最終更新日 2025-08-25

黒井城の戦い(1579)

明智光秀、丹波の赤鬼・赤井直正の黒井城を攻略。一度は敗れるも、戦略転換し八上城を兵糧攻め。直正病死後、黒井城を陥落させ丹波を平定。この功績は光秀の栄光となるが、本能寺の変へと繋がる。

丹波攻防史:明智光秀による黒井城攻略の全貌(天正七年)

序章:天正の丹波、織田信長の視線

戦国時代の日本において、丹波国は極めて重要な戦略的価値を持つ地域であった。京の都の北西に位置し、山陰道を通じて西国へ、若狭街道を介して北国へと繋がるこの地は、まさに畿内の喉元を扼する要衝であった 1 。天下布武を掲げ、日本の中心地たる畿内の完全掌握を目指す織田信長にとって、丹波の平定は、西国・北国の敵対勢力からの脅威を遮断し、自身の背後を固めるための絶対的な必須条件であった。この地を支配下に置くことは、単なる領土拡大に留まらず、信長の描く新たな天下秩序を確立するための、避けては通れない道程だったのである。

天下布武と丹波国の戦略的価値

丹波は四方を山々に囲まれた盆地が点在する地勢であり、古くから独立性の高い国人衆が割拠していた。彼らは、室町幕府の権威が揺らぐ中で自立を強め、必ずしも信長のような新興勢力に一枚岩で従うわけではなかった。情勢次第では容易に反旗を翻す危険性を常に内包しており、信長はこの不安定要素を根本から排除し、織田家の直接支配下に組み込むことを企図した 1 。信長の天下統一事業とは、中央(畿内)の絶対的な安定を基盤とするものであり、その「裏口」とも言える丹波が敵対勢力の手に残ることは、致命的な弱点を晒し続けることに他ならなかった。したがって、丹波を武力で制圧し、信長の秩序下に組み込むことは、物理的な安全保障の確保のみならず、旧来の幕府体制から信長の新体制への移行を内外に知らしめる、極めて象徴的な政治的行為でもあった。

反信長勢力の温床

信長と対立し、京を追われた室町幕府第十五代将軍・足利義昭の存在が、丹波の情勢をさらに複雑にした。丹波の国人衆の多くは、旧主である義昭に依然として忠誠心や同情を抱いており、義昭が発した「信長包囲網」の呼びかけに呼応する土壌があった 2 。特に、氷上郡の黒井城を拠点とする赤井(荻野)氏や、多紀郡の八上城を本拠とする波多野氏といった有力国人は、反信長勢力の中核を担う存在となり、信長にとって看過できぬ脅威となっていたのである 2 。天正三年(1575年)の時点では、丹波国人の多くはまだ信長に恭順の意を示していたが、赤井直正が隣国但馬の山名祐豊と抗争し、山名氏が信長に救援を要請したことで、状況は一変する 2 。信長が山名氏に加担したことは、丹波国人衆の信長に対する不信感を決定的なものとし、丹波全土が反信長の気運に染まる大きな要因となった。

明智光秀という将

この困難極まる丹波攻略の総大将として信長が白羽の矢を立てたのが、腹心・明智光秀であった。光秀の任命は、信長の卓越した人事戦略の現れであった。光秀は単なる武勇一辺倒の将ではない。かつて足利義昭に仕えた経験から、朝廷や幕府といった旧来の権威との交渉術に長け、和歌や茶の湯にも通じた高い教養を持つ文化人でもあった 5 。この洗練された政治的・外交的手腕は、伝統と格式を重んじる丹波の複雑な国人衆を切り崩し、懐柔する上で不可欠な能力であった。

一方で、光秀は信長の実力主義の下で頭角を現した優れた軍事司令官でもあった。金ヶ崎の退き口での殿軍における活躍や、比叡山焼き討ちでの功績により、近江坂本城主という大身に抜擢されるなど、着実に実績を積み重ねていた 7 。特に、最新兵器である鉄砲の運用に長け、また築城の名手としても知られていた 4 。信長は光秀に対し、旧体制に通じるその経歴を活かした「懐柔(外交・交渉)」と、織田家屈指の司令官としての「殲滅(軍事)」という、二つの役割を同時に期待したのである。光秀は、旧世界と新世界の橋渡し役であると同時に、旧世界を破壊する実行者という、極めて矛盾した重責を担って丹波の地へ赴くこととなった。

年月 (西暦)

主要な出来事

天正三年 (1575) 10月

明智光秀、丹波へ侵攻。第一次黒井城の戦いが始まる。

天正四年 (1576) 1月

波多野秀治の裏切りにより明智軍が敗走。

天正五年 (1577)

光秀、丹波再侵攻を開始。亀山城などを攻略し、拠点とする。

天正六年 (1578) 3月

「丹波の赤鬼」赤井直正が病死。

天正六年 (1578) 9月

光秀、八上城の本格的な包囲を開始。金山城を築城。

天正七年 (1579) 6月

八上城が開城。波多野兄弟は処刑される。

天正七年 (1579) 8月9日

第二次黒井城の戦い。黒井城が落城し、丹波平定が完了する。

第一部:最初の激突 ― 丹波の赤鬼と光秀の蹉跌(天正三年~天正四年)

天正三年(1575年)、織田信長より丹波平定の命を受けた明智光秀は、満を持して丹波国へと軍を進めた。それは、後に彼の運命を大きく左右することになる、長く困難な戦いの始まりであった。

天正三年(1575年):丹波侵攻開始と黒井城包囲

同年10月、光秀は丹波へ侵攻を開始した。当初、戦況は光秀に有利に進んだ。丹波国人衆の過半数を味方につけることに成功し、その軍勢を率いて、反信長の旗幟を最も鮮明にしていた赤井(荻野)直正の居城・黒井城へと迫った 2 。光秀が採用した戦術は、当時の攻城戦における正攻法ともいえるものであった。難攻不落の山城である黒井城に力攻めを挑むのではなく、城の周囲に複数の付城(砦)を築いて包囲網を形成し、兵糧や物資の補給を断つことで敵を干上がらせる、いわゆる兵糧攻めを狙ったのである 12

この包囲戦は2ヶ月以上に及び、光秀の戦略は完全に成功しているかに見えた。黒井城内は次第に兵糧が欠乏し、落城はもはや時間の問題であると、誰もが楽観視していた 11 。しかし、城内には不屈の闘志を燃やす一人の猛将がいた。

「丹波の赤鬼」赤井直正の抵抗

黒井城主・赤井直正は、その武勇から「丹波の赤鬼」と敵味方から恐れられるほどの人物であった 11 。彼はこの少し前、但馬の山名氏を破り、名城として知られる竹田城を奪取するなど、その勢いはまさに旭日のごときものであった 3 。追い詰められた絶望的な状況下にあっても、直正の心は全く折れていなかった。彼は情報戦の重要性を深く認識しており、領内に「シノビ」を放って情報収集に努めていた可能性が指摘されている 14 。そして水面下では、光秀の味方についているはずの丹波第二の有力者、波多野秀治との間に、起死回生の密約を結んでいたのである 14 。光秀の軍事的合理性に基づいた包囲網は、丹波という土地が持つ、目に見えぬ「絆」の前に、脆くも崩れ去る運命にあった。

天正四年(1576年)正月:波多野秀治の離反と明智軍の総崩れ

年が明けた天正四年正月十五日、戦況は突如として、そして劇的に暗転する。光秀軍の一翼を担い、黒井城攻めに参加していた八上城主・波多野秀治が、何の前触れもなく織田方を裏切り、包囲する光秀軍の背後を急襲したのである 4

丹波の名門である波多野氏は、信長という尾張出身の新興勢力によって丹波が支配されることを、本心では快く思っていなかった 12 。彼らにとっては、目先の利害よりも「丹波は丹波の者で治める」という地域的な共同体意識が優先されたのである。表向きは信長に従いつつも、虎視眈々と反撃の機会を窺っていたのだ。

この予期せぬ裏切りにより、光秀軍は完全に挟撃される形となった。前面には、城門を開いて打って出てきた赤井直正率いる精鋭、背後には寝返った波多野軍の猛攻。完璧な包囲陣を敷いていたはずの光秀軍は、一転して自らが包囲殲滅される側に立たされた。軍勢は総崩れとなり、壊滅的な打撃を受けて敗走を余儀なくされた 12 。この赤井直正の深謀遠慮と、波多野秀治の離反が一体となった見事な挟撃策は、後に「赤井の呼び込み戦法」として長く語り継がれることになる 4

敗走と教訓

光秀は、家臣の奮戦により九死に一生を得て京へと逃げ延びた。この敗走の際、家臣の堀部兵太夫が光秀の影武者として討死したという逸話も残っている 11 。この完膚なきまでの敗北は、光秀にとって、織田家中で着実に築き上げてきた名声に泥を塗る、大きな蹉跌であった。彼は、丹波国人衆の利害関係という軍事的な合理性のみを判断材料とし、その根底に流れる地域的な連帯感、すなわち「よそ者」に対する強い抵抗の意志を見誤ったのである。

この敗戦後、光秀は信長の命により石山本願寺攻めへと転戦するが、心労が祟ったのか陣中で病に倒れ、さらに一説には最愛の妻・煕子を病で亡くすなど、公私にわたって苦難の時期を迎えることとなった 11 。しかし、この手痛い失敗こそが、後の丹波攻略において、彼の戦略をより冷徹で、より近代的なものへと昇華させる貴重な教訓となったのである。

第二部:雌伏の時 ― 光秀の丹波経略と包囲網の構築(天正五年~天正七年春)

第一次黒井城の戦いでの手痛い敗北は、明智光秀の丹波攻略方針を根本から変えさせた。彼は感情的な雪辱戦に走ることなく、冷静に敗因を分析し、より周到で、より確実な戦略を練り上げていく。それは、武将個人の武勇に頼る戦国乱世の戦いから、兵站と築城、そして時間を味方につけた近世的な消耗戦への移行を意味していた。

戦略の転換:直接対決から蚕食作戦へ

天正五年(1577年)、織田信長は再び光秀に丹波攻略を命じた 11 。一度目の失敗から深く学んだ光秀は、戦略を180度転換した。黒井城や八上城といった巨大な堅城にいきなり取り付くという短期決戦を避け、まず周辺に点在する支城を一つずつ確実に攻略し、両城を徐々に裸にしていく「蚕食作戦」へと切り替えたのである 4 。この長期戦を支えるため、光秀は丹波の入り口にあたる亀山城(現在の亀岡市)を攻略・大改修し、丹波平定のための恒久的な本拠地とした 11 。これにより、腰を据えた作戦展開を可能にする兵站基地を確保し、丹波全土に睨みを利かせることが可能となった。

拠点築城と各個撃破:金山城の役割

光秀の新たな戦略の白眉と言えるのが、天正六年(1578年)九月頃に築城した金山城の存在である 19 。この城は、赤井氏の勢力圏である氷上郡と、波多野氏の勢力圏である多紀郡の、まさに中間地点の郡境に築かれた 4 。金山城の最大の目的は、第一次合戦で光秀を敗北に追い込んだ赤井・波多野両勢力の物理的な連携を、完全に遮断することにあった 20 。事実、金山城の本丸からは西に黒井城、東に八上城を同時に眺望することができ、両者の動きを常に監視し、分断する上で、これ以上ない戦略拠点であった 20 。光秀はこの金山城を拠点として、籾井城、八木城、園部城といった丹波各地の城を次々と攻略していった 11 。これにより、かつて光秀を苦しめた丹波国人衆の連携は寸断され、赤井・波多野両氏は徐々に孤立していくことになった。

「丹波の赤鬼」の死:天正六年三月

光秀の丹念な経略が着々と実を結びつつあった天正六年三月、丹波の反織田勢力にとって決定的な悲劇が訪れる。あれほどの武勇を誇り、丹波国人衆の精神的支柱であった「丹波の赤鬼」赤井直正が、病によりこの世を去ったのである 4 。直正は、赤井一族の当主である甥の忠家を補佐し、家中を実質的に統率するカリスマ的指導者であった 11 。彼の死は、黒井城の軍事的な防衛力を低下させただけでなく、「赤鬼殿と共に信長と戦う」という丹波国人衆全体の抵抗意欲、すなわち戦いの大義名分そのものを著しく削ぐ結果となった。抵抗の象徴を失った国人衆は、光秀の巧みな調略や容赦ない攻撃の前に、次々と降伏していった。

八上城の兵糧攻め:一年半に及ぶ包囲戦

赤井直正の死を絶好の好機と見た光秀は、天正六年九月から、第一次合戦における裏切りの張本人、波多野秀治が籠る八上城への本格的な包囲を開始した 23 。光秀は、かつての失敗の教訓から性急な力攻めを完全に放棄し、八上城の周囲に幾重にも付城を築き、兵糧や援軍の補給路を完全に遮断する徹底した兵糧攻めを展開した 12

この執拗な包囲は、実に一年半近くにも及んだ。城内はやがて凄惨を極め、兵糧は完全に尽き、城兵たちは雑草や牛馬の死体を食らって飢えをしのいだが、それも尽きると餓死者が続出したと記録されている 12 。光秀は、武力ではなく、時間と兵站という近代的な力で、波多野氏の息の根を確実に止めようとしていたのである。

攻略年 (西暦)

攻略された主要城郭

備考

天正五年 (1577)

丹波亀山城、八木城

光秀、丹波攻略の本拠地を確保。

天正五年 (1577)

籾井城

蚕食作戦の開始。

天正六年 (1578)

園部城

波多野氏の勢力圏をさらに削る。

天正六年 (1578)

(金山城築城)

赤井・波多野両氏の分断を目的とする。

天正七年 (1579)

氷上城

八上城の重要支城。

天正七年 (1579)

八上城

一年半に及ぶ包囲の末、開城。

天正七年 (1579)

宇津城

黒井城攻略の最終準備段階。

第三部:黒井城、落つ ― 丹波平定の最終局面(天正七年夏)

雌伏の時を経て、明智光秀の丹波経略は最終段階へと移行した。緻密な戦略によって外堀は完全に埋められ、かつて光秀を敗走させた丹波の双璧、波多野氏と赤井氏は、今や滅亡の淵に立たされていた。天正七年(1579年)の夏、丹波の空は、一つの時代の終わりを告げる戦雲に覆われていた。

天正七年(1579年)六月:八上城開城、波多野兄弟の末路

一年半に及ぶ壮絶な兵糧攻めの末、天正七年六月一日、八上城はついに限界に達し、城主・波多野秀治、秀尚兄弟らは降伏、開城した 25 。光秀が助命を約束したとも伝わるが(光秀が母を人質に出したという有名な逸話は、後世の創作である可能性が高い 27 )、兄弟は安土城へと送られ、主君・織田信長の非情な命令により、京の町を引き回された上、磔刑に処された 12 。この見せしめともいえる苛烈な処置は、丹波の他の国人衆に信長への抵抗がいかなる結末を迎えるかを強烈に知らしめるものであった。それは、黒井城に籠る赤井一族への、無言の最後通牒でもあった。

七月:光秀、軍を再編し黒井城へ。最後の包囲網が完成する

丹波における最大の懸念であった波多野氏を完全に滅ぼした光秀は、休む間もなく軍を再編し、丹波平定の総仕上げとして、全軍を黒井城へと差し向けた 23 。この時点での黒井城は、もはや風前の灯火であった。頼みとしていた波多野軍は存在せず、周辺の支城はことごとく光秀によって攻め落とされ、完全に孤立無援の状態に陥っていた 11 。赤井軍の兵力は、明智軍の五分の一にも満たない約1,800名であったと推定され、対する明智軍は約1万の大軍であった 11 。勝利の可能性は、客観的に見て皆無であった。

八月初旬:総攻撃の準備と赤井方の士気

光秀は黒井城を完全に包囲し、総攻撃の準備を着々と進めた。一方、城内の赤井軍の士気は著しく低下していた。精神的支柱であった赤井直正を一年以上前に失い、後継の赤井忠家では家中をまとめきれずにいた 11 。波多野兄弟の悲惨な末路も伝わり、城内には絶望的な空気が漂っていたと考えられる。

しかし、黒井城そのものは、猪ノ口山全体を要塞化した、天然の地形を巧みに利用した難攻不落の山城であった 31 。三方に伸びる尾根には砦が配され、本丸周辺は野面積みの石垣で固められており、その防御力は決して侮れるものではなかった 31 。忠家と城兵たちは、圧倒的に不利な状況下でも、赤井家最後の意地を懸けて籠城を続ける覚悟を決めていた。

八月九日、決戦の日:時系列による描写

天正七年八月九日、丹波平定の最後を飾る戦いの火蓋が切られた。この日の戦闘は、もはや双方の雌雄を決する「合戦」というよりも、光秀の周到な戦略によって既に「詰み」の状態に追い込まれた相手に対し、とどめを刺すための冷徹な「処刑」に近いものであった。

  • 【早朝~午前】
    夜が明けると同時に、光秀は全軍に総攻撃を命令した。明智軍は大手口、搦手口など、城へ通じる複数の登城ルートから、鬨の声を上げて一斉に攻撃を開始した 18。斎藤利三、明智秀満といった光秀配下の歴戦の重臣たちが各部隊を指揮し、怒涛のごとく城の防衛線に襲いかかった。対する赤井方も、必死の防戦を試みる。矢や鉄砲が飛び交い、斜面では激しい白兵戦が繰り広げられた。
  • 【午前~午後】
    しかし、五倍以上ともいわれる圧倒的な兵力差はいかんともしがたかった 11。明智軍は一部隊が足止めされても、すぐに後続の部隊が攻めかかる波状攻撃を展開。特に、光秀が得意とする鉄砲隊を効果的に運用した攻撃は、数で劣る城兵の戦意と抵抗力を着実に削り取っていった。昼を過ぎる頃には、外郭に設けられた複数の曲輪が次々と突破され、明智軍は城の中枢である本丸へと迫っていった。
  • 【午後~夜】
    午後になると、城内の各所で火の手が上がり始めた。もはや抵抗も限界に達し、組織的な防衛は不可能となった。これ以上の籠城は無意味な死を招くだけであると判断した城主・赤井忠家は、ついに城を放棄し、少数の供回りと共に城から脱出、逃亡の途についた 11。主を失った城は、同日夜、ついに完全に陥落した 18。かつて光秀を完膚なきまでに打ち破った堅城・黒井城は、こうして歴史の舞台から姿を消したのである。

明智軍

赤井軍

総大将/城主

明智光秀

赤井忠家

主要部将

斎藤利三、明智秀満、藤田行政、溝尾茂朝など

赤井幸家、荻野直常など

推定兵力

約10,000

約1,800

終章:丹波平定がもたらしたもの ― 光秀の栄光と本能寺への道

天正七年八月九日の黒井城落城をもって、足掛け五年に及んだ明智光秀による丹波平定事業は、ついに完了した。この大事業の成功は、光秀自身の地位を不動のものとすると同時に、織田信長の天下統一事業を大きく前進させる画期的な出来事となった。しかし、その栄光の裏には、三年後の本能寺の変へと繋がる、深く暗い影もまた、落とされていたのである。

戦後処理と丹波統治

丹波一国を手中に収めた光秀は、すぐさま戦後処理と領国経営に着手した。落城した黒井城には、腹心の重臣である斎藤利三を城代として配置し、氷上郡一帯の統治を委ねた 12 。後に三代将軍・徳川家光の乳母として絶大な権勢を振るうことになる春日局(お福)は、この斎藤利三の娘として、黒井城下で生まれたと伝えられている 33

光秀自身は、丹波支配の新たな拠点として、丹波中央部の横山城を大規模に改修し、「福知山城」と改名した 10 。そして、城下町の整備や、由良川の氾濫を防ぐための治水事業(現在も「明智藪」としてその名残を留める)を行うなど、優れた行政手腕を発揮し、戦乱で荒廃した丹波の復興と安定に尽力した 5 。丹波平定は、光秀を単なる信長の方面軍司令官から、自らの裁量で領国を経営する「国主(大名)」へと変貌させた、彼のキャリアにおける決定的な転換点であった。この統治者としての経験が、彼に大きな自信と、あるいは信長とは異なる独自の天下観を抱かせた可能性は否定できない。

「天下の面目」:信長からの激賞と光秀の地位向上

信長は、この困難な丹波平定を成し遂げた光秀の功績を、「日向守(光秀)の働き、天下の面目をほどこし候(光秀の働きは、織田家の名誉を天下に示した)」と、最大限の言葉で激賞した 4 。この大功により、光秀は丹波一国を所領として与えられ、織田家臣団の中でも羽柴秀吉と並び称される、屈指の実力者としての地位を不動のものとした 6 。丹波平定は、まさしく光秀の人生における栄光の頂点であった。

丹波平定の広範な影響と本能寺の変への伏線

光秀による丹波平定は、信長包囲網の残党に大きな衝撃を与えた。丹波からの支援を期待できなくなった摂津の荒木村重や播磨の別所長治といった反乱勢力は急速に孤立し、その滅亡を早めた。さらに、長年にわたり信長を苦しめ続けた石山本願寺も、丹波という後背地を失ったことで追い詰められ、翌天正八年の講和(事実上の降伏)へと繋がった 34 。丹波平定は、信長包囲網を内側から崩壊させる、決定的な一撃となったのである。

黒井城の落城は、戦国時代の「地域主義の終わり」と、中央集権的な「天下統一時代の本格的な始まり」を告げる象徴的な出来事でもあった。赤井直正や波多野秀治に代表される、土地に根差した伝統的な国人領主たちが、信長という中央権力の代理人である光秀の組織的・圧倒的な軍事力の前に屈したことは、もはや一国単位の武勇や団結では、信長の掲げる「天下」という大きな枠組みには抗えないという事実を全国に示した。

しかし、この栄光の裏で、悲劇の種子もまた蒔かれていた。長期にわたる過酷な戦いは、光秀と彼の家臣団を心身ともに疲弊させた。また、波多野氏を謀殺したとされる(真偽は不明)ことへの怨恨や、丹波国人衆との間に生まれたであろう確執は、光秀の心に重くのしかかった可能性がある 29 。そして、丹波平定という大事業を成し遂げた直後、その丹波を取り上げられ、未だ毛利氏の勢力下にある出雲・石見への国替えを命じられたことは、光秀にとって受け入れがたい仕打ちであったかもしれない 36 。これらの要因が複雑に絡み合い、三年後の天正十年六月二日、主君信長を討つという、日本史上最大の謀反「本能寺の変」へと繋がっていったのである。丹波平定は、光秀に最大の栄光をもたらすと同時に、彼を破滅へと導く道の始まりでもあった。

引用文献

  1. 波多野秀治(はたの ひではる) 拙者の履歴書 Vol.116~丹波守りし孤高の城主 - note https://note.com/digitaljokers/n/nddb040d90011
  2. 丹波戦国史 第四章 ~明智光秀の丹波平定~ https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanbasengoku4.html
  3. 黒井城 - 兵庫県 https://hyogo.mytabi.net/kuroi-castle.php
  4. ゆかりの地を歩5〈春日町〉 - 丹波市 https://www.city.tamba.lg.jp/material/files/group/33/74982.pdf
  5. 実は正義の人だった?明智光秀ってどんな武将? - テンミニッツTV https://10mtv.jp/pc/column/article.php?column_article_id=2496
  6. 【解説マップ】明智光秀はどんな人?性格や生涯など図解でわかりやすく - MindMeister(マインドマイスター) https://mindmeister.jp/posts/akechimitsuhide
  7. 織田信長と明智光秀|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか?【戦国三英傑の採用力】 - note https://note.com/toshi_mizu249/n/n370d4bc54336
  8. 明智光秀の歴史年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/mitsuhide_history/
  9. 明智光秀の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/32379/
  10. 明智光秀とはどんな武将? 本能寺の変が起こるまでに何があったのか【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/332769
  11. 「黒井城の戦い(1575年/1579年)」明智光秀が丹波平定で苦しめられた赤井氏との戦い https://sengoku-his.com/854
  12. 光秀の人生と戦いの舞台を歩く 第4回|光秀に抗った丹波国人たちの城【黒井城・八上城など】 https://shirobito.jp/article/1167
  13. 「光秀に勝った男」描く ”赤鬼”赤井直正を小説に 「ロマン感じて」 - 丹波新聞 https://tanba.jp/2022/03/%E3%80%8C%E5%85%89%E7%A7%80%E3%81%AB%E5%8B%9D%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%94%B7%E3%80%8D%E6%8F%8F%E3%81%8F%E3%80%80%E8%B5%A4%E9%AC%BC%E8%B5%A4%E4%BA%95%E7%9B%B4%E6%AD%A3%E3%82%92%E5%B0%8F/
  14. 「忍び」抱え情報戦制す? 光秀破った「赤鬼」赤井直正 武田勝頼 ... https://tanba.jp/2020/03/%E3%80%8C%E5%BF%8D%E3%81%B3%E3%80%8D%E6%8A%B1%E3%81%88%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%88%A6%E5%88%B6%E3%81%99%EF%BC%9F%E3%80%80%E5%85%89%E7%A7%80%E7%A0%B4%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8C%E8%B5%A4%E9%AC%BC%E3%80%8D/
  15. 明智光秀・丹波攻めのすべて【にっぽん歴史夜話36】 - サライ.jp https://serai.jp/hobby/1015063
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  24. 戦国の世と丹波 https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/h25tnb.pdf
  25. 表(外)黒井城 [最新] - 丹波市 https://www.city.tamba.lg.jp/material/files/group/50/58819.pdf
  26. 黒井城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E4%BA%95%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  27. 「八上城の戦い(1578-79年)」光秀を裏切った波多野氏に勝利 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/853
  28. 【公式】明智光秀と母・お牧にまつわる伝説 | 明智光秀×波多野秀治 丹波篠山・八上城ものがたり https://kirin-tambasasayama.jp/tragic/
  29. 本能寺の変の謎は、丹波篠山にあり!大河ドラマ「麒麟がくる」と丹波篠山市のゆかり https://tourism.sasayama.jp/kiringakuru-tambasasayama/
  30. 明智光秀は何をした人?「敵は本能寺にあり。信長の有能な参謀が謀反を起こした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/mitsuhide-akechi
  31. 【続日本100名城・黒井城編】明智光秀を苦しめた「丹波の赤鬼」が ... https://shirobito.jp/article/502
  32. 明智光秀の仕掛けた戦いに立ち向かった「丹波の赤鬼」と「黒井城」 『歴パ!ひょうご地域遺産バトンリレー』(7) https://jocr.jp/raditopi/2021/10/08/393169/
  33. 黒井城跡/丹波市ホームページ https://www.city.tamba.lg.jp/soshiki/shakaikyoikubunkazaika/gyomuannai/7/1/1922.html
  34. 明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか?なぜ本能寺の変を起こしたのか? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/53340/
  35. 光秀苦しめた武将・波多野秀治とは - 丹波新聞 https://tanba.jp/2018/08/%E5%85%89%E7%A7%80%E8%8B%A6%E3%81%97%E3%82%81%E3%81%9F%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%83%BB%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E7%A7%80%E6%B2%BB%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%8F%E5%85%B5%E5%BA%AB%E3%83%BB%E7%AF%A0%E5%B1%B1/
  36. 本能寺の変/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7090/