最終更新日 2025-08-18

府内城

豊後の府内城は、豊臣・徳川の権力移行期に築かれ、海城として兵站・統治の要を担う。度重なる災禍で姿を変えるも、その石垣は時代の変遷を物語る。現代に再生し、歴史を伝える象徴となる。

府内城:豊臣・徳川の権力移行を体現する豊後の海城

序章:豊後の新たな中心 ― 府内城、時代の転換点に立つ

本報告書は、豊後国府内(現在の大分県大分市)に築かれた府内城の全貌を、特にその誕生の背景となった戦国時代末期の動乱期に焦点を当てて解明するものである。府内城は、単なる一地方の城郭としてではなく、豊臣政権から徳川幕府へと移行する日本の中心的な政治力学が、九州という戦略的要衝で具現化した象徴的な存在として位置づけられる 1 。その歴史は、築城から現代に至るまで、政争、天災、そして戦争という時代の荒波に翻弄され続けた、日本の近世史の縮図とも言える。

府内城は、その歴史の中で複数の名称で呼ばれてきた。公式には「府内城」または「大分府内城」として知られるが 3 、築城当初は「荷揚城(にあげじょう)」と命名された。これは、築城地の旧名が「荷落(におろし)」であったため、武将にとって不吉な「落」の字を嫌った初代城主・福原直高が、縁起を担いで改名したことに由来する 1 。また、白漆喰で塗り固められた壁が広大な水堀に浮かぶように見えたその優美な姿から、「白雉城(はくちじょう)」という雅称も持つ 3 。城郭の分類としては、平地に築かれた「平城」であり、北側が直接海に面していたことから、物資輸送や海上防衛に有利な「海城」としての性格を色濃く有していた 3 。縄張(城郭の設計・配置)は、本丸を中心に郭を段階的に配置する「梯郭式」が採用されている 9 。その歴史的価値は現代においても高く評価されており、公益財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」(94番)の一つに選定されている 3

府内城の誕生を理解するためには、その前史、すなわち大友氏の時代の府内を振り返る必要がある。府内城が築かれる以前、この地は九州六ヶ国を支配した戦国大名・大友宗麟の本拠地「府内」として栄華を極めていた 10 。大友氏の居館(大友氏館)を中心とした城下町は、南蛮貿易の拠点として国際的な賑わいを見せたが、天正14年(1586年)の島津氏の侵攻によってその大半が焼き払われた 12 。その後、文禄2年(1593年)、大友氏22代当主の吉統が文禄の役における失態を理由に豊臣秀吉によって改易されると、400年にわたる大友氏の豊後支配は終焉を迎える 14 。これにより、豊後の地は豊臣政権の直接的な管理下に置かれ、旧来の支配体制に代わる新たな権力の拠点を築くことが急務となった。府内城の築城計画は、まさにこの九州における権力構造の再編という、日本の歴史が大きく動く文脈の中で始動したのである。

第一章:築城の政治的背景 ― 二人の城主と中央政権の影

府内城の歴史は、単なる地方城郭の建設物語ではない。それは、関ヶ原の戦いを目前に控えた豊臣政権内部の熾烈な権力闘争が、建築という形で現れた最前線であった。城の創築者と完成者が、それぞれ対立する政治陣営に深く関わっていたという事実は、この城の成り立ちそのものが日本の歴史の大きな転換点を象徴していることを雄弁に物語っている。

第一節:創築者・福原直高 ― 石田三成派の九州における拠点構築

府内城の創築者である福原直高(長堯とも記される)は、豊臣秀吉の小姓頭を務めた側近であり、それ以上に重要なのは、豊臣政権の五奉行筆頭であった石田三成の妹を正室に迎えた義弟という立場にあったことである 1 。この三成との強固な姻戚関係こそが、彼の経歴と府内城築城の背景を理解する上で決定的な鍵となる。

直高が府内12万石の領主として入封し、築城を開始したのは慶長2年(1597年)のことである 5 。この時期は、二度目の朝鮮出兵である慶長の役の最中であった。直高自身も軍監(目付)として朝鮮に渡っており、諸将の監視と中央への報告という重要な役割を担っていた 16 。このことからも、府内への入封と新城建設は、単なる加増ではなく、豊臣政権、特に三成ら吏僚派(文治派)の明確な戦略的意図に基づいていたことがわかる。すなわち、朝鮮半島への重要な兵站基地としての機能を確保すると同時に、九州の武断派大名たちを牽制し、中央集権体制を強化するための拠点構築であった。直高は、中世以来の守護館であった大友氏館を廃し、大分川の河口に位置する「荷落」と呼ばれた地に、石垣と天守を持つ全く新しい近世城郭の建設に着手した 5

築城工事は約2年の歳月を費やし、慶長4年(1599年)には本丸、二の丸、三の丸が完成するに至った 5 。しかし、まさに時を同じくして、中央政界では激震が走る。加藤清正ら七将が石田三成を襲撃する事件が発生し、三成は奉行職を解かれ、佐和山城へ蟄居させられたのである。この中央における三成派の失脚は、即座に九州の直高の運命にも影を落とした。三成との強固な結びつきが仇となり、直高は「新城建設の際に領民を酷使した」「軍功もないのに領地が倍増した」といった表向きの理由を付けられ、府内領6万石を没収されるという形で事実上の減封処分を受けた 1 。彼の失脚が、統治能力の問題ではなく、中央の政争に連座した結果であることは明白であった。その後、直高は関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗戦後の慶長5年(1600年)、伊勢朝熊山にて自刃し、その生涯を閉じた 17

このように、府内城の築城は、純粋な領国経営や地域防衛を主目的としたものではなかった。それは豊臣政権末期、徳川家康ら武断派に対抗し、中央集権化を推し進めようとした石田三成派閥の権力基盤を、九州という戦略的要地に確立するための、極めて政治的なプロジェクトであった。城の運命は、創築者である直高の運命と同様に、関ヶ原へと至る中央政権の動向に完全に翻弄されたのである。これが、城の初期の歴史において城主が目まぐるしく交代する根本的な原因となった。

第二節:完成者・竹中重利 ― 徳川体制下での城郭の完成

福原直高の失脚後、府内城の歴史は新たな局面を迎える。その主役となったのが、竹中重利である。彼は、秀吉の天下取りを支えた名軍師・竹中半兵衛重治の縁者(従弟または甥)であり、豊臣恩顧の大名の一人であった 1 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属し、丹後田辺城攻めなどに兵を派遣していたが、旧知の仲であった黒田如水(官兵衛)の説得に応じ、戦いの途中で東軍に寝返るという大きな決断を下した 22 。この転向が功を奏し、戦後、新たな天下人となった徳川家康から所領を安堵され、慶長6年(1601年)、豊後府内2万石の領主として、未完の城に入封したのである 25

重利は、家康の正式な許可を得て、福原直高が築いた城の大規模な改修・増築事業に着手した 1 。この普請は、単なる未完成部分の工事に留まらなかった。重利は、大坂や伏見から大工や瓦師を招聘し、さらに特筆すべきことに、築城の名手として全国に名を轟かせていた熊本城主・加藤清正から、配下の石工を数十人派遣してもらうという、当時の最先端技術を結集した一大プロジェクトであった 1

この大改修を経て、慶長7年(1602年)、府内城は四層の壮麗な天守を含む壮大な城郭として、その全容を現した 5 。重利の功績は城郭本体に留まらない。彼は商船の出入りのために港「京泊」を整備し、城下町を南北九町、東西十町の碁盤の目状に区画するなど、近世城下町としての府内の基礎を築き上げた 5 。この結果、府内城は熊本城、福岡城、小倉城に次ぐ二十三もの櫓数を誇る、九州でも有数の規模を持つ城郭へと変貌を遂げたのである 1

府内城の完成に至るプロセスは、豊臣から徳川へと権力が移行する時代の様相を、建築史的に体現している。福原直高(石田三成派)が基礎を築き、竹中重利(元豊臣系だが徳川方へ転向)が完成させたという事実は、城の建設が政権交代期をまたいで行われたことを示している 1 。特に注目すべきは、加藤清正の技術協力である。清正は、かつて三成を襲撃した七将の一人であり、三成派の福原とは明確な敵対関係にあった。その清正配下の石工集団が、福原が始めた城の完成に携わるという協力関係は、旧来の敵対関係が清算され、徳川の新たな秩序の下で再編された新時代でなければあり得なかった。重利が家康の「許可を得て」増築したという記録は 5 、この城の完成が徳川幕府の公的な承認の下で行われたことを意味し、もはや豊臣家の私的な城ではないことを明確に示している。府内城の石垣や櫓は、単なる建築物ではなく、政治的対立の終焉と新秩序の確立を物語る歴史の証人なのである。城は豊臣的な壮大さの構想に始まり、徳川的な実用性と統制の下で完成した、まさに時代のハイブリッドとも言うべき性格を持つに至った。

第二章:海城の構造と設計思想 ― 防御・兵站・統治の融合

府内城の物理的な構造は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての日本の築城技術の粋を集めたものであった。特に、海を最大限に活用する「海城」としての機能と、中央政権の威光を示す「豊臣系城郭」としての性格が融合している点に、その本質的な特徴を見出すことができる。

第一節:縄張の妙 ― 海と川を利用した梯郭式平城

府内城の縄張(城全体の設計)は、その立地を巧みに利用した、極めて戦略的なものであった。城郭の基本構造は、中心に本丸を置き、その西側に西丸、東側に東丸(これらを合わせて二の丸と総称)、さらにその外周を三の丸が取り囲む「梯郭式」と呼ばれる配置であった 10 。この配置は、本丸への侵攻ルートを限定し、段階的な防御を可能にするものである。

しかし、府内城の真の強みは、自然地形を味方につけた点にある。城の北側は直接海に面し、東は当時広大な河口を有していた大分川、西は住吉川に挟まれており、三方が水に囲まれた天然の要害を形成していた 7 。この立地により、陸路からの攻撃を南側の一方向に集中させることができ、防御効率を飛躍的に高めていた。

城を三重に巡らされた広大な水堀は、この防御思想をさらに強固なものにしていた。この堀は単なる障害物ではなく、城内に物資を直接船で運び込むための運河としても機能した。特に、城の北西に設けられた港「京泊」は、海運を前提とした兵站拠点としての城の性格を明確に示している 5 。有事の際には、海から直接、兵員や兵糧を城内に補給することが可能であり、籠城戦において絶大な威力を発揮する設計であった。

城の玄関口である大手門は、石垣の上に長屋状の櫓を渡した「多聞櫓門」形式であり、門前に設けられた方形の空間「枡形」と連動して、侵入してきた敵を三方から攻撃できる強固な構造であった 22 。さらに、城内には最盛期には二十三もの櫓が林立し、城の隅々まで死角のない、鉄壁の防御体制を構築していたのである 1

第二節:天守と櫓群 ― 権威の象徴と実戦の拠点

竹中重利によって慶長7年(1602年)に完成した天守は、府内城の象徴であり、藩主の権威を示す壮大な建造物であった。複数の史料から、それは四層の天守であったと記録されている 5 。江戸時代初期の絵図『府内絵図』(慶長10年、1605年)には、「天守・四重」「高さ 水ヨリ上棟瓦マテ・十六間半」と記され、一階部分の平面規模は七間×八間(約14m × 16m)であったことがわかる 30 。その構造については、創建当初は下見板張りの古風な「望楼型」であり、後に総白漆喰塗籠の「層塔型」に改築された可能性も研究者によって指摘されている 9 。いずれにせよ、この天守は城下町のどこからでも仰ぎ見ることができ、領民に対して藩主の威光を示す絶大な効果を持っていた。しかし、この壮麗な天守は、寛保3年(1743年)の大火によって惜しくも焼失し、府内藩の厳しい財政状況から、その後二度と再建されることはなかった 5

現在、府内城には江戸時代の姿を伝える二基の櫓が現存しており、いずれも府内城の建築様式の特異性を示している。

西丸に建つ「宗門櫓(しゅうもんやぐら)」は、安政6年(1859年)に再建された建造物である 5。この櫓の最大の特徴は、城の外(堀側)から見ると一層の平櫓に見えるが、城内側から見ると二層の二重櫓に見えるという点である 5。これは、平地に石垣を築く際に、櫓を建てるための特別な土台(櫓台)を設けず、石垣そのものを建物の基礎とし、城内側の地面が低いことを利用して地階を設けたことによる、府内城独特の工法である 5。

本丸の北西隅に建つ「人質櫓(ひとじちやぐら)」は、文久元年(1861年)に再建された二重櫓である 5。その名の由来は定かではないが、隅部には石垣を登る敵を攻撃するための「石落とし」が設けられており、実戦的な機能を備えている 10。これら二基の櫓は、幕末期に再建されたものでありながら、創建当初の規模や工法を忠実に引き継いでいると考えられており、府内城の建築技術を知る上で極めて貴重な遺構である 5。

これら現存建造物の他に、戦災で失われた後に復元された建造物群も、現在の城の景観を形作っている。大手門(多聞櫓門)や着到櫓、西丸西南隅櫓などは、昭和20年(1945年)の大分空襲で焼失した後、昭和40年(1965年)に鉄筋コンクリート造りで外観が復元された 1 。一方、西丸と、かつて茶の湯などが催された山里丸とを結んでいた「廊下橋」は、平成8年(1996年)に古絵図などの史料に基づいて木造で忠実に復元されており、文化財復元に対する考え方の時代の変遷をも示している 26

第三節:石垣と普請 ― 豊臣系城郭の技術的特徴

府内城の堅固な防御と威容を支えているのが、壮大な石垣である。その普請(土木工事)には、海城ならではの工夫と、豊臣政権下で飛躍的に発展した築城技術が見て取れる。

石垣に用いられた主たる石材は、近隣の高崎山周辺で産出される角閃石安山岩であった 37 。特筆すべきは、その輸送方法である。福原直高は、領内の舟だけでなく、府内を訪れる他国の商船にも石材の運搬を命じたと記録されており、海運を最大限に活用した効率的な資材調達を行っていた 5 。実際に、現存する石垣の中には、海の波によって角が丸くなったと思われる石も見受けられ、この城が海と共に築かれたことを物語る動かぬ証拠となっている 37

その石垣を組み上げたのは、当代最高の技術者集団であった。竹中重利が加藤清正から借り受けた石工たちは、熊本城の築城にも携わった熟練の職人たちであり、彼らの技術が府内城の堅固な石垣を築き上げた 1 。石垣の積み方は、自然石をあまり加工せずに巧みに組み合わせる「野面積み」を基本としている 38 。これは一見、粗雑に見えるが、排水性に優れ、地震の揺れを吸収する効果もある実戦的な工法であり、織田・豊臣政権下で急速に発達した、戦国時代末期の城郭の典型的な特徴である。廊下橋の復元工事に伴う発掘調査で発見され、現在も見学できるように整備されている「慶長の石垣」は、築城当初の野趣あふれる石垣の姿を今に伝えている 3

一方で、この大規模な築城工事は、多大な困難を伴ったことも伝えられている。特に、河口の低湿地であったため、絶えず湧き出る水に悩まされたという。この難工事を象徴するのが、孝行娘「お宮」の人柱伝説である。家族の生活のために自ら人柱になったというこの悲しい物語は、普請の困難さを後世に伝えるとともに、領民の多大な犠牲の上に城が成り立ったことを示唆している。現在も天守台の西側には、お宮を祀った小さな祠がひっそりと佇んでいる 7

府内城の構造を分析すると、その設計思想に二重性があったことが浮かび上がる。一つは、海を介した広域的な兵站・経済ネットワークの拠点としての「海城」の機能である。城の立地、港の設置、海運を利用した資材調達は、この城が陸路だけでなく、より効率的な海路に強く依存し、それを活用・管理するために設計されたことを示している 5 。これは、朝鮮出兵という国家事業を背景に考えれば、極めて合理的な設計思想であった。もう一つは、中央政権の権威を地方に示すための壮麗な「見せる城」としての機能である。熊本城に次ぐとされた櫓数、壮大な四層天守、そして加藤清正という当代随一の築城家の技術導入は、単なる実用性を超え、見る者を圧倒し、豊臣から徳川へと続く中央政権の威光を示すという、強い政治的意図があったことを物語っている 1 。府内城を理解する鍵は、この「海城」としての兵站・経済機能と、「豊臣系城郭」としての政治的・示威機能を、分かちがたく結びつけて捉えることにある。

第三章:府内藩の成立と城主の変遷

関ヶ原の戦いを経て、府内城は新たな時代を迎える。豊臣政権の出先機関としての役割を終え、江戸幕府の幕藩体制下における「府内藩」の藩庁として、その歴史を歩み始める。しかし、安定した統治が確立されるまでには、なおも紆余曲折の道のりがあった。

第一節:関ヶ原の動乱と九州の勢力図

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発したとき、その影響は遠く離れた九州・豊後にも及んでいた。本戦とほぼ同時期、九州では黒田如水(官兵衛孝高)が、息子・長政が徳川家康に従って東軍主力として出陣している隙に、蓄えていた資金で浪人たちを雇い入れ、独自に九州の西軍勢力掃討作戦を開始した 40

如水はまず、西軍の総大将・毛利輝元の誘いに応じて豊後への旧領回復を目指した大友義統の軍勢と、別府の石垣原で激突した(石垣原の戦い) 40 。この戦いで大友軍を撃破した如水は、その勢いを駆って豊後国内の西軍方の城を次々と攻略していく 41 。この一連の動きの中で、府内周辺の諸将も決断を迫られた。当時、福原直高の後任として府内城主となっていた早川長敏は西軍に与したため、戦後、徳川家康によって改易された 19 。一方、豊後高田城主であった竹中重利は、如水からの説得に応じ、西軍から東軍へと寝返った 24 。この決断が、彼を新たな府内城主へと導くことになる。まさに府内城とその周辺地域は、九州における「もう一つの関ヶ原」の縮図であった。

第二節:目まぐるしい城主交代の時代(1601年~1658年)

関ヶ原の戦後処理を経て成立した府内藩は、その後約半世紀にわたり、藩主家が安定しない不安定な時期が続いた。

まず、初代藩主となったのは 竹中氏 である。竹中重利は前述の通り、府内城の大改修を行い、城と城下町を完成させた名君であった 5 。しかし、その息子の二代・重義は、長崎奉行在任中の不正行為などを咎められ、寛永11年(1634年)に幕府から切腹を命じられ、竹中家はわずか二代で改易となった 19

竹中氏に代わって府内に入封したのは、下野国壬生藩(栃木県)から移ってきた 日根野吉明 であった 30 。吉明は、藩内の水利を改善するための「初瀬井路」の開削や、商業振興のための「浜の市」の開設など、藩政に多大な功績を残したことで知られる 27 。また、寛永15年(1638年)に勃発した島原の乱には、幕府軍の一員として出陣している 43 。領民からは慕われた賢君であったが、嫡子に先立たれるという不運に見舞われ、明暦2年(1656年)に嗣子なく没した。これにより日根野家は断絶し、府内藩は再び藩主不在となった 30

第三節:大給松平家の長期統治(1658年~1871年)

日根野氏の断絶後、2年間の幕府直轄(臼杵藩主・稲葉信通が城代)を経て、万治元年(1658年)、ついに府内藩に安定の時代が訪れる。新たな藩主として入封したのは、譜代大名である 大給(おぎゅう)松平家 の松平忠昭であった 2 。大給松平家は、徳川家康の祖先である松平氏の分家の一つで、幕府からの信頼も厚い名門であった 47 。忠昭が2万2000石で入封して以降、府内藩は明治維新の廃藩置県に至るまで、10代、210年以上にわたって同家によって統治されることとなる。

しかし、藩主家が安定した一方で、藩の経営は常に多難であった。石高2万石余りという小藩であったため、財政基盤は脆弱であり、後述する度重なる天災(大火、地震、飢饉、蝗害)が藩財政を直撃した 31 。4代藩主・松平近貞の時代には、享保の大飢饉と城下の大火が重なり、幕府から5,000両を超える借金をする事態となった 50 。その後も財政再建は思うように進まず、幕末の9代藩主・松平近信の時代には、財政逼迫のあまり江戸屋敷を売り払うまでに追い込まれている 50 。大給松平家の治世は、府内藩に政治的な安定をもたらしたが、同時に恒常的な財政難との戦いの歴史でもあった。

表1:府内城 歴代主要城主一覧

氏名

在城期間

石高(約)

主要な出来事・備考

初代

福原 直高(長堯)

1597年~1599年

12万石

府内城(荷揚城)創築。石田三成の義弟。三成失脚に伴い減封。

2代

早川 長敏

1599年~1600年

2万石

関ヶ原の戦いで西軍に属し改易。

3代

竹中 重利

1601年~1615年

2万石

四層天守を含む城郭を完成。城下町を整備。

4代

竹中 重義

1615年~1634年

2万石

不正により改易、切腹。

5代

日根野 吉明

1634年~1656年

2万石

初瀬井路の開削など藩政に尽力。島原の乱に出陣。嗣子なく断絶。

6代

松平 忠昭

1658年~1676年

2万2000石

大給松平家初代。以後、幕末まで同家が10代にわたり統治。

...

(大給松平家)

...

...

度重なる天災と財政難に苦しむ。

15代

松平 近説

1868年~1871年

2万1200石

最後の藩主。廃藩置県を迎える。

この歴代城主の変遷は、府内城の性格の変化を如実に示している。築城から約60年間で5家もの城主が入れ替わるという初期の著しい不安定さは、この城が戦国末期の政争の産物であったことを物語る。それに対し、大給松平家による200年以上にわたる長期統治は、府内城が徳川の安定した幕藩体制下における一地方の藩庁へと、その役割を完全に変えたことを明確に示しているのである。

第四章:度重なる災禍と城の変容

府内城の歴史は、築城と栄華の物語であると同時に、度重なる災禍による破壊と喪失の物語でもある。特に、江戸時代から昭和にかけて発生した三つの大きな災禍――寛保の大火、安政大地震、そして大分空襲――は、城の物理的な姿を決定的に変え、その後の運命を大きく左右した。

第一節:寛保三年(1743年)の大火 ― 天守の永遠の喪失

寛保3年(1743年)4月、城下町で発生した火災は、折からの強風に煽られて瞬く間に燃え広がり、ついに城内へと延焼した。この火災は「府内城下町最大」と言われるほどの大規模なもので、その被害は壊滅的であった 51

火の勢いは凄まじく、府内城の象徴であった四層の天守閣をはじめ、城内に林立していたほとんどの櫓や門が、この大火によって灰燼に帰した 5 。築城から約140年間、豊後の中心として威容を誇ってきた壮麗な城郭は、一夜にしてその主要な建物の大半を失ったのである。

当時の藩主であった4代・松平近貞は、幕府に対して城の再建計画書を提出し、復興への意欲を示した 51 。しかし、2万石余りの小藩であった府内藩の財政では、天守のような巨大建築物を再建するための莫大な費用を捻出することは到底不可能であった 31 。結果として、天守は再建されることなく、府内城は天守台のみが残る城として幕末を迎えることとなる。この天守の喪失は、単なる建物の焼失に留まらず、府内藩が抱える恒常的な経済的限界を象徴する決定的な出来事となった。

第二節:安政元年(1854年)の大地震 ― 城郭の崩壊

天守を失ってから約110年後、幕末の府内城をさらなる悲劇が襲う。安政元年11月4日(1854年12月23日)、紀伊半島沖から四国沖を震源とする巨大地震、いわゆる安政南海地震が発生した。この地震は西日本一帯に甚大な被害をもたらし、府内藩も例外ではなかった。

府内城では、この強烈な揺れによって、大火を免れたり、その後再建されたりしていた櫓や土塀、そして城の根幹をなす石垣までもが各所で崩壊・大破するという深刻な被害を受けた 1 。藩主が居住する御殿も倒壊し、城の中枢機能は麻痺状態に陥った。さらに、地震に伴って津波が発生し、海に面した城下には海水が流れ込み、大手門の内側まで浸水したという記録が残っている 1 。この地震と津波による府内藩領内の被害は、家屋倒壊4,546軒、死者18名に及んだ 54 。この未曾有の災害は、ただでさえ逼迫していた幕末の藩財政に追い打ちをかけ、城郭の完全な修復もままならないまま、府内城は傷ついた姿で明治維新を迎えることになった。

第三節:昭和二十年(1945年)の大分空襲 ― 近世建築の焼失

江戸時代を生き延び、明治・大正期を乗り越えてきた府内城の貴重な遺構に、最後の、そして決定的な打撃を与えたのが、太平洋戦争末期の大分空襲であった。昭和20年(1945年)7月17日未明を中心とした複数回の空襲により、大分市の中心市街地は壊滅的な被害を受けた 51

この空襲の猛火は、府内城にも容赦なく襲いかかった。江戸時代から奇跡的にその姿を留めていた大手門、着到櫓、西丸西南隅櫓といった3棟の櫓を含む貴重な近世建築が、この時に焼失してしまったのである 1 。これにより、府内城は創建以来の建造物のほとんどを失うこととなった。

しかし、この業火の中で、二つの櫓だけが奇跡的に焼失を免れた。それが、現在までその姿を伝える宗門櫓と人質櫓である 1 。戦時中、これら二基の櫓には、敵機の目を欺くための迷彩塗装が施されていたという写真が残っており、空襲の激しさと、その中でかろうじて生き残ったことの偶然性を物語っている 34

府内城の歴史は、壮麗な建造物が「存在した」歴史であると同時に、災禍によってそれらが「失われた」歴史でもある。現在の城跡の姿、すなわち天守台のみが残る本丸、二つの現存櫓、そして戦後に復元された建造物群という景観は、これらの度重なる破壊と、その時々の経済力や技術力に応じた限定的な修復・再建の歴史が積み重なって形成された「歴史の地層」なのである。天守の不在は寛保の大火と藩の財政難を、現存櫓は安政大地震からの復興を、そしてコンクリート造りの復元櫓は昭和の空襲からの復興を、それぞれ物語っている。府内城址を訪れることは、単に過去の栄華を偲ぶだけでなく、火災、地震、戦争という破壊の力と、それに対する人間の営み(断念、修復、再建、復元)の痕跡を読み解く行為に他ならない。城の「不在」の部分にこそ、その歴史の多くが刻まれているのである。

第五章:近代以降の府内城 ― 史跡としての再生

明治維新を迎え、武士の時代が終わりを告げると、府内城もまた、その役割を大きく変えることを余儀なくされた。軍事・政治の拠点としての使命を終えた城は、解体と破壊の危機に瀕しながらも、やがて市民の憩いの場、そして地域の歴史を象徴する文化遺産として、新たな生命を吹き込まれていく。

第一節:明治維新と城の解体

明治4年(1871年)の廃藩置県によって府内藩は消滅し、府内城は新政府の所管となった。翌明治5年(1872年)には、城内に大分県庁が設置され、城は新たな行政の中心地として利用されることになった 30 。しかし、これは城郭の保存を意味するものではなかった。

明治6年(1873年)に発布された「廃城令」は、全国の城郭に存廃の選択を迫るものであった。府内城がこの法令で具体的にどう扱われたかの記録は明確ではないが、全国的な城郭破却の流れの中で、多くの櫓や門、土塀などが取り壊され、資材として払い下げられたと考えられる 8

そして、府内城の構造にとってさらに決定的だったのが、大正8年(1919年)に行われた県庁舎の拡張工事であった。この工事に伴い、本丸と二の丸(西丸・東丸)を隔てていた内堀が埋め立てられ、本丸の石垣の一部も無残に破壊された 1 。これにより、かつて三重の堀を誇った城郭の防御構造は大きく損なわれ、城内は広々とした一つの空間となり、往時の面影はさらに失われた。

第二節:戦後の復興と大分城址公園

大分空襲でさらなる打撃を受けた城跡であったが、戦後、日本の復興と共に文化財保護の機運が高まると、府内城にも再生の光が差し始める。昭和38年(1963年)、奇跡的に戦火を免れた宗門櫓と人質櫓、そして城の骨格をなす堀、石垣、天守台が、大分県の史跡に指定された 1 。これを機に、城跡は「大分城址公園」として整備され、かつての武家の拠点から、広く市民に開かれた憩いの場へと生まれ変わった 26

戦後復興の象徴として、失われた建物の復元も行われた。昭和40年(1965年)から41年(1966年)にかけて、空襲で焼失した大手門、着到櫓、西丸西南隅櫓などが、鉄筋コンクリート造りで外観復元された 1 。当時の技術的・経済的な制約から木造での忠実な復元は叶わなかったものの、これらの建造物は、城がかつての威容を取り戻す第一歩となり、市民に親しまれる景観を創出した。

第三節:現代における保存・活用と未来への展望

時代が平成に入ると、文化財に対する考え方もより学術的・本格的なものへと深化していく。その象徴となったのが、平成8年(1996年)に完成した廊下橋の復元事業である。この橋は、西丸と、かつて藩主が私的な時間を過ごした山里丸とを結んでいたもので、古絵図などの史料を徹底的に考証し、伝統的な工法を用いて木造で忠実に復元された 5 。これは、単なる外観の再現に留まらない、構造や素材にまでこだわった文化財復元への転換点を示す重要な事業であった。

近年、府内城の保存と活用はさらに新たな段階に入っている。平成29年(2017年)、大分市は「大分城址公園整備・活用基本計画」を策定した 59 。この計画は、府内城を単なる公園ではなく、大分市の歴史と文化を象徴する観光拠点として再定義し、その価値を最大限に高めることを目指すものである。計画に基づき、文献史料の再調査や発掘調査による基礎的研究が進められているほか 62 、長年の課題であった堀の水質を改善する事業なども実施されている 63

こうした行政の動きと並行して、市民の間からも城の価値を見直す動きが活発化している。「府内城を復元する会」などの市民団体は、かつて城の象徴であった天守閣の復元を目標に掲げ、長年にわたり調査研究や機運醸成のための活動を続けている 64 。その一環として、金属パイプと約7万球のLED照明を用いて、夜空に天守の姿を光で描き出す「仮想天守イルミネーション」といったユニークなイベントも開催され、多くの市民や観光客の関心を集めている 7 。天守の具体的な復元については、今後の学術的な調査研究の成果に基づいて慎重に判断されることになっているが 62 、府内城が未来に向けて新たな歴史を刻み始めようとしていることは間違いない。

終章:府内城の歴史的価値と現代的意義

府内城の歴史を紐解くことは、一つの城郭の盛衰を追うことに留まらない。それは、日本の歴史が最も激しく動いた時代の力学と、その後の近世社会の安定と苦悩、そして近代化の波と戦災からの復興という、日本の歩みそのものを映し出す鏡を覗き込む行為である。

府内城の第一の価値は、 時代の交差点に立つ城郭 であるという点にある。戦国時代の終焉と近世の幕開けという、日本の歴史上最もダイナミックな転換期に、この城は誕生した。その創築には豊臣政権、特に石田三成派の政治的意図が色濃く反映され、その完成には徳川幕府の新たな秩序形成の意志が刻印されている。創築者と完成者が対立する政治陣営に属し、築城の過程で敵対者であった加藤清正の技術が導入されるなど、城そのものが時代の移行を物語る、他に類を見ない貴重な歴史遺産である。

第二に、 海城としての先進性 が挙げられる。北は海、東西を川に囲まれた立地を最大限に活用し、三重の堀と港を組み合わせた設計は、防御機能と兵站・経済機能を高度に融合させたものであった。これは、文禄・慶長の役という国家的な対外事業を背景に生まれた、当時の城郭建築の中でも極めて先進的な思想であり、日本の海城史において重要な位置を占める。

第三に、府内城は 災禍を乗り越えた歴史の証人 としての価値を持つ。寛保の大火による天守の焼失、安政大地震による城郭の崩壊、そして大分空襲による近世遺構の焼失。これらの度重なる破壊の歴史は、この城が単なる過去の静的な遺物ではなく、幾多の困難に直面し、その度に形を変えながらも存続してきた、地域社会の歴史そのものであることを示している。現存する二基の櫓と石垣、そして失われた建造物の痕跡である天守台や埋められた堀は、未来へと継承すべき記憶の宝庫である。

現代において、府内城は、大分市の歴史的シンボルとして、また、日本の近世初期の歴史を学ぶための生きた教材として、計り知れない価値を持つ。城址公園として市民に親しまれる一方で、その歴史的価値を深く掘り下げる学術的調査が続けられている。今後の調査の進展と、史実に基づいた適切な保存・活用、そして天守復元をめぐる議論は、私たちが過去とどのように向き合い、未来へ何を継承していくのかを問う、現代的な課題でもある。府内城は、これからも大分の中心で、静かに、しかし雄弁に、時代の物語を語り続けていくだろう。

引用文献

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