最終更新日 2025-08-29

鳥越城の戦い(1580)

鳥越城の戦い(1580)は、加賀一向一揆の最後の抵抗。織田信長は徹底鎮圧を命じ、鳥越城を巡る激戦の末、一揆は壊滅。門徒三百余名が磔に処せられ、加賀一向一揆は終焉。

信仰の砦、落つ ― 天正十年、加賀一向一揆最後の攻防戦「鳥越城の戦い」全詳報

序章:百年の王国、その黄昏

日本の戦国史において、約一世紀にわたり武家支配を退け、門徒による自治を成し遂げた特異な「王国」が存在した。加賀国(現在の石川県)における、いわゆる「百姓の持ちたる国」である 1 。この宗教共同体の終焉を告げる壮絶な攻防戦こそ、本報告書が詳述する「鳥越城の戦い」に他ならない。この戦いを理解するためには、まずその起源と、織田信長という存在との根本的な対立構造を解き明かす必要がある。

加賀一向一揆の源流は、室町時代中期、浄土真宗本願寺派第八世法主・蓮如の北陸地方における布教活動に遡る 2 。蓮如が説いたのは、「南無阿弥陀仏」と一心に称えれば、身分や善悪の別なく阿弥陀如来によって誰もが救われるという、当時としては画期的な教えであった 3 。この平等思想は、戦乱に疲弊した農民や商人、そして既存の権力構造に不満を抱く国人武士に至るまで、あらゆる階層の人々の心を強く捉え、爆発的に信徒を増やしていった 3

その信仰の力は、やがて政治的・軍事的な実力へと転化する。長享2年(1488年)、門徒たちは加賀守護であった富樫政親を攻め滅ぼし、事実上、加賀国を自らの手中に収めたのである 1 。時に「一揆衆二十万人」と記録されるほどの大軍勢であったと伝えられる 4 。以後、天正8年(1580年)に織田信長によって制圧されるまでの約90年間、加賀は本願寺の権威の下、門徒たちによる自治が行われる特異な地域となった。天文15年(1546年)には、その拠点として尾山御坊(後の金沢城)が建立され、その影響力は北陸一円に及んだ 1

しかし、この「百姓の持ちたる国」の存在は、天下統一を目指す織田信長にとって看過できるものではなかった。信長の掲げる「天下布武」とは、室町幕府や寺社勢力といった既存の権威を武力によって解体し、自身を頂点とする中央集権的な武家支配体制を再構築する事業であった 5 。信長の秩序に従わない独立した宗教勢力は、その存在自体が許されざる「仏敵」だったのである 7

元亀元年(1570年)、信長と石山本願寺との間で全面戦争、すなわち「石山合戦」が勃発すると、本願寺第十一世法主・顕如は全国の門徒に対し、「仏敵信長を討て」との檄を発した 7 。これにより、加賀の一向一揆もまた、信長との全面対決へと突き進むこととなる。鳥越城の戦いは、単なる領土や城を巡る攻防ではない。それは、信長の目指す中央集権的武家支配という世界観が、一向一揆が約一世紀にわたり育んできた宗教的共同体による自治という、もう一つの世界観を完全に破壊し、上書きする過程そのものであった。この二つの相容れない秩序の衝突が、後に三百人もの門徒が磔に処せられるという、凄惨な結末へと繋がっていくのである。

第一章:織田軍、北陸を席巻す

石山合戦が泥沼化する中、織田信長は各地に点在する反抗勢力を各個撃破すべく、方面軍を編成して同時並行的に侵攻作戦を展開した。北陸方面の鎮圧を託されたのが、織田家宿老筆頭の柴田勝家であった 9 。勝家は北ノ庄城(現在の福井市)を拠点とし、与力として前田利家、佐々成政といった有力武将を率いて、越前から加賀、能登、越中へと進撃した 9

この北陸方面軍において、対一向一揆戦の切り札として最前線に投入されたのが、佐久間盛政であった 1 。盛政は、母が柴田勝家の姉妹という甥の関係にあたり、勝家が最も信頼を寄せる猛将であった 11 。身長六尺(約182cm)の巨漢とされ、その勇猛果敢な戦いぶりから「鬼玄蕃(おにげんば)」の異名で敵味方から恐れられていた 13

一向一揆との戦いは、通常の武士同士の合戦とは全く様相が異なっていた。門徒たちは「進者往生極楽、退者無間地獄」という信仰に支えられ、死を恐れずに突撃してくる 15 。生半可な攻撃ではその士気を挫くことはできず、むしろ敵の宗教的熱狂に飲み込まれかねない。長年にわたり北陸で一揆と対峙してきた柴田勝家は、その特異性を熟知していた 7 。彼らにとって、交渉や懐柔といった手ぬるい手段は通用せず、圧倒的な武力と恐怖によってその抵抗の意志を根こそぎ粉砕する必要があった。

この殲滅作戦の実行者として、血縁者で信頼が置け、かつ任務を冷徹に遂行できる「鬼玄蕃」盛政は、まさに最適な人材であった。勝家が盛政を対一揆戦の先鋒に起用したことは、単なる身内の重用ではなく、一揆の徹底的な殲滅という明確な戦略的意図の表れであったと言える。盛政の苛烈な個性は、一向一揆の宗教的熱狂を恐怖で制圧するための、最も効果的な「装置」として機能することになる。

織田軍の北陸侵攻は、天正5年(1577年)の「手取川の戦い」で上杉謙信に大敗を喫するなど、当初は必ずしも順調ではなかった 16 。しかし翌天正6年(1578年)3月、その謙信が急死すると、上杉家中に後継者争い(御館の乱)が勃発し、北陸の軍事情勢は一変する 18 。この好機を逃さず、柴田勝家は攻勢を再開。能登、越中へと勢力を拡大し、加賀の一向一揆勢力を徐々に追い詰めていった。

そして天正8年(1580年)、石山本願寺が信長に降伏したのとほぼ時を同じくして、柴田勝家と佐久間盛政は加賀一向一揆の本拠地・金沢御坊に総攻撃をかけた 1 。同年4月、この難攻不落の拠点はついに陥落し、加賀の平野部は完全に織田の支配下に入った 19 。盛政はこの功績により、金沢城(尾山御坊を改修)の初代城主となり、20万石の大名へと躍進する 20 。しかし、一揆の抵抗は終わらなかった。信仰の炎は、白山麓の険しい山中へと場所を移し、最後の輝きを放とうとしていたのである。

第二章:白山麓の城砦群 ― 鳥越城の構造と戦略的価値

加賀平野を追われた一向一揆の残存勢力は、最後の拠点として白山麓の山間部に立て籠もった。彼らは「山内衆(やまのうちしゅう)」と呼ばれる門徒の地域共同体を形成し、徹底抗戦の構えを見せた 7 。この山内衆を率いる総大将として本願寺から派遣されたのが、鈴木出羽守(すずきでわのかみ)であった 8

鈴木出羽守の実名(諱)は「重泰」や「義明」など諸説あるが、確かなものではない 23 。しかし、鉄砲戦術で名高い紀州の雑賀鈴木一族との関連も指摘されており、もし事実であれば、彼は高度な軍事技術、特に鉄砲の集団運用や野戦築城術に長けていた可能性がある 7 。彼が指揮を執る白山麓は、織田軍を迎え撃つための一大要塞地帯と化していった。

その要塞群の中核を成したのが、鳥越城である。この城は、手取川とその支流である大日川の合流点を見下ろす、標高312mの丘陵の先端に築かれていた 24 。眼下には加賀平野へと続く交通の要衝が広がり、白山麓全体の防衛を担う戦略的に極めて重要な拠点であった 24

鳥越城の縄張りは、戦国後期の山城として非常に洗練されたものであった。山頂の本丸を中心に、中の丸、二の丸、三の丸、後二の丸、後三の丸といった主要な七つの郭が、尾根筋に沿って巧みに配置された「連郭式山城」である 24 。その規模は東西400m、南北1,200mにも及び、単なる砦ではなく、大規模な兵力を収容可能な一大拠点であったことがわかる 25

特筆すべきは、その徹底した防御思想である。城内は鋭く切り立った切岸(きりぎし)と、深く掘られた空堀によって厳重に守られていた 27 。特に本丸と後二の丸を隔てる巨大な堀切は、堀底の幅が人一人通れるほどしかなく、両側は垂直に近い崖となっており、敵の侵攻を物理的に遮断する設計であった 24 。発掘調査では、厚い焦土層や炭化した米が発見されており、この城で繰り広げられた戦闘の凄まじさを物語っている 28

こうした高度で戦闘的な城郭構造は、加賀一向一揆勢が単なる信仰心に頼る素人集団ではなかったことを雄弁に物語っている。彼らは鈴木出羽守のような専門的な軍事指導者の下、最新の築城術を理解し、地形を最大限に活用した戦略的拠点を構築する能力を有していた。彼らの抵抗が、精神論だけでなく、極めて合理的な軍事戦略に裏打ちされていたからこそ、織田軍はこの城の攻略に多大な時間と犠牲を払うことになったのである。

また、本丸の入口(虎口)には、土塁で囲まれた「本丸門」に加え、その手前に石垣で三方を固めた「枡形門」が設けられている 24 。この石垣の積み方(布目積み)などから、枡形門は当初の一揆方の築城ではなく、一度城を奪った織田方が防御力強化のために増築したものであると考えられている 24 。このことは、鳥越城が一度陥落した後も、織田軍にとって重要な軍事拠点として改修・利用されたことを示す物証であり、この城を巡る争奪戦の激しさを今に伝えている。

鳥越城の南方約1kmには、支城である二曲城(ふとげじょう)が控え、一体となって防衛網を形成していた 7 。織田軍がこの信仰の砦を落とすには、まずこの二曲城を突破する必要があった。

表1:鳥越城の戦い 主要関係者一覧

勢力

氏名(通称)

役職・立場

本合戦における役割

織田軍

柴田 勝家

北陸方面軍 総司令官

北陸平定の最高指揮官。

佐久間 盛政

柴田勝家与力、金沢城主

「鬼玄蕃」。対一揆殲滅作戦の実行部隊長。

織田 信長

天下人

最高意思決定者。一向一揆の完全制圧を命令。

一揆軍

鈴木 出羽守

白山麓門徒 総大将

本願寺から派遣された指揮官。鳥越城主。

山内衆

白山麓の門徒組織

信仰に基づく共同体。抵抗の主体となった。

本願寺

顕如

第十一世法主

織田信長と和睦し、門徒に停戦を命令(和睦派)。

教如

顕如の長男

和睦に反対し、門徒に徹底抗戦を指示(抗戦派)。

第三章:第一次鳥越城攻防(天正8年 / 1580年)― 抵抗と陥落

天正8年(1580年)、織田信長と本願寺の石山合戦が終結に向かう中、加賀の地では最後の抵抗が始まろうとしていた。中央の政治的決定と、現地の信仰に生きる門徒たちの意志との間に生じた亀裂が、鳥越城を悲劇の舞台へと変えていく。

表2:鳥越城攻防 年表(天正8年〜天正10年)

年月

織田軍の動向

一揆軍の動向

関連事項

天正8年 閏3月

石山本願寺、信長と和睦。顕如が退去。

天正8年 4月

柴田勝家・佐久間盛政、金沢御坊を攻略。

山内衆、教如の檄に応じ抗戦継続を決意。

教如、抗戦を主張し顕如と対立。

天正8年 4月〜10月

周辺の砦を攻略し、鳥越城の孤立化を図る。

鳥越城・二曲城に籠城。周辺砦で抵抗。

天正8年 11月

二曲城を攻略後、鳥越城に総攻撃をかける。

激しい防戦の末、鳥越城が陥落。

天正8年 11月17日

鈴木出羽守ら指導者19名が殺害される。

首級は安土へ送られ、信長の首実検に。

天正9年 2月

二曲城を急襲し、守備兵三百名を討ち果たす。

天正9年中

佐久間盛政が反乱を鎮圧。鳥越城を再奪取。

一時、鳥越城を奪還するも、再び陥落。

天正10年 2月

再び蜂起し、鳥越・二曲両城を奪還。

天正10年 3月

佐久間盛政、最終的な殲滅作戦を開始。

最後の籠城戦の末、両城ともに陥落。

本能寺の変の約3ヶ月前。

天正10年 3月以降

捕らえられた門徒三百余名が手取川で磔に。

白山麓の村々は壊滅的な打撃を受ける。

【天正8年 閏3月〜4月:法主の命令と現場の決断】

天正8年(1580年)閏3月、11年に及んだ石山合戦は、法主・顕如が信長の和睦案を受け入れ、石山本願寺を退去することで終結した 1 。顕如は直ちに、各地で戦う門徒たちに停戦を命じる書状を送った。その中には、鳥越城の鈴木出羽守と山内衆に宛てたものも含まれていた 8 。本願寺の最高指導者からの公式な命令であり、門徒にとっては絶対的なものであったはずである。

しかし、この和睦に真っ向から反対する人物がいた。顕如の長男・教如である 8 。教如は、信長への降伏は教団の終わりを意味するとし、徹底抗戦を主張した。この本願寺宗主父子の路線対立は、遠く加賀の門徒たちを深刻なジレンマに陥れた。

現地の指導者である鈴木出羽守は、この矛盾した命令の板挟みとなった。法主・顕如に従えば、それは「仏敵」信長への降伏を意味し、約一世紀続いた「百姓の持ちたる国」の終焉と、仲間たちの処刑に繋がる可能性が高い。一方、教如の檄に従えば、法主への反逆者となるが、信仰と仲間たちの共同体を守るための戦いを続けられる。

鈴木出羽守と山内衆は、後者の道を選んだ 8 。彼らにとって、中央の政治的判断よりも、目の前にある白山麓の門徒共同体を守るという使命の方が重かったのである。この決断は、単なる織田への反抗ではない。自らが信奉する本願寺の最高指導者の命令に背くという、極めて重い宗教的葛藤の上での悲劇的な選択であった。この決断が、その後一年半にわたる凄惨な戦いの幕を開けることとなった。

【天正8年 4月〜11月:孤立化と陥落】

抗戦の意志を固めた山内衆に対し、織田軍は容赦なく牙を剥いた。柴田勝家と佐久間盛政は、金沢御坊を制圧した後、白山麓への侵攻を開始した。彼らが取った戦術は、まず鳥越城の周囲に点在する一揆方の支城や砦(尾添、瀬戸など)を一つずつ攻略し、鳥越城を外部から完全に孤立させる「分断撃破」であった 7

数ヶ月にわたる攻防の末、山内衆の防衛網は徐々に切り崩されていく。そして同年11月、織田軍は鳥越城の喉元に位置する支城・二曲城に総攻撃をかけた 7 。二曲城が陥落すると、ついに鳥越城は裸同然となり、柴田軍の猛攻に晒されることとなった。

鳥越城の堅固な守りを前に、織田軍も多大な犠牲を払ったとされるが、圧倒的な物量の差はいかんともしがたかった。激しい攻防の末、天正8年11月、信仰の砦・鳥越城はついに陥落した 7

【天正8年 11月17日:安土への首級】

落城の結末は、織田信長の一向一揆に対する uncompromising な姿勢を象徴するものであった。『信長公記』によれば、城主・鈴木出羽守とその一族、そして山内衆の指導者ら19名が捕らえられ、殺害された 32 。彼らの首は塩漬けにされ、遥か安土城の信長のもとへと送られた。天正8年11月17日、信長はこれらの首を実検し、北陸における一つの勝利を確認した 31 。これにより、白山麓は一旦平定されたかに見えた。しかし、門徒たちの抵抗の炎は、まだ完全には消えていなかったのである。

第四章:束の間の奪還と再燃する戦火(天正9年〜10年 / 1581年〜1582年)

指導者である鈴木出羽守を失い、本拠地である鳥越城も陥落したことで、加賀一向一揆の組織的抵抗は終焉したかに思われた。織田方は鳥越城に吉原次郎兵衛を、二曲城には柴田勝家の兵三百を配置し、白山麓の占領統治を開始した 33 。しかし、城という「点」を制圧しても、山内衆が潜む山間部という「面」を完全に支配するには至っていなかった。織田軍の支配の脆弱性は、すぐに露呈することになる。

【天正9年 2月:二曲城の電撃的奪還】

第一次攻防戦の終結からわずか3ヶ月後の天正9年(1581年)2月、鎮圧されたはずの山内衆が突如として蜂起した。『信長公記』は、この時の様子を衝撃的に伝えている。一揆勢は二曲城を急襲し、守備していた柴田勢三百名を「悉く討ち果たした」というのである 34 。これは、指導者を失ってもなお、一揆勢が自律的に活動できる強固なネットワーク(「講」や「組」といった門徒組織)と、高い士気を維持していたことを示している 15 。彼らの抵抗は、正規軍同士の会戦から、占領軍に対するゲリラ戦争へとその様相を変え始めていた。

【天正9年中:鬼玄蕃、再び】

この予期せぬ反乱に対し、織田方は迅速に対応した。鎮圧の任に当たったのは、またしても「鬼玄蕃」佐久間盛政であった。盛政は軍を率いて白山麓に急行し、蜂起した一揆勢を鎮圧した 34 。この時、一揆勢は二曲城だけでなく、本丸である鳥越城も一時的に奪還していたとされるが、盛政の反撃によって再び奪い返された 35 。この一連の攻防は、織田軍の支配が、佐久間盛政という強力な暴力装置が存在する間だけ機能する一時的なものであり、根本的な人心掌握には至っていないことを物語っていた。

【天正10年 2月:最後の蜂起】

一度は鎮圧されたものの、山内衆の抵抗の意志は尽きなかった。翌天正10年(1582年)2月、彼らは三度目の蜂起に踏み切る。そして驚くべきことに、再び鳥越城と二曲城を奪還することに成功したのである 19 。もはや織田の大軍に勝利する算段があったとは思えない。この最後の決起は、勝敗を度外視し、信長の支配に屈するよりは信仰に殉じる道を選んだ、壮絶な覚悟の表れであったのだろう 19 。しかし、この繰り返される抵抗は、鎮圧する側の残虐性を際限なくエスカレートさせる結果を招くことになる。佐久間盛政は、このゲリラ的抵抗を根絶するため、もはや城を落とすだけでは不十分であると判断するに至った。

第五章:血河の鎮魂歌 ― 最終決戦と三百人磔刑

天正10年(1582年)2月の山内衆による三度目の蜂起と鳥越・二曲両城の奪還は、織田方、とりわけ佐久間盛政の忍耐を限界にまで達しさせた。これまでの鎮圧が生ぬるいものであったと判断した盛政は、抵抗勢力の物理的な根絶、すなわち殲滅を決意する。

【天正10年 3月1日〜:最終決戦】

同年3月1日、佐久間盛政率いる織田軍の主力部隊が、白山麓に最後の総攻撃を開始した 33 。その目標は、もはや城の攻略だけではなかった。一向一揆を支える門徒たちの共同体そのものを、この地上から消し去ることにあった。

鳥越城と二曲城に立て籠もった山内衆は、圧倒的な兵力差の中で最後の抵抗を試みた。発掘調査で発見された100点以上もの鉄砲玉は、この最後の籠城戦がいかに激しいものであったかを物語っている 8 。しかし、衆寡敵せず、信仰の砦は再び、そして今度こそ完全に陥落した。双方合わせて600人を超える死傷者が出たと記録されている 21

【落城後:根絶やし】

落城後、佐久間盛政による徹底的な「残党狩り」が始まった。それは、戦闘員のみを対象とするものではなかった。白山麓の村々に分け入り、一揆勢を匿ったり、食料を提供したりした者、その家族や縁者に至るまで、抵抗に関わったと見なされた人々を一人残らず捕縛したのである 19 。この行為は、ゲリラ的抵抗の温床となる地域社会そのものを破壊するための、冷徹な計算に基づいていた。

そして、その作戦の総仕上げとして、日本の戦国史上でも類を見ない残虐な見せしめが行われた。捕らえられた門徒やその家族、三百余名が手取川の河原へと引きずり出され、次々と磔(はりつけ)に処せられたのである 24 。この凄惨な公開処刑は、単なる感情的な報復ではない。恐怖を最大化し、人々の心に「一向一揆に与すればこうなる」という記憶を永続的に刻み込むことで、抵抗の意志を精神的に根絶やしにするための、高度な心理戦であった。

この弾圧は苛烈を極め、周辺の村々はその後数年から三年間、人が住めないほどの荒れ地と化したと伝えられている 19 。こうして、加賀一向一揆の百年近い歴史は、残雪を血に染めるという、あまりにも悲惨な形でその幕を閉じた。

皮肉なことに、この徹底的な殲滅作戦が完了してからわずか3ヶ月後の天正10年6月2日、彼らが「仏敵」と憎んだ織田信長が、京都・本能寺で家臣の明智光秀に討たれることになる。もし山内衆の抵抗がもう少し長く続いていたならば、歴史はまた違う様相を呈していたかもしれない。

終章:一揆の終焉と歴史的意義

天正10年(1582年)3月の鳥越城陥落と三百人磔刑は、長享2年(1488年)から約一世紀にわたって続いた加賀一向一揆の歴史に、完全な終止符を打った 1 。武士階級による支配を否定し、信仰共同体を基盤とした「百姓の持ちたる国」という、日本史上においても極めて特異な自治国家は、織田信長の天下統一事業の前に完全に解体されたのである。

この戦いの本質は、二つの異なる統治原理の衝突であった。一つは、本願寺の権威の下、門徒たちの「同信同行」という水平的な連帯によって維持された宗教的自治。もう一つは、信長を頂点とし、武力と恐怖によって秩序を維持する中央集権的な封建支配。鳥越城の戦いは、後者が前者を力ずくで屈服させ、その存在を歴史から抹消する過程であった。佐久間盛政による苛烈な弾圧は、その象徴的な出来事と言える。

戦後、加賀国は柴田勝家の支配を経て、賤ヶ岳の戦いの後は前田利家の所領となり、江戸時代を通じて加賀百万石の礎が築かれていく。前田家は、かつて一向一揆の温床であったこの地を統治するにあたり、武力だけでなく、巧みな宗教政策や産業振興策を用いて人心の安定を図った。その統治の根底には、鳥越城で示されたような、信仰が持つ恐るべきエネルギーに対する深い理解と警戒があったことは想像に難くない。

現代において、鳥越城跡と二曲城跡は国の史跡に指定され、発掘調査の成果を基に城門や柵列などが復元・整備されている 21 。城跡に立つと、眼下には手取川の穏やかな流れと、かつて門徒たちが暮らしたであろう山里の風景が広がる。しかし、その美しい景観とは裏腹に、この地がかつて信仰のために命を懸けた人々の血で染まった凄惨な戦場であったことを、鋭く切り立った城塁や深くえぐられた空堀が静かに物語っている。城跡に立つ「一揆敗れて山河あり」と刻まれた記念碑は 19 、勝者の歴史の陰に埋もれた人々の記憶を現代に伝え、歴史とは何か、信仰とは何か、そして人間とは何かを、我々に問いかけ続けているのである。

引用文献

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