土佐中村城は、一条教房が「小京都」を築き、公家大名一条氏の拠点として栄えた。長宗我部元親の台頭で一条氏は滅亡。中村城は長宗我部氏、山内氏の支配を経て、一国一城令で廃城。
本報告書は、土佐国幡多郡(現在の高知県四万十市)に位置した中村城を、単なる一地方の城郭としてではなく、戦国時代における中央(京都)の公家文化と地方の武家社会が交錯し、やがては土佐統一をめぐる雌雄を決する舞台となった、歴史の縮図として捉え直すことを目的とする。五摂家筆頭という比類なき権威を背景に、一条氏が築いた雅やかな「小京都」が、いかにして長宗我部氏の覇権を象徴する軍事拠点へと変貌し、近世の幕開けと共にその役目を終えたのか。その変遷を多角的に解き明かす。
中村城の歴史を紐解くことは、戦国時代の日本社会における「権威」と「実力」の相克を考察することに他ならない。文化的中心地としての性格と、軍事的要衝としての性格は、どのように相互作用し、城主たちの運命を左右したのか。これらの問いを本報告全体の縦糸として設定し、土佐の片隅で繰り広げられた権力闘争の深層に迫る。
西暦(和暦) |
中村城・幡多郡での出来事 |
関連人物 |
土佐国・日本全体の動向 |
1467年(応仁元年) |
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応仁の乱、勃発 |
1468年(応仁2年) |
一条教房、荘園経営再建のため中村に下向。中村御所を構える |
一条教房 |
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1480年(文明12年) |
一条教房、死去。子・房家が跡を継ぐ |
一条教房、一条房家 |
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1508年頃 |
長宗我部元秀(兼序)が滅亡。遺児・国親が一条房家に保護される |
一条房家、長宗我部国親 |
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1541年(天文10年) |
一条房家、死去。子・房冬が継ぐも2年で死去。その子・房基が継承 |
一条房家、房冬、房基 |
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1549年(天文18年) |
一条房基、自刃。子・兼定が7歳で家督を継ぐ |
一条房基、一条兼定 |
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1569年(永禄12年) |
長宗我部元親、安芸国虎を滅ぼし土佐東部を平定 |
一条兼定、長宗我部元親 |
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1573年(天正元年) |
一条兼定、家臣により隠居させられる |
一条兼定 |
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1574年(天正2年) |
兼定、中村を追放され豊後へ。中村城は長宗我部氏の支配下に入る |
一条兼定、長宗我部元親 |
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1575年(天正3年) |
四万十川の戦い(渡川の戦い)。兼定、元親に大敗し土佐一条氏滅亡 |
一条兼定、長宗我部元親 |
長宗我部元親、土佐を統一 |
1576年(天正4年) |
中村城代の吉良親貞、死去 |
吉良親貞 |
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1600年(慶長5年) |
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関ヶ原の戦い |
1601年(慶長6年) |
山内一豊の弟・康豊が中村城に入り、中村藩(2万石)が成立 |
山内康豊 |
山内一豊、土佐に入国 |
1613年(慶長18年) |
二代藩主・山内政豊が中村城の石垣などを修復 |
山内政豊 |
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1615年(元和元年) |
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一国一城令、発布 |
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中村城、一国一城令により廃城となる |
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1862年(文久2年) |
中村御所跡に一條神社が建立される |
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1965年(昭和40年) |
城跡の調査で山内氏時代の石垣が発見される |
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土佐一条氏の歴史は、京都を灰燼に帰した応仁の乱の最中に始まる。五摂家筆頭、一条家の当主であり前関白であった一条教房は、応仁2年(1468年)、戦火を逃れて自らの荘園である土佐国幡多荘へと下向した 1 。しかし、この行動は単なる都落ちではなかった。乱により京都の邸宅を焼失し、荘園からの収入も途絶えがちになる中で、幡多荘の経営を直接掌握し、経済基盤を立て直すという極めて現実的な目的があったのである 3 。
教房の下向は、在地勢力の協力なくしては成り立たなかった。同年9月に奈良を出立した一行は、まず土佐中央部の宇佐(現在の土佐市)に上陸し、当地の豪族・大平氏の支援を受けた後、10月頃に目的地である中村に到着した 4 。この事実は、中央の最高権威者であっても、地方に根を張るためには在地領主との連携が不可欠であったことを示している。朝廷は教房を土佐国司に任じ、一万六千貫の領主としての地位を公認しており、これが在地豪族に対する一条氏の支配の正統性を担保する上で重要な役割を果たした 5 。
中村に入った教房は、市街地中心部に位置する小森山(旧愛宕山)に館を構えた 6 。これは「中村御所」あるいは「幡多御所」と呼ばれ、以後五代にわたる土佐一条氏の政治・文化の中心地となった 4 。現在の小森山山頂には、文久2年(1862年)に一条氏の遺徳を偲んで建立された一條神社が鎮座している 6 。
教房が中村にもたらした最も大きな遺産は、その都市計画にある。都を懐かしんだ教房は、京都の街並みを模倣し、碁盤の目状に区画された城下町を整備した 1 。この計画的な街づくりは、中村が「土佐の小京都」と称される所以であり、その名残は現代の四万十市の中心市街地にも見て取れる 8 。さらに、祇園や東山といった京都由来の地名が今なお残存していることは、これが単なる都市設計に留まらず、故郷の文化をこの地に移植しようとする教房の強い意志の表れであったことを物語っている 10 。
教房に随行して下向した公家や武士、職人たちによって、雅やかな京文化が中村にもたらされた 2 。京都の葵祭を模したとされる「藤祭り」の公家行列や、夏の終わりを告げる「大文字の送り火」といった祭事は、一条氏が遺した文化が地域に深く根付き、現代にまで継承されていることを示している 11 。
初代・教房が築いた基盤の上で、二代当主・房家(教房の次男)の時代に土佐一条氏は最盛期を迎える。房家は公家大名として在地豪族を巧みに統制し、その威令は隣国の伊予南部にまで及んだ 13 。また、後に長宗我部氏を再興する長宗我部国親を幼少期に保護するなど、地域の安定にも寄与したことが記録されている 4 。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。房家の死後、跡を継いだ房冬、房基が相次いで早世すると、在地豪族たちの間で一条氏を軽んじる風潮が強まっていく 16 。特に三代目・房基は、台頭してきた長宗我部国親の攻撃を受け、自刃に追い込まれるという悲劇的な最期を遂げた 17 。これは、公家の権威だけでは乱世を乗り切れないという、公家大名が抱える構造的な限界が露呈し始めた瞬間であった。
最後の当主となった五代目・兼定は、父・房基の死によりわずか7歳で家督を継いだ 4 。当初は伊予の西園寺氏を破るなど軍事的な成功を収めたが 18 、次第に長宗我部元親の圧迫を受け、政治的な判断力を失っていく。
一条氏の統治体制は、政治と文化の中心である「中村御所」と、防衛拠点である「中村城」という、いわば二元的な構造を持っていた 6 。統治初期においては、一条氏が持つ公家としての「権威」というソフトパワーが、在地豪族を従える上で有効に機能した。しかし、戦国の争乱が激化するにつれ、実効的な軍事力というハードパワーの重要性が増大する。この二元体制は、権力の中枢が分散し、有事の際、特に長宗我部氏のような純粋な武力集団と対峙した際には、迅速な軍事的意思決定を阻害する脆弱性へと転化した。
また、「小京都」として育まれた文化は、中村に経済的・文化的繁栄をもたらし、一条氏の支配の正統性を高める戦略的資産であった 1 。しかし、その雅な文化は同時に、支配者層の気風を貴族的なものに留め、戦国大名として生き残るために必要な、冷徹で実利的な感覚を鈍らせる戦略的負債にもなった可能性がある。兼定が家臣の諫言を聞き入れずに重臣を粛清するなど、武家の棟梁としての緊張感を欠いた行動に走った背景には、こうした公家的な気質が影響していたと考えられる。栄華の基盤であった京文化は、皮肉にもその滅亡の遠因ともなったのである。
中村城の歴史は、一条氏の到来以前に遡る。その起源は、この地を治めていた在地豪族・為松氏によって築かれた城郭にあると考えられている 7 。一条氏が幡多郡に入部すると、為松氏はその家老として取り立てられ、城は一条氏の主要な防衛拠点として機能するようになった。この事実は、一条氏の支配が全くの白紙状態から始まったのではなく、既存の在地勢力を巧みに取り込む形で確立されたことを示唆している。
中村城は、四万十川と後川に挟まれた、標高約70メートルの丘陵に築かれた平山城である 4 。その最大の特徴は、東城、為松城、中ノ森、御城(詰)、今城といった複数の曲輪(郭)が連なって構成される「連立式」の縄張りであった点にある 17 。これは、単一の設計思想に基づくいわゆる「近世城郭」とは異なり、時代の要請や用途に応じて段階的に拡張・整備されていった中世城郭の典型的な姿を留めている。
中村城の構造は、支配者の変遷と共にその姿を変えていった。
一条氏時代
この時期の城は、一族や家臣団の屋敷地としての性格が強かった。南側の曲輪群である「東城」には、一条氏の一族である西小路家が居城していた 17。そして、城の中核を成す「為松城」には、譜代の家老である為松氏が入り、防衛の要を担った。この時代の防御設備は、主に土を盛り上げた土塁や、尾根を断ち切る堀切といった、中世的な土木技術によるものであったと考えられる 4。
長宗我部氏時代
一条氏が追放され、長宗我部元親が幡多郡を掌握すると、城は新たな支配者の拠点として整備される。元親の弟である猛将・吉良親貞が入城し、中村城は土佐西部支配、さらには伊予侵攻の拠点としての軍事的性格を強めた 21。城の北部に位置する「今城」は、長宗我部氏の家臣団の屋敷地として利用された可能性が指摘されており、支配者の交代に伴う城内の再編成が行われたことが窺える 17。
山内氏時代
関ヶ原の戦いを経て、土佐の新領主となった山内氏の時代に、中村城は最後の大きな変貌を遂げる。山内一豊の弟・康豊が初代中村藩主として入城し、城は藩の政庁(藩庁)となった 21。特に注目すべきは、二代藩主・山内政豊の治世である慶長18年(1613年)に行われた大規模な改修である。この普請によって、城には石垣が築かれ、近世城郭としての体裁が整えられた 21。これは、中世的な「土の城」から、権威の象徴でもある「石垣の城」へと移行する過渡期の姿であり、中村藩による恒久的な支配を目指す強い意志の表れであった。
現在、城跡は「為松公園」として市民の憩いの場となっている 20 。公園内には、往時の姿を伝える土塁や、昭和40年(1965年)の発掘調査で発見された山内氏時代の高石垣の一部が保存されており、城の歴史を今に伝えている 7 。
公園の二の丸跡には、天守閣を模した四万十市立郷土資料館が建っている 25 。この建物は昭和後期に建設されたもので、その外観は愛知県の犬山城をモデルにしている 17 。戦国時代の中村城に天守が存在したという史料的根拠はなく、この建物は歴史的建造物の復元ではなく、地域の歴史を伝えるための文化施設としての役割を担っている。
中村城の物理的な変遷は、各時代の支配者の統治思想そのものを映し出している。一条氏時代の城が、一族や家臣が居住する郭が連なる「武装した館の集合体」としての性格が強かったのに対し 17 、山内政豊による石垣普請は、城を単なる防衛拠点ではなく、藩の権威を視覚的に示す恒久的な行政庁と捉える、近世的な統治思想の現れであった 24 。そして、そのわずか2年後の一国一城令による廃城は、個別の藩の権威よりも、徳川幕府による中央集権体制を優先するという、新たな時代の統治思想が地方の城郭の運命を決定づけたことを劇的に示している。土塁から石垣へ、そして廃城へという城の変遷は、戦国から近世へと移行する時代の権力構造の変化そのものを物語っているのである。
土佐一条氏の最後の当主・一条兼定の治世は、その権威の失墜と衰亡の過程であった。伊予への軍事介入に失敗して威信を損なうと 4 、兼定は次第に家臣の諫言を疎んじ、放蕩な生活に溺れるようになった。その中でも決定的な事件が、筆頭家老であった土居宗珊を無実の罪で手討ちにした一件である 4 。この暴挙は、一条家を支えてきた家臣団の信頼を完全に失わせ、内部崩壊を招いた。
この一条家の内紛を、長宗我部元親は見逃さなかった。元親は兼定の側近であった入江左近を甘言で誘い、兼定暗殺を唆すなど、謀略を駆使して一条家の弱体化を画策した 18 。もはや領主としての統率力を失った兼定に対し、天正元年(1573年)、羽生監物ら家老衆は合議の上で兼定を強制的に隠居させるという挙に出る 4 。そして翌天正2年(1574年)、兼定はついに中村を追放され、妻の実家である豊後の大友宗麟を頼って落ち延びた 30 。一条家の家督は、元親の完全な傀儡として、幼い息子・内政が継ぐこととなり、ここに100年続いた土佐一条氏の支配は事実上終焉を迎えた 32 。
中村を追われた兼定であったが、旧領回復の野心を捨ててはいなかった。天正3年(1575年)、姻戚である豊後の大友氏の支援を取り付けた兼定は、再起を期して土佐へ再上陸を果たす 4 。これを迎え撃つべく、長宗我部元親は土佐全土から兵を集め、両軍は中村近郊の四万十川(当時の呼称は渡川)を挟んで対峙した。土佐の覇権を賭けた、雌雄を決する戦いの火蓋が切られたのである。
この戦いにおける両軍の兵力には、歴然とした差があった。長宗我部軍が約7,300の兵力を動員したのに対し、一条軍は在地豪族の寄せ集めであり、その数はおよそ3,500に過ぎなかった 34 。兵力で劣るだけでなく、指揮系統も統一されておらず、士気も低かった一条軍は、開戦前からすでに不利な状況に置かれていた。
合戦が始まると、元親の卓越した戦術が冴えわたる。まず、一部隊に川を正面から渡るよう見せかけ、一条軍の注意を引きつけた(陽動)。その隙に、福留儀重率いる主力部隊を川の上流から大きく迂回させ、一条軍の側面を突く態勢を整えたのである 34 。二方面からの挟撃を恐れた一条軍が、兵力を分散させて迂回部隊に対応しようとした瞬間、元親は本隊に一斉渡河を命令。倍以上の兵力による正面からの総攻撃を受け、一条軍はたちまち総崩れとなった。
戦いはわずか数刻で長宗我部軍の圧勝に終わり、一条方は200名以上の死者を出し、兼定は再び敗走した 34 。この「四万十川の戦い」により、名門・土佐一条氏は完全に滅亡し、元親による土佐統一が決定的なものとなったのである 36 。
四万十川の戦いの後、中村城には新たな城主として、元親の実弟であり、一条氏討伐で最大の功績を挙げた猛将・吉良親貞が入城した 22 。親貞は元親に代わって総大将を務めることもあった実力者であり 38 、その入城は、幡多郡が長宗我部氏の直接的な軍事支配下に置かれたことを明確に象徴していた。
これ以降、中村城は一条氏が築いた雅な「御所」としての性格を完全に失い、長宗我部氏が土佐西部を統治し、さらには伊予南部を窺うための純然たる軍事・行政拠点へとその役割を大きく変えた。
四万十川の戦いの勝敗を分けたのは、単なる将の優劣や兵力差だけではなかった。それは、両者が依拠する「軍事・社会システム」そのものの衝突であった。一条軍が、旧来の権威に依存し、在地豪族の緩やかな連合体としてしか軍を編成できなかったのに対し、長宗我部軍の強さの根源は「一領具足」と呼ばれる半農半兵制度にあった。これは、平時は農業に従事する兵士を領内に組織的に配置し、有事の際には槍一本と具足一領を携えて即座に参集させることで、迅速な大軍の動員を可能にする画期的なシステムであった 34 。兼定の再上陸からわずか数日で元親が7,300もの大軍を率いて戦場に現れたという事実は、このシステムの圧倒的な効率性を物語っている。この戦いの勝敗は、より近代的で中央集権的な軍事システムを構築した元親と、中世的な権威構造から脱却できなかった兼定との差によって、あらかじめ決していたと言っても過言ではない。それは、戦国時代が「家柄」の時代から「実力」の時代へと完全に移行したことを象徴する戦いであった。
長宗我部氏の支配も、天下の趨勢の前には長くは続かなかった。関ヶ原の戦いで西軍に与した長宗我部盛親は改易され、土佐国は徳川家康に味方した山内一豊に与えられた。これにより、土佐の支配者は再び交代し、中村城も新たな時代を迎える。
慶長6年(1601年)、土佐に入国した山内一豊は、高知城を本拠と定めた。そして、幡多郡の要衝である中村城には、弟の山内康豊を2万石で入封させた 21 。これにより、土佐藩の支藩である中村藩が成立し、中村城はその藩庁としての役割を担うことになった。康豊の子で二代藩主となった政豊は、領民に慕われる善政を敷いたと伝えられている 27 。彼の治世である慶長18年(1613年)、中村城では石垣を修復するなど大規模な普請が行われた 21 。これは、戦国時代の臨時の砦から、近世大名の居城として恒久的な支配の拠点へと城を改修しようとする、明確な意志の表れであった。
しかし、山内政豊による城の近世化改修が完了した矢先、中村城の運命は突如として終わりを告げる。元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、天下を完全に手中に収めた徳川幕府は、全国の大名に対し「一国一城令」を発布した。これは、大名の居城以外のすべての城を破却させるという法令であり、地方勢力の軍事力を削ぎ、幕府への謀反の可能性を根絶することを目的としていた。
この法令により、土佐国では高知城を除く全ての城が廃城の対象となり、中村城も例外ではなかった 25 。近世城郭として生まれ変わったばかりの中村城は、その新たな姿をほとんど披露することなく、歴史の舞台から姿を消すことになったのである。
山内政豊が1613年に行った石垣の修復は、中村城を近世城郭として再生させ、中村藩の永続的な支配の礎としようとする明確な意志表示であった 24 。しかし、そのわずか2年後に一国一城令によって廃城となるという結末は、大きな歴史的皮肉を含んでいる。地方の大名が自らの領国経営の安定化を目指して行った投資や努力が、中央(幕府)のより大きな政治的意図によって、いとも簡単に無に帰してしまう。これは、戦国時代的な「自力救済」や「領国経営」の論理が完全に終わりを告げ、徳川幕府という中央権力の下での「秩序」と「統制」の論理が、日本全国の隅々にまで及んだことを示す象徴的な出来事であった。中村城が最後に放った輝きは、まさに新しい時代の到来を告げるための、儚い打ち上げ花火のようなものであったと解釈できる。
土佐中村城の歴史は、応仁の乱に端を発し、徳川幕府による近世的秩序の確立に至るまでの、日本社会の激動を凝縮した物語である。一条氏が体現した京都の「権威」による支配は、長宗我部氏が象徴する地方の「実力」によって覆された。この権力移行の決定的な舞台となったのが中村城であり、その麓を流れる四万十川であった。
京文化の移植地として栄えた側面と、土佐統一の戦略拠点となった側面を併せ持つ中村城は、戦国時代における中央と地方のダイナミックな関係性を象徴する稀有な事例と言える。公家の雅と武家の剛が交錯し、やがては時代の奔流に飲み込まれていったこの城の歴史は、権力の本質とは何かを我々に問いかける。
城郭としての役目を終えてから400年以上の歳月が流れた今も、中村城の遺産は生き続けている。一条氏が遺した碁盤の目状の街並みや優雅な祭事は、今なお四万十市の文化的アイデンティティの中核を成している 8 。一方で、為松公園に残る土塁や石垣は、この地が経験した戦国の激動を静かに物語っている。中村城の歴史を深く理解することは、公家文化と武家社会の遺産が重層的に共存する「土佐の小京都」の、真の魅力を再発見することに他ならない。本報告書が、その一助となることを期待する。