常陸太田城は、佐竹氏五百年の歴史を刻む本拠。舞鶴城の別名を持ち、山入の乱や北条・伊達との死闘を経験。巨大な堀が発掘され、戦国大名佐竹氏の飛躍と城郭の変遷を今に伝える。
常陸国(現在の茨城県)にその名を刻む太田城は、単なる一つの城郭ではない。それは、清和源氏の流れを汲む名門・佐竹氏が、平安時代末期から江戸時代初期に至るまでの約470年間にわたり本拠とし、一地方豪族から54万石を領する大大名へと飛躍する歴史の、まさに中心舞台であった 1 。
この城は、優雅な別名でも知られている。佐竹氏三代当主・隆義が入城する日、城の上空を鶴が舞いながら飛んでいたという吉兆に由来し、「舞鶴城」と称された 1 。この雅名は、太田城が単なる軍事拠点ではなく、源氏の嫡流を自認する佐竹氏の権威と文化的背景を象徴する存在であったことを物語っている。城の別名には、城主の願いや権威、地域の伝承が色濃く反映されるが、「鶴が舞う」という情景は吉兆の象徴であり、その本拠にこの名を冠したことは、佐竹氏が自らの家格を内外に誇示する意図の表れであったと考えられる。なお、甲斐国の甲府城も「舞鶴城」の別名を持つが、常陸太田城とは全く別の城郭である 4 。
佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となって以降、近代化の波の中で地表の遺構の多くは失われた。しかし、近年の発掘調査は、これまで文献史料や伝承の奥に隠されていた太田城の真の姿を、劇的に明らかにしつつある 6 。本報告書は、従来の通史的解説に留まることなく、これらの最新の考古学的知見を全面的に取り入れ、戦国時代という視点から太田城の構造、歴史的役割、そしてその意義を徹底的に再検証するものである。
太田城の歴史は、佐竹氏の入城よりもさらに遡る。その起源は平安時代後期、天仁年間(1108年~1109年)に、俵藤太(藤原秀郷)の子孫である藤原通延が、下野国からこの地に移り住み、館を築いたことに始まるとされる 8 。通延は太田大夫と称し、この地域の開発領主として勢力を築いた 9 。
この地に佐竹氏が根を下ろすのは、12世紀半ばのことである。当初、佐竹郷の馬坂城を拠点としていた佐竹氏の三代当主・隆義は、勢力拡大の過程で太田氏を服属させ、その本拠であった太田城を接収して自らの居城とした 8 。これにより、太田の地は佐竹氏五百年の歴史の中心となったのである。この権力移行は、単なる軍事征服に終わらなかった。隆義は、旧城主であった太田氏一族を完全に滅ぼすのではなく、久慈郡小野崎の地に移して小野崎氏を名乗らせ、後に佐竹氏の宿老として重用した 9 。これは、地域の既存の権力基盤を巧みに吸収し、無用な反発を避けながら自らの支配を正当化・安定化させるという、高度な政治戦略であった。佐竹氏の常陸国における支配が、単なる武力だけでなく、巧みな政治的統合によって築かれていったことを示す初期の好例と言える。
しかし、佐竹氏の初期の支配は盤石ではなかった。治承四年(1180年)、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、佐竹氏は平家方についたため、頼朝による討伐を受けることとなる。この時、当主の佐竹秀義は、太田城の防御力に不安があったためか、城を捨てて一族の詰城(最終防衛拠点)である金砂山城に籠城して抵抗した 13 。この逸話は、初期の太田城が、本格的な籠城戦を想定した要塞というよりは、政庁・居館としての性格が強い城であったことを示唆している。
太田城は、その立地と構造において、平安期の館から戦国期の巨大城郭へと発展した稀有な歴史を色濃く反映している。
太田城は、源氏川と谷津川という二つの河川に挟まれた、「鯨岡」と呼ばれる比高約20メートルの半島状台地の中腹に築かれた平山城である 12 。通常、城は防御上有利な台地の先端に築かれることが多いが、太田城が中腹に位置しているのは、前述の藤原通延による平安期の館が、その後の発展の核となったためと考えられている 12 。
城の主要な郭(くるわ)の配置は、以下の通りであったと伝えられている。
現在でも「内堀町」「中城町」「馬場町」といった地名が残り、往時の広大な城域を偲ばせている 16 。
【表1:太田城の基本諸元】
項目 |
詳細 |
城の名称 |
太田城(おおたじょう) |
別名 |
舞鶴城(まいづるじょう)、佐竹城、青龍城 1 |
城の種別 |
平山城 10 |
築城年 |
天仁二年(1109年)頃 8 |
築城者 |
藤原(太田大夫)通延 1 |
主要城主 |
太田氏、佐竹氏、中山氏 15 |
主な遺構 |
土塁・切岸の痕跡、堀跡(発掘)、舞鶴城址碑、太田故城碑 1 |
所在地 |
茨城県常陸太田市中城町(現在の太田小学校周辺) 15 |
長らく太田城は、金砂山城のような山城に比べて要害性に劣る「政庁的な城」と見なされてきた。しかし、2019年度から2020年度にかけて行われた本郭北側の外郭部(旧日本たばこ産業不動産所有地)の発掘調査は、この従来の城郭像を根底から覆す、驚くべき発見をもたらした 6 。
調査の結果、江戸時代後期の絵図には一切描かれていない、大規模な堀跡が複数発見されたのである 7 。中でも特筆すべきは「第2号堀跡B」と呼ばれる遺構で、その規模は全長203メートル、幅8メートル、深さ4.7メートルに達する巨大な薬研堀(底がV字型に尖った堀)であった 7 。この堀の築造時期は出土品などから16世紀前葉、すなわち戦国時代中期と推定されている 7 。
この発見の歴史的意義は計り知れない。第一に、戦国期の太田城が、従来考えられていた以上に堅固な防御施設を備えていたことを物理的に証明した点である。この巨大な堀は、佐竹氏が戦国大名として常陸国内の支配を固め、北条氏や伊達氏といった外部の強敵と渡り合うための軍事的緊張の高まりを背景に、本拠地を大改修した結果であろう。大規模な土木工事には、膨大な労働力と財力、そして強力な指揮命令系統が不可欠である。この堀の存在は、佐竹氏が小領主の連合体から、強力な中央集権的権力を持つ戦国大名へと変貌を遂げたことを示す、何より雄弁な考古学的物証と言える。
太田城の防御戦略を理解する上で欠かせないのが、周辺の城砦との連携である。太田城は単独で完結した要塞ではなく、複合的な防御システムの中核として機能していた。
この役割分担は、佐竹氏の巧みな戦略思想を物語っている。平地にあり交通の便が良い太田城を、平時の統治と経済活動の中心地(政庁・居館)としつつ、有事の際には防御力に優れた山城である金砂山城に拠点を移すことで、統治の利便性と軍事的な安全性を両立させていたのである。この「本城と詰城」のシステムは、戦国期の城郭戦略の典型であり、太田城はその優れた実例であった。
戦国時代、太田城は佐竹氏の権力構造の変化を映す鏡のように、その役割を変えながら歴史の荒波の中心にあり続けた。
室町時代中期、佐竹氏を巨大な内乱が襲う。応永十四年(1407年)、宗家の当主が後継者のないまま没したため、重臣たちは関東管領・上杉憲定の子を養子に迎えた(佐竹義人) 13 。これに対し、源氏の血を引く佐竹氏が他家から養子を迎えることに、有力な一族であった山入氏が猛反発。これが、約100年にも及ぶ「山入の乱」の始まりであった 13 。
この内乱において、本拠地である太田城は、佐竹宗家の権威の象徴であり、両派による熾烈な争奪戦の的となった。延徳二年(1490年)、山入義藤の急襲により太田城は陥落。当主・佐竹義舜は、詰城である金砂山城への退避を余儀なくされる 13 。義舜はその後、小野崎氏らの支援を得て苦難の末に太田城を奪還するが、この一連の抗争は、城が佐竹一族内の権力闘争の最大の焦点であったことを示している 13 。
山入の乱を終息させ、佐竹氏を戦国大名として飛躍させたのが、十八代当主・佐竹義重である。その勇猛さから「鬼義重」「坂東太郎」と畏怖された彼の時代、太田城は関東・奥州の覇権を巡る大規模な対外戦争の司令塔となった 13 。
これらの大規模な軍事行動は、すべて太田城が起点となっていた。義重の時代、内乱を克服した佐竹氏の関心は国内から国外へと転じ、太田城は領国を守り、さらに勢力を拡大するための軍事リソースを集積し、送り出すための中核拠点として機能したのである。
義重の子で、太田城で生まれた十九代当主・佐竹義宣の時代に、佐竹氏はその版図を最大のものとする 3 。義宣は豊臣秀吉の中央政権と巧みに連携し、天正十八年(1590年)の小田原征伐に参陣。その功績により、常陸一国54万石余の支配を公的に認められた 3 。
しかし、その支配を盤石なものとするためには、領国内に根強く残る自立的な国人領主たちの存在が障害であった。天正十九年(1591年)、義宣は常陸統一の総仕上げとして、大胆かつ冷徹な手段に打って出る。南部の有力国人領主たちを太田城での宴会に招き、その場で全員を謀殺するという挙に出たのである 13 。この「太田城の謀略」により、領内の反対勢力は一掃され、佐竹氏による集権的な直接支配体制が完成した。この時、太田城は軍事拠点としてではなく、権謀術数が渦巻く恐怖政治の舞台として、最も苛烈な形でその役割を果たした。
この一連の歴史は、太田城の役割が、佐竹氏の権力構造の変化と共に変遷したことを明確に示している。一族内の権力闘争の象徴であった城は、対外戦争の司令部となり、最後には国内支配を完成させるための政治的装置となった。これは、戦国大名が領国を統一していく典型的なプロセス(内乱平定 → 対外拡張 → 国内支配の完成)を、一つの城の機能の変化を通じて見事に描き出している。
天正十九年(1591年)、常陸統一を成し遂げた佐竹義宣は、佐竹氏の歴史における大きな転換点となる決断を下す。約450年にわたる本拠地であった太田城から、水戸城へと居城を移したのである 3 。
この本拠地移転は、佐竹氏の領国経営戦略の進化を象徴する出来事であった。太田城は常陸国の北部に偏っており、佐竹氏が県北の地域勢力であった時代には最適な拠点であった。しかし、常陸一国54万石という広大な領国全体を効率的に統治するには、地理的に国の中央に位置し、那珂川の水運を利用できる水戸の方がはるかに至便であった 30 。この移転は、佐竹氏が「県北の地域勢力」から「常陸一国を支配する広域大名」へと名実ともに脱皮したことを示す、合理的な経営判断であった。
本拠が水戸に移った後も、太田城が完全にその価値を失ったわけではなかった。城は隠居した父・義重の居城となり、義重は「北城様」と呼ばれ、依然として隠然たる影響力を保持した 8 。太田城は佐竹氏の北の拠点、そして一族の長老の拠点として、重要な政治的・軍事的役割を担い続けたのである。
しかし、この栄華は長くは続かなかった。慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発。当主・義宣は、石田三成と個人的な親交が深かったことから西軍に心を寄せ、東軍を率いる徳川家康に対して明確な味方の姿勢を示さなかった 9 。この曖昧な態度が、戦後の佐竹氏の運命を決定づけることとなる。
関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の圧勝に終わった。戦後、佐竹義宣の去就は厳しく問われ、慶長七年(1602年)、徳川家康の命により、佐竹氏は常陸国54万石から出羽国秋田20万石へと、大幅な減封の上で転封(国替え)を命じられた 9 。
この秋田移封に伴い、佐竹氏が約470年にわたり本拠としてきた太田城は、その歴史的役割を終え、廃城となった 1 。
廃城後の太田城跡は、常陸国を新たに支配することになった水戸徳川家の所領となった。江戸時代には、水戸藩の附家老(藩主に次ぐ重臣)である中山氏が、城跡の一部に陣屋(太田御殿)を構えて一時的に居住した 7 。この際、陣屋の整備のために戦国期の遺構、特に大規模な堀などが埋め立てられた可能性が高い。これが、江戸時代の絵図に、発掘調査で発見された巨大な堀が描かれていない理由の一つと考えられる。
明治維新を迎えると、城跡は国から町の有志に払い下げられ、残っていた土塁は崩され、堀は埋め立てられて宅地や道路が造成された 17 。この近代化の過程で、地表から往時の姿を偲ぶことは極めて困難となった。
しかし、太田城の記憶は完全に消え去ったわけではない。その痕跡は、現代の街並みの随所に、そして人々の記憶の中に生き続けている。
城という物理的な構造物は失われたが、地名や石碑、寺社といった形でその記憶は地域に深く刻み込まれている。そして近年の発掘調査は、失われた物理的構造を科学の力で「再発見」し、太田城の歴史に新たな光を当てている。物理的には消滅したが、地域の歴史的記憶と考古学的探求の対象として、太田城は今なお「生きている」城なのである。
常陸太田城は、佐竹氏という一族の揺りかごであり、その権力の源泉であった。平安末期に一地方豪族の拠点として歴史の幕を開け、鎌倉、室町、そして戦国という激動の時代を通じて、常に佐竹氏の政治・軍事の中心であり続けた。その約五世紀にわたる歴史は、佐竹氏が内乱を克服し、北条氏や伊達氏といった強大な敵と渡り合い、常陸一国を掌握する大大名へと成長していく過程そのものである。
地政学的に見れば、太田城は関東の覇者・北条氏と、奥州の雄・伊達氏という二大勢力に挟まれた緩衝地帯の要であった。この厳しい環境下で佐竹氏が独立を保ち、勢力を拡大できたのは、太田城を中核とした巧みな領国経営と軍事戦略があったからに他ならない。
そして今、太田城の評価は、考古学の進展によって新たな局面を迎えている。近年の発掘調査で明らかになった、江戸時代の絵図にない巨大な堀の存在は、我々が抱いてきた太田城のイメージを大きく塗り替えるものである。それは、太田城が単に「要害性に乏しい政庁」ではなく、戦国時代中期には、豊臣政権下で全国八番目の石高を誇る大大名の本拠にふさわしい、大規模な防御施設を備えた堅固な拠点へと変貌を遂げていたことを証明している 7 。
文献史料だけでは見えてこなかった城の実像が、地面の下から現れたのである。この発見は、太田城の再評価に留まらず、佐竹氏の戦国大名としての実力や、当時の築城技術の水準を考える上でも極めて重要な意味を持つ。
多くの遺構が失われた現代において、太田城の歴史を後世に伝えていくためには、継続的な発掘調査と研究、そしてその成果を地域社会で共有し、活用していく取り組みが不可欠である。太田城は、佐竹氏五百年の興亡を物語る歴史遺産として、これからも我々に多くのことを語りかけてくれるに違いない。