九戸城は豊臣秀吉の天下統一最後の戦場。九戸政実が反乱を起こし、秀吉軍に攻囲されるも謀略で開城、悲劇的な結末を迎える。中世と近世の技術が混在し、今も地域の記憶を伝える。
陸奥国の北辺、現在の岩手県二戸市にその痕跡を留める九戸城。この城の名は、戦国時代の終幕を告げる一つの激戦と分かち難く結びついている。天正19年(1591年)、城主・九戸政実が、主家である南部氏、そしてその背後に控える天下人・豊臣秀吉に対して起こした反乱は、秀吉による天下統一事業の総仕上げとなる最後の合戦であった 1 。
九戸城で繰り広げられた戦いは、単なる地方領主の反乱鎮圧に留まらない、より深い歴史的意味を内包している。それは、長きにわたる戦乱の世を生き抜いてきた奥州の在地領主たちが育んだ伝統的な価値観と、中央集権化を推し進める豊臣政権がもたらした新たな秩序、すなわち近世という時代の論理が激しく衝突した最終局面であった 3 。この地は、まさしく「日本中世の終焉の地」と呼ぶにふさわしい歴史の転換点なのである 5 。
本稿は、この九戸城を多角的な視点から徹底的に調査・分析することを目的とする。第一部では、城郭そのものに焦点を当て、その地理的条件、縄張り、そして中世と近世の技術が混在する特異な構造を解明する。第二部では、城の運命を決定づけた「九戸政実の乱」について、その背景にある南部家の内訌から、豊臣政権の介入、そして籠城戦の悲劇的な結末までを詳細に追跡する。第三部では、落城後の城の変遷と、考古学的発掘調査によって明らかになった事実、さらには「謀反人」として滅ぼされた九戸政実が、なぜ今日まで地域の英雄として語り継がれているのか、その記憶の継承を考察する。これらの分析を通じて、九戸城が日本の歴史、特に戦国時代から近世へと移行する時代の断層をいかに体現しているかを明らかにしていく。
九戸城は、その物理的構造自体が、北奥羽の厳しい自然環境と、戦国末期の緊迫した軍事情勢を雄弁に物語る。中世的な城郭思想を色濃く残しながらも、天下統一の最終段階で近世的な技術が強引に上書きされた、二つの時代の顔を持つ稀有な城郭である。
九戸城の最大の強みは、その卓越した立地選定にある。城は馬淵川の右岸に形成された河岸段丘上に位置し、西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫淵川という三方の河川によって自然の要害を形成している 7 。これらの川床までの比高は20メートル以上にも及び、特に川に面した断崖は傾斜角45度を超える急峻な切岸となっており、物理的な攻撃を極めて困難にしていた 7 。この地形を最大限に活用する思想は、山や丘陵の自然地形を防御の要とする中世城郭の典型的な特徴を示している。
城域は広大であり、総面積は約34ヘクタールに及ぶ、東北地方でも有数の規模を誇る平山城であった 7 。その縄張りは、本丸、二ノ丸、三ノ丸という中心的な曲輪群に加え、その外郭に若狭舘、石澤舘、松ノ丸といった独立性の高い曲輪を配した複雑な構造を持つ 11 。絵図や発掘調査から、本丸は城主の居住空間を含む最終拠点、二ノ丸は本丸をL字型に囲む防御の要、そして城の南西に位置する松ノ丸は政務を執り行う空間や賓客を遇する場として機能し、その周辺には「在府小路」と呼ばれる武家屋敷群が形成されていたと推定される 5 。
これらの曲輪群をさらに強固に守るのが、人工的に掘削された巨大な堀である。特に防御が手薄となる南側には、幅25メートルから40メートル、深さ10メートルを超える大規模な空堀が幾重にも巡らされていた 7 。中でも、二ノ丸と松ノ丸・在府小路を隔てる「深田堀」は、底部の幅が60メートルにも達する圧巻の規模を誇り、九戸城の防御がいかに堅固であったかを物語っている 12 。
九戸城跡には、二つの異なる時代の城郭技術が同居しており、それがこの城の歴史的特異性を際立たせている。一つは九戸氏が築いた中世城郭の姿であり、もう一つは落城後に豊臣政権の手によって改修された近世城郭の姿である 4 。
九戸氏時代の城郭、すなわち中世的な特徴は、現在も若狭舘や石澤舘といった曲輪に色濃く残ると考えられている 11 。これらの区域は、土を盛り上げた土塁と、斜面を削り出して造成した急峻な切岸を主たる防御施設としている 14 。この地域一帯の土壌が、十和田火山の噴出による粘着質で加工しやすい火山灰土で覆われていたことは、堅固な土塁や切岸を構築する上で有利に働いたと指摘されている 13 。
これに対し、落城後の天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命を受けた蒲生氏郷らによって本丸、二ノ丸、松ノ丸に加えられた改修は、城の性格を一変させた 7 。この改修は「豊臣流」とも称される当時の最新技術、すなわち石垣の導入を最大の特徴とする 5 。本丸と二ノ丸を隔てる堀の斜面には、東北地方では最古級とされる石垣が築かれた 5 。この石垣は、自然石を巧みに組み合わせて積み上げる「野面積(のづらづみ)」、あるいはその技法で知られる石工集団の名を冠した「穴太積(あのうづみ)」と呼ばれるものである 5 。
穴太積は、近江国(現在の滋賀県)坂本の穴太衆と呼ばれる専門技術者集団によって発展した技法である 17 。自然石をほとんど加工せずに用いるため、石同士の隙間が多く見た目は粗雑に見えるが、内部に詰められた栗石が排水機能を果たし、水圧による崩壊を防ぐ 17 。また、石同士が柔軟に力を分散させる構造は、地震などの揺れにも強いという優れた特性を持っていた 19 。蒲生氏郷が会津若松城の築城でも用いたこの先進技術が九戸城に導入されたことは、この城が単なる修復に留まらず、豊臣政権の技術力と権威を北奥の地に誇示するための戦略拠点として再整備されたことを示唆している 5 。虎口(出入口)の構造も、単純な門から、敵を直角に二度曲がらせて攻撃を集中させる「枡形虎口」へと、より防御力の高い近世的な形態に改修されたと考えられている 9 。
このように、九戸城跡を歩くことは、土と石、中世と近世という二つの時代の技術と思想がせめぎ合う、歴史の断層を目の当たりにすることに他ならない。土塁と切岸が物語る在地領主の伝統的な築城術の上に、蒲生氏郷がもたらした石垣という近世の技術が重ねられている。この構造の変遷は、単なる建築様式の変化ではない。それは、奥州の地で育まれてきた中世的な軍事思想と地域秩序が、中央から到来した豊臣政権の圧倒的な権力と先進技術によって上書きされ、新たな時代へと強制的に組み込まれていく過程そのものを、物理的な「地層」として示しているのである。
九戸城の運命を決定づけた「九戸政実の乱」。この戦いは、南部一族内の積年の確執と、豊臣秀吉による天下統一の最終段階で強行された「奥州仕置」という二つの大きな歴史の潮流が交差する点で発生した、必然の帰結であった。それは、中世的な価値観に生きた奥州の武士が、近世的なリアリズムの前に屈した悲劇でもあった。
表1:九戸政実の乱に至る経緯と戦いの時系列表
年代 |
主な出来事 |
典拠 |
天正8年(1580) |
南部家24代当主・南部晴政が死去。 |
7 |
天正10年(1582) |
25代当主・南部晴継が13歳で急死。田子信直が26代当主となる。 |
7 |
天正18年(1590) |
豊臣秀吉が小田原征伐に続き「奥州仕置」を開始。 |
7 |
同年6月 |
南部信直の留守中、九戸政実方が三戸南部側の南盛義を攻撃。 |
8 |
同年7月27日 |
秀吉の朱印状により、信直が南部氏宗家としての地位を公認される。 |
8 |
同年10月以降 |
葛西大崎一揆など、奥州仕置に反発する一揆が各地で勃発。 |
8 |
天正19年(1591)1月 |
政実、宗家への正月参賀を拒否し、反意を明確にする。 |
8 |
同年3月 |
政実、約5,000の兵を率いて挙兵。南部領内は本格的な戦闘状態に。 |
7 |
同年6月9日 |
苦戦した信直、上洛し秀吉に援軍を要請。 |
8 |
同年7月24日 |
豊臣秀次を総大将とする奥州再仕置軍が会津若松を出発。 |
24 |
同年9月1日 |
九戸方の前線拠点、姉帯城・根反城が激戦の末に陥落。 |
13 |
同年9月2日 |
九戸城、総勢約6万の豊臣軍に完全包囲される。 |
23 |
同年9月4日 |
偽りの和議を受け入れ、政実らが降伏し開城。 |
24 |
降伏直後 |
約束は反故にされ、城内の兵士・女子供は二ノ丸で惨殺される。 |
25 |
同年9月20日頃 |
政実ら主だった武将が、三ノ迫(現・宮城県栗原市)にて斬首される。 |
24 |
九戸政実の挙兵の根源は、南部一族内の深刻な対立に遡る。南部氏の最盛期を築いた24代当主・南部晴政は、晩年まで嫡男に恵まれず、一族の有力者であった田子信直(後の南部信直)を養子に迎えた。しかし、その後実子・晴継が誕生すると、晴政と信直の関係は悪化の一途をたどった 7 。
天正10年(1582年)、晴政が没し、実子の晴継が家督を継ぐも、わずか13歳で謎の死を遂げる 2 。この後継者不在の混乱の中、信直が重臣・北信愛らの支持を得て、半ば強引に26代当主の座に就いた。この家督継承に最も強く反発したのが、九戸政実であった。政実の弟・実親は晴政の娘を娶っており、後継者候補の一人と目されていたからである 8 。
当時の南部氏は、三戸の宗家を盟主としながらも、九戸氏、八戸氏、七戸氏といった有力な分家がそれぞれ高い独立性を保つ「郡中」と呼ばれる同族連合体として成り立っていた 8 。信直の家督継承は、この微妙なパワーバランスを崩し、一族内に修復不可能な亀裂を生じさせるものであった。
南部家中の内紛に決定的な影響を与えたのが、豊臣秀吉による天下統一事業であった。天正18年(1590年)、秀吉は小田原の北条氏を滅ぼすと、それに従わなかった、あるいは参陣が遅れた東北地方の諸大名に対し「奥州仕置」と呼ばれる大々的な領地再編を断行した 26 。
この奥州仕置において、いち早く秀吉に臣従した南部信直は、南部一族の惣領としての地位を中央政権から正式に公認された 8 。これにより、これまで宗家と半ば対等な関係にあった九戸氏をはじめとする有力分家は、信直の「家臣」として位置づけられることになった。これは、独立自尊の気風が強い奥州の武士たち、とりわけ南部家中でも屈指の実力者であった九戸政実の誇りを著しく傷つけるものであった 26 。
当時の書状には、奥州の混乱の原因として「京儀を嫌いて」という言葉が散見される 29 。これは、惣無事令の強制、太閤検地による所領の再編、そして伝統的な支配体制の否定といった、豊臣政権が中央から一方的に持ち込んだ政策、すなわち「京儀」そのものへの広範な反発があったことを示している 27 。政実の挙兵は、信直個人への恨みだけでなく、こうした奥州全体の不満を代弁するものであり、単なる「乱」ではなく、広域的な「一揆」としての性格を帯びていたと見ることもできる 30 。天正19年(1591年)正月、政実は宗家への新年参賀を拒否し、同年3月、ついに反旗を翻したのである 8 。
挙兵した九戸勢は、南部家中の精鋭として知られ、その勢いは凄まじかった。櫛引氏など同調する勢力を加え、約5,000の兵力で信直方の城を次々と攻略した 23 。自力での鎮圧が困難と判断した信直は、秀吉に援軍を要請。これを受け、秀吉は奥州の完全平定を目指し、甥の豊臣秀次を総大将とする「奥州再仕置軍」を派遣した 8 。
表2:九戸城攻城戦における両軍の兵力と主要武将一覧
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九戸籠城軍 |
豊臣再仕置軍 |
総兵力 |
約5,000人 |
約60,000人 |
総大将 |
九戸政実 |
豊臣秀次 |
主要武将 |
櫛引清長、七戸家国、久慈備前守、姉帯兼興、小鳥谷摂津守など |
中央軍: 蒲生氏郷、浅野長政、堀尾吉晴、井伊直政、大谷吉継、石田三成、徳川家康など 東北諸将: 南部信直、津軽為信、伊達政宗、最上義光、秋田実季、小野寺義道、松前慶広など |
典拠 |
23 |
8 |
徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政、石田三成といった豊臣政権の主力をはじめ、伊達政宗や最上義光ら東北の諸大名まで動員された再仕置軍の総勢は6万ともいわれる大軍であった。緒戦では、九戸方の小鳥谷摂津守が奇襲をかけて一矢報いるも、圧倒的な兵力差の前に前線拠点の姉帯城、根反城は次々と陥落 8 。天正19年(1591年)9月2日、ついに九戸城は完全に包囲された 23 。
包囲軍は、城の正面にあたる南に蒲生氏郷・堀尾吉晴、東に浅野長政・井伊直政、北に南部信直・松前慶広、西に津軽為信ら東北諸将が布陣するという鉄壁の包囲網を敷いた 8 。しかし、九戸城の堅固な守りと籠城兵の士気は高く、攻城戦は熾烈を極めた。九戸勢はわずか5,000の兵で大軍を相手に一歩も引かず、攻城軍に多くの死傷者を出したと伝えられる 25 。
九戸城の難攻不落ぶりに業を煮やした攻城軍の主将・蒲生氏郷らは、武力による攻略から謀略へと戦術を転換する。九戸氏の菩提寺である長興寺の住職・薩天和尚を使者として城内に送り込み、「政実らの武勇を賞賛する。降伏開城すれば、城内の女子供や下級武士の命は保証する」という条件で和議を申し入れたのである 4 。
城内では謀略を疑う声も上がったが、これ以上の籠城は無益な犠牲を増やすだけだと判断した政実は、一人でも多くの将兵を救うため、この勧告を受け入れる決断を下す 2 。9月4日、政実は櫛引清長ら主だった武将と共に剃髪して僧衣をまとい、降伏の証として城を出た 24 。
しかし、この助命の約束は、始めから守る気のない偽りであった。政実らが城を離れた直後、開かれた城門から豊臣軍がなだれ込み、城内に残っていた九戸実親以下の兵士、そして女子供に至るまで、二ノ丸に押し込めて一人残らず撫で斬りにした 25 。その後、二ノ丸には火が放たれ、その炎は三日三晩燃え続けたと伝えられている 8 。一方、降伏した政実らも、弁明の機会すら与えられぬまま栗原郡三ノ迫へと送られ、そこで斬首された 7 。享年56であった 24 。
この戦いの結末は、単なる軍事的な勝敗以上のものを示唆している。政実が和議を信じた行動の背景には、地域の信頼関係や武士の名誉といった、中世的な価値観があったのかもしれない。対照的に、豊臣軍が用いた「騙し討ち」という非情な手段は、目的達成のためにはいかなる犠牲も厭わない、冷徹な近世的リアリズムの現れであった。九戸城の悲劇は、軍事力においてだけでなく、価値観の衝突においても中世が近世に完膚なきまでに敗れ去った瞬間を象徴している。豊臣秀吉による「天下統一」が、このような凄惨な現実の上に成り立っていたことを、九戸城の血塗られた歴史は静かに物語っているのである。
九戸城の落城は、一つの時代の終わりを意味した。しかし、城と城主の物語はそこで終わることはなく、新たな支配者の下での変転、そして人々の心の中に刻まれた記憶として、現代にまでその痕跡を留めている。発掘調査によって明らかにされた物理的な証拠と、地域に語り継がれる伝承は、勝者が記した公式の歴史とは異なる、もう一つの九戸城の姿を我々に示してくれる。
九戸政実の乱の鎮圧後、秀吉は九戸氏残党への警戒から、蒲生氏郷に命じて九戸城を改修させた 8 。最新の築城技術である石垣が導入され、近世城郭として生まれ変わった城は、南部信直に引き渡された 15 。信直は長年の本拠地であった三戸城からこの地へ移り、地名を「九戸」から「福岡」へ、城名も「福岡城」と改めた 5 。こうして福岡城は、名実ともに南部領の中心拠点となったのである。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。蒲生氏郷や浅野長政は、より領国経営に適した地として、さらに南方の不来方(現在の盛岡市)への本拠地移転を信直に勧めた 8 。この進言を受け入れた信直は盛岡城の築城に着手し、福岡城はその一時的な居城という位置づけになった。信直自身は慶長4年(1599年)にこの福岡城でその生涯を終えている 7 。その後、子の利直、孫の重直の代で本拠地が完全に盛岡城へ移ると、福岡城の役割は終わりを告げ、寛永13年(1636年)に正式に廃城となった 5 。
廃城後、永く歴史の中に埋もれていた九戸城であったが、その重要性から昭和10年(1935年)に国の史跡に指定され、保護と研究の対象となった 7 。さらに平成29年(2017年)には「続日本100名城」にも選定され、その歴史的価値は広く認知されている 10 。近年の継続的な発掘調査は、文献史料だけでは知り得なかった九戸城の新たな側面を次々と明らかにしている。
特筆すべきは、平成11年(1999年)に二ノ丸跡で発見された工房跡と考えられる遺構群である 4 。この工房跡からは、漆の付着した貝殻(漆を溶くパレットとして使用か)や、漆塗りの上に金泥を施した極めて豪華な鎧の小札(さね)などが一括して出土した 4 。これらの出土品は、九戸氏が城内で高度な武具を自製できるほどの技術力と経済力を有していたことを示している。また、出土した陶磁器などから、九戸氏が北奥の地にありながら、京都や大坂など中央とも活発な交易を行っていたことが裏付けられた 10 。
一方で、発掘調査は九戸城の悲劇を裏付ける物証も白日の下に晒した。落城時の惨劇の舞台となった二ノ丸跡からは、無数の刀傷や刺突痕が残る人骨が多数発見されている 31 。平成20年(2008年)に東北大学医学部で行われた再調査では、これらの人骨に女性のものも含まれていることが科学的に証明された 4 。これは、後世の軍記物や地域の伝承に記されてきた、女子供まで容赦なく殺害されたという「撫で斬り」が、単なる誇張ではなく、実際に起きた凄惨な事実であったことを示す動かぬ証拠となっている。
歴史上、九戸政実は豊臣政権に逆らった「謀反人」として記録された。しかし、地元二戸地域において、彼は全く異なる姿で記憶されている。中央の巨大な権力に屈することなく、自らの信念と一族の誇りをかけて戦った悲劇の英雄として、今なお深い敬愛の念をもって語り継がれているのである 5 。
その最も象徴的な現れが、城の呼称である。南部信直によって「福岡城」と改名されたにもかかわらず、地元の人々は今日に至るまで一貫してこの城を「九戸城」と呼び続けている 5 。これは、わずか数年でこの地を去った南部氏よりも、百数十年にわたってこの地を治めた九戸氏への強い思い入れと、その非業の最期に対する地域住民の共感が根底にあることを示している。それは、勝者が記した公式の歴史に対する、民衆による静かだが永続的な異議申し立てとも言えるだろう。
また、斬首された政実の首級を家臣が密かに持ち帰り、故郷の地に葬ったとされる「首塚」の伝承が今も残り、大切に供養されている 2 。政実が戦勝を祈願した九戸神社も、地域の信仰の中心として存続している 14 。これらの史跡や伝承は、政実の記憶が地域文化の中に深く根付いている証左である。
興味深いことに、九戸一族の血脈は完全には途絶えなかった。政実の乱で処刑を免れた実弟の中野康実は、後に南部藩に仕えることを許された。その子孫である中野氏は、八戸氏、北氏と並び、盛岡藩の家老職を代々務める「御三家」の一つとして幕末まで続いたのである 8 。これは、一度は敵対した一族であっても、その能力を評価し、藩の統治機構に取り込んでいった南部氏の現実的な判断を示すものであり、勝者と敗者という単純な二元論では割り切れない、戦国から近世への移行期の複雑な政治状況を物語っている。
このように、九戸城を巡る歴史は多層的である。豊臣・南部氏が記した「公式の歴史」、発掘調査が明らかにする「物理的な事実」、そして地元民衆が語り継ぐ「生きた記憶」。これらが時に重なり、時に食い違いながら、九戸城という史跡に複雑で奥行きのある価値を与えている。この城は、これらの多層的な歴史を一身に背負った、稀有な存在なのである。
岩手県二戸市に佇む九戸城跡は、単なる過去の遺構ではない。それは、日本の歴史が中世から近世へと大きく舵を切った、その激しい陣痛を刻み込んだ生きた証人である。
本稿で見てきたように、この城は複数の層において時代の転換点を象徴している。まず建築様式において、土塁と切岸を中心とした中世的な「土の城」に、蒲生氏郷がもたらした石垣という近世的な「石の城」の技術が上書きされた。次に政治思想において、地域の独立性を重んじる在地領主の価値観が、中央集権化を推し進める豊臣政権の冷徹なリアリズムの前に、謀略と殺戮によって打ち砕かれた。そして人々の記憶において、勝者によって記された「謀反人・政実」という公式の歴史と、地元の人々が語り継ぐ「英雄・政実」という民衆の記憶が、今なお併存し続けている。
九戸城の物語は、現代に生きる我々にも多くのことを問いかける。統一や秩序という大義名分の下で、時に暴力的な手段が正当化され、地域固有の文化や誇りが失われていく現実。歴史がいかに勝者の視点で語られがちであるかということ。そして、そうした公式の歴史に対し、地域の記憶や考古学的な物証が、いかに豊かで異なる光を当てうるかということ。
史跡として整備され、多くの人々が訪れるようになった九戸城跡。その広大な曲輪を歩き、深い堀を覗き込み、東北最古級の石垣に触れるとき、我々は単に過去の出来事を学ぶだけではない。天下統一の最後の戦場となったこの地は、中央と地方の関係、多様な価値観の共存、そして歴史の多層性といった、現代社会にも通じる普遍的なテーマについて思索を巡らせるための、貴重な教材となりうるのである。
九戸城跡の歴史をより深く理解するためには、以下の施設の訪問が推奨される。