最終更新日 2025-08-28

鵜沼城の戦い(1584)

天正十二年、小牧・長久手の緒戦にて池田恒興は犬山城を電撃攻略。鵜沼・伊木山城を前線に、夜陰と大雨を衝き木曽川を渡河、内通者の手引きで陥落させた。この奇襲が戦局を拡大、鵜沼城は廃城となりし一戦なり。

「鵜沼城の戦い(1584)」の再定義:小牧・長久手の戦いにおける犬山城電撃攻略作戦の全貌

序章:小牧・長久手の戦い勃発 ― 尾張・美濃の戦略的価値

天正10年(1582年)の本能寺の変による織田信長の急死は、日本の政治情勢に巨大な権力の空白を生み出した。この空白を埋めるべく、信長の重臣であった羽柴秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を、翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を急速に固めていった 1 。しかし、その急進的な台頭は、信長の次男・織田信雄との間に深刻な対立を引き起こす。自らの権威が秀吉によって脅かされることを危惧した信雄は、信長の盟友であった徳川家康に救援を要請し、ここに「羽柴秀吉 対 織田信雄・徳川家康連合軍」という、天下の覇権を巡る対決の構図が完成した 2

この対立が軍事衝突へと発展する直接的な引き金は、秀吉が信雄の三家老(津川雄光、岡田重孝、浅井長時)を内通させたことに対し、信雄が彼らを断罪・誅殺した事件であった 2 。これを口実に秀吉は信雄討伐の兵を挙げ、信雄・家康連合軍もこれに応戦。天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いの火蓋が切られた。この戦いは単なる領土紛争ではなく、秀吉が築こうとする新たな天下秩序と、信長以来の織田家を中心とする旧体制の維持を望む勢力との間の、体制選択を巡る最終戦争としての性格を色濃く帯びていた。

主戦場となった尾張国と美濃国の国境地帯は、木曽川という天然の要害によって隔てられていた。この木曽川の渡河点を押さえ、両国間の交通と兵站の要となるのが、犬山城であった 2 。犬山城は木曽川南岸の断崖に築かれた「後堅固の城」であり、対岸の鵜沼城や伊木山城と連携することで、この一帯は極めて重要な戦略拠点として機能していた 5

奇しくも、この地政学的重要性は、かつて織田信長が美濃攻略を成し遂げた際に証明済みであった。信長は小牧山に拠点を移し、そこから犬山城、鵜沼城を次々と攻略することで、斎藤氏の本拠・稲葉山城(後の岐阜城)を陥落させている 8 。秀吉も家康も、信長の成功戦略を熟知しており、両者にとって犬山城の確保が戦の主導権を握る上で決定的な意味を持つことは自明であった。したがって、戦いの初期段階でこの要衝をどちらが制するかは、単なる一城の争奪に留まらず、戦全体の帰趨を左右する極めて高度な戦略的応酬の幕開けを意味していたのである。

第一章:戦雲の接近 ― 犬山城、無防備の刻

小牧・長久手の戦いが現実のものとなる中、羽柴秀吉は主攻を織田信雄の本拠地である伊勢方面へと向けた。天正12年(1584年)3月初旬、秀吉方の軍勢が伊勢・伊賀への侵攻を開始すると、信雄はこれに対応するため、領内の諸将に出陣を命じた 10 。この命令は、犬山城主であり信雄の筆頭家老でもあった中川定成にも下された。定成は3月3日に犬山城を発ち、伊勢の峯城の防衛へと向かった 11

信雄にとって、伊勢戦線に最も信頼の置ける重臣を投入するのは当然の判断であった。しかし、それは同時に、美濃との最前線である犬山城から、正規の城主と主戦力が不在になるという致命的な脆弱性を生み出すことになった。この戦略的判断の隙が、やがて敵に千載一遇の好機を与えることになる。

城主不在の犬山城の留守居を託されたのは、定成の伯父(叔父とも)であり、瑞泉寺塔頭龍泉院の住職であった中川清蔵主であった 13 。武士ではあるものの僧籍にあった清蔵主が守る城内の兵力は、正規の兵士ではなく、「僕婢(下男下女)などわずか二十数名」という、にわかには信じがたいほど手薄なものであったと伝えられている 14 。尾張・美濃国境の最重要拠点が、事実上の無防備状態で放置されていたのである。

この機を虎視眈々と狙っていたのが、秀吉方の将で美濃大垣城主の池田恒興であった。恒興はかつて犬山城主を務めた経験があり、城の構造、弱点、そして周辺の地理を誰よりも熟知していた 16 。秀吉への忠誠を示す戦功を挙げることは、新たな政権下での自らの地位を磐石にする上で不可欠であった。それに加え、かつて自らが治めた犬山城をその手で奪還するという個人的な動機も、この大胆な作戦を敢行する上での強力な推進力となったであろう。中川定成の不在という完璧な好機を捉えた恒興は、旧領でもある犬山城の電撃的な奪取計画を実行に移す。


表1:犬山城攻略 主要関係者一覧

陣営

人物名

役職・立場

本件における役割

羽柴方

池田 恒興

大垣城主、元犬山城主

犬山城奇襲作戦の総指揮官。

池田 元助

岐阜城主、恒興の嫡男

父と共に奇襲作戦に参加。

森 長可

金山城主、恒興の娘婿

犬山城占拠後、南下し羽黒に着陣。

伊木 忠次

伊木山城主、恒興の家臣

奇襲作戦の拠点を提供した可能性が高い。

織田・徳川方

中川 定成

犬山城主、信雄の筆頭家老

伊勢峯城へ出陣中のため、犬山城不在。

中川 清蔵主

龍泉院住職、定成の伯父

城代として留守を預かり、奮戦の末討死。

織田 信雄

織田信長の次男

連合軍の総大将。定成に伊勢出陣を命令。

徳川 家康

三河の戦国大名

連合軍の主将。犬山城落城後に小牧山へ進駐。


第二章:天正十二年三月十三日 ― 犬山城電撃攻略のリアルタイム再現

払暁から日中:偽装と集結

天正12年3月13日の早朝、池田恒興は兵約5,000を率いて大垣城を、その嫡男・元助は兵約3,000を率いて岐阜城をそれぞれ出立した 18 。表向きの名目は「東美濃の巡視」であり、敵に真の意図を悟らせないための周到な偽装工作であった 18 。両軍は美濃国内を東進し、目的地である犬山城の対岸、鵜沼周辺へと密かに兵力を集結させていった。先行した元助の部隊は、老臣・伊木清兵衛忠次を先手として布陣し、父である恒興本隊の到着を待ったとされる 18

拠点としての「鵜沼城」― 史実の再検討

多くの軍記物や二次資料では、池田恒興はこの時「鵜沼城に入城」し、そこを足掛かりに犬山城を攻めたと記されている 16 。これが、本件が「鵜沼城の戦い」と呼ばれる所以である。しかし、この通説には検討の余地がある。鵜沼城は信長の美濃攻略後、1560年代には既に廃城となっていた可能性が高い 18 。一方で、鵜沼の目と鼻の先には、恒興の信頼篤い家臣・伊木忠次の居城である伊木山城が現役の城として存在していた 18

軍事行動の拠点として、機能不全の廃城を選ぶとは考えにくい。信頼できる家臣が守り、兵糧や武具も整っている現役の城を利用する方が遥かに合理的である。したがって、実際の作戦拠点は伊木山城であり、地理的名称としてより広範な「鵜沼」が記録に残った結果、後世に「鵜沼城」がその役割を担ったと誤解されたと推察するのが妥当であろう。この出来事の実態は、鵜沼城そのものでの攻防戦ではなく、「鵜沼・伊木山城を前線基地とした犬山城攻略作戦」だったのである。

夜陰(亥の刻):雨中の渡河作戦

3月13日の夜、作戦決行の時が来た。奇しくもこの日は折からの大雨となり、増水した木曽川の轟音が、大軍勢の移動に伴う物音をかき消す絶好の隠れ蓑となった 14 。池田軍は夜陰と雨音に紛れ、亥の刻(午後10時頃)に渡河作戦を開始した 18

渡河地点について、『太閤記』などの史料には「宇留馬(うるま)の川ばた」と記されている 14 。これは鵜沼城の特定の門を指すのではなく、当時この一帯で宇留馬川とも呼ばれた木曽川の、鵜沼側の河岸一帯と解釈するのが自然である 14 。池田軍は鵜沼城跡から伊木山城跡にかけての川沿いから、おそらくは複数の舟を用いて対岸へ渡り、犬山城の西麓、当時「西谷」と呼ばれていた地区への上陸に成功したと推定される 14

深夜:電撃的な城内戦と落城

西谷に上陸した池田軍は、犬山城の裏手にあたる後門(水の手)に殺到した。この奇襲が驚くべき速さで成功した背景には、城内の内通者の存在があった可能性が極めて高い 18 。元城主であった恒興は、城下の町民や旧臣たちとの間に依然として繋がりを保っており、事前の調略によって門を開ける協力者を得ていたと考えられる 18

内通者の手引きで城内になだれ込んだ池田軍に対し、城代の中川清蔵主は決死の覚悟で立ち向かった。わずか二十数名の手勢を率い、自ら十文字槍を振るって西谷から城へと続く坂口(現在の城前広場付近)で敵軍を迎え撃った 14 。その奮戦は凄まじかったと伝わるが、圧倒的な兵力差の前には為す術もなかった。激戦の末、清蔵主はついに力尽き、その場で討ち死にした。享年58であった 14

指導者を失った城兵は総崩れとなり、難攻不落とされた後堅固の城・犬山城は、わずか一晩にして、ほとんど組織的な抵抗もできないまま陥落した 18 。この電撃的な勝利は、情報戦(敵主力の不在把握)、地理的知識(元城主の地の利)、諜報・調略(内通者の確保)、気象条件の利用(雨音による隠蔽)、そして迅速な兵力展開という、複数の成功要因が奇跡的に噛み合った結果であった。


表2:犬山城攻略 時系列詳細表(天正12年3月13日)

時刻(推定)

池田軍の行動

犬山城の状況

払暁(午前5-6時)

大垣城・岐阜城より「東濃巡視」を名目に出陣。

城主不在。中川清蔵主が少数の手勢で留守を預かる。

日中(正午~)

鵜沼・伊木山城周辺に全軍集結完了。渡河作戦の最終確認。

敵軍の接近に気づかず、平穏な状態が続く。

夜(午後10時頃)

大雨の音に紛れ、木曽川の渡河を開始。犬山城西麓「西谷」に上陸。

城外からの喊声(鬨の声)に、城内は突如混乱に陥る。

深夜(午後11時~)

内通者の手引きで城内に突入。主力部隊が城郭中枢部へ殺到。

中川清蔵主が西谷坂口で迎撃するも、奮戦の末に討死。犬山城陥落。


第三章:戦局の拡大 ― 一つの奇襲が点火した尾張の戦線

犬山城落城の衝撃と家康の対応

天正12年3月13日の夜に起きた犬山城の電撃的な陥落は、織田・徳川連合軍に大きな衝撃を与えた。当時、清須城に到着していた徳川家康にとって、尾張における最も重要な橋頭堡をいとも容易く敵に奪われたことは、戦全体の戦略を根本から見直さざるを得ない事態であった 10 。この一報を受け、家康は迅速に行動を開始する。3月15日、信雄と共に出陣すると、犬山城の南約10kmに位置する小牧山に目を付けた。そして3月18日には小牧山城を占拠し、これを本陣と定めた 1 。これは、犬山城を拠点とする羽柴軍の南下を阻止し、尾張北部に新たな防衛線を構築するための、極めて的確かつ迅速な対応であった。

緒戦の拡大:羽黒八幡林の戦い

犬山城を確保した羽柴方は、その勢いを駆ってさらに戦線を南へ押し広げようと試みた。池田恒興の娘婿であり、勇将として知られた美濃金山城主・森長可が兵3,000を率いて南下し、3月16日には犬山南方の羽黒八幡林に布陣した 10 。これは小牧山への圧力を強めるための前進であった。

しかし、家康はこの動きを即座に察知。酒井忠次、榊原康政ら精鋭5,000の兵を派遣し、3月17日の未明、徳川軍は羽黒の森勢に奇襲を仕掛けた(羽黒八幡林の戦い) 21 。不意を突かれた森勢は奮戦するも、側面からの鉄砲隊の攻撃などもあり大敗。300余の死者を出して金山城へと敗走した 21 。この羽黒での勝利により、家康は小牧山城周辺の安全を確保し、土塁や砦の構築といった本格的な防御陣地固めに着手することができた。犬山城の奇襲で先手を取った羽柴方に対し、徳川方が野戦での強さを見せつけて反撃する。この緒戦における一進一退の攻防は、両軍の力量が拮抗していることを示しており、戦いが長期化することを予感させた。

秀吉本隊の到着と両軍の対峙

緒戦が繰り広げられる中、3月21日に大坂城を出発した羽柴秀吉本隊が、ついに戦場へと到着する。秀吉は3月27日に犬山城に入城し、前線基地の確保を確認 21 。その後、全軍の指揮を執るための本陣を、犬山城の南、小牧山とのほぼ中間地点に位置する楽田城へと移した 24

これにより、北の楽田城に陣取る秀吉と、南の小牧山城に陣取る家康が、わずか数kmの距離を挟んで睨み合うという、戦の基本構図が完成した。ここから両軍は、互いの本陣を窺いつつ、その中間に二重堀砦、岩崎山砦(羽柴方)、宇田津砦、蟹清水砦(徳川方)といった無数の砦や土塁を構築し、戦線は膠着状態へと移行していく 21

池田恒興による犬山城の奪取という一つの戦術的行動は、結果として家康を小牧山に引きずり出し、小牧・長久手の戦いの主戦場をこの尾張北部の地に固定化させる決定的な要因となった。一つの奇襲が、その後の数ヶ月にわたる壮大な「砦戦」の舞台を設定したのである。

結論:歴史における「鵜沼城の戦い」の再定義

本報告を通じて検証した通り、通称「鵜沼城の戦い」は、鵜沼城そのものを舞台とした攻防戦ではなく、「鵜沼・伊木山城を前線基地とした犬山城電撃攻略作戦」と再定義するのが最も史実に即している。この呼称は、事件の戦術的本質をより正確に捉えるものである。

この作戦の成功は、小牧・長久手の戦いにおける緒戦として、極めて重大な意味を持っていた。羽柴秀吉方は、この勝利によって尾張国内に動かしがたい戦略的橋頭堡を確保した 18 。これにより、美濃からの補給路を安全に確保しつつ、大軍を尾張国へと展開させることが可能となった。この緒戦の勝利なくして、その後の楽田城への本陣設置と、家康との大規模な対峙はあり得なかったであろう。

池田恒興の鮮やかな戦術的勝利は、徳川家康を小牧山へと誘引し、戦の主戦場を固定化させた。これは、兵力で優位に立つ秀吉にとって、家康の得意とする決戦を避け、長期の陣地戦に持ち込む上で有利な状況を作り出した。しかし、この緒戦でのあまりに鮮やかな成功体験が、後の「三河中入り作戦」という、より大胆で危険な作戦を恒興に発案させる一因となった可能性は否定できない。結果として、その作戦の失敗により恒興自身は長久手の地で討死することになる 17

戦後、関係者の運命は分かれた。討死したと長く伝えられてきた犬山城主・中川定成は、実際には生き延び、戦後の和睦によって信雄に返還された犬山城主に復帰している 11 。一方で、この作戦の拠点として歴史の表舞台に最後の姿を見せた鵜沼城は、これを最後に完全に廃城となった 16

最終的に小牧・長久手の戦いは、戦術的には家康が勝利し、戦略的には秀吉が勝利を収めたと評価される 3 。その長きにわたる戦いの全ての始まりは、天正12年3月13日の夜、雨の木曽川を渡った池田恒興の果断な決断にあった。本件は、戦国時代における一つの奇襲作戦の成功例として、そして、一つの戦術的行動が戦全体の戦略的構図を決定づけた稀有な事例として、歴史に記憶されるべきである。

引用文献

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  2. 「小牧・長久手の戦い」は、誰と誰が戦った? 場所や経緯もあわせて解説【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/470311
  3. 徳川家康の「小牧・長久手の戦い」|織田信雄・家康の連合軍と秀吉が対決した合戦を解説【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1130498
  4. Battles of the Warring States Period | Search Details https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R1-00936.html
  5. 小牧・長久手の戦い年表 - 犬山文化遺産ナビ https://inuyama-tabi.com/data/download/100/3/shirokosenjo.pdf
  6. 織田信長のイメージが変わる?大火に焼かれた犬山城と攻略の痕跡を辿ってみた - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/106458/
  7. 犬山城について | 国宝犬山城 https://inuyama-castle.jp/about/
  8. 小牧山城跡~織田信長が美濃攻めの拠点とした城~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/owari/komakiyama.html
  9. 三英傑が手にした犬山城 - なごや発あのまちこのまち https://www.meitetsu.co.jp/pr/co-machi/contents1/monogatabi.html
  10. 1584年 小牧・長久手の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1584/
  11. 中川定成(なかがわさだなり)【小牧・長久手の戦い】 | 犬山城を ... https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/nakagawa_sadanari/
  12. 【小牧・長久手の戦い/犬山城の戦い】②犬山城主・中川定成は伊勢へ出陣中だった https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/battle-of-komaki-nagakute-nakagawa-sadanari/
  13. 宛字・借字は底本のまゝにした。 - 一、変体仮名・合字は通行の平仮名に改めた。また、片仮名も、 定のものを除いて https://nakanihon.ac.jp/wp-content/themes/nac/doc/college/ronso/nac_ronso_010-11.pdf
  14. 中川清蔵主(なかがわせいぞうす)/犬山城の戦いで奮戦した男 ... https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/nakagawa_seizosu/
  15. 犬山城(愛知県犬山市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/4391
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  17. 長久手古戦場史跡巡り:秀吉と家康が唯一正面衝突した戦い|社員がゆく|Nakasha for the Future https://www.nakasha.co.jp/future/report/battle-of-nagakute.html
  18. 【小牧・長久手の戦い/犬山城の戦い】①池田恒興、犬山城を奪う! https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/battle-of-komaki-nagakute-ikeda-tsuneoki/
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  22. 【小牧・長久手の戦い】 羽黒・八幡林の戦い | 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/komaki-nagakute_war/battle-hachimanbayashi/
  23. 【羽柴秀吉VS徳川家康 小牧・長久手の戦いを知る】第1回 戦いの概要 - 城びと https://shirobito.jp/article/1417
  24. 羽柴秀吉VS.徳川家康 小牧・長久手の戦を知る 第4回 羽柴軍の城・砦① https://shirobito.jp/article/1552
  25. 楽田城跡 - 犬山市 https://www.city.inuyama.aichi.jp/kurashi/bunka/1001063/1011684/1011685.html
  26. 「小牧・長久手の合戦」関連年表 http://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/9161.html
  27. 鵜沼城(うぬまじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%B5%9C%E6%B2%BC%E5%9F%8E-179749