三刀屋城
出雲の要衝、三刀屋城は三刀屋氏の拠点。尼子・毛利の狭間で揺れ動き、毛利元就の出雲侵攻を兵站面で支えた。近世城郭への改修計画もあったが、松江城築城で廃城となった。
出雲の要衝・三刀屋城 ―鎌倉、戦国、近世の狭間で―
序章:出雲の要衝、三刀屋城―忘れられた戦略拠点―
島根県雲南市三刀屋町にその痕跡を留める三刀屋城は、単なる一地方の城跡として語られるべき存在ではない。鎌倉時代初期の承久3年(1221年)に築城されて以来、戦国時代の終焉を経て近世初頭に至るまでの約370年間、この城は出雲国の政治・軍事史、ひいては中国地方全体の勢力図の変遷において、極めて重要な役割を果たした戦略拠点であった 1 。その歴史は、城主であった三刀屋氏一族の栄枯盛衰の物語であると同時に、尼子氏や毛利氏といった巨大勢力の興亡を映し出す鏡でもある。
三刀屋城の地理的条件は、その戦略的価値を何よりも雄弁に物語っている。城は出雲国のほぼ中央に位置し、斐伊川水系を掌握する要地に築かれている 2 。さらに重要なのは、中国山地を越えて山陽地方とを結ぶ出雲街道の結節点にあり、交通と物流の動脈を扼する位置にあったことである 2 。この立地こそが、三刀屋城を時代の支配者たちが常に重要視し、時には激しい争奪戦の舞台となった根本的な理由であった。
しかし、三刀屋城の歴史を深く探求する上で不可欠な視点は、この城が単一の城郭ではなく、時代の要請に応じてその機能と場所を変遷させた**「複合城郭群」**であったという事実である。発掘調査によれば、三刀屋氏の拠点は、鎌倉時代の地頭としての居館であったと推定される「本屋敷城郭」、戦国期の緊迫した軍事情勢に対応するための典型的な山城である「三刀屋じゃ山城」、そして戦国末期から近世初頭にかけて政治・経済の中心地として整備された平山城「三刀屋尾崎城」という、少なくとも三つの段階を経て発展したことが明らかになっている 1 。この城郭群の変遷は、単なる拠点の移動ではなく、「三刀屋」という地域における防衛・統治システムそのものの進化の軌跡を示すものである。
本報告書は、この「複合城郭群」という視座に立ち、城主・三刀屋氏の動向、城郭構造の変遷、そして戦国期における戦略的価値という三つの柱を軸に、三刀屋城の歴史的意義を徹底的に解き明かすことを目的とする。一国人領主の城の変遷を追うことで、戦国時代という大きな時代のうねりを、より微視的かつ立体的に理解することを目指すものである。
表1:三刀屋城と三刀屋氏に関連する歴史年表
年代 |
主要な出来事 |
典拠 |
承久3年(1221年) |
承久の乱の戦功により、諏訪部扶長が出雲国三刀屋郷の地頭職に補任され、築城したと伝わる。 |
1 |
南北朝時代 |
諏訪部氏は出雲守護の塩冶氏や山名氏に属して活動。 |
7 |
室町時代中期 |
16代為扶の時より、本拠地の名を取り「三刀屋」姓を名乗る。守護京極氏、守護代尼子氏の麾下に入る。 |
6 |
文明16年(1484年) |
幕府の尼子経久追討令に応じ、三刀屋氏は経久攻撃に参加。後に経久に帰順する。 |
7 |
天文9年(1540年) |
三刀屋久扶、尼子晴久に従い毛利元就の吉田郡山城攻めに参加。 |
2 |
天文11年(1542年) |
大内義隆の出雲侵攻に際し、三刀屋久扶は一時的に大内氏に降る。 |
4 |
天文12年(1543年) |
大内軍の敗退後、再び尼子方に復帰。 |
4 |
永禄5年(1562年) |
三刀屋久扶、三沢為清らと共に尼子氏を離反し、毛利元就に帰順。 |
7 |
永禄5年(1562年)12月 |
八畔峠の戦い 。毛利軍の補給路を断とうとする尼子軍を、三刀屋久扶らが撃退。 |
7 |
永禄6年(1563年)1月 |
地王峠の戦い 。再び来襲した尼子軍を、三刀屋方が迎撃し、毛利方の謀略もあり撤退させる。 |
7 |
永禄9年(1566年) |
毛利氏による月山富田城開城。戦国大名尼子氏が滅亡。 |
11 |
天正16年(1588年) |
毛利輝元、三刀屋久扶の所領を没収し追放(改易)。三刀屋氏による支配が終わる。 |
7 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦い後、堀尾吉晴が出雲国主となり三刀屋城に入城。大規模な改修を開始。 |
4 |
慶長年間 |
堀尾氏が松江城を築城し本拠を移転。三刀屋城は一国一城令により廃城となる。 |
4 |
昭和61年(1986年) |
「三刀屋じゃ山城跡及び三刀屋尾崎城跡」として島根県の史跡に指定される。 |
4 |
第一章:源氏の名跡、出雲に根付く―三刀屋氏の勃興と初期の城郭―
三刀屋城の歴史は、その主であった三刀屋氏の歴史と不可分である。彼らが如何にして出雲の地に根を下ろし、有力な国人領主へと成長していったのか。その過程は、鎌倉幕府による地方支配体制の確立から、戦国の動乱へと至る時代の変遷を色濃く反映している。そして、その初期の拠点であった城郭群は、中世武士の統治と防衛のあり方を今に伝えている。
三刀屋氏の起源と在地化
三刀屋氏の祖は、清和天皇を祖とする清和源氏満快流の一族、諏訪部氏である 1 。信濃国を本拠とし、伊豆や甲斐にも勢力を持ったこの一族は、承久3年(1221年)に勃発した承久の乱において、歴史の大きな転換点を迎える。当主であった諏訪部扶長(助長とも)は、後鳥羽上皇方ではなく鎌倉幕府方として戦功を挙げた 1 。その恩賞として、執権・北条義時より、遠く離れた西国、出雲国三刀屋郷の地頭職に補任されたのである 1 。これは、承久の乱後に幕府が西国における支配権を確立するため、東国御家人を新補地頭として各地に送り込んだ、いわゆる「新補地頭」の一例であった。
鎌倉時代中期、執権北条氏による専制政治が強まると、多くの御家人が本拠地である鎌倉を離れ、自らの所領がある地方へ下向し土着化する傾向が見られた 7 。諏訪部氏もその例に漏れず、三刀屋郷を本格的な一族の本拠地として定めたと考えられる。南北朝の動乱期には、出雲守護であった塩冶高貞が幕府に叛して討たれると、代わって山陰地方に勢力を伸ばした山名氏に属して行動し、激動の時代を生き抜いた 7 。やがて室町時代に入ると、山名氏の没落後は新たに守護となった京極氏に従い、そのもとで守護代として勢力を蓄えた尼子氏の強い影響下に置かれることとなる 10 。そして16代当主・為扶の代に至り、一族は長年本拠地としてきた土地の名を取り、姓を「三刀屋」と改めた 6 。こうして、東国から来た地頭は、数世紀の時を経て、名実共に出雲の地に根差した有力国人領主「三刀屋氏」となったのである。
初期の城郭群―本屋敷城郭と三刀屋じゃ山城
三刀屋氏の初期の拠点形態は、中世武士団の典型的な姿を留めている。発掘調査報告書によれば、地頭としてこの地に来住した当初の居館は、現在の「後谷」地区にあった「本屋敷城郭」であったと推定されている 1 。この地域には「本屋敷」「門所」「御蔵前」といった、居館の存在を示唆する小字地名が残っており、平時における政治・生活の拠点であったと考えられる 5 。
一方で、戦乱が常態化する室町時代から戦国時代にかけて、防衛の中核を担ったのが、標高242.7mの山頂に築かれた「三刀屋じゃ山城」である 1 。この城は、典型的な中世山城の構造を有している。山頂の最高所に主郭(詰の丸)を置き、そこから派生する尾根筋に複数の曲輪を階段状に配置し、それらを土塁、堀切、そして急峻な切岸によって厳重に防護している 18 。特に、主郭部は土塁で囲まれ、その周囲を切岸が巡る堅固な構造となっている 18 。このような構造は、敵の侵攻を段階的に食い止め、最終的には主郭で籠城することを想定した、防衛機能に特化した設計思想の表れである。
じゃ山城の機能性を物語る遺構として、主郭の北西下に確認された天水池の存在が挙げられる 5 。石積みで縁取られたこの池は、山城における生命線である水の確保を目的とした施設であり、長期の籠城戦を想定していたことを示唆している 1 。また、池の周辺からは青磁の碗片や古備前、常滑系の陶器片などが発見されており、これらは当時の三刀屋氏が単なる武士であるだけでなく、一定の文化的・経済的勢力を有していたことの証左でもある 1 。
平時の居館である「本屋敷城郭」と、戦時の防衛拠点である「三刀屋じゃ山城」。この二つの城郭を使い分ける形態は、三刀屋氏が単なる在地領主から、恒常的な軍事緊張に対応する必要のある戦国国人領主へと変質していく過程を、城郭の機能分化を通じて物語っている。城の構造変化は、城主の社会的役割の変化そのものであったのである。
第二章:群雄割拠の渦中で―尼子、大内、毛利の間で揺れ動く国人領主―
戦国時代、出雲国は中国地方の覇権を巡る巨大勢力の角逐の場となった。このような状況下で、三刀屋氏のような国人領主は、自領と一族の存続を賭けて、極めて困難かつ巧みな舵取りを要求された。彼らの動向は、主家への忠誠という単純な図式では割り切れず、常にパワーバランスを見極め、より強大な勢力になびくことで生き残りを図るという、戦国武士のリアリズムを体現するものであった。
尼子氏の台頭と「尼子十旗」
室町時代、出雲守護・京極氏のもとで守護代を務めていた尼子氏は、当主・経久の代に下剋上によって守護の権力を凌駕し、出雲国を実効支配する戦国大名へと成長を遂げる 11 。当初、三刀屋氏は幕府の追討令に応じて経久と敵対したこともあったが、経久が謀略をもって本拠地・月山富田城を奪還し再起を果たすと、その軍門に降った 7 。
以後、三刀屋氏は尼子氏の有力な家臣として、その勢力拡大に貢献する。特に三刀屋城は、尼子氏の本城である月山富田城を防衛するために、その周辺に配置された主要な支城群「尼子十旗」の一つに数えられるほどの重要拠点と見なされた 4 。これは、三刀屋城が地理的に出雲の中央に位置し、西からの侵攻に対する第一の防衛線となり得たこと、そして城主である三刀屋氏が動員できる軍事力が尼子氏にとって不可欠であったことを示している。天文9年(1540年)には、当主・三刀屋久扶が尼子晴久に従い、安芸国の毛利元就が籠る吉田郡山城攻めに参加するなど、尼子軍の中核として活動した記録が残っている 2 。
大内氏侵攻と離反の苦渋
しかし、中国地方の覇権は尼子氏だけで盤石なものではなかった。西には周防国を本拠とする大内氏が強大な勢力を誇り、両者は石見銀山などを巡って激しく対立していた 11 。天文11年(1542年)、大内義隆は2万ともいわれる大軍を率いて出雲国へ侵攻し、月山富田城に迫った(第一次月山富田城の戦い)。この国家存亡の危機に際し、三刀屋久扶は、同じく有力国人であった三沢氏や宍道氏らと共に、驚くべき行動に出る。尼子氏を裏切り、大内方へと寝返ったのである 2 。
この離反は、国人領主が置かれた苦しい立場を象徴している。彼らにとって最優先事項は、主家への忠誠よりも、自らの領地と一族の安泰であった。大内氏の圧倒的な軍事力の前に、尼子氏の敗北は必至と判断し、勝者となるであろう側に付くことで生き残りを図ったのである。しかし、戦況は彼らの予測通りには進まなかった。尼子方は巧みな籠城戦とゲリラ戦術で大内軍を翻弄し、逆に大内軍を撃退することに成功する 11 。この結果を受け、久扶らは翌天文12年(1543年)には再び尼子方へと復帰した 4 。この一連の動きは、日和見主義と非難されるかもしれないが、巨大勢力の狭間で翻弄されながらも、必死に自立を保とうとした国人領主のしたたかな生存戦略であった。
毛利氏への帰順―運命の決断
尼子氏の最盛期を築いた当主・晴久が永禄3年(1560年)に急死し、嫡男の義久が跡を継ぐと、尼子氏の家臣団に動揺が走る 7 。当主の交代は、家臣団の結束を揺るがす最大の危機であり、これを好機と見たのが、安芸国で着実に勢力を拡大していた毛利元就であった。元就は石見銀山を完全に掌握すると、満を持して出雲への本格的な侵攻を開始する 7 。
この新たなパワーバランスの変化を、三刀屋久扶は敏感に察知した。永禄5年(1562年)、久扶は長年の盟友であった三沢為清と共に、再び尼子氏を見限り、毛利元就の麾下に入るという重大な決断を下す 4 。これは単なる裏切りではない。当主交代で求心力が低下した尼子氏と、日の出の勢いの毛利氏を冷静に比較し、一族の未来を毛利氏に賭けた戦略的な経営判断であった。『出雲三刀屋家文書』に残された史料によれば、毛利氏はこの帰順を歓迎し、久扶の所領を安堵する文書を発給している 8 。これは、毛利氏が出雲侵攻を成功させる上で、戦略的要衝に位置する三刀屋氏を味方に引き入れることがいかに重要であったかを物語っている。久扶のこの決断は、結果的に尼子氏の滅亡を早め、毛利氏による出雲平定を決定づける一因となったのである。
第三章:毛利元就の「眼」―出雲侵攻の兵站拠点としての三刀屋城―
戦国時代の合戦の勝敗は、兵士個々の武勇や戦術の巧みさだけで決まるものではない。前線で戦う数万の兵を支える兵糧や武器弾薬を、いかにして滞りなく送り届けるかという兵站、すなわち補給線の維持能力こそが、大規模な軍事作戦の成否を左右する。稀代の戦略家であった毛利元就は、敵国深くまで大軍を侵攻させるにあたり、この兵站の重要性を誰よりも深く理解していた。そして、彼の出雲侵攻作戦において、その生命線ともいえる兵站基地の役割を担ったのが、三刀屋城であった。
補給線の要衝
永禄5年(1562年)、元就率いる毛利の大軍が石見から出雲へ侵攻した際、その補給路は本国である安芸国から中国山地を越え、出雲国へと繋がっていた 12 。三刀屋城は、この補給路がまさに出雲平野に到達する地点に位置し、さらに北の宍道湖方面(毛利軍の当面の目標であった白鹿城方面)と、東の尼子氏の本拠・月山富田城方面への分岐点でもあった 12 。つまり、三刀屋城を確保することは、毛利軍全体の動きを支える兵站ネットワークの中核を掌握することを意味した。逆に尼子氏から見れば、三刀屋城を奪取できれば、毛利軍の補給路を断ち、その進撃を頓挫させることが可能となる。三刀屋城は、両軍にとって、方面作戦全体の帰趨を左右するほどの戦略的価値を持つに至ったのである 7 。
八畔峠(八畝峠)の戦い(永禄5年12月)
毛利軍の意図を正確に読み取った尼子方は、早速行動に出る。同年12月下旬、毛利軍の補給路を断つべく、勇将・熊野入道西阿が率いる1,500の兵を三刀屋城へと差し向けた 12 。これに対し、三刀屋城を守る三刀屋久扶は、毛利からの援軍である宍戸隆家、山内隆通らと連携。敵が三刀屋城に到達する手前の八畔峠(八畝峠とも)でこれを迎撃する策を取る 7 。久扶は先手を打って峠に布陣し、進軍してきた尼子軍に奇襲をかけた。この戦いは三刀屋・毛利連合軍の圧勝に終わり、大将の熊野入道を討ち取るという大きな戦果を挙げた 12 。この目覚ましい功績に対し、元就は直ちに久扶へ感状を送り、その働きを賞賛したと記録されている 12 。この戦いは、三刀屋城が毛利方の兵站拠点として、初めてその真価を発揮した瞬間であった。
地王峠の戦い(永禄6年1月)
八畔峠での敗北に憤激した尼子方は、雪辱を期して、わずか1ヶ月後の翌永禄6年(1563年)1月、再び大規模な軍勢を三刀屋城へと派遣する。宇山久兼・牛尾幸清といった尼子氏の重臣を大将とし、兵力は前回の1,500を上回る2,000余であった 12 。尼子軍は斐伊川を渡り、三刀屋城の目前にある地王峠まで進軍。三刀屋方も城を出てこれを迎え撃ち、激しい戦闘が繰り広げられた 7 。
一進一退の攻防が続く中、戦況を動かしたのは武力ではなく情報であった。尼子軍の陣中に、突如「毛利の本隊が後詰(援軍)として荒隈(洗合)の陣を出発し、三刀屋城へ向かっている」との噂が広まったのである 12 。この情報が真実であれば、尼子軍は三刀屋城の軍勢と毛利本隊に挟撃され、退路を断たれて壊滅する危険性があった。この危機を恐れた尼子軍の将兵は戦意を喪失し、我先にと富田城へ向かって撤退を開始した 12 。後に判明したことであるが、この毛利本隊の来援という情報は、全くの偽情報であり、敵の戦意を挫くために毛利方が流した巧みな謀略であった 12 。
八畔峠と地王峠における二度の防衛成功は、出雲平定戦全体の戦局に決定的な影響を与えた。これにより毛利軍の補給路は完全に盤石なものとなり、元就は後顧の憂いなく、尼子方の諸城、そして最終目標である月山富田城の攻略に全戦力を集中させることが可能となった。三刀屋城を巡るこれらの戦いは、単なる局地的な戦闘ではない。それは、出雲の覇権を賭けた、両軍の戦略眼が激突した「兵站線攻防戦」であり、三刀屋城がその中心で決定的な役割を果たした歴史的な攻防戦だったのである。
第四章:泰平への移行と城の終焉―三刀屋氏の改易と堀尾氏の構想―
毛利氏による出雲平定、そして豊臣秀吉による天下統一事業の進展は、戦国時代という長く続いた動乱の時代に終止符を打った。しかし、泰平の訪れは、三刀屋氏のような国人領主にとって、必ずしも安泰を意味するものではなかった。中央集権的な統治体制が確立される中で、彼らの持つ半独立的な地位は、新たな時代の支配者にとって次第に障害と見なされるようになっていく。三刀屋城の歴史の最終章は、この時代の大きな転換を象徴する出来事に満ちている。
三刀屋氏、三百七十年の支配の終焉
天正16年(1588年)、三刀屋の地に衝撃が走る。約370年にわたりこの地を治めてきた城主・三刀屋久扶が、主君である毛利輝元によって突如として所領を没収され、追放されたのである 7 。長年にわたり毛利氏に忠誠を尽くし、特に出雲平定においては多大な功績を挙げた久扶の、あまりに不可解な失脚であった。
その理由として通説で語られているのは、久扶が輝元に従って上洛した際、当時まだ一大名であった徳川家康と面会したことが輝元の疑心を招いた、というものである 7 。しかし、この面会が事実であったかどうかも含め、確たる史料は存在しない 7 。この改易の真相は、より大きな時代の変化の中に求めるべきであろう。豊臣政権下で、毛利氏のような大大名もまた、その領国において中央集権的な支配体制への転換を強く迫られていた。久扶のように、中央の権力(この場合は家康)とも繋がりを持ちうるような、独立性の高い有力国人は、輝元にとって自らの領国支配を不安定にしかねない潜在的な脅威と映った可能性がある。家康との面会は、輝元が久扶を排除するための、格好の口実として利用されたのかもしれない。いずれにせよ、この改易によって、鎌倉時代から続いた三刀屋氏による三刀屋支配の歴史は、あまりにも唐突に幕を閉じた。
堀尾氏の入城と近世城郭への改修
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、再び日本の支配体制を大きく塗り替えた。西軍の総大将であった毛利輝元は周防・長門の二国に減封され、代わって出雲・隠岐24万石の新たな領主として入国したのが、徳川家康の家臣であった堀尾吉晴である。吉晴は当初、尼子氏以来の拠点であった月山富田城に入城したが、この城が戦国時代に特化した険しい山城であり、平時の政治や経済活動を行うには極めて不便であることを痛感する 20 。
そこで吉晴は、新たな統治拠点を築くべく領内を視察し、その候補地の一つとして三刀屋城に白羽の矢を立てた。吉晴は一時的に三刀屋城(この時期の拠点は平山城である尾崎城)に入り、ここを新たな本拠地とすべく、大規模な改修工事に着手したのである 4 。
表2:三刀屋城郭群の構造比較
城郭名 |
立地(地形) |
想定される主な機能 |
主要な防御施設 |
時代的特徴 |
本屋敷城郭(推定) |
丘陵麓の谷あい |
居住、平時の政務 |
(不明、居館形式) |
鎌倉~室町時代(中世初期)の地頭の館 |
三刀屋じゃ山城 |
標高242.7mの山頂 |
防衛、籠城(詰城) |
土塁、堀切、切岸 |
戦国期の防衛に特化した典型的な中世山城 |
三刀屋尾崎城 |
標高58mの丘陵(平山城) |
統治、経済拠点 |
割石積み石垣、天守台、虎口、横矢掛 |
戦国末期~近世初頭の過渡期の城郭 |
幻の居城計画と廃城
現在、三刀屋尾崎城跡に足を踏み入れると、我々の目に飛び込んでくるのは、山城であるじゃ山城とは全く様相の異なる、壮大な石垣群である 15 。特に主郭部に見られる高く堅固な割石積みの石垣や、天守台(あるいは櫓台)の遺構は、明らかに戦国末期から近世初頭にかけての最新の築城技術が用いられたものである 4 。これらの遺構こそ、堀尾吉晴による普請の痕跡に他ならない 16 。
その規模の大きさから、堀尾氏は当初、本気でこの三刀屋城を新たな出雲国の本拠地として整備しようとしていたという説が極めて有力である 4 。三刀屋は陸上交通の要衝であり、既存の町並みも形成されていたため、統治拠点として魅力的な候補地であったことは間違いない 1 。
しかし、最終的に堀尾氏は三刀屋を放棄し、全く新たな場所、すなわち宍道湖と中海を結ぶ水運の大動脈上に位置する末次(現在の松江)に、新たな城と城下町を建設するという壮大な計画を選択する 23 。その理由は、城の立地選定の基準が、もはや「防衛のしやすさ」という戦国の論理から、「経済的発展の可能性」という近世の論理へと完全に移行したことを示している。陸上交通の要衝である三刀屋よりも、水運を最大限に活用でき、広大な城下町を建設できる松江の方が、領国全体の物資の集散地として、より大きな経済的繁栄が見込めると判断したのである 23 。
松江城の築城が開始されると、三刀屋城の拠点としての役割は完全に終わりを告げた。そして、やがて幕府から発せられた一国一城令により、三百七十年の歴史を誇った名城は、正式に廃城となった 4 。三刀屋尾崎城に残る壮大な石垣は、戦国時代の「軍事拠点」から近世の「政治経済の中心地」へと城の役割が移行する、まさにその歴史の転換点における「幻の計画」を物語る、貴重な歴史の化石なのである。
終章:三刀屋城が物語るもの―中世から近世への架け橋として―
島根県雲南市の地に眠る三刀屋城跡は、その静かな佇まいとは裏腹に、日本の歴史における極めてダイナミックな時代の変遷を雄弁に物語る、類い稀な歴史遺産である。その価値は、単一の城の歴史にとどまらず、鎌倉時代から近世初頭に至るまでの社会構造、権力、そして築城思想のパラダイムシフトを、物理的な遺構を通じて我々に示してくれる点にある。
第一に、三刀屋城は 複合城郭群としての意義 を持つ。鎌倉武士の居館であった「本屋敷城郭」から、戦乱の時代に対応した防衛拠点「じゃ山城」、そして近世的な統治拠点を目指した「尾崎城」への変遷は、武士の統治形態が、在地領主による支配から、領域全体を掌握する大名の支配へと移行していく過程を明確に示している。土塁と堀切が物語る中世の論理と、石垣と天守台が語る近世の論理が、同じ「三刀屋」の名のもとに共存している点に、この城郭群の学術的価値の核心がある。
第二に、 戦略拠点としての再評価 が不可欠である。特に戦国時代、毛利元就による出雲侵攻作戦において、三刀屋城が兵站拠点として果たした役割は決定的なものであった。八畔峠と地王峠における二度の防衛成功は、単なる局地戦の勝利ではなく、方面作戦全体の成否を左右する「兵站線」を死守したという、極めて高度な戦略的意義を持つ。三刀屋城と城主・久扶の存在なくして、毛利氏の出雲平定は大幅に遅れるか、あるいは頓挫していた可能性すらある。この城は、戦国史における最も重要な兵站拠点の一つとして、再評価されるべきである。
第三に、三刀屋城は 歴史の転換点の証人 である。戦国が終わり、堀尾吉晴が新たな国づくりを構想した際、その候補地として大規模な改修が加えられた尾崎城の遺構は、日本の城と城下町が、純粋な軍事拠点から政治経済の中心へとその役割を根本的に変えようとしていた、まさにその過渡期の姿を留めている。最終的に松江が選ばれたという事実は、日本の近世社会が、防衛力以上に経済力と物流を重視する社会へと移行したことを象徴する出来事であった。三刀屋城は、その歴史的な選択の過程で「選ばれなかった」城として、かえってその時代の価値観の転換を鮮やかに映し出している。
結論として、三刀屋城は、鎌倉武士の誇り、戦国国人のしたたかな生存戦略、そして近世大名の新たな国づくり構想という、異なる時代の論理が幾重にも堆積した、他に類を見ない歴史の地層である。この忘れられた要衝の歴史を紐解くことは、日本の社会と権力構造が如何にして中世から近世へと移行していったのかを理解する上で、極めて貴重な示唆を与えてくれるのである。
補遺:三刀屋の風土と伝承
三刀屋城の歴史をより深く理解するためには、その背景にある地域の文化や自然環境にも目を向けることが有益である。
たたら製鉄との関わり
三刀屋城が位置する斐伊川流域は、古来より良質な砂鉄が採れることから、日本古来の製鉄法である「たたら製鉄」が極めて盛んな地域であった 3 。この地域で産出される鉄は、武器や農具の材料として全国的に高い評価を得ており、地域の重要な経済的基盤を形成していた。三刀屋氏が長年にわたり有力国人として勢力を保ち得た背景には、この鉄生産がもたらす経済力が無関係ではなかったと推察される。城の防衛や地域の支配には、経済的な裏付けが不可欠であり、たたら製鉄はまさにその源泉の一つであった可能性が高い。
ヤマタノオロチ伝説の舞台
斐伊川流域は、日本の建国神話である『古事記』や『日本書紀』に記された「ヤマタノオロチ退治」の神話の舞台としても広く知られている 24 。八つの頭と八つの尾を持つ巨大な蛇(オロチ)は、しばしば斐伊川の氾濫を象徴するものと解釈され、流域にはスサノオノミコトやクシナダヒメにまつわる伝承地が数多く点在している 24 。三刀屋城の武将たちもまた、この豊かな神話と伝承が息づく風土の中で生きていた。彼らが見たであろう斐伊川の風景には、現実の軍事的脅威だけでなく、神話の時代から続く自然への畏敬の念が重ねられていたに違いない。このような文化的背景は、城の歴史にさらなる奥行きと彩りを与えている。
引用文献
- 三刀屋城跡調査報告書 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/17/17992/13602_1_%E4%B8%89%E5%88%80%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
- 三刀屋城 牛尾城(三笠城) 大西城(高麻城) 佐世城 阿用城 岩熊城 三刀屋じゃ山城 近松城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/simane/unnansi.htm
- 斐伊川水系の流域及び河川の概要 (案) - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/shouiinkai/kihonhoushin/dai102kai/dai102kai_ref1.pdf
- 三刀屋氏城館(島根県雲南市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/7649
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- 神話とたたら - ―― - 出雲の民の暮らしを支えた斐伊川 (島根県) - ミツカン 水の文化センター https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no54/13.html
- 古事記1300年 ヤマタノオロチ伝説の旅 - 島根観光ナビ https://www.kankou-shimane.com/mag-/10/11/orochi.html
- ヤマタノオロチ伝承地を巡る | 雲南市ホームページ https://www.city.unnan.shimane.jp/unnan/kankou/spot/meisyodentou/meisho01.html
- 神話めぐり1 ヤマタノオロチ伝説 - 出雲観光ガイド https://izumo-kankou.gr.jp/6340
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