鳴海・大高城兵糧入れ(1560)
桶狭間の戦い前夜、松平元康は陽動と奇策で織田の包囲を突破し、大高城へ兵糧を運び入れた。この成功は今川軍に油断を生み、織田信長に奇襲の機会を与え、後の家康独立の布石となった。
桶狭間前夜 ― 鳴海・大高城兵糧入れと鷲津・丸根砦攻防戦の戦術的再検証(1560年5月18日-19日)
序章:永禄三年、尾張の対峙 ― 膠着する最前線
永禄三年(1560年)五月、駿河・遠江・三河の三国を支配下に置く「海道一の弓取り」、今川義元は、数万と号する大軍を率いて尾張国への侵攻を開始した。この軍事行動の目的については、長らく足利将軍家を奉じての上洛が通説とされてきた。しかし、近年の研究では、上洛を求める将軍の書簡が存在しないことや、道中の美濃・斎藤氏や近江・六角氏との事前交渉の形跡が見られないことから、この説は概ね否定されている 1 。
義元の真の狙いは、より現実的かつ戦略的な目標、すなわち尾張の支配権確立にあったと考えられる 1 。父・今川氏親の代から続く織田家との係争地である尾張東部への影響力を決定的なものとし、背後にある三河支配を盤石にすることこそが、彼の最大の関心事であった 3 。そのためには、尾張統一を目前にしていた若き織田信長を打倒し、今川方が尾張国内に確保していた橋頭堡、鳴海城と大高城を完全に掌握・強化する必要があったのである 1 。
この今川方の尾張経略に対し、織田信長は巧妙かつ挑発的な戦略で対抗していた。天文二十二年(1553年)に織田方から今川方へ寝返った山口教継が守る鳴海城、そしてその南に位置する大高城は、信長の居城・清洲城から見れば、まさに喉元に突き付けられた二本の刃であった 5 。信長はこれらの敵拠点を無力化するため、その周囲に複数の砦、いわゆる「付城(つけじろ)」を築き、一大包囲網を形成したのである 6 。
具体的には、鳴海城に対しては北に丹下砦、東に善照寺砦、南に中島砦を、そして大高城に対しては北東に鷲津砦、東に丸根砦を建設した 8 。この付城ネットワークは、物理的に両城間の連携を遮断すると同時に、補給路を断つことによる兵糧攻めを意図したものであった 7 。これは単なる防御策ではなく、今川方の拠点を経済的・心理的に追い詰め、その力を削ごうとする攻勢的な封じ込め戦略であり、義元に対する明確な挑戦状でもあった 7 。
信長の戦略は着実に成果を上げていた。特に、伊勢湾岸からやや内陸に位置し、海上からの直接補給が困難な大高城は、深刻な兵糧枯渇の危機に瀕していた 6 。このままでは、尾張侵攻の重要拠点が戦わずして自壊しかねない。したがって、今川義元にとって、大高城への兵糧補給は、尾張攻略作戦全体の成否を左右する最優先課題となった。
このように、桶狭間の戦いは、1560年5月の今川軍の侵攻によって突発的に始まったのではない。それは、信長が付城戦略という「静かなる戦争」を仕掛けたことに端を発する。この挑発的な封鎖作戦こそが、義元に大規模な軍事行動を決断させた直接的な引き金であった。つまり、歴史的大戦の幕は、今川の侵略に対する織田の防衛という単純な構図ではなく、両者の戦略的応酬が臨界点に達した必然的な帰結として切って落とされたのである。
第一章:陽動、深夜の奇襲 ― 松平元康、兵糧入れの策(5月18日夜)
永禄三年五月十八日、今川義元率いる本隊が尾張東部の拠点、沓掛城に着陣した 1 。軍議が開かれ、喫緊の課題である大高城への兵糧輸送作戦が最終決定される。この敵中を突破する極めて危険な任務の遂行者として白羽の矢が立ったのは、当時今川家の客将の身であった十九歳の若き武将、松平元康(後の徳川家康)であった 11 。
この任務は、織田方の厳重な包囲網を掻い潜らねばならず、誰もが尻込みするほどの困難さを伴っていた 11 。元康の家臣団の中からも、成功は覚束ないとして今川本隊の加勢を求める声が上がるほどであった 15 。しかし、家臣たちの不安を前に、元康は冷静に「我に策あり」と述べ、独自の作戦計画を明かしたという 9 。
元康の策の核心は、単なる強行突破ではなく、大規模な陽動部隊を駆使して織田方の守備網そのものを無力化するという、巧妙な二段構えの作戦にあった 9 。彼は自軍を二手に分けた。一つは、兵糧を輸送する元康自身が率いる本隊。そしてもう一つが、織田方の注意を全く別の方向へ引き付けるための陽動部隊である。
この陽動部隊には、福釜松平左馬助親俊、酒井与四郎忠親、石川与七郎といった将に約四千の兵が与えられ、大高城周辺の砦群を大きく迂回し、さらに奥地にある織田方の寺部城、梅坪城へ夜襲をかけるよう命じられた 9 。この目標選定こそが、元康の戦術眼の非凡さを示している。大高城の至近ではなく、あえて遠方の拠点を叩くことで、織田方の前線指揮官に「敵主力が我々の背後に回り込み、根拠地を脅かしている」という最悪のシナリオを想起させ、パニックを引き起こすことを狙ったのである。これは、当時まだ中央集権的とは言えない織田軍の指揮系統の脆弱性を突いた、高度な心理戦でもあった。清洲城の信長からの指示を待つ余裕のない前線の将兵が、現場判断で後方の危機に対応しようとすることは、元康の計算の内だったのである。
五月十八日の夜半、作戦は実行に移された。元康の計画通り、陽動部隊が寺部城へ猛攻を開始。城に火を放ち、鬨の声を上げると、その炎は夜空を赤く染め上げた 9 。この予期せぬ場所からの攻撃と狼煙は、大高城を包囲する丸根・鷲津両砦の守備兵たちを震撼させた。「三河の敵本隊が我々を素通りして、尾張の深奥に侵入した」と誤認したのである 9 。後方の危機に動揺した両砦の兵は、救援(後詰)に向かうべく、本来の持ち場である大高城の包囲網を解き、移動を開始した。元康が狙った「現場の混乱と誤認」は、見事に現実のものとなった。物理的に敵兵を動かすだけでなく、敵の判断を麻痺させることで、絶好の機会が創出されたのである。
第二章:闇夜を駆ける ― 大高城への道(5月18日深夜~19日未明)
寺部城方面での陽動が成功し、織田方の包囲網に一瞬の隙が生まれた。大高城から二十町(約2キロメートル)ほど離れた地点で息を潜めていた松平元康は、この好機を逃さなかった 9 。
元康は自ら約八百の精鋭を率い、兵糧米を山と積んだ荷駄馬千二百疋(ひき)を引き連れて、闇夜の中を進軍開始した 9 。彼らが選択した進路は「大高道」と呼ばれる街道であったが、この道は丸根・鷲津両砦のすぐ麓を通過する、平時であれば自殺行為に等しい極めて危険なルートであった 13 。地元では「砦前」とも呼ばれるこの場所を、大規模な輸送部隊が音を殺して通過していく様は、まさに大胆不敵というほかない 13 。陽動作戦によって砦の主力が引き抜かれていなければ、到底成功し得ない行動であった。
深夜から五月十九日の未明にかけて、元康の部隊はついに大高城の大手門に到達。兵糧を無事に城内へ運び込むことに成功した 12 。この兵糧は、飢えに苦しんでいた城将・鵜殿長照と城兵たちにとって、まさに乾天の慈雨であった。城内の士気は一気に高揚し、元康は今川軍の尾張攻略における最初の武功を挙げたのである 14 。
この一連の作戦の地理的関係性を理解するために、当時の拠点配置を以下に示す。
【表1】鳴海・大高城周辺 織田・今川方 拠点配置図(概念)
拠点種別 |
拠点名 |
所属 |
位置と役割 |
織田方本城 |
清洲城 |
織田方 |
尾張の中心。信長の本拠地。 |
今川方前線拠点 |
鳴海城 |
今川方 |
織田領の喉元に位置する最重要拠点。 |
|
大高城 |
今川方 |
鳴海城と連携する重要拠点。兵糧枯渇状態。 |
織田方付城(対鳴海) |
丹下砦 |
織田方 |
鳴海城の北方を封鎖。 |
|
善照寺砦 |
織田方 |
鳴海城の東方を封鎖。 |
|
中島砦 |
織田方 |
鳴海城の南方を封鎖。 |
織田方付城(対大高) |
鷲津砦 |
織田方 |
大高城の北東に位置し、街道を監視。 |
|
丸根砦 |
織田方 |
大高城の東方に位置し、鷲津砦と連携。 |
今川方本隊 |
沓掛城 |
今川方 |
義元本隊が着陣した、尾張侵攻の策源地。 |
この配置を見れば、信長の包囲網がいかに巧妙であったか、そして元康の兵糧入れがいかに鷲津・丸根両砦の直下を通過する危険な作戦であったかが一目瞭然となる。
第三章:夜明けの狼煙 ― 鷲津・丸根砦の攻防(5月19日 未明~午前)
大高城で兵糧を届け、一息つく間もなく、元康のもとに今川義元からの次なる命令が届いた。それは、大高城を包囲する付城ネットワークの完全破壊、すなわち丸根砦の攻略であった 11 。時を同じくして、今川家の重臣・朝比奈泰朝(泰能とも)には、もう一方の鷲津砦の攻略が命じられていた 19 。これは、兵糧入れの成功に続き、大高城を完全に解放し、義元本隊が進軍する道を切り開くための、計画的かつ連携の取れた二正面同時攻撃であった。
両砦における戦力は、今川方が圧倒的に優位であった。
【表2】鷲津・丸根両砦における両軍戦力比較
項目 |
丸根砦 |
鷲津砦 |
織田方指揮官 |
佐久間大学盛重 9 |
飯尾近江守定宗、織田秀俊 9 |
織田方推定兵力 |
約400~500 |
520騎 23 |
今川方指揮官 |
松平元康 11 |
朝比奈泰朝 19 |
今川方推定兵力 |
約1,000~2,000 |
2,000 23 |
結果 |
陥落・守備隊玉砕 |
陥落・守備隊玉砕 |
第一節:丸根砦の死闘:佐久間盛重 対 松平元康
五月十九日の夜が明けきらぬうちから、戦闘の火蓋は切られた。兵糧入れを終えたばかりの松平勢が、休む間もなく丸根砦に殺到したのである 24 。
急襲を受けた守将・佐久間盛重は、当初、衆寡敵せずと判断し、兵をまとめて信長本隊に合流すべく砦を放棄することも考えたという 24 。しかし、部下の服部玄蕃らが「武士の誉れは一戦を遂げるにあり」と決戦を強硬に主張。その気概に感じ入った盛重は、籠城ではなく、全兵で砦を打って出ての野戦を決意した 24 。これは、絶望的な状況下でも臆することなく、武士としての意地を貫こうとする織田方将兵の気概を示すものであった。
しかし、その奮戦も圧倒的な兵力差の前には及ばなかった。激戦の末、佐久間盛重は討ち死にし、守備隊は文字通り玉砕したと伝えられている 20 。
第二節:鷲津砦の陥落:飯尾定宗 対 朝比奈泰朝
丸根砦への攻撃とほぼ時を同じくして、朝比奈泰朝率いる二千の軍勢が鷲津砦への攻撃を開始した 23 。夜明け前の暗いうちから始まった戦いは、熾烈を極めた。
守将の飯尾定宗・尚清父子、そして信長の大叔父にあたる織田秀俊らは、弓や鉄砲を駆使して必死に防戦した 21 。しかし、今川方は兵力の優位を活かし、疲弊した部隊を下げては新手を繰り出すという波状攻撃を執拗に続けた 27 。
数時間にわたる死闘の末、織田方の抵抗も限界に達する。飯尾定宗をはじめとする将兵はことごとく討ち死にし、鷲津砦も午前十時頃までには陥落した 20 。
この前哨戦における今川軍の「完璧すぎる勝利」は、しかし、皮肉な結果をもたらすことになる。前夜の兵糧入れに続き、当日朝の砦攻めでも作戦は計画通りに進み、敵の主要な前線拠点を二つも排除した。このことは、総大将である義元に「戦いの主導権は完全に我が方にある」という絶対的な自信と、それに伴う致命的な油断を生じさせた 7 。この心理状態こそが、後の桶狭間での本隊の休息や酒宴といった油断した行動に繋がり、信長の奇襲を成功させる最大の隙となった。前哨戦での圧勝が、本戦での敗北の直接的な引き金となったのである。
第四章:清洲の決断 ― 織田信長、動く(5月19日 早朝~午前)
今川軍が勝利に沸く一方、その報は刻一刻と清洲城の織田信長のもとへもたらされていた。
五月十九日の早朝三時頃、鷲津・丸根両砦が今川軍の総攻撃を受けているとの第一報が清洲城に届く 19 。前夜の軍議で、信長は戦に関する話を一切せず、世間話に終始して家老たちを困惑させたという 7 。これは、信長がすでに籠城策に勝ち目がないことを見抜き、常識外の一手に打って出るタイミングを計っていたことの表れであったのかもしれない。
家臣団の多くが籠城を主張する中、信長はその策を一蹴する 7 。援軍のあてはなく、圧倒的な兵力差を考えれば、籠城は緩やかな自滅を意味するだけであった 1 。報告を聞くや否や、信長は寝所から飛び起きると、有名な幸若舞『敦盛』の一節、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と謡いながら舞い、死を覚悟した上での出陣の決意を固めた 7 。
早朝四時、信長は全軍の集結を待つことさえせず、僅かな供回りだけを連れて嵐のように清洲城を駆け出した 19 。目指すは熱田神宮。道中で徐々に兵が集まり始め、熱田に到着する頃には、その軍勢は約三千にまで膨れ上がっていたとされる 19 。
信長が熱田神宮で戦勝を祈願していた午前八時から十時頃、戦況を左右する決定的な報がもたらされる。鷲津・丸根の両砦が、織田方守備隊の玉砕をもって陥落した、という知らせであった 19 。
この知らせは、表面的には味方の拠点を失った絶望的な敗報である。しかし、信長の思考は逆であった。彼にとって、この「敗北」こそが、大逆転への最後のパズルピースだったのである。信長の唯一の勝機は、敵の総大将である義元の首、ただ一つを狙う奇襲にあった。そのためには、広大な尾張のどこに義元本隊がいるのかを正確に知る必要があった。
両砦の陥落は、今川軍の先鋒部隊(松平元康、朝比奈泰朝)の位置を特定させ、その後方にいるはずの本隊の位置を絞り込むことを可能にした。さらに重要なのは、前線拠点を排除したことで、義元本隊が安心して大高城へ向かう途中で休息を取り、油断する可能性が極めて高まったことである。この頃までには、梁田政綱ら優れた斥候からもたらされた、今川本隊が桶狭間周辺で休息し、油断しているという情報が、信長の決断を後押ししていたと考えられる 30 。
戦術的な敗北が、信長に千載一遇の戦略的奇襲の機会を与えた。信長は敗報に絶望するどころか、「好機、今にあり」と、全軍に出撃を命じたのである。
結章:桶狭間への布石 ― 前哨戦の帰結と歴史的意義
五月十八日から十九日にかけての二日間にわたる一連の戦闘は、単なる「桶狭間の戦い」の前哨戦ではなかった。それは、その後の日本の歴史を大きく変えることになる奇跡的な大逆転劇の、直接的かつ不可欠な布石であった。
まず、今川方にとって、大高城への兵糧入れと鷲津・丸根両砦の攻略という完璧な勝利は、総大将・義元をはじめ全軍に慢心と油断をもたらした 28 。この心理的な隙こそが、信長の奇襲を成功させた最大の要因となった。勝利が敗北を招くという、戦場の皮肉な鉄則がここに現れている。
次に、松平元康にとって、この戦いは彼の将器を天下に示す最初の舞台となった。困難な兵糧入れを見事に成功させ、続く砦攻めでも武功を挙げたことで、その名は今川家中のみならず、敵である織田方にも轟いたであろう 14 。そして何よりも、大高城に留まっていたことで義元討死の報をいち早く察知し、混乱する今川軍本隊から離脱して岡崎城へ帰還することができた 33 。この兵糧入れの成功が、後の徳川家康の三河独立への輝かしい第一歩となったのである 17 。
そして、織田信長にとっては、前線拠点をすべて失うという絶体絶命の状況が、彼を背水の陣に立たせた。この窮地と、斥候がもたらした敵の油断という情報が組み合わさった時、信長は常識を覆す奇襲作戦を決断した。前哨戦での敗北がなければ、歴史的な大勝利も生まれなかったのである。
結論として、「鳴海・大高城兵糧入れ」とそれに続く砦攻防戦は、松平元康の戦術的成功が今川義元の戦略的油断を誘い、その油断を、絶望的状況に置かれた織田信長の天才的な決断が突いたという、見事な因果の連鎖で結ばれた一連の軍事行動であった。この二日間の出来事こそが、桶狭間の奇跡を準備した真の序曲であったと結論付けられる。
【表3】鳴海・大高城兵糧入れ及び鷲津・丸根砦攻防戦 時系列表
日時 |
今川方の動き(主に松平元康) |
織田方の動き(主に信長) |
備考 |
5月18日 日中 |
義元本隊、沓掛城に着陣。元康に兵糧入れを命令。 |
清洲城にて情報収集と軍議。 |
|
5月18日 夜半 |
元康、陽動部隊を寺部城へ派遣し、夜襲を開始。 |
丸根・鷲津砦の兵、陽動に釣られ救援のため移動。 |
大高城包囲網に隙が生じる。 |
5月18日 深夜 |
元康、兵糧輸送部隊を率いて大高道を進軍。 |
|
|
5月19日 未明 |
元康、大高城への兵糧入れに成功。 |
|
大高城の士気が回復。 |
5月19日 3:00頃 |
|
鷲津・丸根砦への攻撃開始の報が清洲城に届く 19 。 |
|
5月19日 4:00頃 |
元康、丸根砦へ攻撃開始。朝比奈泰朝、鷲津砦へ攻撃開始。 |
信長、「敦盛」を舞い、僅かな手勢で清洲城を出陣 19 。 |
|
5月19日 8:00頃 |
両砦で激戦が続く。 |
信長、熱田神宮に到着。戦勝祈願と兵の集結 19 。 |
|
5月19日 10:00頃 |
鷲津砦、陥落 20 。丸根砦も相次いで陥落。 |
熱田にて両砦陥落の報に接する 21 。 |
義元本隊、沓掛城を出発し桶狭間方面へ進軍開始。 |
引用文献
- 奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101738/
- ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#:~:text=%E7%BE%A9%E5%85%83%E3%81%AE%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E4%BE%B5%E6%94%BB%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1,-%E3%80%8E%E7%94%AB%E5%BA%B5%E4%BF%A1%E9%95%B7&text=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AE%B6%E9%AB%98%E6%9F%B3%E5%85%89%E5%A3%BD,%E4%BE%B5%E6%94%BB%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%80%81%E6%8C%87%E6%91%98%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
- 今川義元の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34750/
- 桶狭間の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/okehazama-kosenjo/
- 桶狭間合戦への前哨戦 動乱が続いていた尾張と織田信長 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/8361/3
- 大高城と松平元康兵粮入武功の検証 - 名古屋城 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/uploads/03_%E5%8E%9F%E5%8F%B2%E5%BD%A6_%E5%A4%A7%E9%AB%98%E5%9F%8E%E3%81%A8%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%85%83%E5%BA%B7%E5%85%B5%E7%B2%AE%E5%85%A5%E6%AD%A6%E5%8A%9F%E3%81%AE%E6%A4%9C%E8%A8%BC_%E7%84%A1%E5%AE%B3%E5%8C%96%E6%B8%88.pdf
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- 大高城 - あいち歴史観光 - 愛知県 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/place3.html
- 大高城跡(おおだかじょうあと) - 愛知エースネット https://apec.aichi-c.ed.jp/kyouka/shakai/kyouzai/2018/syakai/nagoya/nag029.htm
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- 【戦国小和田さんぽ】「桶狭間の戦い」大高城兵糧入れで家康が通った道を歩く - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=FdF7EMKoOHY
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- 「大高城兵糧入れ(1560年)」家康、桶狭間の前哨戦で今川軍先鋒 ... https://sengoku-his.com/261
- 大高道|桶狭間合戦で松平元康(のちの徳川家康)が兵糧入れしたルートを歩いてみた|愛知県豊明市 | ディライト・グッズ https://delight-net.biz/archives/5406
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- 【三河物語】桶狭間の戦い - 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/historical-material/documents3/
- 桶狭間の戦い古戦場:愛知県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/okehazama/
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- 丸根砦・鷲津砦(愛知県)古戦場ゆかりの城をゆく~桶狭間の戦い④~ | しんこうの趣味のブログ http://shinkoukou.blog.fc2.com/blog-entry-319.html
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- 鷲津砦 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/washizu.sj/washizu.sj.html
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- 織田信長の家臣であった梁田政綱の城。 政綱は永禄3年(1560) 桶狭間の戦 - 信用金庫 http://www.shinkin.co.jp/ichii/sengoku/data/P074_kunotubojyou.pdf
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