宇土城
肥後の宇土城は、名和氏の中世城と小西行長の近世城が並び立つ。関ヶ原で落城後、加藤清正が改修するも一国一城令で廃城。二つの城が時代の転換を物語る。
宇土城の興亡:戦国期肥後における権力と技術の変遷
序論:二つの宇土城—中世から近世への転換を映す鏡
熊本県宇土市に静かに佇む宇土城跡は、単一の城郭遺跡ではない。そこには、時代を異にする二つの城、「中世宇土城(宇土古城)」と「近世宇土城」が隣接して存在する 1 。この二元性は、日本の戦国時代という激動期における、政治体制、築城技術、そして社会構造の劇的な転換を物理的に体現する、極めて重要な歴史遺産である。本報告書は、この二つの城の興亡を軸に、戦国時代の肥後国、ひいては日本の歴史の深層を解き明かすことを目的とする。
中世城と近世城を一体として見た際に鶴が翼を広げた姿に見えることから「鶴城(鶴の城)」と呼ばれる伝承がある 2 。これは単なる雅称に留まらない。旧来の権威の象徴である中世城を土台としながらも、全く新しい権力構造を体現する近世城が飛躍・拡大していく様は、時代のダイナミズムそのものを象徴しており、後世の人々の歴史認識が投影されたものと解釈できる。
宇土半島基部に位置し、有明海の海上交通路の要衝であったこの地は、古来より地政学的な価値が高かった 6 。在地領主が割拠した中世から、豊臣政権による中央集権化が進む近世へと移行する中で、宇土城の歴史は、その権力の担い手と構造の変化を如実に示している。名和氏が拠点とした中世宇土城が、在地領主の防衛拠点としての性格を色濃く持つのに対し、豊臣秀吉の命で小西行長が築いた近世宇土城は、中央政権が地方を効率的に支配するための「出先機関」としての役割を担っていた。この二つの城の構造と立地の根本的な違いは、城主の出自、すなわち「在地領主」か「中央からの派遣大名」かという立場の違いに起因する。したがって、宇土城の変遷を追うことは、戦国末期から安土桃山時代にかけて、地方の独自性が中央のシステムに飲み込まれていく大きな歴史的潮流を、一つの地域で具体的に観察することに等しいのである。
第一部:中世宇土城(宇土古城)—肥後国人の興亡と伝統的城郭
第一章:西岡台の要衝と名和氏の百年
中世宇土城の歴史は、肥後国の在地勢力の動向と密接に連動している。その起源は平安時代に遡るとされ、当初は宇土庄の地頭であった宇土氏が居城とした 6 。宇土氏は南北朝時代には南朝方として活動した記録も残るなど、地域の有力な武士団であった 3 。
しかし、戦国時代の幕開けと共に宇土城の主となるのは、名和氏であった。彼らの出自は、南北朝時代に後醍醐天皇に仕えた忠臣として名高い名和長年に遡る 6 。中央の政争に敗れた名和氏の一族は、本拠地であった伯耆国(現在の鳥取県)を離れ、九州肥後国の八代郡に下向し、新たな活路を求めた 8 。彼らは在地勢力として力を蓄え、永正元年(1504年)、肥後守護であった菊池氏の内紛という好機を捉える。当主の名和顕忠は、混乱の中で空城となっていた宇土城に入り、以後約80年間にわたる「宇土名和氏」の時代を築き上げた 8 。これは、実力主義が支配する戦国時代において、機を見て勢力を拡大する「下剋上」の典型的な一例であった。
宇土城主となった名和氏は、人吉の相良氏をはじめとする周辺の戦国領主としのぎを削り、時には連携しながら、在地領主としての地位を固めていった 3 。しかし、16世紀後半になると、九州統一を目指す島津氏の強大な軍事力が肥後にも及ぶ。時代の奔流には抗えず、名和氏は一旦島津氏に従属する道を選ぶ 3 。ところが、その直後、天下統一を目前にした豊臣秀吉が九州平定軍を南下させる。この新たな、そして圧倒的な権力の登場に対し、名和氏は迅速に反応した。天正15年(1587年)、彼らは島津方から離反していち早く秀吉軍に恭順の意を示し、宇土城を無血で開城したのである 9 。
この開城は、単なる軍事的な敗北を意味するものではなかった。むしろ、それは新しい時代の支配者である豊臣秀吉が提示した「惣無事令」という新たな秩序へ、自ら編入されることを選択した戦略的な決断であった。秀吉は降伏した大名を自身の権力構造に組み込む政策を採っており、名和顕孝も宇土城を失う代償として、筑前の小早川氏の家臣となることで家名を存続させた 11 。これは、戦国時代の終焉が、必ずしも戦闘による決着だけでなく、圧倒的な権力構造の再編によってもたらされたことを示す象徴的な出来事であり、在地領主としての宇土名和氏の歴史は、ここに事実上の幕を閉じたのである。
第二章:発掘調査が語る中世山城の実像
名和氏が拠点とした中世宇土城は、現在の宇土市神馬町に位置する西岡台と呼ばれる独立丘陵に築かれた 6 。この城跡は、戦国期における典型的な中世山城の姿を今に伝える貴重な遺構として、国の史跡に指定されている 2 。特筆すべきは、この史跡指定範囲には、後に小西行長が築く近世宇土城の跡地は含まれておらず、二つの城が歴史的・考古学的に明確に区別されて評価されている点である 6 。
宇土市教育委員会によって長年にわたり続けられてきた発掘調査は、この「土の城」の実像を具体的に明らかにしてきた 12 。城は、比高20メートルから39メートルほどの丘陵地形を巧みに利用した平山城であり、複数の郭(曲輪)を同心円状に配置する縄張り(設計)が特徴である 3 。それぞれの郭を区切る切岸(人工的な急斜面)の高さはそれほどではないものの、多数の腰曲輪を設けることで、多層的な防御ラインを構築していた 3 。防御施設としては、敵の侵攻を阻む横堀や竪堀に加え、城門を守る虎口の構造も確認されている。特に、通路をL字型に屈曲させることで敵の直進を防ぐ、枡形門の原初的な形態が検出・復元されており、当時の防御思想を窺い知ることができる 2 。
城は単なる軍事施設ではなく、城主とその家臣団の生活の場でもあった。発掘調査では、柱を地面に直接埋めて建てる掘立柱建物跡が複数確認されており、城内に居住空間や政務を執る施設が存在したことを示している 6 。さらに注目すべきは、15世紀から16世紀にかけての中国製陶磁器(白磁、青磁、染付)が大量に出土していることである 6 。これらの遺物は、宇土名和氏が単なる地方の武士ではなく、海外との交易ルートに接続し、当時の高級品を輸入・享受するだけの経済力と文化的背景を持っていたことを示す動かぬ証拠である。
遺構の種類 |
検出場所・特徴 |
考察 |
曲輪 |
丘陵上の複数のピークを中心に、同心円状に多数の腰曲輪を造成。 |
防御線を多層化し、少ない兵力でも効率的に防衛するための設計。 |
堀 |
横堀、竪堀を丘陵斜面に配置。 |
敵兵の移動を妨害し、城内への到達を遅延させる基本的な防御施設。 |
虎口(城門) |
通路がL字型に屈曲する構造。木柵と城門が復元されている。 |
敵の突入速度を削ぎ、側面から攻撃を加えるための工夫。枡形門の原始形態。 |
建物跡 |
掘立柱建物跡を複数確認。千畳敷と呼ばれる郭では建物が1棟復元されている。 |
城主の居館や家臣の詰所、倉庫など、城内での生活・政務空間の存在を示す。 |
出土遺物 |
15〜16世紀の中国製陶磁器(白磁、青磁、染付)が多数出土。 |
宇土名和氏が海外交易に関与し、高い経済力と文化的洗練度を持っていたことを示唆。 |
第二部:近世宇土城—小西行長の野望と革新
第一章:キリシタン大名・小西行長の戦略拠点
中世宇土城の時代が終わりを告げた後、宇土の地には全く新しいタイプの支配者が登場する。堺の薬種商の家に生まれ、商人としての才覚と外交手腕をもって豊臣秀吉に仕え、大名にまで成り上がった異色の武将、小西行長である 19 。彼は洗礼名をアウグスティヌスという熱心なキリシタン大名であり、その信仰と国際感覚は、彼の統治と人生に深く影響を与え続けた 19 。
天正15年(1587年)の肥後国衆一揆の責任を問われ佐々成政が切腹すると、秀吉は肥後国を二つに分割。天正16年(1588年)、行長は肥後南半国(宇土・益城・八代・天草)約20万石(諸説あり)の領主として入封した 2 。行長がその本拠地として宇土を選んだのには、明確な戦略的意図があった。有明海に面し、良港を持つ宇土は、南蛮貿易の拠点である長崎や、自身の所領となった天草へのアクセスが極めて容易であった 27 。商人出身の行長にとって、この地が持つ経済的・物流的な価値は計り知れないものであった。同時に、秀吉政権下で「海の司令官」と称された水軍の将として 22 、港湾機能を備えた城は軍事戦略上も必須であり、将来の朝鮮出兵を見据えた兵站基地としての役割も期待されていた 27 。
しかし、この肥後入国は、行長の生涯を左右する宿命的なライバルとの対峙も意味していた。肥後北半国の領主となったのは、猛将として知られ、熱心な日蓮宗徒でもあった加藤清正であった。商人出身でキリシタンの行長と、武骨一辺倒で仏教徒の清正。二人の間には、領地の境界である緑川の水利権を巡る争いをはじめ、宗教観、そして後の朝鮮出兵における作戦方針に至るまで、あらゆる面で深刻な対立が生じた 19 。この肥後における二人の確執は、やがて天下分け目の戦いへと繋がり、宇土城の運命を決定づけることになる。
行長の宇土統治は、単なる領国経営に留まらなかった。彼は高山右近の旧臣をはじめとする多くのキリシタンを家臣団に迎え入れ、領内でのキリスト教布教を積極的に保護した 19 。その一方で、家臣の中には地域の神社仏閣を破却するなどの過激な行動に出る者もおり、伝統的な宗教勢力との間に深刻な軋轢を生んだ可能性も指摘されている 31 。西洋の一神教的価値観と、博多の町割りを参考にした日本の先進的な都市計画技術 4 を融合させようとした彼の統治は、一種の壮大な「社会実験」であったとも言える。この急進的な政策は、宇土に独特の文化的土壌を形成したが、同時に、約37年後に近世日本を揺るがすことになる島原の乱の遠因となる宗教的・社会的な緊張の火種を、意図せずして蒔いていたのかもしれない。
第二章:築城と城下町整備—織豊系城郭の先進性
天正16年(1588年)に宇土に入った小西行長は、旧来の名和氏の城(中世宇土城)の防衛能力に限界を感じ、全く新しい城の建設を決意する 26 。彼は中世城の東に隣接する、高さ約13メートルの「城山」と呼ばれる丘を新たな築城の地と定め、天正17年(1589年)春、近世宇土城の普請に着手した 2 。
完成した城は、当時の最先端技術を結集した織豊系城郭の典型であった。標高約16メートルの本丸を中心に、西に二の丸、南に三の丸を配した平山城の縄張りで、各曲輪は幅15メートルから20メートルの内堀によって厳重に区画されていた 3 。防御の要には、旧来の土塁に代わって高く堅固な石垣が多用された 24 。そして、本丸には領国支配の象徴として、外観三重、内部五階地下一階と伝わる壮麗な望楼型天守が聳え立ち、その姿は数里離れた場所からも望むことができたという 2 。
行長の都市計画は、城郭本体に留まらなかった。彼は城だけでなく、武家屋敷、城下町、そして外堀として機能する運河までを一体的に防御する「惣構え」の思想に基づき、宇土全体を要塞都市として設計した 4 。城下町は、かつて博多の町割り奉行を務めた経験を活かし、商業の発展を企図した碁盤目状の整然とした区画に整備された 4 。近年の城山塩田遺跡の発掘調査では、間口が狭く奥行きが長い「短冊形地割」の家臣屋敷群が整然と並んでいたことが確認されており、その計画性の高さを裏付けている 35 。
さらに特筆すべきは、水運の徹底的な活用である。宇土川や船場川を改修して城の外堀と運河を兼ねさせ、有明海から城の直下まで直接船で物資を輸送できる、極めて優れた兵站・物流システムを構築した 4 。この水陸両用の防御・輸送ネットワークこそ、水軍の将であった行長の真骨頂であり、近世宇土城を単なる陸上の拠点ではなく、海と一体化した戦略拠点たらしめていたのである。
第三章:「熊本の関ヶ原」—宇土城攻防戦の激闘
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した対立は、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍の激突、すなわち関ヶ原の戦いへと発展した。小西行長は三成との関係から西軍の主力として関ヶ原へ出陣し、肥後国は主不在となった 35 。一方、宿敵・加藤清正は家康方の東軍として肥後に留まり、この機を逃さなかった。清正は家康から「小西領を実力で制圧すれば、その所領を与える」という内約を取り付けており、関ヶ原の本戦の火蓋が切られるより前の9月上旬には、独断で小西領への侵攻を開始した 41 。天下分け目の戦いと並行し、肥後国の覇権を賭けたもう一つの戦い、「熊本の関ヶ原」が始まったのである。
宇土城の留守を預かっていたのは、行長の弟である小西行景(通称:隼人)であった 4 。清正軍の猛攻に対し、行景率いる守備隊は約1ヶ月にわたり籠城し、これを支え続けた。この攻防戦では、行長が築いた城の先進的な防御システムが遺憾なく発揮された。特に、城の北側を流れる運河から船で攻め寄せた加藤水軍を、城内からの砲撃によって撃沈したという逸話は、宇土城が水陸両面からの攻撃を想定して設計されていたことを物語っている 41 。
宇土城の物理的な防御力は、当代きっての猛将である清正の攻撃を1ヶ月以上も凌ぎきるほど強固であった。しかし、城の運命を決したのは、城壁の堅牢さではなかった。10月、関ヶ原における西軍の決定的な敗北と、兄・行長が京都六条河原で処刑されたという絶望的な知らせが城内に届いた 26 。これ以上の抵抗は無意味であると悟った行景は、城兵の助命を条件に開城を決断。慶長5年10月23日、宇土城は炎に包まれ、行景は翌日、熊本城下の屋敷で自刃して果てた 4 。
この宇土城の落城は、近世城郭が持つ本質的な性格を浮き彫りにする。城は物理的な攻撃には極めて強固であったが、その存立基盤である政治的権威(この場合は豊臣政権)が崩壊した瞬間、その軍事的価値をも失ったのである。織豊系城郭は、単なる軍事拠点ではなく、大名が属する中央政権の権威を象徴する「政治的装置」であった。その中央政権が崩壊すれば、いくら城が堅固であっても、城主や城兵が戦う大義名分は失われる。宇土城の結末は、近世城郭がその真価を発揮するためには、強力な物理的防御力と、それを支える揺るぎない政治的背景の両方が不可欠であることを示す好例と言えるだろう。
第三部:落日と後世への継承
第一章:加藤清正の隠居城計画と改修の実態
宇土城攻防戦の勝利により、加藤清正は小西行長の旧領全域を併合し、肥後一国五十二万石の大名へと飛躍を遂げた 4 。戦後、清正は自らの手で攻め落としたこの宇土城を、単に破壊するのではなく、自身の隠居城とするべく大規模な改修工事に着手した 2 。これは、長年の宿敵であった行長の拠点を、自らの権威を示す城へと再構築しようとする、勝者ならではの強い意志の表れであった。
その改修の具体的な内容は、近年の発掘調査によって明らかになりつつある。最も衝撃的な発見は、清正が行長時代に築かれた本丸の上に、1メートル以上もの分厚い盛土を施し、その上に全く新しい石垣や建物を構築していたことである 36 。これは、宿敵・小西行長の痕跡を物理的に、そして意図的に消し去ろうとする行為に他ならない。清正による改修が、壮麗なものであったことは、出土した瓦からも窺い知ることができる。「慶長13年銘滴水瓦」といった遺物は、当時、豪華な瓦葺きの建物が存在したことを物語っている 2 。
しかし、この壮大な隠居城計画が実現することはなかった。慶長16年(1611年)、加藤清正は改修された宇土城に移り住むことなく、居城である熊本城でその生涯を閉じた 36 。宇土城が清正の居城として使われることは、遂に一度もなかったのである。
第二章:一国一城令と宇土城の終焉
清正の死からわずか4年後の元和元年(1615年)、江戸幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布した。これは、地方における大名の軍事力を削ぎ、幕府による中央集権体制を盤石にするための政策であった。この法令により、肥後国では加藤氏の居城である熊本城を除く全ての城が廃城の対象となり、宇土城もその運命から逃れることはできなかった 4 。
さらに、宇土城には追い打ちをかけるような破壊が待っていた。寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発すると、幕府はキリシタンの蜂起を深刻に受け止めた。そして、かつてのキリシタン大名・小西行長の居城であり、キリシタンのシンボルとなりうる宇土城の存在を危険視し、乱の後に再度、徹底的な破却を行ったと伝えられている 36 。この二度にわたる破壊により、天守をはじめとする城の地上構造物はほぼ完全に失われ、往時の姿を偲ぶことは困難となった。
江戸時代中期になると、細川氏の支藩として宇土藩が成立するが、城の再建は許されず、旧城下の新小路町に宇土陣屋が設けられ、統治の拠点となった 2 。また、轟泉水道の開削など、その後の開発によって旧城域は大きく姿を変え、近世宇土城の遺構は歴史の奥深くへと埋もれていったのである。
第三章:熊本城宇土櫓移築説の真相と宇土城の遺産
廃城となり、地上から姿を消した宇土城であったが、その名は意外な形で後世に語り継がれることになった。熊本城に現存する国指定重要文化財の「宇土櫓」が、かつての宇土城天守を移築したものである、という伝説である 24 。この物語は、勝者である清正が、敗者行長の城の象徴を戦利品として自らの居城に組み込んだという、二人の劇的なライバル関係を象徴する逸話として、長く人々に信じられてきた。
しかし、この移築説は、近代以降の学術的調査によって否定されている。昭和2年(1927年)および昭和末期から平成元年(1989年)にかけて行われた宇土櫓の解体修理調査において、建物を一度解体して再構築した痕跡は一切発見されなかった 3 。これにより、宇土城天守移築説は学術的には完全に否定されるに至った。現在では、熊本城の小天守が移築されたのではないか(西南戦争で焼失し確認不能)、あるいは清正が熊本城築城以前に拠点とした隈本古城の天守ではないか、など様々な説が議論されているが、いずれも決定的な証拠はない 44 。伝説が生まれた背景には、清正と行長のあまりにも有名なライバル関係があり、人々の記憶の中で二人の因縁を象徴する物語として形成されていったと考えられる。
今日、近世宇土城の本丸跡は城山公園として整備され、宇土市指定史跡となっている 2 。園内には、故郷である堺の方角ではなく、海、そして世界に目を向けて立つ小西行長の銅像が建立されている 2 。一方、中世宇土城跡(西岡台)は国の史跡として保存され、発掘調査の成果が公開されている。宇土市デジタルミュージアムや郷土史研究誌『うと学研究』などを通じて、宇土城に関する調査研究の成果は継続的に発信されており 1 、二つの宇土城は、地域の歴史的シンボルとして今なお生き続けているのである。
年代(西暦/和暦) |
主な出来事 |
関連する城主 |
城の状態 |
平安〜南北朝時代 |
宇土庄地頭・宇土氏が西岡台に城を構える。 |
宇土氏 |
中世宇土城の原型 |
1504年(永正元年) |
名和顕忠が菊池氏の内紛に乗じ、宇土城主となる。 |
名和顕忠 |
中世宇土城(宇土名和氏時代) |
1587年(天正15年) |
豊臣秀吉の九州平定に際し、名和氏が宇土城を開城。 |
名和顕孝 |
開城・中世城の終焉 |
1588年(天正16年) |
小西行長が肥後南半国の領主として入封。 |
小西行長 |
- |
1589年(天正17年) |
行長、城山に近世宇土城の築城を開始。 |
小西行長 |
近世宇土城の築城 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦いと連動し、宇土城攻防戦が勃発。小西行景が籠城するも開城。 |
小西行景 / 加藤清正 |
攻防戦・落城 |
1600年以降 |
加藤清正が宇土城を接収し、自らの隠居城として改修に着手。 |
加藤清正 |
大規模改修 |
1611年(慶長16年) |
加藤清正が死去。隠居城計画は未完に終わる。 |
- |
改修中断 |
1615年(元和元年) |
江戸幕府の一国一城令により、宇土城は廃城となる。 |
- |
廃城・第一次破却 |
1637年(寛永14年) |
島原の乱の後、幕府により再度徹底的に破却される。 |
- |
第二次破却 |
江戸時代中期以降 |
宇土藩が成立するも城は再建されず、宇土陣屋が置かれる。 |
細川氏 |
遺構の変容 |
結論:宇土城が戦国史に刻んだもの
宇土城の歴史は、中世的な在地領主が割拠した時代の終焉(名和氏の開城)と、中央集権的な近世大名による支配の始まり(小西行長の築城)という、日本史上最もダイナミックな転換点を一つの地域において凝縮して見せる稀有な事例である。
伝統的な防御思想に基づき、自然地形を巧みに利用した「土の城」である中世宇土城。そして、政治的権威の象徴としての天守を戴き、石垣で固め、合理的な都市計画と一体化した「石の城」である近世宇土城。この二つの城の鮮やかな対比は、戦国時代を通じて城郭がいかにその機能と意味を変容させたかを示す、まさに生きた教科書と言える。
特に、小西行長という商人的合理性とキリシタンとしての国際性を併せ持った特異な人物によって築かれた近世宇土城は、単なる軍事拠点に留まらなかった。それは、キリスト教文化、南蛮貿易、そして最新の築城術が融合した、極めて先進的な戦略拠点であった。その栄華は関ヶ原の戦いと共にわずか10年余りで潰えたが、彼が描いた先進的な都市計画の思想は今日の宇土市街地の基礎となり、また、その存在が残した文化的・宗教的影響は、後の歴史にも深く影を落とした。宇土城は、単なる過去の遺構ではない。それは、戦国という時代の野心、革新、そして悲劇を現代に伝え続ける、歴史の証人なのである。
引用文献
- 特集「よみがえる宇土城」|宇土市公式ウェブサイト https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/list/33.html
- 宇土城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9C%9F%E5%9F%8E
- 宇土城 宇土古城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/kyushu/utosi.htm
- 宇土城- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%AE%87%E5%9C%9F%E5%9F%8E
- 宇土城- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%AE%87%E5%9C%9F%E5%9F%8E
- 宇土城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/206723
- 熊本県・宇土市 - 地域から見る 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/region/43/43211
- 名和氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%92%8C%E6%B0%8F
- 【鳥取県】【熊本県】伯耆の忠臣名和氏の郷/西伯郡 建武十五社名和神社 https://rekimaron.net/%E3%80%90%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E3%80%91%E3%80%90%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E3%80%91%E4%BC%AF%E8%80%86%E3%81%AE%E5%BF%A0%E8%87%A3%E5%90%8D%E5%92%8C%E6%B0%8F%E3%81%AE%E9%83%B7%EF%BC%8F%E8%A5%BF/
- 武家家伝_名和氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nawa_k.html
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- 宇土市埋蔵文化財調査報告書第 10集 宇土城跡(城山) - 日本の古本屋 https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=74820369
- 宇土城跡(西岡台) X - -平成11~13年度発掘調査 ... - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/50/50707/80497_1_%E5%AE%87%E5%9C%9F%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8F%B0.pdf
- 宇土市埋蔵文化財調査報告書 - CiNii Research https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN06841680
- 宇土城跡(西岡台) - CiNii 図書 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN06948039
- 宇土城跡(西岡台) - 鹿児島国際大学附属図書館 OPAC http://lbweb.iuk.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BN06948039
- 宇土城跡(西岡台)XIII - 宇土市 https://www.city.uto.lg.jp/museum/d?q=2c6115cf003ce08.pdf
- 宇土城跡(西岡台) - 全国文化財総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/46193
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- 宇土城跡/城山公園(近世)(宇土市指定史跡) - うとびより|あたたかさを感じる宇土の旅を提案 https://utobiyori.jp/spot/utojokinsei/
- 小西行長(コニシユキナガ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7-65676
- 「小西行長」商人から武士へ転身。異例の出世を遂げるも最期は… - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/680
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- 近世宇土城 / 熊本県 - お城探訪記 https://hirosone.hatenablog.com/entry/2017/05/30/120803
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- 薩摩街道を歩く ⑧ | 人権NPOちなもい http://tinamoi.blog.fc2.com/blog-entry-261.html?sp
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