最終更新日 2025-08-25

小金城

下総の要衝、小金城は高城氏が築き、後北条流築城術の障子堀・畝堀を備えた堅城。高城氏三代の興亡を見届け、豊臣秀吉の小田原征伐で廃城。城下町は宿場町として発展した。

下総国小金城総合調査報告 — 戦国期東葛飾の拠点城郭、その実像と歴史的意義

序論:戦国期下総の要衝、小金城

戦国時代の日本列島において、城郭は単なる軍事拠点に留まらず、地域の政治、経済、文化の中心であり、領主の権威を象徴する存在であった。本報告書が対象とする小金城は、まさしくその典型例であり、戦国期の下総国、特に現在の千葉県松戸市を中心とする東葛飾地域において、極めて重要な役割を担った城郭である。

地理的・戦略的位置づけ

小金城は、下総台地の西端、標高約20メートルの丘陵上に築かれた平山城である 1 。この立地は、眼下に広がる古利根川、中川、荒川流域の広大な低湿地帯を一望できる、絶好の戦略的要衝であった 1 。当時の河川交通、すなわち水運は、物資輸送の大動脈であり、これを監視・掌握できることは、経済的・軍事的に大きな優位性を意味した。さらに、政治的文脈においても、小金城の位置は重要であった。当時の関東では、古河(茨城県古河市)を本拠とする古河公方と、小弓(千葉市)を本拠とする小弓公方が激しく対立しており、小金城はこの両勢力の中間に位置する緩衝地帯、あるいは最前線としての機能を期待されていた 3

別名の由来と意義

小金城は、その所在地名から「大谷口城(おおやぐちじょう)」とも呼ばれる 4 。これは城の地理的アイデンティティを直接的に示す呼称である。一方で、「開花城(かいかじょう)」という雅称も伝えられている 6 。この名は、享禄3年(1530年)から7年の歳月をかけて築かれた城の威容があまりに見事であったことに由来するとされ 6 、城主である高城氏の威勢と、この城が単なる軍事施設ではなく、地域の支配者としての権威を内外に示す象徴であったことを物語っている。

報告書の目的と構成

本報告書は、千葉県松戸市教育委員会や各種学術調査によって蓄積された知見、ならびに古文書等の史料を総合的に分析し、戦国時代の小金城の実像を多角的に解明することを目的とする。城主・高城氏の出自と台頭の背景から、城郭の構造的特徴、歴史的変遷、そして城下町の繁栄と現代における文化的価値に至るまでを体系的に論じることで、戦国期関東の政治・軍事史における小金城の重要性を明らかにする。

第一章:城主・高城氏の出自と台頭 — 在地領主の権力形成

小金城の歴史を理解する上で、その主であった高城氏の出自と権力形成の過程を解明することは不可欠である。高城氏は、戦国時代に関東各地で勃興した在地領主(国衆)の典型であり、その出自を巡る複雑な伝承は、彼らが実力で地位を築き上げていった軌跡を映し出している。

出自を巡る諸説

高城氏の出自については、複数の説が存在し、そのいずれもが彼らの権力の正当性を補強しようとする意図を内包している。

  • 桓武平氏千葉氏族説 : 下総国で鎌倉時代以来の名族であった千葉氏の流れを汲むとする説である 8 。具体的には、千葉氏の重臣であった原氏のさらに分家、あるいは重臣であったとされる 9 。この説は、地域における支配の正統性を、関東の名門である千葉一族に接続することで確立しようとするものであったと考えられる。
  • 藤原姓二階堂氏説 : 『寛政重修諸家譜』など、江戸時代に編纂された系譜集に見られる説で、高城氏の祖を中央の有力貴族であった藤原姓二階堂氏に求めるものである 8 。これは、より権威ある系譜に自らを位置づけることで、一在地領主から幕府の旗本へと転身した高城氏の家格を高めようとする意図が働いた結果であろう。
  • 紀州熊野との関連 : 高城氏の伝承には、紀州の熊野信仰との関わりを示唆するものも存在する 10 。熊野社との師壇関係を示す『米良家文書』には、下総国の有力者として「小金領」の名が見られ、宗教的権威を背景とした勢力基盤を築いていた可能性も指摘されている 10

これらの諸説が乱立する状況は、単なる記録の混乱として片付けるべきではない。むしろ、実力で台頭した在地領主が、自らの支配を正当化するために、後から権威ある系譜へと自らを接続しようとした「権威の創出」の過程そのものを示している。最も確実性の高い史料が示す地域に根差した出自と、後世に語られる華麗な系譜との間の乖離こそが、高城氏が実力でのし上がった勢力であることの力強い証左と言える。

初期の動向と原氏被官時代

高城氏の出自を巡る伝承とは別に、彼らの初期の動向を具体的に示す最も信頼性の高い史料が、日蓮宗の名刹・本土寺(松戸市平賀)に伝わる『本土寺過去帳』である 10 。この記録によれば、永享9年(1437年)、現在の松戸市栗ヶ沢にあたる「クリガサワ」で没した「高城四郎衛門清高」が、史料上の初見である 10 。栗ヶ沢は、高城氏が小金城に移る前の本拠地・根木内城からわずか1.5kmほどの距離にあり、高城氏が当初はこの地域に根を張る在地勢力であったことは疑いようがない 10

その後、『本土寺過去帳』には、馬橋(マハシ)や我孫子(アヒコ)といった地名と共に高城一族の名が見られるようになる 10 。これは、主家であった原氏が勢力を拡大していく過程で、高城氏がその代官、あるいは軍事力を提供する寄騎として東葛飾地域一帯に勢力を伸張させていったことを示唆している 11

根木内城から小金城へ

16世紀前半、下総国では古河公方と小弓公方の対立が激化の一途をたどっていた。高城氏は、主家の原氏や千葉氏と共に古河公方方に属し、小弓公方・足利義明の勢力と対峙していた 3

高城胤吉は当初、根木内城(松戸市根木内)を本拠としていたが 12 、この城は手狭であったことに加え、南からの小弓公方勢力の脅威に備えるには防御力に不安があった 6 。そこで、より大規模で堅固な新城の建設が計画された。これが小金城である。

享禄3年(1530年)に築城が開始され、7年の歳月を経て天文6年(1537年)に完成した 6 。この本拠地の移転は、単なる城の拡張に留まるものではなかった。それは、高城氏が千葉氏の一被官という立場から、東葛飾地域において半ば独立した政治・軍事主体へと脱皮する意志の表明であった。新城・小金城は、小弓公方への防御拠点であると同時に、古河公方との連携を強化し、江戸川水系の水運を掌握することで経済基盤を確立するという、多角的かつ野心的な戦略意図に基づいた「国家建設」の第一歩だったのである 3

この小金城の落成式には、千葉宗家の当主である千葉昌胤自らが祝賀に訪れたと伝えられており 3 、この出来事は、高城氏が千葉一族の中で無視できない重要な地位を確立したことを示す象徴的なものであった。


表1:高城氏主要人物と系譜(諸説併記)

氏名

官途名・通称

生没年

備考

初代

高城 胤吉

下野守

1484/1501年? - 1565年

小金城を築城。第一次国府台合戦で活躍 9 。妻は千葉勝胤の娘 9

二代

高城 胤辰

治部少輔

不詳 - 1590年以前

第二次国府台合戦で活躍 14 。上杉謙信の小金城包囲を撃退 3

三代

高城 胤則

左衛門

不詳 - 1590年以降

小田原征伐で小田原城に籠城。敗戦後、所領没収 15

注:高城氏の出自については、桓武平氏千葉氏族説(原氏の分家)

98

第二章:小金城の構造と縄張り — 後北条流築城術の受容

小金城は、その規模と構造において、戦国期下総国を代表する城郭の一つであった。特に、その防御施設には、当時の関東の覇者であった後北条氏の先進的な築城技術が色濃く反映されており、城の縄張りそのものが高城氏の政治的立場を物語っている。

城郭の全体像

小金城の城域は、東西約800m、南北約700mにも及び、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った 1 。城は、下総台地が侵食されてできた複雑な谷津地形を巧みに利用して設計されている。台地の最も高い部分に政治・居住空間である本城(主郭)や中城を置き、その周囲に馬屋敷、番場といった機能別の郭を配置し、全体として12もの郭で構成されていたと伝えられる 1 。これらの郭は、それぞれが独立した区画でありながら、有機的に連携して一つの巨大な防御システムを形成していた。1962年に行われた本城地区の発掘調査では、大規模な建物の痕跡や、柵・塀の跡が発見されており、城内で活発な活動が行われていたことがうかがえる 3

防御思想の核心 — 障子堀と畝堀

小金城の構造を語る上で最も重要な特徴は、後北条氏の城郭に特有の防御施設である「障子堀(しょうじぼり)」と「畝堀(うねぼり)」の存在である 5 。これらの堀は、大谷口歴史公園として整備された区域の発掘調査で検出し、一部が復元・公開されている 4

  • 障子堀 : 堀の底に、進行方向と直角に複数の土塁(堰)を設けることで、堀の内部空間を障子の桟のように細かく区切る構造を持つ 20 。これにより、堀底に侵入した敵兵の自由な横移動を徹底的に阻害し、動きが制約された敵兵を城内から効率的に攻撃することが可能となる。
  • 畝堀 : 堀の斜面に沿って、縦方向に畝のような土塁を幾筋も設ける構造である 21 。これにより、敵兵が斜面を駆け上がることを物理的に困難にし、足を滑らせやすい不安定な状況を作り出す。防御側は、この畝の間から容易に攻撃を加えることができた。

これらの高度な防御施設の導入は、単なる軍事技術の模倣ではない。それは、高城氏が千葉氏の陪臣という従来の立場から一歩踏み出し、関東の覇者である後北条氏と直接的な同盟関係を結び、その広域防衛ネットワークの一翼を担う「他国衆」として認められたことの物理的な証拠である。城の縄張りそのものが、高城氏の外交戦略と政治的地位の変化を雄弁に物語る「土で書かれた外交文書」と言えるだろう。後北条氏にとって、同盟相手に自らの先進的な築城技術を提供することは、同盟国全体の防御力を底上げし、自らの支配圏を安定させるための重要な戦略であった。障子堀の存在は、高城氏が後北条氏から信頼されたパートナーであったことを示している。

虎口とその他の防御施設

城の出入り口である虎口(こぐち)は、防御の最重要拠点であり、小金城にも厳重な備えがなされていた。現在でも、達磨口や金杉口といった主要な虎口の跡が確認できる 4 。伝承によれば、達磨口には跳ね橋が架けられていたとされ 4 、金杉口の発掘調査では門柱を立てた土壇が見つかっており、堅固な門が存在したと考えられている 5

各郭は深い空堀によって分断され、連絡路は限定的な土橋のみであった 22 。そして、虎口や土橋を見下ろす位置には櫓台(やぐらだい)が効果的に配置され、侵入しようとする敵に対して側面から矢や鉄砲を射かける「横矢掛かり」の構造が徹底されていたと推定される 22 。これにより、敵は常に複数の方向からの攻撃に晒されることになった。

周辺城郭との比較

小金城の築城思想をさらに深く理解するためには、周辺の城郭との比較が有効である。高城氏の旧本拠である根木内城でも、発掘調査によって堅固な障子堀が発見されている 23 。これは、小金城築城に先立つ段階、あるいは同時期に、高城氏の領国全体で後北条流の築城術による要塞化が進められていた可能性を示唆している。

この事実は、高城氏の防衛構想が、単一の城で籠城する「点の防御」から、本城である小金城と支城である根木内城などが連携して敵の侵攻を食い止める「線の防御」、あるいは「面の防御」へと進化していたことを物語る。一つの拠点が突破されても、次の拠点が抵抗を続け、あるいは相互に連携して敵を挟撃する。このような広域的な防衛思想は、上杉謙信のような大規模な軍勢の侵攻を現実の脅威として想定していた後北条氏の戦略思想が、高城氏に深く浸透していた証左に他ならない。

第三章:高城氏三代の治世と小金城の歴史的変遷

小金城は、築城から廃城までの約60年間、高城氏三代の興亡と共にその歴史を刻んだ。初代・胤吉による勢力確立、二代・胤辰の時代の栄華と試練、そして三代・胤則の時代の滅亡というドラマは、戦国末期の関東における在地領主の運命を象エンブレム徴している。

初代・胤吉の時代 — 築城と勢力確立

高城胤吉は、享禄3年(1530年)に小金城の築城を開始し、7年の歳月をかけて天文6年(1537年)に完成させた 6 。この大規模な築城事業は、高城氏の経済力と動員力を示すものであった。城の完成翌年、天文7年(1538年)に発生した第一次国府台合戦は、胤吉と小金城の価値を決定づける戦いとなった。この戦いで胤吉は、後北条氏の当主・北条氏綱に味方し、長年の宿敵であった小弓公方・足利義明を滅ぼす上で重要な役割を果たした 13 。この戦功により、高城氏は後北条氏からの信頼を勝ち取り、東葛飾地域における確固たる地位を築き上げた。

二代・胤辰の時代 — 栄華と試練

父・胤吉の跡を継いだ高城胤辰の時代、高城氏は最盛期を迎える。永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦において、胤辰は再び後北条軍の一翼を担い、房総の雄・里見氏との激戦に勝利した 14 。この戦功は高く評価され、高城氏は本拠の下総国だけでなく、遠く相模国海老名(現在の神奈川県海老名市)にも所領を与えられた 11

しかし、その栄華には常に試練が伴った。永禄9年(1566年)、越後の「軍神」上杉謙信が数万の大軍を率いて関東に侵攻した際、小金城は上杉軍に包囲されるという最大の危機に直面する 3 。この時、胤辰は城兵を鼓舞し、堅固な城の防御力を最大限に活かして籠城戦を展開。上杉軍の猛攻を耐え抜き、ついに謙信に包囲を解かせることに成功した 3 。この勝利は、小金城の防御能力の高さと、高城軍の士気の高さを天下に示す出来事となった。

三代・胤則の時代 — 滅亡への道

天下統一を目指す豊臣秀吉の脅威が関東に迫る中、高城氏の家督は胤則へと継承された。天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が開始されると、高城胤則は後北条氏の「他国衆」として、主力の兵を率いて小田原城での籠城に参加した 15 。これは、後北条氏との同盟者としての義務であり、この巨大な政治・軍事同盟から離脱するという選択肢は事実上存在しなかった。高城氏の興亡は、後北条氏の同盟者という立場がもたらす栄光と、その一方で運命を共にせざるを得ない悲劇を象徴している。

胤則が小田原城に籠る間、留守となった小金城は、豊臣方の浅野長政が率いる軍勢によって包囲された 5 。城内には十分な兵力が残っておらず、小田原城の胤則からの指示により、城は大きな戦闘を経ることなく開城・降伏した 3 。やがて小田原城も降伏し、後北条氏は滅亡。これに伴い、高城氏も所領を全て没収され、戦国大名としての歴史に幕を閉じた 15 。胤則は蒲生氏郷に身柄を預けられ、信濃国へと移されたという 16

高城氏退去後から廃城へ

後北条氏に代わって関東の支配者となった徳川家康は、その五男である武田信吉を小金城主として配置した 5 。しかし、これは一時的な措置に過ぎなかった。徳川による新たな支配体制が確立される中で、戦国時代のような国境線の攻防を前提とした城の戦略的価値は急速に失われていった。支配の拠点は、より広域を管轄できる本佐倉城や、後の佐倉城へと集約されていく。

信吉は文禄元年(1592年)に本佐倉城へ、さらに水戸城へと転封となり、主を失った小金城はその翌年の文禄2年(1593年)頃に廃城となった 5 。小金城の廃城は、徳川の新たな支配体制下で、地域の軍事拠点の役割が終わりを告げたことを意味する。しかし、それは地域の歴史の終わりではなかった。軍事拠点としての城が「死」を迎えた後も、その城下に形成された町は、交通の要衝という新たな役割を見出し、生き残り、発展を遂げていくのである。これは、軍事拠点の価値は時代と共に変遷するが、地理的優位性とそこに形成された経済・文化の基盤は、時代を超えて存続しうることを示す好例と言える。


表2:小金城関連年表

年代(西暦)

元号

主な出来事

出典

1530年

享禄3年

高城胤吉、小金城の築城を開始。

6

1537年

天文6年

小金城が完成。高城氏が根木内城から本拠を移す。

3

1538年

天文7年

第一次国府台合戦。高城氏、北条氏方として参戦し勝利に貢献。

13

1564年

永禄7年

第二次国府台合戦。高城胤辰、北条氏方として参戦し勝利に貢献。

14

1566年

永禄9年

上杉謙信が関東に侵攻。小金城を包囲するが、高城氏は籠城して撃退。

3

1590年

天正18年

豊臣秀吉による小田原征伐。高城胤則は小田原城に籠城。

15

留守中の小金城は浅野長政軍に包囲され、開城。

5

小田原城開城後、高城氏は改易(所領没収)。

15

1590年以降

天正18年以降

徳川家康の関東入府後、五男の武田信吉が小金城主となる。

19

1592年

文禄元年

武田信吉が本佐倉城へ転封。

21

1593年頃

文禄2年頃

小金城、廃城となる。

5


第四章:城下の繁栄と文化的遺産

小金城の価値は、その軍事的な機能だけに留まらない。城の存在は、周辺地域に経済的な繁栄をもたらし、豊かな文化を育む土壌となった。高城氏滅亡後も、その遺産は形を変えて受け継がれ、現在の松戸市北小金地区の歴史的景観の礎となっている。

城下町から宿場町へ

小金城の築城は、新たな町の誕生を意味した。城の麓には家臣団の屋敷や商工業者の住居が建ち並び、城下町が形成された 3 。この城下町は、古くからこの地にあった本土寺の門前町と一体化し、地域の政治・経済の中心として発展していった 3

天正18年(1590年)の高城氏滅亡と小金城の廃城は、町の性格を大きく変える転機となった。江戸時代に入り、江戸と水戸を結ぶ重要な幹線道路として水戸街道が整備されると、旧城下町はその交通の要衝という立地を活かし、宿場町「小金宿」として新たな役割を担うことになった 26 。小金宿には、大名などが宿泊する本陣や脇本陣が置かれ、多くの旅籠が軒を連ねて賑わった 26 。現在も、江戸時代末期に建てられた旅籠「玉屋」の建物が残り、往時の宿場町の面影を今に伝えている 27

小金牧との関連

江戸時代の小金宿の重要性をさらに高めたのが、江戸幕府直轄の軍馬育成牧場「小金牧」の存在であった 27 。下総台地一帯に広がるこの広大な牧場を管理するため、小金宿には幕府の役所である「野馬奉行所(小金御厩)」が置かれた 28 。これにより、小金宿は単なる宿場町に留まらず、幕府の重要政策である軍馬生産の管理拠点という役割も担うことになり、その重要性は一層高まった。

高城氏と周辺寺社

高城氏の支配は、城という軍事力だけに依存したものではなかった。彼らは地域の有力な寺社を篤く庇護し、その宗教的権威を利用することで、領民の心を掴み、支配基盤を安定させることに努めた。軍事・政治・宗教の三つの権力を巧みに組み合わせた、多層的な支配体制を築いていたのである。城と寺社群は、高城氏の権力を支える両輪であった。

  • 広徳寺 : 高城氏代々の菩提寺であり、現在も境内には高城一族の墓所が静かに佇んでいる 5 。城主の墓所の存在は、その寺院が領主家と特別な関係にあったことを示している。
  • 東漸寺 : 浄土宗の名刹で、小金城の築城とほぼ同時期に、高城氏の庇護のもとで現在地に移転したと伝えられる 25 。江戸時代には、学僧を養成する「関東十八檀林」の一つに数えられ、多くの高僧を輩出した 29
  • 本土寺 : 高城氏がこの地に来る以前からの地域の宗教的中心であり、その影響力を無視することはできなかった。高城氏もこの古刹を手厚く保護した 25 。特に、この寺に伝わる『本土寺過去帳』は、高城氏の初期の動向を知る上で欠かせない一級史料となっている 10
  • 大勝院 : もともとは旧本拠・根木内城の祈願寺であったが、高城氏が小金城へ移るのに伴い、城下に移転してきた寺院である 3
  • 神明神社 : 城の鎮守として、天文年間(1532年~1555年)に高城氏が創建したと伝えられる 3 。落城後、帰農した家臣団が村の鎮守として祀り続けた。

現代における史跡としての価値

戦後の急速な宅地化により、小金城の広大な城域の多くは失われてしまった 5 。しかし、城跡の一部は「大谷口歴史公園」として整備・保存され、市民の憩いの場となっている 19 。公園内では、発掘調査に基づいて復元された障子堀や畝堀、土塁といった貴重な遺構を間近に見ることができ、戦国時代の城の姿を偲ぶことができる 14 。小金城跡は、昭和41年(1966年)に松戸市の史跡に指定されており 33 、地域の歴史を未来に伝える重要な文化遺産として位置づけられている。

現在の北小金駅周辺地域を俯瞰すると、一つの土地に幾層もの歴史が積み重なっていることがわかる。それは、①中世の本土寺を中心とした門前町、②戦国時代の高城氏の城下町、③江戸時代の水戸街道の宿場町、そして④幕府の小金牧の管理拠点という、少なくとも四つの異なる時代の役割が重層的に形成された空間である。一つの土地が、時代の要請に応じてその中心的な役割を変えながらも、一貫して地域のハブであり続けたという「歴史の重層性」こそが、この地域の最大の特色と言える。小金城の存在は、この重層的な歴史の中の、戦国時代という一層を担った、不可欠な要素なのである。

結論:小金城が語る東葛飾の戦国史

本報告書で詳述してきたように、下総国小金城は、単なる一地方城郭に留まるものではない。それは、戦国時代末期の関東地方が経験した激動の歴史を色濃く反映した、時代の縮図であった。

第一に、小金城は、在地領主・高城氏の台頭から滅亡に至るまでの軌跡を体現している。原氏の被官という立場から、実力で勢力を拡大し、巨大な城を築いて半独立した権力を確立するも、最終的には豊臣秀吉という中央の巨大権力によって再編される地方勢力の運命に飲み込まれていった。

第二に、城の構造、特に後北条氏特有の障子堀や畝堀の存在は、戦国期関東の広域支配戦略を理解する上で極めて重要な物証である。小金城は、後北条氏が築き上げた広域防衛ネットワークの重要な結節点であり、その築城技術は同盟関係の証左でもあった。

第三に、城の廃城とその後の城下町の変遷は、戦国時代の終焉と徳川幕府による新たな近世的秩序の構築という、大きな歴史の転換点を象徴している。軍事拠点の役割を終えた城下町が、水戸街道の宿場町として新たな生命を得て発展した事実は、地域のレジリエンス(再起力)と歴史の連続性を示している。

今日、小金城の遺構の多くは市街地の下に眠っているが、「大谷口歴史公園」として保存されている一部は、私たちに往時の姿を雄弁に語りかけてくれる。未だ全容が解明されていない12の郭の具体的な配置や機能については、今後のさらなる考古学的調査の進展が待たれる。小金城跡と、その周辺に点在する高城氏ゆかりの寺社群、そして小金宿の面影を残す街並みを一体的に捉えることで、私たちは東葛飾地域が育んできた重層的な歴史を、より立体的に理解することができるであろう。小金城は、過去の遺物であると同時に、地域のアイデンティティを形成し、未来へと語り継がれるべき貴重な歴史遺産なのである。

引用文献

  1. 小金城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%91%E5%9F%8E
  2. 小金城(千葉県松戸市)の詳細情報・口コミ - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/2365
  3. 小金城(千葉県松戸市) 2024年2月|産鉄族 - note https://note.com/santetsuzoku/n/nfc49913118da
  4. 小金城 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/info01/koganeooyaguti.htm
  5. 第150回:小金城(宅地化された巨大城郭の痕跡を見る){付 中金杉城} - こにるのお城訪問記 https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-157.html
  6. 小金城 https://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kogane.htm
  7. 小金城(別名:大谷口城、開花城) - あの頂を越えて https://onedayhik.com/recView?recid=r2013032001
  8. 武家家伝_高城氏(ダイジェスト) http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takagi_k2.html
  9. 高城胤吉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9F%8E%E8%83%A4%E5%90%89
  10. 小金城主・高城氏の歴史 - 千葉氏の一族 https://chibasi.net/takagi.htm
  11. 1 高城氏が統治する以前の東葛 ~ 下総国の政治の中心で千葉氏と縁の深かった東葛 https://www.matsugasakijo.net/kai/rekiraku/toukatsu_takagishi.pdf
  12. 小金城 https://tanbou25.stars.ne.jp/koganejyo.htm
  13. 小金城主・高城氏の歴史 - 千葉氏の一族 https://chibasi.net/takagi2.htm
  14. 大谷口歴史公園 - 松戸市観光協会 https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%85%AC%E5%9C%92/
  15. 高城氏 (下総国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9F%8E%E6%B0%8F_(%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%9B%BD)
  16. 高城胤則 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9F%8E%E8%83%A4%E5%89%87
  17. 松戸市立博物館で「小金城と根木内城」展 2つの城跡から戦国時代の町の姿知る https://matsudo.keizai.biz/headline/484/
  18. 松戸周辺を広く治めていた高城胤吉ゆかりの城と寺社を歩く - UKIUKIPLUS(ウキウキプラス) https://ukiukiplus.com/2024/01/26/%E6%9D%BE%E6%88%B8%E5%91%A8%E8%BE%BA%E3%82%92%E5%BA%83%E3%81%8F%E6%B2%BB%E3%82%81%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E9%AB%98%E5%9F%8E%E8%83%A4%E5%90%89%E3%82%86%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%9F%8E%E3%81%A8/
  19. 小金城の見所と写真・300人城主の評価(千葉県松戸市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/783/
  20. 下総松戸 凋落の千葉氏より分離独立し下総西部を支配したが秀吉の小田原征伐にて従属していた小田原北条氏共々没落した高城氏本拠『小金城』訪問 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10639445
  21. 小金城 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/013chiba/166kogane/kogane.html
  22. 【都内の城】上杉の城?北条の城?「片倉城」の縄張りからお城の歴史を紐解く!小金城解説! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=9P8VqIb4K5Y
  23. 【11/28〜、松戸市】小金城と根木内城の御城印が販売開始 - お城ニュース by 攻城団 https://kojodan.jp/news/entry/2020/11/28/165513
  24. 小金城(大谷口歴史公園) - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/ch0453/
  25. 小金城(大谷口城)、高城氏の居城~DELLパソ兄さん登城記 https://www.pasonisan.com/rvw_trip/chiba/17-06-koganejo.html
  26. 小金宿(水戸街道 - 松戸~小金) - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/mitokaido/matsudo_kogane/koganeshuku/
  27. 2:「小金宿」と「小金牧」 ~ 松戸 | このまちアーカイブス - 三井住友トラスト不動産 https://smtrc.jp/town-archives/city/matsudo/p02.html
  28. 小金宿 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%91%E5%AE%BF
  29. 北小金について - 北小金駅南口東地区第一種市街地再開発事業 https://kita-kogane.com/kitakogane/
  30. 松戸編(下)小金中野牧と地名 - 京葉ガス https://www.keiyogas.co.jp/company/approach/fureai/chimei_detail_7.html
  31. 東漸寺の歴史 http://www.tozenji.or.jp/rekisi.htm
  32. 見どころスポット - こがねさんぽ https://kogane-sanpo.com/spot/
  33. 高城氏の墓所(たかぎしのぼしょ) - 松戸市 https://www.city.matsudo.chiba.jp/miryoku/kankoumiryokubunka/odekakemap/odekakemap/bunkazai-map/shishitei/si4.html