最終更新日 2025-08-21

曳馬城

遠江の要衝・曳馬城 ― 浜松城の礎となった古城の興亡史

序論:浜松城の原点、曳馬城の歴史的意義

徳川家康の天下取りの足がかりとなり、後世「出世城」の異名をとる浜松城 1 。その輝かしい歴史の礎には、本報告書の主題である「曳馬城(引間城、引馬城とも表記)」という名の古城が存在した 1 。曳馬城の歴史は、単に浜松城の「前史」として語られるにとどまらない。それは、戦国時代の遠江国を舞台に繰り広げられた、駿河の今川氏による支配、その体制の動揺、そして三河から台頭する徳川氏の伸長という、東海地方の勢力図の劇的な変転を凝縮した物語そのものである。

この城の歴史は、築城の謎に始まり、城主・飯尾氏の悲劇、そして「椿姫」として語り継がれる女城主の壮絶な伝説へと続く。最終的には、徳川家康がこの地を新たな拠点と定め、天下への飛躍を遂げる戦略的転換の舞台となった。このように、曳馬城という一つの場所には、滅びゆく者たちの物語と、新たな時代を切り拓く者の物語が重層的に刻み込まれている。

本報告書は、築城を巡る諸説の検討から、飯尾氏の栄枯盛衰、お田鶴の方の悲劇、そして徳川家康による戦略的拠点化に至るまで、曳馬城が辿った多層的な歴史を、最新の考古学的知見も交えながら詳細に解き明かすことを目的とする。この城の興亡史を追うことは、戦国という時代のダイナミズムと、一つの「場所」が持つ記憶の変遷を理解する上で、極めて重要な意味を持つであろう。

【表1:曳馬城関連年表】

年代(西暦)

元号

主な出来事

15世紀前半

-

築城説の一つ(今川貞相による築城) 5

1512年

永正9年

大河内貞綱が曳馬城を占拠し、今川氏親と攻防を繰り広げる 5

1514年

永正11年

飯尾賢連が今川氏から城を与えられ、飯尾氏による統治が始まる 2

1560年

永禄3年

桶狭間の戦い。今川義元が戦死。城主・飯尾乗連も討死したとされる 3

1563-1565年

永禄6-8年

「遠州忩劇」。飯尾連龍が今川氏に反旗を翻し、後に駿府で謀殺される 3

1568年

永禄11年

徳川家康が遠江に侵攻し、曳馬城を攻略。城主代行のお田鶴の方が奮戦の末、討死したと伝わる 2

1570年

元亀元年

家康、岡崎城から本拠を移転。曳馬城を拡張し、「浜松城」と改称する 3

1572年

元亀3年

三方ヶ原の戦い。武田信玄に大敗した家康が、浜松城の「玄黙口」へ敗走する 2

1586年

天正14年

家康、本拠を駿府城へ移す。17年間の浜松在城を終える 3

第一章:曳馬城の黎明期 ― 築城と遠江の覇権争い

1-1. 築城の謎:誰が、いつ築いたのか

曳馬城の起源は、明確な定説がなく、複数の説が乱立する謎に包まれている 7 。この事実は、単なる記録の欠如という問題以上に、この地域が特定の単一権力によって安定的に支配されていなかった「係争地」であったことの歴史的証左と解釈することができる。もし強大な大名が一から計画的に築城したのであれば、その記録は比較的明確に残る傾向があるが、曳馬城の場合は、異なる勢力に属する複数の人物が築城者として伝わっている。これは、城、あるいはその前身となる砦が、各勢力によって奪われ、改修されるという流動的な過程を繰り返した可能性を示唆している。

【表2:曳馬城の築城に関する諸説の比較】

説(提唱される築城者)

推定年代

関連勢力

根拠・伝承

今川貞相 説

15世紀前半

今川氏(遠江今川氏)

今川了俊の孫である貞相が、遠江支配の過程で築いたとする説 5

大河内貞綱 説

永正年間(1512年頃)

斯波氏

遠江守護・斯波義達の被官である貞綱が、今川氏に対抗するために築城または占拠したとする記録に基づく説 5

飯尾賢連 説

永正11年(1514年)

今川氏

今川氏から浜松荘を与えられた飯尾賢連が、拠点として築いたとする説 2

巨海新左衛門尉 説

戦国時代

不明

築城者の一人として名前が挙げられている説 21

これらの説は相互に排他的なものではなく、時代と共に城の主が変遷する中で、それぞれが城の歴史の一断面を捉えている可能性がある。「誰が最初に築いたか」という単一の答えを求めるよりも、この城が覇権争いの中で動的に形成されていった存在であったと理解することが、その本質を捉える上で重要である。

1-2. 遠江の地政学:今川氏と斯波氏の角逐

曳馬城が位置する遠江国西部は、天竜川を挟んで東西の文化や勢力が衝突する地政学的な要衝であった。戦国時代初期、この地は駿河国を本拠として勢力を拡大する今川氏と、尾張国に加え遠江守護の職も持っていた斯波氏の勢力が激しく衝突する最前線となっていた 7

その象徴的な出来事が、永正9年(1512年)から始まる大河内貞綱を巡る攻防である。斯波義達の被官であった貞綱は、一時曳馬城を占拠し、今川氏に対抗する拠点とした 7 。永正13年(1516年)には、主君である斯波義達を城に招き入れて籠城し、反今川勢力の結集を図った 5 。これに対し、今川氏当主の氏親は自ら大軍を率いて曳馬城を包囲。この戦いにおいて、今川氏は特異な戦術を用いたと記録されている。それは、安倍金山の金掘り衆を動員し、坑道を掘って城の井戸の水源を断つという、当時としては高度な工兵的攻城術であった 5 。水の手を絶たれた城兵の士気は低下し、ついに開城。貞綱は自害し、斯波義達も捕らえられ、遠江守護としての力を失った。この一連の戦いを通じて、今川氏は遠江西部における支配権を確固たるものとし、曳馬城はその支配体制を支える重要な拠点として位置づけられることになったのである。

第二章:今川家臣・飯尾氏の時代 ― 栄華と動揺

2-1. 今川体制下の城主・飯尾氏

今川氏による遠江支配が確立すると、曳馬城は譜代の家臣である飯尾氏に与えられた。飯尾氏は、元をたどれば三河の有力氏族である吉良氏の家臣であったが、今川氏の遠江侵攻を支援した功績により、その家臣団に組み込まれていったとされる 8 。永正11年(1514年)、飯尾賢連が今川氏親から正式に曳馬城主に任じられ、以降、乗連、連龍へと三代にわたってこの地を治めた 1 。飯尾氏の統治下で、曳馬城は今川領国の西端を守る拠点として、また東海道の要衝を抑える戦略上の重要拠点として機能し、安定した時代を享受した 10

二代目の城主・飯尾乗連は、今川義元に仕え、桶狭間の戦いにも参陣した 3 。しかし、永禄3年(1560年)のこの戦いで主君・義元が織田信長に討たれるという衝撃的な事件が起こる。このとき、乗連もまた織田軍の猛攻を受け、主君と運命を共にした、あるいは落ち延びたもののその後の消息は不明とされている 8 。いずれにせよ、今川家の屋台骨を揺るがすこの敗戦は、曳馬城と飯尾氏の運命をも大きく変える転換点となった。

2-2. 桶狭間の衝撃と「遠州忩劇」

桶狭間における義元の死は、今川氏の権威を根底から揺るがし、その支配下にあった遠江の国人衆に深刻な動揺をもたらした 3 。父・乗連の跡を継いで曳馬城主となった飯尾連龍もまた、この巨大な権力の空白に直面することになる。義元の後継者である今川氏真には、父ほどの統率力はなく、領国内の動揺を抑えることはできなかった。

このような状況下で、連龍は自家の存続を賭け、新たな道を模索し始める。その視線の先にいたのが、今川氏から独立し、三河国を平定して勢力を拡大しつつあった徳川家康であった 19 。連龍は今川氏への従属を続けつつも、裏では家康と内通し、離反の機会を窺っていたとされる 10 。彼の行動は、単なる「裏切り」と断じることはできない。それは、主家の急激な衰退という状況下で、多くの国人領主が直面した厳しい選択であり、自家の存続を図るための典型的なサバイバル戦略であった。この時期、遠江の各地で国人衆の離反が相次ぎ、この一連の混乱は「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれている 9 。飯尾連龍の反乱もまた、この大きな歴史のうねりの中に位置づけられるのである。

2-3. 連龍の誅殺と飯尾氏の終焉

飯尾連龍の離反の動きを察知した今川氏真は、討伐軍を曳馬城に派遣した。しかし、連龍はこれを巧みに撃退し、今川方の将・新野親矩らを討ち取るなど、頑強な抵抗を見せた 5 。攻めあぐねた今川方は、一旦は連龍と和議を結ぶ。

しかし、この和議は氏真の謀略であった。永禄8年(1565年)12月、氏真は連龍に駿府への出仕を命じる。連龍は赦免されたものと信じ、これに応じたが、駿府に到着したところを今川勢に屋敷を囲まれ、謀殺されてしまった 3 。今川と徳川の間で揺れ動いた彼の選択は、最終的に最も悲劇的な結末を迎えた。この事件は、旧来の名目的な主従関係ではもはや身を守れず、より確実な実力者へといち早く与しなければ生き残れないという、戦国後期の厳しい現実を浮き彫りにしている。

城主を失った曳馬城内は、徳川に味方すべきか、あるいは武田に助けを求めるべきかで家臣団が分裂し、深刻な内紛状態に陥ったとされる 3 。飯尾氏の栄華はここに終わりを告げ、城は新たな動乱の渦中へと投げ込まれることになった。

第三章:女城主・お田鶴の方 ― 悲劇の椿姫伝説と史実

3-1. 伝説の女城主、お田鶴の方

夫・飯尾連龍の非業の死の後、曳馬城の歴史は、一人の女性を巡る悲劇的で heroic な物語へと移行する。それが、連龍の妻・お田鶴の方(おたづのかた)である 2 。後世の編纂物によれば、彼女は夫亡き後の混乱する城内をまとめ上げ、事実上の城主として采配を振るったとされている 20 。お田鶴の方は、今川義元の姪にあたる高貴な血筋の女性であり 12 、その出自もあって家臣団を掌握することができたのかもしれない。また、徳川家康の正室・築山殿とも縁戚関係にあったとされ、その関係性が物語に一層の深みを与えている 22

永禄11年(1568年)、武田信玄と呼応して駿河・遠江への侵攻を開始した徳川家康は、曳馬城にも開城を迫った。家康は使者を送り、城を明け渡せば妻子共々その後の面倒は見ようと、降伏を勧告したとされる 3 。しかし、お田鶴の方はこの申し出を、「婦女子といえども武家の家に生まれた者。おめおめと城を開いて降参するのは、我が志ではない」と、断固として拒絶したと伝わる 27 。夫を謀殺した今川氏真にも、そして兄である鵜殿長照を攻め滅ぼした家康にも 20 、彼女は与しなかった。孤立無援の中、城と共に運命を共にする道を選んだのである。

3-2. 曳馬城の攻防と壮絶な最期

降伏勧告を拒絶された家康は、曳馬城への総攻撃を開始した。お田鶴の方は、緋縅(ひおどし)の鎧を身にまとい、白柄の薙刀を自ら振るって城兵の先頭に立ち、徳川軍を相手に奮戦したという 12 。その姿は、『武徳編年集成』などの軍記物に「無双の強力」と記されるほど、勇猛果敢なものであった 20

しかし、家康が率いる大軍の前に、城兵は次々と討ち死にし、城の防備は破られていった。この戦いで、徳川方も300人、城方も200人余りの死者を出す激戦となった 22 。落城が目前に迫ったその時、お田鶴の方は18人の侍女たちと共に城門から討って出て、最後の抵抗を試みた 12 。そして、徳川軍の猛攻の中、主従共々その場で壮絶な最期を遂げたと伝えられている 27

3-3. 「椿姫」伝説の形成と後世への影響

お田鶴の方の物語は、その死をもって終わりではない。むしろ、その死後にこそ、彼女を象徴する「椿姫」の伝説が生まれることになる。敵将でありながら、お田鶴の方の最後まで武家の誇りを貫いた生き様を称賛した家康は、彼女と侍女たちの遺骸を手厚く葬り、塚を築いて弔ったとされる 2

この物語には、家康の正室・築山殿も登場する。縁者であったお田鶴の方の死を深く悼んだ築山殿は、その塚の周りに百株余りの椿の木を植えて供養したという 22 。やがて、毎年美しい花を咲かせるこの塚は、人々から「椿姫塚」と呼ばれるようになり、お田鶴の方自身も「椿姫」という名で語り継がれるようになった 2 。現在も、その跡地とされる場所には「椿姫観音堂」が建てられ、地元の人々によって篤く祀られている 12

この一連の物語は、歴史的事実の核に、地域の記憶、徳川家康の仁徳を顕彰する意図、そして戦国を生きる女性への理想像が幾重にも織り込まれて形成された「歴史文学」としての側面が強い。史料的な裏付けが乏しい部分も指摘されてはいるものの 5 、なぜこのような物語が生まれ、浜松の地で「女城主といえば直虎ではなく椿姫」 2 と言われるほどに愛され、語り継がれてきたのかを問うこと自体が、地域の歴史文化を理解する上で極めて重要である。それは、史実を超えた文化的アイコンとしての「椿姫」の存在を物語っている。

第四章:徳川家康の入城と浜松城への飛躍

4-1. 本拠地移転の決断

お田鶴の方の悲劇から2年後の元亀元年(1570年)、徳川家康は29歳にして、生涯における極めて重要な戦略的決断を下す。それは、松平氏代々の本拠地である三河・岡崎城を嫡男の信康に譲り、自らは遠江の曳馬城へと拠点を移すというものであった 3 。この本拠地移転は、単なる軍事拠点の移動ではない。それは、家康が一個の独立した戦国大名として、領国経営と天下への展望を本格的に開始した「創業」の宣言であった。

この決断の背景には、大きく二つの戦略的意図があった。一つは、西の同盟者である織田信長との連携を強化しつつ、東から南下政策を推し進める甲斐の武田信玄の脅威に直接対峙するという軍事的な理由である 32 。遠江は、徳川と武田の勢力が直接衝突する最前線であり、その中心に自ら身を置くことで、領国全体の防衛体制を強化しようとしたのである。一説には、当初家康が天竜川東岸の見付(現在の磐田市)を拠点にしようとしたところ、信長から「信玄と敵対した場合、天竜川が障害となって救援に向かえない」として、浜松を勧められたとも伝わっている 33

4-2. 「曳馬」から「浜松」へ:改称に込められた意志

曳馬城に入った家康は、城とこの地の名を「浜松」へと改めた。この改称の理由として最も広く知られているのが、「曳馬(引馬)」という名が、「馬を引く」、すなわち敗走を連想させ、縁起が悪いとされたため、というものである 2

これは単なる迷信や語呂合わせの問題と片付けるべきではない。この改称には、過去の歴史を断ち切り、自らの手で新たな時代を築くという家康の強い意志が込められていた。曳馬城は、今川氏の支配と、飯尾氏の悲劇という記憶をまとった城であった。その名を、この地にあった荘園の名である「浜松荘」に由来する新たな名に変えることで、家康は土地の記憶をリセットし、ここが徳川の拠点であることを内外に宣言したのである。岡崎城という過去の象徴を息子に譲り、新たな地で新たな名を掲げる。この一連の行為は、家康が三河の地方領主から、天下を視野に入れる戦国大名へと脱皮する上での、象徴的な儀式であったと言える。

4-3. 大規模拡張と城下町の形成

家康にとって、元の曳馬城は手狭であった。そこで彼は、曳馬城を東側の防御拠点として取り込む形で、その西側に広がる丘陵地帯へと城域を大規模に拡張し、全く新しい「浜松城」の築城に着手した 3 。この拡張工事により、かつての曳馬城は「古城」と呼ばれ、新たな浜松城の広大な郭内の一角を占める存在となった 2 。江戸時代には、この「古城」の区画には米蔵などが置かれていたと記録されている 3

家康の浜松在城は、29歳から45歳に至るまでの17年間に及んだ 3 。この期間は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、彼の生涯における最も過酷な戦いが繰り広げられた時期と重なる。家康は、この浜松の地で数多の死線を乗り越え、大名としての器量を大きく成長させた。同時に、城郭の整備と並行して、東海道の宿場町としての機能を持つ城下町の形成も進められ、現在の浜松市の都市構造の基礎が築かれた 32 。浜松城の築城は、軍事拠点としての機能だけでなく、陸路と水運の結節点という地の利を活かした経済・物流の拠点作りでもあり、家康の領国経営者としての優れた手腕を示すものであった。

第五章:城郭構造と発掘調査から見る曳馬城の実像

5-1. 絵図に残る「古城」の縄張り

徳川家康による浜松城の拡張後も、曳馬城は「古城」としてその姿を留め、江戸時代に描かれた浜松城の絵図にもその区画が明確に記されている 3 。これらの絵図から、曳馬城の基本的な縄張り(城の設計)を読み取ることができる。

それによると、曳馬城は堀によって四つの主要な曲輪(区画)に分けられた、いわゆる「田の字」型の構造をしていたと分析されている 5 。これは、戦国時代中期の平城や方形館に見られる典型的な構造の一つであり、防御と居住の機能を兼ね備えた在地領主の拠点として、合理的な設計であったと考えられる。現在の浜松市元城町の街区には、この「田の字」を区切っていた堀の跡が道路として残り、往時の城の輪郭を今なお体感することができる 2 。この事実は、家康が既存の城郭を完全に破壊して新しい城を築いたのではなく、その構造を巧みに利用しながら段階的に発展させていったことを物語っている。

5-2. 発掘調査が明かした歴史の証拠

近年、浜松市によって曳馬城跡(現在の元城町東照宮境内)で初めての学術的な発掘調査が実施され、文献史料や絵図だけでは知り得なかった貴重な情報がもたらされた 39 。この調査は、徳川家康没後400年を記念する事業の一環として行われ、曳馬城の歴史を物理的な証拠から解明することを目的としていた。

調査の結果、まず城の防御施設である土塁が、地中に良好な状態で残存していることが確認された 39 。さらに、土塁に囲まれた城内からは、約400年から450年前、すなわち戦国時代から安土桃山時代に使用された土器(かわらけなど)が多数出土した 39 。これらの考古学的発見は、絵図に「古城」と記された場所が、実際に戦国期に城郭として機能していたことを物理的に裏付ける、極めて重要な成果であった 39 。文献と遺構、遺物が一致したことで、曳馬城の実像はより確かなものとなったのである。

5-3. 三方ヶ原の戦いと「玄黙口」

曳馬城が浜松城の一部として取り込まれた後も、その防御機能が重要な役割を果たし続けたことを示す象徴的な事例が、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いである。この戦いで武田信玄の巧みな戦術の前に生涯唯一の大敗を喫した家康は、わずかな供回りと共に命からがら浜松城へと逃げ帰った。その際、彼が城内に駆け込んだ入口が、旧曳馬城の北口にあたる「玄黙口(げんもくぐち)」であったとされている 2

この事実は、拡張された浜松城において、旧曳馬城の区画が東側の防御を担う出丸として、また非常時の退路や味方を収容する拠点として、戦略的に活用されていたことを示している 2 。家康自身も、家臣の夏目吉信が身代わりとなって討死する間に、辛うじてこの玄黙口から城内に入ることができたと伝わる 15 。曳馬城の構造は、新たな浜松城の有機的な一部として生き続け、主君の最大の危機を救ったのである。現在、その場所には「玄黙口跡」の石碑が建てられ、歴史の転換点となったその瞬間を今に伝えている 2

結論:歴史の礎としての曳馬城

曳馬城の歴史は、戦国時代の遠江国が経験した激動の縮図である。それは、遠江の覇権を巡る今川氏と斯波氏の争いの舞台として生まれ、今川家臣・飯尾氏の統治下で一時の安定を得た後、主家の衰退と共に混乱の渦に巻き込まれた。城主・飯尾連龍の謀殺とお田鶴の方の悲劇は、戦国の世の非情さと、時代の波に抗いながらも滅びゆく者の美学を象徴する物語として、今なお人々の記憶に深く刻まれている。

一方で、その悲劇の舞台を受け継いだ徳川家康は、この地を「浜松」と改め、天下取りへの飛躍の原点とした。飯尾氏の終焉と徳川氏の勃興という、対照的な二つの物語が、曳馬城という一つの場所で交錯している点に、この城の歴史的意義の深さがある。

物理的には浜松城の広大な郭内の一部に吸収され、「古城」としてその主たる役割を終えた曳馬城であるが、その歴史と記憶は消え去ったわけではない。城跡に建立された元城町東照宮は家康と、若き日の秀吉との縁をも伝え 34 、また、椿姫観音堂はお田鶴の方の悲劇を語り継いでいる 12 。このように、曳馬城の記憶は、後の時代の新たな物語と重なり合いながら、重層的に現代へと継承されている。

最終的に、曳馬城は単なる「浜松城の前身」という一言で片付けられる存在ではない。それ自体が、戦国時代のダイナミズムを体現した独立した歴史の主体であり、その土台の上に浜松城の栄光、そして後の天下泰平の時代が築かれたのである。曳馬城の興亡史を理解することなくして、若き日の徳川家康と、彼が築いた時代の本質を真に理解することはできないであろう。

引用文献

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  34. 曳馬城から浜松城へ(1)曳馬城跡に建つ元城東照宮 - 大河ドラマに恋して http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-2210.html
  35. 飯尾連龍とその妻・お田鶴が辿った生涯|今川氏真と徳川家康に翻弄された夫婦の悲劇【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1116233/2
  36. 現代まで続く、徳川家康が築いた浜松の礎を紐解く/浜松市役所 文化財課(静岡県) https://itot.jp/interview/17686
  37. 【遠州浜松城絵図】(目録) - ADEAC https://adeac.jp/hamamatsu-city/catalog/mp000180-200010
  38. 【家康の散歩道】元城町東照宮(引間城跡)解説 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=WbAAPd5ao74
  39. 引馬城跡の発掘調査を行いました | 浜松市 https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/33934/bunkazaijyouho80.pdf
  40. 浜松城跡の発掘調査|高札場 特集記事 https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/column/column2/
  41. 家康が敗走した浜松城の玄黙口 | 大河ドラマに恋して - FC2 http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-2111.html
  42. 玄黙口跡 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/genmokukuchi-ato.htm
  43. 元城町東照宮~今川氏の曳馬城跡(引間城跡):浜松市~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/totoumi/toshogu-hamamatu.html