最終更新日 2025-08-25

勝幡城

織田信長生誕の地とされる勝幡城は、織田弾正忠家が津島湊の経済力を背景に築いた戦略拠点。信長飛躍の原点であり、その後の天下統一事業の礎となった幻の城である。

天下布武の原点―幻の城・勝幡城の総合的考察

序章:勝幡城―忘れられた戦略拠点

織田信長の名は、那古野城、清洲城、小牧山城、岐阜城、そして安土城といった、彼の覇業を象徴する一連の城郭群と共に語られることが多い。しかし、その信長を生み、彼の父祖である織田弾正忠家の飛躍を経済的に支えた最初の戦略拠点「勝幡城」の存在は、これまで歴史の表舞台で十分に光を当てられてきたとは言い難い。本報告書は、この「幻の城」の実像と、戦国史におけるその真の重要性を再検証するものである 1

勝幡城が「幻」と称される所以は、その物理的痕跡が現代においてほぼ完全に失われている点にある。江戸時代、寛文年間に行われた大規模な河川改修工事により、城の中枢部を含む遺構はその多くが破壊され、川底へと姿を消した 3 。その結果、城の存在は主に古文書の記録、限定的な考古学的発見、そして地域の伝承によってのみ、かろうじて現代に伝えられている。この物理的痕跡の欠如が、勝幡城の歴史的重要性の正当な評価を妨げてきた一因であることは否めない。

本報告書は、戦国時代初期の尾張国における政治・経済的文脈の中に勝幡城を明確に位置づけ、その築城背景、城郭の構造、そして織田弾正忠家の興隆において果たした決定的役割を多角的に分析する。最終的に、勝幡城が織田信長の天下統一事業における「真の起点」であったことを論証することを目的とする。

第一章:戦国初期における尾張国の動乱―織田弾正忠家台頭の土壌

1.1 権威の空洞化:守護・斯波氏の衰退

室町幕府において管領を輩出した名門、斯波氏(武衛家)は、尾張・遠江・越前の三国を領する有力守護大名であった。しかし、応仁の乱における家督争いや、遠江国を巡る駿河の今川氏との長期にわたる抗争、さらには越前における守護代・朝倉氏の台頭などを経て、その権威と実効支配力は著しく低下していた 7 。戦国時代初期の尾張国において、守護としての斯波氏はもはや名目上の存在となり、国政の実権は守護代である織田氏へと事実上移行していたのである。

1.2 守護代織田氏の分裂と抗争

斯波氏の権威失墜という権力の空白を埋める形で尾張国の実権を掌握した守護代・織田氏であったが、その内部もまた一枚岩ではなかった。やがて織田氏は二つの大きな勢力に分裂し、互いに覇を競うようになる。尾張上半四郡(春日井・丹羽・葉栗・中島郡)を支配し、岩倉城を拠点としたのが「岩倉織田家(伊勢守家)」。対する尾張下半四郡(愛知・知多・海東・海西郡)を支配し、守護代の拠点である清洲城を本拠としたのが「清洲織田家(大和守家)」である 11 。両者は尾張国の覇権を巡り、絶えず対立と抗争を繰り返し、国内は不安定な情勢が続いていた。

1.3 清洲三奉行からの飛躍:織田弾正忠家の勃興

織田信長の直系である織田弾正忠家は、本来、清洲織田家に仕える家臣であり、いわゆる「清洲三奉行」の一角を占める家柄に過ぎなかった 11 。しかし、信長の曽祖父・良信、そして祖父・信定の代から、弾正忠家は主家である清洲織田家とは一線を画した独自の動きを見せ始める 11 。彼らは、他の多くの武士勢力が領地の石高、すなわち米の生産量を経済基盤とする旧来の価値観に留まる中、いち早く商業と流通の重要性に着目し、新たな富の源泉を求め始めた 15

この一連の歴史的背景は、勝幡城築城の動機を理解する上で不可欠である。勝幡城の建設とそれに続く織田弾正忠家の台頭は、単なる一族の勃興物語ではない。それは、「守護・守護代体制」という中世的な支配構造が崩壊し、実力主義が支配する戦国の世へと移行する尾張国全体の権力構造の地殻変動を背景としていた。斯波氏の権威失墜が守護代・織田氏の自立を促し、さらにその織田氏の内部抗争が、弾正忠家のような被官層に「下剋上」を成し遂げるまたとない機会を提供したのである。この権力の真空状態とも言える状況下で、弾正忠家は既存の秩序への挑戦と、新たな時代の覇者となるための戦略的拠点として、勝幡城を計画的に築城した。それは、まさに来るべき新時代への狼煙であった。

第二章:経済戦略の要衝―勝幡城の築城

2.1 尾張の経済中心地・津島湊の重要性

当時の津島は、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川が伊勢湾に注ぐ広大なデルタ地帯に位置し、水運の結節点、すなわち「川湊」として比類なき繁栄を誇っていた 1 。伊勢湾を通じて全国の物資が集散し、また津島は牛頭天王信仰の総本社である津島神社の門前町としても栄え、全国から参拝者が訪れることで、人、物、銭(貨幣)、そして情報が集積する一大経済センターを形成していた 13 。この津島を直接支配下に置くことは、尾張国のみならず、周辺地域への絶大な経済的影響力を掌握することを意味した 17

2.2 織田信定による津島支配と勝幡城の戦略的立地

永正年間(1504年~1521年)、織田弾正忠家の当主であった織田信定は、この「富の源泉」である津島を恒久的に支配下に置くための戦略的拠点として、勝幡城を築城した 1 。城の立地は、まさに卓見と言うべきものであった。津島に近接しながらも、日光川、三宅川、領内川といった複数の河川に囲まれた三角州上の微高地を選定。これにより、水運の監視と管理を容易にすると同時に、河川そのものを天然の堀として利用することができ、防御においても極めて有利な地形であった 4

2.3 地名の由来:「塩畑」から「勝幡」へ

この地の元々の名は「塩畑(しおばた)」であったと伝えられるが、信定、あるいはその子である信秀が「勝ち旗」に通じる縁起の良い「勝幡(しょばた)」へと改名したという伝承が残っている 4 。これが事実であれば、単なる地名の変更に留まらず、織田弾正忠家の天下への野心と、戦乱の世を勝ち抜くという強い意志を内外に表明する、象徴的な行為であったと考えられる。

勝幡城の築城は、単なる軍事行動として捉えるべきではない。それは、当時の価値観からすれば極めて革新的な「経済戦略」であった。他の多くの武将が、依然として土地(荘園)の奪い合いに終始する中、織田信定は「富の源泉そのものを掌握する」という、より近代的で合理的な発想で行動していた。城の機能は、軍事拠点であると同時に、津島という「金のなる木」を管理・支配するための政庁、すなわち現代で言うところの本社(ヘッドクォーター)であった 1 。この戦略が画期的であったのは、当時の経済基盤の主流であった米の収穫量に依存する農業経済に対し、織田家が商業、流通、そして貨幣経済という「流れ」を掴むことで、桁違いの財力を得ようとした点にある 15 。この莫大な財力こそが、後の鉄砲の大量購入、兵の常備軍化、朝廷への献金を通じた権威の獲得といった、信長の革新的な政策を可能にする原資となった。勝幡城は、織田家を旧来の封建領主から、商業資本を駆使する「戦国時代の経営者」へと変貌させた、イノベーションの拠点だったのである。信長の卓越した経済感覚のルーツは、祖父・信定のこの一手に見出すことができる。

第三章:城郭の構造と実像

3.1 文献と復元図から探る縄張り

勝幡城は、戦国期に一般的となる天守閣を持たない「館城(やかたじょう)」形式の平城であったとされている 23 。その最大の特徴は、水利を巧みに利用した堅固な防御構造にある。主郭部を二重の堀で厳重に囲み、さらに城の周囲を流れる三宅川などを天然の外堀として活用することで、難攻不落の水城を形成していたと推定される 2 。江戸時代の地誌『尾陽雑記』には、「東西四十八間、南北七十間、大手口東西二重堀、四方に惣堀有、惣構の外南北百二十間、東西百十四間」といった具体的な規模を示す記述が残されており、広大な惣構えを有していたことが窺える 21

稲沢市が制作したCG復元動画や、名鉄勝幡駅前に設置された推定復元模型によれば、本丸を囲む土塁は高さが二間(約3.6 m)にも及び、その四隅には櫓台が設けられていた 4 。特筆すべきは、これらの隅櫓が外側へ大きく張り出すように設計されていた点である。これは城壁に接近する敵兵に対し、側面から矢や鉄砲を射かける「横矢掛かり」を強く意識したものであり、当時としては先進的かつ実戦的な縄張りであったことを示唆している 4

3.2 『言継卿記』の記述分析―見せるための城

勝幡城の威容を伝える上で、これ以上ない第一級の史料が存在する。それは、天文2年(1533年)に織田信秀の招待を受けてこの城を訪れた公家・山科言継が記した日記『言継卿記』である 27 。言継は、その日記の中で、勝幡城の壮麗な規模と見事な出来栄えに深く感銘を受け、驚嘆した旨を書き残している。

この記述が持つ意味は大きい。なぜ信秀は、わざわざ京の都から公家を招いたのか。それは、自身の権勢を中央の権威筋に認めさせ、箔を付けるという明確な政治的意図があったからに他ならない。そして、なぜ言継は驚いたのか。それは、地方の一武将、それも守護代の家臣に過ぎないはずの信秀が、京の貴族さえも感嘆させるほどの壮大な居館を構えていたという事実が、当時の常識を覆すものであったからである。この記録は、勝幡城が単なる防御施設ではなく、織田弾正忠家の圧倒的な財力と上昇しつつある権威を内外に誇示するための、政治的な「見せる城」としての機能も有していたことを雄弁に物語っている。この「権威の可視化戦略」は、後に信長が築城する安土城において、その頂点を迎えることになる。勝幡城は、その壮大な構想の原型であったと言えるだろう。

3.3 考古学的知見と遺構の現状

これほどまでに壮麗を誇った勝幡城であったが、その主要部分は、江戸時代初期の寛文6年(1666年)頃から始まった尾張藩による大規模な治水工事(日光川の改修)によって大きく破壊され、その多くが川底に沈んだと考えられている 4

その結果、現在、城跡とされる場所には地表に明確な遺構はほとんど確認できず、往時を偲ぶものは、後世に建立された二つの石碑のみである。一つは、大正4年(1915年)に愛知県によって建てられた「勝幡城址」の碑。もう一つは、城の南端部と推定される場所に立つ「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の碑である 3 。城の領域は、現在の愛知県稲沢市平和町の城之内・城西地区から、愛西市勝幡町にかけて広がっていたと推定されており、稲沢市指定史跡となっている 21


【表1:勝幡城の推定諸元】

項目

内容

典拠・備考

城郭分類

平城、館城

天守閣を持たない室町時代の形式 23

立地

日光川、三宅川、領内川に囲まれた三角州上の微高地

4

築城者

織田弾正忠信定

21

築城年代

永正年間(1504年~1521年)

21

推定規模

惣構え:南北120間×東西114間、主郭部:東西205m×南北216m

『尾陽雑記』 21 、復元図 23

防御施設

二重の堀、方形土塁(高さ約3.6 m)、隅櫓、木橋・土橋

2

主要な城主

織田信定、織田信秀

22

廃城年

天文7年(1538年)以降、段階的に廃城か

信秀の那古野城移転後 22

現状

遺構は消滅。石碑、説明板のみ。稲沢市指定史跡。

3


第四章:織田弾正忠家の揺りかご

4.1 織田信秀の拠点時代

父・信定の跡を継いだ織田信秀は、この勝幡城を拠点として、その才能を遺憾なく発揮する。父が築き上げた津島からもたらされる莫大な経済力を背景に、強力な軍事力を組織。尾張国内のライバルたちと渡り合うだけでなく、隣国の三河や美濃へも積極的に出兵を繰り返し、一介の奉行の立場から、尾張を代表する戦国武将へと急速に成り上がっていった 1 。信秀自身も、永正5年(1508年)あるいは永正9年(1512年)に、この勝幡城で生まれたと伝えられている 1

4.2 最有力説としての「織田信長生誕の地」

長年にわたり、織田信長の生誕地は那古野城であるというのが通説であった。しかし、近年の研究の進展により、この説は覆され、現在では勝幡城説が最も有力な説として広く受け入れられている 22 。その最大の根拠は、時間的な整合性にある。信長が生まれたとされる天文3年(1534年)の時点で、父・信秀はまだ今川氏の一族が守る那古野城を攻略していなかった、というのが現在の学界における有力な見解である。信秀による那古野城奪取は、それより後の天文7年(1538年)頃と考えられているため、信長が那古野城で生まれることは物理的に不可能なのである 1

したがって、信長(幼名・吉法師)は天文3年(1534年)5月、父・信秀の居城であったこの勝幡城で生を受け、父が那古野城を奪取し、さらに古渡城を築いて拠点を移すまでの数年間、その幼少期を過ごしたと考えるのが最も合理的である 1

4.3 飛躍の始点として

このように見てくると、勝幡城の歴史的重要性は一層明らかになる。この城は、祖父・信定が旧来の価値観を打ち破り、商業経済を基盤とする新たな力を蓄積した場所であり、父・信秀がその経済力を軍事力・政治力へと転化させ、尾張一円にその名を轟かせた場所であり、そして何よりも、後の天下人・織田信長がこの世に生を受けた場所なのである。まさに、織田弾正忠家三代にわたる飛躍の「揺りかご」であり、日本の歴史を大きく転換させることになる天下統一事業の、真の出発点であったと言えるだろう 1

「信長生誕の地」が那古野城から勝幡城へとシフトすることは、単なる歴史的事実の訂正に留まるものではない。それは、信長の人物像と彼の革新性の起源についての我々の理解を、より深く、本質的なものへと導く。従来の「那古野城生まれ」という説は、既存の権力(今川氏)を武力で奪取した場所から成り上がったという、典型的な戦国武将のイメージを補強するものであった。しかし、「勝幡城生まれ」という新たな視点は、全く異なる物語を提示する。それは、信長の原点が、祖父がゼロから築き上げた経済戦略の拠点にあり、彼の成長期が、商業都市・津島の自由で合理的な空気に満ちた環境の中にあったことを意味する。信長の既成概念に囚われない合理主義や卓越した経済感覚は、天賦の才のみによるものではなく、この勝幡城で育まれた「弾正忠家の革新的な家風」という土壌から生まれたものであると考えることで、彼の歴史的偉業は、より一層の深みと連続性をもって理解されるのである。

第五章:拠点の変遷と歴史的役割の終焉

5.1 那古野城奪取と本拠地の移動

天文7年(1538年)頃、織田信秀は尾張における今川氏の橋頭堡であった那古野城を、謀略を用いて攻略することに成功する 34 。そして、居城を勝幡城からこの那古野城へと移した 20 。これは、尾張国のより中心部へと進出し、国内統一とさらなる勢力拡大を目指す上で、極めて合理的な戦略的判断であった。

5.2 古渡城、末森城へ―弾正忠家の発展

信秀の野心は留まることを知らない。彼は勢力拡大の段階に応じて、拠点を次々と移動させていく。那古野城を幼い信長に譲ると、自身は天文13年(1534年)に新たに古渡城を築城し、伊勢湾交易のもう一つの拠点である熱田の湊と熱田神宮の門前町を直接支配下に置いた 1 。さらに後年、天文17年(1548年)には、東方から圧力を強める三河の松平氏や駿河の今川氏への備えとして、尾張東部の丘陵地帯に末森城を築城し、本拠を移している 35

5.3 廃城への道程

信秀が那古野城へ移った後、勝幡城には城代として家臣の武藤掃部(雄政)が置かれ、引き続き尾張西部の拠点として機能していた 20 。しかし、信秀の死後、家督を継いだ信長が、尾張守護代・織田信友を滅ぼして清洲城を本拠と定めると(弘治元年、1555年)、弾正忠家の戦略的重心は完全に尾張中部へと移行した。これに伴い、城代であった武藤掃部も野府城へ転属となり、勝幡城は戦略的拠点としての重要性を完全に失い、歴史の表舞台から静かに姿を消し、やがて廃城となったのである 28

勝幡城の廃城は、決して織田弾正忠家の「失敗」や「衰退」を意味するものではない。むしろ、それは彼らの目覚ましい「成功」の証左であった。勢力が拡大し、直面する戦略的課題が変化するにつれて、最適な拠点の位置もまた変化するのは当然の理である。勝幡城は、弾正忠家が尾張西部の経済圏を掌握し、飛躍の第一歩を踏み出すという、その初期段階における歴史的役割を完璧に果たした。だからこそ、次の戦略拠点にその座を譲り、発展的にその役目を終えたのである。信秀から信長へと続く、勝幡、那古野、古渡、末森、そして清洲という拠点のダイナミックな変遷は、織田弾正忠家の急成長の軌跡そのものであり、勝幡城の廃城は、その成長戦略の中で起こるべくして起こった「戦略的陳腐化」の好例と言えるだろう。

第六章:現代に蘇る幻の城

6.1 考古学的発見:「伝勝幡城の石」

江戸時代の河川改修によって、その姿を完全に失ったと思われていた勝幡城。しかし昭和54年(1979年)、城跡付近で行われた排水工事の際に、地中から巨大な加工石が偶然発見された 29 。残された古図面との照合により、この石が出土した場所は城の櫓台があった位置と推定されている 29 。この「伝勝幡城の石」と呼ばれる礎石は、失われた城を物語る数少ない貴重な物証として、現在、愛西市役所佐織庁舎の敷地内に大切に保管・展示されている 39

6.2 地域における歴史遺産としての継承活動

物理的な遺構がほとんど残らない勝幡城の歴史と重要性を後世に伝えるため、地元の愛西市、稲沢市、そして地域の観光協会は、連携して様々な取り組みを行っている。

  • 可視化の試み: 目に見えない城の姿を少しでも具体的に感じられるよう、名鉄津島線の勝幡駅前には、歴史考証に基づき制作された精巧な「推定復元模型」が設置されている 25 。さらに稲沢市は、最新のデジタル技術を駆使し、CGによる復元動画や、城内を自由に散策できる360度ビューVRコンテンツを制作・公開しており、往時の城の姿を仮想的に体感することが可能となっている 3
  • シンボルの設置: 同じく勝幡駅前広場には、父・信秀と母・土田御前に抱かれた幼少期の信長(吉法師)の銅像が建立されている 3 。これは、この地が信長生誕の地であることを象徴するモニュメントとして、訪れる人々を迎えている。
  • 観光振興と啓発活動: 愛西市と稲沢市の観光協会は、共同で「御城印」を制作・販売し、歴史ファンや観光客の誘致に努めている 3 。また、詳細な観光ガイドブックの発行や、「稲沢戦国フェス」といった関連イベントの開催を通じて、勝幡城の知名度向上と、歴史遺産を核とした地域活性化を図っている 3

勝幡城の事例は、物理的な遺構が失われた文化財を、いかにして現代に継承していくかという普遍的な課題に対する、一つの優れたモデルケースを示している。そこには、城跡にただ石碑を建てるだけではない、多角的なアプローチが見られる。まず、「織田信長生誕の地」という強力な物語性(ストーリー)を核に据える。次に、文献史学や考古学の知見という学術的根拠に基づき、それをデジタル技術(CG・VR)や造形物(復元模型)によって誰もが享受できる形に「翻訳」する。そして最後に、地域が連携し、御城印やイベントといった観光資源へと「展開」する。この一連の取り組みは、物理的実体を失った歴史遺産が、地域のアイデンティティとして生き続け、新たな価値を創造していくための、極めて現代的なアプローチと言えるだろう。

終章:勝幡城が歴史に刻んだもの

勝幡城は、織田信長の華々しい覇業の歴史の中で、単なる通過点として語られるべき城ではない。それは、織田弾正忠家という一地方豪族が、他の国人領主から頭一つ抜け出し、天下を窺う存在へと飛躍するための経済的・軍事的基盤を確立した、決定的な重要性を持つ城郭である。

織田信長の天下統一事業を可能にした要因は、彼の類稀なる軍事的才能や革新的な政策のみにあるのではない。その根底には、祖父・信定と父・信秀が、この勝幡城を拠点として築き上げた圧倒的な経済力が存在した。土地の石高ではなく、商業と流通を制する者が新たな時代の覇者となるという、戦国時代の新たなパラダイムは、まさしくこの勝幡城から始まったのである。

遺構は河川の底に消え、今や「幻の城」となった。しかし、その歴史的意義が失われたわけではない。勝幡城は、織田信長の、ひいては日本の歴史が大きく転換する、その原点に今も静かに、そして厳然と位置し続けている。その存在を正しく理解することこそ、戦国という激動の時代を、そして織田信長という傑出した人物を、より深く知るための鍵となるのである。

引用文献

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  28. 勝幡城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/231/memo/4245.html
  29. 勝幡城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B9%A1%E5%9F%8E
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  31. 勝幡城跡 - 稲沢市観光協会 https://www.inazawa-kankou.jp/archives/418
  32. 4月1日から勝幡城跡の御城印を販売開始します!! - 愛西市観光協会 https://www.aisaikankou.jp/wgs/blog/v/140/
  33. 【勝幡城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_23220af2172020314/
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