最終更新日 2025-08-25

岩出山城

奥州の要衝、岩出山城は氏家氏が築き、伊達政宗が本拠とした。葛西大崎一揆後の懲罰的移封で入城し、内川開削など近世大名としての礎を築いた。

奥州の要衝・岩出山城の全史:戦国末期の動乱から仙台藩の礎へ

序章:奥州の要衝、岩出山城の歴史的座標

陸奥国玉造郡、現在の宮城県大崎市にその痕跡を留める岩出山城は、単なる一地方の城郭ではない。この城は、北羽前街道と羽後街道が交わる交通の結節点に位置し、古くから地政学的な重要性を有していた 1 。その歴史は、室町時代の奥州探題大崎氏の栄枯盛衰、戦国末期の天下統一の奔流、そして「独眼竜」伊達政宗の苦悩と飛躍、さらには近世大名としての仙台藩成立に至るまでの壮大な歴史的プロセスを映し出す、まさに「鏡」のような存在である。

本報告書は、戦国時代という視点を主軸に据え、岩出山城が辿った約600年の軌跡を徹底的に解明するものである。前身である「岩手沢城」の時代から、政宗の本拠地としての絶頂期、そして仙台藩の要害としての役割を経て、現代の史跡公園に至るまでの変遷を多角的に分析し、この城が日本の歴史、特に東北地方の戦国史において果たした本質的な意義を明らかにする。

表1:岩出山城 略年表

年代(和暦・西暦)

出来事

城の名称・役割

主要関連人物

応永年間 (1394-1428)

氏家直益により築城される 1

岩手沢城(大崎氏家臣氏家氏の居城)

氏家直益、大崎氏

天正年間 (1573-1592)

大崎氏の内乱が激化。氏家氏が主家と対立し、伊達政宗の介入を招く 4

岩手沢城(半独立勢力の拠点)

氏家吉継、大崎義隆、伊達政宗

天正18年 (1590)

豊臣秀吉の奥州仕置により大崎氏が改易。木村吉清の所領となる 2

岩手沢城(木村氏家臣の居城)

豊臣秀吉、木村吉清

天正19年 (1591)

葛西大崎一揆後、伊達政宗が米沢より移封。徳川家康が縄張りを行う 7

岩出山城(伊達政宗の本拠)

伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康

慶長8年 (1603)

政宗が仙台城へ移る。四男・宗泰が城主となり、岩出山伊達家が成立 9

岩出山要害(岩出山伊達家の居城)

伊達宗泰

明治元年 (1868)

戊辰戦争後、廃城。岩出山伊達家は北海道へ移住 1

(廃城)

伊達邦直

昭和39年 (1964)

仙台城跡より伊達政宗平和像が移設される 3

城山公園

-

第一章:岩手沢城の黎明 ― 大崎氏家臣・氏家氏の時代

1.1 築城と氏家氏の出自

岩出山城の歴史は、室町時代初期の応永年間(1394-1428年)に、その前身である「岩手沢城」として築かれたことに始まる 1 。築城主は氏家直益と伝えられる 1 。氏家氏は、単なる土着の豪族ではない。その出自は藤原北家宇都宮氏の一族に遡り、南北朝の動乱期に北朝方の斯波氏(後の大崎氏の祖)に従って奥州へ下向し、この地に根を下ろした由緒ある家柄であった 12 。この事実は、彼らが中央の権威と結びつき、奥州の支配層として確固たる地位を築いていたことを示唆している。

1.2 奥州探題大崎氏の執事として

氏家氏は、室町幕府によって奥州の最高権力者として任じられた奥州探題・大崎氏の「執事」という重職を世襲し、家中で絶大な影響力を行使した 4 。彼らは主家の権威を背景に勢力を拡大し、岩手沢城を拠点として玉造郡一帯に支配を及ぼした。しかし、戦国時代の到来と共に中央の権威は失墜し、大崎氏の統制力にも陰りが見え始めると、氏家氏と大崎氏の関係は単純な主従関係ではあり続けられなくなる 14

1.3 主家との相克 ― 戦国期における自立と葛藤

戦国時代に入ると、氏家氏は主家である大崎氏の意向を無視し、自家の存続と利益のために独自の行動を繰り返すようになる。例えば、主家に反旗を翻した新田頼遠に加担して伊達稙宗の軍勢と対峙したかと思えば 13 、後にはその新田氏と不和になり、あろうことか主家を飛び越えて伊達政宗に直接援軍を要請するなど、巧みな外交戦略を展開した 13

この傾向は天正年間に頂点に達する。大崎氏内部で当主・大崎義隆の寵臣を巡る対立が激化すると(大崎内乱)、執事であった氏家吉継は反主流派の旗頭として公然と主君に反抗した 4 。この内紛を好機と見た伊達政宗が氏家氏救援を名目に大崎領へ侵攻(大崎合戦)、大崎氏は滅亡の淵に立たされることとなる 5

これらの史実は、岩手沢城が単に大崎氏の支配下にある一城塞ではなく、大崎氏の内部崩壊を象徴する、半独立勢力・氏家氏の拠点であったことを物語っている。氏家氏の自立的な動きと主家への反抗は、大崎氏の統制力がもはや名目上のものに過ぎなかったことを如実に示している。この内部の脆弱性こそが、後の豊臣秀吉による奥州仕置の際に大崎氏が有効な抵抗を組織できずに改易され、その後の葛西大崎一揆という大混乱を招く直接的な遠因となったのである。

第二章:奥州仕置と葛西大崎一揆 ― 政宗入部の政治的背景

2.1 天下人の介入と大崎氏の没落

天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、小田原征伐への参陣を命じた。しかし、長年の内紛で疲弊し、中央の情勢を見誤った大崎義隆はこれに応じなかった 6 。その結果、秀吉による奥州仕置において大崎氏は改易され、数百年にわたる名門の歴史はここに幕を閉じた 2 。主家を失った氏家氏もまた、所領を没収され、歴史の表舞台から姿を消すこととなる 2

大崎氏の旧領は、秀吉の側近であった木村吉清に与えられた 16 。岩手沢城には木村氏の家臣・萩田三右衛門が城主として入ったが 2 、新たな支配者の到来は、この地に更なる混乱をもたらすことになる。

2.2 葛西大崎一揆の真相と政宗の嫌疑

木村吉清は、太閤検地を強行するなど急進的な統治を進めたため、これに反発した葛西・大崎両氏の旧臣たちが大規模な一揆を蜂起させた(葛西大崎一揆) 2 。一揆勢は木村父子を佐沼城に追い詰め、旧領は支配不能の状態に陥った 17

この鎮圧を命じられたのが、会津の蒲生氏郷と、隣接する伊達政宗であった。しかし、共同で鎮圧にあたる中、氏郷は「一揆は政宗が裏で扇動している」との密告を受け、これを秀吉に報告した 17 。奥州の覇権を狙う政宗にとって、この嫌疑は致命的であった。政宗は弁明のため急ぎ上洛し、白の死装束をまとって秀吉の前に進み出ることで、かろうじて許しを得た 18 。しかし、この一件は豊臣政権の政宗に対する深い不信感を決定づけ、彼のその後の運命に大きな影を落とすことになる。

2.3 懲罰的移封 ― 徳川家康の裁定と岩手沢城の選定

一揆鎮圧後、政宗には厳しい裁定が下された。一揆扇動の嫌疑に対する懲罰として、伊達家先祖伝来の地である米沢、長井、伊達、信夫などの主要な領地を召し上げられ、代わりに一揆によって荒廃した葛西・大崎の旧領を与えられるという、事実上の減転封であった 8

この時、秀吉の代理として奥州の仕置を差配し、政宗の新たな居城として岩手沢城を選定、そしてその改修(縄張り)までを指示した人物こそ、徳川家康であった 7 。家康は家臣の榊原康政に命じて城の改築を行わせ、失意の政宗に引き渡したのである 22

政宗の岩出山への移封は、単なる懲罰ではなかった。それは、豊臣政権による「伊達政宗封じ込め」という明確な政策的意図と、それを利用して政宗との間に恩義を築こうとする徳川家康の深謀遠慮が交差した、高度な政治的産物であった。家康は、秀吉の意向(政宗の弱体化)を忠実に実行する代理人として振る舞いつつも、城の選定と改修に自ら深く関与することで、窮地に陥った政宗に対して庇護の意を示した。これは、将来の天下を見据え、若き独眼竜を自らの影響下に置こうとする家康の、実に巧みな布石であった。この岩出山で生まれた家康との「貸し」は、後の関ヶ原の戦いにおいて政宗が東軍に与する重要な動機の一つとなっていくのである。

第三章:独眼竜の北方拠点 ― 伊達政宗の岩出山時代

3.1 「岩出山」の誕生と城郭の大改修

天正19年(1591年)9月、伊達政宗は累代の本拠地であった米沢城を後にし、新たな領地へと移った 8 。彼はこの地の名を「岩手沢」から「岩出山」へと改め、城もまた「岩出山城」と改称した 8 。これは、過去との決別と、新領地における自らの治世の始まりを内外に宣言する、強い意志の表れであった。

徳川家康の縄張り指示に基づき、中世的な山城であった岩手沢城は、近世大名の本拠地としてふさわしい城郭へと大規模な改修が施された 7 。山上には土塁や空堀といった防御施設が強化され、南麓には政務を執り行う屋敷群が展開するなど、戦国乱世の気風を残しつつも、新たな時代への移行を予感させる過渡的な構造を持つ城へと生まれ変わったのである 24

3.2 城郭の構造と防御機能 ― 発掘調査の成果を交えて

岩出山城は、江合川南岸に位置する標高108メートルの独立丘陵に築かれた典型的な山城である 1 。縄張りは、丘陵の尾根筋に本丸、二の丸、三の丸を直線的に配置した連郭式を基本とする 24

城の防御は、自然地形を巧みに利用しつつ、人工的な施設で強化されていた。本丸は東西32メートル、南北205メートルに及ぶ広大な曲輪で、周囲を土塁で固めていた 2 。城の各所には敵の侵攻を阻むための空堀や、尾根伝いの進軍を遮断する堀切が効果的に設けられていた 9 。特に城の北側に残る大規模な空堀は、当時の面影を色濃く残す遺構として知られている 1

近年の発掘調査は、こうした城の構造を裏付ける貴重な物証を提供している。2023年に発表された調査では、二の丸南東隅において、江戸中期の絵図とほぼ同じ位置と形状を持つ大規模な堀跡が発見された 7 。この堀は上幅が4.9メートル以上、深さは最大で3.1メートルに達する堅固なものであった。さらに、この堀に接続し、城内の雨水を排出するための「落堀」と考えられる溝跡も確認された 7 。これらの発見は、岩出山城の防御機能と水利システムが、極めて計画的に設計・構築されていたことを明確に示している。

3.3 城下町の形成と内川の開削 ― 軍事・経済・民政の融合

政宗は城郭の整備と並行して、城下町の建設にも精力的に取り組んだ。彼は米沢から信頼する家臣団や商人、職人たちを移住させ、城の麓に新たな町を形成した 1

この城下町整備事業の白眉と言えるのが、人工用水路「内川」の開削である 27 。江合川から取水したこの水路は、城下町を巧みに巡るように設計されていた。内川の役割は多岐にわたる。第一に、城の南側を防御する外堀としての軍事機能 27 。第二に、周辺の水田を潤す灌漑機能 30 。第三に、木材を流す筏流しや水車の動力源としての経済機能 27 。そして第四に、町の人々の生活を支える用水としての民政機能である 27 。このように、軍事、経済、民政という複数の目的を一つの社会基盤に統合する発想は、当時としては画期的なものであった。

3.4 新領国の経営と天下人への対応 ― 仙台藩の礎を築いた12年

岩出山は、葛西大崎一揆で疲弊し、人心も離反していた新領国を統治するための司令塔であった 31 。政宗はこの城を拠点として、家臣団への知行地の再配分(知行割)や、領内の石高を正確に把握するための検地を断行し、支配体制の基礎を固めていった 32

同時に、中央政権との緊張関係にも対応しなければならなかった。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際には、岩出山から3,000の軍勢を率いて参陣するための準備を進めている 8 。この岩出山での12年間は、政宗にとって単なる雌伏の期間ではなかった。それは、彼が戦国武将としての武勇だけでなく、近世大名としての統治能力を実践的に磨き上げ、後の仙台藩62万石の巨大な領国経営の礎を築いた、極めて重要な「実験」の期間だったのである。特に内川の開削に象徴される、軍事・経済・民政を一体化した総合的な地域開発の手法は、この地で試行され、その成功体験が後の仙台城下や北上川流域における、より大規模な開発事業へと繋がっていった。岩出山は、政宗が単なる戦国の覇者から、近世的な領国経営者へと見事に脱皮を遂げた、揺籃の地であったと言える。

第四章:仙台開府と岩出山伊達家の成立

4.1 仙台への飛躍と岩出山城の役割転換

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、政宗は新たな時代の到来を確信し、次なる飛躍への一歩を踏み出す。慶長6年(1601年)、彼は徳川家康の許しを得て、宮城郡の千代に新たな城、すなわち仙台城(青葉城)の築城を開始し、慶長8年(1603年)に本拠を正式に移した 9

この移転には複数の理由があった。第一に、岩出山は豊臣政権によって懲罰的に与えられた土地であり、政宗にとって必ずしも本意の地ではなかったこと 34 。第二に、関ヶ原の戦いの論功行賞で加増された領地を含めると、岩出山は新たな伊達領の北西に偏りすぎており、統治の中心としては不便であったこと 34 。そして何よりも、広大な仙台平野と良港(後の石巻港)を擁する仙台が、大規模な城下町の建設と経済発展、そして江戸との交易を見据えた上で、圧倒的に優位な立地であったためである 31

4.2 仙台藩一門「岩出山伊達家」の誕生と要害としての城

本拠を仙台に移した後も、政宗は岩出山の戦略的価値を軽視しなかった。彼は四男の宗泰に岩出山城と1万5千石の所領を与え、この地の守りを託した 9 。これが、仙台藩の藩主一族の中でも最高の家格である「一門」の第八席、岩出山伊達家の始まりである 35

江戸幕府が発布した一国一城令により、原則として大名の居城以外の城は破却されることになった。しかし、岩出山城は仙台藩の支城である「要害」として、その存続を特別に許された 3 。以後、岩出山伊達家は代々この要害の主として、仙台藩北方の軍事的な守りと行政を担うという重要な役割を果たし続けることになる 36

この岩出山城の「要害」への転換と岩出山伊達家の配置は、仙台藩の安定統治を実現するための、政宗による巧妙な重層的支配構造の構築を意味する。彼は、かつて自らが本拠とした戦略的重要地に信頼できる実子を配置することで、広大な領国を中央(仙台)と支城(要害)で分担統治する体制を確立した。これは、戦国時代の武力による直接支配から、近世的な封建統治システムへと移行していく過程を象AINする、極めて重要な制度設計であった。

4.3 学問の府「有備館」の源流

岩出山は、武の拠点であると同時に、文の拠点としても発展していく。岩出山伊達家二代当主・宗敏の時代、寛文3年(1663年)に城の二の丸にあった居館が火災で焼失した 11 。その後、宗敏が隠居所として麓に建てた瀟洒な建物が、後の学問所「有備館」の母体となる 6

この建物は、やがて岩出山伊達家中の子弟を教育するための郷学(学問所)として整備され、仙台藩の文教政策の一翼を担うことになる 21 。岩出山が、単なる軍事拠点から、地域の文化・教育の中心地へと成熟していく過程がここに見られる。

第五章:要害から史跡へ ― 江戸時代から現代への変遷

5.1 幕末・維新の動乱と廃城

江戸時代を通じて仙台藩北方の要として存続した岩出山城であったが、明治維新の動乱はその運命を大きく変える。明治元年(1868年)、戊辰戦争において仙台藩が奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦い、敗北したことで、岩出山伊達家もまた苦難の道を歩むことになった 2

第10代当主・伊達邦直は、敗戦に伴い所領を没収されると、家臣団とその家族を率いて北海道開拓に活路を求めることを決意する 36 。彼らは蝦夷地へ渡り、石狩国当別(現在の北海道当別町)の開拓に従事した 24

主を失った岩出山城は同年に廃城となり、その歴史的役割を終えた 2 。城内に残されていた建造物の多くは民間に払い下げられたが、そのほとんどは明治9年(1876年)に発生した町の大火によって焼失してしまったと伝えられている 2

5.2 城跡の変容と城山公園としての再生

廃城後、かつての城郭は岩出山小学校や岩出山高等学校の敷地となるなど、その姿を大きく変えていった 39 。やがて、地域住民の憩いの場として親しまれるようになり、現在は「城山公園」として整備されている 9 。春には多くの桜が咲き誇り、市民の花見の名所となっている 1

5.3 遺構と石碑が語る歴史の重層性

公園として整備された現在も、城跡には往時を偲ばせる数々の遺構が残されている。曲輪の平坦な地形、高くそびえる土塁、深く刻まれた空堀、そして内門跡などが、ここがかつて堅固な城塞であったことを雄弁に物語っている 1

城跡の最も象徴的な存在が、本丸跡近くに立つ伊達政宗のコンクリート像(平和像)である 3 。この像は、もともと仙台城跡に建てられていた二代目の政宗像であった。太平洋戦争中の金属類回収令によって初代の騎馬像が供出された後、その代わりとして1954年に製作されたものである 3 。昭和39年(1964年)、仙台城に現在の勇壮な騎馬像が再建された際に、この平和像が岩出山の地に移設された 3

この移設は、単なる像の移動以上の意味を持つ。明治維新による廃城と岩出山伊達家の移住は、江戸時代まで続いてきた城の歴史の物理的な「断絶」を意味した。しかし、戦後、城跡が公園として再生される中で、仙台城から政宗像を譲り受けるという行為は、地域の人々が「伊達政宗が礎を築いた城」という記憶を拠り所に、近代以降の新たなアイデンティティとして歴史を再発見し、「再接続」しようとした試みの現れである。これにより、岩出山城跡は単なる過去の遺構ではなく、政宗の記憶を通じて現代の地域文化と結びついた、生きている史跡としての新たな役割を担うことになったのである。

城跡にはこのほか、地元出身の女流剣士・園部秀雄の顕彰碑なども建立されており 9 、麓には国の史跡・名勝である「旧有備館及び庭園」が美しい姿を保っている 21 。これらは、岩出山の歴史が幾重にも積み重なった重層的なものであることを示している。

終章:戦国史における岩出山城の歴史的意義

岩出山城の歴史は、その時々の権力者の動向と時代の要請によって、その役割を劇的に変え続けた変転の歴史であった。

氏家氏が治めた「岩手沢城」の時代、それは戦国末期の奥州における地方権力の自立と、主家である大崎氏の内部崩壊を象徴する城であった。その内部分裂が、結果的に天下統一の波に抗う術を失わせる要因となった。

伊達政宗が治めた「岩出山城」の時代、それは豊臣・徳川という中央の巨大権力の狭間で翻弄されながらも、政宗が逆境を乗り越え、近世大名としての卓越した経営手腕を磨き、後の仙台藩62万石の礎を築いた揺籃の地であった。内川の開削に代表される総合的な都市計画は、彼の統治者としての非凡な才能を証明している。

そして、岩出山伊達家が治めた「岩出山要害」の時代、それは仙台藩の安定を支える重層的支配体制の一翼を担う拠点として、近世を通じて重要な役割を果たした。

結論として、岩出山城は、伊達政宗個人の歴史における重要な転換点であったのみならず、奥州という広大な地域が戦国の動乱から近世の安定した秩序へと移行していく、激動の時代そのものを凝縮した、類いまれな歴史遺産である。その城跡に立つとき、我々は一人の英雄の物語だけでなく、時代の大きなうねりの中で生きた人々の営みと、日本の歴史が大きく転換した瞬間の息吹を感じ取ることができるのである。

引用文献

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