土佐の拠点城郭・岡豊城の総合的研究 ― 長宗我部氏の興亡と城郭の変遷 ―
序章:四国の覇者、長宗我部氏の拠点・岡豊城
戦国時代の日本列島において、地方の小領主から身を起こし、一国の主、さらには一地方の覇者へと駆け上がった武将は数多存在する。その中でも、土佐国(現在の高知県)から四国統一を目前にまで迫った長宗我部元親は、特筆すべき存在である。彼の飛躍を支え、その栄枯盛衰の舞台となったのが、本稿で論じる岡豊城(おこうじょう)である
1
。岡豊城は、単に土佐の一城郭に留まらず、長宗我部氏の権力基盤そのものであり、戦国時代の地方権力の形成と変容を理解する上で極めて重要な歴史的座標を占めている
3
。
岡豊城が築かれたのは、高知県南国市に位置する標高97メートルの独立丘陵、通称「岡豊山」である
4
。この地は、県下最大の沖積平野である香長平野(かちょうへいや)を北から一望する絶好の戦略的要衝に位置する
6
。城の南麓には国分川が流れ、かつてはその周囲に広大な湿地帯が広がっていたとされ、天然の要害を形成していた
5
。この地理的優位性こそが、長宗我部氏が土佐国内の諸勢力を圧倒し、やがて四国全土へとその影響力を拡大していく上での揺るぎない基盤となったのである。本報告書は、この岡豊城について、その歴史的沿革、城郭構造、考古学的知見、そして現代における価値までを多角的に分析し、その総合的な実像に迫ることを目的とする。
第一章:岡豊城の沿革 ― 築城から廃城まで
岡豊城の歴史は、長宗我部氏の歴史そのものと深く連動している。一族の再興の拠点として蘇り、土佐統一、四国制覇の司令塔として最盛期を迎え、そして中央政権の前にその役目を終えるまでの軌跡は、戦国大名の興亡を象徴する物語でもある。
第一節:築城と長宗我部氏の黎明期(15世紀後半~国親の時代)
岡豊城の正確な築城年代は明らかになっていない。長宗我部氏の祖先は、古代に渡来した秦氏の一族とされ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて土佐国長岡郡宗我部郷に入部したことに始まると伝わる
9
。岡豊城の起源もこの時期に求められる可能性があるが、城郭としての機能が明確になるのは15世紀後半からである。発掘調査で出土した遺物から、この頃にはすでに城として活動していたことが示唆されている
10
。
しかし、その道のりは平坦ではなかった。19代当主・長宗我部兼序(元秀とも)の時代、永正5年から6年(1508年~1509年)にかけて、本山氏をはじめとする土佐の国人衆の連合軍に攻められ、岡豊城は落城の憂き目に遭う
9
。この時の戦火の痕跡は、後に二ノ段の発掘調査で発見された焼土層として、考古学的にも裏付けられている
12
。
この落城により一度は滅亡の危機に瀕した長宗我部氏であったが、兼序の嫡男・国親が土佐西部の名門・一条氏の庇護を受けて再起を図る。永正13年(1516年)前後、国親は岡豊城を奪還・再興し、再び勢力拡大の拠点とした
9
。国親の時代、岡豊城はまさに長宗我部氏再興の象徴であり、彼が土佐の有力大名へと返り咲くための足掛かりとなったのである
1
。
第二節:元親の飛躍と土佐統一の拠点(元親の家督相続~天正3年)
天文8年(1539年)、後に「土佐の出来人」と称される長宗我部元親が、国親の嫡男としてこの岡豊城で生を受けた
13
。幼少期は色白で内気な性格から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されたと伝わるが、永禄3年(1560年)の父・国親の急死により家督を相続すると、その類稀なる将器を開花させる
9
。
元親は岡豊城を司令塔とし、父の遺志を継いで土佐統一へと邁進する。まず宿敵であった本山氏を朝倉城や本山城の戦いで破り、永禄11年(1568年)に降伏させ土佐中部を平定
13
。次いで東部の雄・安芸国虎と衝突し、永禄12年(1569年)の八流の戦いでこれを滅ぼす
13
。そして天正2年(1574年)、それまで主家として仰いできた土佐一条氏を豊後国へ追放し、ついに土佐一国の平定を成し遂げた
13
。この一連の軍事行動において、岡豊城は兵站の集積地、戦略策定の中枢、そして勝利の報がもたらされる政治的中心地として、不可欠な役割を果たし続けた。
第三節:四国制覇の本拠地としての最盛期(土佐統一後~天正13年)
土佐統一という偉業を達成した元親の目は、すでに四国全土に向けられていた。岡豊城を起点とする彼の戦略は、土佐の国境を越えて拡大していく。天正5年(1577年)には四国中央の交通の要衝である阿波国の白地城を攻略
13
。この白地城を伊予・讃岐・阿波への侵攻の最前線基地と位置づけ、土佐の本拠地である岡豊城との二元的拠点網を形成した
13
。
その後、阿波の勝瑞城を拠点とする三好氏を破り、讃岐の十河氏を屈服させるなど、破竹の勢いで勢力を拡大。そして天正13年(1585年)、元親は四国全土をほぼ手中に収め、その勢力は絶頂期を迎える
15
。この長宗我部氏の最盛期と呼応するように、岡豊城もまた大規模な改修が施されたと考えられる。後述する「天正三年」(1575年)の銘が入った瓦の出土は、元親が土佐統一を機に、岡豊城を単なる軍事拠点から、四国の覇者の居城にふさわしい権威の象徴へと昇華させようとした意図を物語っている
10
。瓦葺きの壮麗な建物群は、岡豊城を訪れる者に対し、長宗我部氏の威光を視覚的に示す装置でもあった。
第四節:豊臣政権下の変容と廃城(四国征伐~浦戸城移転)
しかし、その栄華は長くは続かなかった。天正13年(1585年)、天下統一を目前にした羽柴(豊臣)秀吉が、10万を超える大軍を四国へ派遣する(四国征伐)
20
。長宗我部軍は各地で奮戦するも、圧倒的な物量の前に降伏を余儀なくされ、元親の領地は土佐一国に削減された
5
。この出来事は、長宗我部氏の運命、そして岡豊城の運命を決定づける最大の転換点であった。
翌天正14年(1586年)、秀吉の命により九州へ出兵した元親は、戸次川の戦いで嫡男・信親を失うという悲劇に見舞われる
9
。後継者を失った元親の心痛は計り知れず、この事件が後の長宗我部氏の戦略に暗い影を落としたことは想像に難くない。
四国統一の夢を絶たれ、豊臣政権下の一大名となった元親にとって、四国全土を睨む内陸の山城である岡豊城の戦略的価値は大きく低下していた。彼は新たな時代の統治拠点として、より大規模な城下町を形成できる平野部の拠点を探し始める。天正16年(1588年)、元親は高知平野の中心である大高坂山(現在の高知城の地)に新たな城を築こうと試みるが、度重なる洪水により治水に失敗し、これを断念した
9
。
この失敗を経て、元親が最終的に選んだのが、浦戸湾に面した港湾拠点であった。天正19年(1591年)、元親は浦戸城を築いて本拠を移す
1
。この移転は、単なる居城の変更以上の意味を持っていた。それは、豊臣政権との連携や来るべき朝鮮出兵への動員拠点として、海上交通の利便性を重視した戦略への転換であった
20
。そして、この浦戸城への遷都に伴い、長宗我部氏累代の居城であった岡豊城は、その歴史的役割を終え、廃城となったのである
1
。岡豊城の廃城は、長宗我部氏が独立した戦国大名から、豊臣という巨大な中央政権に組み込まれた一大名へと変質したことを示す、物理的な象徴であったと言えるだろう。
【表1:岡豊城関連年表】
年代
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主要な出来事
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関連人物
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典拠
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15世紀後半
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岡豊城が城郭として機能し始める(推定)
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永正5-6年 (1508-09)
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本山氏らに攻められ岡豊城が落城
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長宗我部兼序(元秀)
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10
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永正15年 (1518) 頃
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国親が一条氏の支援を得て岡豊城を再興
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長宗我部国親
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9
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天文8年 (1539)
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岡豊城にて元親が誕生
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長宗我部元親
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永禄3年 (1560)
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国親が急死し、元親が家督を相続
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長宗我部国親、元親
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9
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天正2年 (1574)
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元親が一条氏を追放し、土佐を統一
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長宗我部元親
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15
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天正3年 (1575)
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詰に瓦葺きの建物が建設される(天正三年銘瓦出土)
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長宗我部元親
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10
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天正13年 (1585)
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元親が四国をほぼ統一。同年、豊臣秀吉の四国征伐により降伏し、土佐一国に減封
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長宗我部元親、豊臣秀吉
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5
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天正14年 (1586)
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戸次川の戦いで嫡男・信親が戦死
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長宗我部信親
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9
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天正16年 (1588)
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元親、大高坂山(現・高知城)への本拠移転を試みるも治水問題で断念
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長宗我部元親
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9
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天正19年 (1591)
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元親が浦戸城を築いて居城を移し、岡豊城は廃城となる
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長宗我部元親
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平成20年 (2008)
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岡豊城跡が国の史跡に指定される
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-
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6
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第二章:城郭の構造と防御思想 ― 縄張りの徹底分析
岡豊城は、戦国時代の土佐で発展した築城技術の粋を集めた城郭である。その縄張り(城の設計)は、地形を巧みに利用し、敵の侵攻を多段階で阻止する緻密な計算に基づいている。
第一節:岡豊城の立地と全体構成
岡豊城は、前述の通り標高97メートルの独立丘陵に築かれた平山城である
4
。城の全体構成は、山頂の主郭「詰(つめ)」を中心に、東西の尾根上に「二ノ段」「三ノ段」「四ノ段」といった曲輪(くるわ:城内の平坦地)を直線的に配置する「連郭式(れんかくしき)」を基本としている
4
。さらに、主郭から独立した西の「伝厩跡曲輪(でんうまやあとくるわ)」と南麓の「伝家老屋敷曲輪(でんかろうやしきくるわ)」という二つの副郭を有しており、これらが主郭と連携して一つの城郭群を形成する「連立式(れんりつしき)」の要素も併せ持っている
11
。この複雑な構造は、城の機能が多様であったことを示唆している。
第二節:中枢部の機能 ― 詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段
-
詰(つめ)
: 城郭の最高所に位置する中核部であり、近世城郭における本丸に相当する。発掘調査により、礎石を用いた恒久的な建物跡が確認されている
9
。その規模や配置から、単層の建物ではなく、天守の前身となるような二層以上の物見櫓を兼ねた建物が存在した可能性が高いと推定されている
4
。
-
二ノ段
: 詰の東側に隣接する曲輪。発掘調査では明確な建物跡が見つかっておらず、戦時に兵士が駐屯する「兵だまり」のような空間として利用されたと考えられている
11
。また、永正年間の落城時の焼土層が確認された場所でもあり、城の歴史を物語る上で重要な区画である
12
。
-
三ノ段
: 詰の西側から南側にかけて、帯状に取り囲むように配置された曲輪。こちらでは複数の礎石建物群が検出されており、詰の政務・居住機能を補佐する施設群があったと見られる
4
。外周の土塁(どるい:土を盛り上げた防御壁)の内側には、土留めのために石積みが施されている点も特徴的である
4
。
-
四ノ段
: 三ノ段のさらに西側に位置する。後述する巧妙な虎口(こぐち:城の出入口)を備え、西側からの攻撃に対する第一の防御拠点として極めて重要な役割を担っていた
11
。
第三節:先進的な防御施設 ― 堀切、畝状竪堀群、横堀、虎口の配置と役割
岡豊城の防御システムは、土木技術を駆使した多彩な施設によって構成されており、長宗我部氏の体系的な防御思想を色濃く反映している。
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堀切(ほりきり)
: 尾根筋を人工的に深く掘り込んで分断し、敵兵が尾根伝いに侵攻するのを防ぐ施設。詰と二ノ段の間には、深さ約2メートル、幅3~4メートルの大規模な堀切が設けられている
4
。特筆すべきは、この堀切の底に深さ4.7メートルの井戸が掘られている点であり、籠城戦における水の確保という現実的な問題への備えが見て取れる
4
。
-
竪堀(たてぼり)と畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)
: 山の斜面に対して垂直に掘られた溝が竪堀であり、敵兵が斜面を横移動するのを妨げる効果がある。岡豊城では、この竪堀を特に詰の北西部や伝厩跡曲輪の南斜面に、まるで畑の畝のように何本も並べて掘削している
11
。この「畝状竪堀群」は、斜面を登ってくる敵兵の足を完全に止め、動きを封じ込めるための極めて効果的な防御施設であり、土佐の山がちな地形で戦闘を重ねた長宗我部氏独自の、高度な築城技術の到達点を示すものとして高く評価されている
11
。
-
横堀(よこぼり)
: 曲輪の周囲を等高線に沿って巡る堀。伝家老屋敷曲輪の北側や、城跡北西部の小曲輪などでその遺構が確認されている
24
。
-
虎口(こぐち)
: 城への出入口は、最も厳重に防御される箇所である。岡豊城、特に四ノ段の虎口は、通路を直角に二度折り曲げ(クランク状)、土塁で囲まれた四角い空間(枡形)を設けた「枡形虎口」となっている
4
。この構造は、侵入してきた敵兵を狭い空間に閉じ込め、三方向から弓矢や鉄砲による集中攻撃(横矢を掛ける)を加えるための先進的な設計であり、戦国時代末期の城郭に見られる特徴を先取りしている
4
。
第四節:副郭の役割 ― 伝厩跡曲輪と伝家老屋敷曲輪
-
伝厩跡曲輪
: 主郭の西側に位置する、独立性の高い曲輪。その名の通り馬屋があったと伝えられるが、周囲は急斜面で、前述の畝状竪堀群や二重の堀切によって厳重に固められており、本城の西側面を守る「出城」としての軍事的性格が非常に強かったと考えられる
14
。
-
伝家老屋敷曲輪
: 南麓に広がる大規模な曲輪。発掘調査により、周囲を堀切や竪堀で固め、内部には城門や見張り台のような建物が存在したと推定されている
11
。約2,700平方メートル以上という広さとその防御性の高さから、単なる家老の屋敷ではなく、城主である長宗我部氏が平時に生活した居館(土居)であった可能性が強く指摘されている
11
。この曲輪が国分川からの交通路に面していることから、岡豊城の正面玄関、すなわち大手口であったとも考えられている
11
。
山頂の「詰」が戦時の最終防衛拠点「詰めの城」としての性格を持つのに対し、麓の「伝家老屋敷曲輪」が平時の政務・居住空間としての性格を持つという構造は、中世城郭における機能分離の典型例を示している。しかし、これらが一連の防御網によって有機的に結びつき、城全体として機能している点は、両者を統合して城郭全体を要塞化する「総郭(そうぐるわ)」への発展過程を示しており、岡豊城が過渡期の城郭であることを物語っている。
第三章:発掘調査が語る城内の実像
岡豊城跡で実施された数次にわたる発掘調査は、文献資料だけでは知り得ない、当時の城内の具体的な生活や文化、経済活動の実態を明らかにした。出土した遺物は、長宗我部氏の権力と、土佐が決して孤立した辺境ではなかったことを雄弁に物語っている。
第一節:出土遺物から見る権力と交易
-
天正三年銘瓦
: 詰の礎石建物跡から出土した「天正三」(1575年)の年号や、「瓦工泉刕」といった文字が刻まれた瓦は、岡豊城研究における画期的な発見であった
10
。これは、元親が土佐を統一した記念すべき年に、和泉国(現在の大阪府南部)から専門の瓦職人を招聘し、自らの権威を誇示するために瓦葺きの壮麗な建物を建設したことを示す動かぬ証拠である
3
。中央の最新技術と人材を動員できる元親の権力基盤の大きさを示唆している。
-
輸入陶磁器
: 城内からは、青磁・白磁・染付など、当時の中国(明)で生産された高級陶磁器の破片が多数出土している
10
。これらの「威信財(いしんざい)」は、長宗我部氏が畿内や瀬戸内海の商人を通じて、海外との交易ネットワークに連なっていたことを示している。土佐という地理的ハンディキャップを克服し、富と情報を集積する能力を有していたことの証左である
12
。
-
国産の広域流通陶器
: 備前焼(岡山県)、瀬戸焼(愛知県)、常滑焼(愛知県)など、日本各地の主要な窯業地で生産された陶器も広く出土している
10
。これは、岡豊城が国内の広範な物資流通網の結節点の一つであったことを物語る。
-
銭貨
: 城内からは永楽通宝などの銭貨が大量に出土しており、城内およびその周辺で貨幣経済が日常的に機能していたことを示している
10
。
これらの遺物は、岡豊城が単なる軍事要塞ではなく、土佐における富、情報、権力、そして最新技術が集積する政治・経済・文化の「ハブ」として機能していたことを明らかにしている。
第二節:城内の生活と軍事
発掘調査は、城内で暮らした人々の息遣いも伝えている。
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生活用品
: 日常的に使用された土師質土器(はじしつどき)や、調理に使われた土鍋、擂鉢(すりばち)、鉄鍋、穀物を挽くための石臼などが出土しており、城が恒常的な生活の場であったことを具体的に示している
12
。
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軍事関連遺物
: 火縄銃の弾丸の出土は、戦国時代の最新兵器が導入・配備されていたことを裏付ける
10
。畝状竪堀群のような土木技術と合わせ、長宗我部軍の軍事力が質的にも高いレベルにあったことがうかがえる。
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信仰の痕跡
: 詰の建物を建てる際、土地の神を鎮める儀式(地鎮)のために埋められたと考えられる遺構も発見されている。これは、12個の土師質土器の坏(つき)の中に、合計91枚の渡来銭を納めたもので、当時の人々の精神文化や信仰の一端を垣間見ることができる貴重な資料である
19
。
第三節:近世城郭への過渡期 ― 礎石建物と石積みの発見
岡豊城は、日本の城郭が中世から近世へと移行する、その変化の過程を体現した城でもある。
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礎石建物の採用
: 発掘調査では、地面に穴を掘って柱を立てる中世的な「掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)」の跡と、石の土台(礎石)の上に柱を建てる、より恒久的で先進的な「礎石建物(そせきたてもの)」の跡の両方が確認されている
6
。特に詰などの中心部で礎石建物が採用されていることは、城の恒久拠点化と建築技術の革新を示している。
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石垣の前段階「石積み」
: 織田信長や豊臣秀吉の城に見られるような高く堅固な「石垣」は岡豊城には存在しない。しかし、土塁の崩壊を防ぐために裾の部分を石で補強する「腰巻石積み(こしまきいしづみ)」や、通路の階段などに、割石を用いた石積み技術が多用されている
6
。これは、防御施設を土木工事に頼る「土の城」から、石垣を駆使する「石の城」へと移行する、まさにその過渡期の姿を示すものとして、城郭史上、極めて重要な意味を持つ。
岡豊城は、伝統的な山城の縄張り思想を基盤としながらも、畿内から最新の建築技術を部分的に導入した「ハイブリッド城郭」であった。この事実は、元親が中央の先進文化に強い関心を持ちつつも、土佐の実情に合わせて技術を取捨選択し、巧みに導入した、現実的な為政者であったことを示唆している。
第四章:戦国期土佐における岡豊城の意義と比較
岡豊城の構造と思想は、同時代の他の城郭と比較することで、その独自性と歴史的意義が一層明確になる。それは、長宗我部氏という大名の出自と戦略を色濃く反映したものであった。
第一節:長宗我部氏の築城術の特徴と岡豊城の位置づけ
長宗我部氏の築城術の最大の特徴は、地形を徹底的に読み解き、土木技術を駆使して防御力を極限まで高める点にある。特に、斜面を無力化する畝状竪堀群や、敵兵を袋小路に追い込む枡形虎口は、彼らの戦術思想の結晶と言える
11
。土佐の一国人に過ぎなかった長宗我部氏が、山地での局地戦を繰り返しながら勢力を拡大していった過程で培われた、実践的なノウハウがそこには凝縮されている。
この築城術は、岡豊城をモデルケースとして体系化され、長宗我部氏の勢力拡大に伴い、彼らが侵攻・改修した四国各地の城にも適用された。例えば、讃岐の天王城跡などでは、長宗我部氏による改修の痕跡として、竪堀と堀切を組み合わせた防御施設が確認されており、彼らの築城術が一種の「軍事フォーマット」として伝播した可能性が指摘されている
26
。
第二節:四国の他の城郭との比較
岡豊城の特異性は、四国の他の有力大名の本拠地と比較することでより鮮明になる。
-
対三好氏(勝瑞城)
: 阿波国を拠点に畿内にも勢力を及ぼした三好氏の本拠・勝瑞城は、吉野川下流の低湿地帯に築かれた、広大な堀と土塁で囲まれた平城(居館)である
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。発掘調査では大規模な池泉庭園や会所跡が発見されており、軍事拠点であると同時に、高度な政治・文化の中心地としての性格が強かったことがわかる
29
。山岳での徹底した防御を追求した岡豊城とは、その立地選定と思想において実に対照的である。これは、室町幕府の重臣であった細川氏の被官から中央政権を窺う存在にまでなった三好氏と、土佐の在地領主から実力で成り上がった長宗我部氏という、両者の出自と統治形態の違いを反映している。
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対河野氏(湯築城)
: 伊予国を長く治めた守護大名・河野氏の湯築城は、道後温泉に隣接する丘陵に築かれた平山城である
31
。二重の堀と土塁で守られているが、石垣を持たない「土の城」であり、丘陵上の戦闘区域と麓の武家屋敷群が一体化している点で、岡豊城との類似点も見られる
33
。しかし、岡豊城に見られるような攻撃的で体系的な畝状竪堀群は確認されておらず、古くからの守護大名の居館として、より穏やかな性格を持つ。
-
織豊系城郭との差異
: 豊臣政権下で四国に築かれた城、例えば仙石秀久が改修した讃岐の引田城などは、高く急峻な石垣を多用する「織豊系城郭」の様式を色濃く示す
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。岡豊城は、こうした本格的な石垣の城が四国に広まる直前の、いわば「土の城」の最終進化形態として、日本の城郭史上に位置づけられるのである。
このように、城郭の構造は、城主である大名の出自、政治的立場、そして軍事戦略を映し出す鏡である。岡豊城の、他に類を見ないほどに徹底された防御機能は、長宗我部氏という大名の成り立ちそのものを物語っていると言えよう。
終章:史跡としての岡豊城 ― 保存と活用
長宗我部氏の栄華とともに歴史の表舞台から姿を消した岡豊城は、数世紀の時を経て、その歴史的価値を再発見され、現代にその姿を伝えている。
国史跡指定と岡豊山歴史公園としての整備
廃城後、山林や田畑となっていた岡豊城跡であったが、昭和初期に西田一族という地元の有志が私財を投じて植樹を行うなど、その保存に尽力したことが礎となっている
9
。その後、学術調査が進み、その重要性が広く認識されるようになった結果、平成20年(2008年)7月28日、城跡の一部が国指定史跡「岡豊城跡」となった
6
。
現在、城跡一帯は「岡豊山歴史公園」として整備されており、市民や観光客が自由に散策できる憩いの場となっている
8
。特に春には桜の名所として知られ、「岡豊山さくらまつり」が開催されるなど、地域に親しまれている
37
。また、その歴史的価値から、平成29年(2017年)には日本城郭協会により「続日本100名城」にも選定された
37
。
高知県立歴史民俗資料館の役割と展示内容
岡豊城跡の保存と活用において中核的な役割を担っているのが、城跡に立地する高知県立歴史民俗資料館である
2
。
-
常設展示
: 資料館の2階には「長宗我部展示室」が設けられ、岡豊城跡からの出土品(天正三年銘瓦、陶磁器、火縄銃弾など)や、長宗我部氏ゆかりの武具、古文書などが体系的に展示されている
25
。中央には阿波・中富川合戦における長宗我部軍の本陣が再現されており、来館者が戦国時代の雰囲気を体感できる工夫が凝らされている
25
。
-
教育普及活動
: 資料館は、岡豊城跡そのものを「野外博物館」として活用している。城内の各所に解説パネルを設置し、来館者が遺構の意味を理解しながら散策できるよう配慮している
43
。さらに、火おこし体験や甲冑の着用体験、城跡を探検する小中学生向けの学習プログラムなど、歴史と直接触れ合う多彩な教育普及活動を展開し、歴史学習の拠点となっている
43
。
-
地域振興への貢献
: 毎年5月には、全国から長宗我部ファンや歴史愛好家が集う「長宗我部フェス」が開催され、鉄砲隊の演武や歴史グッズの販売などで賑わう
45
。こうしたイベントの会場となることで、岡豊城跡は歴史遺産を核とした観光振興と地域活性化に大きく貢献している。
歴史遺産としての価値と現代における意義
岡豊城跡は、長宗我部氏一族の興亡の物語を刻み、土佐という一地域から四国全土を動かしたダイナミズムを今に伝える第一級の歴史遺産である。その縄張りは、戦国時代の「土の城」が到達した一つの極致を示し、同時に礎石建物や石積みの導入は、近世城郭へと移行する時代の変化を内包している。発掘された数多の遺物は、当時の人々の生活、経済、文化、そして世界とのつながりを鮮やかに描き出す。
史跡として保存され、博物館活動やイベントを通じて活用される岡豊城は、単なる過去の遺物ではない。それは、地域のアイデンティティを形成し、歴史を学び未来を考えるための貴重な教材であり、人々が集い交流する文化の拠点でもある。この類稀なる城郭を適切に保存し、その価値を次代に伝えていくことは、現代に生きる我々に課せられた重要な責務であると言えよう。
引用文献
-
岡豊城の見所と写真・1000人城主の評価(高知県南国市) - 攻城団
https://kojodan.jp/castle/359/
-
高知県立歴史民俗資料館/岡豊山 - こうち旅ネット
https://kochi-tabi.jp/model_course.html?id=12&detail=140
-
岡豊城跡 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/207413
-
岡豊城の駐車場やスタンプ、見どころ | やっちんのお城ブログ
https://okaneosiroblog.com/kouchi-okou-castle/
-
岡 豊 城 跡
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/12/12022/9356_2_%E5%B2%A1%E8%B1%8A%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf
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国史跡 岡豊城跡 - 南国市役所
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高知駅からバスで行ける、土佐の雄・長宗我部元親の岡豊城へ【日帰りモデルコース】 | トレたび
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国史跡岡豊城跡:四国エリア - おでかけガイド
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岡豊城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN
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国史跡・岡豊城跡 - 高知県立歴史民俗資料館
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岡 豊 城 跡 Ⅲ - 高知県立埋蔵文化財センター
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岡豊城跡散策|高知県立歴史民俗資料館
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【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生 ...
https://shirobito.jp/article/1562
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(長宗我部元親と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城
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【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと
https://shirobito.jp/article/1577
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長宗我部元親、四国に蓋をする!~織田信長が瞠目した怒涛の進撃 | PHPオンライン
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遺跡情報「岡豊城跡」 | 公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター
https://www.kochi-maibun.jp/kochi_prefecture_historical_ruins_detail7.html
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180.岡豊城 その1 – 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 ...
https://jpcastles200.com/2022/03/20/180okoh01/
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気ままにぶらっと城跡へ㉘岡豊城へ行ってきた
https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/kimamaniburatto-28-okoujo
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浦戸城
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土佐の「宝物」と長宗我部家の栄光<高知県>(2)|高知県|たび ...
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岡豊城の写真:縄張り図[ぴんぞうさん] - 攻城団
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長宗我部展示室 - 高知県立歴史民俗資料館
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香 川 県 の 中 世 城 館 ~讃岐武士の足跡をたずねて~
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国指定史跡 勝瑞城館跡 - 徳島県 藍住町教育委員会 社会教育課
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【理文先生のお城がっこう】歴史編 第32回 四国の城1(細川氏と勝瑞(しょうずい)城) - 城びと
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阿波 勝瑞城 阿波三好氏の本拠点と三好長治の最期 - 久太郎の戦国城めぐり
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勝瑞城 - Wikipedia
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見るだけじゃもったいない!四国のお城を巡って歴史をリアルに体験(丸亀城、松山城、高知城、大洲城ほか) - ツーリズム四国
https://shikoku-tourism.com/feature/castle_and_more/castle_and_more
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国史跡 道後公園湯築城跡 The Ruin of Yuzukijo-Castle Site (Dogo Kouen Park)
https://dogokouen.jp/yuzukijoato/
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湯築城 - KemaAkeの全国城めぐり
https://kemaake.com/c_shikoku/c_yuzuki.html
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【愛媛】松山市にもうひとつある100名城 道後公園 湯築城跡へ - おでかけ ももよろず
https://www.momoyorozu.net/entry/2020/12/08/152920
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【中国・四国編】必見のお城をピックアップ!日本100名城・続日本100名城の見どころガイド
https://shirobito.jp/article/1190
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史琳岡望城琳保存管理計働書 - 全国遺跡報告総覧
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高知県立歴史民俗資料館
https://monobegawa.com/tourist-spot/653
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岡豊城(高知県南国市)の登城の前に知っておきたい歴史・地理・文化ガイド - note
https://note.com/digitaljokers/n/n5d7a8e169656
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高知県立歴史民俗資料館
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高知県立歴史民俗資料館 | 観光スポット検索 - こうち旅ネット
https://kochi-tabi.jp/search_spot.html?id=49
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高知県立歴史民俗資料館
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高知県立歴史民俗資料館 - 南国市観光協会
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学校関係の皆さまへ - 高知県立歴史民俗資料館
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歴民館について - 高知県立歴史民俗資料館
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第15回長宗我部フェス - 南国市観光協会
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