最終更新日 2025-08-20

戦国時代の自由・自治都市堺は、環濠に守られ、日明・南蛮貿易で繁栄。会合衆が自治を担い、鉄砲生産や茶の湯文化が花開いた。信長・秀吉の支配で自治を失い、大坂夏の陣で焼失。

戦国期における自由・自治都市「堺」の総合的研究

序論:戦国時代の特異点としての堺

地理的・歴史的黎明期

日本の戦国時代、数多の都市が勃興と衰退を繰り返す中で、ひときわ異彩を放つ存在があった。それが和泉国北部に位置する港湾都市「堺」である。その名の由来は、古く平安時代にこの地が摂津・河内・和泉という三国の「境」にあったことに遡る 1 。当初は一介の漁港に過ぎなかった堺は、鎌倉時代を経て西日本の海運拠点として徐々にその重要性を増していく 2 。そして、室町幕府の権威が失墜し、群雄が割拠する戦乱の世が訪れると、堺はその真価を発揮し、未曾有の「黄金の日々」を迎えることとなる。

戦国乱世における堺の特異性

戦国時代の都市の多くが、守護大名や戦国大名の支配下に組み込まれ、その城下町として発展したのとは対照的に、堺は特定の武家権力に服属することなく、「自由・自治都市」としての独立を維持した 3 。西国交通の要衝という地理的優位性を活かし、日明貿易や南蛮貿易といった国際交易の拠点となることで莫大な富を蓄積。その経済力を背景に、町衆、特に「会合衆」と呼ばれる有力豪商たちが都市運営の主導権を握り、周囲に堅固な環濠を巡らせて自衛する武装都市を形成したのである 4 。なぜ堺は、武力が全てを支配する時代にあって、このような特異な地位を築き得たのか。その力の源泉はどこにあったのか。

本報告書の構成と目的

本報告書は、戦国時代における都市「堺」について、その多層的な実像を解明することを目的とする。単なる歴史的概観にとどまらず、堺を「構造」「経済」「自治」「産業」「文化」「政治的関係」「終焉」という七つの側面から総合的に分析する。最新の発掘調査の成果や、同時代の記録を丹念に読み解き、この稀代の自由都市がどのようにして生まれ、繁栄し、そして時代の奔流の中に消えていったのかを徹底的に考察する。

表1:堺・主要年表(1469年~1615年)

西暦(和暦)

主な出来事

1469年(文明元年)

遣明船が初めて堺に帰着し、国際貿易港としての歴史が本格化する 5

1476年(文明8年)

遣明船が初めて堺から明へ向けて出発する 7

1484年(文明16年)

自治組織の中核をなす「会合衆」の存在が初めて文献に現れる 7

1543年(天文12年)

種子島に鉄砲が伝来。直後、堺の商人が製法を学び、一大生産地への道を開く 8

1550年(天文19年)

宣教師フランシスコ・ザビエルが堺に来訪。キリスト教文化との接触が始まる 7

1568年(永禄11年)

織田信長が堺に対し、軍用金として矢銭二万貫の支払いを要求。自治が試練に晒される 7

1570年(元亀元年)

堺が織田信長の直轄領となり、自治権が大きく制限される 7

1586年(天正14年)

豊臣秀吉が堺の自治と防衛の象徴であった環濠の埋め戻しを命令する 7

1591年(天正19年)

茶人として絶大な影響力を持った千利休が、秀吉の命により自刃する 7

1615年(慶長20年)

大坂夏の陣において、豊臣方の大野治胤により焼き討ちに遭い、市街の大部分が焼失する 7


第一章:環濠都市「堺」の物理的構造

戦国時代の堺を理解する上で、その物理的な都市構造を把握することは不可欠である。堺の環濠、計画的な町割、そして商人の富を象徴する建造物群は、単なる都市の構成要素ではなく、堺の独立性、合理性、そして経済力というアイデンティティそのものを体現したものであった。それは、武士の論理ではなく商人の論理が支配する「治外法権」的な空間を物理的に創出し、守り抜くための精緻な装置だったのである。

1.1. 環濠の構築と防御機能:発掘調査が明かす実像

堺の最も顕著な特徴は、市街地を囲む広大な環濠の存在である 4 。海に面した西側を除く北・東・南の三方を、南北約3km、東西約1kmにわたって取り囲んでいたこの巨大な堀は、外部の武家権力による支配と侵略を拒絶し、都市の自治を守るための物理的な防壁であった 4

近年の堺環濠都市遺跡における1000地点を超える発掘調査は、この環濠の驚くべき実態を次々と明らかにしている 14 。調査によれば、環濠の幅は10メートルを超え、場所によっては二重に巡らされている箇所も確認されており、極めて堅固な防御施設であったことがわかる 7 。永禄11年(1568年)に織田信長が堺に圧力をかけた際、住民たちが濠をさらに深く掘り下げて抵抗したという記録も残っており、環濠が常に都市防衛の要として意識され、維持管理されていたことを物語っている 7

さらに興味深いのは、環濠の変遷である。発掘調査の結果、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣以前に存在した環濠は、江戸時代に再建されたものよりも一回り内側を巡っていたことが判明した 7 。これは、堺の都市域が時代と共に拡大、あるいは変化していった可能性を示唆しており、都市の成長と防衛ラインの再設定が連動していたことをうかがわせる。

1.2. 内部の都市計画:碁盤目状の町割、道路、水路

環濠の内側に広がる都市空間は、無秩序な市街地ではなく、高度な計画性に基づいて設計されていた。都市の中心を東西に貫く幅5間(約9メートル)の「大小路通」を基軸として、南北に道が走り、全体として碁盤目状の整然とした街区が形成されていた 16 。町割は南北に細長い短冊型を基本とし、大小路通を境に北組と南組に分けられ、それぞれがさらに細分化された組合によって管理されていた 16

インフラ整備の水準も極めて高かった。道路は土を何層にも突き固める「版築」という工法で頑丈に造られ、幅4メートルから6メートルの表通りから狭い路地に至るまで、網の目のように巡らされていた 7 。道路の脇には側溝が設けられ、雨水の排水が考慮されていたことも発掘調査で確認されている 7 。さらに、環濠とは別に、市街地の中を巡る濠の存在も明らかになっている。石垣によって護岸されたこれらの濠は、都市内の物資輸送を担う運河のような役割を果たしていた可能性が指摘されており、堺が陸路と水路を巧みに組み合わせた高度な物流ネットワークを有していたことを示している 7

このような計画的で合理的な都市空間の設計は、武家の城下町とは一線を画すものであり、商業活動の効率性を最優先する商人たちの価値観が色濃く反映された結果と言えるだろう。

1.3. 商人の富の象徴:塼列建物(蔵)と屋敷の構造

堺の都市遺跡から出土する遺構の中で、特に特徴的なのが「塼列建物」である 7 。これは、建物の基礎部分の周囲に「塼(せん)」と呼ばれる瓦質の平らな板を立て並べたもので、主に蔵として使用されていたと考えられている 11 。塼を地中に並べることで、湿気やモグラなどの害獣が基礎部分へ侵入するのを防ぐ効果があり、堅牢な土壁や瓦葺きの屋根と合わせて、堺商人が貿易で得た莫大な富や商品を保管するのに最適な構造であった 7 。当時の屏風絵には3階建ての壮麗な蔵も描かれており、これらが林立する様は、堺の富を誇示する都市景観の重要な要素であったと推察される 7

発掘調査からは、豪商たちの広大な屋敷の具体的な姿も浮かび上がってきた。敷地面積が330平方メートル(100坪)を超えるものもあり、表通りに面して主屋(礎石建物)を構え、その裏手に複数の蔵(塼列建物)を配置するというのが一般的な構成であった 7 。主屋と蔵の間には中庭が設けられ、茶の湯文化の中心地であった堺らしく、茶室や茶道具を納める専用の蔵を備えた屋敷も発見されている 7 。これらの屋敷は、単なる居住空間ではなく、商取引の場、富の貯蔵・誇示の空間、そして文化活動の舞台が一体となった、複合的な機能を持つ空間だったのである。


第二章:国際貿易港としての繁栄

堺の自治と文化を支えた根源は、その圧倒的な経済力にあった。そして、その富の源泉は、国際貿易にあった。応仁の乱以降、堺は日明貿易の主要な拠点となり、さらに16世紀半ばからは南蛮貿易の窓口として、東西の交易ネットワークの結節点となった。堺の商人たちは、この地の利を最大限に活かし、単に商品を仲介するだけでなく、貿易がもたらす新たな技術や情報を地場産業へと転換させる「変化の触媒」としての役割を果たした。堺は、戦国日本のグローバル化の最前線だったのである。

2.1. 日明貿易の拠点へ:勘合貿易における堺の役割と交易品

室町時代、足利義満によって開始された日明貿易(勘合貿易)は、当初博多や兵庫がその中心であった。しかし、応仁の乱(1467年~1477年)で京都が荒廃し、幕府の権威が揺らぐ中で、細川氏の庇護を受けた堺が急速に台頭する。文明元年(1469年)、遣明船が堺の港に着岸したことは、堺が国際貿易港として飛躍する画期的な出来事であった 5 。これ以降、堺は遣明船の発着港の一つとして、日明貿易の重要な一翼を担うことになる 5

堺を通じて日本と明の間で取引された品目は多岐にわたる。日本からの主要な輸出品は、銅、硫黄、金といった鉱物資源、そして品質の高さで知られた刀剣、漆器、蒔絵などの工芸品であった 19 。一方、明からの輸入品としては、当時の日本で貨幣として広く流通した洪武通宝や永楽通宝といった銅銭、そして生糸、綿糸、絹織物、陶磁器、さらには仏教経典などの書籍や香料が挙げられる 19

中でも特筆すべきは、銅の取引である。当時、日本から輸出された銅には少なからず銀が含まれていた。日本の技術ではこれを分離抽出することが困難であったが、明側にはその技術があったため、日本の銅は「銅にしては高いが銀にしては安い」という、双方にとって利益の大きい価格で取引された 21 。この差益は、堺の商人たちに莫大な富をもたらす一因となった。

2.2. 南蛮貿易の窓口:西欧との接触がもたらした富と技術

16世紀半ばになると、ポルトガルやスペインの商船が来航し、「南蛮貿易」が始まる。堺は、長崎や平戸と並び、この新たな西欧との交易の拠点としても繁栄した 1 。南蛮貿易は、日明貿易とは異なる品物と技術を日本にもたらした。

輸入品の筆頭は、戦国時代の様相を一変させた鉄砲と、その運用に不可欠な火薬であった 24 。その他にも、時計やガラス製品といった当時の日本では目新しい文物が輸入された。これに対し、日本からの主要な輸出品は銀であった 24 。当時、日本は世界有数の銀産国であり、堺の商人たちはこの銀を元手に南蛮貿易を展開した。

南蛮貿易は、単に富をもたらすだけでなく、堺に新たな産業を根付かせる起爆剤ともなった。例えば、交易品として輸入された白檀、沈香、伽羅といった香木は、堺の薬種商によって取り扱われ、後に堺の伝統産業となる線香製造の起源となった 8 。また、ポルトガルから伝わったタバコの喫煙文化は、その葉を刻むための「煙草包丁」の大量需要を生み出し、堺の金属加工技術の発展を促した 8 。このように、堺の商人たちは海外からもたらされた新しい文物や文化を巧みにビジネスへと結びつけていったのである。

2.3. 金融都市としての機能:豪商たちによる富の蓄積と流通

日明貿易と南蛮貿易、二つの国際交易ルートを掌握した堺には、人、モノ、情報、そして富が集中した。堺は単なる商品の通過点ではなく、それらを蓄積し、再分配する金融都市としての機能を果たしていた 26

堺の豪商たちは、貿易で得た莫大な資本を元手に、貸金業を営む「土倉」や、遠隔地取引の決済手段である「為替(割符)」といった、当時としては高度な金融活動を展開していた 27 。彼らは大名や他の商人に対して資金を融通し、その利息や手数料によってさらに富を増やしていった。

その活動は、単なる商業金融にとどまらなかった。例えば、豪商の今井宗久は、織田信長の上洛に際して軍資金(矢銭)の調達に深く関与し、また姉川の戦いの直前には木下秀吉(後の豊臣秀吉)の要請に応じて大量の火薬を調達するなど、戦国大名にとって不可欠な「御用商人」としての役割も担っていた 29 。これは、堺の豪商たちが、戦国の動乱を左右するほどの資金力とネットワークを持つ、強力な金融プレイヤーであったことを示している。

表2:堺の国際貿易における主要交易品

交易形態

区分

主要品目

備考

日明貿易(勘合貿易)

輸出品

銅、硫黄、金、刀剣、漆器、扇子、屏風

銅は銀を含有し、高値で取引された 21

輸入品

銅銭(永楽通宝など)、生糸、絹織物、陶磁器、書籍、香料

銅銭は日本国内の通貨として流通した 19

南蛮貿易

輸出品

当時の日本は世界有数の銀産国であった 24

輸入品

鉄砲、火薬、生糸、絹織物、時計、ガラス製品、香料(白檀など)

鉄砲や香料は、堺の新たな地場産業(鉄砲生産、線香)の源となった 8


第三章:「会合衆」による自治の実現

堺の経済的繁栄は、そのユニークな統治形態と不可分であった。武家権力から独立した自治を可能にしたのが、「会合衆(かいごうしゅう)」と呼ばれる豪商たちによる合議制組織である。彼らは経済力を背景に、事実上の行政、司法、軍事権を掌握し、都市の運営を取り仕切った。その姿は、同時代のヨーロッパの自由都市、特に宣教師が「東洋のヴェネツィア」と評した海洋共和国を彷彿とさせる。しかし、その自治は、周囲の戦国大名間のパワーバランスという、極めて脆弱な基盤の上に成り立っていた。

3.1. 自治組織「会合衆」の実態:構成員、意思決定プロセス、権力基盤

室町時代後期から戦国時代にかけ、堺の都市自治を指導したのが「会合衆」と呼ばれる特権的な商人層であった 32 。この呼称は、近年では「えごうしゅう」という従来の読みに代わり、史料に基づき「かいごうしゅう」と読むのが正しいとする見解が有力となっている 34

会合衆の構成員については、かつて「三十六人衆」として知られていたが、これは町の発展に伴い運営組織が増えたことによる誤解であり、実際には中核をなすメンバーは終始10人であったとする説が今日の研究では一般的である 13 。天正2年(1574年)、織田信長が京都相国寺での茶会に招いた今井宗久、津田宗及、千宗易(利休)ら10人の堺の有力者たちが、まさしく当時の会合衆の主要メンバーであったと考えられている 34 。彼らは皆、納屋衆とも呼ばれた富裕な商人であり、その権力の源泉は日明貿易や南蛮貿易、そして鉄砲生産などによって蓄積された圧倒的な経済力にあった 33

会合衆は、決して民主的な組織ではなく、富と権力を独占した特権階級による寡頭制であったが、内部では自由な議論が行われ、茶会などの場を通じて都市の重要事項に関する意思決定がなされていた 33 。彼らは地縁的な共同体だけでは処理できない堺全体に関わる問題に対処し、経済力を背景に地域の秩序維持に力を発揮する「有徳人」として、都市の運営を主導したのである 36

3.2. 司法・警察権の行使と都市防衛

会合衆が主導する自治は、単なる名目上のものではなかった。彼らは堺の町において、事実上の行政権のみならず、司法・警察権をも行使し、都市の法と秩序を維持していた。

さらに、戦国の乱世にあって都市の平和と繁栄を守るため、会合衆は自主的な防衛体制の構築にも責任を負っていた。彼らの合議に基づき、町の周囲には堅固な環濠が巡らされた 13 。この環濠は、外部の武力勢力、特に守護大名や有力武士たちの侵入を防ぐための物理的な防壁であり、堺の独立を象徴するものであった 13 。さらに、傭兵を雇用し、自前の軍事力を保持することで、都市の安全保障を自らの手で担っていたのである 32 。このように、堺は経済力と自衛能力を兼ね備えた、強力な武装自治都市であった。

3.3. 比較都市論:博多「年行司」やヴェネツィアとの比較考察

堺の自治形態は、同時代の他の都市と比較することで、その特徴が一層明確になる。同じく国際貿易港として栄えた自治都市・博多では、「年行司(ねんぎょうじ)」と呼ばれる12人の豪商による合議体が市政を運営していた 38 。堺の会合衆と同様に、富裕な商人たちが都市の自治を担うという点で共通しているが、博多の年行司は黒田藩から藩札の発行を任されたり、武士以外で唯一藩主への謁見が許されたりするなど、領主権力との間に一定の関係性を構築していた点が堺とは異なると考えられる 40

より広範な視点で見れば、堺の姿はヨーロッパの自由都市、特にイタリアの海洋共和国と重なる。16世紀に来日したイエズス会の宣教師ガスパル・ビレラは、堺を「この町はベニス市の如く執政官に依りて治めらる」と本国に報告し、ルイス・フロイスもまた『日本史』の中で堺を「東洋のベニス」と評している 4 。海洋貿易によって富を築いた商人貴族が寡頭制の共和国を運営していたヴェネツィアと、会合衆が支配する堺との間には、確かに多くの類似点が見出せる 42

しかし、両者の間には決定的な違いも存在する。ヴェネツィアが独自の軍隊と外交権を持つ独立した主権国家であったのに対し、堺の「自治」はあくまで日本という国家の枠内に存在する一都市のものであった。その独立性は、周囲の戦国大名たちの勢力が拮抗し、強力な中央権力が存在しないという、戦国時代特有の政治的状況によってかろうじて維持されていたに過ぎない。この基盤の脆弱性は、後に天下統一を目指す織田信長や豊臣秀吉が登場した際に、堺の運命を大きく左右することになる。

表3:堺の自治と文化を担った主要人物

人物名

主な活動(職業)

会合衆としての役割

茶人としての側面

キリスト教との関わり

今井 宗久

豪商(納屋)、武具商人、茶人

会合衆の有力メンバー。織田信長との交渉役を務め、矢銭要求問題を仲介 31

天下三宗匠の一人。武野紹鷗の娘婿。信長の茶頭を務める 43

不明瞭だが、宣教師との接触はあったと考えられる。

津田 宗及

豪商(天王寺屋)、茶人

会合衆のリーダー格。信長の矢銭要求に対し、当初は抵抗を検討 37

天下三宗匠の一人。信長、秀吉の茶頭を務める。茶会記録『天王寺屋会記』で知られる 46

不明瞭。

千 利休(宗易)

豪商(魚屋)、茶人

会合衆の一員として信長に謁見。茶の湯を通じて絶大な影響力を行使 34

わび茶の大成者。茶道千家の始祖。信長、秀吉の茶頭を務める 48

ミサの儀式から影響を受けたという説がある 50

日比屋 了珪

豪商、貿易商人

不明。会合衆であった可能性も指摘される。

不明。

熱心なキリシタン(洗礼名ディオゴ)。ザビエルやビレラを庇護し、自宅を布教の拠点として提供 51


第四章:富と技術が生んだ産業

堺の富は、単に海外から商品を輸入し、国内で販売する中継貿易だけで成り立っていたわけではない。堺の商人たちの真骨頂は、貿易によってもたらされた海外の新しい技術や素材を、古来よりこの地に蓄積されてきた伝統的な基盤技術と融合させ、新たな高付加価値産業を創出した点にある。特に鉄砲生産においては、堺は他の追随を許さない日本最大の拠点となり、戦国時代の戦いの様相すら変えていった。堺の産業史は、外部からの刺激に柔軟に対応し、新たな価値を創造していく「技術の生態系」とも呼ぶべきダイナミズムを示している。

4.1. 日本最大の兵器廠:鉄砲生産の拠点化とその背景

天文12年(1543年)、ポルトガル人が乗った船が種子島に漂着し、日本に初めて鉄砲(火縄銃)がもたらされた。この画期的な新兵器の情報をいち早く掴んだ堺の商人たちは、驚くべき速さで行動を起こす。商人・橘屋又三郎らが直ちに種子島に赴き、鉄砲の製法を習得して堺に持ち帰ったのである 9 。この情報の速さと、新技術に対する貪欲なまでの探求心こそが、堺を日本一の鉄砲生産地へと押し上げる原動力となった。

堺が鉄砲の一大生産拠点となり得た背景には、三つの重要な要素が存在した。第一に、技術的基盤の存在である。堺には、仁徳天皇陵古墳の造営にも見られるように、古くから高度な金属加工(鋳造・鍛造)技術が蓄積されていた 55 。この伝統技術が、複雑な構造を持つ鉄砲の国産化を可能にした 9 。第二に、原料調達能力である。鉄砲の運用に不可欠な火薬の主原料である硝石は、その多くを輸入に頼っていたが、南蛮貿易の拠点であった堺は、この硝石を安定的に確保するルートを有していた 9 。第三に、生産システムの確立である。堺の職人たちは、各工程を専門の職人が担当する分業制を導入することで、高品質な鉄砲の大量生産を実現した 55

こうして生産された堺製の鉄砲は、戦国大名たちから絶大な需要を集めた。特に、銃床に精巧な金属の象嵌を施したり、機関部(カラクリ)に彫刻を施したりするなど、装飾性の高い高級品を得意とし、「大名筒」として知られる華麗な武器のほとんどを製造していたとされる 56 。これは、堺の鉄砲が単なる兵器としてだけでなく、大名の権威を示すステータスシンボルとしての価値も持っていたことを示している。国友(近江)と並び称される二大鉄砲産地の中でも、堺はその品質とブランド力で際立った存在だったのである 56

4.2. 伝統産業の萌芽:堺打刃物と線香の起源

鉄砲生産で培われた高度な技術と富は、平和な時代が訪れると新たな産業へと姿を変えていく。その代表例が、現在も日本の料理人に高く評価される「堺打刃物」である。16世紀後半、南蛮貿易によってポルトガルからタバコが伝来すると、その葉を細かく刻むための「煙草包丁」が大量に必要となった。この需要に応えたのが、鉄砲鍛冶で鍛えられた堺の職人たちであった 8 。彼らは鉄砲製造の技術を応用し、切れ味鋭い煙草包丁を生産。江戸時代には幕府の専売品として「堺極」の印が押されるほどの評価を得た 8 。この煙草包丁こそが、今日の堺打刃物の直接的な起源の一つとされている。

もう一つの代表的な伝統産業が「堺線香」である。その起源もまた、国際貿易にあった。中世、堺を拠点とした南蛮貿易の交易品として、白檀、沈香、伽羅といった高級な香木が輸入されていた 8 。堺の薬種商たちはこれらの貴重な原料を取り扱い、線香の製造を始めた。「泉南仏国」と呼ばれるほど寺院が密集していた堺では、仏事用の線香の需要が高く、また風流人の間では香道が広まっていたことも、線香産業の発展を後押しした 8 。海外からもたらされた香りの文化が、堺の宗教的・文化的土壌と結びつき、新たな地場産業として花開いたのである。


第五章:文化の交差点

堺は、単なる経済と産業の都市ではなかった。莫大な富と、国内外から集まる人々は、洗練された都市文化を育む土壌となった。特に茶の湯の世界では、堺は他のどの都市も及ばない中心的な役割を果たした。千利休をはじめとする堺の豪商たちは、経済力に加えて「美意識」という文化的な権威を手にし、それを武器に武士階級とも対等に渡り合った。彼らが主催する茶会は、単なる文化サロンではなく、政治・経済の情報が交錯する重要な社会装置として機能した。さらに、南蛮貿易を通じて流入したキリスト教などの西欧文化も、この開放的な都市で受容され、独自の文化を形成する一要素となった。

5.1. 茶の湯の聖地:千利休と堺の豪商たちが大成した「わび茶」の世界

茶の湯の歴史において、堺の名は不滅の輝きを放っている。簡素な道具を用い、静寂の中で内面的な精神性を追求する「わび茶」を大成した千利休(1522年~1591年)は、堺の商家に生まれた 48 。彼の法名である宗易の名が茶会の記録に初めて登場するのは、天文13年(1544年)、彼が堺で奈良の豪商・松屋久政を招いて茶会を催した時である 57

利休だけでなく、彼と共に「天下三宗匠」と称えられた今井宗久、津田宗及もまた堺の豪商であった 46 。豪華絢爛な唐物道具を珍重する従来の茶の湯に対し、彼らはありふれた日常の器にも美を見出し、それを茶の湯に取り入れることで、新たな価値観を創造した。この「わび茶」の精神は、なぜ堺の商人たちの間で育まれたのか。それは、華美な誇示よりも実質を重んじ、厳しい商取引の世界で常に自己と向き合うことを求められた商人たちの精神性と深く共鳴したからかもしれない。「一期一会」や「和敬清寂」といった茶道の理念は、彼らの生き方そのものであったとも言える 49

今日、堺には千利休屋敷跡や、本格的な茶の湯を手軽に体験できる文化観光施設「さかい利晶の杜」などが存在し、茶の湯の聖地としての歴史を現代に伝えている 60

5.2. 茶会の多面的機能:文化サロン、政治交渉、情報交換の場として

堺の豪商たちが開いた茶会は、単に茶を味わう文化的な集まりではなかった。それは、経済、政治、文化が密接に結びついた、戦国社会の縮図ともいえる多面的な機能を持つ場であった。

まず、茶会は経済力を文化的権威へと転換させるための装置であった。豪商たちは貿易で得た富を投じて高価な茶道具(名物)を収集し、それを披露する場として茶会を催した 28 。茶道具の価値を鑑定し、時にそれらを売買する場ともなり、利休が良いと評価した道具が高値で取引される「ブランド商法」の先駆けでもあった 58

次に、茶会は重要な政治交渉の舞台であった。織田信長や豊臣秀吉といった天下人は、有力な茶人を「茶頭(さどう)」として召し抱え、茶の湯を政治的に利用した 44 。茶頭は主君の茶会を取り仕切り、その信頼を得て政治顧問のような役割を果たすこともあった 58 。今井宗久や津田宗及は信長の茶頭として、千利休は信長と秀吉の茶頭として、茶会を通じて大名たちと渡り合い、情報交換や交渉を行った 31 。茶室という狭い空間は、身分の上下を超えて本音の探り合いが行われる、もう一つの戦場だったのである。

5.3. キリスト教と南蛮文化の浸透:宣教師の活動と堺社会への影響

国際貿易港であった堺は、西欧の新しい宗教と文化を受け入れる窓口でもあった。天文19年(1550年)のフランシスコ・ザビエルの来訪を皮切りに、ガスパル・ビレラ(1561年)、ルイス・フロイス(1565年)といったイエズス会の宣教師たちが相次いで堺を訪れた 7

彼らの活動を支えたのが、堺の豪商たちであった。特に、貿易商人であった日比屋了珪は熱心なキリシタン(洗礼名ディオゴ)となり、ザビエルやビレラを自らの邸宅に迎え入れ、布教活動の拠点を提供した 51 。特定の領主に縛られない国際都市としての堺の開放的な気風が、異国の宗教や文化に対する寛容さを生んだと考えられる。

キリスト教や南蛮文化は、堺の社会に様々な影響を与えた。畳の上で行われるミサの儀式が、千利休の茶の湯の作法に影響を与えたのではないかという興味深い説も存在する 50 。また、宣教師たちは宗教だけでなく、活版印刷術や油絵、銅版画といった西欧の新しい技術や芸術ももたらした 63 。これらの文化は、堺という交差点を通じて、日本の社会に新たな刺激を与えることになったのである。


第六章:天下人との対峙

戦国乱世という、権力の空白と勢力の均衡の上に成り立っていた堺の「自由と自治」。しかし、その脆弱な平和は、天下統一という巨大な権力が登場したことによって、根本から揺るがされることになる。織田信長は圧倒的な軍事力を背景に堺に服従を迫り、豊臣秀吉はその自治システムを完全に解体した。堺と天下人の対立は、単なる権力闘争ではない。「中世的な、分権的で自由な都市の論理」と、「近世的な、統一的で中央集権的な国家の論理」との、歴史の転換点における必然的な衝突だったのである。

6.1. 織田信長と堺:矢銭要求と自治の試練

永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、その勢いを駆って畿内の平定を進める。その矛先は、独立を謳歌する富裕な都市、堺にも向けられた。信長は堺に対し、軍資金として「矢銭」二万貫という、当時としては天文学的な額の支払いを要求した 10 。これは、現在の貨幣価値に換算すると数十億円にも相当する額であり、単なる資金調達要求にとどまらず、堺が信長の権威に服従するか否かを問う、政治的な踏み絵であった 29

この理不尽な要求に対し、会合衆を中心とする堺の町衆は激しく抵抗した。彼らは環濠を深くし、浪人を雇い入れ、籠城して信長軍を迎え撃つ覚悟を決めた。しかし、信長は摂津の三好三人衆を打ち破るなど、その圧倒的な軍事力を誇示し、堺を焼き払うことも辞さない強硬な姿勢を見せた 64

この一触即発の事態を収拾したのが、会合衆の一員であり、信長とも繋がりを持っていた今井宗久であった。彼は抵抗を主張する他の会合衆を必死に説得し、信長の要求を受け入れる道を選んだ 31 。最終的に堺は矢銭二万貫を納め、信長の軍門に降った。この事件は、堺の自治が絶対的なものではなく、強大な統一権力の前には限界があることを白日の下に晒した。元亀元年(1570年)、堺は信長の直轄領となり、代官が置かれ、その自治は大きく制限されることになったのである 7

6.2. 豊臣秀吉の支配:環濠埋め立てと自由都市の解体

信長の後を継いで天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、堺に対してさらに徹底した支配体制を敷いた。秀吉にとって、独自の防衛能力と経済力を持つ堺は、自らが構築しようとする中央集権的な支配体制における潜在的な脅威であり、許容しがたい存在であった。

天正14年(1586年)、秀吉は堺の支配を決定づける命令を下す。それは、堺の自治と武装の象徴であった環濠の埋め立てであった 7 。物理的な防壁を失わせることは、堺から抵抗の牙を抜き、その独立精神を根絶やしにすることを意味した 7 。環濠は徐々に埋められ、自由都市の誇りは土の下に葬られた。

さらに秀吉は、堺を自らの直轄地である「太閤蔵入地」に組み込み、腹心である石田三成や小西隆佐を代官として派遣し、直接的な支配下に置いた 7 。これにより、会合衆による自治は名実ともに終焉を迎えた。また、秀吉が建設した巨大な大坂城とその城下町に、人や富が吸収され、経済の中心が堺から大坂へと移っていったことも、堺の相対的な地位を低下させる一因となった 7 。発掘調査によれば、秀吉の支配下でも堺の都市活動が完全に停滞したわけではなかったことが示唆されているが、もはやかつてのような独立した輝きを放つ存在ではなくなっていたことは疑いようがない 7 。環濠の埋め立ては、中世的な自由都市の時代が終わり、近世的な統一国家の時代が到来したことを告げる、象徴的な出来事だったのである。


第七章:大坂夏の陣と堺の焼失

戦国時代を通じて、類いまれな繁栄を謳歌した自由都市・堺。その終焉は、あまりにも劇的であった。皮肉なことに、堺の繁栄を支えたその地理的・経済的・軍事的な重要性が、最終的には自らを破滅へと導く原因となった。大坂の陣という、戦国時代の最後を飾る大いくさにおいて、堺は独立したプレイヤーではなく、巨大な勢力争いの渦に巻き込まれる一駒となり、その歴史に火と灰による幕を引くことになった。

7.1. 徳川方の兵站基地としての堺

豊臣秀吉によって自治を解体され、徳川家康の時代には幕府の直轄地となっていた堺は、慶長20年(1615年)に勃発した大坂夏の陣において、極めて重要な戦略拠点となった。豊臣方の本拠地である大坂城に近接するという地理的条件から、堺は徳川方にとって、兵糧、武器、弾薬などを集積・供給するための総合的な兵站基地として機能したのである 67 。かつてはどの勢力にも属さぬ自由を誇った都市が、今や徳川軍の戦争遂行に不可欠な後方拠点と化していた。

7.2. 豊臣方・大野治胤による焼き討ちの全貌

徳川方の生命線ともいえる堺の存在を、大坂城に籠る豊臣方が見過ごすはずはなかった。大坂夏の陣が開戦して間もない慶長20年4月28日の午後4時頃、豊臣方の武将・大野治長(おおの はるなが)の弟である大野治胤(はるたね、号は道犬)が、手勢2000を率いて堺に侵攻した 12

治胤の目的は明確であった。第一に、敵である徳川方の兵站機能を徹底的に破壊することへの報復。第二に、大坂冬の陣で消耗した兵糧や弾薬などを堺から略奪すること 67 。治胤の軍勢は市中に乱入すると、町家のいたるところに火を放った。火はたちまち燃え広がり、戦国時代を通じて築き上げられた壮麗な都市は、紅蓮の炎に包まれた。

この焼き討ちによる被害は壊滅的であった。当時の記録によれば、焼失した家屋は実に二万戸にも及び、堺の市街地はほぼ全域が灰燼に帰したとされる 70 。かつて「東洋のヴェネツィア」とまで称賛された国際貿易都市の栄華は、わずか一日にして失われたのである。この戦いは、豊臣方の勝利と堺の全焼という結果に終わった 67

7.3. 灰燼からの復興と戦国時代の終焉

大坂夏の陣が徳川方の勝利に終わり、豊臣家が滅亡すると、江戸幕府は直ちに堺の復興に着手した。堺の地割奉行であった風間六右衛門らが尽力し、「元和の町割」と呼ばれる新たな都市計画のもと、碁盤目状の整然とした町並みが再建された 65 。また、かつての環濠の跡地には、現在の土居川や内川にあたる新たな濠が掘られ、都市の輪郭が再び形成された 65 。焼き討ちを実行した大野治胤は、戦後に捕らえられ、堺の民衆の前に引き渡された上で、町を焼いた見せしめとして火あぶりの刑に処されたという 67

しかし、復興後の堺は、もはや戦国時代に自由と自治を謳歌した、あの堺ではなかった。幕府の厳格な管理下に置かれた近世の都市として、新たな歴史を歩み始めることになる。かつてのような国際貿易の拠点としての地位を取り戻すことはできず、その繁栄は過去のものとなった 67

堺の焼失は、単に一つの都市が破壊されたという事件にとどまらない。それは、鉄砲生産と貿易による富で戦乱の時代を生き抜き、時にはその争乱を煽ることで利益を得てきた堺が、自らが繁栄の糧としてきた戦乱の論理そのものによって滅ぼされるという、壮大な歴史の皮肉を体現していた。堺の炎上は、戦国という時代の終わりと、徳川による新たな秩序の始まりを告げる、象徴的な狼煙だったのである。


結論:自由都市・堺が残した遺産

戦国時代の堺は、日本史において極めて特異な光を放つ存在であった。本報告書で詳述してきたように、それは単なる豊かな港町ではなく、武家社会の価値観とは根本的に異なる原理、すなわち商業の合理性と契約の精神に基づいた「市民社会」のモデルを、戦国の動乱期に実現した稀有な事例であった。

環濠に守られた計画的な都市空間、国際貿易を基盤とする圧倒的な経済力、そして会合衆による寡頭制の自治。これらはすべて、堺が武家権力から独立した存在であろうとする強い意志の表れであった。鉄砲生産に代表される先進的な産業技術や、千利休が大成した茶の湯に象徴される洗練された都市文化は、この自由な気風と経済的繁栄の土壌から生まれた必然の産物であった。

しかし、その独立と自治は、天下統一を目指す巨大な中央権力の前にはあまりにも脆弱であった。織田信長による屈服、豊臣秀吉による自治の解体、そして大坂夏の陣における焼失という末路は、中世的な分権社会から近世的な中央集権国家へと移行する、日本の大きな歴史的転換の中で、堺が果たした役割とその限界を物語っている。

だが、堺が残した遺産は、灰燼と共に消え去ったわけではない。鉄砲製造で培われた金属加工技術は、堺打刃物や自転車産業へと形を変え、現代に至るまで「ものづくりの町」としての堺のアイデンティティを支えている 55 。茶の湯の文化は、日本の精神文化の根幹の一つとして深く根付き、世界に影響を与え続けている。そして何よりも、「自由と自治」を希求した堺の町衆の精神は、その後の日本の都市形成や市民社会の発展の歴史の中に、見えざる水脈として流れ続けていると言えるだろう 73 。戦国時代の堺を研究することは、過去の一都市の歴史を学ぶだけでなく、現代にまで通じる日本の社会と文化の原型を探る、意義深い試みなのである。

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