佐東銀山城は安芸武田氏の拠点。毛利元就の謀略で落城し、毛利氏の支配下へ。広島城築城で廃城となるも、中世山城の貴重な遺構が残り、今も歴史を伝える。
広島平野の北縁、太田川が瀬戸内海へと注ぐデルタ地帯を睥睨するかのごとく聳える武田山。その標高410.9メートル 1 の山頂から尾根筋にかけて広がるのが、安芸国(現在の広島県西部)における中世最大級の山城、佐東銀山城(さとうかなやまじょう)である。別名を銀山城(かなやまじょう)、あるいは金山城(かなやまじょう)とも呼ばれるこの城は 3 、単に戦国時代の攻防の舞台となった一城郭という言葉だけでは語り尽くせない、重層的な歴史的意義を内包している。
第一に、佐東銀山城は、鎌倉時代から約300年にわたり安芸国の支配に関与した名門、安芸武田氏の興亡を象徴する拠点であった 1 。甲斐源氏の嫡流という由緒正しき血統を誇る武田氏が、いかにしてこの地に根を下ろし、そして戦国の荒波の中で滅び去ったのか。その盛衰の物語は、この城の石垣や曲輪の内に深く刻まれている。
第二に、この城は軍事拠点であると同時に、安芸国における政治・経済の中心地を支配するための「権力の基盤」であった。城の眼下には、古代山陽道と瀬戸内海水運が交差する交通の要衝が広がり、「佐東八日市」に代表される市場や、各地からの物資が集積する港湾機能が存在した 1 。佐東銀山城は、これら富の源泉を直接的・視覚的に支配下に置くことで、武田氏の権勢を支える経済的基盤を確立するための城であった。この城が「金山」「銀山」と呼ばれたのは、実際の鉱物産出の記録以上に、この地が生み出す金銀に匹敵するほどの経済的豊かさを象徴する呼称であった可能性が考えられる 1 。この城は、単なる防衛施設ではなく、経済圏を掌握し統治するための複合的な機能を有していたのである。
第三に、城郭構造そのものが、中世山城の技術的達成度と、近世城郭へと至る過渡期の様相を示す貴重な歴史遺産である。自然の地形を最大限に活用した広大な縄張りの中に、後の「枡形虎口」の原形と評される「御門跡」のような先進的な防御施設を備えており 1 、城郭史研究において重要な位置を占める。
本報告書は、戦国時代という視点を軸に、佐東銀山城の歴史的背景、城郭構造、そして城主の変遷と終焉を多角的に分析するものである。安芸武田氏の滅亡、毛利元就の台頭、そして広島城の築城という歴史の大きな転換点において、この城が果たした役割を解き明かし、その総合的な価値を明らかにすることを目的とする。
安芸武田氏の歴史は、甲斐源氏の嫡流であり、清和源氏の名門である武田信光が、承久3年(1221年)の承久の乱における戦功により、鎌倉幕府から安芸国守護職に任じられたことに端を発する 1 。信玄で知られる甲斐武田氏とは同祖であり、安芸武田氏もまた、源氏の名門としての高い家格を誇っていた 4 。
当初、武田氏は鎌倉にあり、安芸国の統治は守護代を派遣しての間接的なものであった。この守護代には、武田氏の家臣ではなく、現地の有力国人であった福島氏などが任じられていたとされる 4 。しかし、この体制は外部からの軍事的脅威によって転換を余儀なくされる。文永11年(1274年)、元寇という国家的危機に際し、幕府の命を受けた武田信時が初めて安芸国に下向し、直接統治を開始したのである 1 。この下向は、武田氏が安芸の地に深く根を下ろす第一歩となった。
当初の拠点、すなわち守護所は、太田川下流域の平地に置かれていたと推測される 3 。しかし、平地の拠点は防御上の脆弱性を抱えていた。正安元年(1299年)、桜尾城主であった平員家の攻撃を受け、この守護所は落城の憂き目に遭う 7 。この手痛い敗北が、より堅固で恒久的な防衛拠点の必要性を武田氏に痛感させた。このような状況下で、信時の孫にあたる武田信宗によって、鎌倉時代末期に武田山の山頂域に築かれたのが、佐東銀山城であったと伝えられている 1 。
このように、安芸武田氏の支配体制の確立と佐東銀山城の築城は、彼らが積極的に在地支配を推し進めた結果というよりも、「元寇」という国家的脅威と、「平員家による攻撃」という地域的な軍事衝突への受動的な反応の連続であった。中央の名門であった武田氏が、相次ぐ内外の脅威に対応する過程で、より軍事色を強め、在地に根差した支配者へと変質していったことを、佐東銀山城の創始は物語っている。
室町時代に入ると、安芸武田氏の立場は安芸国全体の守護から、佐東郡などを中心とする分郡守護へと縮小された 4 。しかし、その高い家格と軍事力により、安芸国内において最有力の国人領主として大きな影響力を保持し続けた 3 。この時代、安芸国は西の周防・長門を本拠とする大内氏と、北の出雲を本拠とする尼子氏という二大勢力の緩衝地帯となり、武田氏をはじめとする安芸の国人たちは、その間で複雑な外交関係を強いられることとなる。
特に、瀬戸内海の制海権や大陸貿易の利権を巡り、大内氏との対立は先鋭化していった。武田氏は、大内氏と対立する厳島神主家を支援したり 4 、あるいは中央政界で大内氏と敵対する細川氏と連携するなど、巧みな外交戦略でその勢力を維持しようと試みた 9 。
その緊張関係が大規模な軍事衝突に発展したのが、大永4年(1524年)の戦いである。この年、大内義興は2万5千と号する大軍を率いて安芸に侵攻。嫡子・大内義隆を総大将とする1万5千の別働隊が、武田光和の籠る佐東銀山城を包囲した 10 。この戦いは、後の安芸国の勢力図を占う上で極めて示唆に富んでいる。この時点で安芸武田氏は尼子氏と同盟関係にあり、当時まだ安芸の一国人に過ぎなかった毛利元就も、尼子方として武田氏を救援する側に立っていた 10 。籠城戦が膠着する中、元就が献策したとされる夜襲が悪天候を突いて敢行され、大内軍に大きな損害を与えて撤退に追い込んだと伝えられている 10 。
この1524年の攻防戦は、佐東銀山城の堅固さを示すと同時に、後の歴史の激変を予兆する前哨戦であった。この時点では「大内氏」対「尼子氏・武田氏・毛利氏」という構図であったが、わずか17年後の1541年には、毛利氏は大内氏側に付き、武田氏を滅ぼす側に回る。この事実は、安芸の国人たちが二大勢力の間でいかに流動的で、生き残りをかけた選択を迫られていたかを物語っている。武田氏は、この複雑な国際関係の中で主導権を握ることができず、結果として毛利元就の台頭を許す一因を作ったのである。
安芸武田氏の栄華に翳りが見え始めたのは、永正14年(1517年)の「有田中井手の戦い」であった。当主・武田元繁は、尼子氏の支援を受けて勢力回復を図り、大内方に属する吉川氏の有田城を5,000の兵で攻撃した 7 。これに対し、毛利・吉川連合軍はわずか1,000余りであったが、当時21歳であった毛利元就の巧みな用兵の前に、武田軍の先鋒を務めた猛将・熊谷元直が討死 13 。勢いに乗った連合軍の前に、元繁自身も又打川の河畔で矢に射抜かれ、壮絶な最期を遂げた 13 。毛利元就の初陣を華々しく飾ったこの戦いは、安芸武田氏にとっては大黒柱を失う致命的な敗北となり、これ以降、その勢力は坂道を転げ落ちるように衰退していく 7 。
元繁の死後、子の武田光和が跡を継ぎ、一時は大内・尼子という二大勢力の間で巧みに立ち回り勢力を維持したが、天文9年(1540年)に光和が若くして病死すると、武田氏の内部崩壊は決定的となる 10 。光和には嗣子がおらず、若狭武田氏から信実を養子に迎えたが、この養子当主では家中の人心を掌握することができなかった 9 。重臣である品川氏と香川氏が内紛を始め、家中は分裂状態に陥った 10 。さらに、婚姻関係のもつれなどから、武田氏の最有力麾下であった国人・熊谷信直が離反し、宿敵であった毛利元就に与したことは、武田氏にとって致命的な打撃となった 9 。
このような内部崩壊の最中、天文9年(1540年)から翌10年にかけて、尼子氏が毛利氏の本拠・吉田郡山城を攻めるも大敗を喫した(吉田郡山城の戦い)。尼子方としてこれに参陣していた安芸武田氏は、尼子軍の敗走により、安芸国で完全に孤立することになる 10 。もはやこれまでと悟ったのか、当主・武田信実は、家臣の離反が相次ぐ中、ついに本拠である佐東銀山城を捨てて出雲へと逃亡した 7 。
主を失った佐東銀山城に対し、大内義隆の命を受けた毛利元就が総攻撃を開始する。時に天文10年(1541年)5月のことであった。この時、元就は油に浸して火をつけた千足の草鞋を夜陰に乗じて太田川に流し、大軍が渡河してくるように見せかける陽動作戦で城兵を欺いたという「千足の草鞋」の伝説が残されている 1 。この計略は、城の正面が太田川に面するという地理的特徴と、夜間の籠城側の不安な心理を巧みに突いたものであり、元就の知略を象徴する逸話である。この陽動によって守備が手薄になった裏手の搦手から毛利軍は一気に攻め上り、城に残って抵抗を続けていた武田一族の信重ら300余の将兵は玉砕、信重は自害して果てた 10 。ここに、承久の乱以来、約300年にわたって安芸国に君臨した名門・安芸武田氏は、歴史の舞台からその姿を消したのである。
この滅亡の過程は、毛利元就の軍事的才能が優れていたことは言うまでもないが、それ以上に、度重なる当主の死、後継者問題、家臣団の内紛、有力国人の離反といった、安芸武田氏自身の内部崩壊が最大の要因であったことを示している。元就の攻撃は、すでに内部から崩れ落ちていた巨大な建造物に対する、最後の一押しに過ぎなかったのである。
佐東銀山城は、その規模において安芸国内で群を抜く存在であった。城域は武田山全山に及び、東西約700メートル、南北約1000メートル超に達する 4 。山内には大小50近くもの郭(曲輪)が確認されており、毛利氏の本拠である吉田郡山城と並び称される、中世山城としては最大級の規模を誇る 1 。
その縄張り(城の設計思想)の最大の特徴は、大規模な土木工事を極力抑え、山が元来持つ急峻な地形や点在する巨石群を、防御施設として最大限に活用している点にある 4 。山頂の主郭から放射状に延びる複数の尾根筋に沿って郭を配置する「連郭式山城」の典型であり、山全体が有機的に連携した一大要塞を形成していた 4 。
城の中枢をなす主要な郭群は、それぞれ明確な機能分担がなされていたと推測される。
これらの主要な郭の他にも、観音堂跡(信仰・密議の場)、弓場跡(訓練場)、見張台、武者溜り跡(伏兵の配置場所)などが、機能的に配置されていた 3 。
佐東銀山城と、後に毛利氏が安芸国の拠点とした吉田郡山城を比較すると、戦国時代における城郭機能の変遷が見て取れる。両城は共に安芸国最大級の山城であるが、その縄張り思想には明確な違いがある。佐東銀山城が自然地形への依存度が高い伝統的な中世山城の様相を色濃く残すのに対し、毛利氏によって拡張された郡山城は、より多くの人工的な曲輪群を放射状に配し、中枢部には石垣を多用することで、領国全体を支配する戦国大名の拠点としての権威と、大規模な籠城戦を想定した防御能力を追求している 26 。この違いは、分郡守護の拠点であった佐東銀山城と、中国地方の覇者の拠点へと発展した郡山城との、城に求められる役割の変化を如実に物語っている。
表1:佐東銀山城と吉田郡山城の比較
特徴 |
佐東銀山城 (安芸武田氏) |
吉田郡山城 (毛利氏) |
立地 |
太田川河口域、経済中心地を俯瞰 1 |
内陸の盆地、領国経営の中心 27 |
規模 |
安芸国最大級 (約70ha) 4 |
安芸国最大級 (約70ha) 26 |
縄張り |
尾根筋を利用した連郭式 4 |
主郭から放射状に広がる巨大要塞 27 |
防御思想 |
自然地形・巨石の活用が主 4 |
人工的な曲輪群、堀切、石垣を多用 26 |
石垣 |
御門跡などに限定的 7 |
中枢部(本丸、二の丸等)に多用 26 |
虎口 |
御門跡(枡形の原形) 1 |
内枡形虎口など、より発展した形態 27 |
城下町 |
麓に市場・港が自然発生的に存在 1 |
計画的な城下町(縄手、市)を形成 26 |
性格 |
地域支配の拠点(国人領主の城) |
領国全体の支配拠点(戦国大名の城) |
佐東銀山城の防御施設は、自然地形を巧みに利用しつつ、当時としては先進的な技術が導入されている点に大きな特徴がある。その中でも特筆すべきは「御門跡」の構造である。
御門跡 ―近世城郭の「枡形」の原形―
城の中腹の要所に設けられたこの門跡は、自然の巨石を利用して周囲を囲み、内部に6メートル四方ほどの空間を確保している 8。最大の特徴は、通路を直角に屈曲させる「かぎの手」と呼ばれる構造を持つ点である 1。これにより、城内に侵入しようとする敵兵は、直進することができず、速度を落として方向転換を強いられる。その減速した敵兵に対し、周囲の石積みの上から側面攻撃を加えることが可能となり、防御効率を飛躍的に高めることができる。この、空間(枡)に敵を誘い込み、多方向から攻撃を加えるという思想は、織田信長や豊臣秀吉の時代に完成される「枡形虎口」の基本的な概念と完全に一致する 29。佐東銀山城の御門跡は、その原初的な形態を戦国時代前期の山城に留めている点で、日本の城郭技術史において極めて貴重な遺構と評価されている 1。この先進的な構造は、安芸武田氏が若狭武田氏などを通じて中央の最新の軍事技術に接する機会があったことを示唆しており、地方の山城が独自の発展を遂げただけでなく、中央の技術と交流があった可能性を物語っている。
堀切と土塁 ―尾根筋の遮断技術―
山城の基本的な防御施設である堀切も、効果的に配置されている。特に城の東西に延びる尾根筋は、複数の深い堀切によって厳重に分断され、敵が尾根伝いに容易に中枢部へ侵入することを防いでいる 3。東側に位置する「犬通し」と呼ばれる堀切は、尾根を完全に遮断する防御施設であると同時に、城の表側(大手)と裏側(搦手)を結ぶ連絡通路としての機能も兼ね備えており、城内の機動性を確保するための工夫が見られる 3。
巨石・岩盤を利用した防御
城内各所、特に山頂部の御守岩台や館跡周辺には、自然の巨石群が点在しており、これらがそのまま城壁や障害物として機能していた 3。また、「見張台」とされる平たい岩の上には、櫓の土台となる柱を据えるための溝が二本彫り込まれている 8。これは、自然物を最小限の加工で軍事施設へと転用した好例であり、佐東銀山城の築城思想を端的に示している。
佐東銀山城は、単なる戦闘施設ではなく、城主とその家族、家臣団が生活を営み、精神的な支えを求めた場所でもあった。その痕跡は、城内の各所に今も残されている。
城内最大の郭である「館跡」の岩盤には、建物の柱を立てたとみられる柱穴が多数確認できる 8 。これらの痕跡から、有事の際に避難する「詰の城」としてだけでなく、平時においても城主が居住し、政務を執り行うための大規模な建造物が存在したことが強く示唆される。
また、城内には生活の営みを偲ばせる伝承が残る。「館跡」の脇にある「鶯の手水鉢」は、岩の上に人工的に穿たれた窪みで、どんな日照りでも水が涸れなかったと伝えられる 3 。山城において水の確保は死活問題であり、この手水鉢は貴重な水源であったと同時に、城兵たちの精神的な拠り所となっていたのかもしれない。「千畳敷」の周辺には、弓矢の材料となる「矢竹」や、武具の手入れに用いられた「椿」が多く植えられていたという伝承もあり 8 、城が常に臨戦態勢に置かれていたことを物語っている。
さらに、城内には信仰に関わる施設も存在した。山頂の「御守岩台」には、かつて小社が祀られ、麓からもその姿を仰ぎ見ることができたという 3 。これは、山そのものが持つ神聖さと城主の権威を結びつけ、支配の正当性を視覚的に示す効果があったと考えられる。また、城の主要部から少し離れた場所には「観音堂跡」と呼ばれる広場がある 8 。ここは、戦勝祈願や休息、戦略の密議の場として使われたほか、戦に敗れた際には自刃する最後の場所とも伝えられており、武士たちの生と死、そして信仰が交錯する空間であった 8 。
これらの遺構や伝承は、佐東銀山城が軍事・政治・経済の拠点であっただけでなく、そこに暮らす人々の精神的・信仰的な中心地としての役割も担っていたことを示している。武田氏の権力は、物理的な軍事力のみならず、こうした宗教的権威によっても支えられていたのである。
天文10年(1541年)に安芸武田氏が滅亡すると、佐東銀山城はその主を失い、中国地方の覇権を争う大内氏と毛利氏の手に渡ることになる。
落城直後、城は大内義隆の支配下に入り、城番として重臣の冷泉隆豊らが置かれた 7 。これにより、安芸国における大内氏の支配力は一層強固なものとなった。しかし、この大内氏による支配も長くは続かなかった。大内氏の家臣であった毛利元就が急速に勢力を拡大し、やがて主家と対立する道を歩み始めるからである。
天文23年(1554年)、元就は大内氏との手切れ(防芸引分)に踏み切り、翌年の「厳島の戦い」へとつながる軍事行動を開始する。その前哨戦として、元就は佐東銀山城を攻略。この時、城番であった大内方の栗田肥後入道は、元就の説得に応じて戦わずして城を明け渡し、佐東銀山城は無血で毛利氏の支配下に入った 7 。
元就は、この天然の要害である佐東銀山城を高く評価し、自らの隠居城として使用する計画を立てていたと伝えられている 3 。この計画は、単なる個人的な願望ではなく、毛利氏の将来を見据えた高度な政治的構想であった可能性がある。当時、元就は嫡男・隆元への権力移譲を進めていた。本拠地である内陸の吉田郡山城を隆元に譲り、自らは安芸国の経済的中心地であり瀬戸内海への玄関口でもある佐東銀山城に隠居することで、軍事・経済の両面から隆元体制を後見し、領国支配を安定させようという深謀遠慮があったのかもしれない。この計画は最終的に実現しなかったが、元就がこの城の地政学的重要性をいかに認識していたかを示す逸話である。
毛利氏の支配下に入った佐東銀山城であったが、その役割は時代の変化とともに終わりを迎える。元就の孫・毛利輝元の時代、毛利氏は豊臣秀吉の天下統一事業に組み込まれ、その政権下で大大名としての地位を確立する。この新たな時代の要請に応えるため、輝元は天正17年(1589年)、太田川のデルタ地帯に、広大な城下町を伴う近世的な平城・広島城の築城を開始した 1 。
政治、経済、そして水運の拠点として築かれた広島城が天正19年(1591年)にほぼ完成すると、安芸国の中心は、山上の佐東銀山城から平地の広島城へと完全に移行した 7 。これは、戦乱の時代が終わり、大名が領国を一元的に「治める」時代へと移行したことを象徴する出来事であった。防御に特化した山城は、広大な城下町を必要とし、領国経営の拠点となる近世城郭の前では、その戦略的価値を失わざるを得なかった。佐東銀山城の役割の終焉は、毛利氏の政治的事情だけでなく、城郭そのものの「戦略的陳腐化」という、軍事技術史的な必然でもあった。
そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として敗れた毛利輝元が、徳川家康によって防長二国(現在の山口県)へ移封されると、佐東銀山城はその歴史的役割を完全に終え、廃城となった 4 。
慶長5年(1600年)に廃城となった後、佐東銀山城は歴史の表舞台から姿を消した。しかし、そのことが結果的に、この城の遺構を今日まで良好な状態で保存することにつながった。近世以降、城は戦略的価値を完全に失い、山深い不便な場所として人々の記憶から薄れていった。そのため、近世城郭の石垣のように他の建築物に転用されたり、市街地開発によって破壊されたりする災禍を免れたのである 7 。この「放置されたことによる保存」という歴史の皮肉が、佐東銀山城を中世山城の構造を研究するための貴重なタイムカプセルとして現代に残した。
その歴史的価値が再評価され、昭和31年(1956年)3月30日、「銀山城跡」として広島県の史跡に指定された 6 。現在では、地域住民や市民活動グループによる熱心な保全活動が行われ、登山道や各遺構の案内板が整備されている 7 。急峻な登り道もあるため登山靴などの装備は必須であるが 5 、JR可部線の下祇園駅や大町駅などからアクセスが可能で 3 、広島市民にとって歴史と自然に触れることができる格好のハイキングコースとして親しまれている 3 。歴史的偶然によって残されたこの貴重な遺産は、現代の人々の手によって新たな文化的価値を持つ史跡として再生されているのである。
佐東銀山城は、安芸国の戦国史において、忘れ得ぬ幾つかの重要な足跡を刻んでいる。
第一に、300年の歴史を誇った名門・安芸武田氏が滅亡した悲劇の舞台である。高い家格と堅固な城を持ちながらも、時代の潮流と内部の脆弱性によって滅び去った武田氏の物語は、戦国時代の非情さと、いかなる名門も安泰ではないという下剋上の現実を我々に突きつける。
第二に、毛利元就の台頭を象徴する画期的な場所であった。元就にとって、旧守護である武田氏を打倒し、その本拠地であった佐東銀山城を自らの手中に収めたことは、単なる一戦の勝利以上の意味を持っていた。それは、安芸国における旧秩序の終焉と、毛利氏による新時代の到来を内外に宣言する象徴的な出来事であり、後の中国地方統一への大きな一歩であった 11 。
第三に、中世山城の構造と技術を今に伝える、第一級の歴史遺産である。自然地形を最大限に利用した広大な縄張り、そして「御門跡」に見られる近世城郭の萌芽ともいえる先進的な防御思想は、戦国時代の築城技術を具体的に体感させてくれる貴重な教材である。
そして最後に、この城は滅びた一族の物語がそこで終わらなかったことを示している。佐東銀山城の落城の際に自害した武田信重の子、あるいは一族であったとされる人物が、後に安国寺恵瓊として歴史の表舞台に再び登場する 3 。彼は、一族の仇であるはずの毛利氏の外交僧としてその才能を遺憾なく発揮し、豊臣秀吉政権下では大名にまで上り詰めた。滅びた城から生き延びた一人の若者が、数奇な運命の果てに再び歴史を動かす存在となったこの事実は、佐東銀山城の物語に、悲劇だけではない、複雑で深遠な余韻を残している。