最終更新日 2025-08-19

八上城

丹波の要衝、八上城は波多野氏の居城として栄え、明智光秀の猛攻を一年半耐え抜いた。兵糧尽き落城、波多野氏は滅びるも、その堅固な守りは今も史跡として語り継がれる。

丹波国八上城総合研究報告書 ―戦国期におけるその戦略的価値と終焉―

序論:丹波の要衝、八上城

丹波国八上城は、現在の兵庫県丹波篠山市に位置し、戦国時代の動乱を象徴する中世山城の傑出した遺構である。その立地は、篠山盆地の中央南部にそびえ、優美な山容から「丹波富士」の異名を持つ高城山(標高約460m)の天然の要害を利用している 1 。この城が歴史の表舞台で重要な役割を演じた背景には、丹波国そのものが持つ地政学的な特性が深く関わっている。

丹波国は、西の山陰地方と東の京畿内を結ぶ大動脈、山陰道が貫通する交通の要衝であった 1 。特に八上城が位置する多紀郡は、京都への玄関口にあたり、この地を制することは畿内の政治・軍事情勢に直接的な影響を及ぼすことを意味した。戦国時代、丹波国は特定の単一大名による統一支配が及ばず、波多野氏、赤井氏、内藤氏といった国人領主が群雄割拠する、権力の空白地帯に近い状態にあった 4 。その中で、八上城を本拠とした波多野氏は奥丹波に強固な地盤を築き上げ、地域最大の勢力として君臨したのである 1

八上城の戦略的価値は、単に街道沿いの拠点という地理的条件に留まらない。天下統一を目指す織田信長にとって、京都に隣接する丹波は、上洛後の政権を安定させるために平定が不可欠な背後の地であった。同時に、西国に強大な勢力を誇る毛利氏との対立が先鋭化する中で、丹波は両勢力が衝突する最前線、すなわち戦略的緩衝地帯としての役割を担うこととなった。当初は織田方に恭順の意を示した波多野氏が、後に毛利氏に与したという事実は、八上城が織田・毛利という二大勢力の角逐の舞台であったことを物語っている 1 。したがって、信長が重臣明智光秀に命じてまで執拗に攻略を目指した丹波平定戦、その中でも最大の激戦地となった八上城の攻防は、単なる地方国人の討伐という次元を超え、信長の天下統一事業の成否を左右する国家戦略レベルの軍事行動であったと位置づけられる。

本報告書は、この八上城について、その黎明期から波多野氏の台頭、城郭としての構造的特徴、明智光秀との壮絶な攻防戦、そして落城後の終焉と近世への移行、さらには現代における歴史的価値に至るまで、現存する資料を基に多角的な視点から徹底的に分析・考究し、その全貌を明らかにすることを目的とする。

【表1:八上城関連年表】

年代

主要な出来事

典拠

15世紀後半

波多野清秀、応仁の乱の戦功により丹波国多紀郡小守護代に任じられ、奥谷城を築く。

1

大永6年(1526)

史料『足利李世記』『細川両家記』に「矢上城」として初出。この頃、本拠を高城山に移転か。

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天文7年(1538)

波多野氏、守護代の内藤氏を攻略し、奥丹波を実効支配する。

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永禄2年(1559)

三好長慶・松永久秀との抗争により、一時的に八上城を奪われる。

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永禄9年(1566)

波多野秀治が八上城を奪還。勢力を拡大し、最盛期を迎える。

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永禄11年(1568)

織田信長の上洛。波多野氏は当初、信長に服従の姿勢を示す。

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天正4年(1576)

波多野秀治、信長から離反。明智光秀を裏切り、第一次丹波攻略軍を敗走させる。

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天正6年(1578)9月

明智光秀による第二次丹波攻略開始。八上城の包囲戦が始まる。

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天正7年(1579)6月1日

約1年半にわたる籠城戦の末、波多野秀治が降伏し、八上城は落城する。

6

天正7年(1579)6月4日

波多野秀治・秀尚・秀香の三兄弟、安土にて磔刑に処される。戦国大名波多野氏が滅亡。

8

天正7年(1579)以降

明智光秀、羽柴秀勝、前田玄以らが城主となる。

9

慶長7年(1602)

前田茂勝が八上藩5万石に封じられ、八上城に入城。

1

慶長13年(1608)

松平康重が入封。高城山頂での普請を試みるも、峻険なため放棄。

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慶長14年(1609)

徳川家康の命による天下普請で篠山城が築城される。これに伴い八上城は廃城となる。

1

平成17年(2005)3月2日

「八上城跡」として国の史跡に指定される。

1

第一章:八上城の黎明 ― 波多野氏の丹波国制覇

第一節:波多野氏の出自と丹波入部

丹波国にその名を轟かせた波多野氏であるが、その起源は丹波土着の勢力ではない。彼らのルーツは遠く相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)に遡る 13 。平安時代後期、藤原秀郷の流れを汲む佐伯経範がこの地を領して波多野氏を称したのが始まりとされる 14 。鎌倉時代には幕府の有力御家人として重用され、一族からは六波羅探題の評定衆を輩出するなど、中央政権においても一定の地位を築いた名門であった 13

この相模の名門が丹波の地と結びつくのは、15世紀後半の応仁・文明の乱期である。当時、石見国(現在の島根県)の土豪であった一族の波多野清秀が、応仁の乱における戦功を管領・細川政元に認められ、丹波国多紀郡の小守護代に任じられた 1 。これが、戦国大名・丹波波多野氏の直接的な濫觴となる。この人事は、単なる恩賞というだけでなく、細川氏が自らの影響力を丹波国内に浸透させるための戦略的な配置であった。土着の国人領主とは異なる、中央政権の権威を背景に持つ「外来の支配者」を送り込むことで、現地の勢力図を再編し、直接的な支配を強化しようという意図があったと考えられる。波多野氏が丹波で急速に勢力を伸張できた要因の一つは、この「中央との強固なパイプ」にあった。

第二節:戦国大名への道

丹波に入部した波多野清秀が最初に本拠地として選んだのは、高城山の南麓、谷が深く入り込んだ奥谷地区の蕪谷に築かれた奥谷城(蕪丸城)であった 1 。これは、まずは防御に徹しやすい地形に拠点を確保し、そこから徐々に勢力を拡大していくという、当時の国人領主に見られる典型的な発展形態を示している。

やがて波多野氏は、細川氏の有力な被官(内衆)として中央政権内での発言力を増し、その権威を背景に丹波国内での影響力を強めていく 1 。そして、大永6年(1526年)の『足利李世記』や『細川両家記』に「矢上城」の名が見えることから、この時期までには本拠地を防御性の高い奥谷から、より広大で支配の象徴となりうる高城山へと移転させ、大規模な城塞化に着手したと推察される 1 。この本拠地の移転は、単なる物理的な移動ではなく、波多野氏が谷間に拠る一領主から、篠山盆地一帯を睥睨し、領域全体を支配する戦国大名へと脱皮していく画期的な出来事であった。

その勢いは、天文7年(1538年)に丹波守護代であった内藤氏を攻略し、奥丹波一帯を実効支配下に置くことで頂点に達する 1 。しかし、その後の畿内は三好長慶の台頭により激動の時代を迎え、波多野氏も三好氏やその家臣・松永久秀との抗争の中で、一時は八上城を奪われるという苦境に陥った 1 。この危機を乗り越え、波多野氏の栄光を再び取り戻したのが、波多野秀治である。永禄9年(1566年)、秀治は宿願であった八上城を奪還すると、丹波国内に40余りの城と30余りの砦を築き、一族の勢力を最大のものとした 1 。この時、八上城も本丸、二の丸、三の丸、岡田丸などを構築する大規模な改修が施され、歴史に名高い難攻不落の堅城へと変貌を遂げたのである 12

第二章:難攻不落の要塞 ― 八上城の構造と縄張り

第一節:巨大山城としての全体像

八上城は、戦国時代における山城築城術の一つの到達点を示す壮大な城郭である。その城域は、主峰である高城山(標高約460m)に築かれた本城部分と、西に連なる法光寺山(標高約340m)に展開する支城群とで構成され、東西約3km、南北約1.4kmという広大な範囲に及ぶ 1 。これは、単一の山に築かれた城ではなく、複数の山稜と谷間を一体的に利用し、地域全体を要塞化するという高度な防御思想に基づいている。麓には城主の居館や政務を執り行う屋敷が置かれ、有事の際には山上の詰城に籠るという、中世山城の典型的な構造が見て取れる 17

この城の縄張りは、一度に全体が設計されたものではなく、波多野氏の勢力拡大の歴史を物理的に体現している。すなわち、初期の拠点であった奥谷城、一族の発展とともに主城へと整備された高城山本城、そして支配領域の拡大に伴い防衛網を強化するために城塞化された法光寺山城という三つの主要部分が、段階的に拡張・改修されていった結果、今日の広大な城郭群が形成されたのである 1 。したがって、八上城の複雑な構造は、単なる防御設計の産物であるだけでなく、波多野一族の興隆の歴史を刻んだ「生きた記録」として読み解くことができる。

第二節:主郭部の防御施設

八上城の中核をなす高城山の主郭部は、自然地形を最大限に活かしつつ、人工的な改変を加えることで鉄壁の防御網を構築している。

その縄張りは、山頂に本丸を置き、そこから派生する尾根筋に二の丸、三の丸、岡田丸、右衛門丸といった複数の曲輪(くるわ)を階層的かつ連続的に配置する、いわゆる連郭式の形態を基本とする 12 。特に尾根上に郭を縦列に並べる配置は、敵が一つを突破しても次々と現れる防御区画によって進軍を阻まれ、消耗を強いられる構造となっており、高い防御力を発揮した 19

これらの曲輪群をさらに強固なものとしているのが、多彩な防御遺構である。尾根を人工的に深く掘り切って敵の進路を物理的に遮断する「堀切」は、特に主郭部と外部を隔てる箇所に大規模なものが設けられている 20 。また、山の斜面を縦方向に掘り下げた「竪堀」は、斜面を横移動する敵兵の展開を妨害し、防御側が有利な位置から攻撃を加えることを容易にするための工夫である 20 。石垣については、本丸北側や右衛門丸東側などに部分的にその遺構が確認できるものの、安土城以降の近世城郭に見られるような総石垣ではなく、あくまで土を削り、盛り上げて造成した土塁や切岸(きりぎし)を防御の主体としていた 18 。八上城に残された石垣の多くは、後に篠山城築城の際に石材として転用されたと伝えられている 21

長期にわたる籠城戦を可能にする上で不可欠な水の確保も周到に行われていた。城内には「朝路池」と呼ばれる井戸曲輪が設けられ、これが城内最大の水源として機能していた 20 。この水源の存在は、八上城が単なる一時的な避難場所ではなく、長期間の包囲に耐えうる本格的な軍事拠点として設計されていたことを示している。

第三節:支城群との連携

八上城の防御体制は、高城山の本城単体で完結するものではなかった。本城、山麓の城下町、そして周辺の支城群が有機的に連携し、多層的で広域な防衛ネットワークを形成していた点に、その真の強さがあった。

この体制の要となったのが、高城山の西に位置する法光寺山城と、南西麓にある奥谷城である 16 。奥谷城は、もともと波多野氏が丹波に入部した当初の居城であったが、本拠を高城山に移してからは、麓の城下町と登城口を守る重要な出城として機能した 1 。一方、法光寺山は、奥谷の城下町を守るために城塞化され、高城山本城と一体となって「三位一体」とも言うべき強固な防御体制を築き上げていた 16

さらに、これらの主要な城郭の周囲には、吹城、勝山城、曽地城といった数多くの支城や砦が衛星のように配置されていた 20 。これらの砦群は、敵の侵攻を早期に察知するための監視拠点であると同時に、敵主力が本城に到達する前に多方面から迎撃し、その戦力を削ぐための前線基地でもあった。明智光秀による包囲戦の際には、これらの支城が光秀軍の進撃を阻み、籠城戦を長期化させる上で大きな役割を果たしたのである。

第三章:丹波攻略の天王山 ― 明智光秀による八上城の戦い

第一節:開戦に至る経緯

天正3年(1575年)、天下布武を掲げる織田信長は、畿内周辺の平定を最終段階に進めるべく、重臣・明智光秀に丹波国の攻略を命じた 8 。当初、丹波の国人領主の多くは信長の圧倒的な軍事力を前に恭順の意を示し、八上城主・波多野秀治もその一人であった。しかし、この平穏は長くは続かなかった。

天正4年(1576年)、光秀が丹波攻略の総仕上げとして、最後まで抵抗を続ける赤井氏の黒井城を攻撃した際、事態は急変する。戦いが織田軍優勢で進み、黒井城落城も間近と思われたその時、味方であったはずの波多野秀治が突如として離反し、光秀軍の背後を急襲したのである 8 。完全に意表を突かれた光秀軍は総崩れとなり、光秀自身も命からがら京の坂本城へと敗走する屈辱を味わった 8

秀治のこの行動は、単なる気まぐれや裏切りではなかった。当時、信長に対しては将軍・足利義昭を擁する毛利氏、石山本願寺、越後の上杉謙信らによる広範な反信長包囲網が形成されつつあった 25 。秀治は、信長の力が丹波に深く浸透することを危惧し、西国の雄である毛利氏との連携に活路を見出したのである 1 。丹波が織田・毛利両勢力の戦略的緩衝地帯であったことを考えれば、秀治の選択は、自らの勢力を保つための、戦国武将として極めて合理的な判断であったと言える。しかし、この決断は、八上城と波多野一族を、信長の天下統一事業における最大の障害物の一つとして位置づけることになり、壮絶な攻城戦の幕開けを告げるものであった。

第二節:一年半に及ぶ籠城戦(天正6年9月~天正7年6月)

第一次丹波攻略の失敗という手痛い教訓を得た明智光秀は、天正6年(1578年)9月、満を持して第二次攻略を開始する 6 。この時、光秀が選択した戦術は、かつての失敗を繰り返さないための、冷徹かつ合理的なものであった。彼は、難攻不落と謳われる八上城への無謀な力攻めを避け、城を完全に孤立させた上で兵糧の枯渇を待つ、徹底した包囲・兵糧攻め作戦を展開したのである 21

光秀はまず、八上城の周囲に般若寺城や大上西ノ山城といった複数の「付城(つけじろ)」、すなわち攻撃用の前線基地を築き、包囲網を構築した 27 。信頼性の高い史料である『信長公記』には、その包囲が「獣も通る隙間がない」ほど厳重なものであったと記されており、八上城への兵糧や援軍の補給路は完全に遮断された 8

この兵糧攻めの効果は、時間の経過とともに城内に悲惨な状況をもたらした。籠城側の兵糧はたちまち底を突き、城兵や領民は牛馬や草木を食らい、飢えをしのいだとされる 8 。天正7年(1579年)4月の時点での光秀の書状によれば、城内の餓死者はすでに400人から500人に達していたという 6 。しかし、そのような極限状況にあっても波多野軍の士気は高く、城外へ打って出て光秀軍の陣地に夜襲をかけるなど、果敢な抵抗を続けた。この戦闘では、丹波攻略開始時から光秀を支えてきた有力配下・小畠永明が討死するという、光秀軍にとっても大きな損害が出ている 8

この八上城の戦いは、明智光秀という武将の特質を如実に示している。最初の敗戦という屈辱を感情的な雪辱戦に昇華させることなく、兵站と時間を味方につけた非情なまでの兵糧攻めという、最も確実で自軍の損耗が少ない戦術へと転換した点に、彼の優れた学習能力と冷徹な合理主義が見て取れる。この経験は、後の彼の軍事思想に大きな影響を与えたであろう。

第三節:落城と波多野氏の滅亡

約1年半、実に18ヶ月にも及ぶ壮絶な籠城戦の末、ついに限界が訪れる。天正7年(1579年)6月1日、兵糧は完全に尽き果て、これ以上の抵抗は不可能と判断した波多野秀治は、城兵の助命を条件に降伏し、八上城を開城した 6

しかし、秀治たちを待っていたのは、過酷な運命であった。降伏した波多野秀治、弟の秀尚、秀香の三兄弟は、捕虜として信長の本拠地である安土へと送られた 8 。そして6月4日、信長の厳命により、安土の慈恩寺のほとりで磔刑に処されたのである 8 。一度は恭順しながらも裏切った者に対する、信長の容赦のない姿勢が示された瞬間であった。これにより、丹波に覇を唱えた戦国大名・波多野氏は、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

この八上城の戦いには、後世に広く知られるようになった一つの逸話がある。それは、光秀が降伏を促すにあたり、信義の証として自らの母・於牧の方を人質として城内に送ったが、降伏した波多野兄弟を信長が処刑してしまったため、約束を反故にされたと怒った八上城の家臣たちが、報復として光秀の母を磔にして殺害した、というものである 8 。この悲劇が、後に光秀が信長に謀反を起こす(本能寺の変)一因になったとする「怨恨説」の根拠ともなっている。

しかし、この逸話の信憑性は、現代の歴史研究では極めて低いとされている。第一に、この話は『信長公記』のような信頼性の高い同時代史料には一切記述がなく、江戸時代に成立した軍記物や逸話集に初めて登場する 8 。第二に、当時の戦況を鑑みれば、兵糧攻めによって圧倒的に有利な状況を築いていた光秀が、あえて自らの母親を人質に出してまで降伏を急がせる戦略的な必要性が全く見当たらない 8 。したがって、この母の死をめぐる悲劇的な物語は、本能寺の変という大事件の原因を説明しようとした後世の創作である可能性が極めて高いと結論づけられる。

第四章:落日の後 ― 城の終焉と近世への移行

第一節:落城後の城主変遷

天正7年(1579年)の落城後、丹波国は明智光秀の所領となり、八上城もその支配下に入った 6 。しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変とそれに続く山崎の戦いで光秀が滅亡すると、丹波の支配体制は再び流動化する。八上城は、羽柴(豊臣)秀吉の甥である羽柴秀勝、そして後に豊臣政権の五奉行の一人に数えられる前田玄以らが城主を務めるなど、織豊政権下で丹波支配の拠点として機能し続けた 9

時代は移り、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下の覇権を握ると、八上城の運命も新たな局面を迎える。慶長7年(1602年)、前田玄以の子・茂勝が父の遺領を継ぐ形で八上藩5万石に封じられ、八上城に入った 1 。しかし、茂勝は慶長13年(1608年)に改易となり、その後には家康の庶子(九男)である松平康重が常陸国笠間から入封した 1 。徳川一門の重要人物が配置されたことからも、江戸幕府が丹波国、そして八上城を依然として戦略的に重視していたことがうかがえる。

第二節:篠山城築城と廃城

松平康重が入城した当初、幕府は八上城をそのまま丹波統治の拠点として使用する意向であったようで、康重は高城山の山頂で普請(改修工事)に着手したと記録されている 10 。しかし、戦国時代に最適化された山城は、平時の統治や経済活動の拠点としてはあまりに不便であった。高城山の峻険な地形は工事を困難にし、結局この計画は途中で放棄されることとなる 10

そして慶長14年(1609年)、徳川家康は一大決断を下す。西国大名への備えと、新たな時代の支配体制を確立するため、篠山盆地の中央部に新たな城を築くことを命じたのである 11 。これが、今日までその壮麗な石垣を残す篠山城である。この築城は、徳川の威光を天下に示す「天下普請」として行われ、藤堂高虎が縄張りを担当し、池田輝政が普請総奉行を務めるなど、当代一流の技術と多くの大名の労力が投入された 20

この篠山城の完成は、八上城の歴史に終止符を打つものであった。政治、軍事、経済の全ての中心機能が、山上の八上城から平地の篠山城へと完全に移行し、八上城はその存在意義を失った 11 。慶長14年末に松平康重が篠山城に入城すると、八上城は正式に廃城となったのである 1

この廃城は、単に城が放棄されたことを意味するだけではなかった。それは、中世以来この地を支配してきた波多野氏の記憶と権威を払拭し、徳川による新たな支配秩序を地域社会に根付かせるための、象徴的かつ実利的な事業であった。八上城の堅固な石垣や城門などの部材は、篠山城を築くための資材として転用されたと伝えられている 21 。さらに、八上城の山麓に形成されていた城下町の寺社や商家までもが、篠山城下へと強制的に移転させられた 22 。これは、中世的な在地領主の支配体制を物理的に解体し、近世的な城下町中心の支配体制を確立しようとする、徳川幕府の強固な意志の表れであった。八上城の終焉は、戦国という時代の終わりと、近世という新たな時代の幕開けを、この丹波の地において明確に告げる出来事だったのである。

第五章:歴史的価値と現代における八上城跡

第一節:国史跡としての価値

数世紀の時を経て、八上城跡は平成17年(2005年)3月2日、その卓越した歴史的価値が認められ、文部科学大臣により「八上城跡」の名称で国の史跡に指定された 1 。この指定は、八上城が日本の歴史、特に城郭史において持つ多面的な重要性を公的に証明するものである。

その学術的重要性は、主に三つの点に集約される。第一に、室町時代から戦国時代にかけて丹波国に一大勢力を築いた国人領主・波多野氏の本拠地として、中世後期の地方政治史・軍事史を解明する上で欠かすことのできない一級の史料である点である 3 。第二に、織田信長による天下統一事業の中で、明智光秀がその能力を最大限に発揮した丹波攻略の主戦場であり、戦国時代末期の攻城戦の実態を生々しく伝える貴重な古戦場であるという点 3 。そして第三に、自然の地形を巧みに利用して構築された中世山城の遺構が、広大な城域にわたって極めて良好な状態で保存されており、その構造自体が日本の城郭史上、高い価値を有している点である 1

さらに、八上城跡の価値を特異なものとしているのが、その地理的環境である。八上城跡からわずか3.5km南東には、近世城郭の典型例として同じく国の史跡に指定されている篠山城跡が存在する 1 。戦国時代の防衛に特化した「山城」と、江戸時代の政治・経済の中心地として機能した「平山城」という、性格の全く異なる二つの時代の代表的な城郭遺構がこれほど近接して現存する例は全国的にも稀であり、両者を比較研究することで、日本の城郭が中世から近世へと移行する過程で、その機能や構造、立地思想がどのように変化したのかを具体的に理解することができる。この比較史的な観点からも、八上城跡は比類なき価値を持つと言える。

第二節:史跡としての現状と見学

廃城から400年以上が経過した現在も、八上城跡は往時の面影を色濃く残している。登山道は整備されており、歴史ファンや登山愛好家がその遺構を訪れることができる 19

見学の際の見どころとしては、まず山頂部に位置する本丸跡や二の丸跡などの曲輪群が挙げられる。これらの平坦地からは篠山盆地を一望でき、城主が眺めたであろう絶景を追体験できる。また、一年半に及ぶ籠城戦を支えた生命線である水源「朝路池」は、今も静かに水を湛え、当時の過酷な状況を偲ばせる 9 。尾根筋を断ち切るように設けられた壮大な「大堀切」は、中世山城の防御施設の迫力を体感できる圧巻の遺構である。その他、随所に残る土塁や、篠山城へ転用されずにわずかに現存する石垣も、戦国の息吹を伝える貴重な痕跡である 18 。山麓の春日神社周辺には、平時の居館があったとされる「主膳屋敷跡」の平地も残されている 19

城跡へのアクセスは、公共交通機関の場合、JR福知山線「篠山口駅」から神姫バスを利用し、「八上本町」または「十兵衛茶屋」バス停で下車するのが一般的である 9 。自動車の場合は、舞鶴若狭自動車道「丹南篠山口IC」から約15分で登山口付近に到達できる 19 。登山は、麓の春日神社を起点とするルートが主で、山頂の本丸までは徒歩で約45分から50分を要する 9 。山城であるため、歩きやすい靴や飲料水など、適切な装備で臨むことが推奨される。

八上城跡の魅力は、物理的な遺構だけに留まらない。この地には、明智光秀の母がはりつけにされたと伝わる「はりつけ松跡」や、落城の際に波多野秀治の娘・朝路姫が身を投げたという「朝路池」の悲話など、数々の伝説や伝承が地域に根付いている 21 。これらの物語は、史実とは断定できないものの、地域の歴史的景観に深みと物語性を与え、訪れる人々の想像力を掻き立てる。地元では、デカンショ節に「島と浮かぶよ高城山が」と歌われ 3 、「八上戦国ウォーク」のようなイベントが開催されるなど 36 、八上城は単なる過去の遺跡ではなく、地域のアイデンティティを形成し、歴史を未来に伝える「生きた文化遺産」として、今なお重要な役割を担っているのである。

結論:戦国山城が語るもの ― 八上城の総合的考察

丹波国八上城の歴史は、戦国時代の地方勢力の興亡から、織田信長による天下統一事業の苛烈さ、そして徳川幕府による近世支配体制の確立に至るまで、日本の歴史における大きな転換点を凝縮して内包している。波多野氏という一族の栄枯盛衰の舞台であっただけでなく、その存在と終焉は、より大きな時代の潮流を映し出す鏡であった。

八上城の戦いは、戦国時代末期における籠城戦術の一つの典型例として分析することができる。光秀が採用した徹底した兵糧攻めは、その有効性と同時に、城内に凄惨な飢餓をもたらす非人道性をも示している。この戦いは、籠城側にとって外部からの援軍、すなわち「後詰(ごづめ)」がいかに死活的に重要であったかを物語る 37 。後詰の望みを完全に断たれた八上城は、いかに堅固な要害であっても、内部から崩壊せざるを得なかったのである。

この八上城の事例を、他の著名な山城と比較することで、その歴史的意義はさらに明確になる。例えば、同じく難攻不落を誇り、毛利元就による長期の兵糧攻めによって落城した出雲国・月山富田城と比較すると、戦国末期における巨大山城攻略の定石として、力攻めよりも兵站を断つ包囲戦が主流となっていたことがわかる 39 。一方、日本五大山城の一つに数えられる近江国・観音寺城は、織田信長の電撃的な支城攻略によって、城主の六角氏が本城で戦わずして逃亡し、無血開城している 41 。堅固な城郭に拠り、最後まで徹底抗戦した八上城の波多野氏とは対照的なこの事例は、城の物理的な防御力のみならず、城主の戦略眼や家臣団の結束力、そして敵将の戦術といった人的要因が、籠城戦の帰趨を大きく左右したことを示唆している。

【表2:戦国時代の主要な兵糧攻め籠城戦との比較】

項目

八上城の戦い

三木合戦(三木の干殺し)

鳥取城の戦い(鳥取の渇え殺し)

第二次月山富田城の戦い

城名(城主)

八上城(波多野秀治)

三木城(別所長治)

鳥取城(吉川経家)

月山富田城(尼子義久)

攻撃側大将

明智光秀

羽柴秀吉

羽柴秀吉

毛利元就

期間

約1年半(1578年9月~1579年6月)

約1年10ヶ月(1578年3月~1580年1月)

約4ヶ月(1581年7月~10月)

約1年半(1565年4月~1566年11月)

主要戦術

付城構築による完全包囲、兵糧攻め

付城・土塁による包囲網、兵糧攻め

事前の米買い占め、付城による完全包囲

支城の各個撃破、海上封鎖、兵糧攻め、調略

城の規模・構造

広域な中世山城(高城山・法光寺山)

平山城

山城

巨大な中世山城

落城の決め手

兵糧の完全枯渇

兵糧の枯渇、後詰の失敗

短期間での兵糧枯渇(事前の買い占めが奏功)

兵糧枯渇と内部からの降伏者続出、調略

落城後の処遇

城主一族は磔刑

城主一族は自刃(城兵は助命)

城主は自刃(城兵は助命)

城主一族は助命・幽閉

典拠

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最終的に、八上城の歴史は、中世という時代の終焉そのものを象徴している。山を頼み、在地に根差した国人領主が割拠した時代は、織田・豊臣政権による中央集権化の波に呑まれ、徳川幕府による近世的な幕藩体制へと移行していく。その過程で、戦乱の象徴であった山城は役割を終え、政治と経済の拠点である平城へとその座を譲った。八上城の廃城と篠山城の築城は、まさにその歴史的転換点を丹波の地に刻み込んだ出来事であった。今日、高城山に静かに眠る石垣や土塁は、単なる過去の遺物ではない。それは、戦国の世を駆け抜けた人々の記憶を留め、時代の大きなうねりを現代に伝える、雄弁な歴史の証人なのである。

引用文献

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  47. 尼子方の月山富田城を降伏させた毛利元就の謀略とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/19490