鳥取城の戦い(1581)
鳥取城の戦い(1581年):渇え殺しの全貌と武士の義
序章:天下布武の奔流、因幡へ
天正9年(1581年)、因幡国(現在の鳥取県東部)に聳える鳥取城を舞台に、戦国史上類を見ない凄惨な攻城戦が繰り広げられた。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が指揮するこの戦いは、単に「鳥取の渇え殺し」として知られる兵糧攻めの苛烈さだけでなく、その背景にある織田信長の壮大な天下統一事業、周到に張り巡らされた経済・心理戦、そして極限状況下における人間の尊厳を巡る物語として、今なお多くの研究者や歴史愛好家の関心を引きつけている。本報告書は、この鳥取城の戦いを多角的な視点から分析し、その全貌を時系列に沿って克明に描き出すものである。
織田信長の中国方面戦略
天正5年(1577年)、織田信長は宿敵であった石山本願寺との戦いに加え、西国に強大な勢力を誇る毛利氏との対決を本格化させる 1 。毛利輝元が、信長によって京を追われた前将軍・足利義昭を庇護し、反信長勢力の旗頭となったことで、両者の衝突は不可避となった 2 。信長は腹心の将である羽柴秀吉を中国方面軍の総大将に任命し、毛利領への侵攻を命じた 3 。
秀吉はまず播磨国(兵庫県南西部)を平定し、次いで但馬国(兵庫県北部)を制圧。黒田官兵衛から譲り受けた姫路城を前線基地として、中国攻めを着実に進めていった 4 。この織田軍の東進に対し、毛利氏は山陽道の備中高松城、そして山陰道の因幡鳥取城を最前線の防衛拠点と位置づけた。特に鳥取城は因幡国の政治・軍事の中心であり、この城の帰趨は山陰地方全体の支配権、ひいては織田・毛利両勢力のパワーバランスを左右する極めて重要な戦略拠点であった 5 。
この戦いの重要性は、信長自身の関与の度合いからも窺い知ることができる。近年の研究では、秀吉が鳥取城の東方に築いた壮大な本陣「太閤ヶ平」が、単に秀吉個人のためのものではなく、信長自身が本隊を率いて着陣することを想定して設計された、規格外の陣城であった可能性が強く指摘されている 5 。この事実は、信長と秀吉がこの鳥取城攻めを、単なる一城の攻略に留めず、毛利の主力部隊を誘き出して雌雄を決する一大決戦の場と捉えていたことを示唆している 2 。天下統一事業の奔流は、因幡の一城を、天下の趨勢を決する決戦場へと変貌させようとしていたのである。
表1:鳥取城の戦い 主要関連人物一覧
勢力 |
人物名 |
役職・立場 |
備考 |
織田方 |
織田信長 |
天下人 |
中国攻めの最高司令官 |
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羽柴秀吉 |
中国方面軍総大将 |
鳥取城攻めの実行指揮官 |
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黒田官兵衛 |
秀吉の軍師 |
兵糧攻めを献策したとされる |
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亀井茲矩 |
鹿野城主 |
尼子遺臣。秀吉方の因幡における拠点主 |
毛利方 |
毛利輝元 |
毛利家当主 |
中国地方の覇者 |
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吉川元春 |
毛利家重臣 |
毛利元就の次男。山陰方面の軍事担当 |
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小早川隆景 |
毛利家重臣 |
毛利元就の三男。山陽方面の軍事担当 |
鳥取城方 |
山名豊国 |
前鳥取城主 |
第一次攻城戦で秀吉に降伏 |
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吉川経家 |
鳥取城将 |
毛利方から派遣された新城主 |
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森下道誉 |
城内重臣 |
反織田派。豊国を追放 |
|
中村春続 |
城内重臣 |
反織田派。豊国を追放 |
第一章:悲劇の序章 ― 天正八年の攻防
天正9年(1581年)の未曾有の悲劇は、その前年に起こった第一次鳥取城攻めにその直接的な起源を持つ。この戦いにおける城主・山名豊国の決断と、それに反発した家臣団の行動が城内に深刻な亀裂を生み、結果として鳥取城をより困難な状況へと追い込んでいった。
第一次鳥取城攻めと山名豊国の降伏
天正8年(1580年)5月、秀吉は播磨の三木城を約1年10ヶ月にわたる兵糧攻めの末に陥落させると(三木の干殺し)、その勢いを駆って因幡国へ侵攻した 5 。2万ともいわれる大軍で鳥取城を包囲された城主・山名豊国は、3ヶ月に及ぶ籠城戦を戦った 3 。しかし、秀吉の圧倒的な軍事力を前に、徹底抗戦を主張する重臣の中村春続や森下道誉らの意見を退け、豊国は単身で秀吉の陣営に赴き降伏。織田家への臣従を誓ったのである 3 。
城内の亀裂とクーデター
秀吉が主力を率いて播磨へ帰陣すると、因幡・伯耆国境の情勢は再び流動化する。毛利方の驍将・吉川元春が反撃に転じ、東伯耆へ侵攻するなど、山陰における毛利勢力が急速に息を吹き返した 5 。この外部情勢の変化は、鳥取城内に燻っていた不満に火をつけた。
山名豊国の降伏に納得していなかった森下、中村ら毛利派の重臣たちは、この機を捉え、主君である豊国を城から追放するという前代未聞のクーデターを断行した 2 。これにより鳥取城は、名目上は織田方に属しながら、実質的には毛利方の家臣が支配するという、極めて不安定で矛盾した状態に陥った。この「主君は織田方、家臣は毛利方」というねじれ現象こそが、城の統治機能を麻痺させ、来るべき籠城戦への備えを著しく疎かにさせる原因となった。豊国の降伏は、結果的に秀吉に翌年の再侵攻の完璧な口実と、城の内部弱点を露呈させることになったのである。
吉川経家の派遣と覚悟
城主不在となった鳥取城の重臣たちは、毛利家の重鎮である吉川元春に、秀吉に対抗しうる新たな城主の派遣を強く要請した 2 。この困難な役目に白羽の矢が立ったのが、吉川一門の中でも文武に優れ、人望も厚いと評された石見国福光城主・吉川経家であった 2 。
経家はこの絶望的な任務を引き受けるにあたり、並々ならぬ覚悟を示したと伝えられている。一説によれば、彼は自らの首を納めるための「首桶」を持参して鳥取城に入城したという 10 。これは、生きて城を出るつもりはないという悲壮な決意の表明であり、この戦いが当初から死を前提としたものであったことを象徴している。経家は、軍事的にだけでなく、政治的にも極めて不利な状況に陥った城の命運を、その一身に背負うこととなったのである。
第二章:見えざる刃 ― 秀吉の事前調略
羽柴秀吉は、鳥取城攻めにおいて、単なる武力による包囲殲滅を目指さなかった。彼は、約2年もの歳月を要した三木城攻めの教訓を深く胸に刻み、経済、心理、諜報といった「見えざる刃」を駆使して、戦いが始まる前に勝敗を決するという、革新的な戦術思想を実践した。
三木城「干殺し」の教訓
播磨・三木城攻めにおいて、秀吉は兵糧攻めを主戦術としたが、城主・別所長治の頑強な抵抗と毛利方の支援により、攻略には1年10ヶ月という長期間を要した 8 。この苦い経験から、秀吉と彼の稀代の軍師・黒田官兵衛は、籠城戦をより短期間で、かつ確実に終わらせるためには、軍事行動を開始する「前」の周到な調略こそが決定的に重要であると学んだ 9 。鳥取城攻めは、その教訓が遺憾なく発揮された戦いであった。
経済戦争:米の買い占め
秀吉が放った最初の「見えざる刃」は、経済戦であった。彼は本格的な軍事侵攻に先立ち、若狭国(福井県南部)などの商人たちを密かに因幡国へ送り込み、通常の数倍という破格の高値で米を買い占めさせたのである 4 。
この巧みな市場操作は、恐るべき効果を発揮した。因幡国内の米は瞬く間に市場から姿を消し、兵糧の確保は困難を極めた。さらに悲劇的だったのは、この異常な高値に目がくらみ、あろうことか鳥取城内に備蓄されていた兵糧米までも、城兵が商人に売り払ってしまうという事態が発生したことである 4 。その結果、吉川経家が城主として入城した時点で、鳥取城の兵糧は平時の3ヶ月分程度しかなく、籠城する全住民の数を考慮すれば、実質的に1ヶ月ももたないという絶望的な状況に陥っていた 10 。秀吉は、刀や槍を交える前に、敵の生命線である兵站を経済の力で内部から破壊したのである。
心理戦争:城内人口の意図的増加
第二の刃は、心理戦であった。秀吉軍は因幡への侵攻を開始すると、城下の村々を焼き払い、田畑を荒らして略奪を行った 17 。これは単なる示威行為ではない。安全な場所を求めて逃げ惑う周辺地域の農民や非戦闘員を、意図的に鳥取城内へと追い込むための冷徹な計算に基づいた戦術であった 4 。
この策略により、鳥取城には正規の兵士約1,800人(山名氏配下1,000人、経家が率いる毛利勢800人)に加え、2,000人以上もの非戦闘員がなだれ込み、総勢約4,000人が籠城することになった 2 。これは、限りある兵糧を消費する口を人為的に増やし、食糧が枯渇するまでの時間を劇的に短縮させるための非情な一手であった。秀吉は、敵の城を物理的な城壁ではなく、籠城を支える「食」という生命線を直接の攻撃目標と定めていた。吉川経家は、物理的な城壁に守られながらも、経済的には既に破綻し、人口過密という時限爆弾を抱えた城の責任者として、避けられない破滅に立ち向かわなければならなかったのである。
第三章:絶望の包囲網 ― 天正九年 夏
秀吉による周到な事前調略が完了し、いよいよ本格的な軍事行動の幕が切って落とされた。天正9年(1581年)の夏、秀吉軍は鳥取城を物理的に、そして心理的に完全な孤立状態へと追い込んでいく。その包囲網は、敵の自滅を待つための巨大な実験装置の様相を呈していた。
秀吉軍の出陣と着陣
天正9年6月25日、羽柴秀吉は2万(一説には3万)と号する大軍を率いて、中国攻めの拠点である姫路城を出立した 4 。軍団は但馬国を経由して因幡国へと進軍し、同年7月12日には鳥取城下に到達した 4 。秀吉は、鳥取城の東、久松山と相対する帝釈山に本陣を構えた。これが、最大で高さ5メートルにも及ぶ土塁と空堀で囲まれた、堅固な陣城として知られる「太閤ヶ平」である 3 。この迅速な進軍と拠点構築は、秀吉軍の卓越した機動力と動員力を示している。
鉄壁の包囲網構築
太閤ヶ平を中心に、秀吉は鳥取城を幾重にも取り囲む一大包囲網の構築に着手した。その規模は、文献によって約70箇所ともいわれる付城(攻撃・監視用の砦)が築かれ、それらを結ぶ土塁や柵の総延長は12キロメートルにも及んだと記録されている 9 。この包囲網は、鹿や兎一匹通さぬ厳重さであったと伝えられ、鳥取城を外界から完全に切り離すことを目的としていた。
この包囲網は、単に兵糧の搬入や城兵の脱出を防ぐという軍事的な機能だけでなく、籠城する人々に「絶対に逃げられない」「誰も助けに来ない」という絶望感を日々視覚的に与え続ける、強力な心理的兵器でもあった。城から見渡す限り、敵である秀吉軍の無数の旗指物と、夜には煌々と燃える篝火が連なっている。この光景は、籠城者の士気を根底から打ち砕くのに十分すぎるほどの威圧感を持っていた。
補給路の完全遮断
秀吉は、鳥取城を孤立させるために、陸路と海路、双方の補給路を徹底的に遮断した。
- 陸路の遮断: 西方からの毛利方の支援ルートに対しては、かねてより秀吉方に与していた亀井茲矩が守る鹿野城が、強力な楔として機能した 2 。また、鳥取城の背後を脅かす可能性のあった毛利方の国人・吉岡将監が守る防己尾城など、周辺の敵対拠点に対しては個別撃破を行い、脅威を排除した 2 。
- 海路の遮断: 吉川経家は、日本海からの補給に最後の望みを託し、千代川河口に近い丸山城や、そこから尾根伝いに続く雁金山城を築いて海からの連絡路を確保しようと試みた 2 。しかし、秀吉配下の宮部継潤らの猛攻によってこのルートは早々に寸断される 2 。さらに、吉川元春が海路で送ろうとした兵糧輸送船団も、秀吉が配備していた織田方の水軍によってことごとく撃沈され、海からの補給という望みも完全に絶たれた 2 。
この時点で、吉川経家が唯一の勝機と見ていた「冬の積雪期まで持ちこたえ、秀吉軍の兵糧が尽きるのを待つ」という籠城戦略は、完全に破綻した 10 。鳥取城は、秀吉が作り上げた巨大な檻の中で、食糧という名の砂時計の砂が尽きるのを、ただ待つだけの存在となったのである。
第四章:城内の地獄 ― 籠城四ヶ月の克明な記録
天正9年(1581年)7月下旬、鳥取城は秀吉軍によって完全に包囲され、外部との連絡を一切断たれた。ここから約四ヶ月にわたる籠城戦は、飢餓が人間社会を内側から崩壊させていく、まさに地獄絵図そのものであった。
表2:鳥取城籠城戦 詳細年表(1581年6月~10月)
年月日 |
秀吉軍の動向 |
鳥取城内の状況 |
毛利後詰軍の動向 |
天正9年6月25日 |
秀吉、2万の軍勢を率い姫路城を出陣。 |
籠城準備を進めるも、兵糧不足が深刻化。 |
経家の要請を受け、兵糧輸送と後詰の準備を開始。 |
7月12日 |
鳥取に着陣。太閤ヶ平に本陣を構築開始。 |
秀吉軍の着陣に城内は緊張に包まれる。 |
|
7月下旬 |
総延長12kmの包囲網が完成。完全封鎖。 |
籠城戦が本格的に開始される。 |
海路からの兵糧輸送を試みるも、織田水軍に阻まれる 2 。 |
8月中旬 |
包囲を維持。積極的な攻撃は行わない。 |
備蓄兵糧が尽き始める。牛馬や草木の根を食す段階へ 18 。 |
|
8月下旬 |
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城内で餓死者が出始める 11 。 |
吉川元春、主力を率いて伯耆国へ進軍を開始。 |
9月 |
|
飢餓が極限に達し、人肉食が始まるという地獄絵図と化す 18 。 |
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10月上旬 |
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城内の統制は崩壊。餓鬼のごとき人々が食を求め彷徨う 19 。 |
吉川元春、鳥取城西約40kmの地点まで進軍するも、秀吉の堅固な布陣を前に進軍停止 2 。 |
10月中旬 |
経家の降伏申し入れに対し、交渉を開始。 |
経家、城兵の助命を条件に降伏を決意 20 。 |
鳥取城への到達を断念。救援は絶望的となる。 |
10月25日 |
開城。経家の自刃を見届ける。 |
吉川経家が自刃。鳥取城が開城される 2 。 |
|
籠城戦の経過
-
8月:飢餓の始まり
包囲開始からわずか一ヶ月ほどで、城内の備蓄兵糧は完全に底をついた 18。人々はまず、城内にいた軍馬や牛などの家畜を殺して食べた。それが尽きると、城壁や屋根に生えた苔、食べられる草木の葉や根を求めて城内を彷徨った 18。しかし、4,000人もの人々が生き延びるには、あまりにも乏しい食料であった。8月の下旬には、城内で最初の餓死者が出始めたと記録されている 11。 -
9月:人肉食の記録
9月に入ると、城内の状況はさらに悪化の一途をたどる。食べるものが全てなくなり、人々は飢えと絶望の淵に立たされた。そしてついに、生きるために死者の肉を食らうという、人間社会の最後の禁忌が破られる。この凄惨な状況は、太田牛一が記した『信長公記』に「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記録されている 19。
さらに『豊鑑』には「糧尽きて馬牛などを殺し食いしかども、それも程なく尽きぬれば餓死し、人の宍を食合へり。子は親を食し、弟は兄を食し杯しける」とその地獄絵図が記されている 19 。親が子を、弟が兄を食べるという記述は、家族という社会の最小単位すら維持できなくなったことを示している。一説には、まだ息のある者から小刀で肉を切り取って食べる者まで現れ、特に栄養価が高いとされた脳は、人々が奪い合うほどであったという 18 。これは、日本史上でも極めて稀な、信頼性の高い史料に残る人肉食の事例である 23 。秀吉の兵糧攻めは、物理的な城を破壊するのではなく、城という共同体を支える倫理観や人間性そのものを、内側から完全に破壊する戦術であった。 -
10月:救援の断絶と絶望
城内の人々が最後の望みを託していたのが、毛利本家からの後詰(救援軍)であった。吉川元春は、主力を率いて鳥取城救援に向かい、10月には城の西方約40キロメートルの地点まで進軍していた 2。しかし、彼の行く手には、秀吉が構築した堅固な陣城ネットワークが立ち塞がっていた。元春の兵力は6,000ほどであり、2万を超える秀吉軍の包囲網を突破することは不可能と判断せざるを得なかった 24。鳥取城に救援の望みは完全に断たれ、城内は完全な絶望に包まれたのである 25。
第五章:武士の鑑 ― 吉川経家の決断
城内が阿鼻叫喚の地獄と化し、外部からの救援も絶望的となる中、城主・吉川経家は武士として、そして一軍の将として、最も困難な決断を迫られる。彼の選択は、単なる敗北の受容ではなく、武士の誇りと城兵の命を天秤にかけた、崇高な自己犠牲の物語であった。
降伏交渉の開始
10月、城内の惨状をこれ以上座視することはできないと判断した経家は、家老の森下道誉、中村春続らと協議の上、ついに降伏を決意した 16 。経家は秀吉に使者を送り、自ら一人が切腹することと引き換えに、籠城している全ての兵士、そして戦火に巻き込まれた民衆の命を救ってほしいと申し入れた 2 。これは、全ての責任を将たる自らが一身に負うという、武士の鑑ともいえる申し出であった。
秀吉の意外な提案と経家の固辞
この申し出に対し、秀吉は意外な返答をした。彼は敵将である経家の武人としての器量と、その潔い態度を高く評価しており、その死を惜しんだのである。秀吉は、「この度の戦の責任は、一度降伏したにもかかわらず主君を追放した森下・中村らにある。貴殿に罪はない」として、経家自身は切腹する必要はなく、毛利のもとへ無事に帰還してよい、と提案した 16 。
しかし、経家の意志は鋼のように固かった。彼は「敗軍の将として、城内の惨状を招いた責任者として、生き永らえることは武士の道に反する」として、秀吉の温情ある提案を断固として拒否した 16 。あまりに頑なな経家の態度に、秀吉もついに折れ、主君である信長に指示を仰いだ。信長も経家の覚悟を認め、その自刃を許可したのである 16 。
遺された書状「仕合わせ物語」
自刃を翌日に控えた10月24日から25日にかけて、経家は父や子、そして主君である吉川元春らに宛てて、多くの遺書を書き残した 20 。その中に、彼の心境を最もよく表す一節がある。
「鳥取のこと、夜昼二百日こらえ候、ひゃう(兵粮)尽き果て候まま、我ら一人御ようにたち、各々を助け申し、一門の名を上げ候、その仕合わせ物語、お聞きあるべく候、かしこ」 16
ここでいう「仕合わせ物語」とは、現代語の「幸福な物語」という意味ではない。これは「事の次第、一連の顛末」を指す古語である。経家は、自らの死が、単なる敗北ではなく、城内の人々を救い、吉川一門の名誉を高めるための崇高な犠牲であったという「物語」を、後世に正しく語り伝えてほしいと、切に願ったのである 20 。経家は自らの命を最後の戦略資源として投じ、軍事的な敗北を、一族の未来へと繋がる「物語的勝利」へと昇華させようとした。
壮絶な最期(1581年10月25日)
経家の揺るぎない覚悟を認めた秀吉は、その武士としての最期に敬意を表し、最後の宴のために酒と肴を城中へ送ったと伝えられる 20 。天正9年10月25日早朝、吉川経家は、城兵たちの助命が確約されたことを見届けた後、静かに自刃して果てた。享年35歳の若さであった 2 。
第六章:救済が招いた第二の悲劇
吉川経家の壮絶な自刃により、鳥取城は開城された。生き残った人々は、四ヶ月にわたる地獄の日々から解放されたかに見えた。しかし、この戦いの悲劇はまだ終わっていなかった。秀吉による人道的な救済措置が、皮肉にも第二の悲劇を引き起こすことになる。
開城直後の惨状と秀吉による粥の提供
10月25日、鳥取城の城門が開かれると、中からは飢餓によって骨と皮ばかりに痩せ衰え、「餓鬼のごとく」になった人々が、力なく這い出てきた 19 。その目も当てられないほど悲惨な光景を前に、さすがの秀吉も心を痛めたとされる。彼は直ちに城下の道端にいくつもの大釜を設えさせ、大量の粥を炊き、飢えに苦しむ人々に分け隔てなく振る舞った 19 。これは、敵味方の区別なく命を救おうとする、当時の武将としては異例ともいえる人道的な措置であった。
謎の大量死
飢餓の極みにあった人々は、差し出された温かい粥を、むさぼるように食べた。しかし、その直後、予期せぬ事態が発生する。粥を腹一杯食べた者の多くが、突然苦しみ出し、次々と命を落としてしまったのである 21 。一方で、秀吉軍の兵士が「一度にたくさん食べるな」と注意し、その忠告に従って少量ずつ口にした者は、命を取り留めたという記録も残っている 19 。この救済が招いた謎の大量死は、鳥取城の悲劇に、さらに不可解な一層を加えることとなった。
現代医学による解明:「リフィーディング症候群」
この開城後の大量死の原因は、長年にわたり謎とされてきたが、現代医学の進歩により、そのメカニズムが解明されている。これは「リフィーディング症候群(再栄養症候群)」と呼ばれる医学的現象である 21 。
リフィーディング症候群とは、長期間にわたる極度の飢餓状態にあった身体に、急激に炭水化物などの栄養が補給された際に発生する、深刻な代謝異常である 22 。飢餓状態の身体は、生命を維持するために代謝活動を極限まで低下させている。この状態で急に粥などを摂取すると血糖値が急上昇し、インスリンが大量に分泌される。このインスリンが、血中の糖分を細胞内に取り込む際、生命維持に不可欠なリンやカリウムといった電解質も一緒に細胞内へ移動させてしまう。ただでさえ枯渇していたこれらの電解質が、血中からさらに急激に失われることで、深刻な電解質異常(特に低リン血症)を引き起こす。その結果、心不全、呼吸不全、不整脈といった致死的な症状を招き、死に至らしめるのである 21 。
近年の研究では、この鳥取城の戦いにおける記録が、日本で確認できる最古のリフィーディング症候群の事例であることが判明し、その成果は国際的な医学雑誌にも論文として発表された 32 。秀吉の善意による救済行為が、意図せずして多くの命を奪ってしまったというこの悲劇は、歴史的記録と現代科学が交差することで、その全貌が解き明かされた稀有な事例となったのである。
終章:鳥取城の戦いが遺したもの
鳥取城の戦いは、その凄惨さにおいて戦国史に深く刻まれると同時に、その後の歴史に多大な影響を与えた。織田・毛利のパワーバランスを決定的に動かし、羽柴秀吉の評価を不動のものとし、そして敗軍の将・吉川経家を郷土の英雄として現代にまで語り継がせることになった。この戦いは、時代の転換点を象徴する、多くの教訓を内包している。
中国攻防戦における戦略的転換点
鳥取城の陥落は、毛利氏にとって山陰地方における最重要拠点の喪失を意味した。これにより、毛利氏の山陰における支配体制は大きく揺らぎ、織田軍の中国地方攻略は大きな前進を遂げた 6 。この敗北により、毛利氏は戦略的に完全な守勢に立たされ、翌天正10年(1582年)の備中高松城の戦いへと繋がっていく。鳥取城の失陥は、毛利氏の西国における覇権が衰退していく、その決定的な転換点の一つであった。
羽柴秀吉の評価
播磨・三木城の「干殺し」、因幡・鳥取城の「渇え殺し」、そして備中・高松城の「水攻め」は、羽柴秀吉の三大城攻めとして後世に広く知られることとなる 4 。中でも鳥取城の戦いは、秀吉の戦術家としての卓越した能力を証明する象徴的な戦いであった。武力による直接的な攻撃を極力避け、経済戦、心理戦、兵站の完全遮断といった、冷徹なまでの合理主義に基づいた戦術を駆使して勝利を収めたその手腕は、彼の天下取りへの道を大きく切り開いた。この戦いは、秀吉が単なる勇猛な武将ではなく、戦争を多角的に捉えることのできる、近代的な戦略家であったことを示している 33 。
郷土の英雄・吉川経家
敗軍の将でありながら、吉川経家は、その自己犠牲の精神によって、地元鳥取において不滅の名声を得た。自らの命と引き換えに、城内の兵士と民衆の命を救った「義将」として、400年以上の時を経た今日に至るまで、郷土の英雄として深く敬愛されている 16 。鳥取城跡に建立された彼の銅像は、その義の精神を現代に伝えている。彼の生き様は、「卑怯な振舞いはしてはいけない」という郷土の教えとして、人々の心に生き続けているのである 16 。
歴史が与える教訓
鳥取城の戦いは、二人の対照的な武将の姿を浮き彫りにする。一方は、天下統一という大目標のためには非情なまでの合理性を貫く羽柴秀吉。もう一方は、武士としての名誉と義のために自らの命を捧げた吉川経家。秀吉が実行した経済合理性に基づく殲滅戦は、近世的な統治システムの冷徹さの萌芽であり、経家が体現した「武士の義」に基づく自己犠牲の精神は、中世的な価値観の最後の輝きであったともいえる。
この戦いで対峙したのは、単に織田軍と毛利軍ではなかった。それは、滅びゆく「武士の時代」の価値観と、これから到来する「統治者の時代」の価値観の衝突であった。鳥取城の悲劇は、戦争がもたらす極限の惨状と、その中で示される人間の崇高さと醜さの両面を我々に突きつける。そして、リーダーシップのあり方、組織の危機管理、さらには人間の生き方そのものについて、時代を超えた普遍的な問いを投げかけているのである。
引用文献
- 中国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
- 幻の一大決戦!秀吉vs毛利 ~真説「鳥取城の戦い」~を巡る https://www.torican.jp/feature/eiyu-sentaku-tottorijou
- 鳥取城の戦い古戦場:鳥取県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tottorijo/
- 鳥取城の戦い(1/2)史上最悪の籠城戦による「渇え殺し」 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/610/
- 第137回県史だより/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/255759.htm
- “鳥取城攻め” 羽柴秀吉は丸山城から進軍 | お城山展望台 河原城 (鳥取県鳥取市河原町) https://www.kawahara-shiro.com/history/history2
- 鳥取城兵糧攻め(秀吉の野望と挫折&経家の苦悩) 太閤ヶ平と鳥取城をめぐり、秀吉と経家の心を探るツアー - とっとり観光ガイドセンター https://www.tori-guide.com/course/kenbun-2
- 三木合戦古戦場:兵庫県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/mikijo/
- 非情なまでの兵糧攻め!餓死者が続出、恐ろしいほど徹底した豊臣(羽柴)秀吉による「鳥取城の戦い」の戦略 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/229695
- 首桶を持って鳥取城に入った吉川経家 秀吉との凄惨な「籠城戦」を後世はどう見たのか https://otonano-shumatsu.com/articles/357660
- 鳥取城の戦いとは/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16975_tour_056/
- 吉川経家|鳥取の英雄 - きままブログ https://kimama-labo.com/kikkawa-tsuneie/
- 因幡國 吉川経家墓所 (鳥取県鳥取市 - FC2 http://oshiromeguri.web.fc2.com/inaba-kuni/tsuneiebosyo/tsuneiebosyo.html
- 兵糧攻めを得意とした秀吉の敵を弱らせていく戦法とは? 戦国の城攻め https://japan-castle.website/battle/shirozeme-hyourou/
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- リフィーディング症候群 - つくば理数塾 ONLINE https://www.sci-math.com/news_2023-12-19/
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- Refeeding Syndrome - UMIN SQUAREサービス https://square.umin.ac.jp/massie-tmd/Rfdng_synrm_jpn_cases.html
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