高天神城の戦い(第一次・1571)
元亀二年、武田信玄は遠江の要衝高天神城を攻めるも、その堅固さに力攻めを断念し撤退。この戦いは、後の武田・徳川両氏の戦略に深く影響を与え、高天神城を巡る死闘の序章となった。
日本の戦国時代史研究報告:高天神城の戦い(第一次・1571年)の総合的分析
序章:遠江の要衝、高天神城
戦国時代の遠江国(現在の静岡県西部)において、その支配権の帰趨を左右するとまで言われた城があった。それが高天神城である。「高天神を制する者は遠江を制す」 1 。この言葉は、単なる謳い文句ではなく、当時の地政学的状況を的確に表現したものであった。本報告書は、この高天神城を巡る武田氏と徳川氏の長きにわたる攻防史の、まさに序章となった元亀二年(1571年)の出来事、通称「第一次高天神城の戦い」について、その背景、経過、そして歴史的意義を徹底的に分析・詳述するものである。
「遠江を制する城」の地政学的重要性
高天神城の戦略的価値は、その地理的条件に根差している。遠江国と駿河国(現在の静岡県中部・東部)の国境地帯に位置し、東海道から分岐して信濃方面へ抜ける内陸交通路、いわゆる「塩の道」を押さえる要衝であった 2 。三河国から東進し遠江支配を固めようとする徳川家康にとって、高天神城は駿河の武田氏に対する最前線の防衛拠点であり、遠江支配を盤石にするための楔であった 3 。一方、駿河を手中に収め、さらなる西進、すなわち遠江・三河への侵攻を窺う武田信玄にとって、この城は徳川領の心臓部へ至るための足掛かりとなる、攻略必須の目標であった 3 。両雄にとって、高天神城の領有は、単に一つの城を得る以上の、遠江全域の支配権に関わる死活問題だったのである。
城郭の構造分析 ― 「難攻不落」の物理的要因
高天神城が「難攻不落」と称された背景には、その特異な地形と、それを最大限に活用した城郭構造がある。城は標高132メートルの鶴翁山に築かれ、三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の要害をなしていた 5 。石垣を用いず、土塁、堀切、横堀などを幾重にも巡らせた実践的な土の城であり、特に攻城口となりうる傾斜の緩やかな西側斜面には、複雑かつ堅固な防御施設が集中して設けられていた 5 。この物理的な堅固さが、敵の攻城意欲を削ぎ、多大な犠牲を強いる構造となっていた。
しかし、高天神城の「難攻不落」という評価を決定づけたのは、物理的な構造以上に、ある歴史的な事実であった。それは、元亀二年(1571年)に当代随一の軍略家と謳われた武田信玄自らが大軍を率いて攻め寄せながら、力攻めを断念し撤退したという一件である 5 。この出来事は、高天神城に「信玄ですら落とせなかった城」という伝説的な名声を与えた。この成功体験は、徳川方にある種の過信を生み、一方で武田方には、父が成し得なかった城の攻略という、次代の当主・勝頼の執着心を掻き立てる象徴的な目標となった。1571年の攻防は、単なる軍事行動に留まらず、その後の両陣営の戦略や心理状態にまで深く影響を及ぼす「物語」の起点となったのである。
「第一次高天神城の戦い」の年代的再定義
歴史を紐解く上で、利用者様が提示された「第一次高天神城の戦い(1571年)」という呼称には、若干の補足が必要である。一般的に「第一次高天神城の戦い」として広く知られているのは、武田勝頼が城を攻め落とし、開城させた天正二年(1574年)の合戦を指すことが多い 3 。しかし、その前段として、元亀二年(1571年)に武田信玄自身がこの城に兵を向けたことは、複数の史料で確認されている事実である 7 。
したがって本報告書では、この二つの出来事を明確に区別し、元亀二年(1571年)の武田信玄による侵攻を「 第一次高天神城攻防 」あるいは「 高天神城への威力偵察 」と位置づけ、その詳細な時系列を解明する。そして、この1571年の出来事が、いかにして1574年の「 実質的な第一次高天神城の戦い(高天神城開城戦) 」へと繋がっていったのか、その因果関係を論じる構成を取る。
年代(西暦) |
主要な出来事 |
関連勢力 |
永禄11年 (1568) |
武田信玄の駿河侵攻。今川氏が没落し、高天神城主・小笠原氏が徳川家康に帰属。 |
武田、徳川、今川、小笠原 |
元亀2年 (1571) |
武田信玄、高天神城へ侵攻するも、力攻めを行わず撤退(本報告書の主題)。 |
武田、徳川、小笠原 |
元亀3年 (1572) |
三方ヶ原の戦い。徳川家康が武田信玄に大敗。高天神城は一時武田方に降伏。 |
武田、徳川 |
天正元年 (1573) |
武田信玄が病没。家督は武田勝頼が継承。 |
武田 |
天正2年 (1574) |
武田勝頼、高天神城を本格的に攻撃。籠城の末、小笠原氏助が降伏し開城(通説での第一次合戦)。 |
武田、徳川、小笠原、織田 |
天正3年 (1575) |
長篠の戦い。織田・徳川連合軍が武田軍に大勝。 |
武田、徳川、織田 |
天正7年 (1579) |
徳川家康、高天神城包囲網(高天神六砦)を完成させる。 |
徳川、武田 |
天正9年 (1581) |
第二次高天神城の戦い。徳川軍の兵糧攻めの末、城代・岡部元信以下、城兵が玉砕し落城。 |
徳川、武田 |
天正10年 (1582) |
織田・徳川連合軍による甲州征伐。武田勝頼が自刃し、武田氏が滅亡。高天神城は廃城となる。 |
徳川、武田、織田 |
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表1:高天神城を巡る主要年表(1568年~1582年) 3 |
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第一部:戦雲の胎動 ― 合戦前夜の遠江
元亀二年(1571年)の武田信玄による高天神城への侵攻は、突発的に発生した事件ではない。それは、今川家の没落によって生じた権力の真空地帯を巡る、武田氏と徳川氏の熾烈な覇権争いの必然的な帰結であった。
1. 今川家没落と権力の真空地帯
永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いにおける今川義元の討死は、東海地方の勢力図を一変させた。強大な当主を失った今川家は急速に衰退し、その広大な領国であった駿河・遠江では、支配の揺らぎに乗じた国衆の離反が相次いだ 3 。この千載一遇の好機を、西の徳川家康と北の武田信玄が見逃すはずはなかった。
当初、両者は今川領を大井川を境として東西に分割する密約を結び、永禄十一年(1568年)、共同で今川領への侵攻を開始した 18 。家康は遠江へ、信玄は駿河へ。しかし、この協調関係は長くは続かなかった。信玄配下の重臣・秋山虎繁が率いる部隊が信濃から国境を越え、徳川が制圧すべき遠江にまで侵攻したのである 18 。この約定違反は家康に武田氏への強い不信感を抱かせ、両者の同盟関係は事実上崩壊。遠江・駿河を舞台とした、新たな敵対関係へと移行していった 19 。信玄が元亀三年(1572年)の遠江侵攻に際して記した書状にある「三ヶ年の鬱憤を散ずべし」との一文は、この同盟破棄から数えてのことであり、家康への積年の恨みが侵攻の動機の一つであったことを示唆している 19 。
2. 城主・小笠原氏の苦悩と選択
この激動の時代、三大勢力の狭間で翻弄されたのが、高天神城主・小笠原氏であった。信濃守護・小笠原氏の庶流にあたる高天神小笠原氏は、今川家の内乱「花倉の乱」で旧城主の福島氏が没落したのに乗じ、今川家臣としてこの地で台頭した一族である 14 。
元亀二年(1571年)時点での城主は、小笠原氏興の子である**小笠原氏助(うじすけ)**であった 14 。後世の軍記物では「長忠(ながただ)」の名で知られるが、これは一次史料では確認されておらず、『信長公記』が氏助と長忠を別人として記述したことによる混乱が後世に影響を与えたと考えられている 14 。なお、氏助は天正二年(1574年)に武田氏に降伏した後、当主・勝頼から「信」の一字(偏諱)を与えられ、「信興(のぶおき)」と改名している 14 。
今川家の没落という未曾有の事態に直面した氏助は、生き残りを賭けて徳川家康への帰属を決断する。大久保忠教が記した『三河物語』によれば、氏助は当初、武田方への従属も視野に入れていたが、家康の命を受けた同族の説得により、徳川方につくことを決意したという 25 。この逸話は、大大名の狭間で去就に迷う当時の国衆の苦しい立場を如実に物語っている。徳川配下となった後は、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに徳川軍の一角として参陣するなど、対浅井・朝倉戦線で武功を挙げていた 14 。
しかし、その忠誠心は常に試練に晒されていた。徳川に帰属してまだ日が浅い小笠原氏のような遠江国衆にとって、旧主・今川家を駆逐した武田信玄の威勢は、無視できない脅威であった。信玄の1571年の侵攻は、単なる軍事的な示威行動に留まらず、徳川に帰属したばかりの遠江国衆、とりわけその要となる小笠原氏の忠誠心を試す「踏み絵」としての側面を色濃く持っていた。信玄の狙いは、物理的な城の攻略と同時に、大軍による威圧と調略によって、小笠原氏を内側から切り崩し、徳川から引き剥がすことにあった可能性が高い。
第二部:元亀二年(1571年)の攻防 ― 信玄、高天神城に至る
元亀二年三月、甲斐の虎・武田信玄は、ついに遠江へとその牙を剥いた。これは、後に約10年にわたり繰り広げられる高天神城を巡る死闘の、まさに始まりであった。ご要望である「合戦中のリアルタイムな状態」を再現するため、以下にその経過を時系列で詳述する。
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武田軍(攻城側) |
徳川・小笠原軍(籠城側) |
総兵力 |
約20,000~25,000 |
約2,000 |
総大将 |
武田信玄 |
(後詰)徳川家康 |
城主/指揮官 |
(部隊指揮官)武田勝頼、山県昌景など |
(城主)小笠原氏助(長忠) |
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表2:元亀二年(1571年)の攻防における両軍の兵力と主要武将 3 |
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1. 武田軍、遠江へ侵攻(元亀二年三月頃)
【時系列①:侵攻開始】
元亀二年三月、武田信玄は2万とも2万5千とも号する大軍を率いて、本拠地である甲府を出陣した 3。その戦略目的は、徳川領への圧力強化、来るべき本格的な西上作戦の地ならし、そして徳川に靡いた遠江国衆への示威行動など、複合的なものであったと推察される 27。
【時系列②:進軍と徳川方の対応】
武田軍本隊は駿河国を経由して遠江国へと侵入。『高天神小笠原家譜』によれば、一部隊は信玄の子・勝頼が率いていたとされる 21。軍勢は一路、高天神城を目指して進軍し、その周辺地域に展開を開始した。これに対し、徳川家康は浜松城を拠点に防衛体制を敷いていたが、その総兵力は1万に満たず、10倍以上の兵力差がある武田軍と野戦で雌雄を決することは到底不可能であった 3。家康にできることは、各城の守りを固め、武田軍の猛攻を耐え忍ぶことのみであった。
2. 前哨戦:国安川・獅子ヶ鼻での小競り合い
【時系列③:接触と小規模戦闘】
高天神城に接近する武田軍の先鋒と、城から出撃した小笠原勢や徳川方の斥候部隊との間で、散発的な戦闘が発生した。史料には、現在の掛川市(旧大東町)に残る獅子ヶ鼻や国安川といった地名が記録されており、これらが前哨戦の舞台となったと考えられる 8。しかし、これらは本格的な攻城戦に先立つ威力偵察や、周辺の制圧を目的とした小競り合いの域を出るものではなかった。
【時系列④:布陣完了と心理的圧迫】
武田軍は、高天神城を力攻めにするための包囲陣ではなく、その堅固さを観察し、籠城側に威圧を与える位置に布陣した。『高天神小笠原家譜』は、信玄が「ハタカヤ口ホツチカノ山」に、勝頼が「茶臼山」にそれぞれ本陣を構えたと伝えている 21。城に籠もる小笠原氏助と2,000の将兵の眼下には、数万の武田軍が展開し、夜には無数の篝火が地を埋め尽くす光景が広がっていたはずである。援軍の当てもない中、その心理的圧迫は極限に達していたと想像に難くない。
3. 信玄の決断 ― 堅城を前にして
【時系列⑤:城の検分と評価】
信玄は陣頭に立ち、あるいは物見を放ち、高天神城の地形と防御施設を詳細に検分した 5。三方を断崖に囲まれ、唯一の攻め手となりうる西側斜面にも幾重もの堀と土塁が築かれている様を目の当たりにし、この城を力攻めにすれば、たとえ攻略できたとしても多大な時間と兵力の損耗は避けられないと判断した。
【時系列⑥:撤退の決断とその理由】
数日にわたる対陣の末、信玄は総攻撃の命令を下すことなく、全軍に撤退を命じるという意外な決断を下す。この決断の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられる。
- 軍事的要因: 高天神城の物理的な堅固さが最大の理由であったことは間違いない 8 。短期決戦が不可能な以上、長期の包囲戦は兵站線を敵地に長く晒すリスクを伴う。
- 戦略的要因: この時点での信玄の主目標は、あくまで西上作戦全体の成功であり、高天神城の攻略はその一過程に過ぎなかった。ここで戦力を大きく損耗することは、本願寺や浅井・朝倉と結んだ対信長包囲網という大戦略そのものを頓挫させる危険性があった 4 。
- 政治的要因: 当時、武田氏は相模の北条氏と和議を結んだ直後であり、その関係はまだ盤石とは言えなかった。背後を突かれる危険性を常に考慮する必要があった 19 。
- 目的の達成: そもそも、この侵攻の目的が威力偵察と示威行動にあったとすれば、大軍を展開し、徳川方が有効な手立てを打てない(援軍を出せない)状況を遠江の国衆に見せつけた時点で、その目的は十分に達成されていたとも言える。
【時系列⑦:秩序ある撤退】
信玄の号令一下、武田軍は秩序を保ったまま陣を払い、三河方面へと転進、その後甲斐へと帰還した 7。徳川方は、この撤退を深追いすることはなかった。圧倒的な兵力差を前に、野戦での決戦を避けるという家康の現実的な判断であった。
この一連の信玄の行動は、籠城側にとって極めて不可解なものであった。圧倒的な大軍に包囲され、いつ総攻撃が始まるか分からない極度の緊張状態に置かれた末、敵は戦わずして忽然と姿を消した。この「戦わずに撤退する」という決断は、敵将である家康と城主の小笠原氏助に、武田軍の真意を測りかねる「恐怖」と「混乱」を与えた。力攻めによる物理的な破壊ではなく、不可解な行動によって相手の心理を揺さぶり、判断を誤らせる。それは、力押しよりも高度な心理戦であったと言えるかもしれない。
第三部:歴史的文脈における「第一次」の再定義
元亀二年(1571年)の攻防は、明確な勝敗が決することなく終結した。しかし、この「戦われなかった戦い」は、その後の高天神城を巡る歴史に決定的な影響を及ぼすことになる。
1. 1571年の攻防が残したもの
この一件が武田・徳川双方に残した影響は大きい。
武田方にとっては、信玄自身が高天神城の堅固さを実地検分したことで、「高天神城は力攻めでは容易に落ちない」という共通認識が形成された。この経験は、後の武田勝頼による攻略作戦において、単なる力押しではなく、兵糧攻めや調略を重視し、かつ城の弱点である西側斜面を熟知した上での周到な攻撃計画へと繋がっていったと考えられる 30 。
一方の徳川方にとっては、結果的にではあるが大軍を前に城を守り抜いたという事実は、遠江防衛における大きな成功体験となった。これにより、高天神城が対武田戦線の最重要拠点であることが再認識され、その後の防衛体制強化へと繋がっていく 6 。しかし、この成功体験が「信玄ですら落とせなかったのだから」という一種の油断を生み、三年後の悲劇に繋がった可能性も否定できない。
2. 実質的な第一次合戦:天正二年(1574年)の攻防
天正元年(1573年)四月、武田信玄は西上作戦の道半ばで病没する。家督を継いだ若き当主・武田勝頼は、父の威光を乗り越え、自らの力を内外に示すため、父が果たせなかった高天神城の完全攻略に乗り出した 10 。
天正二年五月、勝頼は2万以上の大軍を率いて遠江に侵攻し、高天神城を包囲した 10 。1571年の威力偵察とは異なり、今回は本格的な攻城戦であった。武田軍の猛攻により、城の弱点であった西の丸が陥落するなど、城方はたちまち窮地に追い込まれた 3 。城主・小笠原氏助は浜松城の家康に必死の援軍要請を送るが、家康は単独での救援は不可能と判断し、同盟者である織田信長に援軍を要請した 3 。
しかし、当時信長は石山本願寺との戦いの最中にあり、援軍の派遣は遅れた 10 。援軍を待ちわびる籠城側の士気は日に日に低下し、ついに氏助は決断を迫られる。信長の援軍が三河吉田城に到着したまさにその日、六月十七日、これ以上の籠城は不可能と判断した氏助は、城兵の助命を条件に勝頼に降伏。高天神城は開城し、武田の手に落ちた 10 。
この、明確な勝敗が決した1574年の戦いこそが、後世において「第一次高天神城の戦い」として記憶される主要因となった。その意味で、1571年の出来事は、この大規模な開城戦の「序章」あるいは「前哨戦」として位置づけるのが、歴史的実態に即した理解と言えるだろう。
終章:序章の終わり ― 武田・徳川の死闘への布石
元亀二年(1571年)の武田信玄による高天神城への侵攻は、単独の「戦い」として完結したものではない。それは、高天神城という一つの城を舞台に、約10年間にわたって繰り広げられる武田氏と徳川氏の壮絶な死闘の、まさに幕開けを告げる号砲であった。信玄による周到な威力偵察は、両陣営にこの城の戦略的価値と攻略の困難さを深く刻み込み、その後の両者の戦略を規定する重要な転換点となったのである。
天正二年(1574年)に高天神城を手に入れたことは、武田勝頼にとって父を超えた証となる大きな戦果であった。しかし、それは同時に、敵地である遠江の奥深くに、長大な補給線を必要とする維持困難な拠点を抱え込むことを意味していた 3 。この城の存在は、後の武田家にとって大きな負担となり、天正九年(1581年)の第二次合戦において、勝頼がこの城を見殺しにせざるを得なかったという苦渋の決断は、家臣団の信望を決定的に失わせ、名門・武田氏滅亡の遠因となったと評価されている 16 。
一方、徳川家康にとって高天神城を巡る一連の争奪戦は、苦渋に満ちた試練の連続であった。しかし、最終的にこれを奪還し、遠江を完全に平定した経験は、彼の領国経営と、兵糧攻めという新たな戦術を駆使する軍事戦略を飛躍的に成熟させる大きな糧となった 1 。高天神城を巡る戦いは、若き日の家康が、幾多の敗北と犠牲を乗り越え、天下人へと成長していく過程における、避けては通れない重要な通過儀礼だったのである。1571年の静かな対陣は、その長大なる物語の、静かな、しかし決定的な第一ページであった。
引用文献
- 徳川家康の「高天神城攻め」|宿敵・武田氏滅亡の決定打となった戦いを解説【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1136376
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- 第一次高天神城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97915/
- 戦国時代最強の山城!? 徳川家康×武田氏攻防の地・高天神城址で戦国武将の息吹を感じよう。 https://shizuoka.hellonavi.jp/takatenjinjyo
- 高天神城の歴史と特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/17036_tour_117/
- 高天神城跡縄張り図 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/50/50355/130343_1_%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E5%87%BA%E5%9C%9F%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E5%B1%95.pdf
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- 致命傷となった高天神城落城と武田氏の滅亡 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20330