には安土城で信長に謁見し、天正十年(1582年)には信長の東国出陣の軍役にも従っている 4 。つまり、越智氏にとって信長は絶対的な主君であり、その主君が発した破城令に逆らうという選択肢は、事実上存在しなかった。もしここで抵抗すれば、それは即刻、信長への反逆とみなされ、かつての松永久秀のように、織田の大軍によって一族もろとも滅ぼされる運命が待っているだけだった。彼らにできたのは、屈辱を耐え忍び、命令に従うことだけであった。
失われた拠点、削がれた牙
越智氏は、麓の越智居城や貝吹山城を本城とし、高取城を詰城(つめのしろ、非常時の籠城用の城)としていた時期もあったが 10 、戦国末期には高取城がその軍事・政治活動の中心的な城郭となっていた 42 。この拠点を失ったことの意味は、単に一つの砦を失ったことに留まらない。城は、一族郎党が集住し、兵糧や武具を備蓄し、地域の支配を象徴する政治的中心地である。高取城の破却は、越智氏からその軍事力と政治的求心力の双方を奪い去る、決定的な一撃となった。彼らは、いわば牙を抜かれたに等しい状態に陥ったのである。
第六章:破城の先に ― 筒井順慶の謀略と越智氏の滅亡
天正八年の高取城破却は、それ自体が終着点ではなかった。それは、筒井順慶が描いた、より大きな謀略の序章に過ぎなかった。この出来事は、三年後に訪れる越智氏の完全な滅亡へと直接的に繋がっていく。
破城から滅亡への道筋
高取城が破却された天正八年(1580年)、織田信長は天下人として健在であった。信長政権下では、同じ信長の家臣である越智氏を、順慶が私的に攻撃することは許されない。それは大和国の安定を望む信長の意に反する行為であり、自らの立場を危うくしかねなかった。
しかし、順慶は信長の「破城令」という、誰も逆らうことのできない「合法的」な手段を巧みに利用した。自らの手を汚すことなく、長年のライバルの軍事力を合法的に削ぎ落とすことに成功したのである。そして二年後の天正十年(1582年)、本能寺の変で信長という絶対的な「重し」が突如として取り除かれた。この権力の空白は、順慶にとって千載一遇の好機となった。大和国内の権力バランスは、すでに高取城という拠点を失い弱体化していた越智氏にとって、絶望的に不利な状況にあった。
順慶はこの好機を逃さなかった。彼は武力で正面から攻めるのではなく、より確実な方法を選んだ。越智氏の家中に調略の手を伸ばし、内部からの切り崩しを図ったのである。
越智家秀暗殺の結末
天正十一年(1583年)、ついにその謀略は結実する。当主・越智家秀は、「筒井順慶に通じた家臣たちによって」暗殺された 42 。これにより、南北朝時代から南大和に君臨した名族・越智氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消した 11 。その広大な遺領は、松倉右近ら筒井氏の重臣たちに与えられ、順慶の支配下に組み込まれた 42 。
天正八年の高取城破却は、この最終章のために周到に準備された布石であった。順慶は、信長の権威を利用して敵の牙を抜き、信長の死によって生まれた混乱の中で、最小限の力でとどめを刺したのである。
【表2】大和国主要国人衆の動向比較表(天正年間)
勢力 |
出自 |
本拠地 (天正8年時点) |
破城令への対応と結果 |
天正11年以降の動向 |
筒井氏 |
衆徒 |
筒井城 |
自ら筒井城を破却。信長より 郡山城 を与えられ、大和唯一の拠点城主となる。 |
大和国を完全に掌握。順慶死後、定次が継ぐも伊賀へ転封。 |
越智氏 |
国民 |
高取城 |
破却命令に従い 高取城 を失う。軍事力・求心力が著しく低下。 |
天正11年(1583)、当主家秀が暗殺され 滅亡 。遺領は筒井氏が吸収。 |
箸尾氏 |
国民 |
箸尾城 |
破却命令に従い 箸尾城 を失う。すでに順慶に帰順していた。 |
筒井氏の配下として存続するも、かつての勢力は失う。 |
十市氏 |
国民 |
十市城 龍王山城 |
龍王山城 は天正6年(1578)に信長の命令で破却済み。 十市城 も天正8年に破却された。 |
早くから筒井氏に従属しており、その支配体制に組み込まれる。 |
出典: 13 等を基に作成
この表が示すように、破城令は大和国のすべての国人衆に影響を与えたが、その結果は一様ではなかった。越智氏、箸尾氏、十市氏といった有力国人が軒並み本拠地を失い、その力を削がれる一方で、筒井順慶のみが郡山城という新たな、そしてより強力な拠点を得て、その支配力を絶対的なものにした。この対比こそが、破城令がもたらした大和国における権力構造の劇的な再編を物語っている。
結論:権力の象徴としての城 ― 「戦い」から読み解く戦国終焉期の権力移行
天正八年(1580年)の「高取城の戦い」と呼ばれた出来事の実態は、織田信長の中央集権政策という巨大な時代の奔流が、大和国という寺社勢力下の伝統的な社会を飲み込んでいく過程で発生した、象徴的な「政治闘争」であった。この闘争の勝者は、血を流す「合戦」ではなく、権威による「破城」と、その後の冷徹な「謀略」を駆使した筒井順慶であった。彼は、中央の巨大な権力の波を巧みに乗りこなし、長年のライバルであった越智氏を歴史の彼方へと葬り去り、大和国に新たな秩序を打ち立てたのである。
この一連の出来事は、城が単なる軍事拠点ではなく、権力と独立性の象徴であった中世的な国人割拠の時代が終わりを告げ、中央集権化された近世的な大名領国制へと移行していく、戦国時代の終焉を象徴する画期的な事件であったと言える。破壊され、そして後に豊臣政権下で壮麗な近世城郭として蘇る高取城は、その身をもって時代の大きな転換点を静かに見つめていたのである。武力だけが全てではない。権威と情報、そして策略が雌雄を決する。天正八年の高取城をめぐる攻防は、戦国時代の終焉期における、新たな「戦い」の姿を我々に示している。
引用文献
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- 筒井城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.tsutsui.htm
- Untitled - 高取町 https://www.town.takatori.nara.jp/cmsfiles/contents/0000000/685/takatori_panfu2.pdf
- 高取城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/takatori-castle/
- 中世の高取町散策コース https://sightseeing2.takatori.info/cource/cource-tyusei/
- 南和の雄・越智氏の本拠・越智城界隈を巡る~越智谷散歩(1) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/ochi01
- 武家家伝_越智氏 - harimaya.com http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/oti_k.html
- 越智氏奉賛会 光雲寺公式サイト http://www.kouunzenji.jp/ochi.html
- 箸尾城と教行寺~中世城下町から近世寺内町へ - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/hashiokangoh
- 奈良盆地を一望・龍王山城跡 http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/walk_route/route_08/pdf/route-kai_08_1.pdf
- 龍王山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%8E%8B%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 龍王山城の見所と写真・100人城主の評価(奈良県天理市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/667/