最終更新日 2025-08-25

高天神城の戦い(第二次・1581)

天正九年、高天神城は徳川家康の緻密な包囲網と織田信長の非情な計略により孤立。武田勝頼の援軍なく、城将・岡部元信は忠義を貫き壮絶な討ち死に。この落城は武田家滅亡の序曲となり、戦国時代の転換点を示す。

天正九年の絶城 ― 高天神城、最後の攻防

序章:遠江の要衝、高天神城

戦国時代の日本において、一つの城が持つ戦略的価値は、時に一国の運命を左右するほどの重みを持っていた。中でも、「高天神を制する者は遠江を制す」とまで謳われた高天神城は、その典型例であった 1 。現在の静岡県掛川市に位置するこの城は、標高132メートルの鶴翁山に築かれ、駿河国と遠江国の国境地帯を扼し、眼下には遠州灘を望む交通と軍事の要衝であった 3 。その地形は天然の要害をなし、かの武田信玄ですら一度はその堅固さを見て力攻めを断念したと伝えられるほどの難攻不落の城塞であった 3

この城を巡る武田氏と徳川氏の攻防は、天正二年(1574年)の第一次高天神城の戦いにその端を発する。父・信玄の急逝後、家督を継いだ武田勝頼は、父が成し得なかったこの堅城の攻略に執念を燃やした。同年5月、勝頼は2万5千とも言われる大軍を率いて高天神城を包囲 6 。城主の小笠原長忠は徳川家康に救援を求めるも、家康は同盟者である織田信長の援軍を待つ必要があり、迅速な対応ができなかった 7 。武田軍の猛攻により西の丸が陥落し、籠城側の士気が尽きようとする中、勝頼は小笠原に対し、城兵の助命と進路の自由を保証するという破格の条件を提示して開城を促した 8 。この寛大な処置を受け、高天神城は武田の手に落ちた 1

この勝利は、勝頼の武威を天下に示し、代替わりによる武田家中の不安を払拭する大きな成果となった 5 。しかし、それは同時に、徳川家康にとっては自領の喉元に突き付けられた刃であり、雪辱と奪還を誓うべき屈辱の象徴となった。勝頼は、この遠江における最重要拠点に、旧今川家の家臣でありながらその武勇と忠義で知られた猛将・岡部元信を城将として配置した 6 。これにより、高天神城は武田家の対徳川における最前線基地として、そして両者の威信をかけた決戦の舞台として、その運命を定められることとなったのである。第一次合戦における勝頼の勝利と寛大さは、皮肉にも、後に彼自身を破滅へと導く、より熾烈な第二次合戦の火種を蒔く結果となった。

第一章:長篠以降の力学 ― 武田と徳川、それぞれの盤上

天正三年(1575年)五月、長篠・設楽原の戦いは、戦国時代の勢力図を塗り替える一大転換点となった。織田・徳川連合軍の前に武田軍は歴史的な大敗を喫し、山県昌景、馬場信春といった宿老をはじめとする多くの将兵を失った 8 。この敗戦により、武田と徳川の力関係は劇的に逆転する 10 。勝頼は失われた権威の回復と家中の再編という困難な課題に直面することになった 8

この好機を逃さず、徳川家康は積極的な反攻に転じた。信玄存命中は防戦一方であったが、長篠の勝利を追い風に、三河・遠江における失地回復へと乗り出したのである 6 。長篠合戦からわずか三ヶ月後には、高天神城の重要な補給拠点であった諏訪原城を攻略 8 。その年の冬には二俣城をも奪回し、遠江における武田方の拠点を着実に削り取っていった 10 。家康の目標は、遠江から武田勢力を完全に駆逐し、自領の安定を確保することにあり、その最終目標は、領内深くに打ち込まれた楔、高天神城の奪還であった。

一方、武田勝頼は長篠での大敗後、決して無為に時を過ごしていたわけではない。むしろ、失地回復と勢力拡大のため、精力的に活動していた。越後の上杉謙信の死後に発生した家督争い「御館の乱」に介入し、上杉景勝と同盟(甲越同盟)を締結。さらに東の上野国では北条氏の領土に侵攻し、一時は父・信玄の時代をもしのぐほどの版図を築き上げた 13 。しかし、この積極策は、西の織田・徳川、そして東の北条という二大勢力を同時に敵に回すことを意味した 13 。全方位に戦線を拡大した結果、武田家の国力は著しく消耗し、戦略的な柔軟性を失っていった。高天神城が家康の包囲網によって孤立した際、勝頼が救援軍を派遣できなかった背景には、この広域にわたる戦略的ジレンマが存在した。彼は遠江の一城を救うために、他の重要な戦線を放棄するという決断を下すことができなかったのである。高天神城の孤立は、家康の巧みな包囲戦術のみならず、勝頼自身の戦略的選択が招いた必然的な帰結であった。

第二章:将たちの肖像 ― 四人の思惑が交錯する戦場

第二次高天神城の戦いは、単なる城の奪い合いではなかった。それは、徳川家康、武田勝頼、岡部元信、そして織田信長という四人の将たちの、それぞれの立場と野望、そして苦悩が複雑に絡み合った人間ドラマの舞台でもあった。

徳川家康 ― 執念の戦略家

家康にとって、高天神城の奪還は遠江の完全平定という長年の悲願を達成するための最後の関門であった。彼は、第一次合戦の屈辱を晴らすべく、この戦いに全てを懸けていた。しかし、その手法は性急な力攻めではなかった。数年の歳月をかけて城の周囲に砦を築き、補給路を完全に遮断するという、冷徹かつ合理的な兵糧攻めを選択した 4 。この忍耐強く、着実な戦術は、彼の慎重な性格を如実に物語っている。彼は武田の精兵との直接対決による損耗を避け、経済力と組織力で敵の消耗を待つという、より確実な勝利への道を選んだのである。

武田勝頼 ― 威信に揺れる当主

偉大な父・信玄の後を継いだ勝頼にとって、高天神城は特別な意味を持つ城であった。父ですら落とせなかったこの堅城を攻略したことは、彼の武威の象徴であり、武田家当主としての栄光の証であった 5 。故に、この城を失うことは、彼のプライドと権威を根底から揺るがす事態を意味した。しかし、前述の通り、多方面作戦による国力の疲弊は深刻であり、高天神城に大規模な救援軍を送る余力はもはや残されていなかった 5 。家臣を見捨てるのか、それとも無謀な救援によって国をさらに危うくするのか。この究極の選択を迫られた彼の苦悩は、やがて来る武田家滅亡の悲劇そのものを内包していた 8

岡部元信 ― 忠義に殉じる猛将

城将・岡部元信は、戦国乱世の武士の鑑とも言うべき人物であった。元は今川家の重臣であり、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いでは、主君・今川義元が討たれた後も鳴海城で孤軍奮闘を続けた。そして、織田信長との交渉の末、義元の首級と引き換えに堂々と開城し、駿府へ帰還したという逸話は、彼の忠義と胆力を示している 16 。今川家滅亡後は武田家に仕え、その武勇と経験を買われて高天神城の守りを任された 17 。譜代ではない外様の将でありながら、武田家でも重用されたのは、彼の実力と人格が高く評価されていた証左である。援軍の望みが絶たれ、降伏すら許されない絶望的な状況下にあって、彼は最後まで城兵を鼓舞し、武士の誉れを胸に壮絶な最期を遂げることになる 5

織田信長 ― 天下人の非情な計算

そして、この戦いの背後には、天下布武を進める織田信長の冷徹な計算があった。高天神城の戦いは、徳川対武田という構図の裏で、信長が仕掛けた武田家滅亡への壮大な政略の舞台であった。籠城する岡部元信らが家康に降伏を申し出た際、家康がこれを拒絶した背景には、信長の厳命があった。現存する書簡からも、信長が家康に降伏を認めないよう強く指示していたことが分かっている 20

信長の狙いは、単に城を一つ落とすことではなかった。彼の戦略は、武田勝頼を二者択一の罠に追い込むことにあった 20

  1. もし勝頼が、万難を排して高天神城の救援に出陣してくれば、それを野戦で迎え撃ち、武田本軍を殲滅する絶好の機会となる。
  2. もし勝頼が、救援を断念して城を見捨てれば、彼は「苦境にある忠臣を見殺しにする主君」としての烙印を押され、その威信は地に堕ちる。これにより、武田家臣団の忠誠心は揺らぎ、内部からの崩壊を誘発できる。

信長にとって、どちらに転んでも武田家に致命的な打撃を与えられる、完璧な計略であった。特に、忠義の将として名高い岡部元信が籠城していることは、この政略の効果を最大化させた。元信の忠節が篤ければ篤いほど、それを見捨てる勝頼の不義理は際立ち、他の武田家臣に与える心理的衝撃は計り知れないものとなる。信長は、家康の軍事行動を巧みに利用し、武田家の「信頼」という無形の支柱を破壊する、高度な情報戦・心理戦を仕掛けていたのである。この戦いは、信長による武田家という名門の「公開処刑」の場と化したのであった。

第三章:静かなる攻城 ― 家康の「高天神六砦」包囲網

徳川家康が選択した高天神城攻略法は、戦国時代の合戦イメージを覆す、極めて組織的かつ近代的なものであった。それは血気にはやる突撃や奇襲ではなく、土木技術と兵站管理能力を駆使した「静かなる戦争」であった。

長期包囲への布石

家康はまず、長期戦を支えるための兵站基地の確保に着手した。高天神城の南方に横須賀城を新たに築城し、大規模な改修を加えて補給拠点とした 23 。さらに、三河からの物資輸送ルートを確立するため、馬伏塚城や岡崎の城山を結ぶ兵站ラインを構築した 2 。これにより、数十ヶ月に及ぶ可能性のある長期包囲戦に耐えうる、盤石の補給体制を整えたのである。

「高天神六砦」の構築

兵站の確保と並行して、家康は天正七年(1579年)頃から、高天神城を完全に孤立させるための砦群(付城)の建設を本格化させた 4 。『三河物語』によれば、城の周囲は砦だけでなく、柵や堀によって幾重にも囲まれたと記録されており、家康の奪還への執念がうかがえる 24 。中でも、中核をなしたのが「高天神六砦」と呼ばれる六つの砦であった。これらは高天神城を物理的に包囲するだけでなく、陸路・海路双方からの補給を完全に遮断する目的で、極めて計画的に配置されていた 24

六砦の機能と配置

高天神六砦は、単なる見張り台の集合体ではなかった。それぞれが監視、補給路の遮断、兵站ハブといった異なる役割を担い、一つのシステムとして機能していた 2 。この機能分化された包囲網は、家康の軍が単なる戦闘集団から、大規模な土木事業と兵站管理を遂行できる高度な統治機構へと進化しつつあったことを示している。

高天神六砦

位置(高天神城からの方角・距離)

守将(推定含む)

主たる戦略的役割

小笠山砦

北方 約4km

石川康通

標高250mの地点から戦場全体を俯瞰し、総指揮所としての役割を担った 24

能ヶ坂砦

北東 約2km

本多康重

北東方面からの敵の動きを監視し、信州方面からの補給路を遮断した 24

火ヶ峰砦

北東 約1.5km

大須賀康高

最も城に近い砦の一つ。最前線から城に軍事的圧力を加え、城兵の士気を削いだ 23

獅子ヶ鼻砦

東方 約3km

大須賀康高

東方からの敵の接近を警戒し、補給路を断つ役割を担った 23

中村(山)砦

南東 約3km

大須賀康高

周囲の入江や湿地を利用した水運の拠点。兵糧や物資の搬入・搬出を担う兵站ハブであった 23

三井山砦

南方 約3km

酒井重忠

南方からの補給路を遮断するとともに、遠州灘を監視し、海上からの補給や脱出を阻止した 23

この緻密な包囲網の完成は、武田方の補給を不可能にしただけでなく、籠城する将兵の心理にも大きな影響を与えた。日ごとに狭まる包囲網を城から目の当たりにし、頼みの綱である勝頼からの援軍も期待できない状況は、彼らの戦意を確実に蝕んでいった 24 。この戦いは、個々の武将の武勇よりも、組織的な計画遂行能力と兵站維持能力が勝敗を決する、新しい時代の戦争の姿を予感させるものであった。

第四章:籠城戦のリアルタイム ― 絶望と飢餓、そして決断

天正八年(1580年)までに家康の包囲網が完成すると、高天神城は外界から完全に遮断された陸の孤島と化した 23 。ここから、城内では凄惨を極める籠城戦が始まる。

包囲の完成と城内の窮状

時が経つにつれ、城内の兵糧は日に日に底を突き始めた。兵たちは飢えと寒さに苦しみ、やがて馬を殺して食らい、ついには餓死者が出るほどの状況に追い込まれた 4 。難攻不落を誇った堅城は、内部から静かに崩壊を始めていた。城将・岡部元信は、この窮状を打開すべく、甲斐の武田勝頼に向けて繰り返し後詰(援軍)を要請する使者を送った 4 。その中には、城主から足軽に至るまで、城兵全員が連名で血判を押したという悲痛な書状も含まれていた 6

降伏の申し出と拒絶

しかし、勝頼からの援軍が到着する気配は一向になかった。万策尽きた城兵たちは、ついに武田家の許可を得ることなく、独断で徳川方へ降伏の意思を伝える矢文を放った 4 。城兵の命の保証と引き換えに城を明け渡すという、兵糧攻めにおけるごく自然な結末を求めての行動であった。だが、彼らの最後の望みは、織田信長の非情な政略の前に無残にも打ち砕かれる。信長の厳命を受けた家康は、この降伏の申し出を冷徹に拒否したのである 4 。救援は来ない、そして降伏も許されない。城兵たちに残された道は、城を枕に討ち死にするか、あるいは飢えて死ぬかという、絶望的な二択のみとなった。

二つの忠義の相克

この極限状況の中、城内では二つの異なる形の「忠義」が表出していた。一つは、城将・岡部元信に代表される、主君の救援を最後まで信じ、与えられた持ち場を命尽きるまで守り抜こうとする武士としての忠義である。彼は、いかなる状況下でも将としての責任を全うしようとした。

もう一つは、武田家から軍監として派遣されていた横田尹松(ただとし)に代表される、より大局的な忠義であった。彼は、救援がもはや不可能であり、無理な救援軍の派遣は武田家本体をさらに疲弊させ、共倒れの危険を招くと冷静に判断していた。彼が勝頼に送ったとされる書状は、その悲壮な覚悟を物語っている。「武田家の安泰を希求するならば、当城を救うことなかれ。ゆえに断じて後詰めは御免こうむる」 5 。これは、自らの命と城兵の命を犠牲にしてでも、主家である武田家全体の未来を守ろうとする、究極の忠義の形であった。現場の将兵が生き残るために救援を渇望する一方で、大局を見る立場の軍監が自らを切り捨てるよう主君に促す。この二つの忠義の相克は、高天神城の末期の悲劇性を一層深いものにしている。

第五章:天正九年三月二十二日、最後の突撃

天正九年(1581年)三月、高天神城の運命は尽きようとしていた。救援の望みは完全に絶たれ、城内には飢えと絶望が満ちていた。そして三月二十二日、岡部元信は最後の決断を下す。

最後の軍議と訣別の酒宴

その日、岡部元信は城内の将兵を集めて最後の軍議を開いた。彼は静かに、しかし決然とした口調で告げた。「この城に入った時から、もとより生きて帰るつもりはない」 5 。飢えて死ぬことも、無様に降伏することも武士の恥辱である。ならば、最後の力を振り絞り、敵陣に討って出て華々しく散ることこそが武人の本懐である。全軍での玉砕突撃が決定された。その夜、城内に残された最後の酒が将兵に振る舞われた。彼らは思い思いに酒を酌み交わし、故郷の家族を想い、互いの健闘を称え、静かに最後の夜を過ごした 27

亥の刻(午後10時頃) ― 突撃開始

夜が更け、亥の刻(午後10時過ぎ)を迎えると、高天神城の城門が音もなく開かれた。先頭に立つのは城将・岡部元信その人であった。彼に率いられた約700から900の残兵は、最後の鬨の声を上げ、徳川軍の包囲陣の中で最も手薄と目された石川康通の陣を目がけて、決死の突撃を敢行した 10

闇夜の激戦

武田方の夜襲を察知した徳川軍は、即座に迎撃態勢を整えた。大久保忠世とその弟・忠教(後の彦左衛門)、そして大須賀康高らの部隊が突撃してくる武田勢を迎え撃ち、闇夜の中で壮絶な白兵戦が展開された 28 。数ヶ月にわたる飢餓と疲労の極みにあったはずの武田兵は、死を覚悟したことで鬼神の如き力を発揮し、一時は徳川軍の陣を突き崩すほどの猛攻を見せたという 27

城将・岡部元信の最期

岡部元信の行動原理は、いかなる逆境にあっても「武士としての面目」を保つことにあった。かつて桶狭間で主君を失った後も、ただでは退かずに刈谷城を攻めて手柄を立てたように 17 、この最後の突撃も、彼にとって武人としての誇りを貫き通すための「最後の戦功」であった。彼は自ら先頭に立って敵陣深くへと斬り込み、その凄まじい気迫は、敵である徳川の将兵をも驚かせたと伝えられる 19 。激戦の末、元信は大久保忠教の家臣・本多主水と組討ちとなり、壮絶な討ち死にを遂げたとされる 19

夜明け ― 落城

戦いは夜明け前には終結した。突撃した武田方の将兵は、城将・岡部元信をはじめ、駿河や信濃出身の歴戦の武将たちを含む、そのほとんどが討ち死にした 20 。討死した者の数は688名とも730余名とも記録され、その遺体は城の堀を埋め尽くすほどであったという 4 。戦いが終わった後、家康は自ら城内を検分し、その役目を終えた城郭を焼き払って浜松城へと帰還した 4 。この地獄絵図の中から、ただ一人、軍監の横田尹松のみが徳川兵になりすまして間道を抜け、脱出に成功した。彼は甲斐へと戻り、主君・勝頼に高天神城の壮絶な最期を報告したのである 9

終章:高天神落城の衝撃 ― 武田家滅亡への序曲

高天神城の落城は、単に遠江の一城が徳川の手に渡ったという以上の、遥かに大きな衝撃を戦国の世にもたらした。それは、名門・武田家の落日を決定づけ、戦国時代の価値観そのものの転換を象徴する出来事であった。

勝頼の威信失墜と武田家の崩壊

忠義を尽くして戦った岡部元信らを見殺しにしたという事実は、武田勝頼の威信を決定的に失墜させた 10 。「いざという時、勝頼様は我々を見捨てる」という不信感が、瞬く間に武田家臣団全体に蔓延した 8 。これまで武田家の強さの源泉であった、主君と家臣の固い結束は、この一件によって内側から崩壊を始めたのである。この事件が直接的な引き金となり、武田一門の重鎮であった穴山信君(梅雪)をはじめ、有力な国衆や家臣たちの離反が相次ぐことになる 8

そして翌年の天正十年(1582年)三月、織田・徳川連合軍による甲州征伐が開始されると、武田軍はもはや組織的な抵抗をほとんど見せることができなかった。家臣たちは戦う前に次々と信長に寝返り、勝頼はなすすべもなく追い詰められ、天目山で自刃。ここに、信玄の代に栄華を極めた甲斐武田氏は滅亡した 4 。高天神城の戦いは、武田家滅亡という歴史的悲劇の、紛れもない序曲であった。

家康の勝利と未来への布石

一方、徳川家康にとってこの勝利は、戦国大名として大きく飛躍するための重要な礎となった。高天神城を奪還したことで、長年の懸案であった遠江の完全平定を成し遂げ 1 、本拠地である三河と合わせて二カ国を盤石な支配下に置くことに成功した。これにより、後の駿河併合、そして本能寺の変後の混乱に乗じて甲斐・信濃を手中に収める「五カ国領有」への確固たる足がかりを築いたのである。

戦国時代の価値観の転換

高天神城の戦いは、戦争の在り方の変化をも象徴していた。武田家という、「個人の武勇」と「家臣団との情誼に基づく結束」を強みとした伝統的な戦国大名が、織田・徳川連合という、「経済力、兵站、そして冷徹な政略」を駆使する新しい形の権力に敗北したのである。勝頼が「武門の意地」や「家臣への義」といった情に縛られ、合理的な判断を下せなかったのに対し、信長と家康は、非情ともいえるほどの「合理的計算」に基づいて敵を滅ぼした。この戦いは、情や名誉よりも、国力と情報、そして戦略が勝敗を決する新しい時代の到来を告げる号砲であった。

落城後、その戦略的価値を失った高天神城は廃城とされ、二度と歴史の表舞台に立つことはなかった 10 。しかし、武田家滅亡という戦国史の大きな転換点を刻んだその名は、今なお多くの人々の記憶に残り続けている。

引用文献

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  2. 高天神城と六砦・小笠山一周歴史を辿る自転車の旅 Web版 https://www.bt-r.jp/kakegawa/map-ogasayama/
  3. 戦国時代最強の山城!? 徳川家康×武田氏攻防の地・高天神城址で戦国武将の息吹を感じよう。 https://shizuoka.hellonavi.jp/takatenjinjyo
  4. 高天神をめぐる戦い - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/8326.html
  5. 【籠城戦】高天神に散った勇将、岡部元信 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-10625174566.html
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  7. 【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦! - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2023/02/04/100000
  8. 第二次高天神城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97916/
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  27. 『高天神城の戦い』武田氏滅亡のカウントダウンとなった 武田・徳川の熾烈な攻防戦とは? https://www.youtube.com/watch?v=cB4wlL5ou5Q
  28. 岡部元信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%85%83%E4%BF%A1
  29. 「岡部元信」は家康の遠江攻略を何度も阻み続けた猛将だった! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/598
  30. 徳川家康の「高天神城攻め」|宿敵・武田氏滅亡の決定打となった戦いを解説【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1136376/2