鮫ヶ尾城の戦い(1579)
鮫ヶ尾城の戦い(1579)― 御館の乱、終焉の刻 ―
序章:龍の死、越後に走る亀裂
天正6年(1578年)3月、越後の龍、上杉謙信は次なる関東遠征の準備に追われる中、本拠である春日山城内で突如として倒れ、意識が戻ることなく急逝した 1 。享年49 2 。生涯不犯を貫いたとされる謙信に実子はおらず、また後継者を明確に指名しないままの死であったため、彼が一代で築き上げた強大な上杉家は、深刻な権力の真空状態に陥った 1 。主君の突然の死が即座に国家の存亡に繋がる戦国乱世において、これは致命的な事態であった 3 。
越後の国主の座を継ぐ可能性があったのは、二人の養子であった。一人は、謙信の実姉である仙桃院(綾御前)を母に持ち、坂戸城主・長尾政景を父に持つ上杉景勝である 2 。謙信にとって最も血縁の近い甥であり、謙信の出身母体でもある上田長尾家の強力な支持を背景に持っていた 4 。もう一人は、関東の雄・北条氏康の七男として生まれ、越相同盟の証として越後へ送られてきた上杉景虎であった 1 。謙信はこの異邦からの養子を厚遇し、自らの初名である「景虎」の名を与え、さらに景勝の実姉・清円院を娶らせるなど、上杉一門として正式に迎え入れていた 4 。
この後継者問題の根源は、単なる謙信の「指名漏れ」という偶発的な失策にあるのではない。むしろ、謙信晩年の統治構造そのものに内包された、必然的な時限爆弾であったと見るべきである。謙信は、越後国内の諸勢力(上田長尾氏や古志長尾氏など)を統合するという内政的課題と 4 、長年の宿願であった関東経営という対外的戦略を同時に推進する必要があった。国内の地盤を固めるためには血縁の近い景勝が、そして関東の宿敵・北条氏と連携するためには景虎の存在が、それぞれ不可欠だったのである 7 。結果として謙信は、両者に優劣をつけず、いわば天秤にかける形で遇することで、自身の求心力を最大化させていた。しかし、その絶妙な均衡は、彼の死と共に崩壊する運命にあった。したがって、後に「御館の乱」と呼ばれる内乱は、謙信の死によって「引き起こされた」のではなく、彼が築いた複雑な権力構造が「必然的に崩壊した」結果だったのである。
第一部:御館の乱 ― 越後を二分する内乱の勃発
先手必勝:春日山城の掌握
謙信の死の直後、天正6年(1578年)3月24日、沈黙を破ったのは上杉景勝であった。彼は誰よりも早く行動を起こし、春日山城の中枢である「実城(じつじょう)」を電光石火の速さで占拠した 10 。同時に、上杉家の財政基盤であり、軍事力の源泉でもある金蔵(土蔵の黄金)を完全に掌握下に置いた 10 。この行動は、単に物理的な拠点を確保したに留まらず、自らが謙信の正統な後継者であると内外に宣言する、クーデター的な意味合いを持つものであった 8 。
この景勝の迅速な初動は、単なる抜け駆けではない。彼の周囲に、後の直江兼続を含む与板衆など、有能な政治的ブレーンが存在し、上田長尾家という確固たる支持基盤が危機に際して即座に機能したことを示している。権力の正当性が曖昧な状況下で、景虎派が「誰が後継者か」という名分を論じている間に、景勝派は「権力の実体を掌握する」という戦国時代の鉄則を忠実に実行したのである。
景虎派の結集と「御館」籠城
春日山城の三の丸に居を構えていた景虎は、景勝に本丸と金蔵を抑えられたことで、城内での抗戦を断念せざるを得なかった 4 。同年5月13日、景虎は前関東管領・上杉憲政の屋敷であった「御館(おたて)」へと移り、ここを拠点として景勝に対抗する姿勢を鮮明にした 10 。
景虎の元には、景勝の高圧的ともいえる行動に不満を抱く者たちが続々と集結した。謙信の重臣であった北条景広、そして上杉家内部で上田長尾家と長年対立してきた古志長尾家系の国人衆などがその中心であった 4 。これにより、上杉家臣団は景勝派と景虎派に完全に二分され、親子兄弟が敵味方に分かれる家も少なくなく 4 、越後全土は凄惨な内戦状態へと突入した。当初、広範な支持を得た景虎派の勢いは凄まじく、春日山城周辺の支城を次々と攻略し、一時は景勝の居城を包囲、孤立させるまでに至った 13 。
景虎は、関東の北条家という強大な後ろ盾を持つ一方で、越後国内における地盤は相対的に脆弱であった。彼の権力基盤は外部勢力との連携に大きく依存しており、国内での迅速な権力掌握という点では、構造的な弱点を抱えていた。この初動の遅れが、彼の悲劇的な運命の序章となったのである。
第二部:列強の介入 ― 武田と北条の思惑が戦局を覆す
越後の内乱は、やがて一国の家督争いの範疇を超え、周辺の戦国大名たちの思惑が渦巻く代理戦争の様相を呈していく。特に、甲斐の武田勝頼の動向は、この乱の趨勢を決定づける最大の要因となった。
甲斐の武田勝頼:最大のゲームチェンジャー
弟・景虎の優勢を知った相模の北条氏政であったが、当時は常陸の佐竹氏との戦いの最中にあり、越後へ大規模な援軍を送ることは困難な状況にあった 12 。そこで氏政は、同盟者である武田勝頼に対し、景虎支援のための出兵を要請した。
この要請を受け、勝頼は2万ともいわれる大軍を率いて信越国境へ進軍 13 。武田軍の介入により、景虎方の勝利はもはや時間の問題かと思われた。しかし、まさにこの時、窮地に立たされた景勝方が起死回生の一手を打つ。景勝は勝頼に使者を送り、莫大な黄金と、上野国の一部および信濃国境の領土割譲を条件とする密約を持ちかけたのである 3 。
天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗して以降、武田家は常に両勢力からの圧迫に苦しんでいた。勝頼は、目先の莫大な利益と領土拡大という魅力的な提案を前に、北条家との長年の同盟関係を天秤にかける。そして彼は、景勝の提案を受け入れ、甲越同盟を成立させるという決断を下した 3 。これにより勝頼の立場は、景虎の「支援軍」から、景勝と景虎の「和睦調停役」へと変化し、事実上、景勝方に寝返った。この武田の裏切りこそが、御館の乱における最大の転換点となった 11 。
相模の北条氏政:届かぬ援軍
北条氏にとって、景虎の勝利は越後を勢力圏に組み込む絶好の機会であった。しかし、その意志とは裏腹に、有効な軍事支援を行うことは最後まで叶わなかった 16 。その要因は複合的であった。第一に、本拠地・小田原から越後までは遠く、冬になれば三国峠が深い雪で閉ざされるため、大規模な兵站線を維持することが極めて困難であった 4 。第二に、佐竹氏をはじめとする関東の敵対勢力への備えを疎かにできず、越後に大軍を長期間派遣する軍事的な余裕がなかった 12 。
そして決定的だったのが、頼みの綱であった武田勝頼の裏切りである。これにより、北条氏は景虎支援どころか、武田領との国境防衛に兵力を割かざるを得なくなり、越後への介入は事実上不可能となった 12 。
時期 |
上杉景勝 |
上杉景虎 |
武田勝頼 |
北条氏政 |
備考 |
乱勃発直後 |
敵対 |
敵対 |
中立 |
景虎を支援 |
氏政は佐竹氏と交戦中のため、勝頼に援軍を要請。 |
武田介入時 |
敵対 |
支援を受ける |
景虎支援を表明 |
景虎を支援 |
勝頼、2万の兵を率いて越後へ進軍。景虎方優勢。 |
甲越同盟後 |
同盟成立 |
支援を失う |
景勝方へ転向 |
敵対関係へ |
景勝からの黄金・領土割譲の密約により、勝頼が寝返る。 |
この勝頼の決断は、単なる戦術的な判断ミスに留まらない。それは、武田家そのものの滅亡を早める、致命的な戦略的破局であった。この介入により、勝頼は最も信頼できる同盟者であった北条家を失い、敵に回してしまった。一方で、彼が助けた景勝は、乱後の国内平定に追われ、後に武田家が織田・徳川連合軍に攻め滅ぼされる際(甲州征伐)、援軍を送る余力は全くなかった 11 。結果として勝頼は、外交的に完全に孤立し、東の北条、西の織田・徳川という強大な敵に挟撃される形となり、天正10年(1582年)の滅亡へと突き進むことになる 18 。御館の乱は、上杉家の内乱であると同時に、「武田家滅亡への序曲」でもあったのである。
第三部:鮫ヶ尾城の攻防 ― 景虎、最後の戦い
武田という最大の援軍を失った景虎の敗北は、もはや避けられないものとなった。天正7年(1579年)の雪解けと共に、景勝方は総攻撃を開始。景虎が最後の望みを託した鮫ヶ尾城で、彼の短い生涯は悲劇的な終焉を迎える。
戦略拠点としての鮫ヶ尾城
鮫ヶ尾城は、春日山城の南西約10km、信越国境から越後府内へ至る北国街道沿いの要衝に位置する山城である 19 。標高約180mの丘陵に築かれ、尾根筋を多数の堀切や竪堀で分断し、複数の曲輪を配置した「全山要塞」とも評される堅城であった 20 。信濃方面からの侵攻に備える、春日山城防衛網の重要な支城の一つであり、当時の城主は堀江宗親。彼は当初、景虎方に与していた 21 。
御館の陥落と景虎の脱出
天正7年(1579年)に入ると、景勝方の攻勢は激しさを増した。北条の援軍が雪深い三国峠を越えてくる前に、決着をつけようという意図は明らかであった 10 。2月には景虎方の勇将・北条景広が討ち死にし、拠点であった御館は完全に孤立 10 。兵糧も尽きかけていた 9 。そして3月、景勝軍の総攻撃の前に御館はついに陥落した 4 。景虎は、正室である清円院(景勝の姉)、そして僅かな家臣と共に燃え盛る館を脱出。実家である小田原城を目指して、決死の逃避行を開始した 4 。
【時系列詳述】天正七年三月、終焉の刻
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【3月17日頃】 御館陥落・脱出
景虎一行は九死に一生を得て御館を脱出するが、その道中でさらなる悲劇に見舞われる。嫡男の道満丸は、和平交渉の人質として前関東管領・上杉憲政と共に景勝の陣へ向かう途中、何者かによって憲政ともども殺害されてしまう 4。血縁上の後継者をも失い、景虎は心身ともに極限状態に追い詰められていたと推測される。 -
【3月20日頃】 鮫ヶ尾城への入城
小田原への道中、景虎はひとまずの安息と再起の機会を求め、味方である堀江宗親が守る鮫ヶ尾城に立ち寄った 23。宗親は景虎一行を城内に迎え入れ、この時点では忠実な家臣として振る舞っていた。 -
【3月21日~23日】 包囲と調略
景虎の鮫ヶ尾城入城を察知した景勝軍の追撃隊が、間髪入れずに城へと殺到し、堅固な山城を幾重にも包囲した。景虎は完全に籠の鳥となった。景勝方は力攻めと並行して、城主・堀江宗親への調略を開始する。景勝方の武将・安田顕元が密かに宗親と接触し、寝返りを促したのである 19。 -
【3月24日 未明~早朝】 裏切りの狼煙
宗親は、もはや景虎に勝ち目はないと判断した。滅びゆく将に殉じるよりも、勝者である景勝に降ることで自らの家名を保つ道を選んだ 25。そして天正7年3月24日の未明、宗親は景勝方への忠誠の証として、城内の二の丸に火を放った 19。闇夜を焦がす炎は、城内の景虎一行にとっては絶望の合図であり、城外の景勝軍にとっては総攻撃開始の狼煙であった。火を放った後、宗親は手勢を率いて城から退去したと伝えられる 19。鮫ヶ尾城の守りは、内部から崩壊した。 -
【3月24日 午前~昼頃】 景虎の最期
城主の裏切りを知り、景虎は全ての望みが絶たれたことを悟った。狼煙を合図に、景勝軍は四方から総攻撃を開始する。内部から守備が崩壊した城は、もはや堅城としての役割を果たせなかった。追っ手が本丸に迫る中、上杉景虎は正室・清円院ら妻子と共に自刃して果てた 2。享年26 4。彼の自刃をもって、約1年間にわたり越後を二分した大乱「御館の乱」は、事実上の終結を迎えたのである。
堀江宗親の裏切りは、単なる一個人の変節ではない。それは、戦国武将の極めて現実的な生存戦略の現れであった。宗親にとって、景虎に味方し続けるリスクは一族の滅亡であり、景虎を裏切るリターンは新政権下での生き残りの可能性であった。この冷徹な損得勘定は、景虎が越後における政治的・軍事的な「価値」を完全に失ったことを示す象徴的な出来事でもあった。彼は最後まで「北条から来た客人」であり、越後の国人領主たちが命を賭してまで守るべき真の主君には、ついになり得なかったのである。
第四部:戦後の影響と歴史的意義
鮫ヶ尾城での悲劇は、単に一人の武将の死に終わらず、その後の上杉家、ひいては戦国後期の勢力図にまで大きな影響を及ぼした。
景勝の越後統一とその代償
景勝は最大のライバルを排除し、名実ともに上杉家の当主となった 29 。しかし、その勝利の代償はあまりにも大きかった。約1年にわたる内乱は越後の国力を著しく疲弊させ、多くの有能な人材が失われた 9 。さらに、乱後の論功行賞を巡っては、景勝の出身基盤である上田衆が優遇されたことへの不満が噴出し、新たな家中の対立を生んだ。これにより、かつて景虎を支持した国人衆のみならず、恩賞に不満を持つ有力武将の離反が相次いだ 9 。
この内乱による弱体化は、当時急速に勢力を拡大していた織田信長の北陸侵攻を容易にする結果を招いた 3 。景勝の勝利は、皮肉にも上杉家が守勢に立たされる時代の始まりを意味していたのである。
裏切者・堀江宗親の末路
景虎を裏切り、景勝の勝利に貢献した堀江宗親であったが、その未来は決して明るいものではなかった。乱の終結後、彼は景勝によって領地を没収されている 22 。その後の彼の処遇や行方については記録が一切残っておらず、歴史の闇に消えている 22 。主君を裏切るような人物は、たとえ味方であっても信用に値しないという、景勝の厳しい判断が下された可能性が高い。
史跡としての鮫ヶ尾城:焼き米が語るもの
景虎終焉の地となった鮫ヶ尾城跡は、現在、国の史跡に指定され、その歴史を今に伝えている 19 。近年の発掘調査では、乱の際に炎上したとされる米蔵の跡から、大量の「焼き米(炭化米)」が出土している 19 。これは、景虎の最期と共に城が焼き払われたという歴史書の記述を裏付ける、生々しい物証である 21 。さらに、雑穀が混じっていない白米の「おにぎり」が炭化した状態で発見されており 19 、籠城戦の緊迫した状況や、当時の食文化を知る上でも貴重な資料となっている。
御館の乱は、上杉家を謙信時代のような「全国区の大名」から、「一地方勢力」へと転落させる分水嶺であった。謙信が一代で築き上げた覇権は、皮肉にもその後継者たちが自らの手でそれを破壊する形で失われたのである。景勝は越後を統一したが、彼が手にしたのは「全盛期の上杉家」ではなく、「内乱で疲弊しきった上杉家」であった。この国力の低下がなければ、後の織田軍の北陸侵攻はより困難なものとなり、本能寺の変後の政治情勢も大きく変わっていた可能性がある。鮫ヶ尾城の戦いは、まさしく上杉家の栄光の時代の終わりを告げる、象徴的な戦いであった。
結論:鮫ヶ尾城に消えた一つの可能性
鮫ヶ尾城の戦いは、戦国時代の数多ある合戦の中で、決して大規模なものではない。しかし、その歴史的意義は極めて大きい。この戦いは、単に上杉景虎という一人の貴公子の悲劇に留まらず、上杉家の、そして東国全体の運命を決定づけた、小さくも重要な転換点であった。
もし、上杉景虎が勝利していれば、歴史は大きく異なる様相を呈していたかもしれない。北条・上杉、そして状況次第では武田をも巻き込んだ強力な反織田連合が東国に形成され、戦国時代の終焉は全く異なる形で訪れていた可能性すらある 14 。鮫ヶ尾城の炎と共に消えたのは、景虎個人の命だけでなく、そうした「もう一つの歴史」への扉であった。
一方、勝利した上杉景勝は、巧みな政治手腕で豊臣政権下では五大老の一角を占め、上杉家の家名を江戸時代まで見事に繋いだ。しかし、その治世は常に、偉大すぎた先代・謙信の栄光と比較され、内乱で失われたものを取り戻すための苦闘の連続であった 29 。
鮫ヶ尾城の戦いは、上杉家の後継者争いに終止符を打った。しかしそれは、謙信が目指した天下への道を閉ざし、上杉家が越後という一国を維持するために戦い続ける、新たな時代の幕開けでもあったのである。
引用文献
- 上杉景勝の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38295/
- 戦国ドロドロバトル! 兄弟同士で戦にまで発展した後継争い‼ 名将・上杉謙信の跡をめぐる【御館の乱】 上杉景勝vs上杉景虎 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/44055
- file-16 直江兼続の謎 その1~御館の乱の分岐点~ - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/16/
- 上杉景虎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E8%99%8E
- 綾御前(仙桃[洞]院) /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46503/
- 軍神「上杉謙信」の後継を巡って争った2人の養子「景勝」と「景虎」の雌雄【前編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/125550/2
- 上杉謙信はなぜ景勝と景虎どちらも家督相続者に選ばなかったのか - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/79356
- 御館の乱の発生について http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=5510
- 「御館の乱(1578~79年)」謙信の後継者争いにして、越後を二分した大規模内乱! https://sengoku-his.com/312
- 御館の乱年表 - 城址巡り - ドーン太とおでかけLOG - FC2 https://orion121sophia115.blog.fc2.com/blog-entry-4812.html
- 御館の乱〜上杉景勝と景虎の謙信後継をめぐる跡目争い - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2016/09/27/091750
- 「御館の乱」で勝頼が犯した戦略ミスと領土再拡大 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20328
- 御館の乱とは - 日本の城研究記 https://takato.stars.ne.jp/otatenoranja.html
- 【歴史のif戦国史】もしも御館の乱で上杉景虎が勝っていたら - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=KqTf7glVWSk
- 133.鮫ヶ尾城 その1 - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/2023/03/19/133samegao01/
- 北条氏が積極的に景虎を支援できなかった原因は? - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/155
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- 戦国の血が染みた城址「鮫ヶ尾城」~御館の乱から450年、今も残る9つの遺構|たなぶん - note https://note.com/dear_pika1610/n/n20f7628f7c74
- 鮫ヶ尾城 妙高市 http://ww36.tiki.ne.jp/~taketyan-512/siro3/niigata.html
- 堀江宗親(ホリエムネチカ) - 戦国のすべて https://sgns.jp/addon/dictionary.php?action_detail=view&type=1&dictionary_no=2493&bflag=1
- 鮫ヶ尾城 ~御館の乱、決着の地~ | 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/samegaojou
- 上杉景虎の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97918/
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- 御館の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 鮫ヶ尾城の見所と写真・1000人城主の評価(新潟県妙高市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/538/
- 御館の乱で勝頼が景虎を支援していたら… - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/243