最終更新日 2025-08-26

魚津城の戦い(1582)

魚津城の戦い(1582年):本能寺に消された死闘と、歴史を変えた八十日間

序章:天正十年、北陸の風雲

天正十年(1582年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。同年三月、織田信長は甲州征伐を完遂し、宿敵であった武田家を滅亡に追い込んだ 1 。これにより東国は完全に織田家の勢力圏となり、信長の権勢はまさに頂点に達していた。天下統一事業「天下布武」は最終段階に入り、残る大敵は西国の毛利、四国の長宗我部、そして北陸に最後の牙城を構える上杉のみとなっていた。

この巨大な軍事戦略の中で、北陸方面軍は織田家筆頭家老・柴田勝家が総大将を務め、越後の上杉家攻略という最終任務を目前にしていた 3 。その最前線こそが越中国(現在の富山県)であり、織田方の加賀・能登と上杉方の越後が直接衝突する地であった。そして、この越中における上杉方最後の、そして最重要の防衛拠点こそが魚津城であった 4

したがって、魚津城を巡る戦いは、単なる一地方の領土争奪戦ではない。それは、織田信長が描いた天下統一事業の総仕上げの一環であり、各方面軍が同時並行で敵対勢力に最終的な圧力をかけるという、壮大な戦略構想の北陸における最終局面であった。この城の陥落は、北陸の完全平定、ひいては織田政権の最終的な完成に直結する、極めて重要な意味を持っていたのである。しかし、この戦いの結末は、誰もが予期せぬ形で日本の歴史そのものを大きく揺り動かすことになる。

第一章:決戦前夜—両雄の情勢

織田方:鬼柴田の進軍—越前・加賀・能登平定の軌跡

魚津城に押し寄せた織田軍を率いるのは、「鬼柴田」「かかれ柴田」の異名で知られる猛将、柴田勝家であった 6 。織田信秀の代から仕える宿老であり、一時は信長の弟・信勝を担いで信長に敵対した過去を持つものの、その武勇と忠誠を認められ、名実ともに織田家筆頭家老の地位を確立していた 7 。その武骨なイメージとは裏腹に、越前統治においては荒廃した農村の復興に努めるなど優れた行政手腕を発揮し、宣教師ルイス・フロイスをして「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将」と評せしめた人物である 8

勝家の北陸方面軍司令官としての道のりは、天正三年(1575年)の越前平定に始まる 7 。以来、約90年間にわたり一揆衆の支配下にあった加賀国へと進攻。天正八年(1580年)には、一向一揆の司令塔であった金沢御堂を攻め滅ぼし、ついに加賀を平定した 6 。この戦いは、織田軍にとって最も困難な戦線の一つであり、その平定は勝家の武功を象徴するものであった。その勢いのまま能登、そして越中へと駒を進め、上杉家を越後国境まで追い詰めていたのである。

この北陸方面軍の中核を成していたのが、勝家の与力として配された前田利家と佐々成政であった 4 。彼らは不破光治と共に「府中三人衆」と呼ばれ、勝家の指揮下で戦功を重ねていたが、同時に信長直属の将として半ば独立した遊撃部隊としての側面も持ち合わせていた 4 。勇猛な総大将の下、歴戦の猛者たちが揃う織田軍は、まさに破竹の勢いで北陸路を席巻していた。

上杉方:龍の死、そして内乱—御館の乱が残した深い傷跡

一方、魚津城で織田の大軍を迎え撃つ上杉家は、極めて深刻な苦境に立たされていた。その全ての元凶は、天正六年(1578年)三月の「軍神」上杉謙信の急死に遡る 5 。謙信の死は、織田信長にとって北陸攻略における最大の障壁が取り除かれたことを意味した。

さらに上杉家を襲ったのが、謙信の二人の養子、上杉景勝と上杉景虎の間で勃発した家督相続を巡る内乱「御館の乱」であった 5 。この争いは越後全土を巻き込む激しい内戦となり、多くの有力武将が命を落とし、国人衆の結束は乱れ、上杉家の国力は軍事的にも経済的にも著しく消耗した 5

約二年にわたる内乱を制して家督を継いだ上杉景勝であったが、その代償はあまりにも大きかった。謙信時代のような絶対的な求心力は失われ、疲弊しきった国力で、天下統一を目前にした織田の大軍と単独で対峙しなければならないという、絶望的な状況に置かれていたのである 5

この両軍の状況は、魚津城の戦いの本質を物語っている。それは「勢いが頂点に達した勢力」と「内乱により弱体化した勢力」の衝突という、戦国時代における勢力交代の典型的な構図であった。上杉方が圧倒的な兵力差の中で籠城という戦術を選択せざるを得なかったのは、国力が万全であれば可能であったであろう野戦による迎撃を諦めざるを得なかった結果に他ならない。この戦いの防衛戦略そのものが、「御館の乱」が残した深い後遺症によって、初めから規定されていたのである。

第二章:魚津城攻防戦—八十日間の死闘(時系列詳解)

天正十年三月、越中の雪解けと共に、北陸の命運を懸けた死闘の火蓋が切られた。両軍の戦力は、その後の悲劇的な結末を予感させるほど、あまりにも懸絶していた。

魚津城の戦い 両軍勢力比較表

項目

織田軍

上杉軍

総大将

柴田勝家

(城外)上杉景勝

主要武将

佐々成政、前田利家、佐久間盛政

(城内)中条景泰、吉江宗信、山本寺景長、竹俣慶綱ほか「魚津城十二将」

推定兵力

約40,000

約3,800

この表が示す通り、上杉方は10倍以上の兵力を持つ敵に対し、平城である魚津城で籠城するという、極めて不利な戦いを強いられることとなった。

第一幕:包囲網の完成(天正10年3月11日〜4月)

天正十年三月十一日、柴田勝家率いる織田軍約四万が魚津城への攻撃を開始した 12 。織田軍は魚津城を完全に包囲するだけでなく、背後の松倉城との連絡をも遮断する鉄壁の布陣を敷き、籠城する上杉軍を孤立させた 5

城を守るのは、城将・中条景泰を筆頭とする吉江宗信、山本寺景長ら、後に「魚津城十二将」と呼ばれることになる歴戦の勇将たちと、約3800の兵であった 14

攻防は当初から熾烈を極めた。織田軍は大量の鉄砲に加え、一次資料で確認できる北陸最古の使用例とされる大砲まで投入して城壁を破壊しようと試みた 13 。この大砲は不良品でほとんど役に立たなかったという逸話も残るが 13 、城内から送られた書状には「堀際まで取り詰め、日夜鉄砲を放ち申候」と記されており、絶え間ない銃砲撃に晒される激戦であったことが窺える 5

このような状況下で、籠城衆の覚悟は早くも固まっていた。四月二十三日付で重臣・直江兼続に宛てて送られた「魚津在城衆十二名連署状」には、城将全員の花押(サイン)と共に、次のような決意が記されていた。「この上は、全員滅亡と覚悟を決めました」 14 。この書状は、彼らの戦いが生き残るためのものではなく、主家である上杉家の存続のために、己の命を賭して時間を稼ぐという「玉砕を前提とした遅滞戦術」であったことを、何よりも雄弁に物語っている。

第二幕:希望と絶望の交錯(天正10年5月)

籠城戦が二ヶ月目に突入した五月、戦況は最も劇的な展開を見せる。籠城兵たちの心は、希望と絶望の間で激しく揺れ動くことになった。

五月六日 、織田軍の連日の猛攻により、ついに魚津城の重要区画である二の丸が陥落する 5 。城の防衛能力は大きく削がれ、戦況は絶望的な局面を迎えた。追い打ちをかけるように、

五月九日 には弾薬が底をついたと伝えられている 5 。物理的な継戦能力も、もはや限界に達しようとしていた。

その矢先、誰もが予期しなかった光景が城兵たちの眼前に広がる。 五月十五日 、主君・上杉景勝が五千(一説には八千)の兵を率い、魚津城から目と鼻の先にある天神山城に布陣したのである 5 。眼前に翻る主君の旗は、死を覚悟していた籠城兵たちにとって、何物にも代えがたい希望の光であった。士気は一時的に高揚し、城内には一縷の望みが生まれた。

しかし、その希望はあまりにも儚かった。 五月二十六日 、景勝は苦渋の決断を下す。信濃の森長可、上野の滝川一益といった織田軍別動隊が、手薄になった本国・越後へ侵攻する動きを見せたため、本城である春日山城が危機に瀕したのである 5 。景勝は魚津城の救援を断念し、全軍を率いて天神山城から越後へと撤退を開始した 18

目の前で味方の軍勢が去っていく。その光景を、城壁の上から籠城兵たちはどのような思いで見つめていたのだろうか。それは、彼らに残された最後の希望が絶たれた瞬間であった。この景勝の撤退は、個人の感情や忠誠心だけでは覆すことのできない、大局的な戦略判断の非情さを浮き彫りにしている。

第三幕:落日の刻(天正10年6月1日〜3日)

全ての希望を絶たれ、完全に孤立無援となった魚津城に、柴田勝家は最後の総攻撃を命じた。

六月三日 、包囲開始から約八十日間。壮絶な抵抗を続けた魚津城は、ついに落城の時を迎えた 13

城将たちの最期は、戦国武士の誇りを体現する壮絶なものであった。彼らは敵兵による首実検で、誰の首か分からなくなることを潔しとせず、あらかじめ自らの耳に穴を開け、姓名を記した名札を通してしてから自刃したと伝わっている 14 。この逸話は、彼らが死の瞬間に至るまで、武士としての作法と矜持を失わなかったことの証左である。

総大将の中条景泰は享年二十五という若さであった 20 。彼をはじめ、吉江宗信、山本寺景長ら十二将は全員が自刃、あるいは討死を遂げ、残る城兵もまた、主君たちと運命を共にした 5 。彼らの死は、見捨てられたことへの絶望からではなく、主家の大義のために自らの命を捧げるという、極めて能動的な武士の死生観の表れであった。蓼沼泰重が息子に送った書状に「今回は死に花を咲かせるめでたい戦である」と記したように、彼らにとってこの死は、名誉ある武士の本分を全うする行為そのものであったのである 5

第四章:京の凶報、北陸を走る

魚津城が炎に包まれ、将兵たちが次々と命を散らしていた頃、遠く離れた京の都では、日本の歴史を根底から覆す大事件が起きていた。

六月二日未明 、京都・本能寺において、織田信長が家臣・明智光秀の謀反により自刃。天下統一を目前にした巨星が、突如として墜ちたのである 18 。それは、魚津城落城の、わずか一日前の出来事であった。

六月三日 、魚津城は陥落。籠城していた上杉の将兵はもちろん、城を攻め落とした柴田勝家ら織田軍の誰もが、主君の死という驚天動地の事実を知る由もなかった。

この運命を分けたのが、当時の情報伝達の遅れであった。信長横死の凶報が、京から約350km離れた越中の柴田勝家の元に届いたのは、事件発生から四日後の 六月六日 であったとされている 21 。この「情報の壁」が、魚津城の悲劇を決定づけ、そしてその後の歴史の行方を大きく左右することになる。「あと一日、知らせが届くのが早ければ、彼らは死なずに済んだかもしれない」―歴史の皮肉とは、まさにこのことであった 23

主君の死を知った勝家は、即座に軍の撤退を決断。六月六日の夜から全軍を率いて、本拠地である越前・北ノ庄城への帰還を開始した 7 。この撤退は、羽柴秀吉の「中国大返し」にも匹敵する驚異的な速度の強行軍であり、「北陸大返し」とも呼ばれる 21 。しかし、背後には依然として上杉軍が健在であり、国人衆の離反にも警戒が必要な中での撤退は、困難を極めた。

織田軍が越中から撤退すると、上杉方は無人となった魚津城を奪還 14 。結果として、魚津城の将兵たちの八十日間にわたる抵抗は、上杉家を滅亡の危機から救うという、最大の目的を達成したのである。

この一連の出来事は、本能寺の変という激動期において「情報」がいかに決定的な戦略的価値を持っていたかを示している。備中高松(京から約220km)にいた羽柴秀吉が六月三日夜には凶報を掴み、迅速な政治行動(毛利との和睦)と軍事行動に移れたのに対し 22 、最前線で物理的に最も遠い場所にいた柴田勝家は、構造的に不利な立場に置かれていた。魚津城での長期にわたる戦闘は、この地理的・時間的な不利を決定的にし、信長亡き後の主導権争いにおいて、彼が秀吉に後れを取る直接的な原因となったのである。

第五章:魚津城の戦いが変えた歴史

越中の一城を巡る局地戦であった魚津城の戦いは、しかし、その後の日本の歴史に決定的な影響を及ぼすことになった。

勝家の遅れ、秀吉の台頭

柴田勝家が上杉軍の追撃を振り切り、ようやく出陣の準備を整えた頃には、全てが決着していた。羽柴秀吉は驚異的な速度で京へ取って返し、山崎の戦いで明智光秀を討伐。主君・信長の「弔い合戦」という最大の功績を独占していた 7

これにより、信長の後継者を決める清洲会議において、秀吉は絶大な発言力を獲得する 25 。一方、弔い合戦に遅れをとった勝家は会議の主導権を握ることができず、織田家の後継者問題で秀吉に押し切られる形となった 26 。この会議における序列の逆転が、両者の対立を決定的なものとし、翌年の賤ヶ岳の戦いへと繋がっていくのである 6

滅亡を免れた上杉家のその後

魚津城の将兵たちの命を懸けた抵抗は、上杉家を滅亡の淵から救い出した 16 。本能寺の変という千載一遇の好機を得た上杉家は、その後、天下人となった豊臣秀吉に臣従することで大名として存続。近世を通じて、その家名を後世へと伝えていくことになる。

北陸の勢力図の再編

本能寺の変後、越中は佐々成政の支配下となった 14 。しかし、織田信長という絶対的な権威を失ったことで、かつて同じ方面軍で戦った同僚たちの関係は一変する。特に、成政と前田利家との間には、北陸の覇権を巡る新たな対立の火種が生まれることになった 29 。彼らが織田軍として共に戦った最後の戦いが、皮肉にもこの魚津城の戦いであった。

これらの事実を繋ぎ合わせると、一つの壮大な歴史の連鎖が見えてくる。魚津城における上杉方の八十日間の抵抗がなければ、柴田勝家はもっと早く越中を平定し、本能寺の変の報をより身軽な状態で受けていた可能性が高い。そうなれば、彼が秀吉よりも先に明智光秀を討伐し、清洲会議の主導権を握っていたかもしれない。その場合、「豊臣秀吉の天下」は生まれなかった可能性すらある。魚津城で散った将兵たちの死が、意図せずして歴史の歯車を大きく回し、次の時代の扉を開く遠因となったのである。

終章:悲劇の城、その歴史的意義

魚津城の戦いは、天正十年という激動の時代を象徴する、悲劇的でありながらも極めて重要な合戦であった。

第一に、この戦いは戦国時代における情報戦の重要性と、その伝達技術の限界がもたらす悲劇を我々に突きつける。もし凶報があと一日早く伝わっていれば、一つの城と多くの人命が救われ、その後の歴史も大きく異なっていたであろう。この「あと一日」が分けた運命は、歴史における偶然と必然の交錯を鮮やかに描き出している。

第二に、中条景泰をはじめとする籠城将たちの壮絶な最期は、個人の犠牲の上に組織の存続が図られるという乱世の非情な現実と、それでもなお「義」に殉じようとする武士の精神性を現代に伝えている。彼らの選択は、単なる敗北ではなく、主家への忠義を全うするという、誇り高き自己犠牲の物語として語り継がれるべきものである。

そして最後に、この戦いは日本史における過小評価された「転換点」の一つとして再評価されなければならない。魚津城での八十日間の攻防が柴田勝家の足を止め、その運命を決定づけたことで、豊臣秀吉の天下への道が大きく開かれた。一つの局地戦が、天下の趨勢を左右するほどの大きな影響を及ぼした稀有な事例と言えるだろう。

現在、魚津城の跡地には往時の面影はほとんどなく、石碑が静かに歴史を語るのみである 23 。しかし、かつてこの地で繰り広げられた死闘と、それに殉じた人々の覚悟は、歴史の大きなうねりの中で、決して忘れ去られてはならない記憶なのである。

引用文献

  1. (わかりやすい)本能寺の変 前編 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/honnouji.htm
  2. (上杉景勝と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/42/
  3. 織田家臣団 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_sengoku/02/
  4. 佐々成政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%88%90%E6%94%BF
  5. 弾薬も城兵も尽きた絶望の80日間。魚津城12将がみせた最期のパフォーマンス - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/85451/
  6. 【これを読めばだいたい分かる】柴田勝家の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/n743c907ca0cf
  7. 柴田勝家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6
  8. 『柴田勝家』/和田裕弘インタビュー https://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/123470.html
  9. 柴田勝家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7470/
  10. 御館の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
  11. 鮫ヶ尾城 ~御館の乱、決着の地~ | 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/samegaojou
  12. 魚津城 天地人にも登場する悲劇の戦国時代 - Found Japan(ファウンド・ジャパン) https://foundjapan.jp/1911-uozu_castle/
  13. 魚津城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  14. 「魚津城の戦い(1582年)」十二将の壮絶な最期!織田軍に包囲された魚津城将兵の散り際 https://sengoku-his.com/726
  15. 魚津城の戦い /加賀平定戦/⁠⁠能登平定戦/ 落城の前日、信長、落命す。 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=IP0attd915o
  16. 魚津城の戦い https://www.city.uozu.toyama.jp/attach/EDIT/003/003170.pdf
  17. 【合戦解説】魚津城の戦い 織田 vs 上杉 〜織田信長による武田征討戦に呼応し 織田北陸軍は上杉の本土 越後へむけ侵攻を本格化させる〜 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=QzR3zOyktdk&pp=ygUKI-mrmOWkqeelng%3D%3D
  18. 魚津城と松倉城|魚津市 https://www.city.uozu.toyama.jp/guide/svGuideDtl.aspx?servno=25191
  19. 上杉景勝と直江兼続は蜃気楼を見たか - 魚津市 https://www.city.uozu.toyama.jp/nekkolnd/news/umoregi-pdf/031.pdf
  20. 中条景泰 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%A1%E6%99%AF%E6%B3%B0
  21. 秀吉が「身分不相応ながら」の言い訳とともに強行!柴田勝家の敗北を決めた出来事とは https://diamond.jp/articles/-/327277
  22. 1582年(前半) 本能寺の変と伊賀越え | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-2/
  23. 【公式】魚津市観光案内公式サイト | うおっ!な魚津旅情報@北陸・魚津 魚津ライブラリ/魚津城跡 https://uozu-kanko.jp/library/uozujyouseki/
  24. 【コラム7】柴田勝家 その2:秀吉より速い「北陸大返し」 | 歴史の王国ブログ https://lordkingdom.net/column0007/
  25. 賤ヶ岳の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7258/
  26. 清洲会議と羽柴秀吉~天下をつかんだ根回し術 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4051
  27. 清洲会議ってなに?わかりやすく相関図で見る立ち位置と思惑 https://busho.fun/column/kiyosu-kaigi
  28. 戦国 の 歴史 を 秘 め た 山紫水明 の 地 、魚津 https://www.kepco.co.jp/corporate/report/yaku/8/pdf/yaku8_P19_20.pdf
  29. 16 「前田利家 VS 佐々成政」 - 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/16.html