刈谷城
三河の要衝、刈谷城は水野氏の拠点。徳川家康の生母・於大の方の故郷であり、水野信元が織田・徳川同盟を仲介するなど、家康の天下取りに深く関わった。
三河国 刈谷城 ― 徳川家康の命運を支えた水野氏の拠点城郭に関する総合研究報告
序章:亀城の黎明 ― 刈谷城前史
三河国碧海郡の西端、衣ヶ浦(きぬうら)の入江が深く食い込む台地の先端に、かつて刈谷城はそびえていた。徳川家康の生母・於大の方の故郷として、またその実家である水野氏の拠点として、戦国史にその名を刻むこの城の歴史を理解するためには、まず、城が築かれる以前のこの土地が持つ地政学的な重要性に目を向ける必要がある。
刈谷が位置する地域は、古代より海上交通の恩恵を色濃く受けてきた。衣ヶ浦沿岸には本刈谷貝塚や八ツ崎貝塚といった縄文時代の遺跡が点在し、古くから人々が海の幸を糧に豊かな生活を営んでいたことが窺える 1 。時代が下り、中世に入ると、衣ヶ浦は尾張国と三河国を結ぶ水運の要衝としての性格を強めていく。特に、知多半島で生産された常滑焼などが、この水路を通じて日本各地へ運ばれており、海上交通は経済活動のまさに大動脈であった 2 。この衣ヶ浦を制することは、単に一地域の支配に留まらず、広域の物流と経済を掌握することを意味した。
このような背景の中、15世紀後半に歴史の表舞台に登場するのが水野氏である。尾張国知多郡緒川(現在の愛知県東浦町)を本拠としていた水野貞守は、文明年間(1469年~1487年)頃、衣ヶ浦を挟んだ対岸の三河国刈谷へと進出する 1 。そして、現在の本刈谷神社の北方に、後に「刈谷古城」と呼ばれることになる拠点を築いた 1 。この古城は、本格的な城郭というよりは「館」と呼ぶべき小規模なものであったと推測されているが、その戦略的意図は極めて明確であった。すなわち、衣ヶ浦の水運を利用し、さらなる勢力拡大を図るための足掛かりとすることである 1 。
水野氏のこの動きは、単なる陸路での領土拡大とは一線を画すものであった。本拠地の緒川と対岸の刈谷古城で衣ヶ浦を挟み込むことにより、湾内の港湾機能と海上交通路の支配権を確立しようとしたのである。これは、来るべき戦国乱世において、経済力と軍事力を飛躍的に高めるための戦略的布石であった。水野氏が知多半島の一豪族から、尾張・三河の国境地帯に大きな影響力を持つ戦国武将へと脱皮していく上で、この刈谷への進出と海上交通の掌握は、決定的に重要な第一歩だったのである。この刈谷古城の存在こそが、約半世紀後、水野忠政による本格的な刈谷城築城へと繋がる歴史の序章であった。
第一章:刈谷城の築城と戦国初期の情勢
天文2年(1533年)、水野忠政は、手狭になった刈谷古城に代わる新たな拠点として、その北方約1kmの台地上に刈谷城を築城した 1 。この築城は、単なる本拠地の移転という内向きの理由だけで行われたものではない。それは、当時の三河・尾張地域を取り巻く、極めて緊迫した政治的・軍事的状況に対する、水野氏の戦略的な一手であった。
この時代、水野氏が本拠を置く知多半島から西三河にかけての地域は、三つの強大な勢力が衝突する最前線であった。西の尾張では、織田信長の父である織田信秀が急速に台頭し、三河への進出を虎視眈眈と狙っていた。東の駿河からは、今川義元が着実に西進し、三河国への影響力を強めていた。そして三河国内では、徳川家康の祖父にあたる松平清康が驚異的な勢いで領内を統一しつつあった 3 。水野氏は、これら三大勢力の狭間に位置する緩衝地帯にあって、常にいずれかに飲み込まれるか、あるいは滅ぼされるかの危険と隣り合わせの、 precarious な立場に置かれていたのである。
このような状況下で、水野忠政は緒川から刈谷へと本拠を移すという大きな決断を下した。緒川は知多半島のやや内陸に位置し、防御には適しているものの、三河方面への影響力を行使するには地理的な不便があった。対照的に、刈谷は三河平野の西端に位置し、松平氏の本拠地である岡崎や、織田氏が勢力を伸ばす尾張方面への交通の結節点であった。この戦略的に重要な地に新たな城を築き、本拠を構えるという行為は、周辺勢力に対して「我々はこの国境地帯における独立した勢力である」と宣言するに等しいものであった。
築城当初の刈谷城は、後年の近世城郭のような壮麗なものではなく、あくまで「戦に備えるための砦程度」の実戦的な性格が強いものであったと伝えられている 1 。これは、いつ何時、織田、今川、松平のいずれからの侵攻を受けてもおかしくないという、当時の緊迫した情勢を如実に物語っている。
したがって、刈谷城の築城は、単に自領の守りを固めるという受動的な「防衛」戦略に留まるものではなかった。それは、三勢力が拮抗するパワーバランスの中で、外交と軍事における主導権を握ろうとする、水野氏の能動的な「攻めの防衛」戦略の象徴であったと言える。この城の存在によって、水野氏は知多半島の一豪族という立場から脱却し、三河・尾張の国境地帯におけるキャスティングボートを握る重要な政治勢力としての地位を確立していくのである。
第二章:城郭の構造と「海城」としての特質
刈谷城は、その立地と縄張り(城の設計)において、戦国時代の城郭が持つべき軍事合理性と、水運の要衝という経済的利便性を見事に融合させた、優れた「海城」であった。江戸時代に作成された城絵図や、近年の発掘調査の成果から、その巧みな構造を詳細に読み解くことができる。
縄張りと防御施設
刈谷城は、衣ヶ浦に北から突き出した舌状台地の先端に築かれた平山城である 1 。城の縄張りは、最も防御を固めるべき本丸を西端の海側に置き、そこから東へ向かって帯曲輪、二の丸、三の丸と、曲輪を直線的に連ねる「梯郭式」と呼ばれる配置を基本としていた 1 。城の正面玄関にあたる大手門は、最も東に位置する三の丸に設けられていた 1 。
この配置は、陸路からの攻撃を強く意識したものである。東に広がる三河平野から侵攻してくるであろう松平氏や今川氏の軍勢に対して、三の丸、二の丸、本丸という多重の防御ラインで段階的に迎え撃つことを想定していた。一方で、城の背後となる西側は衣ヶ浦の海に面しており、天然の巨大な堀の役割を果たしていた。このような、背後を自然の要害で固めた城は「後堅固(あとかたこ)」と呼ばれ、防御上有利な構造とされた 3 。
城の心臓部である本丸は、東西約50メートル、南北約80メートルの長方形を呈し、その周囲は堅固な土塁と石垣によって守られていた 7 。現在、城跡である亀城公園には、この本丸を囲んでいた土塁が良好な状態で残存しており、往時の姿を偲ばせる 6 。
刈谷城には、城の象徴となる天守は築かれなかった。しかし、江戸時代前期の城絵図によれば、本丸の北西隅には天守の代わりとなる三層の「戌亥櫓(いぬいやぐら)」が、南東隅には二層の「辰巳櫓(たつみやぐら)」が建てられていたことが確認できる 1 。これらの櫓は、物見や防御の拠点として重要な役割を担っていた。
海城としての機能
刈谷城の最大の特徴は、衣ヶ浦の水運を最大限に活用した「海城」としての機能にあった。城の西側、すなわち本丸の直下は海に面しており、そこには石垣で護岸された舟着き場が設けられていた 3 。城内で消費される米や塩、あるいは武器弾薬といった物資は、この舟着き場から直接荷揚げされ、城内へと運び込まれたと考えられる。また、「水手番所」と呼ばれる施設が置かれ、衣ヶ浦を往来する船舶の監視や、水軍の管理を行っていたと推測される 3 。
このように、刈谷城は海を単なる防御線としてだけでなく、経済活動と兵站を支える生命線として城郭の設計に組み込んでいた。陸路が敵によって遮断された場合でも、海上からの補給や、いざという時の脱出路を確保できるこの構造は、三勢力の狭間で常に存亡の危機に立たされていた水野氏にとって、極めて重要な意味を持っていた。
遺構と唯一の現存建造物
明治時代の廃藩置県によって城の建造物はすべて破却されたが、その後の発掘調査によって、城の姿が徐々に明らかになっている。平成21年(2009年度)から行われた調査では、本丸東側の櫓や石垣のおおよその位置を示す「地固め遺構」などが発見され、城絵図の記述を裏付ける貴重な成果が得られた 10 。
そして、刈谷城の建築様式を今に伝える唯一の現存遺構が、碧南市の妙福寺に存在する。これは、本丸の南東隅に建っていた辰巳櫓が、明治初期に解体を免れて同寺に移築され、現在は山門(楼門)として利用されているものである 6 。この楼門は、かつての刈谷城の威容を伝える、極めて貴重な歴史的建造物と言える。
刈谷城の構造は、陸からの脅威に備える堅固な防御思想と、海からの恩恵を最大限に活用する合理的精神が融合した、優れた設計の証左である。当初は実戦本位の「砦」として出発したこの城が、江戸時代に入り水野勝成によって近世城郭へと改修されていく過程は、水野氏の勢力拡大と政治的地位の向上を、そのまま物理的な形で映し出していたのである。
第三章:激動の時代を生きた城主たち ― 水野氏の興亡と刈谷城
刈谷城は、その築城から約100年間にわたり、水野氏の本拠として戦国乱世の荒波に翻弄され続けた。特に、忠政、信元、忠重、勝成という四代の城主たちは、織田、今川、徳川という巨大勢力の狭間で、一族の存亡を賭けた巧みな外交と熾烈な戦いを繰り広げた。刈谷城を舞台に展開された彼らのドラマは、そのまま戦国時代の縮図とも言える。
【表1】戦国期における刈谷城主(水野氏)の変遷と主要事績
城主名 |
在城期間(推定) |
主要な同盟関係 |
関与した主要合戦・事件 |
特記事項 |
水野 忠政 |
1533年~1543年 |
今川・松平 |
刈谷城築城 |
徳川家康の祖父。於大の方の父 4 。 |
水野 信元 |
1543年~1575年 |
織田 |
桶狭間の戦い、三河一向一揆 |
織田信長と同盟。清洲同盟を仲介 15 。信長の命により家康に殺害される 6 。 |
(佐久間 信盛) |
1575年~1580年 |
織田 |
- |
信元の死後、織田信長より刈谷城を与えられるが、後に追放される 6 。 |
水野 忠重 |
1580年~1600年 |
織田 → 徳川 |
小牧・長久手の戦い |
信元の弟。水野家を再興 6 。関ヶ原の戦い直前に殺害される 4 。 |
水野 勝成 |
1600年~1615年 |
徳川 |
関ヶ原の戦い、大坂の陣 |
忠重の子。「鬼日向」の異名を持つ猛将 4 。初代刈谷藩主となる 16 。 |
第一節:水野信元 ― 織田との同盟と悲劇の最期
父・忠政の死後、家督を継いだ水野信元は、一族の運命を大きく左右する決断を下す。それまでの今川氏寄りの姿勢を覆し、尾張の織田信秀との同盟(織水同盟)に踏み切ったのである 6 。この外交方針の転換は、当時今川氏の庇護下にあった岡崎城主・松平広忠に嫁いでいた妹・於大の方の人生に、最初の大きな悲劇をもたらした。今川氏の圧力を受けた広忠は、於大の方を離縁せざるを得なくなり、彼女は幼い竹千代(後の家康)を岡崎に残し、実家である刈谷へと送り返された 6 。
信元の親織田路線は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで決定的な意味を持つことになる。今川義元が織田信長に討たれるという衝撃的な報に接した信元は、今川軍の先鋒として大高城に入っていた甥・松平元康(家康)のもとへ急使を送り、いち早くその事実を伝えた 15 。この迅速な情報提供がなければ、元康は織田軍の攻撃に晒されるか、あるいは今川軍の残党と共に撤退せざるを得なかったであろう。信元の助言に従い、元康は間一髪で大高城を脱出し、空白となっていた本拠・岡崎城への帰還を果たした。これは、家康が今川氏の軛から逃れ、独立した戦国大名として歩み始める歴史的な瞬間であった。
さらに信元は、独立したばかりで後ろ盾のない元康と、旧敵である織田信長との間の同盟(清洲同盟)を仲介するという大役を果たした 15 。この同盟は、その後の家康の飛躍、ひいては日本の歴史の行方を決定づける極めて重要なものであり、信元の功績は計り知れない。永禄6年(1563年)に家康生涯最大の危機とされる三河一向一揆が勃発した際にも、信元は弟の忠重と共に一貫して家康を支援し、刈谷から武具を整えて佐崎の砦へ見舞いに駆けつけるなど、一揆の鎮圧に大きく貢献した 6 。
しかし、これほどまでに家康を支え、織田・徳川同盟の枢要を担った信元の最期は、あまりにも悲劇的であった。天正3年(1575年)、織田家の重臣・佐久間信盛の讒言により、武田勝頼への内通を疑われた信元は、信長の命を受けた家康によって三河の大樹寺に呼び出され、殺害されてしまう 6 。信元の死後、刈谷城は讒言した張本人である佐久間信盛の所領となった 6 。信元の生涯は、一族の存続のために下した親織田という選択が、結果的に甥・家康の天下への道を開きながらも、自らの命を奪われるという皮肉な結末を迎えた、戦国武将の過酷な運命を象徴している。
第二節:水野忠重 ― 家康の重臣としての戦い
兄・信元の非業の死から数年後、佐久間信盛が信長によって突如追放されると、信元の末弟である水野忠重が刈谷城主として復帰し、水野家の再興を果たした 6 。忠重は家康の信頼厚い武将として、数々の戦いで武功を挙げた。
特に天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、徳川軍の主力として活躍した。羽柴秀吉軍の別動隊が岡崎城を目指して進軍しているとの報が入った際、徳川軍の軍議において、忠重は「敵の正面から当たるのは得策ではない。背後を突き、最後尾を攻撃すべきだ」と進言し、これが採用されて勝利に繋がったと伝えられている 22 。
その後も家康の重臣として活躍を続けた忠重であったが、その最期は兄と同様に突然訪れた。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いを目前に控えた7月、三河国池鯉鮒(現在の知立市)で開かれた酒宴の席で、同席していた加賀井重望と口論となり、刺殺されてしまったのである 4 。
第三節:水野勝成 ― 「鬼日向」の誕生と刈谷藩の成立
父・忠重の予期せぬ死により、水野家の家督を継いだのが、嫡男の勝成であった。勝成は、その勇猛さと破天荒な生涯から「鬼日向」の異名を取った、戦国時代でも屈指の個性的な武将である 4 。
青年時代の勝成は血気盛んで、小牧・長久手の戦いの陣中で父・忠重の家臣を斬り殺したことが原因で勘当され、水野家を出奔した 23 。その後十数年にわたり、佐々成政や小西行長といった諸大名に仕えながら諸国を放浪し、数々の合戦で一番槍などの武功を挙げ続けた 16 。
父との和解後まもなく、その父が殺害されるという報を受けた勝成は、家康の許可を得て家督を相続 24 。関ヶ原の戦いでは、東軍の一員として父の仇である加賀井重望の子を討ち取り、本戦に先立つ大垣城攻めで大きな功績を挙げた 16 。その功により、戦後、家康から3万石の所領を安堵され、刈谷藩の初代藩主となった 4 。これにより、刈谷城は単なる軍事拠点から、近世大名の居城、そして藩政の中心地としての新たな歴史を歩み始めることになった。
勝成の武勇はその後も衰えることなく、大坂の陣でも目覚ましい活躍を見せた 16 。後にその功績が認められ、大和郡山6万石、さらには備後福山10万石へと加増転封され、福山城と城下町を新たに築くなど、優れた為政者としての一面も発揮した 16 。刈谷城から始まった「鬼日向」の物語は、近世大名としての輝かしい成功へと繋がっていったのである。
第四章:徳川家康の生母・於大の方と刈谷
刈谷城の歴史を語る上で、徳川家康の生母・於大の方(おだいのかた)の存在は決して切り離すことができない。彼女の生涯は、戦国時代の女性が政略の渦にいかに翻弄されたかを示す典型例であると同時に、刈谷という土地が、後の天下人・徳川家康の誕生と成長に、いかに深く関わっていたかを物語っている。
於大の方は享禄元年(1528年)、緒川城主・水野忠政の娘として生まれた 17 。天文2年(1533年)に父・忠政が刈谷城を築城すると、於大は5歳頃からこの新しい城に移り住み、少女時代を過ごしたとされている 17 。
天文10年(1541年)、14歳になった於大は、隣国三河の岡崎城主・松平広忠のもとへ嫁いだ。これは、当時今川氏の勢力下にあった水野氏と松平氏の連携を強化するための政略結婚であった。翌年、二人の間には待望の嫡男・竹千代(後の家康)が誕生する 17 。しかし、この平穏な日々は長くは続かなかった。父・忠政が死去し、兄の信元が家督を継ぐと、彼は今川氏から離反し、尾張の織田氏と同盟を結ぶという大きな路線転換を図った。これにより、今川氏の支配下にある松平氏と、織田方についた水野氏との関係は敵対関係へと一変した。その結果、竹千代がわずか3歳の時、於大は広忠から離縁を言い渡され、実家のある刈谷へと送り返されることになったのである 6 。
離縁され刈谷に戻った於大は、しかし、父や兄が住む刈谷城に入ることはなかった。彼女が居所としたのは、城の北東、堀を一つ隔てた小高い丘の上にあった「椎の木屋敷」と呼ばれる場所であった 7 。大きな椎の木が何本も茂っていたことからその名がついたこの屋敷で、於大は岡崎に残してきた我が子・竹千代の身を案じながら、約2年間の孤独な日々を過ごしたと伝えられている 17 。彼女が折に触れて家臣を遣わし、人質生活を送る竹千代のもとへ菓子や衣類を届けさせたという逸話は、母としての深い愛情を示すものである 17 。
その後、兄・信元の意向により、於大は阿久比(あぐい)の坂部城主・久松俊勝のもとへ再嫁することになる 17 。この婚姻もまた、信元が知多半島における支配権を確立するための戦略の一環であった 21 。俊勝との間には三男三女をもうけ、新たな家庭を築いた於大であったが、その心中には常に、尾張や駿府で人質としての日々を送る竹千代への想いがあったに違いない。
このように、刈谷城とそれに隣接する椎の木屋敷は、於大の方にとっては、政略に翻弄され、愛する我が子と引き裂かれた悲劇の舞台であった。しかし、歴史をより大きな視点で見れば、この場所は徳川家が最も脆弱であった時期における「存続の象徴」でもあった。於大が刈谷に留まり、その兄である水野信元が織田方として勢力を維持し続けたこと。この強力な外戚の存在が、人質生活を送る幼い家康にとって、見えないながらも確かな生命線となり続けたのである。信元が桶狭間の戦いの直後、いち早く家康に好機を伝えた行動は、この血縁の繋がりが生きていた何よりの証拠である。刈谷は、家康にとって母との離別の地であると同時に、逆境の時代における唯一無二の希望の拠り所でもあったのだ。
第五章:史跡としての刈谷城 ― 遺構、伝承、そして未来へ
水野氏の時代が終わり、江戸幕府が開かれると、刈谷城は刈谷藩の藩庁として新たな役割を担うことになった。徳川家の譜代大名が城主を務め、水野氏の分家にはじまり、深溝松平家、久松松平家、稲垣家、阿部家、本多家、三浦家、そして最後に土井家と、目まぐるしく城主が交代した。その数は実に9家22人にのぼる 4 。
しかし、約270年にわたる泰平の世も、明治維新によって終焉を迎える。明治4年(1871年)の廃藩置県により刈谷藩は廃止され、それに伴い刈谷城もその役目を終えた。城の建造物は入札によって民間に払い下げられ、次々と解体されていった 1 。かつて衣ヶ浦を見下ろした威容は、こうして地上から姿を消したのである。
亀城公園としての再生
物理的な建造物を失った刈谷城跡であったが、その記憶が人々の心から消えることはなかった。昭和11年(1936年)、当時の刈谷町が城跡を譲り受け、本丸と二の丸の一部を公園として整備した 3 。これが現在の「亀城公園」のはじまりである。城が水に浮かぶ亀のように見えたという伝承から「亀城」の別名を持つ刈谷城にちなんで名付けられたこの公園は、やがて市民の憩いの場として親しまれるようになった 32 。
戦後、園内には多くの桜が植えられ、現在では約650本のソメイヨシノが咲き誇る桜の名所として知られている 32 。春には多くの花見客で賑わい、かつての城跡は新たな形で人々の生活に彩りを与えている。
歴史の継承活動
近年、刈谷城の歴史的価値を再認識し、その記憶を後世に伝えようとする動きが活発化している。その中心的な役割を担っているのが、城跡に隣接して建設された「刈谷市歴史博物館」と、市民有志による「刈谷城盛上げ隊」である。
刈谷市歴史博物館では、常設展示「刈谷藩と城下町」のコーナーで、城絵図などに基づいて精巧に復元された刈谷城のジオラマを見ることができる 4 。このジオラマは、AR(拡張現実)技術を用いることで、当時の城内の人々の暮らしぶりを立体的に体感できる仕掛けとなっており、来館者の人気を集めている 4 。また、博物館では刈谷城の「御城印」や、城をモチーフにした様々なオリジナルグッズも販売されており、歴史への関心を深めるきっかけを提供している 37 。
一方、「刈谷城盛上げ隊」は、刈谷城復元の機運を盛り上げることを目的に、平成25年(2013年)に結成された市民グループである 38 。メンバーは、築城主の水野忠政や初代藩主・水野勝成といった歴代城主に扮し、甲冑姿で市内外のイベントに出陣する。迫力ある殺陣や華やかな演舞を披露することで、刈谷城の歴史と魅力を広く発信している 40 。彼らの活動は、書物の中の歴史を、生き生きとした体験として現代に蘇らせる貴重な試みである。
未来への展望(復元計画)
そして今、刈谷城は新たな未来へ向かって動き出している。刈谷市は、残された城絵図や発掘調査の成果に基づき、かつての城の姿を現代に蘇らせる復元計画を進めている 10 。計画では、天守代わりであった北西隅櫓や、現存遺構の元となった南東隅櫓、さらには多門櫓、門、土塀などを、可能な限り江戸時代の工法と材料を用いて復元することを目指している 10 。
物理的な建造物を失った刈谷城は、まず「公園」という人々の記憶と憩いの空間として、次に「博物館」という知的・視覚的な学びの空間として、そして「盛上げ隊」という感情的・体験的なパフォーマンスの空間として、多層的な形で現代に「再建」されてきた。市の復元計画は、これらの無形の継承活動を、再び有形のシンボルとして結実させようとする壮大な試みである。これは、歴史遺産が単なる過去の遺物ではなく、現代の地域社会のアイデンティティを形成し、未来を創造するための能動的な資源となり得ることを示す、注目すべき事例と言えるだろう。
結論:戦国史における刈谷城の再評価
本報告書を通じて、三河国刈谷城の歴史を多角的に検証してきた。その結果、刈谷城が日本の戦国史、特に徳川家康の天下取りの過程において、これまで一般的に認識されていた以上に重要かつ多岐にわたる役割を果たしていたことが明らかになった。
第一に、刈谷城は単なる三河の一城郭ではなく、尾張と三河という二大勢力圏が直接衝突する地政学上の要衝に築かれた「戦略的緩衝地帯」であった。その立地ゆえに、城主である水野氏は常に時代の趨勢を敏感に読み解き、存亡を賭けた外交的選択を迫られ続けた。
第二に、その城主であった水野氏は、巧みな外交と軍事行動によって、織田・今川・徳川という三大勢力の間で巧みに立ち回り、自らの存在価値を高めた。特に二代城主・水野信元が、今川氏から独立したばかりの甥・徳川家康と織田信長との間に「清洲同盟」を仲介したことは、その後の日本の歴史の方向性を決定づけるほどの大きな転換点であった。この同盟なくして、家康のその後の飛躍はあり得なかったと言っても過言ではない。
第三に、刈谷城は徳川家康の生母・於大の方の故郷として、極めて重要な意味を持っていた。政略によって愛息と引き裂かれた於大が過ごしたこの地は、人的・血縁的な繋がりを通じて、家康の最も困難な幼少期・青年期を精神的、そして物理的に支え続けた拠点であった。水野氏という強力な外戚の存在は、人質生活を送る家康にとって、逆境を乗り越えるための大きな支えとなったのである。
以上の点を総合すると、刈谷城は、徳川家康の天下統一という壮大な歴史事業における、いわば「揺りかご」の一つであったと結論付けられる。その戦略的重要性、城主が果たした歴史的役割、そして徳川家との深い血縁関係は、著名な大規模城郭の歴史に決して劣るものではない。刈谷城の歴史を深く理解することは、戦国時代という複雑な時代を、より立体的に把握するための不可欠な鍵であり、その歴史的価値は今、改めて高く評価されるべきである。
付録:刈谷城関連年表
【表2】刈谷城関連年表(天文2年~慶長5年)
西暦(和暦) |
刈谷城・水野氏の動向 |
周辺勢力・国内の主要動向 |
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1533年(天文2年) |
水野忠政、刈谷城を築城。 緒川城から本拠を移す 3 。 |
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1541年(天文10年) |
於大の方(忠政の娘)、岡崎城主・松平広忠に嫁ぐ 17 。 |
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1542年(天文11年) |
於大の方、竹千代(後の徳川家康)を出産。 |
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1543年(天文12年) |
水野忠政が死去。 水野信元 が家督を継ぎ、城主となる。 |
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1544年(天文13年) |
信元、今川氏から離反し織田信秀と同盟。これにより、於大の方が松平広忠と離縁させられ、刈谷へ戻る 6 。 |
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1549年(天文18年) |
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松平広忠が死去。竹千代が今川氏の人質となる。 |
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1560年(永禄3年) |
信元、桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことを大高城の松平元康(家康)に伝え、岡崎への退去を促す 15 。 |
桶狭間の戦い。織田信長が今川義元を討つ。 |
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1562年(永禄5年) |
信元、家康と織田信長の同盟(清洲同盟)を仲介する 15 。 |
- |
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1563年(永禄6年) |
信元、三河一向一揆で家康を支援する 6 。 |
三河一向一揆が勃発。 |
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1575年(天正3年) |
信元、武田氏への内通を疑われ、信長の命により家康に殺害される。刈谷城は佐久間信盛の所領となる 6 。 |
長篠の戦い。 |
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1580年(天正8年) |
水野忠重 (信元の弟)、刈谷城主に復帰する 6 。 |
佐久間信盛が信長に追放される。 |
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1582年(天正10年) |
- |
本能寺の変。織田信長が死去。 |
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1584年(天正12年) |
忠重、小牧・長久手の戦いで徳川方として活躍する 22 。 |
小牧・長久手の戦い。 |
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1600年(慶長5年) |
7月、忠重が池鯉鮒で加賀井重望に殺害される 4 。 |
水野勝成 (忠重の子)が家督を継ぐ。 9月、勝成、関ヶ原の戦いの前哨戦である大垣城攻めで功を挙げる。 |
関ヶ原の戦い。 |
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戦後、勝成は3万石を与えられ、 初代刈谷藩主 となる 4 。 |
- |
引用文献
- 刈谷城について https://kariyajou-moriagetai.com/castle/index-castle.html
- 江戸時代になると、流通する物資の量が飛躍的に増大します。知多半島を拠点とする尾州廻船は、18世紀になると航海の範囲を広げ、しだいに全国的な流通網のなかで大きな位置を占めるようになりました。半田や亀崎(半田市)をはじめ衣浦湾沿岸に - 一般財団法人 招鶴亭文庫 https://shoukakutei.or.jp/works/2011313.html
- 【愛知県】刈谷城の歴史 三河にあるのに織田の城だった!?家康と関わりの深い水野氏が築城 https://sengoku-his.com/1946
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- 水野信元は何をした人?「家康と信長をつないだ仲人だったのに恩を仇で返された」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nobumoto-mizuno
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- 水野氏の居城跡 亀城公園 | いいじゃん刈谷! - 刈谷市観光協会公式ホームページ https://www.kariya-guide.com/sightseeing/000025.html
- 刈 谷 市 歴 史 博 物 館 要 覧 https://www.city.kariya.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/020/087/yoran.pdf
- 刈谷市歴史博物館特集 | いいじゃん刈谷! - 刈谷市観光協会公式ホームページ https://www.kariya-guide.com/special/history/
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- 刈谷城盛上げ隊「我ら結成10周年なり!」 - e ホームニュース https://www.e-hn.net/?p=18613
- 9月18日(日)古戦場おもてなし武将隊関ケ原組・刈谷城盛上げ隊・岡山戦国武将隊の交流演武を開催します - 岐阜関ケ原古戦場記念館 https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/news/p4493/
- 亀城公園再整備事業の概要 - 刈谷市 https://www.city.kariya.lg.jp/kurashi/road_park/park/1017264/1004212/1004215.html