陸奥の小高城は相馬氏の拠点として270年栄え、伊達政宗との激戦を耐え抜いた。秀吉の奥州仕置で安堵されるも、中村城へ移転し廃城。今も相馬野馬追の聖地として歴史を伝える。
陸奥国南部、現在の福島県南相馬市小高区にその痕跡を留める小高城は、別名を紅梅山浮船城とも呼ばれ、中世から近世初期にかけての奥州の歴史を語る上で欠かすことのできない重要な城郭である 1 。この城は、鎌倉時代末期に奥州へ下向した相馬氏が、約270年という長きにわたり本拠地として定めた場所であり、一族の興亡のまさに中心舞台であった 3 。その歴史は、南北朝の動乱に始まり、戦国時代の激しい生存競争を経て、徳川幕藩体制の確立と共にその役割を終えるという、日本の城郭史の変遷を凝縮したかのような様相を呈している。
特に戦国時代において、小高城は奥州の覇権を目指す伊達輝宗・政宗父子との熾烈な抗争の最前線となった。強大な伊達氏の圧迫に屈することなく、相馬氏が独立を維持し続けたその歴史は、小高城が単なる居住施設や軍事拠点であっただけでなく、一族の誇りとアイデンティティを懸けた象徴的な存在であったことを物語っている 4 。
本報告書は、この小高城について、築城から廃城に至る歴史的変遷、城郭としての構造的特徴、そして最大の宿敵であった伊達氏との関係性を軸に、多角的な視点からその実像を徹底的に解明するものである。さらに、城がその物理的機能を失った後も、現代に続く「相馬野馬追」という文化的遺産の中でいかに生き続けているかを考察し、小高城の歴史的価値を再評価することを目的とする。
小高城を深く理解するためには、二つの相克する視点が不可欠である。一つは、相馬氏が2世紀半以上にわたって精神的な拠り所とした「聖地」としての側面。もう一つは、戦国後期の新たな戦術や大規模な軍事行動に対応しきれなくなった「物理的拠点」としての限界である。この二面性の間に生じる緊張関係こそが、相馬氏の歴史、とりわけ本拠地を中村城へと移転するという重大な決断を読み解く鍵となる。城の歴史は、軍事合理性だけでは語れない一族の精神史と、時代の変化に適応しようとする現実的な戦略との交錯の中にこそ見出されるのである。
なお、茨城県行方市にも同名の「小高城跡」が存在するが、これは大掾氏一族の小高氏によって築かれた城であり、本報告書の主題である相馬氏の小高城とは全く異なる城郭であることを、ここに明記しておく 3 。
【表1:小高城関連年表】
西暦(和暦) |
主な出来事 |
関連人物 |
1326年(嘉暦元年) |
相馬重胤、小高に居城を移す(一説) 5 。 |
相馬重胤 |
1336年(建武3年) |
北畠顕家率いる南朝軍の攻撃により落城(一説) 3 。 |
相馬光胤、北畠顕家 |
1337年(延元2年) |
相馬胤頼が小高城を奪還 5 。 |
相馬胤頼 |
1542年(天文11年) |
伊達氏天文の乱が勃発。相馬氏は伊達稙宗方に味方し、伊達晴宗方と敵対関係となる 9 。 |
相馬顕胤、伊達稙宗、伊達晴宗 |
1578年(天正6年) |
相馬義胤が家督を継承し、第16代当主となる 10 。 |
相馬義胤 |
1581年(天正9年) |
伊達政宗が対相馬戦にて初陣を飾る 9 。 |
相馬義胤、伊達政宗 |
1585年(天正13年) |
人取橋の戦い。義胤は反伊達連合軍の一員として参戦 10 。 |
相馬義胤、佐竹義重、伊達政宗 |
1589年(天正17年) |
伊達政宗の攻撃により、駒ヶ嶺城・新地城が落城。相馬氏は窮地に陥る 9 。 |
相馬義胤、伊達政宗 |
1590年(天正18年) |
豊臣秀吉の奥州仕置により、所領を安堵される。伊達氏との戦いは強制的に終結 5 。 |
相馬義胤、豊臣秀吉、石田三成 |
1597年(慶長2年) |
居城を小高城から牛越城へ一時的に移転 5 。 |
相馬義胤 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い。相馬氏は中立的な立場を取る 9 。 |
相馬義胤 |
1602年(慶長7年) |
関ヶ原の戦後処理で、一度は改易(領地没収)となるも、伊達政宗のとりなしもあり本領安堵を勝ち取る 3 。 |
相馬義胤、相馬利胤、伊達政宗 |
1603年(慶長8年) |
居城を牛越城から再び小高城に戻す 11 。 |
相馬利胤 |
1611年(慶長16年) |
本拠地を中村城へ完全に移転。小高城は廃城となる 3 。 |
相馬利胤 |
1958年(昭和33年) |
城跡が福島県の史跡に指定される 3 。 |
- |
相馬氏の歴史は、桓武平氏千葉氏の流れを汲み、下総国相馬郡を本貫地とすることに始まる 19 。文治5年(1189年)の奥州合戦における功績により、源頼朝から陸奥国行方郡を与えられたことが、奥州相馬氏の礎となった。その後、一族は鎌倉幕府の御家人としてこの地での支配を徐々に固めていった。
小高城の創築については、複数の記録が存在し、その草創期の様子は必ずしも一様ではない。一つの有力な説は、嘉暦元年(1326年)、奥州相馬氏の始祖とされる相馬重胤が、それまでの拠点であった別所館から、在地領主・小高氏の館があったとされる堀ノ内館の地に移り、本格的な居城として築いたとするものである 2 。この説は、相馬氏が在地勢力を吸収し、この地における恒久的な支配拠点として小高を選定したことを示唆している。
一方で、より広域的な政治・軍事情勢と関連付けた説も存在する。それは、建武の新政が崩壊し、南北朝の動乱が本格化する中で、陸奥将軍府を率いて南朝方の中核として活動した北畠顕家の軍勢に対応するための軍事拠点として建設された、というものである 3 。この説によれば、小高城は建武3年(1336年)、北上してきた顕家率いる南朝軍の猛攻を受け、一度は落城の憂き目に遭ったとされる。この戦いで重胤の子・光胤は奮戦するも敗れ、城は南朝方の手に落ちた 5 。
これら二つの築城時期に関する異説の存在は、単なる記録の混乱として片付けるべきではない。むしろ、それは相馬氏の陸奥における支配権の確立が、鎌倉幕府の終焉と南北朝の内乱という未曾有の政治的混乱の中で、段階的かつ困難な道のりであったことを象徴している。嘉暦元年(1326年)説が在地領主としての支配拠点化という内向きの動機を反映しているのに対し、建武3年(1336年)説は広域的な戦乱への対応という外向きの動機を示唆している。このことから、1326年頃に在地支配の拠点として比較的小規模な館が築かれ、1336年前後の動乱に際してそれが本格的な防御機能を持つ城郭へと改修・拡張されたという、段階的な発展モデルを想定することが可能である。
いずれにせよ、落城の翌年である1337年(延元2年)、辛うじて難を逃れた重胤の孫・胤頼が城を奪還することに成功し、以降、小高城は相馬氏の拠点として確固たる地位を築いていく 3 。この時代の城は、平時には麓の館に居住し、有事の際に立てこもるための一時的な防塁としての性格が強かったが、南北朝の戦乱が常態化するにつれて、城郭そのものが恒久的な居住・統治の拠点へと変化していく過渡期にあった 20 。小高城もまた、そうした時代の要請に応える形で、その後の発展の基礎を固めたのである。
小高城の構造は、その地理的特徴を巧みに利用しつつも、戦国後期の城郭と比較すると、ある種の古風さ、あるいは単純さを色濃く残している。しかし、その内部からは、相馬氏の豊かな文化性と経済力を示す遺物も発見されており、軍事機能と文化的中心地としての二面性を持っていたことがうかがえる。
小高城は、小高川の北岸に位置し、周囲の水田地帯から南側へ舌状に突き出した、標高約20メートル、比高約10メートルの独立した段丘上に築かれた平山城である 3 。この立地は、城の防御において極めて重要な役割を果たした。
城の南側は、小高川の流れが天然の外堀を形成し、断崖絶壁となっている 3 。そして、西から北にかけては広大な水田地帯が広がっており、これらはかつて湿地帯、あるいは水を湛えた堀であったと想定されている 3 。さらに東側には、現在も「弁天池」としてその名残を留める堀跡が存在する 3 。このように、城は三方を水域と湿地に囲まれた、天然の要害であった。
この地形的特徴こそが、小高城に「浮船城」という優雅な別名をもたらした 3 。大雨などによって小高川が増水し、周囲一帯が水で満たされると、段丘上の城郭だけがまるで水面に浮かぶ一艘の船のように見えたことから、この名で呼ばれるようになったと伝えられている 3 。この名は、城の防御性の高さを詩的に表現したものであると同時に、水と共にあったこの地の景観を今に伝えている。
城の縄張り(設計)は、比較的単純な構成であったとされる。中心となる本丸(主郭)を段丘の最も高い位置に置き、その周囲に南二ノ丸、北二ノ丸、そして「馬場」とも呼ばれる三郭といった複数の曲輪を配置する構造であった 5 。現在、本丸跡には相馬氏の守護神を祀る相馬小高神社が鎮座しており、広大な平場が往時の姿を偲ばせる 3 。
防御施設としては、土を盛り上げて築いた土塁と、地面を掘り下げた堀が主体であった。特に、本丸の北側、すなわち現在の神社の裏手には、高さ数メートルに及ぶ土塁が良好な状態で現存しており、城の防御の要であったことがわかる 3 。また、台地が陸続きとなる北東方面からの敵の侵入を遮断するため、尾根を断ち切る形で大規模な堀切が設けられていた 4 。
城への主要な進入路である大手口は、東側に設けられた坂道であったと考えられている 3 。現在、南側から神社へと続く荘厳な参道は、城郭遺構とは直接関係のない、後世に整備されたものである 3 。一方で、西側の虎口(出入り口)付近には、敵の直進を妨げるための初期的な枡形(四角く囲まれた空間)構造の痕跡が見られるとの指摘もあり、戦国期に向けた改修の跡をうかがわせる 21 。
しかしながら、小高城の構造は、戦国時代が後期に進むにつれて、その限界を露呈することになる。城全体の規模は決して大きくなく、本丸以外の曲輪の面積も小さく未発達であった 3 。そのため、数千、数万の兵力が動員される大規模な攻城戦に対しては、防御力が十分とは言えず、「実践向きとは言い難い」と評価されている 3 。石垣を多用し、複雑な虎口や天守を備えた近世城郭とは、その設計思想において一線を画す、中世的な城郭の範疇に留まっていた。
この構造的な単純さとは裏腹に、城跡からの出土品は、相馬氏が保持していた高い文化水準と経済力を物語っている。発掘調査では、中国から輸入された青白磁や天目茶碗といった高級陶磁器に加え、装飾に金箔が施された瓦の破片なども発見されている 4 。これは、相馬氏が軍事一辺倒の勢力ではなく、交易や外交を通じて中央や大陸の文化を積極的に取り入れ、その権威を飾っていたことを示している。小高城は、軍事的には質素な要塞であったかもしれないが、政治・文化的には一国の首都として華やかな側面を併せ持っていたのである。この軍事機能と文化的機能のアンバランスさは、伊達氏のような圧倒的な軍事力を持たない相馬氏が、外交や権威によって自らの地位を保とうとした、巧みな生存戦略の現れとも解釈できる。
そして、小高城単体の防御力の低さを補うため、相馬氏は周辺の丘陵地帯に複数の出城や支城を配置し、それらを連携させた広域的な防衛ネットワークを構築していた 3 。小高城は、そのネットワークの中核をなす司令塔としての役割を担っていたのである。その具体的な例として、相馬氏一門の筆頭であった岡田氏が拠った岡田館が挙げられる。この館は、小高の市街地を挟んで小高城と向かい合う戦略的な位置にあり、本城の防衛に不可欠な存在であった 4 。
戦国時代の奥州南部は、諸勢力が覇を競う群雄割拠の時代であった。その中で、小高城を拠点とする相馬氏は、北方に勢力を拡大する伊達氏との間で、数世代にわたる宿命的な対決を繰り広げることになる。小高城は、まさにその相克の最前線であった。
意外なことに、戦国時代の初期において、相馬氏と伊達氏の関係は決して険悪なものではなかった。むしろ、両家は幾重にもわたる婚姻関係で結ばれた、いわば親戚であった 9 。相馬氏第14代当主・顕胤は伊達稙宗の娘を娶り、さらにその孫である第16代当主・義胤も、稙宗の末娘を正室に迎えている 11 。比較的に弱小であった相馬氏にとって、奥州探題を輩出する名門・伊達氏との縁戚関係は、乱世を生き抜くための重要な拠り所であった。
しかし、この良好な関係を根底から覆す事件が発生する。天文11年(1542年)に勃発した、伊達家を二分する内乱「天文の乱」である 9 。この内乱は、当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗との間の深刻な対立が原因であり、奥州の諸大名を巻き込む大乱へと発展した。この時、相馬氏は稙宗との深い縁戚関係から、当然のごとく稙宗方に与した 9 。しかし、6年にも及ぶ争いの末に勝利を収めたのは、息子の晴宗であった。この結果、相馬氏は伊達家の新たな主流派と敵対する立場に置かれることになり、両家の関係は修復不可能なまでに悪化。以降、小高城は対伊達氏の最前線基地としての性格を強めていくのである。
天文の乱後、相馬氏は当主・盛胤、そしてその子・義胤の時代を通じて、伊達晴宗、輝宗、政宗という三代の当主と、伊具郡や亘理郡の領有を巡って一進一退の攻防を繰り広げた 9 。特に、天正6年(1578年)に家督を継承した第16代当主・相馬義胤は、自ら陣頭に立って敵中に突撃することも厭わない、勇猛果敢な武将として知られていた 10 。
両家の因縁を象徴する出来事が、天正9年(1581年)に起こる。この年、後に「独眼竜」として天下にその名を轟かせることになる伊達政宗が、小高城近郊で行われた対相馬戦において、15歳で初陣を飾ったのである 9 。義胤と政宗、この二人の武将の長きにわたる激しい戦いは、まさにこの時から始まった。小高城は、若き政宗の軍事的才能が初めて発揮された舞台の一つとなった。
軍事的に劣勢であった相馬氏が、強大な伊達氏を相手に長年にわたり独立を保ち得た要因は、当主・義胤の個人的な武勇もさることながら、その巧みな外交戦略と不屈の精神にあった。義胤は、南の佐竹氏や西の蘆名氏、そして隣接する岩城氏といった周辺勢力と巧みに連携し、対伊達包囲網を形成することで、力の差を埋めようと試みた 9 。また、田村氏の内紛に介入しようとした際、家臣から女子供を人質に取る策を進言されたが、「武士の恥」としてこれを一蹴したという逸話が残っている 10 。このような彼の武人としての高い矜持は、家臣団の強い結束を生み出し、小高城の防衛を支える精神的な基盤となっていた。小高城の物理的な防御力を超えた、城主の人間的魅力と外交手腕こそが、相馬氏の独立を維持した真の「城壁」であったと言えるだろう。
義胤と政宗の戦いは、奥州南部の各地で繰り広げられた。その中でも、小高城の運命に大きく関わった二つの戦いは特筆に値する。
第一に、天正13年(1585年)の「人取橋の戦い」である。これは、伊達輝宗が二本松義継によって拉致され非業の死を遂げたことをきっかけに、佐竹義重を盟主とする反伊達連合軍が結成され、政宗に襲いかかった戦いである 10 。義胤もこの連合軍の主力として参戦し、寡兵で奮戦する政宗の本陣にまで肉薄する活躍を見せた 10 。この戦いは、相馬氏が単独ではなく、周辺勢力との連携(合従連衡)によって伊達氏に対抗するという、一貫した戦略を取っていたことを示す好例である。
第二に、天正17年(1589年)の「駒ヶ嶺城・新地城を巡る攻防」である。駒ヶ嶺城と新地城は、伊達領との国境に位置する、相馬氏にとっての防衛の最前線であった 12 。政宗はこの年、蘆名氏を滅ぼして会津を手中に収めると、その矛先を相馬領へと転じた。政宗の猛攻の前に、両城は相次いで陥落 9 。これにより相馬氏の防衛ラインは大きく後退を余儀なくされ、本拠地である小高城に、未曾有の危機が迫ることとなった。
天正17年(1589年)の「摺上原の戦い」で、伊達政宗が会津の蘆名氏を滅ぼしたことは、南奥州の勢力図を決定的に塗り替えた 9 。この勝利により、政宗は名実ともに出羽・陸奥における最強の戦国大名となり、周辺の諸勢力は雪崩を打って伊達氏に恭順した。その中で、頑として抵抗を続けたのは、相馬義胤と岩城常隆のみであった 9 。
しかし、その岩城氏も同年の終わり頃には伊達氏と和睦を結び、相馬氏は完全に孤立無援の状態に陥ってしまった 9 。北関東の佐竹氏という後ろ盾は依然として存在したが、破竹の勢いの政宗に直接対抗できるほどの力はなかった。万策尽きた義胤は、翌天正18年(1590年)の初頭、ついに政宗に対して和睦を申し入れるに至る 9 。2世紀半にわたり相馬氏の拠点であり続けた小高城は、まさに落城寸前、風前の灯であった。
伊達政宗による相馬領侵攻が不可避と思われたその時、奥州の外で起きていた歴史の大きなうねりが、小高城と相馬氏の運命を劇的に変えることになる。中央で天下統一を進める豊臣秀吉の存在が、奥州の勢力図を根底から覆したのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の北条氏を征伐するため、全国の大名に小田原への参陣を命じた。この命令は、奥州の伊達政宗と相馬義胤にも等しく下された 9 。これは、もはや大名同士が私的に領土を争う時代(惣無事令違反)の終わりを告げるものであり、中央の権力が地方の情勢を規定する新時代の到来を意味していた。
窮地に立たされていた義胤にとって、この命令はまさに天佑であった。彼は、同盟関係にあった佐竹義宣とともに小田原へと駆けつけた。遅参を秀吉に咎められたものの、重臣・石田三成のとりなしもあって許され、結果として宇多・行方・標葉の三郡、4万8千石の所領を安堵されたのである 5 。これにより、伊達氏との1世紀近くにわたる戦いは、秀吉の権威によって強制的に終止符が打たれた。相馬氏は滅亡の淵から救われ、小高城はその主を失わずに済んだ。
豊臣秀吉の死後、天下は再び動乱の時代を迎える。慶長5年(1600年)に勃発した「関ヶ原の戦い」は、相馬氏に新たな、そして最大の試練をもたらした。この天下分け目の戦いにおいて、相馬義胤は明確な態度を示さなかった。これは、彼の娘が佐竹義重の三男・岩城貞隆に嫁いでいたことなど、佐竹氏との強い姻戚・同盟関係から、東軍を率いる徳川家康に積極的に味方することを躊躇したためであった 3 。
この中立的な態度は、結果的に西軍への加担、あるいは家康への反逆と見なされた。関ヶ原で東軍が勝利を収めると、戦後処理が始まる。慶長7年(1602年)、佐竹氏が常陸水戸から出羽秋田へと大幅な減封の上で転封されると、その与力大名と見なされていた相馬氏にも連座の形で所領没収、すなわち「改易」という最も厳しい処分が下された 3 。南北朝時代から約270年にわたって相馬氏が守り抜いてきた小高城の歴史は、ここにきて完全に途絶えるかに思われた。
絶体絶命の窮地に陥った相馬氏であったが、義胤とその嫡男・利胤(当時は三胤)は諦めなかった。利胤は江戸へ赴き、徳川家康や幕府重臣に対し、改易処分の撤回を求めて懸命な交渉を行った 5 。
この時、誰もが予想しなかった人物が、相馬氏の救済に動いた。長年にわたる宿敵、伊達政宗その人であった 3 。政宗は、徳川幕府に対して相馬氏の旧領安堵を働きかけたのである 16 。この政宗の「とりなし」が功を奏し、一度は決定された改易処分は覆され、相馬氏は旧領を安堵されるという、戦国時代の終焉期において極めて異例の復活を遂げた 11 。
政宗のこの行動は、単なる武士の情けや温情から出たものではない。その裏には、極めて高度な戦略的判断が隠されていた。第一に、そこには「恩義の返済」という大義名分があった。関ヶ原の直前、政宗は会津の上杉景勝を攻めるため、領国へ急行する必要があった。しかし上杉領は通行できず、やむなく相馬領の通過を義胤に願い出た。家臣団からは「積年の恨みを晴らす好機」として政宗を討つべしとの声が上がったが、義胤は「窮地の敵を討つは武門の誉れにあらず」としてこれを許し、手厚くもてなしたのである 11 。政宗のとりなしは、この恩に報いるという側面を持っていた。
しかし、より重要なのは地政学的な計算であった。もし相馬領が幕府の直轄地や他の譜代大名の領地になれば、伊達領の南側に素性の知れない、あるいは幕府の監視がより強固な勢力が隣接することになる。それよりも、もはや脅威ではなくなった旧敵・相馬氏を存続させる方が、仙台藩にとって管理しやすく、安定した緩衝地帯として機能するという戦略的判断があった。さらに、宿敵の命運すら左右できるという事実を幕府に示すことで、自らを奥州随一の実力者として改めて印象づけ、徳川体制下における伊達家の政治的価値を高めるという狙いもあった。政宗の行動は、恩義という個人的な理由を巧みに利用しつつ、地政学的利益と政治的プレゼンスの向上という複数の意図が絡み合った、卓越した政治判断だったのである。
伊達政宗のとりなしによって奇跡的に本領を安堵された相馬氏は、新たな時代、すなわち徳川の治世下で近世大名として生き残る道を選んだ。この大きな時代の転換は、相馬氏の統治の中心地にも根本的な変化を促すことになる。約270年にわたり一族の拠点であり続けた小高城を放棄し、本拠地を中村城(現在の相馬市)へと移すという、一大決断である。
本領安堵後、相馬氏は一時的に牛越城を居城とした後、慶長8年(1603年)には再び小高城へと戻っている 5 。これは、存亡の危機を乗り越えた一族が、自らの原点である故地に戻るという象徴的な意味合いを持っていた。しかし、それは永続的なものではなかった。慶長16年(1611年)、当主の相馬利胤は、本拠地を中村城へ完全に移転することを決定。これにより、小高城はその歴史的役割を終え、廃城となった 3 。
この本拠地移転の背景には、複数の複合的な理由が存在した。第一に、最も直接的な理由として挙げられるのが、小高城そのものの物理的な限界である 3 。前述の通り、小高城は中世的な平山城であり、その規模は小さく、曲輪の構成も単純であった。近世大名として6万石の領国を統治し、家臣団を集住させ、商業を振興させるための広大な城下町を建設するには、あまりにも手狭で不便であった。
第二に、戦略的重心の変化が挙げられる。戦国時代は終焉したが、北に隣接する62万石の仙台藩伊達家は、依然として相馬氏にとって最大の潜在的脅威であった。そのため、伊達領と国境を接する北部の守りを固め、防衛ラインを北上させる必要があった 3 。中村の地は、戦国時代から対伊達氏の最前線拠点として城代が置かれていた要衝であり、本拠地をここに移すことは、軍事的・政治的な合理性に基づいた判断であった 18 。新たに築かれた中村城は、宇多川を天然の堀とし、北方の伊達氏を強く意識した梯郭式の縄張りを持つ、より近世的な城郭であった 33 。
小高城から中村城への移転は、単なる拠点の移動以上の意味を持つ。それは、相馬氏が「戦国時代の論理」から「江戸時代の論理」へと、その統治体制を根本的に転換させたことを象徴する歴史的事業であった。小高城が、血縁と土地に根差した中世以来の「一族の故地」としての性格が強いのに対し、中村城は、徳川幕藩体制下で「中村藩」という新たな統治機構を運営するための、合理的かつ近代的な「行政・経済の中心地」として選定・設計された。この決断は、相馬氏が戦国武将から近世大名へと、そのアイデンティティを大きく変革させた瞬間を示すものであった。
慶長16年(1611年)に廃城となり、政治・軍事の中心地としての役割を終えた小高城であったが、その歴史的価値が失われることはなかった。むしろ、その機能が失われたことで、城は新たな役割を担い、相馬氏の精神的な遺産として現代にまでその存在感を伝え続けている。
廃城後の小高城跡は、地域の歴史を物語る貴重な遺構として認識され、昭和33年(1958年)8月1日には福島県の史跡に指定された 3 。現在でも城跡を訪れると、本丸北側の雄大な土塁や堀切の跡などを確認することができ、往時の姿を偲ぶことができる 2 。
そして、城跡が持つ最も重要な価値は、その信仰と祭礼の場としての役割である。本丸跡には、古くから相馬氏の守護神として篤く信仰されてきた妙見菩薩(明治時代の神仏分離令以降は天之御中主神)を祀る相馬小高神社が建立された 3 。これにより、かつての統治の拠点は、地域の信仰の中心地へとその性格を変えた。
この相馬小高神社は、1000年以上の歴史を誇るとされる国家重要無形民俗文化財「相馬野馬追」と不可分の関係にある。三日間にわたる祭りの最終日、神に奉納するための神馬を、多くの若者たちが素手で捕らえるという、極めて勇壮かつ神聖な神事「野馬懸」が行われる 2 。この神事の舞台こそが、小高城本丸跡に鎮座する相馬小高神社の境内なのである。甲冑に身を固めた騎馬武者たちが駆け巡る戦国絵巻の中心で、最も原初的で神聖な儀式が、かつての本拠地で行われることには、計り知れない歴史的意味が込められている。
この事実は、小高城が単なる過去の遺構ではなく、相馬氏の武士としての精神と伝統が今なお息づく、生きた文化遺産であることを示している。政治・軍事拠点としての役割は中村城に譲ったが、それは城の終わりではなかった。統治の象徴であった場所は、一族の守護神を祀り、最も重要な神事を行う「聖地」へと、その性格を純化させたのである。中村城が「政(まつりごと)」の中心となったのに対し、小高城は「祭(まつり)」の中心として、その存在意義を昇華させた。物理的な城は失われても、相馬氏の精神的な支柱としての役割は、形を変えて現代まで脈々と継承されているのである。
小高城の約270年にわたる歴史は、南北朝の動乱期にその礎が築かれ、戦国時代の激しい生存競争を戦い抜き、徳川幕藩体制という新たな秩序の中でその役目を終えるという、まさに日本の城郭史、ひいては中世から近世への移行期の歴史そのものの縮図であった。
特筆すべきは、伊達政宗という戦国時代屈指の英傑を最大の敵としながら、小規模で構造的にも古風なこの城を拠点として、最後まで屈することなく独立を維持し続けた事実である。これは、城郭そのものの防御力以上に、城主であった相馬盛胤・義胤父子の巧みな外交戦略と、幾度となく窮地に立たされながらも決して折れることのなかった不屈の闘争心の賜物であった。小高城の土塁や堀は、相馬氏の武士としての矜持と、領地と民を守り抜こうとする強い意志によって、物理的な高さを超えた難攻不落の城壁と化していたのである。
最終的に本拠地としての役割は中村城に譲られたが、小高城は決して忘れ去られたわけではなかった。政治の中心から信仰の中心へ、統治の場から祭礼の場へとその役割を変え、相馬氏の精神的な原点、すなわち「聖地」として新たな生命を得た。相馬野馬追の神聖な儀式の舞台として現代に生き続けるその姿は、歴史が単なる過去の遺物ではなく、今に続く文化として力強く継承されていることの何よりの証明である。
結論として、小高城は単なる土と石の構造物ではない。それは、強大な勢力に伍して一歩も引かず、幾度もの存亡の危機を知略と気概で乗り越え、自らのアイデンティティを守り抜いた相馬氏の歴史そのものを体現する、不撓不屈の精神の記念碑なのである。